2013年2月22日金曜日

心象楽園/School Lore ストラクチュアル1

 

 ストラクチュアル1/嫉妬と憧憬


 ……。
 小さい頃から美しいものが好きだった。
 煌びやかで、華やかで、賑わいがあり、見るだけで心躍るような景色に包まれていた満田早紀絵は、産まれた頃より何もかもの未来を保証されていた。
 欲しいものは全て手の内にあり、気に入らないものは二度とその眼に入らぬ場所へと移される。
 日本の流通を支える『ミツタ通運グループ』会長の一人娘である早紀絵に転機が訪れたのは、小学四年生の終わり頃である。
「転校? あたいが? なんでさ?」
『両親が』玉のように愛した娘の意思に逆らったのは、それが初めてであった。
 九つにして未来に一切の憂いがなかった早紀絵は何もかもを奪われ、残されたものは必要最低限の教科書とノート、そして文房具、新しく与えられた制服と、メイドが一人である。
 一般人の感覚から行けば、お手伝いが付いてくる事自体非常識甚だしいが、そもそも何もかもを得ていた早紀絵からすれば理不尽も良いところだ。
「満田早紀絵よ。気軽に名前は呼ばないで。話しかけないで。宜しくもしないわ」
 運動場などよりも広い敷地の中に建つ大豪邸から一転、ド田舎の寄宿舎に詰め込まれた早紀絵の不機嫌足るや否や、ワガママ気ままを通して憚らないであろうお嬢様方すら寄せ付けない、酷いものであった。
 授業中勝手にどこかへ行くなど日常茶飯事、時間は守らず、取り決めは破り、悪戯は過ぎ、教員には家柄で脅しにかかる。
 当然、お嬢様方を預かる私立観神山女学院の歴々が、この事態を黙っている訳がない。しかし四方八方と手は尽くしたものの、早紀絵が改善する節は見当たらなかった。
 突然の環境変化に対する不満とストレス。
 名前も知らないクラスメイト達の冷ややかな目。
 親身に、そして丁寧には接するが、決して苛烈な叱り方をしなかった教員達。
 彼女の身の回りの世話を頼まれたメイドも、一か月に一人は辞める始末だ。
『彼女にはこの環境が負担でしかなく、今後悪影響を与えかねない。元の環境に戻して、将来を慮るべきだ』
 そのような声が聞こえてくるのも時間の問題であったが、しかし。
 ある日の事である。
「何をみてるのよ」
 いつものようにワガママに幅を利かせ、皆が体育の授業をしている中、一人で庭を散策している時の事だった。
 庭では小等部の子供達が植え込みを終えたばかりであろう花壇が並ぶ。
 早紀絵に境界線はない。柵はとっくに飛び越えていた。
 植わる花を蹴散らしていると、そこに一人の女の子が立ちはだかった。
 腰まである長い髪。
 白くて汚れ一つ無い制服。
 どこかぼんやりとした眼。その手にはスコップが握られている。女の子は丁度花壇に踏み込まない位置に立ち、花壇を踏み荒らす無法者の行く手を阻んでいた。
「きにいらない。何その眼」
「かまってちゃんね」
 その少女が煽るのが早いか、早紀絵の手は上がった。
 そのまま振り降ろされた平手は、気に入らない女の子の白い顔を、まるでトマトのように赤くする筈であったのだが、違う。
 気がついた時には自分の頬が思いっきり引っ叩かれていた。痛いよりも驚きが先に来る。早紀絵にとって、それは何もかもが無茶苦茶だった。
 殴った筈なのに殴られている。そもそも自分が叩かれるなどあり得ない。
 両親にも、教師にも、友達にも、一度だって暴力など振るわれた覚えが無いからだ。
「あ、アンタ」
「皆で植えたんです。皆で努力して、皆で喜ぶ為に。貴女は一人で生きているの?」
「なにそれ、意味わかんない、ていうか、何、殴ってるのよ」
「民草を踏みつけるだけで、生きて行ける人はいないんです。お婆ちゃんが言ってました」
 女の子は、怒るでもなく、ただ静かにそういう。人を殴りつけておいて、何故それほどまでに冷静なのだろうか、早紀絵はますます混乱する。
 暴力は激情と共にあると、幼いながらにそう感じていたからだ。
「貴女もお嬢様なのでしょう。大きな会社の孫か娘か。貴女のご両親は、下々を無下に扱っているんですか?」
「し、知らない。そんなの」
「扱っていたとしても、それをバレないようにするのが、偉い人の技だとお婆ちゃんから聞きました。貴女は荒らすだけで何も産まないし、何も大切にしていないように見えます」
「だから、何。なんなの、アンタ。キモイって、痛ッッ」
 気がついた時にはもう一発、頬を殴られていた。
 理不尽な暴力が自分を襲っている。
 この意味不明な女の子が、ますます理解出来ない。人はそんなに簡単に人を殴るものなのか?
「言う事を聞かないと、叩かれるんです。普通はそうです。でも、みんな優しくなったって」
「またお婆ちゃんかよ。うう……」
 もう付き合ってはいられない。なんだか解らないが、この女の子は無表情で人を叩きつける。こんな恐ろしいものに出会った事がない。
 柵を飛び越えて逃げようとした次の瞬間には、早紀絵は地面に叩きつけられ、尻もちをついていた。
「ヤダ! 離してよ! なんなの、なんなのもぉぉッッ」
「手伝うから、元に戻しましょう。植え直せばまだ生き返るかもしれないですから」
「や、やだ……こわい……何、何なのアンタ……」
「きっと皆も、貴女が怖かったに違いありません。満田早紀絵さん。欅澤杜花です。宜しくお願いしますね」
 果して、それが同じ年齢の少女の力だっただろうか。この杜花という子は、土塗れになった早紀絵の首根っこを掴み、立ちあがらせる。
 身長は自分よりも少し高いだけ、けれども、まるで地面に落したペンでも拾うかのような扱いだ。
 ワガママ、はきかない。
 逃走は無理。
 謝るなんてとんでもない。
 暴力はもっと無意味。
 満田早紀絵の生きた十年の中で、これほどの理不尽が振りかかった事はない。自分の持つあらゆる手段がこの子には効かないのだ。
 半べそをかきながら、杜花の言葉を待つ。喋れば難しい言葉で反論され、悪態をつけば殴られる。人と相対して、早紀絵は初めて黙り込んだ。
「殴られるの嫌ですか?」
「い、いやよ。痛いもの。こんなに痛いなんて。怖い」
「皆そうしたかったんですよ。特に大人達は、たぶん、このクソ餓鬼、ぶっ飛ばしてやろうかって、ずっと思っていたと思います。でも、大人になると、それは難しくなるそうです」
「な、なんでよ」
「大人になると、守るものが増えるそうです。お父さんが言っていました。この人を怪我させたら、この人に酷い事をしたら、自分達まで大変になるって。貴女だってなんとなく知ってるから、自分の家名で先生を苛めたでしょう」
「……」
「でも、私は出来ます。もし分が悪そうなら、私は自分の頬を殴りつけて、貴女の所為にします。貴女の素行を考えたら、そっちの方が悪く見られるから」
 ……表情の変化はない。欅澤杜花と名乗る子は、淡々という。
 そうして、杜花はハンカチを差しだした。真っ白の、汚すだけで何故か罪悪感にかられてしまうようなハンカチだ。早紀絵は当然、そんなものの意図の裏を読もうとも思わなかったが、実際白いハンカチを汚した事で、何か居た堪れない気持ちになる。
 ここで、杜花は初めて笑った。少しだけ垂れた眼を細めて、早紀絵の体についた土を払って除ける。
「……痛かったですか?」
「うん……」
「ごめんなさい。早紀絵さん。私、怒っちゃって」
 怒っていたのか。あれで。
 言葉と表情の矛盾に、早紀絵の思考が追いつかないが、杜花は心底悲しそうな顔をする。そして段々と、自分がやった事を振り返り、自分がされた事の意味をゆっくりと理解する。
「初めて人に叩かれたの」
「そういう子、多いですよ。みんな偉い人やお金持ちの子だから」
「アンタは?」
「近くの神社の子です。だから、普通のお家なんです」
「普通の家は、叩くの?」
「ウチは叩きます。酷いと板の間に投げ飛ばされます。お婆ちゃんがするんですけれど」
「怖い」
「悪い事をしなければいいんです。したとしても、バレないようにしないと」
「……変な子。スコップ他にある?」
「用意してあります」
「土弄りなんて初めてする」
「皆が来る前に、終わらせましょう」
 欅澤杜花。
 後に七星市子の『妹』だという事が解った。彼女はその威を借りるでもなく、早紀絵の悪行を吐露するでもなく、誰の圧力を借りるでなく、悪童を黙らせた。
 殴られた恨みが無かった訳ではない。初めて受けた痛みを憎まなかった訳ではない。ただ、まるで一人で産まれてきたような振る舞いをし、都合の良いところで自分の家名を使う、そんな小さな自分がもっと恥ずかしく思えたのだ。
 以降、早紀絵は杜花について回った。
 何をするでも、どこへ行くでも、杜花の近くに居ようとした。教員達も杜花に付いて回る早紀絵の大人しさを鑑みて、クラス別けも配慮したらしく、以来、高等部に至るまで、杜花と早紀絵はクラスメイトであった。
 欅澤杜花という不思議な生物は、未だその全容を現していない。
 とにかく彼女は何でも卒なくこなしたし、成績も常に上の中。運動能力は果てしなく高いらしく、長い付き合いの早紀絵も、どこが限界なのかまだ知らなかった。
 そして何より謎なのは、そのおかしな対人能力である。
 早紀絵はたった一度だけ、何故自分を殴ったのか杜花に聞いた事がある。
『周りに振り撒く印象から推測しただけです。貴女を黙らせようと思ったら、暴力に出るのが一番だと思った。オトナが怖かったら、あんなおおっぴらに悪い事しませんもん。現にああして、貴女は大人しくなった。効果的でしたね?』
 人の性格によって接し方を変え、ベストな対応をする。結果自然と人は集まり、敵は減り、恨みごとこそあれど、誰かと真正面で衝突した姿なぞ、ついぞ見せた事が無い。
 無個性という個性、であろうか。
 人によって底を見せ、上を見せ、その実、底も上もまるで見えない。
 だが少なくとも、長い付き合いのある人間には『欅澤杜花』という素を見せているだろう。もしかしたら、それすら作られている可能性もあるが……早紀絵はそれで十分だった。
 ……。

 早紀絵は隣でノートを取る杜花を眺めながら、気分の良い笑顔を浮かべていた。
 もう彼女との付き合いも六年になる。早紀絵は更生以来のあけっぴろげな性格から、なかなかの数の友人に恵まれているが、その中でもやはり欅澤杜花は別格であったし、自覚した頃には恋心すら芽生えていた。
 レズビアンではなく、厳密にはバイセクシャルという訳でもない。
『出来のいい人間』が好ましかった。顔も気にはすれど、人として出来ている人間に非常に引かれる性癖がある。
 欅澤杜花は良く出来ていた。また、完璧ではないのが心くすぐる。杜花自身はもしかすれば、七星市子のような究極完全体を望んでいるのかもしれないが、早紀絵からすると、多少ドジを残した方が可愛らしく思えるからだ。そも、完璧な人間はパートナーなど必要ないだろう。
 ついこの前の話だが、早紀絵は杜花に対する気持ちを吐露している。感触の良い答えは返ってこなかったものの、絶対的に否定している訳でもない、というのは直ぐに分かった。
 アピール次第では、真実の答えは得られるだろう。それが何時かは解らないが、早紀絵には遠くない未来、そんな機会が訪れるのではないかと直感的に思えてならなかった。
「ここから、ここまで。予習しておいてください。号令」
 数学教員の声掛けに、クラス委員長の杜花が反応する。
 皆が静かに椅子を動かし、静かに礼をし、教員も静かに去って行く。
 一連の流れを終えると、クラスメイトの数人が杜花へと集まり始めた。
 クラス委員長はクラス会での全会一致で杜花にきまっていた。早紀絵個人としては、何かと雑務が多い杜花に仕事を増やしたくはなかったのだが、やはり目に見えて人気があり、何でも卒なくこなす万能性を考えると、皆の意見に同意せざるを得なかった。
「杜花さん、実は今度、皆で御勉強会があるのですけれど、杜花さんも如何ですか?」
「今度『花園会』で、野点(のだて)をするの。形式にとらわれない気安いものですから、どうかしら」
 などなど。
 放課後も近いとこういったお誘いが杜花へひっきりなしにやってくる。
 杜花の思考ルーチンを早紀絵では理解出来なかったが、最近はなんとなく、話を受ける受けないの判断をどうつけているのか、感覚的には解るようになってきた。
 最初の誘いはまずバツだろう。
「ごめんなさい、真菜さん。その日はお暇を作れそうにありません」
「ううん。いいの。この前の勉強会、皆にも好評だったんです。杜花さん、教えるのも教えられるのも、上手だから」
「また、誘ってくださいね?」
「――う、うん。もちろん。あは」
 と、杜花は寂しそうな顔で言う。
 実際どう思っているか解らないが、相手はそんな顔が見れて満足だったらしく、断られたのにご満悦で退散して行く。勉強会の類は大概一回置きぐらいだろう。例外もあるらしいが。
「ええと、舞乃さん、その野点は次のお休み?」
「ええ……良い和菓子も持ち寄りますの」
「是非参加させてください。大したものは持ち寄れませんが」
「いいの。野点に華を添えたかったのよ。貴女はいるだけで皆に喜ばれますもの」
「ふふ。ご期待に沿えるよう、努力しますね」
 ニッコリと、杜花は受ける。
 予約を取り付けた茶道部の舞乃は平静な振りをしているが、内心浮かれている事だろう。
 杜花を茶会やら野点やらに招くだけで舞乃の評価は上がるし、何より自分の提案を受けて貰えた事がたまらなく嬉しいに違いない。しかしそのあたり考えてきたな、と早紀絵はほくそ笑む。
 餌で釣る、などというが、まさしく杜花は食べるのが好きだ。
 一般家庭の産まれであっても、長い間このお嬢様方に囲まれていると、様々な高級品を口にする機会が多い為、舌もだいぶ肥えている。良い和菓子、といえば、それこそ日本有数の和菓子職人謹製だろう。
 舞乃と笑顔で手を振って別れた後、杜花は手帳に予定を書き込み、一息ついていた。
 今日はだいぶ少ない方だ。
「やっ、モテるね」
「サキ、和菓子だって。最近洋菓子ばかりだったから、良い機会です」
「太るよ」
「カロリー消費量が多いですし、この通りですから」
 と、悪戯っぽく杜花が腕を組み、胸を寄せて見せる。早紀絵は素直に頷く。
 杜花の運動量は、見た目には解り難いものの、一時の集中力が限りなく高い。その辺りの運動部の女子が悲鳴を上げるような集中鍛錬だ。
 どこの部活に所属している訳ではなく、とにかく自己鍛錬が本当に『鍛錬』の領域にある。もし余計な栄養があっても、杜花の場合胸に行くのかもしれない。
「もませてー」
「まあ、胸くらいなら」
「あ、案外安かった」
「でも湿った雰囲気でやると変な疑いがかかりますし、そうだ、ハプニングを装ったら面白いですね?」
「モリカも大概だなあ」
『満田早紀絵にはそのぐらいが良いだろう』という判断に至ったのか。
 以前はもう少し控えめだったが、最近はスキンシップの警戒が緩い。基本的な杜花の姿勢の、一歩先に早紀絵はいるように実感する。この前の告白が十分に効いていると確信出来る態度の変化だ。
 言質をとってご満悦の早紀絵は、早速メモ帳を開いてメモしてから、次いで今日の予定を確認した。
「帰りのホームルームが終わったら、件の人物に会いに行こう」
「アポイントメントは」
「取ってあるよ。私だけじゃ苦い顔されたから、貴女の名前出したけれど」
「了解です」
 予定というのは他ならぬ『這いまわる黒い影』についての噂だ。
 この『這いまわる黒い影』にも亜種があり『佇む』ものと『歩き回る』ものと『走って迫る』ものなどがある。今回調査に伺う人物が観たというものは『佇む』である。
 佇むはまだいい。走って迫る、はいささか怖すぎる。
 学院のオカルト話に精通する早紀絵だったが、実際のところあまりオバケは得意ではない。
「楽しみにしてたよ」
「誰がです?」
「その子」
「あはは……」
 杜花が苦笑いする。もしかすると、何か嫌な予感を感じ取ったのかもしれない。
 杜花は人並み以上に警戒を知らせる本能が強いらしく、自分の身に降りかかるであろう災厄を事前に察知して避けるのが得意だった。
 この恩恵に授かる事が多々あった為、杜花の警戒には、十分耳を傾けるようにしている。
「ホームルームをはじめます。委員長」
「はい、起立」
 帰りのホームルームの間、隣の杜花はほんの少しだけ、浮かない顔をしていた。



