2013年3月1日金曜日

心象楽園/School Lore ストラクチュアル2

 



 ストラクチュアル2/天原アリスの憂鬱


 ……。
 その日、天原アリスが失墜した。
 原因は父が所属する政党が総選挙で敗北を喫した為である。
 自人会党(自由民衆人会の党)政調会長天原藤十郎発案の選挙公約は、今一つ国民に浸透せず、浮動票は各種小政党に流れ、第二党の民栄党(民主主義栄光党)に僅差で敗北した。
 参議院は自人会が大半を占めており、他党との連立を考えれば、僅差での敗北なら挽回の余地は多大にあったのだが、やはり矢面に立っていた藤十郎はその責任を内外から追及され、党首の説得にも応じず、政調会長を辞して、なりをひそめる事になる。
 天原アリスは中学二年生で初めて敗北を味わった。
 民栄党党首の孫娘でアリスの一つ上、居友御樹(いとも みき)はこれを受けて増長、ことあるごとにアリスに突っかかるようになる。
 国のトップが挿げ変わると、観神山女学院のヒエラルキーも自然と変わってしまうのが昔からの流れである。
 財務官僚の娘で、アリスのクラスメイトであった妃麻紀(きさき まき)も、まるで掌を返したように居友へとすり寄っていった。
 友人であると思っていた人々が、次から次へと離れて行く現実は、まだ中等部二年であったアリスには重たい事実として突きつけられる事となる。
 人は金と権力によって、いとも簡単に人を裏切る。
 真実の友情などどこにも無く、温度の無い会話の価値は無く、力無き天原アリスには、何ものもついてはこない。
 持て囃された時代は単なる風化した思い出となり、全てがささくれだってアリスを突き刺した。
 自分はこんなにも価値が無い。
 父の威光なければ名前すら呼んで貰えない。鬱々とした空気はやがて表に現れ、ますますクラスメイト達を寄せ付けないものになってしまった。
 自人会が与党から転落して暫く経った日の事。
 アリスは学院内を散策していた。生徒会に居場所は無くなり、寄宿舎に戻った所で優しくしようとしてくれる人達すら傷つけてしまわないかと不安になったアリスにとって、この学院に居る事自体が責め苦でしかなかった為、放課後は門限になるまでうろつくのが日課となっていた。
 中央広場に差し掛かったところで、件の居友御樹の一団に遭遇してしまう。その中には妃麻紀の姿も見受けられる。
「あら、鬱陶しい気配があると思ったら、天原さんじゃありませんか」
「急いでいるので。失礼しますわ」
「またまた。最近は生徒会にもお顔を出していないと聞きましたよ。寄宿舎にも遅くにならないと戻らないとか。何をしているんですかね。まさか、行き場も無くうろちょろしている訳では……まさか、天原さんがねえ?」
 クスクスと、笑い声が響く。
 いつもなら流したところだ。こんなものを相手にしていては、自分がもたない。だが、その日ばかりはアリスの虫の居所が悪かったのだろう。美しい顔を歪め、政敵を睨みつける。
「怖い。なんて顔してるんですか、天原さん。私が何かしましたか?」
「――いいえ。失礼しますわ」
「待ってください。お暇なら、私達とお話して行きませんか」
 見え透いた自尊心、あからさまな優越感、周囲を巻き込む承認欲求。
 アリスは外の立場となって初めて、人の撒き散らす薄汚い欲を実感した。
 そして、今までの自分はどうだったのかと、また省みるようにもなる。
 他から見れば、天原アリスという人物もまた、親の威を借りたいけすかない奴だったのかもしれないと考えると、居友を責める事など出来なかった。
「待ちなさいよ」
 去ろうとするアリスの腕を居友が掴む。それを振り払った拍子に、居友が地面に転ぶ。
 明らかに、わざとだ。
 悪意に満ちた行いに、同時に怒りが湧きあがる。何故そんな仕打ちをされねばならないのか。自分は、それほどまでに今の今まで害悪を撒き散らして来たのだろうか。
「何するの、謝りなさいよ、天原」
「そうよ。居友さん、お怪我はありませんか」
 手を差し伸べる取り巻き達。怒りのあまり涙ぐむアリス。その行いを見て、戸惑う妃麻紀。
 遠巻きからそれを見つめる四つの目。
 居友が立ち上がり、アリスの胸ぐらを捕まえた所で、妃麻紀が止めに入った。
「居友先輩。それはあんまりです。アリスは、何も、そこまでされるような事は、していません」
「ふン。どうしたの、今更になって。状況でアチコチにくっ付くなんて、気の多い子ね?」
「ま、マキ」
「あ、アリスは、その、容姿もありますけれど、目立ちます。それが、気に入らない人も、いるかもしれませんけれど、アリス自身、そんな振る舞いはしませんでした。居友先輩、これは、理不尽です」
「意見するの? 風見鶏。あちこち機嫌とる官僚そのものね?」
「ち、父を馬鹿にしないでください。日本の為に、頑張っているんです。貴女達のお父様やお爺様を、支えて、国を良い方向に導こうと、頑張っているんです。官僚はその……立場上、良い噂なんて、ありませんけれど……」
 居友家は与党党首、つまり現総理を輩出しているが、それ以前に戦前(大東亜)からある財閥の家系だ。妃家は政治に携わって数代続いてはいるが、批判も多い官僚の娘が敵対してどうにかなるような相手ではない。
 ヒエラルキーは確固としてあり、その流れにあるものは、どうしても逆らえない。
 今ここでアリスの味方をすれば、今後麻紀もまた村八分にされる可能性もあるのに、それを覚悟で、前に出てきて、居友の暴挙を諌めている。
「マキ。いい、好きにさせてあげなさい。矮小な自己主張、おおっぴらに晒させて、笑われれば良いんですのよ、こんな奴ら。ごめんなさい、マキ。貴女の立場を考えなかったわ。一度でも友情を疑った私を許して」
「アリス……。ううん。私こそ。みんなに嫌われるのが嫌で、こんな人の後ろに付いてたけれど、間違ってた」
「あ、貴女達。わたしを、こんな呼ばわり? 偉そうに、何様の……」
 つもりと、手を上げた所で、別の人物が眼にも止まらぬ速さで割って入る。
 居友の腕をつかみ取ったのは、運動着姿の生徒。
 そしてニコニコと笑みを浮かべながら近づくのは、あろう事か、七星市子である。
 圧倒的存在力。
 彼女においては、介入に言葉も必要ない。近づくだけで、皆が振り返らざるを得ない。
「美しいわね。ああ、良い、良いわ、アリス、麻紀。貴女達が仲違いしたと聞いて、心を痛めていたのだけれど、やっぱりそんな事は無かったわ。杜花、手を離してあげて」
「はい」
 周囲の空気が緊張に満ちる。七星市子と欅澤杜花の介入だ。それがどれほどの抑止力なのか、その場に居る全員が自覚している。
 居友の取り巻きが皆愛想で顔を作り、突然の事にアリスと居友、そして麻紀はその場で立ち尽くす。
「まさか……居友さん。まさかですけれどその、私の妹に……手を上げるなんて、そんな事は、ないわよね?」
「あ、上げたら、どうだっていうんですか、七星さん。貴女には関係がありません」
「とても悲しい事だと思わない? 一部始終伺っていたけれど、アリスに非があったようには、とてもとても、思えないの。杜花は眼が良いから、見えていたわよね?」
「ええ。あと、居友さん」
「な、何。け、欅澤さん」
「その殴り方をすると、腕を痛めます。日々の生活に支障が出るでしょう。そうだ、お手本をお見せします」
 そういって、杜花は両足を開き、構え、居友の眼の前で腕を振る。
 腰の入った平手は爽快に風を切り、当たれば間違いなく居友の鼓膜を破り、不様にも数メートル吹き飛ぶ姿を簡単にイメージ出来るものである。
「あびっ」
「あ、済みません。髪の毛を数本巻き込んでしまったみたいで。居友さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。あの、欅澤さんは、その、何か嗜んで」
「立ち技系格闘技なら大半出来ます。そうだ、この前総合格闘技部のヘルプで試合に出たら、ほら、格闘技番組の女性部門に出ないかってスカウトが来て。お断りしたのですけれど、想像するとワクワクしますね」
「はい、済みませんでした。みなさん、行きましょうか。七星さん、ご迷惑おかけしました」
「いえ。解ってくれれば、それで良いの。またお茶会をしましょうね、居友さん」
「ご、ごきげんよう」
「はい、ごきげんよ」
 このままでは自信も信頼も自分の顔も吹っ飛ばされると悟ったらしい居友は、取り巻きを率いてそそくさと退散して行った。
 幾ら居友と言えども、七星に正面から喧嘩を吹っ掛けられる程の体力はない。そもそも利益がない。
 残されたアリスとマキは、互いに手を取り合っていた。
 市子は悪戯っぽく笑い、杜花に目配せする。
「アリスさん、最近顔を見せないものだから、市子御姉様が寂しがっていけません」
「杜花様。あの、その……私」
「お茶会、いつでも顔を出してね、アリス。貴女の背景なんて知らないの、私も杜花も、貴女が好きなのよ」
「市子御姉様、それで新必殺技なんですけれども」
「ええ、ええ、そうだったわ。飛び蹴り……そう、飛び蹴りとか!」
「えー……飛び蹴りは流石に……で、でも市子御姉様が観たいなら……」
 そう良いながら、運動着の杜花が、なんかちょっと想像出来ないような飛び上がり方で飛び蹴りを木にキメ、市子が大喝采を送っている。また市子の思いつきで杜花が遊ばれている途中だったのだろう。 しかしタイミングが良かった。
 ああいう介入の仕方は、普通の人では出来ないものだと、アリスは二人の背中を見ながら思う。
「あ、はは。すごい人たちですわ。マキ、知ってます? 杜花様なんて、一般家庭の人ですのよ?」
「そ、そうなんだ。でも、強くて、しっかりしてて、素敵な人だね。ちょっと、変かもだけど」
「……ごめんなさいね、マキ。私、馬鹿みたいに卑屈になって」
「ううん。私が間違ってた。これからも、友達でいてくれるかな」
「勿論。勿論ですわ。こんな立派な人に、ついてきて貰えるような人間にならないと。いつか、市子御姉様みたいに、常に笑って、颯爽とあれる人にならないと。私、頑張りますわ」
「うん。うん」
 人との繋がりとは何なのか。個人としての魅力について、アリスは改めて考える。
 卑屈になりすぎだ。
 麻紀の言う通り、アリスには恵まれたものがある。ただその自信に胡坐をかいているだけではなく、自ら求めて行かねばならない。
 市子は例え七星でなくても、その人を引き付ける力は間違いが無い。
 そして彼女の隣にいる幼馴染、欅澤杜花は、全くの一般人でありながら、人に尊敬されるだけの人格と、自分を押し通すだけの力を持っている。
 決して同じ場所に留まるのではなく、前を向いているからこそ、彼女たちは魅力的なのだろうと、アリスは考える。
「お仕事、溜まってますわよね、きっと」
「会長達から、アリスさん早く連れてきてって、何故か私にまで声がかかっていて」
「……行きましょ。まったく、私がいないと仕事一つ片付かないなんて、呆れてしまいますわ」
「ふふ。うん。アリスらしい。アリスっぽい。私も、手伝う」
 在りし日の思い出。
 天原アリスが初めて敗北し、初めて自分から前に進んだ日。
 思い返せば、あまりにも懐かしく、あまりにも輝かしい、全てが揃っていた、そんな記憶である。
 ……。

 生徒会三役室。
 会長席にて、天原アリスは物思いに耽っていた。有能な部下のお陰で、今日は既に事務仕事も終わり、アリス一人である。ここ最近、とある人々の事を考えると、呆けてしまいガチだった。
 それは欅澤杜花の所為であるし、満田早紀絵の所為でもある。
 杜花については今更だ。
 小等部の頃から杜花は有能であったし、彼女一人いれば何事も丸く収まるという万能機能備え付けの現御姉様である。
 市子という巨大な存在が亡くなって以来、アリスの生活は激変した。そういう意味で、杜花を求めてしまうのは必然的なのだろう。アリスの弱い部分を確実に補ってくれるであろう彼女は、かけがえのない存在なのだ。
 そして満田早紀絵だが……これはいささか扱いに困っている。
 杜花のお付きで、杜花と出会ってからというもの、社交的になり、元来持っていたのであろう明るさを示して、多彩な人間関係を築いている。市子繋がりでの知り合いだが、学院にいる生徒達よりも俗物的で、ユーモアがある。
 つい数日前、お前が好きだと言われてしまっていた。
 早紀絵は性癖が人と異なるとは知っていたが、まさかそんな眼でアリスを見ているとは流石に考えていなかった。
(で、でも早紀絵さんは、杜花様が好きな訳で。ああでも、昔から女の子にちょっかい出してばっかりだし……で、でも支倉さんは? クラスメイトも数人、そう、なんだかちょっと、普通じゃない雰囲気で一緒に居たりするし……クラスメイトどころか、確か先生も……ああ、そういえばこの前校舎裏で、見知らぬ人と、き、キス、し、していたような?)
