2013年2月15日金曜日

心象楽園/School Lore プロットストーリー1

 




 ……。
 彼女にとってそこは楽園であったのだろうか。
 ここは何者にも侵されない聖域であり、想い出を育み続ける為の箱庭だ。
 真っ白な世界には四季折々の華が咲き誇り、絶え間なく流れる水音が響く。
 日当たりは良く、春の日和が如く常に温かい。四方には白いアーチ、そこには茨が茂る。
 潜り抜けた先では噴き出る水が四方へと伸び、新緑を潤している。中央の噴水広場は瑞々しい芝生が綺麗に刈り揃えられており、寝転がればいつでも怠惰に浸れるだろう。
 ここの主である少女は、奥に据えられたガゼボで、椅子に腰かけて本を読みふけっている。
 切りそろえられた長い黒髪が、そよ風になびき煌めく。
 誰もがうらやむような長いまつ毛に、冷静さと情熱を秘めた仄黒い瞳。
 整いすぎた顔立ちに色素が薄い肌は、もはや人形だ。
 そんな、出来すぎた彼女、七星市子が、庭園に訪れた欅澤杜花に問いかける。
「杜花」
「はい。市子御姉様」
 招かれ、その白い手を取る。市子は柔和に微笑んだ。
「ここは全部嘘、全部偽り。何もかもは虚像なの。でも、これは貴女が見知る光景。これは貴女の記憶にある何か。そして私は、それを引き出しているだけにすぎないの」
「御姉様は、言葉が難しいです」
「うん。ごめんね。私は、そんな子供だから。嫌いにならないでくれる?」
「嫌いになったりなんかしません。とっても素敵です、ここ」
 芝生の上に二人で横たわり、有る筈の無い日差しを受けて、笑いあう。
 こんなに自分は満たされている。
 こんなに自分は幸せでいられる。
 これからもずっと、市子と歩んでいくであろう未来に希望を見出す。
 何十年経っても、隣には市子がいるのだと、信じて疑わなかった。
 世界は幸福に満ちている。
 夢も希望も叶ってゆく。
 嫌に現実的な子供だと冷たい目を向けられる杜花ですら、それを疑わない程のものが、二人にはあった。
「ずっと一緒です。御姉様」
「うん。ずっと一緒」
 ……。