 夕方の冷たい空気が顔を撫でつけ、早紀絵は眉を顰めた。十二月も間近となると、夕方には陽もだいぶ傾いており、この学院は暗闇に包まれる事になる。防犯の為に当然街灯などは幾つもあるのだが、物理的な明りではなく、雰囲気として暗いのだ。なるべく早く済ませる為、早紀絵と杜花は足早に情報提供者の下へと向かう。
 高等部第二校舎から歩いて五分、学院の外周近くにある第一中等部校舎は寄宿舎に戻る生徒達も疎らとなり、閑散とした雰囲気があった。
 とはいえ生徒達は杜花を見かけるたびに、恥ずかしそうにするか、手を振るか、テンションを上げるか、ともかく皆元気である所為で、夕暮れの憂鬱さはない。
「中等部にも人気だなあ。アリスプロデュースきいてるな」
「ねえサキ」
「んー?」
「アリスさんって、私の事好きなのでしょうか」
「……モリカらしくもない。どうしたのさ」
「ううん。ちょっと思っただけです」
 ……杜花らしくない物言いだ。
 基本的に、杜花は人の好き嫌いなぞ口にしない。まして『あの子私に気があるのかしら』などと、まず言わないだろう。それが、これである。早紀絵は冷静を繕ったが、なかなかに動揺する発言であった。
 もしかすると、これもアレ、七星二子の影響なのかもしれない。
 突如現れた七星市子の妹は、強引な手段で杜花に近づき、まして同室に潜りこんできた。どのような意図かは知れないが、あの人物が明るい理由で杜花に近づいた訳では無かろうと、早紀絵は警戒している。それは恐らく、天原アリス、三ノ宮火乃子辺りも同じだろう。
 あの二人が杜花に、恋愛感情を抱いているかどうかは知らないが、早紀絵の覚える危機感と似たようなものを持っているのは間違いなさそうだった。
「アリスは、好きでしょ」
「そうですか」
「好きって言われたら、貴女どうするの?」
「……禍根が残らない繕い方をします」
「いつも通りの貴女ならね。でも、二子が来てから何か、違うでしょう」
 杜花が押し黙る。かなり悩んでいる様子だ。友人として、将来のパートナーとしては、何か助言してやりたいところだったが、生憎相手をフォローする力も杜花の方が上であるからして、大した事は言えない。
 いや、この場合は違うな、と早紀絵は気がつく。純粋に、彼女の懸念の吐露かもしれない。
「ハーレム目指すかあ」
「え?」
「杜花様が皆を囲う。すごいよ、大企業の娘二人と、与党幹事長の娘一人。ああ、歌那多も含めたら更にドン。二子も入れとくかい? あ、二子入れたら世界とれるなこりゃ」
「女だらけで、倒錯的なハーレムですね」
「ねえ、モリカ」
「はい?」
「私別に、貴女に愛人が何人居ようが気にしないから」
「えっと。サキ?」
「貴女は自分の評価を躊躇ってる。では、不肖親友の私が断じるけれども、貴女はね、やろうと思えば、とんでもない事を出来る。貴女が本気で面白おかしい人間関係を築こうと思えば、たぶん出来るよ。政財界揺るがすね、ハッハ」
「……ありがと」
「ううん」
 そのありがとうは、早紀絵のふざけた話に対しての同意ではない。何かに揺れる欅澤杜花という人物を、今ここに繋ぎ止めた事への御礼だろう。正しい回答を出したと確信し、早紀絵は胸を撫で下ろす。
 杜花は、いつも以上に考えているのだろう。
 自分がこのままでいいのか。向けられる好意を、理性から捻出した対応だけで処理していいのか。
 未だにちらつき、そしてとうとう顕現した『七星市子と思しき亡霊』をどうするのか、どう出来るのか。そして同じくして現れた七星二子という、日本政財界の怪物の娘。
 なんだか寂しそうな顔をする杜花の頬に、思わず吸いつきたくなる。
 自分が出来る慰めなぞ、そのくらいだ。
「さて、ついた」
 中等部第一校舎三階。三年三組。
 木製の戸を開けると、教壇近くの窓に、髪を長く一本に結った、大人しそうな生徒が背をもたれているのが解った。杜花が断って教室に入ると、残っていた生徒達が黄色い声を上げる。
「御免下さい」
「け、欅澤杜花様ですわ」
「え、あれが? へえ、背高、胸でか……しかも美人。不公平やなあ」
「わ、わ、本物だ。どうして中等部に、てかここに?」
「はいはい。落ち着きなさい後輩達。杜花御姉様はこの教室にご用事があっていらっしゃったの。お静かに」
 と、従者を気取って後輩達を落ち着かせる。杜花に後輩達を任せ、早紀絵は提供者へと歩み寄る。窓際の少女だ。杜花も知る人物である。
「来たよ。ここは騒がしいから、談話室に行こうか」
「早紀絵先輩」
「ん」
「杜花様、怒って、いませんか?」
「杜花が怒るかいな。御姉様はいつも通りだよ。ほら、こっち見てるぞ」
「ああ、杜花様、ごめんなさい……」
「そういう話は後にしてくれたまへチミ。ほら、行くよ」
 後輩達と戯れる杜花を引っ張り、二階の端にある談話室へと向かう。生徒数の割に規模が大きすぎるこの学院は、とにかく無駄なスペースが多い。この談話室も、似たような部屋がいくつもあるウチの一つだ。今回は事前に鍵を借りた、普段使われない談話室を選んでいる。
「サキ、準備がいいですね」
「さっきの事もあるし、ご褒美が欲しいところ」
「考えておきます」
「サキちゃんテンションめっちゃ上がるですハイ」
「早紀絵先輩、下品ですね」
「こんなものですよ。お久しぶりですね、萌さん」
 中等部三年、岬萌(みさき もえ)。中等部生徒会副会長で、市子の妹の一人だ。
 市子の妹は年齢幅が広く、高等部だけとも限らない。下は小等部の子も存在する。
 どの子も市子の妹であった事を誇りに思っており、市子の悪口など言おうものなら十年の友情も断ち切られかねない程である。
 だからこそだろう。表情は暗い。今から話そうとしているのは、その悪い噂なのだ。
「給湯室でお茶を淹れてきます。お二人はごゆっくりしていてください」
「呼びつけた側がもてなされちゃ困るから」
 といって、早紀絵は鞄から水筒を取り出す。
「あら、本当に準備がいい」
「まあまあ座りなさい岬さん」
「はあ」
「私がやります」
 寄宿舎から拝借した水筒とカップを杜花に任せ、早紀絵はメモの間に挟まれた用紙を取り出し、机に差し出す。簡略化された観神山学院の地図だ。
「今日はわざわざありがとうね。まあ紹介なんていらないから省くけど、さて? 今日伺ったのは他でもなく、貴女が見たっていう黒い影についてだ。私は聞いたけど、杜花にも解るように説明してくれるかな」
 杜花からカップを受け取り、お茶を啜る。事前に概要は聞いているので、今日は細かい話を聞きに来た。早紀絵が無理に聞き出すよりも、杜花が引き出し、直感で判断して貰った方が断然効率がいい。
「お願い出来るかしら、萌さん」
「その前に、一つ、良いでしょうか」
「何でしょうか?」
「杜花様は、この与太話を、信じているんですか?」
 早紀絵としても、そこは気になっていた。あれだけ七星市子の死を見ないように避け続けて来た杜花が、今になって市子の影を追うような素振りを見せている。七星二子が来る直前での出来事も当然あるが、いささか急な判断だったように、早紀絵は思えていたからだ。
「否定したいから探している、ではダメでしょうか。居るなら居るで、私にはやる事があります。貴女なら解るでしょう。市子御姉様の悪霊なんてフザケタ話を放置し続ける苦痛を」
 杜花の口調は少しきつめだ。萌にはそのように対処するのだろう。杜花は人によって態度を変えるではなく対処を変えるのだ。口調は強いが、表情に変化はおよそ感じられない。
「ご、ごめんなさい。杜花様。私、決して、決して嘘なんて吐いてはいないんです。少なくとも、あの影は、私の眼には間違いなく、市子御姉様に見えた。不安で、一人で抱えられなくて、その、噂を、流してしまった形に……」
「なーほど。それで杜花様ごめんなさいなんて言ってた訳か。今日楽しみだったのは、懺悔出来るからだあね」
「サキ」
「あいあい」
「萌さん」
「はい」
「辛かったですね。貴女は御姉様に可愛がられていたから、殊更彼女の死を強く意識していた。不安は不安を呼び、自殺霊の噂と合わさって、貴女の眼には市子御姉様に見えてしまったのかもしれない。それは誰も責められる事ではありません。そして私は決して怒ってなんていませんよ。安心してください。ね、萌さん」
 同情からの肯定、そして相手の心にその手を差し伸べる。
 杜花さんは本当にお上手ですねと、早紀絵は心の中で溜息を吐く。他の誰でもない、市子一番の妹である杜花からの救済だ。萌は顔を赤くし、袖を涙で濡らす。
 怒っていない、は嘘だ。
 この噂に一番腹を立てているのは、間違いなく杜花である。それにどうやら、杜花は二子との接触で、この事件の解決策を手にしているらしい。早紀絵に詳細が語られていないのは、今必要無いからだろう。
「私で良かったら、胸を貸します」
「う、うぅ……ううぅぅうッ」
 萌は十分近く杜花の胸に埋まっていた。萌の頭を撫でつける杜花に対して目配せすると、ほんのちょっとだけ苦笑いし、また聖母のような顔をする。
 ……本来、慰めが必要なのは杜花である筈なのにと、早紀絵はその不自然な光景を目にしながら、唇を噛む。
 幾ら杜花の精神が強靭とはいえ、家族、もしくはそれに準ずる何かであった存在の喪失を、そう簡単に忘れられるわけがないし、無視し続けるなんて事も不可能だ。
 早紀絵自身がそれを買って出る立場にない事が悔やまれた。
「……岬さんや。落ち着いたかね」
「はい、ごめんなさい。その、お見苦しいところを、お見せして」
「岬さんは、私が『観える』のは知っていますよね」
「はい」
「対処法があります。これを持っていれば観える事もないでしょう」
 ……用意が良いのは誰だろうか。杜花が取りだしたのは、実家の神社のお守り袋だ。
 他の誰かから貰っても効果は無さそうだが、杜花からの手渡しなら、この精神的にまだまだ幼い萌を落ち着かせるのに十分だろう。
「あ、ご実家の宗教、大丈夫ですか」
「はい。有難うございます。大丈夫です」
「それは良かった。こんな事の後だけれど、話して貰えますか?」
「はい。あれは、三か月以上、前の事でした。生徒会の仕事を終えて、帰ろうとした時です」
 お茶を一口してから、岬萌は語り始める。概要はこうだ。
 生徒会の仕事を終えた萌は、一度寄宿舎に戻った後、生徒会会議室の鍵を閉め忘れたのではないかと思った。生徒会室は生徒会活動棟にある為、校舎閉鎖とは施錠担当が違う。
 手癖の悪い生徒が通うような学校ではないが、もし物が無くなったりすれば相当の失態だ。食事が始まる前に第二寄宿舎を出て、午後六半時ころ。まだ明るい時期ではあったが、そろそろ陽は傾いている。足早に生徒会活動棟まで赴き、生徒会会議室の鍵をかけて、戻ろうとした時だった。
 物音に気が付き、萌は咄嗟に振りかえる。まさしく、その真後ろに、黒い影はいた。
「生徒会活動棟は、小中高、全ての生徒会が入っていましたね」
「ご存じでしょうが、配置換えはありません。二棟ありまして、第一は小さいので小等部、第二は大きいので中、高等部が使っています……」
「萌さん」
「……は、はい」
 萌は状況を思い出してか、目に見える程に震えている。総毛立つような想いだった事だろうというのは、早紀絵でも想像に易かった。杜花は萌を隣に置くと、右腕で肩を抱き、左手を固く握りしめる萌の両手に沿える。大丈夫だから、という声に、萌は小さく頷いている。
 彼女の恐れはもっともだ。だが、早紀絵はそんな事された事がないので、羨ましい限りと歯噛みする。
「それで、貴女は振り返った。振り返った眼の前に、影があった。それは、どんな様子でしたか」
「……真っ黒でした。赤い目をしていたと思います。眼だけが光っていて、あとは真っ黒で……」
「それが、御姉様に観えた」
「……髪型はハッキリ。顔の輪郭もなんとなく解りました。そのぐらい近かった」
「それ以降は?」
「その時間には誰も近づかないよう、暗黙の了解が出来ていまして、誰も」
 中高、生徒会で丸ごと噂になっているだろうが、外に漏れた節はない。漏らしたのは岬萌一人だろう。天原アリスが強権的に噂を抑えている可能性がある。いや、混乱を考えれば当然か。
「六時半ね。その黒い影は、言葉を発したりはしなかった?」
「口を、口を動かしていたように、思います。私は、何を言っているか聞くどころではなかったので、その場で、腰が抜けてしまって。見上げていたら、いつの間にか消えてしまいました」
 目ざとい早紀絵には、萌が先ほどから太股辺りを締めるような動作が見て取れた。当時粗相をしたのだろう。
「おっかない。ええと、生徒会活動棟で、六時半で、七星市子そっくりで、何かを喋ろうとしていたが、聞こえなかった。こんなものかな。あとは気になる点はあったかい?」
「あとは、這うようにして逃げてきました。私では、このザマでしたけれど、杜花様なら、お話を聞く事も、出来るんじゃないでしょうか」
「ええと、なんかさっきも変な事言ってたけれど、モリカ、観えるって何?」
「霊を」
「そういう設定? 知らないなあ」
「サキには黙っていました」
「なんで!? じゃあ、あれ? ほんとうに?」
「サキ、怖がりじゃないですか。不安そうに怯えるサキの顔なんて、観たくありませんし」
「あ、サキちゃん心配されてたんだ。じゃあいいや。モリカ優しいし可愛い」
 さて、もう付き合って六年になる。早紀絵のツレ、といえば杜花で間違いない。が、まさか今になってそのようなカミングアウトを受けるとは思わなかった。
 嘘だろうか。方便もあり得る。
 神社の娘、という曰くありげな出自に加え『杜花なら有りうる』という評価が彼女にはある。
 が、早紀絵は『設定』と断定する。岬萌に合わせる為かもしれない。
「ごめんなさい、杜花様。本当に、ごめんなさい」
「いいんですよ。それに、噂は貴女のもの一つじゃあなく、複数存在するんです。どれが嘘でどれが本当で、何が真実なのか、私は突き止めたい。怖い事を思い出させてしまって、こちらこそごめんなさいね」
「杜花様、杜花様は……」
 言いかけて、萌は黙る。
 大かた『杜花様こそ不安ではないのですか』といった類の話だろう。誰もがそう思い、そして誰も聞かなかった。欅澤杜花は、己の本心を、誰にも知らせていない。
 聞く立場に無く、聞く状況に無く、そして本人も、話す立場にないと、思っている可能性がある。
「今日は有難うね、岬さんや。あとはウチ等で調べるから」
「もし私でも貴女の恐怖を緩和出来るなら、いつでも話に来てください」
「い、いいのですか? でも、私は杜花様の妹ではないから、逢いに行けば、杜花様の妹達に……」
「生憎、私は御姉様ではないので、妹はいませんよ」
 何故、という顔。
 どうして、という疑問。
 しかし、という憶測。
 然るべき立場に杜花が居ない不自然を覚えているのだろう。そこにある筈の物が無い恐怖だ。現に、七星市子の死後、この学院にはポッカリと穴が開いたような雰囲気があった。そこを埋めて然るべき欅澤杜花が立場を否定しているのだから、その違和感は正しい。
 もはや何も言い出せなかったのか、萌は黙りきってしまった。
 萌に御礼を言い、早紀絵と杜花は談話室を後にする。時刻は午後五時に差し掛かろうとしていた。
「暫く時間を潰して、直接行こうか」
「早い方がいいでしょう。問題は噂の除去ですけれど」
「全部は無理だね。一部はアリスを使おう」
「そう、ですね。恐らく噂を水際で堰き止めようとしたのは、アリスさんでしょう。漏れてしまったものは仕方が無い。私のお話を聞いてくれますでしょうか」
「アリスの場合、貴女の話は議論の態は繕っても、大体肯定するからね」
「アリスさんかあ」
「美人、金持ち、権力者の娘。あれで性格も良いときてる。七星市子とは違った意味で完璧だわねアレ」
「御姉様、というのなら、私なんかよりも、アリスさんだと思います」
「いささか小五月蠅いけれど、ね。でもなあ、私はほらつまるところ、同じ場所に居ても、貴女にしか眼を向けていなかっただけで、市子の傍にはいたじゃない」
「まあ、そうですね。一緒にいますものね、私達」
「妹では無いにせよ、七星市子は観察してたわけさ。アレを観ると、でもやっぱり、アリスじゃあ違うんだよなあと思う。そもそもさ、アリス自身が、貴女の妹になりたがってたでしょう」
「……聞いてました?」
「二子が来た時の? ああ、話してたね。でもそれより前からアリスは、貴女ばっかり観てた」
 杜花が困り顔になる。しかしそれは現実であるし、杜花とて自覚があるだろう。七星市子の妹でありながら、アリスという人物は常に杜花を観ていた。
 完全無欠の七星市子という存在をあがめつつ、その妹、欅澤杜花にも信仰を集めていたと、早紀絵は記憶している。
 ヤハウェとキリストのようなものだろう。
 特にアリスは杜花を持ち上げようとしていた。『杜花持ち上げ』の先駆者はこれまた市子であるから、常々アリスと市子の仲は良く見えたし、何かしら企んでいる姿も何度となく目撃している。
 天原アリスは、今後もしかすれば、この問題に関わってくるかもしれない。早紀絵の思考が回る。
「モリカ、アリスが怯えてるとこ観た事ある?」
「有ります。可愛いですよ」
「あっは、だろうなあ」
 アリスお嬢様が悲鳴を上げて飛び上がる姿を思い浮かべながら、杜花と早紀絵は時間を潰す為に、一度寄宿舎に引き上げた。