 同性に告白され、挙句それが節操無しのプレイガールと来た場合、アリスはどのような回答を導き出せば良いのか、まったくもって解らなかった。
 とんと異性に興味らしい興味もないアリスからすれば、同性からの告白も驚愕するほどでもないが、告白した人間が問題だ。ウブなアリスには壊滅的な打撃である。
(友情の範疇。そう、あれは友情の範疇……って、友情で自慰はしませんものね……自慰って……ああ、早紀絵さんなんであんな事耳元でッ)
『アリスは出来が良いから、想像するとムズムズするの。この指がね、貴女の指だって想像して……ここに』
 右耳を抑え、アリスが悶絶する。机に頭をゴツンゴツンとぶつけ、理性を取り戻す。
「はふ。同性愛なんて」
 現代においては、それなりの地位がある。同性愛者の政治結社も少数ながら存在しているし、同性の結婚は二十年前に合法化されている。
 加えて女性の地位はその昔とは違い、例えるなら政治の場、国会を占める男女比はほぼ半分だ。
(……や、やっぱり良いのかしら。でも、非生産的なのは否めませんわ。子供作るの大変ですもの。く、国を背負おうって人間が非生産的な性嗜好っていうのも、問題のような……あ、これは差別扱いか……いえ、ある意味それで売れる? 女性向けの宣伝にはなるかもしれませんわね。って、いや、そういう問題じゃない。私個人私個人……)
 遺伝子工学の発展以降、女性同士、男性同士で子供を作る事が可能になった。ただ、まだまだコストがかかる為、同性結婚した場合は、養子を迎えるか、一生子供無しで暮らすペアが多い。
 が、自分はどうだ。
 なんと、三代続く政治家家系で、親類は実業家であり資産家で、一般的な価値観で行けば将来の憂いはほぼないに等しい。
(あ、私できちゃう、わたくし全然出来ちゃいましたわ、それ。え、いやだから、その、早紀絵さんが愛しいとか、杜花様を何とかしたいとか、そういうんじゃ……違う? 本当に?)
 天原アリス十七歳は、新しい壁に直面していた。
 一度目は父が与党から陥落した事。そのあと返り咲いた為、次は総理だと言われているので、これはクリアした。
 二度目は市子の死だ。あれから一年と少し経ち、ある程度の整理はついている。当時はかなり取り乱し、杜花に何度泣きついたか解らない。杜花には感謝してもしきれないものがあった。
 そして三度目はコレである。己の性について、まさか悩む日がこようとは。
(わ、私。こ、恋をしてますのね?)
 客観的に見てどうなのだろう、と考える。生憎それを知る手段が少ない。人から聞くのは恥ずかしい。悩んだら取り敢えず検索してみたら良いじゃん、が通用しないのがこの学院である。
 この超情報化時代において、観神山女学院は僻地だ。
 いまどき専門書籍など殆ど電子化されているというのに、ここの図書館はそれを印刷して紙にするという二度手間をかけており、通信学習室は許可制でなかなか入れるものではない。となると、休日外に出かける他ない。
 保留、取り敢えずこの感情は保留しよう、そう考えて、アリスは手前の書類に目を通し始める。
 生徒会の仕事は多種多様とあるが、観神山女学院の生徒会は一般的な生徒会と違い、権力こそないが、そこそこ仕事がある。生徒で出来る事は生徒でやるべき、という発想からなっている。
 それは教員が手を抜きたいだけではないかと言われるが、教員は教員でお嬢様方の対応に全力で追われている為、むしろそのぐらいは生徒会でやらないと回りが悪いのだ。
 今アリスの手元にある資料は、学院内に持ち込みしても良いかどうかを伺う陳情書の類である。
 その数は膨大だが、大半は禁制品として処理されるものばかりなので、禁制系統を覚えてしまえば持ち込み可能品の目安が書かれているリストを参照しなくても良い。
(ええと。携帯ゲーム機、小等部か。ダメですわね。携帯、ハイダメ。電子書籍、電子ペーパー、眼鏡端末、これもダメ。小説。小説? 文庫本ね。ライトノベルのレーベルはダメね。ハードカバー装えば幾らでも入れられるのだから、そのくらいの小賢しさは必要でしょう。よくもまあ何度も同じものを……ん?)
 チェックリストにレ点を打ち続けていると、奇妙な品物の持ち込み許可申請が出されていた。
 申請書を見れば、申請者は七星二子とある。
「二子さん? ……嫌がらせかしら、これ」
 申請品『デスクトップPC』とある。だから、電子機器の類は大半がダメで、ましてノートじゃなく携帯じゃなくタブでもなく、デスクトップのパソコンを持ち込みたいなどとのたまう奴がいるとするならば、生徒会の仕事を増やしたいだけの愚か者である。
 今の時代、デスクトップPCは開き直って逆に巨大だ。
 スパコンを構成する箪笥のような機器一台分に相当する。その分頭がおかしくなりそうな程処理速度が速いので、大企業の研究施設や大学には据え付けてあるが、個人で持とうなどという輩は完全に趣味人だ。昔の高級オーディオ一式のような扱いである。
 ちなみに、学院の通信学習室にあるPCはこれに該当する。一台で五十人使用するのだが。
「あとで文句を言いましょう」
 申請書をポイと投げ、次にかかる。
 それから一時間ほど、チェックを掛け続けていると、三日先の仕事が無くなってしまった事に気がついて、ふと手を止めた。
(この調子じゃ来年の仕事まで終わらせて、鬼に笑われてしまいそうですわ)
 時刻は十七時。
 欅澤杜花曰く、もうここに黒い影が出る事はないとの事であったが、仕事も無いのにいつまでも残り続けている理由もないので、アリスは手元の物を片づけ、鞄に詰め込み、三役室を後にした。
 丁度、この前。
 真中から折れ曲がったモップと、掃く部分が吹き飛んだ自在箒、そして賞状の額縁が散乱していた。
 杜花は叩き落とした、などと言っているが、アリスはあまり信じていなかった。
 杜花が嘘を言っているとは思っていないが、あの速度で飛んでくるものを叩き落とす人間がいるのか、と問われた場合即答出来ないからだ。
 アリスも黒い影を一度目撃している。
 二か月ほど前。
 岬萌の話を確認する為、その日は遅くまで生徒会三役室に残っていた。メンバーは三役の三人。天原アリス会長、金城五月第一副会長、権田笑書記である。
 何かしらの自然現象、もしくは間違って生徒会活動棟に入りこんでしまった夜行生物を誤認したのではないかというのがアリスの意見であった。
 が、いざ三役室で控えていると、突然電気が消灯し、窓に黒い影が映った。
 それは音も無く部屋に侵入し、暴風のように部屋の資料を吹き飛ばしたのである。
 中でもアリスに向けられたのは、会計資料をまとめたファイルであった。
 年度ごとにまとめてある為ぶ厚く、落下してくれば怪我をしかねないそれが、まるでピンポン玉のような軽さではじけ飛び、物凄い速度を伴ってアリスの脇を抜けて行ったのだ。
 真っ暗な中、あんなものに反応出来る人類がいるのか。
 それが杜花の意見を唯一否定する理由だった。
 杜花の言葉を信じて、では、再確認の為、もう一度夜まで残ってみようか。
 それは無理だ。幾ら大丈夫と言われても、勘弁願いたい。
 アリスは部屋の鍵を閉め、隣の文化委員室に顔を出す。
「あ、かいちょー。どしました」
「私は出ますから、加瀬井委員長、施錠をお願いしますわ」
「了解すー。あ、かいちょー?」
「どうしました?」
「杜花さんと上手くいってるのん?」
「ばっ馬鹿な事言わないでくださいまし」
「えっへへ。赤くなると会長ちょーかわいいですよ。がんばってねん?」
「失礼しますわ」
「はいはーい」
 文化委員室の扉を閉め、後にまた開けて顔だけ出す。
「んお。会長?」
「……そう、見えます? わたくし」
「観える観えないってか、ダダ漏れ? あ、杜花さん」
「え!?」
「嘘っす。こんな感じじゃなあ……」
「――助言感謝します」
「うえーい」
 自分の事を自分が一番知っていると思っていたところで、所詮はその程度だ。天原アリスという出来た人間も、いざ初めての物事に即時対応が叶う訳ではない。
 似たような気持ちは何度かあった。
 恋愛小説を初めて読んだ時、丸二日その事ばかり考えてしまい、胸の中が熱く、まるでうなされるような想いであったし、友人である妃麻紀が学院を中退し、嫁に行ってしまった時など、悲しいやら虚しいやら、言葉には言い表せない感情で埋め尽くされた記憶がある。
 子供の頃で言えば、七星市子と初めて出会った時などだろう。
 同じ人間である筈なのに、存在として根本的に違うと感じさせられたその日は、頑張っている自分が負けているのではないかと激しく憂鬱であったが、市子と過ごして『妹』になるまでの過程において、もはや恨み妬みなどどこにも無くなり、ただ尊敬の念と心が仄明るくなるような気持ちがあった。
 今は、それらが全てごちゃまぜになったような、未知の感覚がある。
(気づかない振りを、していただけ、かあ)
 アリスは生徒会活動棟を後にし、中央広場を抜けて第一寄宿舎に戻る。
 部屋に戻ると早速鞄を置き、サロンにまで赴いた。
「あら、アリス。今日は早めね」
「鷹無先輩。ええ。調子が良すぎて来年の仕事すら終わりそうな勢いでしたの。だから早く切り上げましたわ」
「有能だねえ。あ、奥に杜花がいるよ」
「……そ、そうですの」
「どしたのさ。顔赤いけど」
「何でもありませんわ」
 鷹無綾音の何気ない発言に、アリスは顔を赤らめる。
 綾音としては、アリスと仲の良い杜花がいるよ、と言っただけだろうが、今現在のアリスは杜花と早紀絵の事について必要以上に敏感になっている。
 これでまともに顔を突き合わせて話をするなど出来るのだろうか、それすら怪しい。
 とはいえ、あからさまに避けては二人に対して失礼であるし、仲違いした、などと噂されるのは避けたい。
 サロンの奥に行くと、窓際の席で杜花がお茶を飲みながら新聞を広げていた。なんだかちょっとサラリーマンのオジサンみたいだな、などと思いつつも、声をかける。
「杜花様」
「アリスさん。前にどうぞ」
「え、ええ。失礼しますわ」
 そういって、杜花の対面に座る。杜花はこともなげに新聞に目をやったままだ。
 欅澤杜花。
 小等部から観神山女学院の生徒であり、小等部の四年生から市子の妹であった。
 品行方正、才色兼備、何をやらせても上手く行く。特に運動は得意らしく、どこの部活にも所属はしていないが、記録会や試合などではヘルプとして呼ばれる事が多々あり……驚くべき事に、陸上県記録にはズラリと杜花の名前が並んでいる。
 本職は実家の道場が教えている古武術らしい。欅澤神道無心流、というマイナーな古武術で、開祖は明治時代のご先祖様だという。
 元をたどると戦国時代にまで行きつく。戦国の世で女性が生き残る為に、悪漢撃退を主とした護身術からの派生で、投げ、当て身、剣術、棒術、薙刀術、それら複合の典型的古武術だ。
 とにかく強い。
 冗談では済まされない程に強く、最近流行りで、良くテレビなどでも放映されている総合格闘技大会では、若年部で優勝。百キロを超す対戦相手を無傷でぶちのめして勝利を掻っ攫っている。