 ああそうだ、間違いは無い。





 例え死が二人を分かつとも、二人の世界は続いて行く。
 






 心象楽園/School Lore






 プロットストーリー1/欅澤杜花(けやきざわもりか)周辺



「杜花、放課後暇?」
 鞄に教材を詰めながら、声をかけられた方を向く。
 隣の席の満田早紀絵(みつた さきえ)だ。
 幸い放課後の予定は無い。いや、今まさしく予定を持って同級生が現れそうだった所、早紀絵が素早く介入したお陰で無くなった、と言えるだろう。
 杜花に近づいてきて、何かを知らせようとしていたクラスメイトに、小さく手を合わせて断る。杜花と早紀絵の関係性は周知である事から、皆も大人しく下がった。早紀絵も『悪い悪い』と会釈する。
「何かありましたか」
「うん。ちょっと付きあって貰いたいんだけれど」
 いちいち内容を聞かなければ付き合えない、などという仲でもない為、杜花は素直に頷く。
 早速行くらしいので、上着を羽織って教室の外へと出た。早紀絵の足は一階に向いている。
「サキ、なんだか緊張してませんか」
「い、いや? そんなことないけど」
「変なサキ」
 階段を下りて、一階の廊下を進む。先にあるのは高等部図書室だ。
 三教室の壁を抜いて作られており、そこそこの蔵書が売りである。
 データか電子ペーパーが主流の現代で、コストのかかる専門書すら紙で置いてあるのだ。日本国内広しといえど、コミックや絵本以外で紙の本がずらりと並べられている学校図書館もなかなか無い。
「図書館って、あまり利用しないんですよね」
「静かで丁度いいよ」
「それにしても、急にどうしたんですか」
「いえね、取材で調べるものがあって」
 図書室に入り、受付に会釈する。眼鏡をかけた図書委員は此方の顔を知っているのか、少しだけ頬を赤らめて返した。最近はこのような事が多い。多すぎるので、欅澤杜花はあまり気にしないように心がけている。
 杜花をここに連れて来た早紀絵は、メモを確認してから足早に目的の棚の奥へと消えて行く。
 目的が近いと周囲が見えなくなるのはいつもの事なので、杜花はさして気にも留めず、適当な本を見繕い、窓から外が望める席に陣取った。
 郷土の地理と歴史の本を広げて、早紀絵が調べ物を終えるのを待つ。
 杜花はこの土地の出身ではあるが、休み以外は殆ど学院の外に出る事がない為、地元民かと言われると多少違和感がある。
(……うちの神社の事も書いてある)
 観神山市、人口四万。
 主要産業は農業。
 特殊な事情を抱えた駅周辺の二つの町以外は一切栄えておらず、街を出た瞬間どこを見渡しても、山岳に沿うようにして並ぶ田畑ばかりだ。
 市の財源らしい財源は殆どなく、普通の市ならば破たんも考えられる状況の中、この市は体裁を保つどころか、同県に属する他の市に比べてもだいぶ潤っている。
 というのも、それら不可思議な金銭の流れは、この学院に付随するものである。
 市の象徴である観神山の麓に建つ学院は、世俗とかけ離れた位置にある。
 無理矢理一番近い商店を目指そうとした場合、屈強な警察警備隊と国防軍特定地域防衛派遣隊二個小隊と最新警備システムを掻い潜り、五キロほど農作業機行きかう県道を突っ切らなければならない。そもそも外に無理矢理出るメリットが無いので、非常に非現実的だ。
 そんな常時厳戒態勢の警備に囲われている理由といえば、この学院の生徒が、少し冗談にならない程国に影響を与えかねない人物たちの息女である事があげられるだろう。
「これ、俯瞰図ですね」
「お。何?」
 別に開いたのは創立五十周年記念に作られた記念誌だ。
 見繕い終わって戻った早紀絵に対して、俯瞰で取られた写真を見せる。
「ああ。ウチのね。改めて見るとホントでっかいね」
 見渡す限りの森林の中に、広大な敷地を持つ施設が鎮座しているのが良く分かる。
 私立観神山女学院。
 生徒数七百名。
 無宗教の小中高一貫教育であり、卒業するまで外界との接触は殆どと言って良いほどない、現代の異界である。
 森は完全に結界の役割を果たし、正門は固く閉ざされている。
 一昔前までは、時代遅れ甚だしい学院の一つと数えられていた。
 杜花は手を伸ばし、創立十周年記念誌も開いて並べる。解りやすいほどの差が見て取れる。
「小さいですね」
「うん。でっかくなったのはここ最近だからね」
 名門ではあるのだが、二十年前までこの学院は同県に属する私立と比べれば小さいものであった。
 それこそ五分もあれば学院の全体像を見渡せるものだったのだが、今は三十分あっても一周出来るか怪しい規模にまで増改築されている。
 当然増改築の理由として挙げられるものは生徒の増加だが、今は大した数ではない。今後を見込んでのものだと、杜花は聞いた事がある。
 校庭、プール、部活棟、寄宿舎、そして校舎も、四倍以上に膨れ上がっていた。
「パパ達、だいぶお金出してるらしいし」
「実業家ですものね。うちはその、小さい神社ですから」
「杜花はいいんだよ。家柄が普通でも可愛いから。この前の文化祭で、巫女装束が人気だったじゃない。貴女体つきも良いし、背は高いし、優しいから下級生にも人気でしょう」
「それとこれとは話が違うと思いますけれど、どうしました?」
「いやその、アハハ」
 早紀絵がその平坦な胸をなでおろしてため息を吐く。
 父と祖父以外の男性と接触も交流もない杜花にとって、まず披露する場など無いが、気にしてしまう人もいるのだろうと、一応納得する。
 ともかく、外界から遮断されたこの女学院には、約七百名の生徒と数十人の女教師が集団生活をしている。表向き清貧で慎ましやかな世界であり、そして今では流行りの教育機関だ。
「今度個人的に巫女杜花見てみたい。写真とか撮る」
「まあ、そのうち。御正月ですかね」
「やった」
 欅澤杜花は周囲の家柄に比べるとその財産こそ劣るが、長い間この土地の氏神として祭られてきた神社の跡取りであり、面倒見の良い性格から、周囲からも一目置かれていた。
 友人である満田早紀絵は小等部五年の頃に此方へとやってきた転入生で、当初はワガママのきつい問題児として有名であった。
 二人の馴れ初めは早紀絵編入数か月後にまで遡る。
 周囲の認識で言えば、いつの間にか杜花と仲良くなっており、二度と偉そうにワガママを通す事がなくなったというものだ。
 きっかけは当然あったが、仲良くなった杜花自身も、何故好かれたのかは明確には解らない。
「それで、お目当てのものは見つかりましたか」
「うん。今は無きオカ研の発行していた部誌。バックナンバーもバッチリ……と言いたいところだけど、少し足りなかったね。でも十分」
 早紀絵の腕に抱えられているのは、手作り感溢れる紐閉じのコピー誌だ。古いものは手書きで清書されている。薄くはあるが、数十冊近いバックナンバーが揃っていたらしい。
「今度はどんな噂がぶり返したんですか」
「小等部のトイレの噂はまあ、毎年あるから良いとして、気になるのは高等部の美術室と……あいや、そんなもんかな」
 多感な年頃の子ども達が暮らす場である学校というのは、甚だその手の噂が絶えない。
 目に見えない恐怖におびえて面白がっている間は良いが、それが何かしらのきっかけで虐めにまで発展する例もある。
 こと、この学院も例外に漏れず、小等部、中等部、高等部と、全てに分けて怪談は存在する。
 ましてこの閉鎖空間であると、いつか忘れられた噂が突如ぶり返したり、いつの間にか語り継がれている事になっていたりするなど、学院内だけで怪異が輪廻転生している節があった。
 そんな事ばかり調べている早紀絵は楽しげに話しているが、普段、そういったものは杜花に持ちかけない。一時期は神社の娘というだけで霊が観えるのだろう、神通力があるのだろう、などと面白がられた事もあったが、まさか十七にもなってそれはあるまい。
 結局の所、何故図書館に連れてこられたのか、杜花はいまいち解らなかった。
「サキ?」
「あ、うん? 何?」
「今日は何か用事があったんですか? 私が協力する事でもありましたか。言ってくれれば良いのに」
「あいや、違うの」
 問いかけられた早紀絵が、杜花の隣に腰かける。
 様子を窺えば窺う程、何かがおかしい。
 長い間一緒に居る間柄でも、初めて見せるような『焦り』が見て取れた。
「ところでモリカ」
「はい?」
 受け答えると、机に置いた手をその上から強く握られる。
 杜花は目をパチクリと動かし、早紀絵を見つめる。早紀絵は意を決したように頷き、言葉を繋いだ。
「実は私貴女が好きなのだけれど」
「あ、あー……」
「それでこれからの事なのだけれど、私は一応卒業まで通うわ。ここ。卒業したら見聞を広める為に海外に出ようと思ってるのだけど、付いてきてくれる?」
 彼女と初めて出会った日から、満田早紀絵というワガママな娘は去り、欅澤杜花に突き従う、少しやんちゃな小娘に落ち着いた。
 杜花が少しキツめに叱りつけただけで、好意を抱かれるような事は一切していないと記憶している。
 それが良かったのか悪かったのか、以来はずっと一緒に居る仲ではあるが、まさか今になり面と向かってそのように主張されるとは思っていなかった。
「本当に、私の事をそういう風に見ていたんですね。性癖が特殊な分、私なんか眼中にないのかと思っていましたけれど」
「き、気が多いとか思われるけれど、一番真剣なのは貴女。ともかく私は貴女が好き。ちなみに男も嫌いじゃないんだよ?」
 そうだバイだった、と納得する。
「ともかく先の事は解らないので、同意出来ません」
「わあ、ドライ。やっぱあれ?」
「元から少なからずでしたが、文化祭以来、そういう子が沢山いて」
「競争率高いよね。知ってるけど。でも安心して、貴女は私が養う。神社も超デカくしましょ。出雲ぐらい」
「うん、ごめんなさいね」
「はは、すごいスルー力だ。せっかくこの誰もいない図書館に誘いこんで、普段とのギャップを演出しつつ口説き落とそうと思ったのに、相手は経験値積みまくってた感」
「私はお友達がいいなあ」
「えっへっへ、でもいいや。貴女に一番近いの、私だもの。友達ならキスぐらい良い?」
「キスは結婚してからです」
「どこの世界の住人よ」
「ここですけれど」
「あー。うん。ここの生徒になって結構経つけど、確かに、ファンタジックな場所だーね」
 早紀絵は大きな溜息を吐き、机に突っ伏す。
 飄々とした態を繕っているが、いささか涙声だ。
 小等部に入学した時点からこの世界に暮らしている杜花にとっては当然の世界であり、当然の雰囲気であるのだが、やはり外から目線を持って来た場合、かなり特殊に見えるだろう。
 正しくは異なるが、その硬質で熱意ある教育方針は教育勅語に近似する道徳観がある。勿論この現代社会においては様々な緩和が施されているが、他の私立高を探してもこのような厳格さで迫る校風はなかなか無いだろう。
「私は、好きです。この学校」
「そうだね。きついって言っても、当たり前の事してれば、間違いはないしね。貴女も可愛いし」
「うーん……」
「わ、話題を変えよう」
 あからさまな話題転換だったが、杜花は静かに頷く。
 同性に告白される事は珍しくない。
 この学院が閉鎖的で、恋人というよりも、家族などに逢えない寂しさを紛らわせる為の『姉』が欲しい、といった空気がどの子にもあったと杜花は記憶している。
 早紀絵に関しては何も言うまい。おそらく本当に好きなのだろう。
 小等部五年生の頃、早紀絵が杜花に出会った瞬間からその生活態度を改め、杜花について回っていた事実を鑑みれば、おそらく誰も疑問には思わない。
 杜花の心の内を知ってか知らずか、早紀絵は焦った様子でペラペラとメモ帳を捲っては眉をひそめている。学院内のゴシップから他愛の無い噂まで、彼女はメモを取る習慣があった。
 それが高じて学内新聞などを発行するも、諸問題が多く一日で差し止められたのだが、裏新聞という形で未だ彼女は学内のアンダーグラウンドを担っている。
「こ、これなんてどうかな」
 そういって、早紀絵が机にメモを広げ、一部を指差す。
『闇夜を這いまわる人影。自殺者の亡霊か』
「あ、ちが」
「……あ」
 メモというよりは、記事見出しだった。
 どこの学校にもあるような怪談の一つ。早紀絵があわてたようにページを捲る。
 しかしながら、この見出しを見た杜花は眉を顰め、視線を早紀絵に投げかける。
「解ってる。記事にしない。でも、こういうのもあるってこと。心霊現象なんか不謹慎だ不謹慎だと騒いだ人はいるけれど、様々な現象を目撃しているし、体験談もある。あまり大きな声で上げるべきじゃないのは解るけど、人が感じて、見て、有ったというのならば、完全に無視するのも、どうかと思うの、私は、ええと、その、だからね、何言ってんだ私……ええと……違うの……」
「自殺霊、ですか」
「み、見せるつもりはなかったのだけど……あの……私」
「いいんです、そんな、悲しそうな顔しないでください。サキ、ごめんなさいね」
「う、ううん。ちょっと、その……あ、わけわかんなくなって」
 自分の配慮の足りなさに、杜花は項垂れる。
 早紀絵は少なくとも、杜花の嫌がるような事を積極的にするような子ではない。話題の選択を焦って滑ったのも、動揺していたからだろう。
 早紀絵の気持ちは解ったが、杜花自身はまだ判断する立場にないと、自分を戒めている。