「……え、何その装備」
「プロテクターですね」
 早紀絵にはちょっと良く分からなかった。
 寮長の鷹無綾音に時間外校内行動の許可書を提出し終えた早紀絵が、先に寄宿舎前で杜花を待っていると、そこに現れたのは、ただのブレザー姿ではない杜花であった。
 膝と肘に格闘技用のプロテクターがつけられ、手にはグローブがはめられている。
 更に、スカート丈も校則規定よりもずっと捲くられていた。
 背が高く、何を着ても大体様になる杜花であるから、その違和感ある組み合わせであっても、そこまで不自然はないのだが、これから赴くのは生徒会活動棟であって格闘技場ではない。
「私が勧めたのよ、早紀絵」
「あん? 二子?」
 杜花の後ろから、にんまりと笑う二子がひょっこりと顔を出す。
「杜花、協力者は早紀絵でいいのね?」
「学院の怪奇現象に精通していますし、この学院で誰より信用出来ますから」
「私信用されてる?」
「一番信用していますよ」
「うへへ。で、二子やい。なんで杜花武装してるの」
「怪異が相手でしょう。霊障で物理的な攻撃を受けるかもしれないし」
「んん? ねえモリカ、この子何言ってくれてるの?」
「ああ、それはですね」
 と、杜花からこの事件に関する諸問題のレクチャーを受ける。
 詳細は隠している様子だが、早紀絵も踏み込まなかった。七星に足を突っ込んで良い事は恐らくない。
「ま、アンタのお姉さんの問題だしね。で、アンタはモリカを頼ったわけだ」
「色々あるのよ。今日はちょっと用事があるからついてはいけないけれど。モリカ、お願いね」
 さらりと自分の髪を撫で、杜花の眼を観る仕草。それを観た杜花が、少なからず動揺する。
 ああ、観た事のある光景だと、早紀絵は憎らしく思う。わざとか、もしくは姉妹で似た仕草を持っていたのか。早紀絵の記憶にあるところでは、これは市子が杜花にお願いする時のものだ。
「ああそうだ。早紀絵」
「あんね、私ね、一応先輩なんだがね?」
「早紀絵、貴女学院内に詳しいでしょう。あまり人が来ない部屋とか、校舎とか知らない?」
「曲げないのね。まあいいか、アンタっぽいし。そうだな、高等部の元第一校舎」
「ああ、北の外周側にある、ボロね」
「取り壊す予定あるのかないのか知らないけれど、もうだいぶ使われてない筈。何企んでるの?」
「何も。早紀絵、有難うね」
「うっ」
 白く、美しい、まるで穢れの無い笑みが此方に向けられる。腹の中でどんなものを飼っているのか解らない奴だというのに、その容姿は無垢で可憐。透き通る声が耳朶を優しく撫でる。耳元で囁かれた場合、正気を保つのが難しい可能性がある。
 嫌いな女は徹底的に嫌い、なんてものは当然の話なのだが、七星はその範疇に無い奴が多い。
 杜花との付き合いの中、当然早紀絵としては『杜花の付随物』である七星市子との親交もあった。市子が早紀絵を『妹』に誘う事はなかったし、早紀絵が市子を『姉』と慕う事もなかったが、その微妙な距離感の中でも、早紀絵は市子を邪魔に思いながらも、確実にその能力は認めていたし、もし、杜花という存在が居なかったのならば、引き寄せられていたのではないかという懸念もある。
 邪魔ではあったが、嫌いではなかった。嫌えないのだ、あれは。
「モリカ、いこ」
「ええ。じゃあニコ、行ってきます」
「夕食は部屋に運んでおくわ。あら、私ったら、メイドみたいね」
「世間一般だとお母さんです、ニコ」
「あー、そうなのね。ママは家事なんてしないし」
「でしょうねえ。では」
「ええ、気をつけなさい、モリカ。物によっては強烈よ」
 何をどう、気を付けるのか。早紀絵の与り知らない恐怖が、この怪談にはあると考えて良い。
 早紀絵が聞いた話は『姉の悪い噂を立てられるのが腹立つ』と言う事と『姉の隠したものに関わりがあるかもしれない』という事のみだ。強烈、とはどのような意味だろうかと、考える。
 杜花を観て、怪我はしないようにしようと、取り敢えずの答えを出した。
「貴女が強いのは知ってるけれど、実際どのくらいなのかな。大会優勝とかそういうのは解るけど、ルール上でしょ」
「タイマンで人類に負ける気はしないですね」
「どゆこと」
「ここの警備にあたっている国防軍の部隊長さんがいますよね」
「はいはい。選りすぐりの先鋭部隊と聞いてる。部隊長さんは海外派遣で戦闘もしてたわね」
「拳銃突き付けられても負けないくらいでしょうか」
「えぇ……」
 ここで部隊長といえば、国防軍特別派遣部隊の部隊長だ。
 とある理由で良家の子女が通うような学校には派遣されるようになっているが、七星の息がかかるこの学院は、警戒に当たる兵士の質が高い事で有名だ。
 部隊長は女性だが、叩き上げで、レスリングの金メダル候補として名前が挙がった事もある。
 それとやりあうというのはどういうことか。
 何かと謙遜が多い杜花だが、殊格闘技については、かなり自信があるらしい。それだけの結果も残しているのだから当然だが、彼女が下手に出ない話題は珍しい。
「モリカってさ、謎だよね」
「それは自分でも思います。私謎ですね」
 彼女の事をもっとも理解しているのは一体誰なのだろうか。
 候補として挙げられるであろう人物は他界している。殆ど休日以外顔を合わせない家族とて、それは怪しいだろう。何せ毎日顔を合わせている早紀絵が解らないのだから。あえて挙げるとすれば、杜花の祖母の妖怪婆くらいだろうか。
「ええと、生徒会活動棟についたら、私のそばを離れないでください。目的物を捜索します」
「目的物……? ああ、市子が残したものが関係あるかもって言ってたっけ。なんだかますますオカルトだなあ」
「まだ具体的に説明して良いものでもないので、控えますけれど、キラキラ光って綺麗な結晶のようなものです」
「ねえ、それが解っているならさ、別にこの時間に乗りこまなくてもいいんじゃない?」
「黒い影が居て、初めてその遺物の存在にも確証が持てます。退却するハメになったら、昼に来ましょう」
「サキちゃんは昼探したいですねハイ」
 黒い影が何ものなのかを確認しない限り、二子と杜花が言う遺物の有無もしれない、と言う事だろう。逆にいえば、その黒い影が市子ではなかった場合、本格的に誰も対処しようがないのだろう。欅澤神社にお祓いを要請せねばなるまい。
 躑躅の道を抜け、中央多目的広場までやってくる。時間外活動申請をしないと閉寮の時間が近い為、人は疎らだ。陽もすっかり落ちて、辺りは薄暗い闇に覆われている。
 ここが異物の侵入を許さない隔絶された結界の中だと知っていても、ふと暗がりから何かが飛び出してくるのではないかという恐怖は拭えなかった。
 多目的広場から西に抜け、生徒会活動棟を目指す。が、途中で人影に出くわした。
「君達、そろそろ閉寮の時間だよ」
「警備員さんですね。御苦労さまです。これ、申請証です」
「……第一寄宿舎の欅澤杜花嬢と、満田早紀絵嬢だね。暗いから足元に気を付けて、用事がすんだら直ぐ戻るんだよ……って、プロテクター?」
「あ、はい。人に言うのが憚られるような、女性が観たらショックを受ける格闘鍛錬をするので……部隊長さんに『欅澤杜花がプロテクターつけて歩いてた』っていえば、たぶんなんとなく察してくれると思います」
「そう、そう。私は付き添い」
「そ、そうかい。そら頼もしい。気を付けてね」
「はい、ありがとうございます。失礼しますね」
 巡回の警備員だ。この学院では珍種とも言える男性である。印象の良い笑みを浮かべて彼は去って行った。
「新しい人かな。結構良い男だね」
「警察警備の方ですね。国防軍の方より配置換えが多いみたいで」
「なるほど」
 総勢六十名近い警備員の半分が警察、半分が国防軍となっている。利害の折り合いをつけた結果で、常時双方から十名ずつが学内警備に辺り、緊急時には学院の直ぐ傍に立てられた寮から武装特務兵として突撃してくる。その実力は折り紙つきで、並の暴漢など屈服させるのに数分も必要ないだろう。
「物騒なこった」
「内外共産勢力による占拠事件が後を絶たなかった時代の遺産といえばそうですけれど、頼もしいですし」
「そういえば過去、校門前で一人射殺されてたね」
「相手の詳細は伏せられていましたから、問題にすると問題が起こるような人だったのかもしれません」
「なるほどなあ。ああ、そういえば有るね、校門の拳銃男って怪談」
「それは物騒な……ああ、つきましたよ」
 学院にはびこる各種怪異の話などしていると、会話に一区切りつく頃に丁度目的地に辿り着いた。
 鉄筋鉄骨コンクリート造で一階建が一棟、二階建が一棟。ちょっとした田舎の役所とも言える規模だ。西を向いて左手にあるのが小等部生徒会用、手前石段を上がって右手にあるのが中等部、高等部生徒会用である。
 もちろんその扉は固く閉ざされているが、鍵を管理する岬萌から事前に合鍵を借りている。杜花が周囲を警戒、人気が無い事を確認して、早紀絵が鍵を差し込み、扉を開いて素早く中へと入る。
 基本的に、学院内で警備システムが働いているのは、重要データのある職員棟や無用なアクセスを防ぐ為の通信学習室、高い機材が揃っている医療保健室などだけで、普通の校舎や部活棟などにはシステムが入っていない。
 それも当然で、外周は学院の雰囲気を壊さないように繕われたレンガの高い壁で覆われており、レンガの中身は特殊合金製の壁だ。壁の頭頂部にはセンサーと電流が走っている。
 東西南北の門は警備員が防備し、認証(外来者は事前受け取り、生徒、教師、用務員、警備員などは制服に縫い込まれていたり、カード式になっている)されていない人間が通行した場合即警備システムが作動する作りになっているので、敢えて中を厳重にする必要がないのだ。
 そも、生活と一体化しているこの学院の場合、あちこちカメラを置くと、生徒達のプライベートが侵害されてしまう。
「カメラとか無かったっけ」
「監視カメラは外の通路だけでしょう。ほら、生徒達のプライベートを云々」
「校舎には無いのよね、おっかなびっくりだわ。見つかったら処分されるかしら」
「見つからなければいいんです」
「ああ、悪い事はしない方がいい、するんだったらバレないようにだっけ。あのビンタは強烈だった」
「サキって、たまに殴られたそうな顔しませんか?」
「ど、どこのマゾヒストよ私は……ライトつけるよ」
 高光度LEDライトの幅を絞り、廊下の先まで照らす。
 現在時刻は午後六時二十五分。岬萌が影を観たという時刻まであと五分だ。
 白い壁に光が反射して、辺りをぼんやりと照らす。正面には下駄箱、そこを抜けると壁があり、左手は行き止まり、右手をまがって左を向くと、まっすぐ廊下が続いている。
「窓は……外は石垣だったね。ならだいじょうぶだ」
「一階は中等部ですね。手前から準備室、会議室、自治風紀委員会、広報委員、体育委員、給湯室、文化委員、生徒会三役室(会長、副会長、書記)、トイレ、そして正面に非常出入り口で、隣に階段。上は二階と同じ構図で高等部です」
「一年前から変わってないか。ここ入るのも久々だ」
 市子が居た時代は、良く来ていた。生徒会に散々と誘われて入らなかった杜花ではあったが、市子がここで仕事をしていた為に、何度となく訪れている。当然早紀絵はそのお供だ。
「ここまで入ってしまえば」
 そういって、杜花は廊下に飾られた小さな机に近寄る。机の裏側にはどうやら穴があるらしく、そこに手を突っ込んで数秒。何かを取り出した。
「マスターキーです。秘密にしてくださいね」
「委員会室ごとのマスターか。よくそんなもの、管理されずにあるね」
「市子御姉様が作ったんです。鍵の管理帳外のものなので」
「案外ザルだなあ、ここも」
「所詮生徒が使うものですし。高価な私物持ち込みなんて殆ど無いのに、盗られるものもなにも」
 時計を観る。丁度頃合いだ。
 岬萌の話を聞く限り、一階の生徒会会議室を出た後、後ろに居たという。目の前の会議室を照らすも、何かしら怪しい点はない。そして先ほどから杜花はまるで警戒している節がない。恐怖に繋がるような予兆を感じていないのだろう。
「中に入ってみましょうか」
「う、うむ」
 杜花が鍵を開け、会議室内に入る。
 正面には黒板、教室の真中には授業で使う机ではなく、調度品らしい大きな机が坐し、椅子がそれを囲っている。コンクリート製の部屋には多少似つかわしくない。
 早紀絵は右に左にとライトを動かすも、気になる点はなかった。