 それだけ強いとなると、女子プロレスラー顔負けの女傑、熊か寅か、といった容姿である事が想像されるが、本人は可憐な大和撫子で、実際のところハーフのアリスよりも胸が大きい。
 世の中恵まれている人はいるのだなと、アリスにとって市子同等の驚きがあった。
「アリスさん」
「なんでしょう」
「その、お恥ずかしい話なんですが」
「ええ、なんでもおっしゃって」
「目玉焼きには、何をかけます?」
「ぶふ」
「あ、アリスさん?」
「い、いえ」
 それだけ完璧なものを備えながら、欅澤杜花という人物は、何かどこか、抜けている。
 完全に仕事をこなしたかと思えば重要な事柄をスパッと忘れていたり、真剣な場面で突然違う話をしたり、テスト回答を全て一段ずらして書いた挙句、猛烈な勢いで終了直後に書き直したりと、上げて行くと枚挙にいとまが無い。
 完璧ではないからこそ、彼女の周りには人がいた。人が居てこそ彼女の穴が埋まり、そして彼女の穴を埋める事が皆の幸せに繋がっているのだ。
『杜花様をサポート出来た』というのは、彼女を慕う人々からすると無上の喜びである。その筆頭がアリスであり、満田早紀絵などだ。
「目玉焼き論争には、気を付けた方が良いですわ、杜花様」
「はて。どういう事でしょう」
「その昔から目玉焼きと言いますと、焼き加減がどうだ、かける調味料はどうだ、という事から争いに発展する事が多々あると聞き及んでいますの」
「なるほど。私、美味しく食べられればそれで良いと思うので、あまり気にしていませんでした」
 カロリー消費の多い彼女は、食べるのが好きだ。本当に気持ち良くペロリと平らげる。あまり気持ちよく食べるものなので、隣で見ている間に食事が終わっていた、なんて事は一度二度ではない。
 アリスは過去、杜花を伴って親類が経営するホテルのバイキングに赴いた事があった。
 三十分でメニューが全滅。
 幾ら他の人が食べていて、皿から減っていたといっても、流石に食べすぎである。
 とはいえ、汚く口の中にかっこむような事はない。常々女性らしく、するりぺろりと平らげているのだから、批難する気も起きない。むしろ周りで見ていた客が惚れ惚れしている程であった。
「ふふ」
「あ、アリスさん? 私、何かその、おかしなこと言いましたか?」
「いえ。ほら、バイキングの事を思い出して」
「ああ、美味しかったですね」
「冷凍食品じゃありませんもの、あそこの料理は」
「美味しい訳です。今思うと、少しはしたないですね」
「いいえ。あのホテル、親族が経営していましてね。後でシェフに伺いましたら、嬉し泣きしながら料理を作っていたそうですわ。私達の料理を、あんなに美しく、残さず、美味しそうに、綺麗に食べる人がいるなんてって。気取って食べる奴は幾らでもいるが、本当に料理を楽しんでいたって」
「美味しい食事のある人生でありたいものです。もう高等部も二年生。そろそろ考えないとだめですね」
 杜花が新聞を畳み、テーブルに置く。
 時間を気にしているところを見ると、そろそろお腹がすいたのだろう。なんだか子供のように見えて、可愛く思えてしまった。
 この先の事。
 今現在、杜花は案件を抱えている。
 これは過去を見つめ直す作業であるし、市子という巨大な存在を捉えなおす事でもある。しかしながら、もう十七歳、来年には大人と扱われてしまう。
 卒業後、アリスは東京の大学に通うだろう。早紀絵は海外に出ると息巻いていた。
 では杜花はどうなのか。
 その有り余る才能、まさか地元で消費するつもりなのだろうか。
「杜花様は、将来はどうするつもりですの?」
「国学院、でしょうかね。地方の神職養成専門学校も考えてます」
「あら。では、お家を継ぐつもりなんですのね?」
「うちは兄弟もいないので。両親は、外から神主を招くから、お前は好きにしろと言われているのですけれど、私は実家が好きです。女性神主、なんか良いですよね」
「あの、私が言うのも、なんなのですけれど。杜花様だったら、何でも出来るし、何にでもなれると私は思いますわ」
「買い被りすぎです。私はそんな立派な人間ではありません」
「……謙虚な発言が、人を傷つける事もありますわ、杜花様」
「悩みどころなんです。ねえ、アリスさん。私は、どこに留まれば、正解なんでしょうね」
 杜花の真摯な眼が、アリスを見つめる。
 欅澤杜花という人物が醸し出す空気は、見栄えばかりの平べったい評価では推し量れないものがある。彼女の空気には質量がある。いざ、本気で向かい合った場合、天原アリスの存在力をもってしても、敵わない。
 尊敬。焦燥。同時に歓喜が湧きあがる。
 自分は、この人に認めて貰っているのだという嬉しさだ。
「出過ぎた事を言いましたわ。でも、そうなる場合、早紀絵さんはどうしますの?」
「さ、サキはその。あの」
「歌那多さん、貴女と離れたら泣き喚きますわよ」
「そ、それはそうですけど」
「あまり大きな声では言えませんが、三ノ宮姉妹辺りも、離れたら爆発するかもしれませんわ」
「いやですから、あの、私はですね……」
「私は、もし貴女の時間が許すならば、同じ大学に通いたいものですわ」
「あ、アリスさんまで」
「不条理に感じるかもしれませんけれど、貴女の立場は、貴女一人ではどうする事も出来ないのかもしれませんわね。ああ、なんでしたら、卒業後もご一緒しましょうか。杜花様の手腕なら、政治にだって食い込めますもの」
 自分は何を言っているのだろう。
 未来の定まらない杜花を見て、遊んでいるのだろうか。
 それとも、本当に本心から、この人物を遠くにやりたくないと思っているのだろうか。
 この学院を離れたら、今までのようにはいかない。
 ご息女の方々は社交界で出会うかもしれないが、杜花のような一般家庭の人間と今後外で出会う確率は低いだろう。
 それは友人として、幼馴染としての感傷だろうか。
 まさか、パートナーになって欲しい、などと、思っているのだろうか。
「アリスさん?」
「話は変わりますけれど、杜花様」
「は、はい」
「実は私、悩んでいますの」
「アリスさんが悩むというのは、余程の事ですね。私で良ければ相談に乗ります」
「実は、私、もしかしたら同性愛者なんじゃないかと」
「ぶふっ」
「杜花様?」
「あ、ええ、まあ。い、一般論で行けば、同性婚も当たり前ですし、アリスさんの生活水準であれば、同性同士の子供も、もうけられると思います。一般論で」
「そういう事ではありません。最近、私の心の中で二人ほど、常に気になっている方がいるんですの」
「ふ、二人。しかも同性で。ああ、それは、大変ですね。けれど、私は思うのですけれど、アリスさんのような家庭であれば、正妻にお妾さん、その他諸々居た所で、誰も迷惑かからないでしょうし、養ってあげられるのならば、それはそれで良い事だと思うんです」
「それは早紀絵さんを例に挙げていますか?」
「サキはその。気の多い子ですし。実家も立派ですし。まして型に嵌められるのも苦手でしょうし」
「杜花様はそれで良いんですの?」
「黙秘します」
「あらら。それでは早紀絵さんが恵まれませんわね」
「こればかりは簡単に答えが出せるものではないので……。それにしても、アリスさん、差し支えなければ、その二人というのは、どんな方なのか教えて貰えますか」
「出来かねますわ、意地悪」
「そう、ですか。その、アリスさん」
「はい、なんでしょう、杜花様」
「ハンカチを」
 不意にこぼれる涙が抑えきれず、蒼い瞳からぽろぽろと流れて行く。
 差し出されたハンカチを、アリスは大事そうに抱えてから目元を拭う。本人達はそれで良かった。
 が、問題は外野である。
 ここは自室ではなくサロンだ。
 周囲には先輩から後輩数人が、アリスと杜花の会話に聞き耳を立てて固唾を飲んでいたのだ。
『欅澤杜花が、天原アリスを泣かせた』
 常々話題を求める婦女子達にとって格好の餌だ。
『御姉様級』二人の対話は、明日にでも学院中を駆け巡り、根も葉もない噂が立ち、耽美な話題として周囲を席巻するのが眼に見える。
 当然普段のアリスなら配慮しただろう。だが、全身を駆け巡るような焦りと苦悩に耐え、何も語らないでいられる程アリスは大人ではなく、まして大人とて難しい。
「アリスさ……」
「失礼しますわ」
 そういって、アリスはサロンを去る。杜花の止める声は聞かないふりをした。
 そのまま自室に引きこもり、ベッドの上に身体を投げ出す。どうしたらいいのかサッパリ解らない。何事にもそれなりの解を導き出し、学院を運営して来たアリスにとって、あまりに不本意だ。
 どこに寄らば正解なのか、どこを向けば正当なのか、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
 胸が熱い。
 頭が沸騰しそうだった。
 全身を血流がめぐり、杜花と、早紀絵の顔を思い浮かべるたびに息が苦しくなる。
 相手が悪かった。
 もしこれが別の人物ならば、ここまで悩まないだろう。
 ただ、あの二人だからこそこうなっている、とも言える。
 女として、男も知らない間に女に気を寄せる事は間違いなのだろうか。
 いやそもそも、愛だの恋だのと言える立場にいるのだろうか。
 それはもしかしたら許可制で、免許が必要なのではないか。
 そう思えてしまうほどに、唐突なものである。
 今の今まで二人を意識しなかった訳ではない。むしろ積極的に杜花を持ち上げていたのはアリスであるし、傍から見れば気がある、と思われて当然だろう。早紀絵の所為で、いざそれを客観的に見つめた結果がこれなのだ。
 早紀絵には困ったものだ。アレは人間関係を掻き回して楽しんでいる節がある。
 本当はアリスの事など大して考えておらず、関係性の破綻を望んでいるだけなのではないか? 杜花が好きなら杜花だけ見ていればいいのに、それが出来ないのが彼女だ。
 昔から、綺麗なもの、可愛いものに囲まれていないと気が済まない性癖である。早紀絵の告白は気まぐれで、そう、大した重要性も無い、戯言。
 だったとしても。
 だったとしても、アリスにはもう、早紀絵がただの友人には見えなかった。
 ああ、せめてどちらかなら。
 せめて一人ならば、ここまで頭を抱えずに済んだだろうに。
(杜花様の香り……それに)
 混乱して持ってきてしまった杜花のハンカチの匂いを嗅ぐ。
 校則であまり強い匂いの香水などはまず持ち込めない為、体臭といえば石鹸の香りだし、洗濯洗剤の匂いだ。懐に入れていた所為だろうか。
 杜花のハンカチは、杜花自身の甘い匂いと、どこかで嗅いだ事のある、柑橘系の香りがする。
「ぐ、ううっ」
 他人様のハンカチで想いを馳せるような気持ちを、友情とは言わない。
「私、ダメになってしまいそう……」
 一糸まとわぬ姿の二人が、自らを包み込むような妄想。
 抱き合って、キスをして……さて、そこから先が、想像出来ない。
(確か早紀絵さんが……でも、指を、どこに……?)