「サキが。おばあちゃんになるまで私を幸せにしてくれるって言うなら、考えなくも、ないです」
 しかし、こうして柄にもなく物事を濁すように発言してしまうのは、やはり早紀絵を大事に思っての事だ。他の子ならば、愛想笑いの一つで流すだろう。
 ほぼ否定にも近い文言だが、早紀絵には十分だったのか、突然笑顔に戻る。
「わあい。遠回しに拒否られてる。でもチャンスあるよね。ある筈。杜花キスさせて」
「調子乗りすぎる子はちょっと」
「おっと。まあ別の話題っと……」
「ううん。でも、気になりますね、それ」
 早紀絵が間違って持ち出した噂の起因は、かれこれ一年前に遡る。
 当時この学院の高等部二年生、七星市子(ななほしいちこ)の首吊り自殺だ。
 自殺というだけでも話題性があり、七星のご息女ともなると、面白がられてゴシップ誌にも取り上げられた。更にその死に様がただの首吊りとは一線を画したものであった為、かなり根深く残った噂の一つである。
 文芸部の部長で生徒会長も兼任していた七星市子は、日本最大の財閥、七星のご令嬢であり、確実に将来が約束された人物であった。
 容姿端麗、頭脳明晰、文武両道と、冗談を絵に描いたような少女である。
 交友関係も広く、学内で彼女につき従う少女達は相当数いた。
 多くは自分を『妹』と名乗っていた。自らも『姉』を名乗り、面倒見の良さは杜花など足元にも及ばないものだった。
 そもそも、杜花自身が七星市子に可愛がられる立場にあった。
 彼女の死後一年、小等部の頃から彼女に可愛がられた杜花にとって、とても忘れ得ぬ、語るに一筋縄ではいかない、そんな人物の死去である。
「市子御姉様。何故自殺したのか、未だ解っていないそうですね」
「うん。一番可愛がられてた貴女も知らないんじゃね」
 彼女が突如自殺したという話が舞い込んだ時、杜花に齎された絶望は計り知れないものであった。杜花に告白する少女達と同じくして、杜花もまた、彼女に大きく依存していたからだ。
 文芸部室で首を吊った市子は、それだけでは終わらず、吊った紐が切れたあと、這いずりまわって外にまで出ていたという。
 華よりも美しい彼女が、糞尿を垂れ流しながら地面を這って移動していたなどと、当然誰も信じたくないに決まっている。
 しかし心ない者は、その話に尾ひれ背ひれをつけ、面白おかしく噂を仕立て上げた。
 そもそも、何故死んだのか。
 自殺した後、どこに向かおうとしたのか。
 一時期は杜花も槍玉に上げられた。
 終いには『杜花が市子をフッた』とまで囁かれ、最終的に教員達が言論を封じる事で事態の収束を図ろうとした程である。
 早紀絵が持ち出した話題というのは、今まで存在した『自殺霊のうわさ』に『七星市子』が掛け合わされた、怪談のキマイラだ。
「今更隠しても仕方がないかな。実はもう一つある」
「もうひとつって?」
「数年おきに持ち上がる怪談のひとつ。彼女の死後から、その影と、そして魔女の噂があるの」
「魔女……」
 この響きに、杜花はあまり良い印象を持っていない。
 後ろ暗い歴史的背景もそうだが、学院において『魔女』とは、七星市子の蔑称でもある。
 完全完璧、隙の一つも他人に見せなかった彼女を妬んだ少女達から付けられた渾名が『魔女』だ。
「かなり昔からある怪談の一つで、その魔女が悪魔と契約して自分を美しく見せ、他人を呪うんだっていう話。たぶん、彼女の死後、彼女の悪口を批判するヒトが減ったからかな。死人に口なし……ああ、ええ。うん。ごめん」
「いいの。うん。そうですね。彼女は完璧すぎたから」
「貴女も気をつけてね」
「え?」
「こんな言い方もアレだけど。貴女は元から人気だったけれどさ、七星市子の、二代目のような扱いを受けてると思う」
「……うん。私に告白した子、何人かは元市子御姉様の『妹』でしたもん」
「妹、妹ね。モリカは知ってるでしょう」
 七星市子の『妹』を名乗る人物は十数人に及ぶ。
 杜花もまたその一人であったが、市子には、本当の妹が居た筈だ。
 腹違いの子らしく、苗字も異なるが、父は間違いなく七星家の当主である。もうだいぶ昔の話題で、今更スキャンダルにもならない話だ。
「七星市子が自殺した後、その義理の妹が養子となったって。名前は二子。養子にするのは事前から決まっていたような名前だあね。ただ、貴女、観た事ある?」
「妹がいて、とても似ているとは、市子御姉様に聞いた事があります」
「学院に編入してるらしいの。でも、観た事無いなあ」
「御姉様もそうでしたけど、例外的に外から通っているのでしょう。私たちの目に入らない場所に通学しているとか」
「保健室通学みたいな。ま、七星ならなあ」
「何せこの学校は広いし、特別な教室も沢山ある。それこそ使途不明な部屋も」
 私立観神山女学院は全寮制で、全生徒が敷地内で暮らしている。
 古い第一寄宿舎や第二寄宿舎は収容数も少ないが、第三から第五はホテルと見紛う規模である。学院に通うには入寮が条件であるが、大資産家の娘ともなると、特別待遇は存在する。
 この観神山女学院、そして市に対して多額の出資をしているのが七星だ。この学院が大きくなったのは『これ』も原因である。
 おしゃぶりから核ミサイル、果ては宇宙軍事兵器迄、あらゆる分野の最先端を担う一大財閥である七星は、その莫大な資産を上から下へ、下から上へと様々な場所の潤滑油として機能させており、間違いなくこの財閥の衰退こそが国家危機に直結する。それどころか、世界経済が大打撃を受けるだろう。
 七星は襲名性であり、十二代に及んで七星の当主は『七星一郎』だ。
 司法行政立法、高級官僚にまで七星家及び分家の人間が居る為、当主の扱いは日本国王と言っても過言ではない。
 第二の藤原家であるとまで噂され、噂通り現当主は皇族に一族を送り込もうとしている。
 杜花では想像も及ばない程の大きさであり、その現当主の長女であった市子の死という現象は、高校二年生程度が背負い込むには、あまりにも巨大すぎた。
 財閥本家の長女。
 その、もっとも愛された『妹』。
 当時は校門前にマスコミ各社が虫のように群がっていたが、学院という閉鎖空間が味方した。悲しみに明け暮れる少女にとって、それは健全であっただろう。
 葬儀に際して、杜花は七星一郎に直接対面している。
 実年齢(不明ではるが、相当の年齢の筈だ)に反して若々しく、エネルギー溢れる男性であった。
 市子お付きのメイド、兼谷(かねや)から杜花との関係を聞いていたらしい七星一郎はそれを察し、大人の社交辞令以上の待遇を約束した。
 現在、七星一郎は欅澤神社の氏子として、実家を支援しているのである。
「……」
「どったの、モリカ」
「いつでもお父さんって呼んで、ですって。不思議なお父様でした。七星一郎氏は」
「もしかしたら、貴女は一生安泰かもね。むむ、ともなると、私は七星より大きくならなきゃ、ダメ?」
「一日三食食べれるなら、私文句はいいません」
「すげえ良い子だ。絶対手放したくない」
「ふふ。頑張ってくださいましね」
 と、下級生を窘めるように早紀絵を扱う。
 彼女はキョトンとしたあと、顔を真っ赤に染めた。何か彼女のツボにはまったのだろうか。杜花もそこそこの付き合いになるが、未だこの満田早紀絵という人間が把握できていない。
「あ、あたい、じゃない。私、そろそろ、戻るから。えっと、その、モリカ? が、頑張るから!」
「うん。またね、ごきげんよう、サキ」
「うふ、うふふふ」
 怪しげな笑いを残し、早紀絵が去る。おそらく寄宿舎に戻るのだろう。
 腕時計を見れば既に十七時半を回っていた。
 外を望む。
 冬も近いこの時期、既に夜の帳が下りている。蛍光灯の光を反射した窓ガラスが鏡のようになり、杜花を映し出していた。ブレザーの裾を直して、身だしなみを整える。
「好き、かあ」
 欅澤杜花。今年で十七になる。
 自分では謙遜しているが、外に出れば間違いなく美少女と囃したてられるであろう容姿を備えていた。
 人よりも高い身長、学生不相応に大きな胸が象徴的だ。
 セミロングの髪は一年前以来である。本来は長くして後ろの根元で結っていたのだが、運動の邪魔になるのと、髪の毛の手入れにかける時間を惜しむあまりにバッサリと切ってしまった。
 タイミングが事件と被ってしまった為、何かとそれも噂となったが、時系列は前後する。
 優しいと評判だが、せっかちな面もあり、準備を怠ってたまに転ぶ事もある。
 七星市子には到底及ばないと、杜花は溜息を吐いた。
 不本意にも、今現在市子の後継と目されているのが杜花だ。
 元から市子の妹の中で最も人気があり、市子に一番近い場所に居た事もそうだが、文化祭において欅澤神社出張社務所、などというトンチキな催しでお披露目して、その姿が見目麗しいと評判になった。更には『副業』が理由で箔も付いているだろう。
 小等部から、果ては先輩まで。約十五人ほどが杜花へ『告白』を行っていた。
 閉鎖社会においては、ある意味伝統的な行事であり、娯楽の一つでもあるのだが、どこにも逃げようがなく、外部からの接触が殆どないこの学院においては、更にその比重は高い。
 欅澤杜花という存在を既に知らぬものはなく、生徒会からも当然のようにお呼びがかかっている。
 また、そのような噂がどこからどこへ広がるのか、実家には杜花への見合いの申し込みも後を絶たない様子であった。ちなみに男女関係なくである。
 とにもかくにも、欅澤杜花は一神社の跡取りという立場に収まりきらない存在へとなりつつあった。
 本人はそれを良いとも悪いとも思っていない。自分は成長の過程であり、判断はまだするべきではないとしている。杜花にとって謙遜は過小評価ではなく、判断保留である。
 自己を客観的に見つめるだけの力があり、その点は多大に評価されているが、欅澤杜花自身の答えについて求められると、回答に一苦労する。それが優柔不断と取られる事もあるだろう。
「あんなに女の子と付き合いがあるのに、私が一番、かあ」
 独りごちる。
 当然、自己承認欲求が満たされるのだから、悪い気はしない。ただ、人間関係が複雑化すれば諸問題が発生し、リスクが増える。早紀絵の告白は大きなリスクでもあった。
 押しとどめておける程の心が無かったのか。
 それとも、どうしても器を溢れんばかりに貯め込んでしまったのか。
 いつも杜花の隣にいた彼女は、親友に違いない。しかし、その一線を踏み越えた先に何が見えるだろうか。
 満田早紀絵は現実主義者であり、同時に女でスケコマシだ。理想を現実にするために戦う少女であり、現実と理想のギャップに苦悩する人間でもある。
 故に、他の少女たちの告白とは、重要度が違う問題であった。
 好きなものに囲まれていないと安心出来ない彼女には、彼女一人ではなく付属品が沢山付く。
 保留。
 いや、検討と議論が必要だ。
 此方は唯の巫女、あちらは大実業家の娘である。社会の体裁的にも、個人の思想的にも、性癖的にも、人間関係的にも……それよりもっと根深いものも、乗り越える障害が多いのだ。
(そろそろ戻らないと)
 図書委員の生徒に挨拶し、図書館を後にする。
 寄宿舎まではそう離れていない為、五分もあれば着くだろう。
 高等部第二校舎を出て、東の通路を抜けて行く。
「……」
 それにしても、と思う。
 暗闇を這いまわる影の話だ。
 耳聡い杜花の耳に、それらの噂が入っていない訳ではない。無視していた、が正しいだろう。
 怪談と噂の融合によって成るこの手合いは、感性豊かな子供たちが生み出す娯楽の一つだ。だが、実際の人物モデルがあるとすると、それはかなり悪質な話題になってしまう。
 早一年。ある意味、彼女の死に際を見なかった事は、幸せであっただろう。
 常に市子の近くに居た杜花は、彼女の死体を目撃する可能性が十分にあった。もしかすれば、意図的に避けたのかもしれない。市子の杜花への愛情は、ある種家族を超えるものがあった。早紀絵には『キスは結婚してから』などと嘯いたが、既に市子に持って行かれている。
 何においても、市子は優れていた。まるで妬みの一つも浮かばない程の完璧さだった。それはもう、しょうがない、としか言いようのないものだったと言える。
 何故、自分が市子にそこまで寵愛を受けたのか。実際のところ、杜花はその事情を一切知らなかった。
 小等部の四年の頃、杜花は初めて市子と会話を交わした。あの出会いが、今の欅澤杜花を作っている。
「市子御姉様」
 小さく、彼女の名を紡ぐ。
 勉学に、物事の分別、諸々の所作、発想法、自己の管理法。
 彼女に学んだ事は、小さく上げればキリがない。
「……――ん」
 寄宿舎への帰り道。
 街灯が連なる躑躅の道で、何かの影が動いたように見えた。一番初めに市子と会話を交わした場所だ。
 不審者の可能性は限りなく低い。
 後ろは山、周囲は特殊装甲板が埋め込まれた高い塀で囲われており、最新の警備システムが管理し、異常があれば、良家の子女を守るべく特別派遣されている国防軍の二個小隊が押し寄せるような場所に、リスクを犯して入ってくるような賊は居ない。
 一度だけ、数年前に事件があったが、門前で射殺されている。
「誰かいますか?」
 返事は無い。
 小動物ぐらいならばあり得るだろう。猫などは、精神衛生上宜しいとされて、何匹か放し飼いになっている。
 気のせい。そのように判じて、杜花は寄宿舎へと戻った。