「その遺物とやら、どの部屋にあるかとか、検討はついてないのかな」
「ここよりも、二階の高等部生徒会三役室の方が怪しいと思いますけれど」
「今はアリスの私物が溢れてそうだが……」
「そこだけ懸念しています。もし机の中で、鍵がかかっていたら……アリスさんに協力願わないと」
「ん? それはアリスが遺物持ってるってこと?」
「本人は知らないでしょう。机は受け継がれていますから、どこかに、ほら、この鍵みたいに」
 隠されているのではないか、という。
 そうなってくると、本格的に夜にここに来る意味がないのではないだろうか。杜花の考えがいまいち解らない。そんなに黒い影、なんていう禍々しいものに出会いたいのだろうか。
 もし本人の霊などであった場合、杜花はどうする気なのか。
「引き上げた方がいいんじゃないかな。モリカ、貴女の嫌いなリスク、時間ごとに負ってるよ」
「今回の事ばかりは、リスクを気にしていられません」
 顔は見えなかったが、どことなく言葉尻に焦りを感じた。ここで焦り。何かを感じたのかもしれない。
「二階に行きましょう」
「うん」
 会議室の鍵が確実に締まった事を確認してから、二階へ昇る階段までやってくる。窓の外は直ぐ石垣になっている為、光源は少ない。教室側ならば外の光も入るだろうが、この階段前は近くの扉も光避けのテープが貼られており、窓も無い為真っ暗と言って良い。非常口を示す非常灯すら切れている始末だ。
 ライトで階段を照らしながら、二人手を繋いで、ゆっくり上がって行く。
「くら、うう……」
「外で待っていますか? すごく震えている様子ですけれど」
「も、モリカが進んで手握ってくれる事なんてないから、が、我慢する」
「言えばいいのに」
「え、いいの?」
「はい」
「ちょっとやる気でたし」
「ふふ、ゲンキンですねえ……む」
 踊り場を何事もなく通り過ぎ、二階に上がろうとした時、杜花の手が強く握られる。
「な、なに」
 ――『カコッ……――』
 同時に、異音。
 咄嗟にライトで二階部を照らすと、廊下の影から『黒い何か』がはみ出していた。
 髪、だろうか。
 長い髪らしきものが、壁の陰からゆらゆらと揺れる。それはやがて壁を伝い、古い建物に生い茂る蔦の如く広がって行く。
「ヒッ」
「……」
 手を離し、杜花が率先して前に出る。するとそのはみ出していた影は、ずるずると何やら音を立てて引き下がって行った。得も言えぬ恐怖を感じた早紀絵は全身を尖らせて硬直する。
 いた。
 何かが居た。
 それが噂される黒い影なのか、はたまた別物なのかは解らなかったが、少なくとも、あのような動きをするものを人間とは言わない。まさしく怪異そのものだ。
 頭に血が回らなくなる。恐怖で言葉も怪しい。
 杜花を呼ぼうと口をパクパクするが、いまいち出てこない。
「サキ、大丈夫ですか」
「あくっ……あ、な……あかっ」
「大丈夫です。私が居ます。サキは何一つ心配いらない。少し怖い目は観るでしょうけれど」
 杜花に引っ張られるようにして階段を上り、先ほど影がいた場所まで来る。視線の先はずっと闇だ。
「な、長い間さ。この学院でさ、暮らしてるけどさ、ああいうのは、流石に、はじめて、みた」
「霊っていうのは、もっとぼんやりして観えるものですけど、濃いですね」
「じゃあ、あれ、なに?」
「恨みが強いと、色濃くは観えるかもしれませんね、普通の人も」
 何故、あんなものを目撃して、この子はまるで動じないのだろうか。影も気になったが、このあまりにも恐怖心の薄い杜花も余程気になる存在である。だが、早紀絵は口にしなかった。口にすれば恐怖が増すし、杜花にも嫌われるのではないかと、何となしに思ったからだ。
 二階のトイレを通り過ぎ、生徒会三役室に辿り着く。
 早紀絵は今すぐにでも引き返したかったが、杜花はむしろ、先ほどよりも積極的だ。目的の黒い影がいる確証が取れたのだから、当然と言えばそうだが、とても女子高生の胆力でないのは疑いようもない。
 三役室の鍵を開け、中へと失礼する。
 中等部の会議室とはまるで作りが違う。
 正面は窓を背にした会長席。木製の重厚な、まるで会社役員が座るような椅子に机である。
 右手には副会長と書記の机、これは多少グレードは下がるものの、それでも立派な手ぬかりない造りのものだ。
 左手には書類や書籍をしまうガラス戸の付いた棚が各種並び、学院の歴史の長さと観神山女学院の生徒会という信頼の強さがうかがえて見える。
 何度も訪れた場所。
 訪れるたびに、会長席左手にある接客用のソファを占拠して、市子と杜花と早紀絵、そしてアリスの四人が、詰まらない話に華を咲かせたものだ。
「一年ぶりですね」
「貴女はずっと……ここに来るのは嫌がっていたからね、アリスに呼ばれても拒否したし……」
「そして、何かあります」
「……直感?」
「経験上、この類の直感はまず外れた事がない。彼女が自殺した前日は……確か……」
 そういって、杜花は天原アリスが庶務をこなす会長机に向かう。しかし、その机に手をかけたところで、躊躇った。
 ここはもう七星市子の場所ではない。
「……アリスさんに許可を得ましょう。明日ですね」
「うん。そうしよう」
「ええ」
 そういって、杜花が早紀絵の隣を通り過ぎる。
 が、十歩ほど離れたところで、杜花は突然振り向いた。
「モリカ?」
「サキ」
「あい」
「動かないで」
 杜花の言葉は慎重だった。言葉一つ違えれば大変な事になってしまう、そのような口ぶり。
 瞬間、早紀絵の背中を言い知れない寒気が襲う。
 全身が粟立ち、言葉に出来ない恐怖から、その場にしゃがみこんでしまいそうだった。だが、それは出来ない。杜花が見つめている。早紀絵、ではなく、早紀絵の後ろだ。
「動かないで、振り向かないで、眼をずっと此方に向けて。私を観ていて」
「あ、は、う、うん。モリカ、観てる。今日も、可愛い……ハッ……」
 何かが背中を撫でる。
 下から這い上がるような『手』は、やがて肩にまで昇った。これは、なんだ?
「モリカ」
「うん。うん」
「モリカ、後ろ、何、いるの」
「さあ。これはなんでしょうね。貴女、どちらさまですか」
『……――カカカ……――ココココ…………カコ……カカカ……コ……』
 肺から空気が漏れるような音に、人の言葉が混じって聞こえる。
 すひゅぅすひゅぅという息使いが早紀絵の髪を揺らす。
 それが若いのか、老いているのか、どんな声なのかは、解らない。
「サキ、眼を此方に向けたまま、一歩進んで」
「あい……あい」
 震える膝が崩れてしまわぬように耐えながら、一歩進む。
 気配がほんの少しだけ遠退いた。もう一歩進む。
 段々離れているのが解る。慎重に、杜花の全てを信じて、歩く。
『カカカコココ……――ウッウッ……ウッウッ……ウッウッ……――』
 泣き声か、否か。早紀絵は未だ杜花から眼を放さない。それがどんな形をしているのか、どこから声を出しているのか、一切不明だ。
 漸く、十歩進み、杜花に到達する。全身から嫌な汗が噴き出る。杜花は早紀絵の手を握り締めてから、後ろへ行くよう指示した。
 杜花の陰に隠れて、そして、今まで自分の後ろでうめき声をあげていた何かを、目視する。
『ガガカカコカコカコカコ…………アッオッアッオ……ネッネッカッコカコ……――ウッウッ……』
 それは口である。
 窓の外から漏れる多少の明りを背にしたそれは、全身はこの学院の生徒らしきフォルムだが、全てが影で覆われている為明確な線がない。
 兎に角黒い。
 黒いが、その顔と思しき部分は全て、口。額から顎まで全て口だ。
 ぶ厚く色の悪い唇、白く大きすぎる歯が並び、赤い舌らしきものがうねる。それが、カコカコと、歯を打ち鳴らしている。
 早紀絵の全身が総毛立つ。殆ど泣いていた。これ以上動ける気がしない。頼みはただ杜花だけ。
 杜花の肩に縋りつき、ただ震える。
 これはなんだ。
 一体どんな造型だ。どうしてそんな形になった。いや、違う。そもそもなんだこれは。こんなものが存在するのか。霊が観えるという杜花は、これを毎日観ているのか? 何故今観える? 早紀絵はオカルトこそ好きだが、霊らしきものに出会うのはこれが初めてである。それが今日、今になって、何故観えるのか。観えないでほしかった。
「サキ、御姉様に、観えますか」
「わか、わかんな、わかんない。でも、髪とか、ほら、揺れて、あの長さ、形は、市子に、観える……でも、話と、ずいぶん、違うじゃない……?」
「……勘違いなら良かった。ただの噂なら良かった。私も、そう観えます」
「……モリカ……?」
 ぎゅぅと、総合格闘技用のグローブを握り締める音が聞こえる。杜花が怒りに震えていた。
 一体どんな精神構造をしていたら、これに恐怖ではなく怒りを覚えられるのか。
 早紀絵は、杜花とは違う人間だと常々実感していたが、杜花はその『違う』の範疇にはいるような人間だろうか。どうしてそう純粋に怒れるのか。
 恐怖のあまり吐きそうになるのを堪える自分とは、形が人間として同じだけで、まるで違うものなのだと、改めて認識する。
「ひふみよいつむなやこと」
 杜花が何かを呟く。声に出して一度、口の中で数度。
 早紀絵の中のオカルト知識に照らしあわせ、それがひふみ御祓であると解る。実際効果があるものなのだろうか。
 杜花が構える。構えてどうする気だろうか。霊を……物理でどうにか出来るのだろうか。
 再び影に視線を合わせようとするも、しかし、そこには既に影がない。
「サキ、部屋を出て」
「う、う、うん、うん」
 一目散に部屋を飛び出し、鍵をかけ直す。周囲を警戒していた早紀絵は、まだその脅威が去っていない事を確認し、杜花の肩を叩く。
「廊下、奥、いる、いる……ッ」
 廊下の奥に、噂通り『佇む』影がうっすらと、気配を残している。
 瞬間、何かが飛来し、二人の脇を通り過ぎて廊下にガシャンと音を立てて叩きつけられた。
 ライトを向ける。
 そこにあるのは、表彰状を飾った額縁だ。横凪ぎに飛んだのか、ガラスこそ砕けてはいないが、罅が入り中身が飛び出していた。七星二子の言葉を思い出す。霊障とはこの事だろう。
「下がって」
 杜花の後ろに隠れる。
 杜花は、両足を右自然体に捌き、拳を握りしめて姿勢を取る。しかしそれに何の意味があるのか。この暗闇では、何が飛来しても対処しようがない。
 通常の人間ならば。
「右」
 杜花の右拳が小さく放たれる。
 まるでそこに吸い寄せられるように飛んできたのは、掃除用具。モップである。鉄製の部分がまっすぐ、此方に飛んできたものを、杜花が叩き落としたのだ。それは勢いよくはじけ飛び、委員会室と廊下を隔てる壁に激突した。眼を凝らせば、半ばから折れ曲がっている。
「え、ちょ」
「正面」
 同じく、今度は自在箒だ。
 まるで投げやりのように飛んでくるこれらは、いくらなんでも直接ぶつかれば痛いでは済まない。いや、それも恐怖だが、目の前で『何かをしている』杜花は、ますますもって異常である。
 正面は窓の外から入る僅かな光のみ、遠くに影らしきものは見受けられるが、肉眼で飛来するものを叩き落とすには暗すぎる。
「モリカ、モリカ、にげよ」
「……まだ、まだ確認してない。まだ、ちゃんと、見ていない。口の化け物? 御姉様? 頭にきます」
 冷静に、冷徹に、そのような言葉を紡ぐ。
 いつか、早紀絵のワガママを叱った、あの時の杜花のように。言葉と表情と行動がまるで一致しない欅澤杜花という何かだ。
「モリカ、お願い。いこ、ねえ、いこう」
『カカカコココ……――ウッウ……ウッウッ…………トッウッウッ……―――……ウッウッウウウウウウウウウ』
 どうすべきなのか。
 何が正しいのか。
 どこを主張すべきなのか。
 早紀絵は混乱の局地にあり、しかし、行動は間違いなく、逃走という選択肢を向いた。杜花の袖をひっつかみ、階段へと引っ張る。
「モリカ、聞いて。今は逃げよう。お願い。お願いだから」
「――……」
 杜花が静かに頷く。後ろを警戒し、追ってこない事を確認してから、階段を駆け降りる。
 急激な運動と恐怖で必要以上に呼吸が乱れる。階段を駆け下り、玄関を目指す。
 廊下の先には――いない。
 そのまま突き進み、転がるように外へと飛び出した。
「はあっ、はあっ――、鍵、鍵閉めるから」
 施錠。
 そして生徒会活動棟から引き下がる。二階の窓からは、うす暗い影の化け物が、どこか恨めしそうに此方を見下ろしていた。