 知識に乏しい。
 だが、追い詰まる精神を見かねた本能は、自らを慰める方法を身体で示す。自分に想像出来る精一杯を思い浮かべながら、アリスは抱き枕を抱え、逃避へと旅立つ。


 ……。
 久しぶりに夢を見た。
 荒唐無稽が常の夢だが、その日観たものはやけに具体的であったし、夢に夢がない、残酷なものである。
 温かい日差しに、色鮮やかな春の花々。
 音も無く静かで、そこにはゆったりとした時間が流れていた。
 寄宿舎北にあるお気に入りのガゼボに、市子を中心として、四人が座っている。
 市子の隣には杜花、杜花の隣には早紀絵、早紀絵の隣には自分。
 他愛のない談笑を右から左から聞きながら、市子が頷き、答え、意見し、微笑む。
 長い黒髪は艶めき輝き、まるで夜空のようだった。
 柔和な微笑みは、暫く逢っていない母を想わせた。
 静かで、けれども聞き取り易い声は透き通っていて、常に耳に心地良い。
 存在自体が子守唄のように幽やかで優しい彼女は、観ているだけで、隣にいるだけで、幸福をもたらしてくれた。
『アリスは、どんな大人になりたい?』
 小さい頃から政治家を夢見ていた。
 曾祖父も、祖父も、父も、叔母も、従姉も、皆政治家であったからだ。
 強迫観念からではない。
 そういった偉大な親族を誇らしく思っていたし、漠然と、日本という国が好きだったからだ。
 ただ、思う所はある。何せ、自分の容姿は西洋人に近い。
 もちろん、母は好きであったし、母の母国が嫌いな訳ではない。
 ただ、青い目で金髪の自分は、極東の島国ではやはり少数なのだ。
 大和撫子が謳われる昨今、この見た目で日本の代表、などと言っていいのか、どうかと。
 素直に吐露する。
 すると市子の反応は明確で簡単だった。
 好きなものを好きで居れば良い。
 外見で精神は決まらない。
 心が人を映すのだと。
 杜花が頷く。
 早紀絵が笑う。
 きっと、学院の外に出れば、少なからず、奇異の目で見られるかもしれない。市子のような意見が一般的ではない事も解る。だが、近しい皆が認めてくれている。
 七星市子が、欅澤杜花が、満田早紀絵が、自分を認めてくれている。こんなに心強い事はない。
 自分は誰にも負けまいと頑張ってきた。
 自分には力がある。
 才能がある。
 そして友がいる。
 馬鹿な事を言ったと、そう謝罪する。
 市子のしなやかな手が、アリスの頬を撫でる。
 杜花の優しい手が、アリスの肩に添えられる。
 早紀絵の、なんだかいやらしい手が太股を撫でたので、それはご遠慮願った。
 早紀絵が膨れ、杜花が笑う。
 未来に夢がある。
 けれども、こんな幸福な日々がずっと続けば良いと、思う気持ちもあった。
 ここはあまりにも幸福だ。
 欲しいものが全てある。何一つの欠落はなく、何一つの憂いもない。十全だ。
 もし、何かがあっても、市子がいる。
 杜花がいる。
 早紀絵がいる。
 そして自分とて、きっと対処出来る事だろう。
 この四人なら、何でも出来るような気がした。
 この四人が居れば、観た事も無い場所にも行ける気がした。
 だが、どうだろうか。
 そんなありったけの幸福が、長く続く訳がないのではないか。
 そう思った瞬間、ガゼボの外は雨天となる。
 花は枯れ、肌を刺すような冷たい風が吹き込む。
 輪が欠けた。一人足りない。
 杜花が憮然とした表情で居る。誰よりも、誰よりも泣き叫びたい筈の彼女には表情が無かった。
 早紀絵の眼が泳ぐ。一番のライバルが去ったとしても、本心では諸手を上げて喜べなどしないのだろう、何せ、倒すべき相手が勝手に倒れたのだから。
 自分はどうか。
 ただ一人、子供のように、泣き叫んでいる。
 あまつさえ、本来もっとも悲しむべき杜花に縋りつき、自分の感情を優先させ、相手に配慮も無く、不様に泣き叫んでいる。
 なんて不躾、なんて愚か、なんて間抜けなのか。我が事ながら怖気の走る光景だった。
 しかし、それが普通、といえば、そうなのではないか。
 姉のように慕った人物の死に、むしろ、杜花は、何故泣かないのか。
『杜花様は、悲しくないのですか』
 その問いに、杜花が静かに答える。
 実感が無く、信じられず、涙の一つも流れてこない。
 ただ少し、遠くに離れただけで、彼女はまだ、生きているのではないか。
 何一つ、自分には信じられない、と。
 その昔一度、父の友人の葬儀に出席した事がある。
 その妻は泣くでも喚くでもなく、夫はどこに行ったのか、そう、周りに聞いて回っていた。
 遺体は直ぐ傍の棺桶の中に居るというのに。
 日が昇り、日が落ち、また日が昇る。
 四季はめぐりめぐりて、三人は近くにいながらも、絶望的な距離感があった。
『御姉様』
 アリスは、耐えきれず、欅澤杜花をそう呼んだ。新たな神を求めた。
 寂しさを紛らわせるために。
 明るい明日が観たい故に。
 杜花が辛そうに頷く。
 早紀絵が嘲り笑う。
 ぬくもりを欲し、二人にしがみ付く。
 杜花にはキスを、早紀絵には、慰みを求めた。
 ……。

「今、何時ですか」
「朝の七時です。ぐっすり眠っていらっしゃった様子ですね。制服のまま、会長には珍しく」
 同室の金城五月が腕時計を見ながら言う。
 今日が祝日なのが幸いした。いや、翌日が休みであると知っていたからこそ、ここまで安心して、服も着替えず眠っていたのだろう。
 生徒会活動棟を出て、寄宿舎に戻り、サロンに赴いて、杜花と会話を交わして……思い出し、思わず顔が赤くなる。自分の衣服の乱れを確認してから、アリスはベッドを抜け出して立ちあがった。
「わたくし、何か変なところ、あるかしら」
「いいえ。そのまま寝た所為か、すこし、もさっとしてるだけで」
「……指導教員のところへ」
「会長は体調不良であったとお伝えしてます。皆は心配していました」
「ごめんなさい、迷惑をかけて」
「杜花様と、何かありましたか。杜花様が会長を泣かせた、なんて話があったので」
「勝手に泣いたんですの。色々極まってしまって。誤解は後で解きます」
「今日は祝日ですけど、どうしますか。生徒会はお仕事も大してありませんし」
「外出届は出してあるので、そうですね、様子を見て」
「了解です。じゃあ、私も適当にします」
「五月」
「はい」
「有難う」
「――いいえ」
 副会長の金城五月は、静かに笑って言う。
 彼女は大変有能だ。そしてとても気遣いが出来る。心からアリスを慕っている人物の一人であり、アリスは卒業後も、彼女にはついてきて貰いたいと考えていた。
 五月はアリスの日常を構成する一端を担っている。
 彼女が声をかけ、彼女が予定を聞き、アリスが答えるというプロトコルを経る事で、どこか非現実めいた場所を漂っていた自分が、現実に引き戻される感覚を得る事が出来た。
 洗面具を手に取り、アリスは共同浴場へと向かう。
 冬とはいえ一日風呂にも入らないでいるのは、清潔好きなアリスには耐えがたい。
 一階の奥にある共同浴場の脱衣所に赴くと、丁度服を脱ぎ終えた早紀絵に遭遇する。この時間ここで出会うのは珍しい。
 というか、昨晩妄想のお供にした相手といきなり遭遇するのは心臓に悪い。
「へいへーい。あれ、アリスじゃーん。大丈夫なの?」
「あ、い、いえ。大丈夫ですわ。ご心配おかけしました」
 全裸の早紀絵はタオルを鞭のようにしならせながら、意味も無く自分の衣服が入った籠をぺしぺしと叩いている。
 もう少しこう、観神山の気品ある生徒としてなんとかならないものか、と思いつつ、アリスも制服を脱ぎ始める。
「制服のままってことは、結局あの後寝ちゃったんだなー。モリカに泣かされたって聞いたけど」
「今日はその話題について弁解し続けなきゃいけないんでしょうね、私は。噂拡散装置の早紀絵さんにお願いしてもいいかしら」
「おうおう。何々?」
「杜花様は何もしていませんわ。私が勝手に泣いたんですの」
「して、どういう理由にしておく?」
「……市子御姉様の事で、とでもしておいた方が、いいんでしょうかね、私達の場合は」
「モリカならそれで納得するでしょうな。口裏合わせるようにしておくよ」
「お代は、今日外に出るので、ケーキで如何」
「おっけーい。で、本当のところは?」
 私興味がありますと、早紀絵の顔が迫る。
 ブラを外して籠に放りこみ、迫る早紀絵の鼻を摘まむ。
「ほがほが」
「貴女の所為ですわ」
「ほが、はにゃして」
「もう」
「いたた。あ、アリス、ブラの痕くっきりー。てか相変わらず綺麗な胸だねえ。ちょこっと触らして」
「どんな嫌らしい手つきで触るつもりですの?」