 杜花たちが生活を営む第一寄宿舎は、東にたたずむ豪奢な高等部第二校舎の南東側にある。
 四角く縄張りされた細長い寄宿舎で、中央に中庭があり、中から一目で全室のドアがうかがえるような作りになっていた。上から見れば『ロ』型である。
 中庭南側に設置された通称『物見櫓』と呼ばれる足場に昇れば、二階建ての寄宿舎を一望できる。
 五棟存在する寄宿舎の内、第一寄宿舎は改築の手が入っておらず、昭和の昔からの古さと威厳をたたえる。
 というのも、ここは学院が出来る前から存在するサナトリウムを改築して出来たものだ。老朽化が問題視されていたが、補修を加えつつ、未だその形を保っている。
 第一寄宿舎、通称『白萩』は、主に高等部の生徒が四十人ほど暮らしている。
 自発的生活を推薦する学院の方針で、炊事洗濯掃除その他諸々の生活は一部を除いて生徒に任されており、当番制の持ち回りであった。
「ただ今戻りました」
 寄宿舎の玄関を開くと、木製の下駄箱を整理する影が一つ。
「あ、杜花。遅かったわね。おかえりなさい」
 三年の鷹無綾音(たかなしあやね)が切れ長い目を細め、笑みを向ける。
 杜花と同程度の身長に、一本に結った長いポニーテールが象徴的な少女だ。陸上部の元部長で、現在は身を引いて後輩たちの指導に回っている。大学には進学せず、卒業と同時に嫁ぐ事が決まっているらしく、暇なのだという。
「綾音さん、今日は掃除当番でしたか?」
「いえね、これも歳でガタついているでしょう。トンカチ振れるような子が居なくってねえ」
「まあ、みなさんお嬢様ですし」
 よくよく見ると、綾音の口ぶりとは逆に、下駄箱は無惨な姿をさらしている。
 蝶番を釘で止めるだけで済む筈のものが、あちこち叩き誤った部分が多く、蝶番そのものも潰れていた。綾音は実に面倒見の良い姉御肌なのだが、残念ながら性格にその器用さは伴っていない。
「杜花、その」
「はい、ちょっと貸してください」
「流石杜花お姉さまは違うなあ」
 マイナスドライバーとネイルハンマーを駆使し、なんとか下駄箱の体裁を整えて行く。神社での雑務が役立ったというより、杜花の元来からの器用さだろう。
 立派、といっては言い過ぎだが、当たり前の形にまでは戻る。
「綾音さん、そこの、スプレーを」
「あ、ああこれ? これなんだろう」
「サビもとれる油です」
「へえ! こんなのあったんだ」
 蝶番部分に注油して回り、一仕事を終える。綾音は不器用ではあるが、自然にハンカチを差しだす仕草は実に瀟洒だ。御礼を言って受け取り、額をぬぐう。
「冬でも汗はかきますね」
「代謝が良いんじゃないかしら。ありがとう杜花」
「いえ。みなさんは?」
「ああ。下級生たちが食事当番だから。少し遅くなると思う」
 今日は一年の担当日であったか、と頷く。
 二階建ての寄宿舎は全部で二十四部屋あり、一部屋に二人が生活している。
 四十人の内訳は一年が十二人、二年が十五人、三年が十三人だ。
 一年が担当、という事はその十二人が慣れない料理に悪戦苦闘している筈である。
 小等部、中等部は完全に配給である為、料理の経験が無い子は多い。まして彼女たちは良家のお嬢様や成金の娘などであり、身の回りの事は全て家族かお手伝いに任せきりであっただろう。
 大人数分を作る為、流石に毎日全てを作るわけではなく、夕食の配給分と合わせて一品を加えて作る形だ。配給分と寄宿舎の作る一品の摺り合わせは寮長、つまるところ綾音の領分である。
「杜花お姉さまに美味しいものを食べさせると躍起になってたわ」
「大失敗するのが目に見えますね。きっと献立外のものでしょう」
「去年貴女もやったっけ。杜花は料理上手だから良かったけど……」
「食事は日々の活力であり、生きる為にもっとも重要な欲求です。私は不味い夕食を食べて次の日を迎えたくありません」
「た、食べ物に関しては、きっついなあ、杜花は……」
「これは指導です。お手伝い、などではないので、悪しからずです」
「あいあい。私も美味しくないのは食べたくないし、何も言わないよ」
 自主自発自立をモットーと言っても、経験の無い子達に全てを任せるのは不安である。手を出すと指導教員に怒られるが、指導とあらばまた違う。
 詭弁だが、教員が見ても文句は言わないだろう。まして杜花である。
 七星が経済的影響力の大きさ故に自由が効くのとは違い、杜花の場合はその品行方正な態度、そして生徒からの支持があるからだ。
 閉鎖的な女子校で心証を悪くするのは、生徒だけではなく、教員も不利であった。
『杜花御姉様を叱咤した』などと噂を立てられては、教員たちも敵わない。
 杜花は当然そんな衒いも自負も表には出さないが、出来る事がある、使える手段がある、というのならば、躊躇わない。
 一階の北廊下を抜け、炊事場に向かう。
 ノックして入ると、狭い炊事場は下級生であふれかえり、小さないざこざで喧騒が沸き立っている。
 皆が仕事を取り合って率先して動くのは良いが、どれもこれも拙く、統一感が無い。
「あ、杜花様」
 一人が気が付き声を上げると、視線が一斉に杜花へと向く。笑顔一つであいさつすれば、皆が華のようにほほ笑んだ。
 が、愛想をふりまきに来たわけではない。
「整列」
 低く冷たい声が響く。
 全員の顔がみるみる内に血の気が引いて行き、皆は調理器具を置いて背筋を伸ばす。
「班長」
「は、はい」
 一番背が小さく、小学生のような顔立ちの少女が、冷や汗を流しながら杜花を仰ぐ。
「何を作っていたんですが?」
「と、トマト風のブイヤベースです」
「材料費がかかります。どこから? 購入した分にその材料はありませんよね」
「その、歌那多さんがご実家に連絡して、メイドさんに……」
 一年組の実質的なリーダー格(とは少し違うが)である末堂歌那多(すえどうかなた)の名前が挙がる。杜花が目線を向けた先には、明るい笑顔のキャンディヘヤーが一人。
 歌那多は申し訳なさそうにするでもなく、むしろ楽しそうだった。
 この子にはいささか問題がある。
「まして四十人分では。取り決めた料理と違いますね。何故そうなりましたか」
「お、美味しいものを、食べていただきたくて、皆で相談して、決めました」
 視線を回す。全員が頭を下げて頷く。何を咎めるべきか、何を注意するべきか、判断は簡単だった。
「どこまで進んでいますか」
「それがその、あまり……」
 調理台の上に乗せられた食材群は、みな袋から取り出されたり、パッケージを開けられてはいるが、ほぼ手つかずのままである。ここに来るタイミングが遅ければとんでもない事になっていただろう。
 杜花はホッと胸を撫で下ろす。
「予定外の事をしない。取り決めは守る」
「はい……」
「解らないところは先輩に聞く」
「はい……」
「美味しいものを食べさせたかったんですよね」
「う、あい……」
 杜花に怒られたのが余程ショックだったのか、下級生は涙ぐみ、嗚咽を漏らし始める。ここまでは誰でも出来る指導だ。当然このまま放置すれば禍根が残る。恨みのリスクは残せば残すほど後に来る。
「いいですか、みなさん。分不相応の事をされても、喜ぶ人は少ないのです。みなさんは、美味しいものをみんなに食べてもらいたかった。では、突然難しいものを作るのではなく、今できるものを精いっぱい作ってこそ、みなさんの気持ちが伝わると思うのです。そうでしょう?」
「は、はい」
 杜花は、頑張ってお姉さんに努めた。下級生の視線が一身に集まる中、笑顔で班長の手を取る。
「そのお気持ちはとっても嬉しいです。ありがとうね」
「杜花様……」
「私が指導します。美味しいものを作りましょう。みなさん、私のお話を聞いて、作ってくれますか?」
 皆の顔が明るくなり、元気な声をあげて素直に頷いた。
 この人数分の、レストラン仕様のブイヤベースなど、どれだけ手間がかかるか。
 そうなると、大事な夕食を食いっぱぐれ、杜花は果てしなく悲しい思いをする事になる。それだけは絶対に避けなければならなかった。
 全員に指示し、今調理台に出ている食材たちを冷蔵庫に仕舞い込み、二年の調理当番時に使う予定だった食材を持ち出させる。カレーである。
「貴女達は材料を洗って、貴女と貴女は皮を剥いて。ピーラーを使ってくださいね、手を切るから。貴女は調味料の分量を量って、貴女は皮を剥かれた材料を切りそろえてください。大きさは指導します。そちらの三人は食堂棟で準備をお願いします。いいですか」
「はいー」
 杜花の指導が行き届き、皆が慌ただしく動き出す。
 これでなんとかなるだろうと、杜花は溜息を、誰も見えないように吐く。皆の進捗状況確認を授かった班長が、改めて杜花の前に現れて、頭を下げる。
「お恥ずかしいところをお見せしました、杜花様」
「良いんです。最初の内はこんなものです。あと、三ノ宮さん、私に様は要りません」
「あ、う。その、でも」
 寄宿舎組一年の班長、三ノ宮火乃子(さんのみやかのこ)は言いよどむ。
 ショートボブの髪を揺らし、ズレ下がった眼鏡をあわてて持ち上げる。学年トップの成績を収める優秀な彼女はあまり目立ちたがらないが、その誠実さと生真面目さは有名であった。
 この第一寄宿舎は、明確にされているわけではなかったが、優秀であるとされた者が入寮すると暗に噂されている。
「様なんて呼ばれるほど私は立派じゃあありません。ちゃん……は、不味いか。さんか先輩でお願いします」
「杜花ちゃん」
「違いますね。やっぱりやめましょう。さんでお願いします」
「杜花さん……あの、ごめんなさい」
「皆に……末堂さんに押し切られたのでしょう」
「でも、皆で決めましたから」
 この子が予想外の事を率先してやったりはしないだろう。おそらくは皆に押し切られる形で作るものを変えたのだ。首謀者は末堂だろう。良くある話である。というか、杜花がそれを当時一年の時にやらかした立場であり、今回とは違い、盛大に成功して称賛を受けたのだが。
「私もやりました。私は普段から食べるのが好きなので、料理も自分でしましたから、成功で終わりましたが、やはり、取り決めた事をちゃんとこなしてこそ、日々の生活は保たれると思います。センセーショナルだったりインパクトのあるような行いは、時と場所を選ぶものですから、当時は私も反省しました」
「はい」
「では、作業に戻ってください。美味しいものをお願いしますね」
 火乃子は笑顔を綻ばせ、小さく手を振って去って行く。それもどうかと思ったのだが、まるで妹のようで可愛かったので、不問にした。
 それにしても、と皆の作業を見守りながら考える。
 一年前まで市子の妹をしていた杜花だったが、そんな立場でも、市子ではなく杜花の妹になりたいと言う子は良く居たものだ。今でこそ以前より増えたとは思うが、杜花のそれはあまり変わっていない。
 火乃子は、過去三回、杜花に告白に近い宣言をしている。
 小等部、中等部、高等部、その全てでである。流石にここまで熱心な子は他に居ない。早紀絵とてアピールこそあるが、火乃子の場合は面と向かって言って断られる事三回、それでも慕うというのだから大層な度胸だ。
 この寄宿舎において現在杜花は中心人物であり、一年から三年まで、全員との関係が良好と言える。
 もちろん影で何を言われているか解らないのが女の園であるというのは十分承知だったが、問題に発展した事はない。この狭い世界で関係が険悪になると、生活し辛くてしかたがないからだろう。
 特に親しいといえば、下駄箱を手入れしていた綾音や火乃子となるが、また別途で、一方的な好意を寄せる人物もいる。
「末堂歌那多さん」
 今回の作戦失敗の責任者であり、杜花が一番警戒している人物だ。
「はい!」
 調理の手を止め、赤色の髪を靡かせて小走りでやってくるこの末堂歌那多は、一年の始め頃に他の女子高から編入してきた人物だ。実家は大きなショッピングモールと通信販売を経営する小売業の最大手である。
 外から来たと言うだけで話題性があるのだが、それ以上に、この子は強烈だ。
「責任を取って中庭の草むしりです。寮長の綾音さんには伝えておきます」
「草むしり? あ、庭師がやってるアレですね! やります!」
 元華族であり、明治期から始めた商店の経営拡大によって大きなグループを築き上げた末堂家のご息女は、杜花に与えられる罰則に対して、満面の笑みを湛えて返事をする。
 この学院は、それこそ自分の尻すら拭いた事のないような子もいるが、その中でもこの少女はトップクラスの箱入りだ。メイドの居ない生活は産まれて初めてであり、何かを一人でするなど考えられない環境に居た
 編入当初は『制服の着付けが解らない』と、下着姿のまま杜花の部屋にやってきたほどである。
 とにかく、何も出来ない。
 驚くほどに何もだ。
 ドイツ人とのハーフらしく、茶色よりも赤みがありウェーブのかかった髪、日本人ばなれしたスマートなスタイルは、万人が振り返るであろう逸材であるが、いかんせん中身が壊滅的である。
「喜ぶ事ではないんですよ、末堂さん」
「そうなのですか?」
「はい。これは罰則です」
「わあ、産まれて初めて罰を受けました……」
 杜花の眉が、ぴくりと動く。顔にこそ出さないが、まさかこれほどとは、と嘆かわしく思った。罰も受けた事が無い。どれだけチヤホヤされて育ったのだろうか。しかし、その割に昔の早紀絵ほどワガママは無い。常識外れなだけだ。
「時間が有る時、少しずつやりましょう。中庭は広いですから」
「ええと、ごめんなさい、杜花御姉様、一つ質問をしてもいいでしょうか?」
「はい、あと御姉様はやめてください」
「どれについての罰でしょうか?」
 ――ああ、そこからか。杜花は頭を振る。
「メイドさんを使って予定出費外の買い物。献立以外の料理を作ろうとしたこと」
「あ、あー。ダメ、ダメなんですねえー。あの、杜花御姉様、もしかして怒ってます?」
「当然です」
「歌那多は、もしかして、御姉様に嫌われたりするのでしょうか?」
「このままではそうでしょうね」
「それは困ります!! 御姉様には今後も御姉様でいて頂かないと!!」
「それはどのくらいまで御姉様が予定に入ってるのでしょうかね」
「え? 卒業後も、歌那多が政略結婚した後も?」
 どうもこの世界の住人は、嫁も姉も全部自分の都合で作り、一生一緒に居る事が前提であるらしい。早紀絵も前提がおかしかったが、これまた強烈である。というか政略結婚などという言葉が出てくるのがまた何とも言えない。
「それについてはまたお話しましょう。とにかく貴女は約束を破ったので、罰を受けます。宜しいですか」
「宜しいです。そうする事によって御姉様に嫌われる事が回避されるのですね?」
「おそらくは」
「頑張ります!!」
 ビシっと敬礼し、エプロンを投げ出そうとしたところでその腕をつかむ。
「まず、夕食」
「あ、そうでした!」
 浮世離れたこの学院において、更に離れたこの子が現世から離れるのも時間の問題ではないかと思う次第であった。
「御姉様ーごはんってーどうしましょー」
 一人の一年生が声をあげる。杜花は瞬時に立ちあがり、指示を飛ばす。何にしても人並み以上には出来る杜花であったが、どうにもこうにも、時折大事な事をスパッと忘れて酷い目にあう節があった。
「しまった! ええと、鍋、鍋で炊きますそっちが早い! 佐藤さん伊藤さん加藤さん、御米はそっち、鍋はあっち。三つに分けましょう、空いてるコンロ全部使ってください、ああ、無洗米じゃあるまいに、米はまず洗うんですよ?」
 杜花の背中に汗がにじむ。カレー、四十人分となると大層な量に思えるが、思いのほかそうでもない。ここに備える寸胴より丈の短い鍋で済むし、切って炒めて入れて煮るだけなので簡単で、大量に作る方が美味しい。しかしカレーにはご飯が無ければならない。これは絶対である。
 各々のお嬢様方がお上品に啜るおスープ如きではないのだ。
「御姉様、包丁が切れません」
「そこの棚の下に引くだけで砥げる素敵なアイテムがあります」
「わあ、これすごい、何これすごいやだぁ」
「感動は後でどうぞ」
「御姉様、このジャガイモというものの、この、凹んだ部分って」
「それは芽です削ってください毒があります」
「毒ぅ? ええ!? 庶民はこれを食べますの?」
「だから切るんですよ。包丁のその、下のでっぱった部分か、もしくは皮むき機のでっぱりで削り取ってください」
「あ、とれます取れます取れますわ」
「御姉様、カレーにはソースです? しょうゆです?」
「妙に庶民染みてますね。ああ、いえ、何もいれない派です。欲しい人が各自掛けられるように食卓に置いておいてください。お嬢様方が使うとは思いませんけど……」
「はぁい」
「あとみなさん、私は御姉様じゃありませんよ」
『えー』
 これについでだけは、一年全員から物言いがつく。最早今更、避けようが無いのかもしれない。
 ともかく戦いは始まったばかりである。
 煮詰めるに至るまで、相当の要保育生徒の面倒を見ねばなるまい。