「あら……どうしましたの?」
 蒼い顔をした早紀絵と、珍しく不満げな表情を残したままの杜花を白萩で出迎えたのは、ポットをお盆に乗せて階段を上がろうとしていた天原アリスであった。
「杜花様、ずいぶんな御恰好ですわね」
「失礼。色々あったものでして。今からどちらへ」
「ええ、お茶でも飲みながら予習を、と思ったのですけれども」
「お忙しいところ申し訳ありませんけれど、少しお話したい事がありまして」
 どうやら、杜花は早速アリスに事の詳細を話す選択をしたらしい。
 つい数分前まで、明らかに常軌を逸脱した怪異を目撃し、あまつさえ交戦までしたというのに、どうしてそう物事を効率の良い方に見つめられるのか。
「わ、私も。アリス、ごめん、埋め合わせするから、モリカの話、聞いてくれるかな?」
「早紀絵さんまで、そう仰るのなら、まさか私が否定するわけにもいきませんわ。どちらへ」
「私の部屋にお願いします」
 主観で見れば、先ほど体験した出来事は、心の底から取り乱して当然である。
 己の常識を疑い『当たり前』を見つめ直すに十分すぎる程のインパクトであっても、杜花としては驚愕に値しないのだろうか。
 杜花と二子は、早紀絵の知らない真実を知っている。それがどういう原理で起こっているのかも把握しているかもしれない。だとしても、それを科学的に証明出来るような事例ではない。
 が、恐慌状態に陥らない杜花に救われている事実がある。そして何より、欅澤杜花という人物が、今日初めて、素顔を見せたような気がしてならないのだ。
 今は従おう。杜花はしかるべき時に必ず説明をしてくれる。
 早紀絵は精一杯好意的に解釈し、杜花と同様、効率的な思考に頭を回す。
「プロテクター、外すね」
「……サキ、ごめんね。取り乱してしまって」
 ああ、と頷く。
 やはりあれが『素』の一部なのだろう。
 二階に上がり、杜花の部屋にお邪魔する。二子は……どうやら居ない様子だ。サロンかお風呂でしょう、という杜花の話に納得し、いつも寛いでいるベッドの手すりに背をもたれ、お気に入りのクッションを抱え込む。杜花は二子の椅子に、アリスは杜花の椅子に腰かけ、居住まいを正す。
 焦って時間も気にしていなかったが、どうやらあれから三十分以上経過しているらしく、時刻は十九時を回っていた。
「お二人とも、少し汗をかいていますわね。外に出ていたみたいですけれど。杜花様の格好から察するに、何か秘密特訓でも? ああ、総合部のヘルプですの?」
「それならばどれほど気が楽だったでしょうね。アリスさん」
 そういって、杜花はあろうことか、岬萌に借りた鍵をアリスに差し出した。
 管理者以外に鍵を貸すなど、ルール違反も甚だしい。杜花が自らリスクを背負っている。
 早紀絵の額に冷や汗が流れた。アリスはどう判じるのか。
「生徒会活動棟の鍵、ですわね。誰かが落としたのかしら」
「訳あって岬萌さんにお借りしました。強引に借りましたから、責は私に」
「……杜花様、自分の言っている事を、理解して……いますわよねえ。もう、短い付き合いではありませんもの。貴女が自ら違反を犯し、なおかつそれを責任者に付きつけている、そんなとんでもないリスクを敢えて顧みず背負い込むには、余程、ええ、余程の意味がある。お聞きしますわ」
 アリスは、蒼い眼をまっすぐ向け、毅然としていた。それもそうだ。実質、早紀絵よりもアリスの方が杜花との付き合いは長い。欅澤杜花という人物が、どのようなものかある程度把握しているのだ。これは余程の事である。
「黒い影」
「……性質の悪い噂ですわね。聞くたびに怒りを覚えますわ」
「生徒会活動棟」
「岬萌さんですわね。ええ、伺っています」
「影に逢ってきました」
「――似ていませんわ。似ていない。あれは違う。違います」
「私には、色々事情があります。まだ、お話出来る段階にない為に、アリスさんにも全てはお話出来ません。あれは恐らく市子御姉様です。どうしてああなってしまったのか、その理由は知りませんが」
「貴女――ッッ」
 杜花の静かな物言いに、アリスが激昂して椅子から立ち上がる。それは怒りであろうし、絶望にも似ているかもしれない。
 欅澤杜花の口から、そのような言葉を聞きたくはなかった。そう言いたいのだろう。
「アリスさん。落ち着いてください。私は、誰の敵でもない。私が、貴女の気持ちを察してない訳もない。解ってください。お願いします。アリスさん」
「けれどもっ! まさか貴女が、貴女がそんな事を言うなんて!」
 あの天原アリスが、大声を上げている。彼女を慕う人物が観たのならば、絶句は必定だろう。
 大らかで、適切な時に大雑把で、議論が好きで、人の意見を聞くのが好きで、相手を立てる事を知り、自らを示す事が上手い、そんな彼女が欅澤杜花と言い争っている姿など、他の誰が知るだろうか。
 早紀絵は口が裂けてもこの光景を誰にも言うまいと、心に秘める。
「アリス。察して。お願いだよ……お願いだから……」
「さ、早紀絵さん……そんな、涙ぐんで……ああ、もう。はい。解りました。説明してくださいな」
「今、私とサキは、黒い影について調べています。私の気持ちの整理もありますし、ニコからの要請もあります」
「七星二子からの……?」
「市子御姉様は、どうやら、この学院に何かを残した様子なんです。オカルトじみていますから、信じられないと、思います。けれどもその、遺物があの黒い影に関わっている可能性がとても高い。いえ、ほぼ間違いない。遺品の回収、という名目、そして私が、市子御姉様の悪い噂を絶ちたい、という思惑です」
「……」
 アリスは親指の爪を噛む。信じられない訳ではない、と言う事だろう。
 先ほどの似ていない、発言から考えるに、彼女も黒い影を目撃したのだろう。
「居ました。たぶん貴女も見ている。そして、居るという事は、遺物があるかもしれない」
「……それを確認する為に、わざわざ夜に生徒会活動棟に赴いたと、そう言うんですのね」
「貴女を巻き込むつもりはなかった。けれども、そうはいかなくなっている」
「時間がたてば、貴女が全て、説明してくださるかしら?」
「解決したあかつきには、必ず。私も、深くは解らない」
 沈黙。
 二人は視線を外さず、長い間見つめあっている。早紀絵には無理な芸当だった。
 市子という巨大な存在を下支えした二人の、言葉の無い会話。それは早紀絵にとって羨ましくあり、妬ましくある。
 しばらくの後、杜花が鍵をアリスに返した。
「被害は?」
「賞状の額縁が一つ。あと、掃除用具が数本使い物にならないでしょう」
「飛んで来たんですのね」
「叩き落としました」
「あれを叩き落とすって……も、杜花様は本当に、訳が解らない。はあ、もう、ああ、仕方ないかしら」
 アリスが一つ、大きく溜息を吐いた。納得してくれるらしい。考えれば当然かもしれない。
 市子の『妹』達は個性は強いが、殊市子の事に関しての結束力は半端ではない。
「ごめん、アリス。まさか初日からこんな事になるとは思わなくて」
「岬萌さんのお話を、私がもっと聞いてあげていれば、外へ話が漏れる事も無かったでしょう。これは私の落ち度ですわ。被害については、大した事が無さそうなので、明日の朝直ぐにでも工作しますわね」
「それと、一つお願いがあるんです」
「ええ、ええ。仰って下さいな」
「遺物は、生徒会々長席にある可能性が高い。見せて貰っても、良いでしょうか」
「ええ、晒して不味いものなんて入ってませんわ……ああ、早紀絵さん」
「なに、かな」
「少し出て頂けるかしら」
 事も無げに、アリスはそのように言う。杜花にもそうしてくれと頷かれてしまった。
 良い、出ても良いが、それでは少し寂しい。
「モリカ」
「うん?」
「怖かったから明日は一緒に寝て。今日は良いから」
「構いませんよ。では、またあとで」
「ふふ。うん」
 約束を取り付け、部屋の外に出る。
 そこには丁度戻ってきたらしい二子が居た。切れ長い目を更に細めて、早紀絵を品定めするように見ている。不愉快だったが、止めろとも言い難いく、言う気分ではなかった。
「今、アリスとモリカがいちゃついているから、入れないよ」
「まあ、妹同士で? 女子校ってそういうの多いのかしら?」
「取り合いする異性もいないし。あの『御姉様級』二人は元から仲良いし」
「ハブられてしまったのね。可哀想な早紀絵」
「あんねぇ……」
「じゃあ、私と仲良くする?」
「御免こうむるね。恋敵だった市子そっくりのアンタと仲良くなんて」
「ま、たぶん姉様は貴女を恋敵以前に塵芥とすら見ていなかったと思うけれど」
「やめろよ、泣きたくなるだろ」
「自覚ある分可愛いわね。大丈夫よ、姉様優しかったもの。モリカが認めた貴女なら、相当警戒してたでしょ」
「試すような言い方しやがってからに。ほんと、邪悪だなあアンタ」
「……あ」
「あってなんだ」
「部屋、離れた方がいいかも、貴女泣くから」
「言わんでいい事言うな」
 出てくれ、と言われて、早紀絵はなんとなく、感じていた。もしかしたら壁を隔てた一枚先で、早紀絵の知らない杜花とアリスがいるのではないかと。市子同様、二子もまた感覚が鋭いのだろう。言われ、どうするかと思案し、二子に『あっちいけ』とジェスチャーした後、扉に耳を当てる。
「いけない子ね、早紀絵は」
「横恋慕するのが板に付いてしまったの、市子の所為で」
「姉様は罪つくりだわ。ま、寂しくなったらいらっしゃい。私が遊んであげるから」
「ふン。あっちいけ」
「ふふふ。こういうの見てるのも良いわねえ。ああ、ちゃんと学校来て良かった、楽しみが増えたもの」
 悪態をついて、二子はサロンの方へと消えて行った。早紀絵は改めて、ドアに耳をおしつけ、中の会話に集中する。
『で……様は……けど……』
『ッッ……うっ……ううっ……あっ……』
『な……ないで……で良ければ……』
『姉様……も……か御姉様……私……って……って……』
 ――あれは何時の日だっただろうか。
 七星市子が亡くなって、一週間後程度だったか。学院北にある小庭園のガゼボ(東屋)で、杜花とアリスが何かしらを語らっているのを目撃した。
 第一寄宿舎の元となるサナトリウムの付属施設だったらしく、通路が第一寄宿舎の裏を通らなければならない為、普段は誰も訪れない所だ。
 何かを真剣に語らう二人を見つけた早紀絵は、早速邪魔に入ろうと思ったが、そうはならなかった。杜花にしがみ付き、大声で泣くアリスがあったからだ。
 まるでどこか遠い情景を見ているような気持ちだった。
 いつも知る杜花とは違う、そう、岬萌に見せたような顔ではない、もっと深い愛のあるような表情に、早紀絵はたじろいだ。
 自分の知らない杜花。
 自分の知らないアリス。
 他の誰よりも『出来の良い』二人を、そこまで悲しみの底に突き落とすだけの影響力を持った市子の恐ろしさ。
 市子、杜花、アリス、早紀絵。この四人は常に一緒に居ながら、やはり、妹ではない早紀絵には確実な距離があった。
『キ……って……慰め……』
『――……で、どう?』
『杜花……御姉様』
 杜花は頑なに、妹を作らなかった。
 だがどうだ。どれだけ彼女が否定しようとも、潜在的なものを抱えているアリスは、どうやっても『そう』なってしまうのだろう。
 ずるい。
 早紀絵はただそう思った。憎らしい、とは違う。何せ『出来の良い』二人だ。
 それはずるい。また、早紀絵を置いて、別な世界を作ってしまうのか。杜花がソレにメリットを見出せば、間違いなく、そうなるだろう。当然だ。
 天原アリスは美しく、何もかも持っていて、良く出来ているのだから、自ら舞い込んで来る美しい蝶を敢えて否定しても、得るものがない。
 欅澤杜花が損得勘定だけで動いているとは思えなかったが、否定するにはアリスはあまりにも魅力的だ。
「ずるい」
 しかし、自分のなりたいものは、決して杜花の妹ではない。パートナーである。
 早紀絵は踵を返し、自室に戻る。これ以上聞いていてもモヤモヤするだけであったし、考える事とて少なくない。
「メイ」
「あ、サキ様。おかえりなさいー」
「おいで」
 早紀絵は部屋に入るや否や、靴下を脱ぎ去って部屋の隅に投げつけてから、同室の二年生、支倉メイを呼びつける。早紀絵の『ペット』だ。
 ベッドに寝転がり、呼び寄せたメイを傍に添えると、抱き枕のように抱える。
 メイとの関係については恐らく、杜花もある程度気づいているだろう。早紀絵もあまり気にしていなかった。広い交友関係の中、いつの間にか子犬のように傍に居たのが支倉メイだ。自己主張は無く、否定は無く、常に肯定ばかりの、不思議な子だった。
 愛嬌のある顔、抱き心地の良い身体、聞いていて不快にならない声、隣に置いておくには十分すぎる要素の彼女を、早紀絵は人ではなく、その他と分類して付き合っていた。
「怖い思いをしたの」
「はい」
「しかもアリスがなんかアレだし、モリカはあんなだし。やんなっちゃう」
「はい」
「やだよねー、ねー、メイ」
「いやですねぇー」
「うんうん。メイは可愛いね、ずっと飼ってあげるからね。家族も心配しなくていいよ。お前の家の工場、経営怪しくなったら面倒みてあげるから。嬉しい?」
「はい。メイは、サキ様にずっと飼って貰います。傍にいるだけで幸せです」
「いいこいいこ。はあ。なんだろ、上手くいかないなあ。モリカに告白したのにさ、反応良くないし、でも、ちょっと扱いが変わったかも。でもね、サキちゃんとしてはね、今すぐにでも抱きしめて、モリカの処女貰いたいなーって思ってるんだけど、なかなかね。あ、もう処女じゃないかなあの子。市子め。あー、なんだかなー。メイはさ、素直だったのにね?」
「えへへ……」
「子犬みたいに可愛く鳴いてさー。良い子だったねー。メイ」
「はい」
「舐めて。なんかもやもやするから、少し無茶していいよ」
「はあい」
 ……。
 確かに、満田早紀絵という人物は、子供の頃に比べれば驚くほどの社会性を身につけ、人間として確実に成長している。この学院を出た所で、その人あたりの良さと、容姿、コミュニケーション能力があれば、どこでも渡っていけるだろうし、いざ家業を手伝うとなれば、間違いなく実用叶うであろうスペックだ。
 だが、元来から持ち合わせる嗜好や性癖などは、どうにも変りようがないものだった。
 早紀絵は好きなものに囲まれていたい。これは絶対的な価値観だ。
 常に気に入ったものが傍に無ければ落ち着かない。早紀絵の持っていた物は全て実家にあり、学院に不要と判断されるものを持ちこめる機会も少ない。ともなると、満田早紀絵という人物が求めたものは、結局のところ綺麗であったり、面白かったり、気持ちが良いもので満たされる生活だ。
 この学院に何があるか?
 ここには歴史と、誇るべき威厳と、伝統と、そして各々ご立派な御家柄の子女がいる。
 規模は小さいが、経営は上手くいっているらしい支倉家のご息女である支倉メイは、満田早紀絵の理に適っていた。
「お前は愛らしいね。むっ……あっは、強く吸いすぎぃ」
「無茶していいって」
「指入れちゃダメだかんね。何その顔。何、欲しい? 私の処女。ダメー。くふふっ」
 自主自立を主とする学院である。そういう意味で、早紀絵は間違った教育は受けていない。そしてその通り間違いなく成長した。根本的な性格の、その異常性を鑑みなければ、だが。 
 メイに奉仕させながら、枕元に置いていたコピー誌を手に取る。
『オカルト研究部活動報告誌 vol.15 2030』というナンバリングと、スミレの絵が描かれた表紙だ。図書館に保管されていた研究部誌を丸ごと借りてきたうちの一つである。自殺霊の影については、このvol.15が一番詳しく書かれていた。
『学院の小、中、高等部全てにおいて語られる噂で、本部誌が発行される数年前から既に存在していたと思われる。先輩方の残した過去の部誌にも記載はあるが、今回はより踏み込んだ内容を記載したいと考えている。過去に学院で起こった自殺事件は数件存在する。影の目撃場所も殆どが自殺場所と被っている為、この閉鎖された学院の内部で、暫くは自殺についての原因などが事細かに語られており、後に口伝として語られる間に、大まかな内容だけが残ったと考えられる。四件ある内、具体的な内容が調査出来たのは一件のみだった。プライバシーの為情報提供者の詳細は伏せるが、この学院のOGに当たるA先生からの提供である。A先生の御同輩であるB生徒は、とある企業のご息女で、とても印象の良い生徒であったという。しかし実家の家業が経営悪化と共に衰退すると、B生徒は塞ぎこむようになってしまった。A先生は友人であり、B生徒の相談にも乗っていたのだが、ある日、B生徒は高等部第一校舎の屋上から飛び降り自殺を図り、死亡した。以降、高等部第一校舎では影を見るという噂が絶えなくなり、それがB生徒に似ているという話が広がり始める。A先生は友人の悪い噂を絶つべく、真意を確かめる為影に接触を試み、結果、その影が間違いなくB生徒であったという確信に至る皮肉となった』
 A先生とB生徒についての事細かい説明がつらつらと書き連ねてある。B生徒の影かもしれないという真実を確かめるべくA先生が探しに出る、というのは、今の杜花に似ている。今から三十七年ほど前の噂であるから、第一校舎、というのは、高等部旧第一校舎の事だろう。現在は授業には使われておらず、物置になっている。
 しかし、旧第一校舎に影を観た、という噂は現在存在していない。
 そもそも、影の目撃例が上がったのは市子の死後、ここ一年だ。
 学院怪異は輪廻する。そのうち、この情報もどこかに漏れて、観ただの観ないだのという噂に繋がるかもしれない。オカルト好きではあったが、霊に対して半信半疑であった早紀絵は、少し遠い目でこの類の話を受け止めていた。
 だが、実際眼の前であのようなものを目撃した後だと、こういった話もあながち嘘ではないのではないかと、思わざるを得ない。ただし、これは結晶なるものが存在しない時代のものだ。根本的に原因が異なるだけに、うすら寒くある。
「あー……んくっ……ストップ」
「んあ……はい」
「気分じゃないかも。口洗っておいで」
「いいです。サキ様の味、好きです」
「変態だ。良い子。じゃあ、そのまま勉強でもしててちょうだい」
 メイはきちんと早紀絵『を』掃除し終えると、お辞儀をして机に向かう。
 早紀絵はショーツを穿き直し、横に転がって別の部誌を手に取る。
『オカルト研究部活動報告誌 vol.12 2027』こちらは劣化が激しく、紙も黄ばんでところどころ破れており、頁を捲るのにいささか慎重になる。経年劣化する素材で作っていながら電子化もしていない書籍など、いまどき本当に珍しいものだ。
『魔女について 前号で諸先輩方がまとめた魔女の記述について今号にて補足する。学院において魔女というのは所謂魔術を使い、悪魔と契約し、人心を惑わせ、疫病をはやらせる、という権力者側の都合の良い敵対者として作り上げられた歴史上のものではなく、純粋に不思議な力を持つ事を指す。本校において好意的に捉えられる占星術や陰陽道の占いなどではなく、私達一般人が観て明らかに現代科学で説明のつかない事象を操る存在を畏怖の対象として魔女と呼称する節がある。T生徒はその最もたるものであろう。彼女は……』
 続きが塗りつぶされている。
 殆ど個人を対象として書かれた記事であるから、そのT生徒か、T生徒の知り合い、もしくは教師あたりが、記述を検閲した可能性が高い。
 前号に特集されていると書かれていたので、vol.11を探したのだが、抜けてvol.10しか見当たらない。丸ごと一冊T生徒の記述が多かったのだろう。
 この塗りつぶし、外であれば何かしらの手段で読みとる事も出来るだろう。スキャンし、画像加工ソフトを使えば文字の輪郭も浮かびそうではあるが、生憎ここはそういった手段がない。学習通信室も許可制であるし、教師のパソコンを使うなどもっての他だ。
 惜しむらくは、統合携帯端末が故障している事だろう。
 早紀絵は静かに部誌を置くと、立ち上がってメイの椅子に赴く。
「メーイ」
「はいです」
 後ろからかぶさり、耳を食む。甘い少女の香りが、唾液の匂いと混ざり、鼻孔を淫猥に擽る。
「お風呂の時間までエッチしよっかあ」
「もういいんですか、なにか、読んでいたみたいですけれどー」
「いーの。検閲食らった本だったみたいだしさ。オカルト研の本なんて、お前知らないよね? 一冊足らないの」
「あわー……えーと。あふ、くしゅぐったいです」
「しらない?」
「んあー……文芸部室? 市子様が観てたかもしれないです」
「市子があ? ああ、まあ、あいつ魔女って呼ばれてたしな……あはは、お前詳しいね」
「市子様、お綺麗だったからあ。サキ様のペットになる前は、ずっと市子様を観ていました」
「お前も市子かよー。あー。なんかなあ。もうさあ、誰に触れても市子なわけ。頭に来るよねえ」
「そうですねえ。でもでも、メイは今、サキ様に為すがままです。サキ様の好きに出来るペット。メイはサキ様に望まれればなんでもします。ご不満ですか?」
 メイのあざとい瞳が、チラリと早紀絵を移す。ただ従うだけではなく、この『その他』の生物は、有ろうことかご主人を誘惑するのである。
 自らの保身、家族の安泰、それらを加味すれば、満田早紀絵という人物に頭を垂れて足を舐める事で保障される全てにおいて、払う対価は安いのかもしれない。
 この子は利害が観える。その確実性は、早紀絵に安堵をもたらす。
「脚開いて」
「はい」
 椅子を回し、メイは恥ずかしそうにして両足を開く。
「あーあ、悪い子」
「だ、だってえ……」
「うんうん。ほら、床に手をついて、お尻突き出して、おねだりしてよ」
「はぁい……」
 文芸部室。立ち入り禁止という訳ではないが、事件以来、警察以外誰も入っていない。杜花もだ。
 ともなると、自殺の現場でもある文芸部室に、その本がまだ置いてあるのかもしれない。
 この学院、図書の貸し出しは本人の良心に任せられている。貸し出しカードは存在するが、守秘の観点から図書委員か担当教師以外確認する術がない。確実性を増す為図書委員に取り入るのは、手段として面倒だ。それなら直接文芸部へ探しに出た方が手っ取り早い。
「うーん……影、出なきゃいいけど」
 怖い思いはした。もうあんな怪異に出会いたくはない。だが、その協力によって杜花が少しでも早紀絵に振り向いてくれるならば、あの忌々しい七星市子の影を忘れてくれるのならば、早紀絵は調査に協力し、記憶を整理する手助けをする事もやぶさかではない。
 黒い影に魔女。
 怪異を経て怪異自身になってしまった市子。
 オカ研の書類にそれのヒントを見出せるかもしれない。杜花にアレを忘れさせる為にも、アレのたどった軌道を突きつけて、思案させ、整理を付けさせるのが、最良だ。
 杜花は出来た人物であるのは間違いない。いつまでも、影を引きずり続けて未来を濁して良い人物ではないのだから。
「情報提供に感謝。ご褒美をあげましょ」
「あは……」
 支倉メイをおもちゃにしながら、ここ数日抱く不満感を解消する。
 敵は死して尚手強い。
 あの影がある限り、あの影が付きまとう限り、早紀絵が最も欲しい『欅澤杜花』という少女は、手に入らないだろう。
 杜花を無茶苦茶にしたい、杜花に無茶苦茶にされたい。
 ずっと傍においていたい。野心は原動力になる。早紀絵はこの学院に来て以来、行動の全てを、その後ろ暗い欲求を燃料にしていた。
 自分は劣っている。生身ならば勝てなかっただろう。だが奴はもう死んだ。今なら行ける。
 彼女の死を喜んだものは、市子アンチの代表格たる、三年の居友御樹(いとも みき)というのが通説だが、その実、最も喜んだのは満田早紀絵である。
「市子ね、美人だし、良く出来てたからさ、雌としては、欲しいものだったけど、あれじゃあね」
「はい……」
「もういないんだ。だから、噂にも、退散願ってさ、モリカと、あわよくばアリスかな。欲しいね。手に入ったら、お前にも分けてあげるよ。モリカとアリス、美味しそうでしょ」
「うん、うん。ああ、あのお二人……美味しそうです、絶対……」
「くふふ。うん。よし、ほら、這ってベッドにいきなさいな。私の指、欲しいでしょう」
 メイが何度も振りかぶって揺する。愛らしい奴だと尻を蹴り飛ばし、早紀絵はメイに被さった。