「酷い。まあ嫌らしい手つきで触るんだけどさ。どう、サキちゃんにもまれてみない?」
 一瞬、夢の中の早紀絵が蘇り、頭を振る。酷い八つ当たりだ。別に早紀絵に非がある訳でもない。ただ、なんとも人間関係にだらしない彼女に腹が立つのは事実だ。
 浴場に入り、シャワーを頭からかぶる。
「ちべたっ」
「おーい。忘れたかい。ここ最初水しか出ないんだぞい」
「わ、わかってますわ!」
「わ、わかってねーだろーと。どうしちゃったの、アリスちゃんや」
 そういって、早紀絵が隣のシャワーを陣取る。どうやっても話を聞きたいらしい。
 とはいえ、工作してもらう手前、話さないのでは筋が通り難い。
「ケーキを増やしますから、聞かないでくださいまし」
「いらないから聞きたいなあ。あ、昨日あのまま寝たなら化粧そのままじゃね。薄いとはいえ水じゃ厳しい。はいこれ」
「うっ……。どうも」
 化粧落とし洗顔料を受け取り、量も考えず顔に塗りたくる。
 なんだか手元が覚束ず、何をやっても加減が怪しい。
「……早紀絵さん」
「あいな」
「早紀絵さんは好きな人が多いですわよね」
「一番好きなのはモリカだよ。次に貴女」
「支倉さんは? クラスメイトの子は? あの先生方は?」
「メイはペットだし、クラスメイトの子、なんだっけ名前。あの子はほら、なんかエッチな事興味あったみたいだから遊んであげただけ。先生方って、良く知ってるね。あの人達はほら、遊び友達?」
「ぺ、ペットって、友達って。あの、私、いまいち理解出来ないのですけれど」
「まーまー。それ理解するアリスってなんかヤだしな。あんねー、アリス」
「なんですか」
「何怒ってんの。まあ聞きなよ。お前さんには不貞に見えるかもしれないってか、まあ不貞なんだけれどもさ、世の中、たった一人だけを愛する人はいないし、お遊びでそういう事したい人だって沢山いるわけ」
「そう、なんですの?」
「そうなんですの。私はそのニーズに応えてしまうような性癖なのよん。ペットちゃんは、あれ好きでやってるし」
「……あの、つかぬ事を聞きますけれど……支倉さんに至ってはまさかと思いますけれど」
「寮でエッチしちゃダメなんてルールないよね」
「うう……」
「これがさ、他人様を養うだけの力もなく、あちこち手を出して関係を無為にするんだったら、まあ問題かもしれないけどさ、解るでしょ、私は彼女達の求める事に応えられる。だからこそ、そういう事をしてるの」
「……いいのかしら、そんなに、気の多い振る舞いをして。好きって気持ちは、そんなに多くて良いものなの?」
「ハッ。じゃあ何ですか。アナタ。市子の次はモリカに乗り換えるって? あれだけ慕ってたのに、一年足らずで。死んだとはいえ切り替えが早くてようござんすね」
 シャワーが熱い。
 アリスは何も反論する術を持たなかった。早紀絵の言う事はもっともだ。
 市子に求め、それが居なくなれば杜花に求め、自分に空いた穴を埋めようと必死になっている。
 その点早紀絵はどうだ。
 彼女は自分で責任を取るという。人との関係を無為に、無下にしないと言い張る。
 アリスにそれだけの度量があればどれだけ楽だったか。
 ましてこうして言いあっている本人こそ、今アリスの心をかき乱す張本人なのだ。
「……。ごめ、言いすぎた。けど、貴女も実感してるでしょ。貴女は寂しい。私は自分の寂しさを抑えきれないから、いろんな子に手を出す」
「それで困ってるんですのに……」
「――はっはぁーん?」
 呟くように言ったつもりだったが、耳聡い早紀絵にはしっかりと聞こえていたらしい。地獄耳であるとは知っていたが、まさかここまでとは。
「……あ、あの」
「あっは。あー、そっか、うんうん。だから悩んでたか。可哀想に」
「か、軽いですわね」
「軽いさそりゃ。でも嬉しい。そっか、私嫌われてなかったんだ。いえね、嫌われてるんじゃないかと思ってさ、じゃあお体で仲良くなろっかな、なんて思ってもいたのだけれど、そっか、それでかあ」
「お体でって……もう。貴女は本当に、色情狂ですのね」
「アリスが求める事で対応を変えるよ。えっちなのが嫌ならしない。だって、好きって言ってくれる子に、嫌がる事したくないもんさ」
「えっと……その」
「前にも言ったじゃん。難しく考えるだけ無駄だってぇさ。別にどんな付き合い方でも良いじゃない。貴女も私も、どうせ未来は保障されているようなもんなんだ。これはさ、恵まれた事だよ。考えた事あるでしょ。自分は恵まれてるって。普通の人には出来ないような人間関係が可能なんだよ。昔は何も考えてなかったけれど、今は父にも母にも感謝してるし、いつかお返ししてあげよって思ってる。私は停滞しない。自分の作ってきた関係も無為にしたりしない。皆で幸せになれる方法を求める」
 シャワーを止め、早紀絵が衝立の向こうから現れる。
 水を滴らせ、艶めく肌を何一つ隠す事もなく、彼女は笑顔だった。
 アリスはシャワーを浴びたまま、振り返る。
 長い付き合いになるが、ここまで考えている子だとは、知らなかった。
「もし、アリスが私を求めてくれるなら、私は貴女を目いっぱい愛してあげられる。もし今求めるなら、直ぐにでも。でも、アリスはさ、純真だから、そんな事したら、ダメなのかもしれないね。もし、モリカの次で良いっていうなら、いつでも言ってね。ああでも、モリカより先にアリスが手に入ったら、そうだ、一緒にモリカ攻略だねえ」
「早紀絵さん」
「ん。なあに、アリス」
「これは、その、誰にも、言わないでくださいまし」
「いーよ。アリスが辛くて泣く姿なんてさ、もう見たくないから」
 そういって、早紀絵は先に浴場を出て行く。
 残されたアリスは、顔からシャワーを浴びながら、自分の愚かさを痛感する。
 確かに早紀絵は一般的な価値観から行けば、とんでもない女なのかもしれない。けれども、残念ながら不公平な事に、彼女はそれが許される立場にある。
 杜花も言っていたが、相手が生きるに都合が良く、幸福であるなら、何人関係を持とうと、大した問題ではなく、むしろ幸福は増えるのではないかと。
 アリスは正妻の子で三女だ。姉二人は異母姉妹、妾の子で養女である。
 妾から、不満の声など聞いたことはない。
 腹の底ではどう思っているかは解らないが、彼女達は父の恩恵を受け、何不自由なく暮らし、子供達も何不自由なく学校に通っている。
 そういう人々からすれば、真実の愛とか、たった一つの想いとか、そんなものは、お笑い草なのかもしれない。
「早紀絵……」
 心の澱が、少し抜けた気がする。ただ同時にその分、胸が余計熱くなった。
 あと、早紀絵のするエッチなことってどんなすごい事なんだろ、などと考え、シャワーの熱さもあいまり、ぶっ倒れた所を後から入ってきた杜花に回収されたりなどした。



「……お恥ずかしいところをお見せしました」
「怖がる事はありません、言ってください、サキに何かされましたか?」
「い、いえ。とんでもない。相談に乗ってもらって、長い間話していたらシャワーに当たりすぎてちょっとアレしただけですのよ、本当ですの。信じてくださいまし」
「そ、そこまで言うのなら本当なのでしょう。でも、気を付けてくださいね」
 昨日から今日にかけて、騒がれる事が多い。
 杜花はアリスにタオル一枚引っかけて抱きかかえたまま廊下を突っ走り、今は自分のベッドに寝かしつけているのだ。
 途中、生徒が何人か悲鳴をあげていたし、また話題になっている事だろう。
 そろそろ取り繕うのも厳しくなってきている。
 もう、この際カミングアウトしてしまった方が楽になるのではないかとすら思う。
 が、流石にそれは難しい。
「サキから話は聞きましたから、それはそういう事にしましょう」
「なんだか、市子御姉様をダシにしているようで、気が引けますけれど」
「頼りすぎてはダメだけれど、頼るべきところは頼りなさいと、御姉様は常々言っていました。最近のアリスさんは、思い悩んでいる様子ですし、御姉様も文句は言わないでしょう」
「はい。ごめんなさい」
「では、失礼しますね」
「あの、杜花様」
「はい」
 引きとめて、何を言う?
 早紀絵に続いて自分の思いを吐露するのか?
 早紀絵はそれで良かったかもしれない。彼女も満足げであった。
 だが、杜花は違う。早紀絵とは何もかもが異なる人物なのだ。
 今の発言を見てもそう、彼女は未だ、七星市子の死を引きずっている。死んだと確実に認めたくはないのだ。
 アリスはもう認めている。
 認めているからこそ、心に穴が開いた。
 認めていない杜花は、では何で埋める気でいるのか。
 今、彼女の中には何が詰まっている?