 悪戦苦闘の末、全ては成った。勝因は何だっただろうか。
 白を基調とした壁紙が貼られ、物は少なく、必要最低限のものが一切ない、華やかさは無いが清貧という言葉がしっくりくる、そんな部屋の真ん中に陣取った杜花は、その視線をカレーの人に向ける。
 勝因、やはりあの一年組の中に紛れ込んだカレーの達人が居た事であろう。皆は御姉様の采配のたまもの、と称賛するが、率先してカレーしたのはカレーの人のお陰だ。
「ねえ、カレーさん」
「早紀絵だよ」
「サキって他の料理は普通なのに、カレーだけ得意ですよね」
「まあ、小さい頃からカレーだけはカレーだったからね。料理場のシェフ押しのけて作ってたし」
 匂いを嗅ぎつけたらしい早紀絵の采配によって時間は大幅に短縮。
 十九時を回る前に食事にありつけた。
 現在二十一時を回り、皆は各自の部屋に戻って各々の作業についている。
 この時間は作業時間、という名目で与えられた自由時間だ。遊ぶも勉強するも作業とされる。
 二階の北側一番端『200』号室、杜花に与えられた部屋には、早紀絵と歌那多が無断で上がり込み無断でねっ転がっている。今更なので杜花も咎めない。
「早紀絵様はカレーなんですか?」
「はい。サキはカレーです」
「なにその英語の例文みたいな会話。美味しかったからいいでしょう」
「はい! イギリス風しか食べた事が無かったので、日式は初めてでした!」
 歌那多の元気のよい返事が部屋に響く。とにかくこの子は元気が良い。一年の中でも新参者であるというのに、そんなものを一切感じさせない明るさと、多少の強引さが雰囲気を引っ張っているのだろう。
 早紀絵と歌那多の二人は、グループが提携している為、学院が初対面ではなかったらしく、当初から仲が良かった。神社の娘と小売王の娘と流通王の娘が集っている不思議な光景に、杜花は笑う。
 周囲の家柄の良さとのギャップは、それこそ中等部時代こそ少しは悩んだが、杜花の中では整理がついているので、今更気にする事もない。しかしその中でも特異な末堂歌那多という存在については、頭を悩ませる事は多々ある。
 下着うろつき事件以来、学院内でもその常識外れな行動が問題視され、教師からの風当たりがどうしても強くなってしまう。幸い、周囲(主に火乃子)が取り繕っている故に何事も起こってはいないが、今後どうなるかは解らない。今のうちに手は打っておいた方が良いだろうと、杜花は考えていた。
「それにしても、歌那多さん。今回はどうして、献立外のものを作ろうと思ったんですか」
「歌那多ですか? あ、ブイヤベース好きなんです。一番好きです。だから御姉様も好きだろうって」
「おおう。この子はほんとどんな思考回路してるんだろうか」
「貴女も人の事は言えないと思いますけど。歌那多さん、自分が好きなものが他人も好きだとは限りません」
「なるほどです」
「そして取り決めは守らないといけません。守る事にメリットがあります」
「どのようなものでしょうか?」
「寄宿舎での生活が円滑になり、そして私が笑顔になります」
「あ、重要です! 笑顔は重要ですね!」
「なので、今後も寄宿舎の取り決めはしっかりと守って、女だらけの生活を怠惰にしないようにしましょう」
「女だらけだと怠惰になりますか?」
「一概には言えませんが、統制のとれない女子寮は悲惨だと聞きます。先達からのお話を大事に聞く事によって、貴女もまた政略結婚相手の旦那様に喜んでもらえるでしょう」
「わあ、なんだろう、なんかへんな説得ぅ」
「旦那様になる方は、くまのマスコットに似ていました。たぶん食べるのも好きだと思います」
「ではなおさら頑張りませんとね」
「はい!」
 論理的で無いような気もするが、歌那多にはこのぐらいがちょうどよかった。決して頭の回りが悪いわけではない。本来優しい子であるし、自分に向かう現実もしっかりと受け止めている風もある。
 もしかしたら、歌那多のご両親もこのあたりを心配して、自主生活を指針としたこの学院に編入したのかもしれない。おそらくそれは正解だ。
 同じ女子校でも、外界から離れているとはいえ、ここに集まるご令嬢方とのコネクションが出来、なおかつ厳しい先輩の指導も受けられる。
 家に放置すれば何も出来ないまま大人になるであろう彼女には、うってつけの環境であった。ここは所謂『女が女らしくする』という方針を掲げてはいない。
 その昔は、女性の自由が徹底的に叫ばれた時代があった。
 乙女という言葉は消え去り、慎ましさなど社会進出の邪魔、ワビもサビもなければ躊躇いもない事が美徳とされる時代だ。
 それによって女性が勝ち取ったものは多かったが、平成期の混乱後に訪れた新しい社会は、力を持った女性によってむしろ大和撫子の復古が語られ始めるようになる。
 女性人口の増加もそうだが、社会に出るばかりが女性なのか、という考えだ。
 古来から時に戦い時に家を守ってきた男達を、屋台骨として支え続けた女性達の力が、新しい時代に適応した形で、また必要なのだと言われ始める。
 女は家に居ろ、などという生優しい発想ではない。
 女こそは男性達を更に押し上げ、自らも戦う為の強力なパートナーとして成長するべく、時には刀を振り上げ、時には優しき母として、どこに出ても立派な女性であるべきだといった、限りなくハードルの高い思想だ。
 これまた相当の批判はあるが、この発想は特に上流階級で重宝され始める。
 以降数十年、女性の増加と女性権威の拡大、新しい思想によって花開いた『女子校』の文化は、復古と革新の兼ね合わせの上にある。この学院が巨大化したのは、そういった背景があるからだ。
「モリカ、テレビ見ていい?」
「……どこから?」
「えっへっへ。実家からの荷物に紛れ込ませたんだ」
 そういって、早紀絵はポケットから携帯端末を取り出す。
 五十年ほど昔に流行った平面端末は結局日本国内でガラパゴス化を辿り、数度の電子工学における革命的な技術発展のお陰で、現代の携帯端末はもはや何をしていいのか解らないレベルにまで到達している。とにかく操作法さえ解れば大体の事が出来る。
 杜花などはあまり機械に詳しくない為敬遠しているが、早紀絵は流石に実業家の娘だけあって、そういったものに詳しい。
「今度新型が出るみたいです」
「え、これ最新式なのに!?」
「七星の開発部から、ウチにお話しがありましたよ!」
「おおう。いい加減にしてよ七星……ま、いいや」
 携帯の電源を立ち上げると、ホログラムが展開して起動画面が映る。慣れた手つきで操作する早紀絵はご機嫌であった。
 やがてテレビチューナーが立ち上がり、今日の出来事などのニュースが放映され始める。
「流通業の娘がね、一日のニュースも知らないなんて、まず変な話さね」
「早紀絵様、株価、株価チェックしたいです」
「あいよ、こっちで操作して」
 そういって、掌サイズのプラスチック板のようなタブを受け取った歌那多が、嬉々として株価チェックを始め、杜花は手持無沙汰で放映されているテレビに目を向ける。
 その隣の空間では、物凄い早さで株価のホログラム映像が流れて行く。杜花には何の文字列なのかサッパリ解らない。
「大不況を引きずって尚生き残った企業体が幾つかあったけれど、大きく持ち直してますね!」
「社会が変わって、ニーズも流通も変わってきたからね。苦節数十年」
「そんなものでしょうか」
「神社だって、無神論者だらけで酷かった時代があったでしょう。お婆様あたりに聞いてみなよ。アジア戦火中に持ち上がった新ナショナリズムの勢いに乗って神道の……って解るよね?」
「まあ、知識としては」
 片手間で早紀絵の話を聞き流しながらテレビ映像を見ていると、やがて気になるニュースが目に止まる。
 その時だった。
「うおっ」
 早紀絵が声をあげ、携帯端末を取り落とす。
 天井から吊るされた小さな電気式のシャンデリアがチカチカと明滅し、やがて消え、携帯端末も電源を喪失してしまう。
 もう夜であるからして、部屋は一瞬にして暗闇に帰った。
「え、停電とか、ありえないでしょう!?」
「サキ、何かしたの?」
「し、してないですハイ。なんだ、配線か、ヒューズか、白萩は古いからなあ……」
「もう……なんで……あ――ッ」
 だが、どうやら一時的な電圧低下だったようだ。
 他の校舎などではあり得ないだろうが、白萩は何につけても古い。
 配電盤の切り替えミスである可能性もある。即座に電源は回復し、電気は再度通電したらしい。
 が、杜花はその瞬間に、見てはならないものを見てしまったような気がした。
 電灯が元に戻る瞬間。ぼんやりとだが、携帯端末から映像が漏れたのだ。
 その姿かたち、忘れようのない面影に、杜花は顔を青くする。
「杜花御姉様? 大丈夫ですか?」
 歌那多が杜花の腕をつかんで揺する。
 何をされているのか、それは解るが、一瞬の映像が衝撃的で、直ぐには反応出来なかった。流石に見かねた早紀絵が乗り出し、杜花の目の前で手を叩いて見せる。
 パンッという破裂音に、杜花は瞳を幾度も瞬かせた。
「モリカ、どしたー?」
「なんか、御姉様が人形みたくなっちゃってて、不謹慎にもちょっと欲しくなったりしました」
「カナ、流石にそれはドン引きだわ」
「モリちゃん人形で商品化出来ませんかね。商品開発部に掛け合ってみます」
「商魂たくましいなおい。末堂安泰だな。で、おい、モリカ、杜花御姉様?」
「あ、あー……まず落ち着きましょう。歌那多さん、お茶、淹れてきてくれますか?」
 息を整える。
 震える背筋、全身に沸き立つ鳥肌を抑えるようにして腕を抱く。
 冗談のすぎる歌那多も、流石に察したのか、静かに頷いて給湯室へと向かった。ちなみにお茶は淹れた事など無い筈である。
「モリカ。どした。何みた。いや、観たのか? カナに尻触られたとか? 私も触っていい?」
「みた」
「何。え、あれ、マジ?」
「黒い、影」
 その場に崩れるようにして座り込み、杜花は顔に手を当てて覆う。
 あの電源が戻る一瞬、杜花は確かに彼女の影を観た。幻覚ではないかと強く問われたならばその認識に不安も覚えるだろうが、少なくとも今の杜花にはそう観えた。
 あれは携帯のホログラムだっただろうか。だとすれば何故映ったのか。
 怨念、思念、亡霊。そんな言葉が杜花の頭の中で反響する。
「よ、よし。良い子だ。どう観えた」
「携帯、だと、思う」
 早紀絵が取り落とした携帯を拾い上げる。電源は切れているが、再起動すれば今まで通り、何の変哲もない新型携帯電話である。おそるおそる杜花はそれを覗きこみ、小さく溜息を吐いた。
「ごめん。きっと、あんな話題出したから」
「いいの。サキは何も悪くない」
 わずかに震える腕を抱き、呼吸を整えて早紀絵に向き直る。早紀絵は心配というより、困惑が強い様子だ。
「――もし、貴女の言う事が正しいとすれば、七星市子の出現は、ある意味必然的ではないかな」
「どういう事かしら」
「これを観て頂戴」
 早紀絵がメモ帳に挟んでいたB5判の紙を広げ、携帯でスキャンし、3D表示にする。
 中空に浮かび上がる映像は観神山女学院の全体図だ。操作端末をいじりながら、早紀絵は数か所に赤い丸をつけて行く。
「文芸部室。第一高等部校舎三年一組の隣の空き部屋。中等部中校庭の真ん中。生徒会準備室。高等部プール。大まかなところはこのくらいかな。所謂『黒い影』を目撃したって情報が有る場所は」
「それが、市子御姉様だと?」
「全部が確認とれたわけじゃないし、なんとなくそう思い込んでいるだけかもしれない。けど、彼女の死後に目撃情報が多発している。七星市子の死後、彼女の噂はタブー視されているし、教師たちの目もキツイから、あまり表に出ない情報だけれど」
「貴女の取材結果ですね」
「ええ」
「それで、市子御姉様が私の前に現れるのが必然、というのは」
「そこさ。様々と噂されているこの『闇を這いずりまわる黒い影』が、もし本当に、もし、だけど、七星市子であったのならば、あの人の寵愛を受けていた貴女の下に現れて当然だと思うの……あ、その。だからね、本当はこういう話題を貴女には話したくないのだけれど、貴女までそう言い出すのならば、もう私の知ってる情報をね……」
「ううん。サキ、ありがとう」
「う、うん」
 杜花は実際、意識しないように生活してきた。
 七星市子という大きな存在の死が齎したものは多方面において影響を与えた。当然杜花にとっても忘れ得ぬものである。
 何故彼女は死んでしまったのか。
 何故自分に相談してくれなかったのか。
 何故文芸部部室なのか。
 何故、死に切れず這いまわったのか。
 彼女はとても頭の良い女性だ。
 彼女自身が、自身の死によって引き起こる被害がどれだけ大きいか、一番理解していた筈である。
 そして何より、思い悩む生徒たちに助言し、力を貸していたのも彼女だ。そんな彼女が、如何様にして自殺に至るか、杜花には全くわからなかった。
 遺言も見つかっていない。
 それはただ、突如起こった自殺なのだ。
 殺人も疑われた。
 人間関係のもつれが考えられる為、杜花にも警察による捜査は入ったが、状況が明らかに自殺であった故か、そこまで追求はされなかったし、学院としても、そして七星としても、事を荒立てるような真似をしたくなかった様子である。
 彼女の亡霊。
 恨みつらみを残して死んだ人間の怨霊。
 もし、もし出会えるのならば、彼女が死なねばならなかった理由を、聞きたかった。
「なんで、死んでしまったんでしょう」
「はい?」
「少し気になります。その影」
「どうしちゃったのさ。観るのもいやで避けてたでしょ?」
「……こういうのを観てしまうほどに……私は――いえ、整理をつけたいんです」
 もう一年間、避け続けてきた。
 死という現実から逃避する事で精神を安定させていた。
 悪い事ではない。逃避を必要としない人間がもし居たとしたならば、それは心臓に毛が生えているか、そもそも人ではないのだ。
 最悪の事態を真正面から受け止められる程、杜花は強くない。ただ、こうして噂があり、そして自らも目撃してしまった以上、己の中で整理を付ける段階に来ているのだなと、杜花は思う。
「うん。そっか。協力出来る事があったら言ってよ。私も手伝うから」
「ありがと。サキはやっぱり優しい」
「うっ……ううん。貴女の為なら」
 早紀絵の言い淀みの理由は解る。
 放課後、図書館でサラリと告白したのが証明以外の何ものでもないだろう。あの時、とっさに『影』の話題を出してしまったのも、その頭の中に七星市子の事があったからだろう。
 七星市子と欅澤杜花の関係に、もっとも異を唱え続けたのが、この満田早紀絵なのだ。
「っとと。この携帯動作が不安定だな。七星のコールセンター突っ込んでおこう」
 話題を変えるようにして早紀絵が携帯の頭を叩く。電源に不具合があるのかもしれない。先ほどからホログラムにノイズが混じる事が多いのだ。
「持ち込み禁止の携帯を堂々と操作しているのも問題だし、預けた方がいいんじゃないでしょうか」
「そうする。カナの話じゃ新型出るみたいだし、買い替えよう」
「決して安くないのに。世間の女子高生が聞いたら変な顔されそうですね」
「ブルジョアは消費しなきゃだめなの。経済が回らなくなるから」
 早紀絵は頭をぽりぽりと掻きながら、その視線をドアに向ける。
「……歌那多さん、お茶なんて淹れられませんよね」
「貴女が言ったのに」
 そんな話題が持ち上がるタイミングで、ドアがノックされる。淹れ終わったのだろうか。
 返事をすると、そこに現れたのは三ノ宮火乃子であった。ショートボブの髪の毛をいじりながら、申し訳なさそうにしている。
「どうしたの、三ノ宮さん」
「その、歌那多さんが」
 その名を聞き、杜花と早紀絵が立ち上がる。まさか、お茶を零して火傷したとか、何かしらエキサイティングしてしまい、誰かに迷惑をかけたとか、あらゆるものを想定する。
「お茶が淹れられないって、泣いてしまって。私が手伝うといっても聞かなくて」
「おおう。本当に何もできないなあの小娘は」
「初めから出来る人なんていま……いえ、いますけど、あの子はあの子ですし。サキはここにいてください。私が観てきますから。淹れたらお茶にしましょう。三ノ宮さんも如何?」
「あ、あ、はい。是非」
「では」
 部屋を後にして炊事場に向かう。一階に降りたところで、丁度人だかりが出来ているのが観えた。
「はい、戻って戻って」
 下級生たちをかき分けて厨房に入ると、末堂歌那多はベソをかいて佇んでいた。
 普段感情の落差が激しい為、珍しい事ではない。しいて言えば子供なのである。
「歌那多さん」
「あぐっ、御姉様、歌那多、あの、おぢゃも、あぐっ」
「お願いしたのが私とはいえ、悔しいですよね。お茶の一つも淹れられないのでは」
「ごめんなさい……うっくっ」
「貴女のご両親が、なんでも一人でさせるこの学院に編入したのは、当然貴女の事を思ってでしょう。ここには貴女のご両親も、メイドもいません。出来る事は全て自分でしなければいけないのです」
「あい……」
「でも安心しました。悔しくて泣いたとすれば、それだけ意欲があるという事ですよね。貴女は何に対しても楽観的で、いささか常識的な判断が足りないと思っていただけに、私は不安でした。歌那多さん」
「はいっ」
「お手伝いしましょう。ここにはご両親もメイドもいませんが、頼れる先輩はいます。私も先輩方に沢山学びました。最初から全部出来る人はいません。ね?」
 手をとってあげると、歌那多は直ぐ笑顔に戻った。彼女の感情地雷がどこにあるのか、付き合いの浅い杜花では判断しかねたが、少なくとも意欲はあり、なおかつ率先して物事を進めようとする気持ちはあるらしい。杜花にだけでなく、人に言われれば何でもやる様子はあるが、問題はとにかく、経験が無さ過ぎる事だろう。
 自分はここまでではなかったにせよ、この学院に居ながら、先輩方には可愛がられた。余計な事まで教え込まれた感はあるが、何事も経験だと割り切っている。
 自分もまたいつの間にか教える側になってしまったのだなと、少しさびしく思う。
「あら」
「あっ」
 握り返す手は熱い。
 が、右手だけ、違和感がある。
 どうもそれが気まずいらしい歌那多は、直ぐに手を離した。
「……教えますから、そちらのポットと、カップを用意してくださいね」
「はいっ! 有難うございます杜花御姉様ッ」
 何も言うまい。こんな時代であるのだから。