 
 翌日の放課後。天原アリスに伴われ、早紀絵と杜花の二人は生徒会三役室に赴いた。昨日の今日であり、早紀絵はいつ物陰から黒いものが飛び出してくるかと戦々恐々であったが、アリスの話では、夜以外は一切出ないとの事だった。そうでもなければ、アリスが生徒会活動棟を活動拠点として未だ使い続けている筈もない。理由さえつけられれば、このだだっ広い学院のどこでも、生徒会室など移せるのだから。
 三役室に入ると、既に着席していた二年で第一副会長の金城五月(かねしろ さつき)と一年で書記の権田笑(ごんだ えみ)が驚きの表情で杜花を迎える。
 とうとうこの日がやってきたのか! という驚きだが、残念ながら違う。
「第二副会長の席、もうずっと空席ですよ、杜花さん」
「そうですわそうですわ。やっといらっしゃった!」
「お二人とも、残念ながら違いますの。本当に残念ですけれど。でも、ここに来るのは抵抗が無くなったみたいですから、お二人は何時でも杜花様を誘いこんでここに拉致監禁してくださいな」
「おおう、アリスはやる気だぞモリカ」
「拉致監禁は穏やかじゃありませんね。アリスさんはそういった事がご趣味で?」
「ち、ちが。ものの例えですわ。もう、解ってるくせに、意地悪なんですから」
「ふふ」
 昨日と、二人の様子がいささかばかり、違う。早紀絵にはその微細な関係の違いが良く見てとれる。より仲良くなると、杜花の息使いは、少し色っぽくなる。アリスもそれは自覚しているだろう。まったく羨ましい限りだと、歯噛みする。
「ええと、五月と笑、少し外して貰っても良いかしら」
「はい、お茶は?」
「結構ですわ。杜花様曰くすぐ済むとの事ですから」
 会長に退出命令を貰った二人は、そそくさと三役室を後にする。不満の声も不満の顔も一切見当たらない。天原アリスを心から信頼しているのだろう。
「アリス、やっぱり会長は適任だね。あの二人、貴女の事すごく気に入ってるみたいだし」
「二人は特に優秀ですの。ご家族が許すなら、将来私の秘書にしたいくらいですわ」
 と、幹事長の娘は誇らしそうに言う。冗談ではたぶんきかないだろう。この学院で形成された人間関係というのは、他の学校とは桁が違う深度を誇る。
 祖父と父を崇敬するアリスは、その昔から政治家になると心に決めていた。彼女の地元は与党の本拠地とも言える規模を誇り、三代目になるであろうアリスは間違いなく政治家になる。
 ここにも、将来があり、未来がある。人に付き従い、未来の自分を思う為の人間関係だ。
「それで、杜花様。私の席、ですわね。市子御姉様がお亡くなりになってから、一度全て整理しているので、真新しいものが見つかるとも思いませんけれども」
 そういって、アリスは机の引き出しにかかる鍵を全て開ける。杜花は断ってから、全ての引き出しを改めた。
「……彼女、ギミックが好きだった。そうですよね、アリスさん」
「ええ。何かと面倒なのが好きでしたわね。隠し扉隠し棚、終いには隠し階段」
「そう、机は二重底にしてみたり」
 ガコッと音が鳴る。
 一番手前の引き出しには小さな穴が開いていた。目をこらさなければ見えないものだ。杜花はそこに、アリスから貰ったクリップを伸ばして差し込むと、机の底が盛り上がり、指が掛けられるスペースが出来る。開け放てば、中から薄い封筒が出てきた。差し出し先は『おバカな杜花へ』とある。
「……あー……こりゃ、外れかね」
「想定される範囲内でしたから、ここを見られる事も承知だったでしょう、あの人ですもん」
 杜花が封筒を振ると、中から質量がある音がカサカサと聞こえる。どうやら、手紙だけではないらしい。
「が……まさか本当に入っているとは、予想外ですね」
「それが、市子御姉様の残したもの、ですの?」
 杜花が封筒の中身を取り出すと、一枚の紙と、虹色に輝く板のようなものが出てきた。とても観た事がない、美しい色彩を放つ何かの結晶だ。これが、所謂黒い影の一つの原因となっているという事だろうか。
「私が何か語っても、それは陳腐に聞こえるかもしれない。これは魔力結晶だそうです」
 ああこりゃ、と、アリスは頭を抱えた。
 幾ら黒い影という怪異を観たからといって、魔力結晶なるものを信じろと言うのは流石に無茶が過ぎる。早紀絵とて、流石に受け入れがたい。
 魔女は噂だ。黒い影とは違って、現在直接この怪異に出会った人物はいない。噂だけが広がるものなのである。
「手紙にはなんて書いてあんの」
「……公開しても良い内容みたいですね」
 そういって、杜花は早紀絵に手紙を差しだす。