 不用意につついて、とんでもないものが出て来た場合、アリスは責任をとれるのか。
 アリスは頭を振る。
「ごめんなさい、引きとめて。ありがとうございました」
「はい。無理しないでくださいね」
 杜花が部屋を後にすると、入れ替わりで五月が水差しとコップをお盆に乗せて部屋に入ってくる。
「会長、お水です」
「ありがとう、五月」
「本当に、満田早紀絵に何もされていないんですよね? あの子手が早いって」
「手が早かったら、とっくに食べられていると思いません?」
「ああ、小等部からでしたものね。そうでした」
 水を受け取り、口を付ける。
 そうだ。
 早紀絵は大事に思ったランクで、手の出す出さないを決めているのかもしれない。
 となると、ペットなどという扱いを受けている支倉メイはどんな事になっているのか。想像するとまた熱が上がるので、思考をかき消す。
 頭を切り替える。
 時刻は八時半を過ぎたころだ。待ち合わせは十時であるから、そろそろ身支度を整えねばならない。
 化粧台につき、ドライヤーで頭を乾かしながら日記帳を確認する。
「今日はどちらへ? というか大丈夫ですか?」
「大丈夫。今日は、マキに逢う約束があるの」
「妃麻紀。ああ、お嫁に行った」
 一か月ほど前に逢う約束をした相手だ。
 妃麻紀。中央広場事件以来の親友であり、今は中退して主婦をしている。
 生憎と、観神山女学院の中にいると外の人間との連絡手段が限られる。
 文通は週一度で交わしているが、即時の連絡はまずとれない。緊急の場合職員棟にまで問い合わせる必要が出てくる。
 なので、約束事は相当前から決まっている。
 基本、観神山の生徒は約束となるとまず守る。何事も生徒の良心に頼っているのだ。
 これが破られる事によって、どれだけの損失を被るのか、破った場合のリスクもまた勉強の内に入ってはいるが、そうそう反故はされない。
 立ち上がり、箪笥から下着を引っ張り出す。別段と人に見せるものではないが、見えないところもちゃんと繕うところが几帳面だ。
 普通の高校でも、外出時は制服で、などという所もあるが、観神山の場合、それは出来ない。
 観神山の制服など着ていたら、ナンパしてくださいと言わんばかりだからだ。
 観神山の生徒が被害をこうむるというより、ナンパしてきた相手と相手の家族が大変な事になる可能性が否定できない。
 が、そうあっても挑みたくなるのが男という悲しい生物である。
「五月、どんなのが良いかしら」
「今日は寒いそうなので、厚着が良いでしょう。会長は何を着ても似合うので、センスに口出しはしません」
「何食べる、と聞いて何でもいい、と答えられる感覚ってこれかしら」
「あまり目立つとまた絡まれますよ」
「仕方ないじゃありませんの。私目立つんですもの」
 金髪碧眼、そしてスタイル、どこをとっても良く出来ている。
 外出すると一度は声をかけられるのだが、ただアリスの場合『天原』という印籠がある。観神山の近辺を出歩いている金髪の美少女、となると、もう天原の娘しかいないのは、観神山では常識に近い。
 結局、無難な帽子に厚手のジャケットを羽織い、パンツを履いて、目立たない色のブーツをそろえる、という無難なスタイルが出来あがる。
 化粧の方も、ファンデーションなど殆ど塗らず、目立つか目立たないかのアイラインを引いて、薄めのリップをつけるだけである。
「ああ。無難でも会長が着るとファッションショーですし、お化粧だって別にしなくても美人ですもんね」
「これ以上となると、もう頭から雨合羽を被った方がマシでしょう」
「左様でした。御帰りは何時ですか」
「近くに出るだけですし、四時には」
「了解です。あ、学生証」
「危ない。ありがと」
 五月に見送られ、自室を後にする。
 基本的に手荷物がほとんどない。化粧直し用のポーチ程度である。学院の中にいると、お金の概念がない為、外出時に本気で財布を忘れたりする生徒が続出する。
 一階のゲタ箱正面にある窓口に顔を出し、回収するものを回収して行かねばならない。
「先生、出かけてきます。仔細は申請した通りですわ」
「天原アリス、外出、と。こちらが財布と、その他の小物のはいったバッグ。これで良いですね。バッグ、変えますか?」
「いえ。今日はもう本当に無難なので、無難な黒のバッグで良いですわ」
「そう。妃さんに宜しくお願いします」
「はい、ではいってまいります」
 寄宿舎を後にし、南正門を目指す。
『今日はお出かけですのね?』『私服姿も素敵ですわ』『会長無難すぎでは?』『デートではないみたい』などと声をかけられながら、長い坂道を下って行く。
 正門に辿り着くと、今度は警備室だ。
 とてもよじ登ってどうにかなるとは思えない鉄柵で仕切られたこの正門こそ、観神山女学院が観神山女学院たる象徴のようなものである。
 正門警備には常に三名の警備員がついており、詰め所には更に控えている。
 既に外出組が何人かおり、車が来るのを待っていた。
「天原アリスです」
「天原アリス。はい、確認しました。学生証での承認を」
「はい」
 学生証を機械に通し、やっと外出の準備が整う。
 五分後、固い鉄柵が大仰に開き、送迎用の都市迷彩特殊装甲バスが物々しく現れる。
 それこそ、新型ロケットランチャーや大出力レーザー兵器でもぶち込まれない限りはびくともしない、七星重工軍事部門の傑作車であるが、要人の大量護衛用に重点が置かれている為、見た目には気にかけて居られなかったらしい。ましてバスである。
 バスに乗り込むと、皆が進んで前に座り始める。
 アリスが見渡すと、後輩らしき生徒が微笑み、後ろを勧めた。
 会釈をして後ろに座ると、先輩らしき生徒がアリスの左右に腰かける。
 どうやら上座にお出迎えされたらしい。
「三年の酒井です。天原様は、今日はどちらまで?」
 酒井。おそらく自人会党の酒井議員の親族だろう。愛想で笑って挨拶する。
「ええ、隣町までですわ。お嫁にいった友人と会いますの」
「まあ。観神山にいますと、何かと外界の方にお会いする機会が減りますから、楽しみですわね」
「防犯上、大量に外出許可を出せませんもの、難しい所ですわ」
 観神山の外出手続きは面倒の一言に尽きる。
 まず外出希望届を出す。
 選考で三分の一まで減らされ、そこから外出日、外出理由、外出時間、行先、交通機関、出会う人など事細かい申請を通す。
 これが認められてやっと外出許可が出るのだ。
 外出しようと思ったら、二週間前には申請し、そこから友人なり出会う人と約束を取り付ける必要がある。
 例外といえば年末正月お盆と、忌引きや通院、個人の宗教行事ぐらいだろう。
 バスは第二南正門を抜け、警備員寮の前にある検問をくぐって行く。
 山沿いにある観神山女学院に伸びる舗装道はこれ一本である為、ここを通る車、人間はすべてボディチェック、荷物チェックをされる事になる。
 北、東、西の三方は各種運動場や馬場などに伸びている為、一般人は入らない。
 実質観神山女学院の敷地は門の外数キロまで広がっている。
 曲がりくねった森林の道を抜け、漸く田畑が見えてくる。ここから暫くは平たんな県道だ。
 十数分後、観神山市街に入る。
 整った街並み、ゴミ一つ落ちていない道路、計画的に伸びる欅の並木、清潔すぎる程のこの町こそ、観神山が観神山として全国に名をはせる理由であった。
 七星の恩恵を受け、私鉄周辺に円を描くように区割りされたこの街は、駅から数分の場所に七星の各種研究施設、川沿いには工場、市立小、中、高校、街中には人口に分不相応な大病院『観神山医療センター』がそびえ立っている。
 市に大恩恵をもたらしているという意味を考えると、市立学校も含め、その全てが七星出資である。商店街はそれら企業体に従事する人間達の為にあると言っても過言ではない。
 そして一番特徴的なのは、整い方が平成の空気なのである。
 確かに清潔感溢れ、どこもかしこも整備されているのだが、どこにでもあるホログラムネオンの看板は一切無し、清掃用アンドロイドは一体も居ない。
 街のコンセプトが『古き良き平成の街並み観神山』であるからして、他の区画整備された街とは一線を画す。
 建築物はどこか古臭く、うたい文句も何か遠くから聞こえてくる音楽のような虚しさがあり、観光用の屋根付き自転車なるものすら走っている。
(何時見てもへんな街ですわ)
 特殊装甲バスは駅前のバスプールで、観神山女学院専用のバス停に止まる。そこには既に迎えの人間が犇めきあっていた。
 小銃装備の警備員が降り立った後、後輩が先に道を慣らし、アリスにおべっかを使う先輩が後から出て、最後にアリスがバスから降りる。
「アリスお嬢様、お待ちしておりました」
「武藤。御苦労さま」
 バスから降りると、そこで待っていたのは武藤と呼ばれる男である。
 身長は明らかに2メートルを超え、筋骨隆々の肉体が黒いスーツ越しにでもすぐ解る。切りそろえられた髪にサングラス、という典型的で解りやすい、あからさまなBGだ。
 その男が、武藤に負けず劣らずの男たちを更に三人従えている。全員国軍部隊訓練課程修了者だ。
「十時に待ち合わせているわ」
「畏まっております。此方へ」
 バスの近くに止められた黒塗りの車に、更に一人。此方は細身で白髪だが、身動き一つ一つが瀟洒で、長い間奉仕に従事していると一目で解る。
「爺。今日は貴方が運転なの」
「はい。何せお久しぶりです。たまにはアリスお嬢様の御顔を見ておきませんと、老いてしかたありません」
「むしろ若くなったように見えましたわ。元気ですのね」
「はっは。老いはしますが、あと百年は死ぬ気がしませんなあ。ま、ま、ご搭乗ください」
 運転席に爺、助手席に武藤、後の席にアリスが座り、他のBGは別の車で後ろを続く。
 観神山の人間がそれを目撃すると『あ、今日は天原のお嬢様が外出てるんだな』とすぐ解ってしまう辺りが、あまり防犯に適していないが、アリスの祖父も父もアリスを溺愛している為、外に出るとなると、これぐらいしないと落ち着かないらしい。
 今日の用事は隣町にある。
 観神山市の中心街である欅町の隣、和泉町だ。
 此方は観神山市観神山区の商業モデル街として作られており、隣の市からも多数の人が集まる。欅町はあくまでも七星のモデル都市だ。
 駅から車で五分程度の場所だが、研究員の白衣や作業労働者がちらほらとする欅町と違い、若者の数が多く見て取れる。
 アーケードの入り口にある『ぼくら友達』と名付けられた陽気なアメリカ人男性のブロンズ像前が待ち合わせ場所だ。
「ぼく友、ありましたな。相変わらず陽気ですな」
「目立つので見つけやすいのはいいのだけれどねえ。陽気ですわねえ」
 ちなみに陽気なアメリカ人男性の像は、日本各地に点在する。
 軍事同盟国として初めて本土占領地における奪還合同作戦を成功させ、勝利に導いた記念だという。陽気なアメリカ人男性がビール片手にロケットランチャーを構える姿が何気に剣呑だ。
 しかもモニタリングポストも兼ねているらしく、そこには今日の天気と風向き、そして『0.04μsv』と表示されている。かなり恣意的である。
「アリスー」
「ああ、マキ、お久しぶりね」
 相手は直ぐに見つかった。まだまだ幼さを残す小柄な少女だが、既に人妻だ。
 小等部以来の友人であり、中等部での出来事以来アリスの親友として付き合いがあったが、両親の都合で学院を中退、十六を迎えるのと同時に結婚した。