 翌日。
 当番生徒が朝刊を持ってきてからと言うもの、サロンは少なからずの喧騒に包まれていた。
 基本、この超高度電子情報化社会において、結界並の情報隔絶が存在する観神山女学院では、新聞というのは情報の大部分を担っている。
 様々な意見や解釈を得る為に、地方新聞を含め十社の新聞が取られている。
 リベラル色の強い旧大新聞社の人気はアジア戦火以来落ち込み気味で、保守から右派にかけての論調が強い新聞が好まれた。様々な意見、といっても、人間はやはり偏りが出来るものである。
 日当たりのよいサロンというのは元から人気があり、特に朝食後は生徒たちで溢れかえる。
 窓際の品格ある椅子と机が並ぶ場所は基本三年生が占拠しているが、杜花もその中にいた。文句の一つも上がらないあたりが最初は不気味だったのだが、欅澤杜花という存在が、この寄宿舎においてどれだけの信頼を得ているのか、早紀絵の調査結果によって知れて以来、そこは納得している。
「昨日は色々なイベントがあったそうで。杜花様はご多忙ですわね」
「いえ」
 そしてもう一人、三年生の中に混じっている人物がいる。
 二人掛けの席に座り、正面から一切視線を逸らさず杜花を見つめているのが、二年組の班長、天原アリスだ。
 現高等部生徒会長であり、その『存在力』とも言うべき印象は他を圧倒する。
 衆議院与党自人会党幹事長、天原藤十郎の三女だ。
 母はイギリス人で、長い金髪にモデルもかくやというスタイル。歌那多もそうだが、アリスの場合はまるで造形物である。当然共同生活であるから、共同浴場で場を同じくする事も有る為、杜花もその圧巻振りは確認済みだ。
 そんな彼女は瀟洒にカップを置くと、小首を傾げて杜花に問う。
「食事当番への手出しは無用、という取り決めがありましたわね」
「指導です。調理器具には一切触れていませんよ」
 そして杜花が苦手な人物である。
「なるほど。手出し、に対する解釈の違いですわね。文字通り手を出していない、口を出した、というのならば、問題にはなりませんわ。けれどこの数通り解釈出来る取り決め、というのは、問題ですわね」
「なんでしたら、寄宿舎で法改正の多数決をとってみたら如何でしょう、アリスさん」
 うんうんと、アリスは静かに頷く。
 彼女は民主主義好きだ。比喩でなく好きなのだ。
 彼女の祖父に当たる人物は、近年で最も長く総理の座につき、圧倒的支持の下憲法改正の国民投票を初めて行った大人物である。日本現代史にこの人ありとまで言われる人物で、知らない人間はおそらく日本人ではないだろう、という程だ。
 この寄宿舎に厳然たる自治会があるわけではない。全学年の班長と副班長が寄りあい、不具合のある点をルールで改正しながら運営している。
 二年班長で更に生徒会長という彼女は、まさしくこの学院において生徒たちの法を握る存在だ。
 その彼女が寄宿舎のルールに『ご意見』したのであるから、これは考える余地が生まれる。
「しかし、です。この取り決めは長い間、それこそ二千年代初頭から続いていて、誰も手をつけませんでした。古いものを大事にしよう、というのではなく、変える必要性が無かったから変えなかったのではないでしょうか?」
「論理的です。確かに、一年生はまだ料理も不慣れ、あまつさえ自分の事すら出来ない始末の子がいますわ。この場合、出来ない生徒に対して、先達が指導するというのは、実に理にかなっています。そういった意味で、この『手出し』というのは適切なのでしょうか。注意書きを一つ加えるだけで明確にはならないでしょうか?」
「つまり、どういった事でしょうか」
「ええ。指導しないのは効率が悪い。でも手出しはいけない。では『食事当番生徒達への上級生の手出しは無用の事、ただし口頭指導は認める』と明記すれば、ぎくしゃくする必要もなくなると思いますの」
 杜花は彼女が苦手である。難しい話は出来ないし、彼女と言いあっても論理展開でまず敵わない。
 しかし、彼女は何かにつけて難癖をつけるような人間ではないのだ。
 今の状況とて、ただアリスが杜花とお話したいだけである。
「そう、ですね。では、次の班長会で議題になさっては如何でしょうか」
「そして、ですわ」
「はい」
「後輩に対する指導の機会、親睦を深める交流、という意味で、定期的に料理教室などを開けば、面白いのではないかしら、ねえ杜花様?」
 議論ごっこを止め、言葉を砕く。
 天原アリスは、面白い事が好きで、イベント好きで、なるべくなら騒ぎたいタイプの人間なのである。
 更にいえば、何かと何かにつけて、何においても杜花を全面に出したがり、重用したがる人物だ。
 生徒会加入の話を持ってくるのは会長御自らであり、十月に行われた文化祭において出張社務所などを企画して杜花を『本場の巫女さんによる素敵な神楽もあります』などと銘打ち、杜花に喝采を浴びせさせたのも彼女だ。
 市子が居た頃はそこまででもなかったのだが、最近は殊更この手合いの話が多い。
 天原アリスによるプロデュースは強烈だ。彼女のお陰で欅澤杜花という名が広まったと言える。
 もちろん、長い間同じくして市子の妹である二人の人間関係は良好であるし、むしろ好ましくも思っている。
 このような点を除けば。
「……私主導で?」
「先生」
「あの、アリスさん。期待して貰えるのは、大変うれしいんです。貴女程の人物から見初められるのは、光栄なことだと思います」
「あら、そこまで言って貰えるなんて。私はただ貴女の有能さを認めているだけですのに」
 杜花はアリスに近くに寄るようにジェスチャーする。
 秘密の話も大好きなアリスは、嬉々として耳を寄せる。それを観ていた周囲が何人か『きゃっ』と小さく黄色い声をあげた。勘違いである。
(私は何かと目立ってしまいます。更にアリスさんにまでくっついている、と噂されると、何かと立ち回りが大変でしょう)
 七星市子の元最愛の妹であり、ほぼ二代目に目されているというのに、そこへ更には美貌、有能さから支持を集める天原アリスにまで肩入れされたとなると、四方八方様々な問題が起こりそうでならない。
 杜花はあまりリスクを背負いたくないのである。周りにいる『いざとなればウチの実家がなんとかしてくれる』ようなお嬢様方とは違い、杜花はほぼ一般人なのだ。
 変な噂が立てられ、学校にいられなくなり、いざ転校しようと思った時周りを見渡せばド田舎、どこへ行っても噂だらけ、という、逃げ場がない状況に追いつめられる可能性がある。
「大丈夫ですわ。杜花様は誰が観ても素晴らしいお方。ねえ、そうでしょう先輩方」
「うっ」
 どうやらアリス的には秘密でもなんでもない扱いになったらしく、大きな声で周りに同意を求める。ここにいる五名、鷹無綾音も含め、皆が頷き、近くにいた同級生、および一年生もウンウンと頭を縦に振る。
 愛されているのは嬉しいが、ヘマをした時にはたしてどんな反応があるかと思うと、杜花は気が気ではない。
「ふふ。心配性ですのね」
「過大評価です」
「ご謙遜を。とにかく、ご留意くださいまし。何かと堅苦しいこの生活ですけれど、工夫次第で楽しみは増えますわ。それに、私が投げっ放しで何かをすると、思いますの?」
「いいえ。アリスさんですもの。素敵なお膳立てが有る事でしょう」
「遠からず催しましょうか。あら、もうこんな時間」
 時計を観れば、もうホームルームの時間が近づいていた。皆がパタパタとせわしなく動き出す。
 杜花も自室へ鞄を取りに戻る。
 鞄を持って下駄箱前に出たところで、丁度早紀絵に出会った。早紀絵は寄宿舎の入り口でメモを取っているらしく、此方には気が付いていない。
「サキ」
「あ、モリカ」
「どうしましたか?」
「いえね。スケジュールチェック。聞き込みするにも、情報もってそうな人探すにも、アタリをつけないとね」
「なるほどです。けれど、あまり無理はしないでくださいね」
「心配してくれるんだね。私は幸せだなあ」
「教室へ行きますけれど、サキ……は……」
 青く透き通った空。
 秋も過ぎ、そろそろ冬の足音が聞こえてくる、そんな肌寒い空気が包み込む朝。
 早紀絵ごしに遠くを見やった杜花の視界に、有らぬものが映る。
 それは、決して杜花の眼だけではない。
 複数人がその姿に気が付き、小さく声を上げる。
 何事かと後ろを振り返った早紀絵が、驚きのあまりか、その場に座り込む。
 その瞳に映るものは、有りえてはいけないものだ。
 それは悠然と、優雅に、瀟洒に、躑躅の通りを歩いて抜けて、寄宿舎へと向かっている。
 遠目にも解る馬鹿らしい程の衝撃は、杜花の心をかき乱した。
「い」
 杜花は声を出そうとした。
 だが、心臓はバクバクと早鐘の如く鳴り響き、全身をめぐる血液が濁流となって上下し、脳味噌が揺さぶられ瞳孔が開きかける。
 強く握りしめた手は既に汗でぐっしょりと濡れていた。
 何がどうなった。
 どうして、一体何故。
 思考が高速回転しては止まり、卒倒しそうだ。
 近づいてくる彼女の印象があまりにも強烈で、それすら出来ない。
「い、いち」
 おそらくは、おそらくは、誰にも見せた事の無いような、酷い顔をしていたのではないだろうか。
 杜花はその場に鞄を取り落とす。
 一歩後ずさり、全力で叫び出しそうになる『畏れ』に耐える。
「市子……ッ」
 絞り出した言葉に、迫りくる『彼女』は、杜花の知るその笑顔で答えた。
 違う。
 有る筈がない。
 死んだ人間は生き返らない。
 亡霊は昼間になんて観えない。
 彼女は居る。
 居るが、では、これはなんだ? どんな理屈があれば、彼女と瓜二つの存在が、いや『存在力』を持った少女がそこに顕現するか。
 そうだ。
 ああそうだ。
 早紀絵も話していたではないか。
「欅澤杜花ね。直ぐに見つかったわ。写真でみるよりも、ずっと綺麗で優しそう。ねえ?」
 頭を振る。
 辺りを見回す。
 逡巡する。
 世界は彼女を中心に時間が止まったようになっていた。
 全員が立ちすくみ、あり得ないものを凝視し、どうしてよいかわからずにいた。もう一度、あり得ないものを良く見る。
 そうだ、似ている。
 顔のつくりも、髪型も、その声まで瓜二つだ。だが、身長は七星市子よりも低く、その制服の一部にカラーリングされた線は青、つまり一年生を示している。
 妹だ。
 編入しているとは聞いていたが、その姿を観た人がいないという、彼女の妹。
「あ、嗚呼。サキ」
「あ、う、うん。たぶん、妹さんだ。うん。何、モリカ」
「い、医療保健室。私、一時間目、休みますね」
「あ、ああ。医療保健室ね。あそこは、すごいからね。い、いってらっしゃい」
 具合が悪いといえば、悪い。主に精神的なものだ。が、問題はそこではない。
 今、このタイミングで彼女が現れたのだ。何かがおかしい。何かが狂っている。欅澤杜花の第六感部分が、おかしな歯車の動きを感知していた。
 こんな状態で授業など受けれる筈もない。
 それに、この突如現れた妹は、杜花にきっと、話がある筈だった。
「初めまして、欅澤杜花。七星市子の妹、七星二子(ななほし にこ)よ。お話、良いかしら?」
「欅澤、杜花、です。御姉様には、だいぶ、御世話になりました。その、初めまして」
「……せんせに、伝えておく。いや、伝えずとも、解ってそうだな」
 早紀絵が地面についたお尻を払って、立ち上がる。
 杜花が差し出したハンカチを断り、第二高等部校舎へと走っていってしまった。
 杜花が改めて周囲を見回す。実に察しがいい事だ。皆が此方に頭を下げて、足早に去って行く。
「立ち話も、なんですね。サロンに行きましょう」
「あら、お構いなく……っていうガラでもないのよね、私は、ね」
 涙がこぼれそうになるのを堪え、杜花は二子と名乗る少女を寄宿舎に迎え入れる。寄宿舎を出ようとした先輩方の中にも悲鳴が上がった。
「も、杜花」
「綾音さん。サロン、借ります。鍵を、貸してくださいますか」
「ええ。ええ。ええ。ええ。ああ……何、この、ええと……」
「市子御姉様の、妹君です」
「ああ、本当にいたんだ……」
 茫然自失とする綾音に寄宿舎の合鍵を借り、足早に立ち去る。二子といえば余裕の表情で、先輩達に『姉が御世話になったわ』と威丈高に挨拶を交わしていた。
 サロンに二子を案内し、杜花はお茶を淹れる為に厨房に入る。
 誰もいない事を確認してから、その場に膝をついた。
 もしかすれば、いつか有りえる事態なのではないかと、予想はしていた。
 名前だけを知る彼女の妹の存在は過去から示唆されていたし、いつでも現れるような状態であったのだろう。
 だが、いざ目の前に現れた彼女が、まさか市子と同じ風貌で、髪型まで一緒にしてくるとは、夢にも思わなかった。
 妹との関係は良好と聞いていた。
 つまるところ、七星市子の死によってどれだけの影響があり、そしてその姿を模す事によって大きなうねりが起こり得るであろう事は、二子とて想定してしかるべきだ。
 わざとだ。
 センセーショナルな催しでも夢みたか?
 皆の不思議がる顔がみたかったのか?
 それによって悲しむ人間の感情を貪りたかったのか?
 どれにせよ悪趣味だ。最悪である。
 普段、リスクの大きい『怒り』という感情を極力ひた隠す杜花でも、こればかりは怒りが湧き上がる。いや、これ以上、欅澤杜花に激怒を抱かせる方法は存在しないとすら言えた。それも計算の内か?
 怒気。
 握り締めた拳を、板の間に叩きつける。
 バキリ、という嫌な音。
 力がコントロール出来ていない。床板がすっかり凹み、風穴が空きかける。
(いけない。万が一、こんなところ、みんなに見られたら)
 状況を鑑み、立ち上がってお湯を沸かし始める。怒気は抑えねば。あまつさえ殺意など。いや、もしかすれば、見せたところであまり意味は無いかもしれない。
 あの目は、あの空気は、まるで七星市子そのもの。だとするのならば、市子にも勝るとも劣らない程の、強靭な精神を持ち合わせている可能性がある。
 ……自殺した人間の強靭な精神、というのもまた、不思議な話ではあったが、市子は少なくとも、他人様に弱いところを見せたりはしなかった。他人様には。
「ふう、はあ――」
 欅澤杜花の、いささか鋭すぎる第六感が、普段以上に過敏だ。『あの女』を観た瞬間から、杜花の中にあるオンオフ機能が無茶苦茶になっている。
 呼吸を整え、普段の精神状態に立ち返ろうと努力する。
 お湯が湧く頃には、出会った直後の猛烈な感情の起伏は消え、相手に笑顔で接せられるだけの余裕が出来る。
 湯の温度を調節し、ポットとカップ、そして茶葉と茶菓子をトレイに乗せ、厨房を後にする。階段を昇って二階のサロンに辿り着くと、一呼吸おいてから中へと入った。
 昭和の昔からある、華族好みな年季の入った調度品達。長い年月でなお色あせない絨毯が嫌に赤く見える。入口の正面、朝日が良く当たる一対の席の左側に彼女は腰掛け、物憂げに外を見つめていた。
 白樺の枝が風にさらされざわめく音と、柱時計が打ち鳴らす時を刻む音だけが、静かに響いている。
「良い場所。笑みがこぼれる程に」
「私は庶民なので、上流階級の風流は知りませんが、気に入っています」
「あら、皮肉なんていう人なのね。もっと落ち着いているかと思っていたわ」
「貴女に比べれば、塵芥のようなもの」
「ああ、そうそう。貴女に見せたくって、こんな格好をしてきたの。決して、みんなを驚かせる為にしているんじゃないのよ。どうかしら。杜花。私は姉様に瓜二つかしら?」
 彼女は立ち上がり、操り人形のようにスカートの端を摘まんでお辞儀をする。確かに、小さな頃の七星市子そのものだった。ただ、彼女はどうも発育がよろしくないのか、一つ下と言う割に、その体型は小さい。杜花と頭二つは違う。
「小等部の頃の市子御姉様にそっくりです」
「私、体型は似なかったのよね。母が違うからかしら。顔はこんなに似ているのに」
 クスクスと笑いながら改めて腰かけ、杜花の着席を待つ。
 似なかったのは体型だけでなく性格もだ、と言ってやりたかったが、極力争いは起こしたくないので、ぐっと嚥下する。
 お茶を淹れている間、会話は無かった。二子は杜花の手元を見つめ、杜花は自分の手元を見つめる。
 一体どんな話をしにきたのか。わざわざ、ここまで演出的に現れて、何もない事はあるまい。
 ティーカップを差しだすと、二子は香りを楽しんだあと一口した。お茶の品質は、当然無駄に高い。淹れるのに技術を用いなくても最高の香りと味がある。この学院に居るからこそ飲めるようなもので、一庶民である杜花がわざわざ手を伸ばすような品ではない。
「評論なんてしないわよ? 人の出したものにケチを付けるような教育は受けていないの」
「それは御大層な事です」
「んー……」
 カップを置き、二子は指で顎を擦るようにする。
「気に入らなかったかしら」
「おそらく、私と御姉様の仲は承知していたかと思っていたのですけれど」
「だからこそ、この髪型なのに。でも、この前髪も後ろ髪もパッツリ切りそろえるの、可愛くって素敵ね。暫くこれでいましょう」
「それで、ご用件はなんでしょうか」
「杜花はせっかちね」
 小さく溜息を吐き、二子はポケットから封筒を取り出し、杜花に差し出す。ギョッとした。
 有ろうことか、そこには『杜花へ』と書かれていたからだ。
「姉様が御遊び好きなのはご存じね」
「ええ、嫌味は有りませんでしたから、皆も暇つぶしと付き合っていましたが」
「うん。姉様は本当に嫌味がない。私とは大違い。何をするも優雅で、気品溢れていて、慈愛深い。間違えては慰め、正しければうんっと褒め、ずっと優しい笑顔をたたえている、自慢の姉」
「これは」
「貴女への遺言。七星は貴女を一族の末席と観ているわ。だから、親展よ。まだ開けていない」
「遺言状は一切見当たらなかったと、七星一郎氏からも伺っていましたが」