『おバカな杜花へ。だからあれほど、関わるなと言っているのに、貴女は寂しさのあまり、それでも探してしまう。もっとも他の理由もあるでしょうけれど、私には貴女の考えが手に取るように分かる。ここから先は止めた方が身のためです。これを七星に差し出して、手打ちとする事をお勧めします。私は貴女に見つけて欲しいから隠した訳ではない。少しでも、実家に迷惑をかけてやろうという思惑からなのです。杜花。そしてこれを読んでいるかもしれない貴女。アリスか、早紀絵か。杜花を止めてあげてください。私はもういない』

 簡素なものである。七星市子の遺言は見つかっていないとされていたが、二子の話では既に一通ある。これはブラフではないかと聞いていた。
 そして二通目。杜花を止めるようにという指示。死して尚、此方の行動を見据える千里眼には、恐れ入る。憎たらしくはあったが、素晴らしく美しい女性だった。傅かせ、足を舐めさせてやれていたのなら、どれほど気持ち良かっただろうなと、悲しむ二人を余所に、早紀絵はほくそ笑む。
 アリスに渡すと、アリスはどう反応すれば良いのか困っている様子だった。
「……これを読む限り、杜花様、まだある、と言う事かしら」
「あと三つはあるでしょう。私は全て見つけて、回収して、噂も消し去りたい」
「止めろ、とありますわね。止めた所で、一度覚悟を決めている貴女が止まる筈もない。市子御姉様が一番良く分かっている筈。でも、それでもなお止めろと書かざるを得なかった。なので、止めますわ」
「アリスさん。サキ。私は二人に謝らなければいけないのかもしれません」
「どゆことよ」
「私は、私がどうなろうと、この先どんなものがあろうと、市子御姉様の悪い噂を取り除かなければいけない。私の心にはずっと彼女がいる。それこそ、他の子達が眼中に入らなくなるくらいに」
 早紀絵は、何となしに察する。何故昨日、杜花がわざわざ早紀絵に『アリスは自分が好きなのだろうか』などと聞いたのか。
「私は、迷惑な事に、知っての通り、自分の価値を決めていない。けれど、市子御姉様の前ならば、私の価値は間違いなく定まっていました。私というものを曝け出すに値するだけのものを、市子御姉様は持っていた。決して、貴女達二人を蔑む訳じゃありません。でも、私には、私を想ってくれる二人に『私』を見せてあげられない」
 ……恐らくは、初めて聞く欅澤杜花の本心である。アリスの綺麗な顔がこわばり、やがて弛緩するのが目に見えて解った。早紀絵は早紀絵で、そんな事とっくの昔から知っていると、肩をすくめて笑う。
 だからこそ、杜花の中に巣食う七星市子という亡霊を何とかしたいのだから。もしかすれば、アリスもまた、同じような気持ちなのかもしれない。
「普通の子なら自信過剰で済んだでしょうけれど、杜花様じゃそうはいきませんものね。あと一年と少し、私は貴女の妹になる事を、縋りついて強請りますわ。市子御姉様の影が貴女の中にあろうとも」
「モリカは嫌らしい子だよ。どうせ止めても一度決めた事覆したりしないだろうし。そうやって、申し訳なさそうな顔してさ、ずるいよね」
「ごめんね、サキ」
「いーよ、別に謝んなくても。許さないしさ」
「早紀絵さん?」
「もう隠す事ないか。私ね、市子好かないんだ。私の欲しいもの、欲しい子、全部持ってかれちゃうんだもん」
 二人は、何も言わなかった。それは現実としてそうなのだから。彼女は良く好かれたが、100%好まれた訳でも当然ない。早紀絵が最も想い続けて来た杜花が最初から人の物という事実は、早紀絵を苦しめ続けて来た。
 自分よりも家名に優れ、自分よりも高いポテンシャルを持ち、自分の欲しいもの全てを持っている七星市子を、憎らしく想ってきたのだから。
「あとアリスもさ」
「わ、わたくしですの?」
「ん。いいけどさ、モリカの妹だってなんだって。私、綺麗なもの同士くっついているの好きだし。でも、モリカは私のだから。ああ、モリカの二号さんなら別にいいけど」
「あ、いえ、その……」
「昨日キスしてたでしょう。私もしてもらってないのにさ。ずるい」
 杜花に視線を移す。
「サキ、私は、貴女が想像するほど、素晴らしい人間でも、綺麗な人間でもないですよ」
「モリカがさ、本当はとんでもない悪党だったとしても、私はモリカが好き。貴女は良く出来ているのに、七星市子の存在が貴女を濁らせる。アリスもそうだよ。私にはそれが腹が立って仕方が無い。貴女達は濁っていい子じゃない」
「……サキ」
「あん。何さ。何よ。もう、ああ、もう、何さ」
 もはや、絶対的に客観では対処しきれない問題の提訴に、流石の杜花も言い淀んでいる。欅澤杜花が如何なるものか、真実はどこにあるのか、そういう問題を超越して、早紀絵は杜花に心酔していた。それだけの巨大な感情をぶつけられて、外からの意見など述べられる訳がない。
「この問題が片付いたら、改めて、考えても良いでしょうか。気の多い嫌な女だと思ってくれたなら、それで良い」
「あっは。何それ。二人三人ぐらいで。いいよ別に。貴女が濁りさえしなければ。と言う事はさ、私の事嫌いな訳でもないんでしょう?」
「――はい。だって」
 だって。早紀絵は、その言葉がむず痒くて仕方が無かった。だって、なんだろうか。
「……いえ、やめましょう。アリスさんの前で話す事じゃありません」
「って、ああ、もう、アリスの所為だ」
「さ、早紀絵さん、それ無茶苦茶ですわ」
「ふふ、ま、いいか。いいよ。モリカ、でもキスはしてね。今日は一緒に寝れるんだよね」
「ええ。もう、サキは本当に、ワガママですね。張り倒したくなります」
 杜花の張り手で吹き飛ぶ瞬間をフラッシュバックする。
 冷たい顔で、無感情に、怒りと称したそれをぶつける杜花の顔。子供の頃以来、一度もそのような暴力は受けていないが、杜花の困るような事を、ちょくちょく挟みながら付き合ってきた早紀絵は、本来ならもっと、構ってほしかったのかもしれない。
「いい。それでもいい。貴女に受ける全てが好き。だから、モリカ、さっさと終わらせよ。市子が何書いてるかなんて知ったこっちゃあないよ。さっさと終わらせてさ、私と付き合って。で、アリスは二号にするの?」
「え、ちょ。なんて物言いですの、貴女、二号って……」
「くふふ。満更でもなさそ。モリカ、考慮した方がいいよ」
「あ、いえ、その。アリスさん?」
「……な、長い付き合いになれば、いいなとは、思っていますわ。女同士」
 人さまの人間関係をほじくり回し、杜花の本心も伺い知れた。これだけ撹拌出来れば、十分な収穫だろう。昨日は一歩足らずに中途半端だったが、今回は利益が大きい。この御姉様級二人に対して市子の暴言にも近い発言をしながら、こうしてあれるのは、満田早紀絵だからこそである。
 良い、これで良い。市子を出汁にして、自分の関係を進められたのだから、これは勝利と言える。
 当たり前だ。死人に主導権など握られてはたまったものではない。ここは生者の世界なのだから。
「で、モリカ。それどうすんの」
「手紙も内容開示出来ますし、丸ごとニコに預けます……サキ」
「ん、なーに」
「ちょっと、先に行きます。また、後で」
「ん。アリス、私も行く……どしたの?」
 アリスは、頬を撫でながら、去って行った杜花の背中を見つめている。揺らいでいるのだろう。自分が何ものなのか。自分が、人の人らしい規格から外れているのではないかという不安に。その点、早紀絵は楽だった。
「あんまね、悩まない方がいいよ。モリカ好きでしょ?」
「……うん」
「くふふ。うん、だって。可愛い。私、貴女の事好きだよ」
「ええ!?」
「何驚いてんのさ、今更。私の性癖ぐらい知ってるくせに。教えてあげようか、どのくらい好きか」
「ど、どのくらいですの?」
 アリスの疑問に答える為、耳打ちする。アリスは顔を真っ赤にして、早紀絵を押しのけた。
「あぶぶっ、なにすんの」
「わ、わたくしで? そんなことを? ええ? そんな、ああでも、私だってヒトの事……」
 まあ、言えないのだろう、と、ほくそ笑む。
 なんだか今日は気分がいい。思い通りに話が進む。
 早紀絵はアリスにキスを投げ、振り払うアリスを笑いながら生徒会三役室を後にした。
 これで、一先ず生徒会活動棟の黒い影は恐らく出てこない、という。
 まだ噂が幾つかあり、杜花と二子がいう『魔力結晶』とやらも数があるらしいので、完全解決には至らないが、二日で一つ解決出来た、というのは大変な効率の良さだ。この調子でバンバン解決し、杜花にさっさと市子を忘れて貰うに限る。
 が、しかし。二子が居る場合、どうだろうか。
 あれは市子に似ている。まさか、とは思うが、市子に対する情念が、二子にぶつけられた場合、また、早紀絵の入りこむ隙が減るのでは?
 ……考え過ぎだろう。あれは似ているが、性格は最悪だ。市子の嫌いな部分を煮詰めてビン詰にしたようなものである。敵ではあるまいと、取り敢えず保留にする。
(さて、つぎつぎ)
 生徒会活動棟を出た早紀絵はその足で職員棟を目指していた。南正門正面に立つ五階建ての建物で、受付にもなっている。
 小、中、高等部全ての教員がここで事務をこなしており、その他学院の資料、来賓応接間、警備主任室、魅惑の禁制品保管室など、学院運営に関する部屋が各種ある。
 早紀絵が向かう目的は一つ、文芸部室の鍵を借りる為だ。
 正面玄関から入り、学院の生徒である事を示す承認証を読みとるゲートを通り抜ける。何かと古臭いものが詰まっている学院においては、この職員棟は現代らしい設備が揃っていた。入口をはいって直ぐにある備え付けのディスプレイに触れると、ホログラムアイコンが浮かび上がる。
 生徒番号が読み込まれ、個別認識、承認後に音声認識アイコンが表示される。
「文芸部顧問お願い」
『現在文芸部は存在しません。旧部顧問は小野寺姫乃教員です。お呼び出ししますか』
「お願い」
 コールの後、応えた小野寺姫乃教員がカメラ映像として映し出される。
 三十前半の、これといって特徴もない女性だ。
 市子繋がりで、顔を知らない訳ではない。
『はい、小野寺です……満田さん?』
「満田早紀絵です。お久しぶりですね、センセ」
『どう、しましたか』
「文芸部についてお話がありまして」
 まだ教師として若い彼女にとって、自分の管理する部の生徒、しかも七星が自殺し、同時に廃部したという事実は重くのしかかった。以降、部活の顧問はしていないと聞いている。
『あまり、詳しい事は話さないように言われているんですけれども』
「ちょっとで良いんです。ね?」
『……面談室にどうぞ』
「どうもね、センセ」
 そういうと、ディスプレイに面談室への地図が示される。二階の東だ。
『満田早紀絵入館 面談室』と表示されるので、そこをタッチすると、入館時間のカウントが入り、ディスプレイはまた通常の受付画面に戻った。
 職員棟は、この学院に通う生徒達のデータの全てが保管されている場所でもある。
 ただの生徒ではない。ご立派なお家の、ご立派な娘たちを預かっているのだ。そのデータはインゴットの山よりも貴重である。
 職員棟は完全にシステム管理されており、外側からどうこう出来る作りにはなっていない。先生に逢うにも、呼び出しに応じるにも、全て入口で証明を必要とし、受付で入館の是非を問われた後で無ければ、左右に伸びる廊下は即防弾防爆シャッターで閉じられ、警報が作動し、警備員部隊が突撃してくる。
 もしここを占拠しようと考えた場合、電源を破壊し、地下の予備電源を爆破し、非電源作動式シャッターをぶち破る術を持ち、各階層で自主防衛の為に用意された銃火器で防備する教員たちをはね退け、後ろから来る警備部隊を一掃しなければいけない。
 まず、そんな輩は現れないだろう。国家危機でもならない限り。
 東通路を通って階段を上がり、二階の面談室にまで赴く。挨拶をして中に入ると、そこには既に小野寺姫乃が控えていた。本当に特徴がない女性で、褒めるところも貶すところもない。
 良く『社会人の格好』などと公民の教科書に載っている女性の絵のようなイメージだ。
「やっほ、早紀絵だよ」
「お久ぶりです。今日は、どうしましたか」
 姫乃は警戒の色が濃い。文芸部の話、といきなり切り出したのが悪かっただろうか。しかし適当な理由をつけて、受付で跳ねられたら元も子も無い。早紀絵は姫乃の正面に座り、偉そうに足を組む。
「そうだねえ、市子が死んでた時の様子とか聞こうかな」
「み、満田さん」
 旧文芸部の顧問で高等部の古文の教師だ。人気は無いが嫌味も言われない。市子の死体を発見したのは彼女だとされており、一時期話題になったが、その空気の薄さから直ぐ忘れられた。
「うっそ。嘘だよセンセ。どうせ口止めされてて話せないだろうし」
「苛めないで」
「あっは。うんうん。苛めないよ。センセって大人しくて、ついいじりたくなるから」
「きょ、教師に、そんな事を言ってはいけませんよ」
「うふふ。無理に強がるのが可愛いなあ。あ、私年上でも全然大丈夫。困ったらおいでね?」
「あ、あのねえ……」
「ま、それはいいや。センセ、文芸部室の鍵、まだ持っているかな」
 本題に入る。文芸部室は部室棟の一室で、外に直接扉が晒されており、かなり年季が入っている。その鍵は部の部長、副部長、そして顧問が管理している筈だ。
 生徒会活動棟より更に重要度の低い部室棟の鍵など、どこに溢れていても恐らく誰も気にしないだろう。気にする者は個人で余計に鍵を付けている。
「あります。一つは警察に証拠品として持って行かれた後戻ってきたもの。これは七星さんが持っていたものです。一つは私が。その、未練がましい話ですけれど、文芸部、申し出てくれる人がいれば、いつでも再開したいと、そう思っていたので。もうひとつは副部長のものですが、そもそも、文芸部は、一人しかいなかったもので」
 よく、部活動は五人集めねば活動とみなされない、といった話を聞くが、観神山女学院の場合、大体一人でも正当な理由があれば設立が可能だ。一人の場合部室を授けて貰えない可能性もあるが、何せ七星市子である、学校は無理矢理でも部屋を作るだろう。
 この学校には『文学小説部』が存在する。本好きは大概そちらに行くのだ。『文芸部』は市子が設立し、一人で運営していた。一体どんなものがあるのか誰も知らない不思議な場所である。市子が部室に入れなかったからだ。それはアリスも早紀絵も同じで、唯一普通に入室していたといえば、杜花だろう。
「貸してくれるかな」
「幾ら管理が甘いとはいえ、無関係な人を入れるのは……」
「もしかして、死後そのまま?」
「いえ。警察の人が、鑑識の後少し清掃をしました。けれど、本や備品はそのままの筈です」
「なあるほどねえ……」
「あの、満田さん」
 覚悟を決めたように、姫乃教員が早紀絵に話し掛ける。
「も、もし。七星さんの、その、自殺動機など調べているなら……止めた方が、いいですよ」
「あらあら、なんでかな?」
「七星、ですよ」
 小さい、かすれるような声で、姫乃教員は言う。今にも泣きそうな声だ。もしかすれば、こっぴどく取り調べにあったのかもしれない。
『それは七星が関わっている』というのは、それだけで脅威である。
「違うの違うの。実はね、図書館で一冊、見つからない本があるのよさ。ほら、生徒が何読んだか記録してるのは図書委員の資料だけで、カードなんてないでしょ?」
「本。あ、なるほど。それを、七星さんが借りていて、文芸部室にあるかもしれない、と」
「証言もあってね。それを回収したい。とっても読みたいの」
「そういう事ですか。ごめんなさい、勘ぐってしまって」
「いいよぉ。七星関連じゃ誰でも警戒するもの。じゃあ、貸してくれる?」
「あの、満田さんは、部活動は?」
「してないよ。無所属」
「では、その、本が好きなら、文芸部など、どうでしょう」
 ああ、と早紀絵は心の中で頷く。
 七星市子の自殺はこの人の所為ではない。それは間違いないだろう。だが、この人は無用な責任を未だ背負い続けているのだ。余程の責め苦にあったのか。取り調べも苛烈だったろう。
 早紀絵はこういった人物を見ると、むしょうに手を差し伸べたくなる。
 無力で、どうする事も出来ず喘ぐ人間に、この自分が手を差し伸べて救ってあげたという優越感に浸りたいのだ。その優越性を利用して、無辜の人を好きにする。
 姫乃教員を下から上まで舐めるようにみる。褒める点が本当に少ない女性だ。
「責任なんて感じる必要無いのに」
「あっ……いえ。その、でも。私は、仮にも、顧問でした。顧問をしていた部活の生徒が自殺したんです。七星市子さんは、私などとても手の届かないところに居た人です。けれど、それでも、年長者として、教師として、何か出来なかったのかと……そればかり、考えてしまって」
 良い人だ。早紀絵は頷く。そして、七星市子で困った事になった一人でもある。
「毎日参加しなくてもいいよね」
「え、ええ。好きに、スケジュールを組んで。その日に、様子を見にだけ行くから、ああ、入ってくれるの?」
「ねえセンセ」
「なん、でしょうか」
「センセが遊び友達になってくれたら、もう一人部員を連れてくるよ。支倉メイ、知ってるでしょ」
「え、ええ。大人しい子ね。成績も普通で。問題も無い子。遊び相手っていうと……」
「子供じゃないんだから。くふふ。メイは可愛いんだけど、最近二人だけじゃマンネリだし」
「え、え?」
「来た時教えよっか。じゃ、入部ね。鍵、貸してくれる?」
 顔を真っ赤にした姫乃教員が、面談室をそそくさと出て行き、数分後、入部届けと鍵を持って現れる。
 まさか、この歳になって、しかも年下の更にしかも同性の生徒に肉体関係を迫られるとは、思っていなかったのだろう。
 早紀絵は小さく笑う。また一つ、市子の禍根を潰せると、いや、『自分で塗りつぶせる』と、満足げに。
「えーと、こことここかな。はい完了」
「……その、満田さん」
「二人の時は早紀絵でいいよ。あ、私ね、面倒くさい人間関係とか求めてないから、アッサリしてるよ? 貴女は助けが欲しい。一人で抱え込むには大きすぎるものを背負っちゃった。それを薄れさせる手段が欲しい。だから私に声をかけた。私は手伝えるよ。貴女が欲してくれるなら。もちろん、私は貴女にも求めるけれど、ね?」
「そ、そういう話ではなくてですね。私は、教育者です。なので、貴女の求めるような事は、その」
「女の子とシた事ある?」
「わ、私は、異性愛者です」
「えっへっへ。狭い、狭いなあ。選択肢狭めると世の中楽しめないよ。じゃあ、スケジュールはまた今度提出するね」
「あ、いえ、は、はい」
「新しいこと、おしえてあげるから、楽しみにね」
「あ、う、うぅ」
 新しいおもちゃが手に入りそうだ。もちろん、これで遊び壊すなんてつもりはない。彼女が望めば、早紀絵はそれだけ与える気でいる。それも当然親の威を借りたものだが、親は否定しないだろう。
 人を威圧し恐怖させる事に、家名を使う事は無くなったが、人を求め、人を偽善的に救う事について、家名の行使を躊躇ってはいない。
 現実的に、それは例え偽善でも、救われるからだ。
 鍵を受け取り、面談室を後にする。一階に下りて、また受付で証明を受け、カウントを停止する。
『満田早紀絵 退館』の表示をタッチすると、また受付画面に戻った。
 早紀絵は高等部部室棟へ向かう。二階建てでアパートメントのような作りをしており、等間隔に扉が張りついている。一室の大きさは十畳程度だ。ちらほらと生徒と知り合いが見て取れる。
「あれー、早紀絵じゃん? どしたのん?」
「おー。部活入ったの」
「え、それどこ部よ」
「文芸部」
「ちょ」
 周囲に居た生徒達が、ギョッとして早紀絵を観た。
 ある程度想像していたが、これ程までとは早紀絵も思わなかった。黒い影の目撃例はここにも存在する。いや、ここにこそ存在していると言っても過言ではない。文芸部室こそが、件の黒い影の噂が再発した原因となる、七星市子最期の場所なのだ。
 二階から声をかけていたクラスメイトが、早紀絵に近づき、耳打ちする。
「六時以降は、直ぐ帰った方がいいよ」
「暗くなると出るかね、うんうん」
「逆に言えば暗くなるまでは一切出ないみたいだけど……なんでまた文芸部なんて……」
「色々あるの。ま、今後ともよろしく」
「う……、うん。よろしく」
 言っても聞かないのは、今更である。クラスメイトはそれだけ言って、自分の部室に戻って行った。
「さて、御開帳ー」
 文芸部室と書かれた表札がかすんでいる。重たい鉄製の扉を開くと、ギィという音と共に、少しだけ饐えた臭いがした。
 電気を付けると、中には堆く本が積まれているのが解る。彼女個人のものだろう。殆どがハードカバーの、難解そうな本の山だ。
「むう、イメージ通りだな。変なものあったら面白かったのに」
 沢山の本、小さな図書館とも言える。リノリウムである筈の床はすっかり板張りに張りかえられ、真っ白である筈の壁も壁紙で覆い尽くされており、部活棟なんて安っぽい見栄えにはなっていなかった。
 右奥には椅子と、簡易ベッドがある。
 ベッドに腰をおろし、枕元に置いてあった文庫本に手を伸ばす。
 タイトルは『幻華庭園』だ。パラパラと捲ると、それが所謂百合小説である事が直ぐわかる。ああ、ガチだったんだなあと、無駄に感慨深くなる。
「しかし、ここに出るってことは、杜花の言う魔力結晶があるのかもねえ」
 天井を見上げ、出てくれるなと祈る。
 頭上にあるのは蛍光灯だが、どうも部屋の雰囲気にあっていない、部室棟で使われているそのままのものだ。
 良く部屋を見渡すと、元は据え付けてあっただろう部屋にマッチした蛍光灯のカバーが、ひっそりと佇んでいる。
「そっか、市子、ここで首吊ったから……ああ、あれに紐かけたのか。で、蛍光灯がむき出しになってると」
 生々しいものを目撃し、ほんの少しだけ早紀絵は項垂れる。
「しかし……本当に、面白味がないな。あの市子が? 変だ」
 市子にしては、面白味がない。早紀絵の素直な感想だった。
 周りを埋め尽くしているのは当たり前の本ばかり。もっと、人に見せたくないからこそ誰も入室させなかったのではないかと考えていた早紀絵には、不満の残る結果である。
 が、この枕元に置いてあった本、幻華庭園だが……これは、ライトノベルだ。かなり劣化しているものの、カバーの装丁は知っているものと似ている。
 早紀絵の記憶が正しければ、男性、女性双方のニーズを見据えた同性愛モノレーベル発刊の本である。周りと雰囲気があわない。
「杜花に聞いてみよっかな。ま、それは後にして……時間も不味いし」
 時計を見れば、既に十七時を回っている。これだけ本があるとなると、目当ての本を探すのも骨が折れるだろう。いざとなれば支倉メイを伴ってでも探すが、時間はかなり必要となる。
 ここは、七星市子の楽屋裏だ。とんでもないものが見つかる事も否めない。
 黒い影の恐怖は、当然ある。
 昨日の今日だ。
 だが、それよりも、杜花への想いが強く、そして、七星市子という怪物への興味もある。井戸を覗きこみすぎて、落下しない事を祈るばかりだ。
 一度引き上げよう。杜花を連れて来た方が、効率が良い。