 政略結婚であるのは当然だが、観神山女学院ではさして珍しくもなく、こういった事例は幾つもある。麻紀の場合、見合い相手が『アタリ』だった為、夫婦仲は円満であるらしい。
「元気みたいね。旦那様もお元気かしら」
「元気だよ。朝も夜もさあ」
「あー、そういう話はお茶でも飲みながらにいたしましょうね……。武藤」
「はい」
「いつも通り、少し離れて歩いてくださいましね。物々しくって仕方がありませんわ。あ、頼りにはしてますのよ?」
「こんなナリですので。いえ、旦那様にも、もう少しなんとかならないかとご相談したのですが」
「あの人たちにも困ってしまいますわね。では、宜しく」
「はい、ご安心の上、どうぞお楽しみください」
 頼りになるのは良いのだが、何につけても目立って仕方が無い。BGを伴う場合、いつもだいぶ距離を取るようにしている。
 もし喫茶店などに入った場合、一人が監視で他は外で待つ事になる。
 そうしなければ、大型な大の男が四人も同じ席でコーヒーを啜るという恐ろしい光景が広がり、一般市民を恐怖に陥れるハメになる。
「じゃあ、少しアーケードを見て、その先にある喫茶店に入りましょ」
「ええ、ふふ、楽しみだわ」
 武藤が指示、BG二人がアーケードを先行して進む。これから二人は喫茶店の内部に不審者がいないか確認し、席もとらねばならない。
「それ、良いお洋服ですわね」
「ああ、あっちのお店で買ったの。見に行きましょ」
 アーケード内には一般的な洋服店、化粧品店、グッズショップ、家電量販店などが立ち並ぶ。
 若者の街らしい色どりが、アリスには新鮮に思えた。
 何せ学院内は色が少ない。自然色といえば沢山あるかもしれないが、こういった人工的な色に光が満ちた場所に長い時間いる事がまずないからだ。
 各種店舗のホログラムネオンが浮かび、呼び込みのマスコットキャラクターが小躍りしながら風船を配っている。
 どうやら携帯ショップのキャラクターらしく、宣伝で配っているのは七星の最新式の広告データだろう。マキが携帯を取り出し、広告を受信する。
「小さい機種ですのね、貴女の」
 マキが取り出したのは、三角形で、掌に収まるサイズの携帯だ。
「うん。あんま難しい機能使えなくって。学院の弊害ともいえるかなあ」
「あそこ、電子機器なんて殆どありませんものね。ああ、そういえば杜花様なんて、ほとほと家電に疎くて……」
「杜花さんとは上手くやってるの?」
「うっ。上手く、上手くやってますわ。お友達として」
「うん? そりゃお友達としてでしょ。あ、え? アリスそういう?」
「……貴女は外の人になってしまったものね。今日は、実のところそういったお話もしたくって」
「うんうん。まかせてまかせて。人生経験が一挙に増えたマキに任せなさい」
「不安ですわ」
 武藤の荷物が増えて行く。アリスも麻紀も、カード残高など気にした事はない。
 アリスに至っては、カップラーメン一つの値段とてまず知らないだろう。
 そもそも大半のものの値段すら見ていない。店からすれば良客も良いところだ。オススメされれば、その物の用途は知らねど、デザインが気に入れば購入である。
「アリス、それ何に使うの?」
「それが私にもサッパリ解りませんの。でも、可愛らしくってよ、これ」
「あ、あっちのもカワイー」
 普段、学院の生徒達を戒める立場にいるアリスだったが、外に出れば他の少女達と何も変わらないはしゃぎ様だった。
 価値観はいささかおかしいかもしれないが、ここでは他と同じ、若いお客様である。
 アーケード内の店をきっちり、冷やかしたり馬鹿みたいに買ったりとしながら、目的の喫茶店を目指す。
 その間武藤の部下は、預かった荷物をアリスと麻紀の実家に発送する手続きで忙しかった。
「おいっすー。ちょっといいかな?」
 と、その道すがら、スーツを着崩した男が割って入る。
 後ろに似たような男が二人いる為、これは声掛け要員だろう。浮ついた空気はあるが、なかなかの美丈夫である。
「あら、マキのお友達?」
「ううん。知らない」
「そうそう。それでさ。お友達なりたいなあって思ってさあ。君たちすっごく可愛いよねえ」
「あら、お口がお上手ですのね」
「そりゃ可愛いでしょう。アリスが可愛くなかったらもう他の女の子が泣いちゃうもの。ねえ?」
「い、いえ。流石にそれは言い過ぎですわ」
「あー。あんま観ないから、もしかしてミカジョの子かな?」
 ミカジョ。
 アリスには聞き慣れない単語だが、つまるところ私立観神山女学院の略語である。
 お嬢様でハイスペックで将来は保障されている。
 上手い事垂らし込んだら大当たりだが、実際のところ宝くじに当たるより確率は低い。
「武藤、知らない人でしたわ」
「君、どこの店の子かな」
 アリスが声をかけると、柱の影から大男が現れる。
 黒ずくめ、サングラス、二メートル、筋肉達磨。
 最高の当たりを引いたと舞いあがっていた青年の血の気が一気に引いて行くのが、周りから見ても直ぐわかった。
「で、ですよねー。いや、可愛らしい子だったもので、お、お兄さんも解るでしょう?」
「解りますな。お嬢様方は美人で。故に悪い虫がちょこちょこと寄ってくる。それで、ご用件は」
「あ、ウッス。ウッス。お友達、いらないー、かな?」
「生憎と間に合ってますの。ごめんなさいね、貴方」
「だ、そーです。ほんじゃま、失礼しまッス」
「ああ、またいつでも声をかけてきてくれたまへ」
 武藤の頷き一つ、浮ついた男と取り巻き二人は、ヘコヘコ頭を下げてどこかへと散って行った。
「お疲れ」
「アリスお嬢様。やはり最初から私が出て行った方が良いのでは」
「それも面白くないでしょう。世の中いろんな人がいるんだって、知っておかないと損ですわ」
「左様ですか。では」
 声はかかる。それを即座に退けたりはしない。
 折角相手様からお話を頂いているのだ、外の人間と会話する機会の少ないアリスには貴重なものである為、不審な者でも即座に武藤を仕向けたりはしない。
 まず話を伺い、利益が無いと感じたら武藤を差しだす。
 実際のところ、お茶をしながらお話しましょう、ぐらいならばアリスは受けるつもりでいる。
 今回は明らかに『お店』の人間だ。
「風俗かな、キャバかな、アダルトビデオかも?」
「風俗ってその、性行為を提供するお店ですわよね」
「あはは。風俗を『性行為を提供するお店』なんていう人初めて見た。まあそうだけどさ」
「私、男性とお付き合いがないものですから、性欲というものが、男性にとってどれほど解消したいものなのか、良く分からないのですけれど」
「あー。私も旦那様しか知らないけどさ。可愛い子とか、胸の大きい子とか見ると、えっちしたくなるんだって。うちの旦那様は、胸が無い子が好きらしいけど」
「た、大変ですわね、男性は。なるほど、最古の職業が売春とはよく言ったものですわ」
「そういう知識はあるのね。どういう事するか解る?」
「保健体育程度には」
「だよねえ。アリス、口でするのってなんていうか解る?」
「口……? なんですって?」
「あははは! ううん。いい。知らなくて良い」
「……うん?」
 武藤の顔が赤くなる。よっぽどの事なのだろうと、アリスはなんとなく納得した。
 アーケードの出口付近にある喫茶店に辿り着くと、中から先行していたBG二人が出てくる。
 レトロな雰囲気があり、イメージとしては昭和だ。
 その趣に体験はないアリスだが、無性に懐かしさを感じる。
 中に入ると、アリスの家にも居るような質素なメイド服を着たウエイトレスが案内に現れる。
「二人です」
「奥のお好きな席へどうぞ」
 あ、席まで案内してくれる訳じゃないんだ、などと軽くカルチャーショックを受けながら、アリスと麻紀は窓際の席に腰かけた。
 あまり大きな規模ではないが、席はゆったりと設けられており、何時間でも居座って寛げるようになっている。
「何頼む?」
「……甘いのが食べたいですわ」
「それじゃ」
「ご注文をお伺い致します」
「この、チョコパフェ一つと、ケーキセット一つ、お茶は紅茶で」
「畏まりました」
 武藤他BGは野外席で待機だ。
 祝日の昼だが、グレードが高い店らしく、客は疎らだ。
 コーヒーと木の匂い、趣味の個人ラジオ放送局が、一昔前の音楽を流している。
 一か月に一度あるかないかのお出かけも、泊りがけは殆どない。
 だが、アリスはそれを不自由と思った事はなかった。
 観神山女学院で暮らしてもう十一年になる。
 生徒も教師も女性。たまにいる男性といえば警備員や出入り業者程度だ。
 今、目の前にいるのは、学院の外に出た人。
 彼女も長い間学院にいて、異性など知らず育った。
 彼女自身は、勝手に親が決めた結婚に最初こそ反対していたが、相手方と見合って合意したという。それは恵まれた流れだ。
 いきなり初対面の男と結婚しろと言われた場合、アリスならば烈火のごとく怒るだろう。たとえそれが気に入る男性だとしてもだ。
「順調ですのよね、ご実家は」
「代々官僚でしょ、曾祖父も祖父も父も。色々あるのよ、アリスなら解るでしょうけど。でも、ちょっと前まで死んだ魚みたいな眼してた両親は、良く笑うようになった。伏せてあるけれどね、あの議員の息子さんとなんだけれど……」
「あ、ああ。あの……まあ、見る限りは納得していますのよね?」
「最初こそ怒ったけれど。私がさ、あの学院で育ったお陰で、立派に『お嬢様』として見られて、相手方も気に入って貰えたんだ。自由がどれほど大事なんだろうって、良く考えさせられた。不自由でも、未来に生きて行けるだけのものがあるなら、それに託したっていいんじゃないかと、思うようになった」
「自由、ね。結局のところ、自分がどう思うか、ですわよね」
「私は、この結婚に幸せを見つけようと考えた。学院は強烈なコネクションも、わずかだけど自活能力も頑張れば養えるし、なにより『観神山女学院のお嬢様だった』って最強の学歴が貰える、中退でもスゴイよ、本当に。だから本気で見合いが嫌なら、蹴飛ばして一人で生きるって選択肢だってあるんだから。あそこに通わされると『親に強制されて無理矢理』とか『女だから商売の道具にされた』とか、言えなくなっちゃう」
「資料を読んだり、お婆様のお話を聞く限り、責任の負い方を覚えたのだと思います。女性という人たちが。学院の人たちは、例え根っからのお嬢様でも……まあ、私もその類ですけれど、『女性率先思想』を学ばされますし、根強いですからね」
「なるほどねえ。責任って言えば男、みたいな空気、昔はあったみたいだしね。私もさ、商売道具にされてるんじゃないかって思ったよ。でも、良く考えたらさっきの通り。私一人が旦那様と結婚することで、みんな笑顔になれた。政略結婚だって、そんなに悪いものでもないよ。もちろん旦那様が優しいってのはあるけどさ」
 アハハ、と笑う。
 学院は、お嬢様を作る場所だ。
 過去様々な女性何たるかを学び、そして女性が今後あるべき姿を模索する社会実験場でもある。
 新しい思想に支えられた古い場所。女性の世代境界線上だ。
 決まった呼び名は無いが、今の社会には『女性率先思想』とも言えるべきものが一部に存在する。
 女性という性に流されず、胡坐をかかず、積極性、率先性を持とうというものだ。
 社会全体に浸透している訳ではないが、いまどきの女性達は少なからずの影響を受けている。
 観神山女学院で育つという事は、その思想のモデル型になるという意味もある。