「当時はね。でも、姉様の部屋を整理していた私が見つけたの。五つの文字列でね、一個一個が数字に繋がっていた。四列が数字と回転数、一列が漢字」
「暗証番号と、その所在ですか」
「わざわざ七星系列以外の貸金庫でね、他人名義だったし、開けさせるのに苦労したわ。で、その貸金庫の中からつい最近出てきたのがそれ。もう三通は、私と、姉様のお母様と、一郎お父様宛」
 恐る恐る、その封筒を手にする。
 確かに、封はしっかりと閉じられており、メの印にもズレはない。封筒の中身は一通の手紙だった。
 一番最初の注意書きは『七星は開封していないと嘯くでしょうが、そんな甘い人たちではありません』であった。
「開けてないなんて信じるな、だそうです」
「あっはは。その通り、既に分析済み。姉様の筆跡で、確実に貴女宛よ。指紋も間違いない。でも私は内容を知らないから、教えられる範囲で教えてくれると嬉しいわ。ウチの科学研究班から聞く手間が省けるから」
 元から隠すつもりなどないのであろう。二子はあけっぴろげに言う。当然杜花も信用などしていない。この遺言とてどうか解らないが、少なくとも、杜花が観る限り、その筆跡は間違いなく彼女のものであった。
 内容はかなり少ない。
『この手紙が見つかるまでに、相当の時間を要している事でしょう。その頃には私の死の話題も落ち着き、貴女もそれなりの整理がついている頃だと思います。他人が読む事を考慮して、恥ずかしい話題は避けます。まずは、ごめんなさい。貴女を愛してやまない私、私を愛してやまない貴女が、このような決別を迎えてしまった事に、お詫びします。そして何より、この事件にかかわらせてしまう事になる、この手紙を残す事を許してください。もしかしなくても、貴女は私の死に疑問を持つ事でしょう。けれどこれは仕方の無いものでした。私はこの世には居られなかったのです。私は自らの命をこれから絶ちます。貴女には辛い想いをさせてしまいますが、決して、死後の私に関わらないようにしてください。この手紙を最後にしてください。七星は、貴女には強大すぎます。もし、これを持って現れる人、おそらくは義理の妹でしょうが、その人物がどれだけ私に似ていようとも、それは違うものです。根本的に違うものなのです。生きる事に耐えられなかった私を許してください。私は、もう何処にもいません。幸せになってください。それだけが望みです。七星市子』
 杜花は頭を振り、手紙を二子に差し出した。頷き、それを受け取り、二子は眉を顰める。
「暗号の一つでもあると思ったけれど、縦読み斜め読み、文字抜き文でもないわね。貴女にしか解らない記号でも仕込んであるのかしら」
「……ありません。ただ、私を憂いて残したものでしょう」
「うん、うん。解ったわ。でも、いささか恣意的ね」
 それは杜花も感じたものだ。この遺言状、というよりも、最後の手紙は、まるで何かを恐れたような書き方がされている。
 いや、明確に言えば『七星』を恐れたような書き方なのだ。純粋に、七星に対して無用な詮索をして酷い目に合わないようにと示唆していると思えば、納得もするのだが。
「でも確かに。貴女はどう思っていたのかしら」
「勿論、不思議に思いました。あれだけ立派な御姉様が、自殺するなどあり得ないと思っていましたから、疑問の一つも抱くのが当然だと思います」
「そこは、一族でも意見が分かれている所なの。何せ姉様は当代随一。彼女が家督を継げば、七星は数十年安泰だったでしょうから、彼女の死を惜しむ人も、疑問に思う人もいる。謀殺説さえある」
「謀殺って、そんな」
「ごめんなさいね。七星は血脈じゃなく、その能力で家督を継ぐ。当主が亡くなれば、また様々なところから選定される。当主の家系から外れた家は、分家として別に移されるの。厳しいのよ、七星は。だから、こんな風にして姉妹で母が違うなんてザラにある事なの。当主ともなると、七星におけるほぼ全ての権限を持てる。それはつまり、大日本国を動かす王になるという事。一族間での謀殺は、無い事じゃないの――でも、この一年で、遺言状も見つかり、自殺の線で落ち着いたわ。七星を継ぐという責に、耐えられなかったのではないかと、そういう事」
「曖昧です。誰に宛てられた遺言状にも、動機は書かれていなかったのですか」
「ええ。だから貴女に宛てられた遺言に有れば良いと思っていたのだけれど、期待が外れてしまったわ。あ、そんな言い方は無いわね。ごめんなさい、配慮が足らなかったわ」
「いえ。良いんです。私は、最後の最後まで御姉様に心配してもらっていたと、それだけ知れたなら」
 とてつもない違和感だけがあった。
 それが具体的に何なのか、杜花は口では説明出来ないが、何かがあった。
 そもそも、死んだ人物と同じ顔をした人間の前で、その人物の遺言を読むという異常事態だけでも、相当の状況としてのブレがある。
 更に、この七星二子という人物が、どうもこれだけを話に来たとは思えなかったのだ。
 遺言において、七星市子は七星二子を、警戒している。
 同じ容姿をしていながら、それは根本的に違うものなのだと。
「ああ。ふふ。うん。杜花。嘘はダメ」
 ほら見た事か。やはりだ。
 これは、コイツは、市子と同じような感性を持ちながら、なおかつ邪悪である。
「嘘なんて」
「私は解るわ。姉様が『魔法使い』であったように、私もまたそうなのだから」
 迂闊にも、杜花はその言葉に対して、体をわずかに震わせてしまった。二子は相手を手玉にとり、ご満悦の様子である。
『魔法使い』やら『妖怪』やら『トリックスター』は、元は七星一郎を差す言葉であった。
 若くして立身出世し、七星の中枢に大胆にもぐり込み、数々の功績をあげてきたその手腕はまさに魔法としか言いようがなかったからだ。
 そして更に、その娘である七星市子もまた『魔法使い』であり、彼女を毛嫌いする人々は『魔女』と呼んだ。人の心を見透かし、手玉に取る悪女だと。
 当然、彼女はそのような事を他人様にするような人物ではなかったが、やろうと思えばいくらでも出来たし、何より、一番近くにいた欅澤杜花が最大の理解者であり被害者である。
「これは比喩でもなんでもないの。私も姉様も、強い力を持っていた。お父様においては、悪魔に魂を売っていただの、悪魔崇拝者だのと言われる始末だったわね」
「……」
「最近、この学院で、不思議な事は起こっていないかしら」
 心当たりがあった。七星市子の死後、目撃される『這いまわる黒い影』だ。
 早紀絵の情報では、それを目撃した後、医療保健室……つまり、この学院における出張診療所へ赴く生徒が増えているのだという。
 怖気の走る話だ。荒唐無稽の噂話が現実のものとして少女達の目に映っているとすれば、それはヒステリーであろうし、この閉鎖空間では伝染しやすい。
 しかし、それが噂などではなく、本当に存在するものだったとしたら、杜花としては益々放置してはおけないだろう。その正体如何に限らず、噂の伝染と共に、必然的に杜花の話題も持ち上がるからだ。
 そして何よりも、七星市子が死後に噂で辱めを受けるなど、看過出来ない。
「あります。学院の怪異に結びついた、七星市子の霊の噂が。貴女ではないんですね」
「今日初めて登校したのよ。でも、そう、やっぱり」
 二子は杜花の話に確信を得たのか、小さく頷く。
「やっぱりとは」
「貴女は七星の末席であるし、市子姉様の妹であるから、これは特別よ?」
 そういって、二子は懐から小さな水晶を板状に加工したようなものを、ハンカチを敷いた上に乗せて机に提示する。透明とは言い難い、反射によって何色もの色に見える、とても綺麗なものだ。
「これは」
「いうなれば魔力結晶かしら。うちのお守りみたいなものね。日々力を込めるようにしているの」
「魔力って……あの、私はあまり、ファンタジーは読まないのですけれど」
「あはは。またまた。そういう話は通じないわ」
 グッと奥歯を噛みしめる。とぼけても無駄のようだった。
 確かに、これを『魔力結晶』などと嘯き提示する輩が突然現れたら噴飯もののお笑い草だ。コメディでないならば、精神科か脳外科をお勧めした方がいいだろう。が、杜花はあまり笑えるような認識になかった。
 杜花にはこの物体が何か解らないし、観た事もないのは間違いないが、七星の人間が真顔でそれを突きつけてくるという事実が恐ろしいのだ。
 杜花は他人には明かしていないが、大変残念な事に、人並を軽く飛び越えた第六感がある。
 嫌な予想は大体当たり、不幸な夢は存外当たる。リスク回避に役立ってはいるのだが、如何せんそれがつまるところ、所謂『霊』や『魂』と言われるものにまで視野が及んでしまっている節があった。
 杜花自身、相手が『これは魔法だ』と言うのならば、確実に否定出来るだけの『一般的な感覚』が無いのである。まして、大真面目に、七星の娘が、だ。
 七星市子がそれを用いた場面もまた、目撃しているのだ。
「実はね、七星の子ならこれを複数持っている筈なの。けれど、亡くなった姉様からはこの魔力結晶が見当たらなかった。あまり外に出してはいけないものなの。五つあった筈のものが、四つ見当たらない。姉様がこの学院への通学途中に捨てた痕跡はない。車は防弾で窓も開かないしね。こっそり捨てるには目立つ。だから、つまるところこの学院のどこかに隠したのではないかと、予想しているの」
「それと、御姉様の霊、何の関係が?」
「力とは本人の魂を削って込めるもの。この学院のあちこちでそういった噂が流れているとするならば、やっぱりこの学院のどこかに結晶が隠されていて、それが影響を及ぼしているのではないかしら。そして私は幾つかの仮説をたてた。でも、杜花は本当にこれを観た事が無いみたいね」
「ええ。間違いなく」
「遺言も不思議なのよ。直接貴女に渡るように手配すれば、七星の人間に覗かれる心配なく、心おきなくその心中を吐露した遺言が出来た筈。なのに、わざわざ貸金庫に突っ込んで、私たち宛のものと同じにした。これは、ブラフよ。『杜花にも遺言はしっかり残しました』という事実で真実を隠蔽した可能性が高い」
「どうしてそんな手間のかかる事を」
「……本当の遺言が、貴女に託された可能性があるわ。そしてこの魔力結晶は本人そのものと言える。最愛の妹であった貴女に、託していたって不思議じゃない。でも貴女の話を伺う限りでは、貴女に直接ではなく……遠回しに渡そうとしたのじゃないかしら。貴女は、その隠し場所が示された暗号を、まだ見つけていない」
 違和感が、ほんの少しだけ整合性を持ち始める。何もかもがどこかおかしいこの状況、それを繋ぎ結ぶのが、七星市子が残したものであるというのならば、全て一つにまとまるだろう。
「貴女は、それを探りに来たんですね」
「ええ。何故私に託してくれなかったのか。甚だ不愉快ではあるわ。いえ、不愉快だし、貴女が憎い」
 あっけらかんとした様子が、太陽に雨雲がかかるような暗さに変わって行く。
 杜花は二子の感情をぶつけられ、酷く悲しい想いをする。決して市子からは向けられた事の無い感情を、同じ顔をした妹が、向けているのだ。
「二子さん、止めてください。論理的ではありません。感情というものがその埒外にあるとしても、あまりに理不尽です。私が何をしたと言うんですか。私が市子御姉様を奪ったとでも言うつもりですか? だとしたら、私は貴女が七星の娘であるという事も全て理解して、貴女をはり倒さなければいけなくなります。私が社会的に死のうが、物理的に死のうが、一族が路頭に迷おうが、そんなものを一切合財無視して、貴女に怒りをぶつけなければいけなくなる」
「……――ッ」
 ただ静かに、そのように伝える。相手が理不尽を繰り出すならば、此方もまた理不尽で対応するという態度を示す。七星に敵対して、ただで済むわけがない。それこそ欅澤の一族とて無事では済まない可能性が高い。自分の命など以ての外だ。しかし、だとしても許せないものがある。
 その感情、その人生、その恋心の全てを注いだ女性の死を、まさか人の所為にしようなどと、何があろうとまかり通らない。
「だからやめましょう。悲しいのは解ります」
「貴女にウチの何が解るの。ウチが怖くないの?」
「御家の事情は知りません。私はただ、七星市子の一点のみです。彼女に対する想いが貴女を上回るとか、貴女よりも優れているとか、そんな話はしていないんです」
 二子は――杜花の真剣な眼差しを暫く受け止めていたが、やがて目を伏せる。冷たくなってしまった紅茶を啜り、本当に小さく、溜息を吐いた。
 沈黙が訪れる。カチコチと鳴り響く時計の音の中、二人は長い間何も喋らず、黙ったままだった。
 杜花は改めて二子の考えをまとめながら現状を確認する。
 七星二子は姉の遺言、そして魔力結晶を探すために現れた。
 姉の残したものによって怪異が起きている可能性がある。
 その在り処が杜花の下ではないかと踏んだが、これは間違いだった。
 だが、杜花は間違いなく姉の何かを握っている。
 本来ならば妹の自分に託される筈なのに、赤の他人とはどういうことだと、憤りを感じている。
 このぐらいだろうか。杜花のリスク回避思考が回る。存外に冷静であった。普通の人間なら、魔法の話が入った時点で議論も妥協点も諦めるところだろうが、杜花は違う。相手がそう主張するならどう返すべきかと杜花は真剣に考える。
 判断が決まる。あとはタイミングか。席を立つようなら声をかけ、相手が話すようなら取り合おうと、そのように考える。
 そして最初に口を開いたのは二子であった。
「強烈ね、貴女の視線。多少小奇麗なだけなのに、妙な魅力がある。それになんだか、貴女との会話は、貴女が聞き手であって、圧倒的に情報量が少ない筈なのに、私は勝った気がしないわ」
「勝ち負けを決めに来たんですか」
「うん。だって悔しいじゃない。一番大事なところを他人に持って行かれるなんて。全部吐かせてやろうと思ったけど、どうやら事情が違うみたいね」
「現状においての妥協点を提示しましょう」
「ええ、そうして。そういうの得意そうだし、貴女」
「はい。貴女は私に託されたのではないかとする遺言、そして魔力結晶を探している。私自身は自覚がないにしろ、あの七星市子の事であるから、何かしらギミックがあるのではないかと疑っている。間違い有りませんね」
「うん。そう。貴女には何かがある。貴女に自覚がなくてもね」
「はい。私が思うところ、可能性として高いと思います。余程私のプライベートに干渉するような真似が無い限り、結晶の探索には協力は惜しみません。その理由として、学院の怪異があげられます」
「ふむ」
「学院の怪談と七星市子の死、そして貴女が予測する魔力結晶の影響で、御姉様の悪い噂が絶えません。あれほどの人を、何も知らないで悪く言う。気持ちは解ってもらえると思います。つまり、私はこの不可解な現象を解決し、御姉様に対する侮辱を絶ち切りたい。故に、結晶探しは手伝います」
「遺言はどう?」
「結晶と一緒に隠されていたのならば、考えましょう。別個として用意されていたのならば、公開を否定します」
「ま、落とし所はそのくらいかしら、ね」
 二子は納得したようにして、その白い手を差しだす。杜花はためらった。
「これで良いんですか。だいぶ、私に有利ですが」
「良い。本来は身近な親族だけで解決しなきゃいけない問題に貴女を巻き込んでいるのだから、むしろ破格と言えるわ。私はその条件を呑みましょう。そしてこの契約は確実に履行されるわ。もし遺言がみつかって、何者かが貴女から無理矢理奪おうというのならば、私は必ずそれに対して罰則を与える。私にはプライドがある。そして貴女を信用するわ」
「期間は」
「貴女が卒業するまでで良いかしら」
「貴女方組織で捜索する可能性は? むしろ、それが早いと思うのですが」
「……考えもしたけれど、幾らなんでも女子校にズカズカと不確定多数が乗り込んできて、他のお嬢様方のご両親が許す筈がないわ。七星の信用は重いの」
「私の協力者についてですが」
「それは構わない。好きに見つくろって良い。ただ状況が不味くなるようなら、必ず相談する事。良いかしら?」
「承知です。では、後で紙に書き起こしましょう」
「――ま、私はビジネスウーマンではないから、ね。でも、杜花の誠意が見えて、好感が持てる」
 改めて、差し出された手を握る。ひんやりと冷たく、小さい手。
 力仕事など知らないだろうその手は、一見すれば苦労の知らぬもののそれだが、杜花はもっと別なものを見ていた。この手は物理的に冷たく、そしてその中身までが冷たい。好感が持てる、などとは言っているが、この数十分で心を開いたりなどするほど、簡単な構造ではないのだろう。
 当たり前だ。あの七星の、あの妹なのだから。
「温かい手ね。こうして人と手を繋ぐのは、一年ぶりだわ」
 二子の言葉を信じるならば、自業自得とはいえ、市子の思念は未だこの学院に縛られている。
 誰に触れる事もなく、誰に触れられる事もなく、謂われの無い噂をたてられ、無下に恐れられ、彷徨っている。今日ほど、杜花は自分の六感が鋭かった事に感謝した日はない。
 今までは市子の話題、それに関するもの、それに連なるものの全てを否定してきた。だがもう、その段階にはないのだ。
 噂があり、事実があり、そして妹が現れたこのタイミングで、逃げるという選択肢は既に破棄されている。
 あの仮、とも言える遺言には、二子に関わるなとあった。
 だが現状を省みるに、彼女の敷いた道筋はどうやっても『探索』に向く。
 彼女は本当は、杜花に知ってもらいたい事実があったのではないのか。
「……私もです、ええと、二子さん」
「ニコでいい。モリカでいいかしら?」
「はい」
 絶たねば。そして知らねばならない。
 何故、何故、何故、何故――彼女は杜花を置いて行ってしまったのかを。