 ……。
「さて……おっと」
 部室を締め切る為に、ポケットから鍵を取り出そうとした早紀絵は、それをうっかり床に落としてしまう。それを拾い上げ、顔を上げようとした時、目の前に足が観えた。
 早紀絵は硬直する。顔を上げられず、ベッドに半分腰かけた状態から動けない。人間? いや、まさか、音もたてず、こんな狭い部屋に入ってこれる人間など居る訳がない。
 頭の中で、昨日みた市子らしき影の恐怖が乱反射する。
 逃げよう、逃げよう、顔は上げず、このまま弾けるようにして部屋を出よう。
 カウント、三、二、一。
「早紀絵?」
「うひゃあああああしゃべったああああッッ」
「驚きすぎ、面白い子ねえ」
 ベッドの上でひっくり返る。後転して正面を向き直ると、そこに居たのは市子……にソックリな二子であった。心臓がバクバクと音を立てて跳ね上がるのを抑えながら、闖入者を睨みつける。
「あ、あのねあんた、ああ、うう、びっくりした。入ってくるなら声かけてよ、てか、どうやって入った?」
「何か考え事してるみたいだったから、そっと入ってきたのよ。出て行くみたいだったし、声かけようと思ったら、あはは、パンツ丸見えだったわよ?」
「そ、そうなの? まったく、市子の霊じゃあるまいに……」
 発言し、思わず口を塞ぐ。杜花とアリスには告白したが、早紀絵が市子を嫌っていると誰にでも公開している訳ではない。しかも眼の前にいるのは義理の妹の二子だ。今後の関係を考えると、あまり聞こえは良くない。
「ここにも出るって噂があるのかしら。ま、ここが最期の場所じゃ、仕方ない、か」
 二子は目を細め、周囲を見渡すようにしてから、髪をかきあげた。
 柑橘系の香りが仄かに早紀絵の鼻孔をくすぐる。市子と同じ匂いだ。
 身長は140前後。
 腰まで長い黒髪は、前髪も後ろ髪もまっすぐ切りそろえている。
 身体全体の凹凸は少なく、本当に人形のようだ。深夜夜道で出会ったのならば、勝手に怪談が産まれそうな容姿でもある。
 それだけこれは幻想的な存在だ。
「何しに来たのさ。なんでここに?」
「姉様の軌跡をたどっていたの。最近はそればかり。今日は部室棟方面と思ってたら、何故か貴女が居たわ」
「そう。そろそろ出るのだけれど」
「まあ、そう急がないで」
 そういって、二子は早紀絵の隣に腰かける。二子の機嫌は良さそうだ。
「ここで姉様が自殺したのね。まったく、部室棟なんて場所まで改造して。雰囲気を大事にするのは解るけれども」
「なんで自殺したのかな」
「さて、早紀絵は心当たりあるかしら」
「無いね。私の欲しいもの全部持ってたのに、死ぬ理由が見当たらない」
「ただ全てを持っていても、空虚なものよ。貴女は物質に依存する人みたいね。いえ、環境かしら」
「否定しないよ」
「うん。なんで死んでしまったのかしらね。七星の重圧に耐えられなかったのか、何かに絶望したのか……ふふ、もしかしてさ、モリカにフられたんじゃない?」
「そんな噂もあったよ。でも、あのモリカだよ?」
「そう。モリカは、姉様を深く愛していた。私達が想像出来ないくらいに」
 そういって、二子はポケットから、リングを取り出す。おそらく銀製だろう。飾り気がなく、あまり洗練されていない、質素なものだ。
 手渡され、裏側を見ると、そこには『ICHIKO MORIKA』と彫られているのが解る。
「げ、婚約指輪?」
「モリカも持ってるでしょうね」
「え、嘘、マジで?」
「当然非公式で、気持ち的なものだと思うけど。姉様からね。自分で作ったみたいなの。シルバークラフトみたい」
「くは……ああ、なんか聞きたくなかったね、そんな話さ」
「貴女は余程モリカが好きなのね」
「好きだよ。あの子にさ、別に愛人何人居ようと気にしないけどさ。市子がいたら、どうやったって私は二号さん……って、ああもう、話したくないのに。誘導してる?」
「ふふ。良いじゃない。姉様嫌いだったのねえ」
「嫌いっていうかさ、アイツがいると、私がまるで霞かかった存在になる気がするのさ。だから、モリカにも気づいて貰えなくなるんじゃないかって、不安だったの。それだけ。おしまいにしてよ、こんな話……それでなくても、アンタに話すとさ、まるでアイツ本人に語ってるみたいで怖いの」
「モリカにも言われたわ。でも、可愛いでしょ、私」
「うへえ」
 うへえ、などとはいうが、こればかりは同意せざるを得ない。
 もし人間的にも出来ていたなら、早紀絵は間違いなく二子を取り込みにかかるだろう。何せここは文芸部室で誰も来ない。しかもベッドの上である。女相手に培った手腕が実に役立つだろう。
 が、相手が二子ではその気も失せる。
 つくづく惜しいと歯噛みする。
「あら、私には手を出さないのね? 折角こうしているのに」
「綺麗な華でもさ、毒あったら触らないでしょ」
「然り。賢いのね」
 二子が立ち上がり、早紀絵の正面に出る。後ろで手を組んで、何か面白いものを見つけたように、ほほ笑んでいる。早紀絵は不愉快だが、二子はそうでもないらしい。早紀絵は二子との会話を望んではいない。こうして面と向かって話すのは初めてだったが、どうも、市子以上に見透かされている気がしてならない。
「そろそろ六時ね」
 言われ、焦ったように時計を見る。確かに、十八時手前だ。今まで十七時を少し回った頃だと思っていたのだが、何時の間にそんな時間が経ったのか。
 ――何かがおかしい。
 時系列は間違いなく繋がっているのに、どこか欠落しているような感覚が早紀絵を襲う。
「流石姉様のテリトリー、反映しやすい」
「アンタ、何言ってるの? 反映?」
「早紀絵はさ、モリカが欲しい?」
「何、アンタがどうにかしてモリカを私にくれるの? 馬鹿みたいなこと言ってないでそろそろ……」
 退散しなければ、件の噂が顕現してしまうのではないか。だが、二子は微動だにしない。早紀絵を見つめている。いや、凝視と言っても良い。その細い目を見開き、早紀絵の『何か』を見ている。
 おかしい。
 この子は、何かがおかしい。
 去ろう。
 行かなければ。
 だがどうだ、その足はまるで動かない。
 二子……これは、本当に二子か?
「OK。観えた。ご協力有難う、満田早紀絵」
「はい」
「貴女は今日、ここで私には逢っていないわ。良いかしら」
「はい」
「良い返事ね、良い子よ早紀絵。さあ、寄宿舎に戻りましょうか。七星市子の亡霊が出るかもしれない。魔力結晶は……ちょっと無さそうね、ここ。でも、面白いものが見つかるかもしれないから、貴女はまた後日、ここを探索すると良いわ」
「はい」
「うん。なんだ、大人しくしていると、可愛い子ね。ま、五月蠅いのが個性なんでしょうけど」

 ……。
 早紀絵は鍵を拾い上げ、文芸部室の鍵を締め切る。もう十八時、市子の亡霊が出ると噂される時間だ。早めに寄宿舎に戻らねば、締め出されてしまう。
「メイをかり出すかな。杜花の手を煩わせる程でもないし」
 部活棟から歩いて数分、第一寄宿舎につくと、玄関では指導教員が早紀絵の帰りを待っていた。
「満田さん、少し遅いですね」
「済みません、予想外に時間がかかってしまったもので。これきりにします」
「はい、解りました。では部屋に戻って、食事の時間まで待機していてください」
「はーい」
 階段を上がり、西通路の奥に自室がある。表札には満田、支倉の文字。中に入ると、支倉メイが主人の帰りを待ち望んだ犬のようにすり寄ってくる。適当に頭を撫でてやってから、早紀絵は椅子に座ると、靴下を脱いで素足を差しだす。メイはそれに飛びつき、愛しそうに頬ずりし始めた。
「なんかボーッとするなあ。あー、メイ、お前は今日から文芸部ね」
「ふぁい。解りました。スンスン……あふ」
「小野寺姫乃教員知ってるでしょ」
「元文芸部の顧問ですね」
「お前ああいうの好き?」
「嫌いじゃないです。特別好きでもないです」
「じゃあ今度宜しく」
「はーい。でも、何故文芸部なんて? あそこ、市子様の匂いがするでしょう?」
「お前程鼻効かないからねえ」
「でも、なんだか、スンスン。柑橘系の、匂いがしますね。市子様の匂いに似てる。今は、杜花様と二子さんの匂いですけど」
「変だな。あの部屋少し黴くさいだけだったんだけど。ま、いいや。モリカの為にあの部探索するから」
「お手伝いですね。やりますー」
「まずあの部屋のベッド、少し干さないと」
「えっちなこと出来ませんものね」
「くふふ。ダメな子だねえ、お前はダメな子。そんなことばっか考えてー、げしげし」
「あぶ、けら、蹴らないでくださいよう」
 メイの顔を足で弄びながら、文芸部室での事を思い出す。
 小さな図書館、黴くさい部屋、似つかわしくないライトノベル。他に何かあったか。あったような気もするが、思い出そうとしても靄がかかったようにして不明瞭だ。
 あの部屋には何かがありそうだ。目的のオカ研部誌もそうだが、市子が隠していた何かが、確実に存在している。それは恐らく、外部の人間が観て明確に理解出来るものではないだろう。それならば警察が資料として持って行っている可能性がある。
 だからもっと、この学院の人間、さらに言えば市子に近かった者が観るから解るもの。
「ん」
 思考を整理していると、部屋をノックする音が聞こえる。同時にメイが離れ、早紀絵は立ち上がって来訪者を迎える。
「早紀絵」
「あん。二子か。何?」
「貴女文芸部室にいなかったかしら。少し噂になっていたから」
「ああ、噂にもなるかもねえ。まあ気にしないけど、それで?」
「入れたってことは、文芸部になったのよね」
「色々あってね」
「じゃあこれを渡すわ。はい」
 二子が手にしていたものは、小さい鍵だ。扉を開ける用の立派なものではなく、かなり簡素である。
「なにこれ」
「姉様は部室の鍵、とか言ってたかしら。姉様の残した学校関連の遺品、私が管理してるから、必要かと思って」
「……ほう。気がきくね。受け取っておく。さんきゅぅ」
「それだけよ。じゃ、頑張ってね」
「なんだか知らんがまあ頑張る」
 そういって、二子はほんの少し笑いかけ、去って行った。
 部室の鍵。どうみてもスペアキーではないだろう。もっと他の場所を開ける為のものだ。
 生徒会三役室の会長席でも解るように、市子は何かとギミックが好きだ。あの部室にも、仕掛けがあるのかもしれない。
 魔女の噂が記述された本を探していたら、何かと状況が混み合ってしまったが、早紀絵の気にするところでもない。あの影のようなものにさえ出会わなければ、オカルト好きとしては、楽しい限りなのだ。
「市子暴くぞー」
「はあい」
 素足を舐め始めたメイを弄くりながら、杜花の事を思い浮かべる。今日は収穫があった。アリスの反応も面白い。思わずにやける。市子の亡霊を取り除いた先に、自分の望む未来はあるだろうかと想像し、まあ、なんとでもなるだろうと、楽観的に考える。
 満田早紀絵は人間として破綻しているのかもしれないが、杜花に寄せるその想いは、誰が何と言おうと純真なのだと、早紀絵は主張して憚らなかった。


 ストラクチュアル1/嫉妬と憧憬 了

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