 結局、その日は三時間目からの参加となった。
 小等部以来無遅刻無欠席を誇った欅澤杜花の皆勤にとうとう傷がついた。
 杜花本人はさして気にしてはいなかったが、気を揉んでいたのは周囲であり、そして教員だった。というのも、体調不良で無い事は明らかであったからだ。精神的な不調、と言えば勿論そうなのだが、あの時あの場に居合わせた少女達が口々に様々な噂を立て、数時間でそれが尾びれ背びれついて周り、なんだかすごい事になっていた。
 休憩時間ごとに人が群がり、昼休みになると別の学年どころか別の校舎からも来客があり、更にはそれを心配した教育指導の教師が仲介に入り始める始末である。
 覚悟はしていたが、まさかここまでとはと、杜花も呆れ気味だ。
 しかしそれも仕方がない事なのかもしれない。
 七星市子という存在の大きさを示している。
 彼女を慕う人、彼女を嫌う人、彼女の系列企業の人間、彼女のライバル企業の人間、その他諸々、多かれ少なかれ市子に影響を受けている。どうやらソレの妹が、あろうことか一番の『妹』であった杜花に大接近というのだ。
 そしてその日の放課後、更なる衝撃を被る事となった。
「モリカ、貴女何かした?」
「何も。取引はしましたが」
「やっぱ七星は七星だったか」
「強烈に七星でした。御姉様よりも悪い意味で強烈で、悪辣で、邪悪です」
「も、モリカにして言わしめるとは凄まじい」
「でも、やっぱり妹なんです。御姉様の事が大好きみたいで、私を敵視しただけのようでしたから」
「あー……うん。で、なんで私たち集まってんの」
 放課後、寄宿舎に戻ると、皆寄宿舎隣に据え付けられた食堂棟に集合がかかった。帰宅時間はバラバラな為、全ての人間は集まっていないが、約七割が既に食堂の椅子に腰かけている。おそらくは自分の事だろうと、杜花は覚悟していた。
 本来一度寄宿舎を出たら、余程でない限り昼休みか放課後にしか戻れない。忘れ物など論外だし、体調不良ならば医療保健室に詰め込まれるのが当然だからだ。それを大胆にも破ってのけた杜花であるからして、公開処刑も当然と言える。
 やがて生徒が集まったのを確認したらしい指導教員が、食堂の上座で皆を見据える。
「はい。みなさん、静かに。この度はいささか例外ですが、欅澤杜花さん」
「はい」
「不問とします」
「あら。それでは、規律に示しがつきません」
「例外です。他の例は一切認めません。もとより、杜花さんの普段の行い、それこそ小等部以来何一つ問題を起こさず寄宿舎で生活している事を鑑みれば、今回の出来ごとが余程の例外で有った事は、認めざるを得ません。皆さんは、何かご意見がありますか?」
 指導教員の問いかけに対して、杜花の隣に座っていた天原アリスが手を挙げる。
「天原アリスさん」
「はい。今回の問題は、欅澤杜花さんによるルール違反、つまり『寄宿舎閉鎖後は昼休み、放課後以外の出入りを禁ずる』に抵触していますわ。私は杜花さんと教室が同じなので、あらましは聞きました。しかし知らない人からすれば、これは贔屓ととられても仕方がない処置です。ご存じの方……いえ、ご存じ無い方は挙手願いますか?」
 アリスの話に、六名が挙手する。教員はそれを見て、唇をへの字に曲げた。
「……下手な噂は余計な心配を産むだけですね。ここにいない人で、知らない人にこの問題を聞かれた場合、私の名前を出し、私の話である、という明確な理由をつけて、説明してあげてください。この度のルール違反は、やむにやまれぬものです。私は一人間として、一教師として、これは仕方がないものだと感じています。教頭にも許可を得ました。問題有りません」
 教員が咳払いをし、食堂を見渡す。事情を知らない生徒は首をかしげるばかりだが、知っている生徒からすると、まさしく不可避の違反である。
「皆さんもご存じ、七星市子さんには妹がいます。その妹で、本校生徒である二子さんが、丁度寄宿舎が閉まる直前に、杜花さんを訪ねてきました。二子さんがルールを知らなかった事、杜花さんが二子さんを連れて歩きまわった場合に想定される不特定多数の根も葉も無い噂が立つ事を考えれば、杜花さんの気持ちは、推して知るべきだと思います。こればかりは私が何と言える事もありません。いいでしょうか、杜花さん」
「ご配慮感謝致します、先生」
「ただ貴女の言う通り、示しがつかなくなります。今後は無きようお願いしますね」
「はい」
「アリスさん、これで良いですか」
「はい。皆も納得すると思いますわ」 
 どうやら不問になったらしい。隣のアリスを小突いて御礼を言う。アリスは……、少しだけ悲しそうな顔をした。
 ともかく、ここまで大々的に取り上げられたのは初めてであるが、御咎めが無いのなら問題も無い。このまま解散となるのかと思いきや、どうやら様子が違う。
「それと、これもまた、例外なのですが。ええ、解ります。ええ。解りますが、納得してもらいます」
 指導教員はバツが悪そうに、下がった眼鏡を指で上げる。例外が続くとルールが形骸化してしまう。それを教員も当然承知、そして長い間ここで暮らしている生徒達も当然承知の上だ。それは余程の事なのである。やがて食堂棟の扉が開き、外から一人の少女が入ってきた。
「ぶふっ」
「も、モリカ汚い」
 杜花は、お辞儀をするようにしてテーブルに頭をぶつけた。
「どうも、みなさん。初めまして」
「半年前に学院に編入した、七星二子さんです。今日からこの寄宿舎で暮らす事になります。みなさん、仲良くしてあげてくださいね」
 静かだった食堂がざわめき立つ。指導教員の隣に立った七星二子は、その美しい黒髪をさらりと撫でつけ、傲岸不遜にもでかい態度で皆に挨拶する。
「せ、先生?」
「はい、アリスさん」
「い、幾らなんでも。例外がすぎるのではないかしら?」
「手続き上は問題有りません。寄宿舎にもルールはありません。そういう意味で例外です」
「し、しかし……いえ、はい」
 相手が相手である。学院の法秩序、天原アリスも法外の見えざる手には逆らえないらしい。
 杜花は顔を上げ、二子をジッと見つめる。二子はそれに気がついたのか、軽い笑顔で手を振り返した。そのアクションに、上級生から下級生まで、全員が前に隣にとあれこれ話し始める。
「そして部屋の人数調整の為、欅澤杜花さんの一人部屋に入ってもらいます」
「よろしくね、モリカ」
「せ、先生!! あたいあたい!! 私の部屋開けるから! 私杜花の部屋に入れて!!」
 ここで早紀絵が絶叫。即却下された。
「うおぉぉ……なんじゃこりゃあ……これが七星の見えざる手かぁぁッッ」
「サキ、諦めた方が良い事もあります」
「な、なんでそんなに落ち着いて、悟った顔してんのよ貴女」
「貴女もそのうち直ぐに解るから」
「杜花、その隣に居る小蠅は何?」
「蠅!?」
 一体、どんな育ちの違いがあれば、あの完璧超人と同じ顔で絶対言わない事を言えるようになるのだろうか。こんな公然の場で、そのような罵倒はもはや、ルール以前に突飛すぎて誰も想定していなかったレベルである。案の定、指導教員は青筋を立てながら黙殺だ。
「ニコ、友人を馬鹿にしないでください。少しはしゃいでいるだけなんですよ」
「あら、友達なのね。じゃあごめんなさい、その、誰?」
「早紀絵よッたくもう……」
「サキエね。よろしく。で、モリカの隣の茫然としてる金髪は?」
「あっ、ああ。天原アリスですわ。父が御世話になっています」
「はいはい。自人会の天原幹事長ね。今年も宜しくね?」
「え、ええ。伝えておきますわ」
 杜花の問題の解決、そして寄宿舎の新人披露だった筈の場所は、二子によって完全に政治の場へと変化しつつあった。
 少なくともこの場に国会与野党議員の孫娘が三人、県議の娘が二人、市議の娘が五人、官僚の娘が二人、大企業の会長の孫が二人、重役の娘が五人以上いる。うち、七星に連ならないものは、おそらく少ない。そういう意味で、杜花は気楽なものだった。
 アレが寄宿舎で暮らし、まして自分と同じ場所で寝泊まりする事を除けば。
「……では、今日は生徒の食事当番日ではないので、担当者だけ食事棟の準備をして、あとは時間まで解散してください。以上」
 指導教員は、もはや自分の出番はないと察したのか、生徒達を残してさっさと引き下がる。賢明な判断だ。若い女教師だが、この常識外れ達が住まう魔窟においての立ち回りをわきまえているらしい。面倒事はあえて触らないのが正しいのだ。
 指導教員が去ると、皆が二子へと寄ってたかる。彼女はビジネスライクな笑顔を作り、自己紹介する生徒達に受け答えしていた。態度はでかいが、己の役目はわきまえているのだろう。いや、そのデカイ態度もまた彼女の戦略の一つであろう。
「モリカぁ……」
「杜花様ぁ……」
 両脇からお嬢様に縋られ、杜花は何とも言えない顔をする。どう反応しても大体返ってくる話は同じだろう。
「サキ、泣かないで。今度こっそり、貴女の部屋で一緒に寝てあげますから」
「マジで、超嬉しい。もう全部許すし」
「何を許されたのか解らないですけど……」
「杜花様」
「はい、アリスさん」
「私、アレ、超苦手ですわ」
「アリスさんまで超とか言わないでください、なんか古いです。平成の匂いがします」
「超ですわ。私、アレに勝てる気がしませんもの」
「別に勝たなくても」
「秩序が……法が……ルールが……これは、もはや私の手に負えるものじゃありませんわ。ああ、有能な右腕がいれば。有能な右腕が生徒会にあれば、こんなに困る事もありませんのにねえ? あら、こんなところに入会届。しかも、副会長ポストがガラ空きですわ?」
 と、なぜかアリスは制服のブラウスの胸元を開け、胸の谷間から四つ折りされたちょっと生温かい入会届を取り出し、杜花に差し出す。杜花は笑顔で突っ返した。
 ユニークが出来るぐらいの余裕はあるのだろう。
「あンっ」
「ごめんなさい、忙しいので」
「んー……。では、手が空いたら受けてくださる? もう私、杜花様が隣に居てくださらないと心配で心配で」
「生徒会には有能な方々がいるじゃありませんか。わざわざ私なんかの為にポストをカラにしていたら、批判もあるでしょう?」
「総意ですの」
「え?」
「生徒会の総意ですの」
「遠慮します」
「うう……いけずですのね。そうだ、じゃあ私にも何かお詫びのしるしをくださいな」
「たとえば?」
「例えば、私を『妹』にするなど如何?」
 目を見る。
 透き通るような青が魅力的な光を放っていた。冗談は言っていないと杜花は悟る。何故このタイミング、ではなく、おそらくこのタイミングだから、こんな事を言い出したのだろう。
 天原アリスは、どうにか杜花を『姉』に仕立て上げたがっていた。直接的にそのような話は一度も無かったが、アリスのアピールとプロデュースは、その意図とみて間違いない。何故このタイミングで『姉妹』の話をするかと言えば、当然あちらでお嬢様方に受け答えしている二子の影響だろう。
 天原アリスは、七星市子の元妹だ。生徒会も通じてかなり可愛がられた部類に入る。そんなアリスが小等部の頃から見染めている欅澤杜花を、どうにか自分の手元に置きたいと思うのは不思議でもない。
 しかし、その場合従えたい、ではないだろうか。ならば妹になってください、でも良い筈だ。
「逆では?」
「いいえ。私は仕方なく会長になったようなものですもの。本来会長のポストに居たのは、貴女。でしょう?」
「いいえ。貴女はちゃんと選挙で選ばれたじゃありませんか」
「ルールもそうですけれど、私は全体の流れをよしとしますわ。立候補すれば貴女は間違いなく会長だった。私は……その……」
 アリス自らが招いた状況だが、あまり突っ込むのも藪蛇と感じた杜花は、隣で縋るアリスの腰に手を回し、耳元で囁く。今は天原アリスが潔く引き下がれる状況が必要だ。
 杜花は『ガラではないが』と思いつつも、よく、市子にされたように、優しく諭す。
(貴女は立派です。少し強引ですが、物事を論理的に治め、正しい道を引き出そうとする姿勢は、皆に称賛されています。そうでしょう?)
(で、でも……)
(私では貴女の『姉』には役者不足です。私は、素敵な貴女が作る学校で暮らして行きたい、ね、アリス)
(あっ……えと……はい……ご、ごめんなさい)
 スッと、何事もなかったように離れ、杜花は改めてアリスに対し、笑顔をかける。そんな様子を間近で見ていた早紀絵は、大層ご立腹だ。
「なんスかいまの」
「サキもする?」
「はーい」
(サキって、なんかこう、ええと、すけこましよね?)
「罵倒じゃね!?」
 色々賛辞を考えたが、いまいちパッと思いつく言葉もなかったので適当にする。どうやらダメだったようだ。早紀絵は席を立ち、そそくさと食堂棟を出て行った。
 アリスの方を見やる。なんだかポヤポヤしていた。
「あの?」
「あ、はい。御姉様」
「違います」
「んっ……あ、杜花様。その、ええと……私も、御暇しますわね」
「え、ええ。またあとで」
 ぽやぽやしながら、アリスもまた去って行く。喧騒の中、杜花はテーブルに両手を付き、二子に出来た人だかりを呆けた顔で眺める。
 姉。妹。いつ出来た制度なのか、勝手に生まれるものなのか。早紀絵あたりは詳しいかもしれないが、顕著にそれが現れるようになったのは間違いなく市子の影響だろう。
 意地悪な話だが、杜花はアリスが何故言い淀んだのか、その理由は知っている。彼女もまた、彼女の死によって心にポッカリと穴が空いてしまった一人だからだ。その代替え足りうる杜花の存在を、彼女は、たとえあからさまだったとしても、無視出来ないでいる節が見受けられていた。
 他人と重ねるなど失礼な話だが、杜花はむしろ、それは光栄であるし、身に余るものだと感じている。学院において、一大宗教とでも言えるような支持者がいた市子の代わり足り得ると、あのアリスが評価しているのだから。しかし生憎、杜花が今後その位置につける事はないだろう。
「杜花」
 やがて、皆に挨拶を済ませてひと段落をつけただろう二子が、杜花の隣で声をかける。呆けていた杜花は弾けるように反応し、二子の顔を見上げた。
「なんでしょう」
「部屋に案内してくれるかしら?」
「ええ」
 二子を連れだって、食堂棟を後にする。道すがら、丁度寄宿舎に戻った三ノ宮火乃子と出会う。
 火乃子の大人しい顔はひきつり、驚きというよりも、もはや怒気が感じられた。
「三ノ宮さん?」
「……まさか直接上がり込んでくるなんて、品の無い人」
「三ノ宮? ああ、三ノ宮製薬の。七星よ。宜しくね、不躾な人」
 杜花は、小さく頭を振る。七星がいる、という事は、そういう事なのだ。ましてこれは市子ではない。相手がライバル企業の御曹司であろうが、対立議員の娘だろうが、分け隔てなく接した彼女とは違う。間違いなく、火だねであり、ここは火薬庫だ。先が思いやられる。まさしくリスクの爆弾だ。
「三ノ宮さん。ここは唯の女子寮です。ニコも。政治経済も構いませんが、巻き込む必要の無い人を巻きこんではいけません」
「それってただ、杜花がいやなだけよね?」
「そうともいいます。ただ貴女達のような人ばかりではありませんから」
「それもそっか。いいわ。事を荒げても生活しにくいものね。賢いわ」
「解ってくれれば良いんです。三ノ宮さんも、いいですか」
「御姉様が言うなら」
 咄嗟に出たのか、わざとなのか、火乃子は『御姉様』と杜花を呼ぶ。気まずい。二子に視線を移す。何やら邪悪な微笑みで火乃子を見ていた。
「ま、宜しくね、三ノ宮。杜花の部屋にお邪魔する事になったから、いつでもいらっしゃい」
「……ッ。まともな奴が居ないのね、七星は……」
 杜花の記憶にある三ノ宮火乃子というのは、とてもおとなしい少女だ。涙も見せるが、芯は強く、諦める性格でも、卑屈な性格でもない。が、ここに至っては、もはや別人を見ている気分であった。その顔をゆがめ、歯を食いしばり、二子を睨みつける様は、野犬に似る。繊細そうな美少女が台無しだった。
 火乃子は二子を無視し、杜花に頭を下げて食堂棟へと去って行く。
「狂犬ね。ま、三ノ宮のお嬢様じゃ仕方がないかな」
「市子御姉様にはあんな顔しませんでしたけどね」
「じゃあ私か。ダメね、さげすみオーラが出てるんだわ。あまり人と接して暮らしていなかったから、私」
「悪気が無いのなら、良いんです。集団生活で色々と身に付くでしょう」
「案外寛容ね? 貴女も今朝はだいぶ怒っていたみたいなのに」
「インパクトが大きすぎました。貴女の心底を少しでも知ったから、別に怒る事もありませんよ」
「……心底ねえ。あんまり探ると、蛇よりも恐ろしいものが出るかもしれないわよ?」
「マスコットキャラみたいな怖いものなら歓迎します」
「あっはっは。そうね。宜しくね、杜花」
 改めて宣言され、杜花は小さく頷く。
 頭二つ分小さい彼女だったが、やはりその存在感から語感まで、端々から威圧が漂う。本当にこんなもので、この寄宿舎生活が出来るのだろうかと、果てしなく心配であった。編入して半年ぶりの通学、更には寄宿舎の途中入寮。挙句どこの部屋でもなく、杜花の部屋だと言うのだから、その無茶さ加減が良く分かる。
 だが、まだこの程度で済んでいると考えた方がいいだろう。
 多額の出資を行っている七星が本気を出せば、あらゆる要件が無条件で通るに決まっているのだから。もはや七星の理性に期待するしかない。
 早紀絵、アリス、そして火乃子は、この子と敵対しかねない。毎度その仲介に入るのかと思うと、杜花は少しばかり憂鬱であった。しかもこれから、知り合い達には手を借りなければならないのに。
「明日以降、ぼちぼちと、調査をします。進展次第報告しましょう」
「ん。楽しい学院生活になると良いわね。そう、イベント盛り沢山の」
 何故か、当たり前の発言が、二子の口から齎された瞬間、杜花の心は不安でいっぱいになった。
 調べるべき事、知るべき事は多い。
 そして、この七星二子という怪物との付き合い方も考えねばなるまい。
 明日への不安と、多少の期待を持ちながら、杜花は頷いた。



 プロットストーリー1/欅澤杜花周辺 了
 

0 件のコメント:

コメントを投稿