 学院の星であり、将来政治家を目指すアリスはその中でもかなり先頭集団にいる。アリスの形が正しいか否かは別として、アリスは『新しい時代』の『強い女性』の卵なのだ。
 そして今まさに、天原アリスは新しい価値観と古い価値観、そして己の性癖の善し悪しに頭を悩ませていた。
「それで、欅澤杜花さんとは、どんな感じなの?」
 注文品が来る。想像していたよりも大きい。
 チョコパフェを切り崩しながら、麻紀になんと答えようかと思案する。
「友人としては、大変良好ですわ」
「アリスは、杜花さんが好きなの?」
「きっと、好きなんだと思いますわ。ただ、ままならないものがありまして」
「ままならないとは?」
「関係相関図を説明するのに苦労しますわね。早紀絵さんがいますでしょう」
「ああ、杜花さんのお付き」
 市子がいて、杜花がいて、早紀絵がいて、自分がいる。
 市子は亡くなり、杜花はそれを引きずり、アリスはある程度心に整理をつけたが、早紀絵が攻勢に出て、杜花とアリスを両取りしようと企み、なおかつアリスはそんな早紀絵も気になっており、しかし杜花が気になってしょうがない、という図だ。
「う、うわああ。なにそれえ、面白い。なんで私が居る時にそうならなかったのかな」
「あまりそういう事を言うものでは有りませんわ。発端が市子御姉様ですもの」
「そうでした。ごめんなさい。そっか。前にも言っていたね。でも、市子様が亡くなってから、相関図がえらい事になってるのね。ってか……アリス、杜花さんはまだしも、なんであんな女スケコマシを」
「……み、皆が思っているより、ずっと良い子ですのよ? ちゃんと未来の事も考えていて、責任を持って皆を愛してるんだって、豪語するような人ですもの」
「あー。ある意味男じゃなくてよかったね、それ。男だとほら、子供出来て大変な事になるし」
 甘い。
 甘みが舌を通じて脳を動かしているような気がする。アリスは値段など気にしていないが、立派なパフェである。それこそ一般家庭三人分の夕飯よりも高い。
「……市子様か。すごい人だったね。その人を一番愛してた杜花さんが、彼女の事引きずるのは、解る気がする。つまり、早紀絵さんはまあ、なんとかなるとしても、杜花さんはどうしようもなさそうってこと?」
「……早紀絵さんに関しては、好きで間違いないと思うんですの。でも、杜花様に関しては、これは姉妹の感情なのか、それとも恋やら愛やらの類なのか、判じかねていますわ」
「考える余地あるかなそれ。私も流石にそんな難しい感情は解らないなあ。二人好きでもいいじゃない? 早紀絵さんは別に、貴女が杜花さんを好きでも良いのでしょう。早紀絵さんは杜花さんが好きな訳で、貴女も好き。じゃあ二人の問題はただ一つ、杜花さんだけじゃないの?」
「ああ、ああ、そうか……」
「うん、なに?」
 抱いていた疑問が、形を見せ始める。
 確かに二人が好きだ。
 ただその中でも杜花に関しては、早紀絵に対する好きより、もっと違うものを抱いているような気がしてならなかった。
「……一番になれないから」
 杜花の一番にはなれないのではないか、という苦痛。
 そしておそらく、それは早紀絵もなのだろう。自分では杜花の一番にはなれない。
 死して尚、強烈な壁が存在する現実が、恐ろしいのだ。
 早紀絵に関しては、アリス程悩まないだろう。そもそも強大な壁である市子に想いを寄せていなかった。
 しかしアリスは違う。
 市子を好ましく思いながら、杜花を好いているのだ。
『市子』という要素を完全排除しろと言われて、出来る程にアリスの心は腐っていない。
 まして――それを、欅澤杜花に面と向かって言えるか? 忘れろと? どだい無理な話である。
「一番じゃなきゃ嫌?」
「そもそも、杜花様は、他の人に見向きをするかどうかすら、怪しいですわね」
 生徒会室での事を思い出す。
 欅澤杜花という一人の女性が、その全てを見せていたという市子。
 市子と、自分、何が違うだろうか。
 言われずとも、市子の完全ぶりは嫌という程知っている。だからこそ、どの部分がどう違うのか、アリスは確かに自覚出来た。それを見比べ、重ね合わせ、しかし、自分が市子の半分以下、などという事はまずない。アリスには強い自信と矜持がある。
 人が人と比べる以外の何かを市子が持っていたからこそ、欅澤杜花はその全てを晒したのだろうか。
 思い出?
 恩義?
 単純に容姿の好み?
 まさか、財産ではあるまい。
「アリスゥ」
「何かしら」
「恋してる顔。あはは、私はほら、異性愛者だし見合い結婚だから、貴女の気持ちを全部解ってはあげられないけど、人を強く思って、思い悩んでいるのは感じ取れる。お遊びお戯れじゃあなく、本気で好きなんだって」
「……たとえば男女の付き合いで、キスって、どの程度のレベルなのでしょうか」
「日本じゃ挨拶でキスはしないよ」
「で、ですわよね」
 頬を撫でつける。
 あれはキスをしたのではなく、キスをしてと強請ったからしてもらったのだ。
 過去、何度かそうやって、杜花を困らせている。
 ああ、と思い出す。
 早紀絵はまだだと言っていたか。
 では、今のところ、自分は早紀絵よりも杜花に近いのではないかと、不思議な自尊心に駆られた。
 杜花に認められていると自覚すると、それだけで心が熱くなる。
 唯の人では無理だ。
 それが『そういった才能』を持ち合わせていない限り、認められたからといって興奮したりはしない。
 ――市子が持っていたもの。
 杜花が持っているもの。
 それを与えられる自分。
 決定的な差はそれかと、心の中で頷く。
「例えば私が貴女を認めたとして、貴女って興奮します?」
「何それ、私そういう性癖ないけど……え、アリス……わた、私はその……」
「ちょ、ち、違いますわよ。そんな無節操じゃありませんわ、わたくし」
「びっくりさせないでよ、もう。あれでも……アリスってボディタッチ多いし……」
「うー……」
「うっそ、嘘だってば。何その可愛い顔、アハハハッ」
「もう、貴女、学校を出てからだいぶ変わりましたわよね、冗談も言うし」
「学校とは違う意味で楽しいんだと思う。いろんな事を知って、これからの未来も描けるようになったからさ。元観神山女学院生の名に恥じないように、旦那様をバックアップして行くわ。ああ、たぶん、アリスの政敵になっちゃうけど」
「負けないように頑張りませんと」
「うんうん」



 それから、様々な事を話した。
 学院での出来事、面白話、麻紀が仕入れて来た『お嬢様には理解できないもの』の数々や、世間一般の暗黙の了解を暗黙せず語ったりなど、話は尽きる事がない。
 特にワイ談は盛り上がった。
 無知なアリスの知識が増えて行くのが、麻紀は楽しくて仕方が無かったらしい。
 楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。
 途中『ただ居座るのも悪いから』という理由で、セットメニューを次々頼んで武藤達に処理させるなどしていると、時刻は三時を過ぎていた。帰宅は五時にしてあるが、早めの方がリスクが少ない。
「……ん、く。薬飲むの苦手」
「あら、ご病気?」
「実はねー、妊娠したの」
「あ、お、おめでとうございます。なんだ、なんで早く言って下さらないの?」
「解ったの最近だし、早い段階だから、いつ流れちゃうとも知れなくって、不安でさ」
「なるほど、それでタブレットなんて飲んでいるのね」
「何せ健康だったでしょう。飲み薬なんて殆ど頼らないで生きて来たから、タブレットでも飲み難くってないわ」
 彼女が水と一緒に飲み下したのは、おそらく放射性物質除去薬だろう。
 五十年近く前の震災以降製薬研究が加速し、更にその後、アジア戦火危機での工作員による暴動で原発が狙われ、二つの原子力発電所が被害にあい、人的被害を減らすために国家事業として研究が進んだ結果、安価で高効率、副作用が大変少ない除去薬が日本には普及するようになっている。
 妊婦は特にそれを気にする為、妊娠が解ると常備薬とするのが一般的になっていた。
『ぼくら友達』の像がやけに陽気なのは、そういった後ろ暗い世界情勢の裏返しでもある。
 そもそも現在、日本国は『戦時中』だ。
「とにかくおめでとう。そっか、子供。いいですわね」
「どっちが母体になるか解らないけど、アリスからの報告も待ってるね」
「あ、貴女ねえ……。ああ、でも。うん。ふふ。私まで嬉しいですわ」
「ありがと。そろそろ行こうか? 時間不味いよね」
「あっと。では、次は……年末は厳しいですわね。一月の中当たりにしましょう。細かい事は後で」
「うん。楽しみにしてる。旦那様も連れてきていい?」
「勿論」
 来月、つまり十二月は無理だろう。次に逢うとなれば一月で、落ち着いた頃が妥当だ。
 アーケードを抜け、妃麻紀に名残惜しみながら別れを告げる。
 楽しい休日はここで暫くお別れだ。
 とはいえ、学院が嫌いな訳ではない。ただ少しだけ、件の人物と顔を合わせにくいだけだ。
「お楽しみになられたようで」
「お腹いっぱい?」
「頼みすぎです、おじょうさまっぷふ」
「ふふふ」
 ただ、親友との語らいは大いにアリスの精神を和らげた。
 欅澤杜花は、今まさに整理の段階にいる。これを待ってから改めてアピールしたところで遅くはないのではないか。まさか、一生に渡って市子を思い続ける訳でもあるまい。
 彼女が幾ら強靭な精神と肉体を持ち合わせていようと、一人の人間であり、少女である。
 これは逃げだろうか。
 市子を忘れられる程魅了してみせると意気込んだ方が『らしい』だろうか。
 だが、それには踏み切れそうもない。
 アリスもまた市子の抱擁を甘受していた人間である。杜花がどれほど深い傷を負っているか理解しなければいけない人間だ。
 もう杜花に頼って、己の心の隙間を埋めるような真似は止めよう。
「御帰りですか。爺は寂しく御座います」
「はい、はい。おじいちゃまは寂しがり屋ですわね」
「あたた。これは痛い。では、老骨めは車の運転でもしましょうかな」
「宜しくね。いつも有難う」
「とんでもない。私は天原にお仕えして、天原に死ぬのが名誉で御座います」
「もう、ほら、行きましょう」
「はっは。では」
 和泉町を後にし、欅町にまで戻る。物々しい送迎バスは、防犯の為ランダムで迎えに来る。
 今日は四時五分、五時五十分、六時二十分が最終である筈だ。
 バスの姿はまだ見えない。駐車場で時間を待とうという爺の言葉に頷きかけたが、視界の端に映った姿を見て、アリスは車を止めさせる。
 七星自動車工業の有名な防弾車両が一台、駅前のバス停近くに止めてある。
 特殊仕様のそれは、皇族などが利用するものだ。
 まさか、こんな辺境にご一家が現れる筈もない。
 良く見ると、バス停近くに小さい、しかし異様なまでの存在感を感じさせる影が見受けられる。
「……七星ですな。重役が研究所の視察でしょうか」
「いいえ。二子ですわ」
「七星の秘蔵っ子。町に遊びにでも着てるんでしょうかねえ」
「詳しいかしら、爺」
「旦那様を通じて聞いているところだけです。七星二子。本名は一条二子ですな」
「そう、でしたわね。彼女、半年前に転校してきて、今になって寮に入ってきたんですのよ」
「承知しています。七星市子の死後に養子として迎えたとか。妾の女性は京都の方で、未だ本家には招かれていないそうです」
「一郎氏の奥様は?」
「本家に居るそうです。ただ仔細が伏せられていて、その正妻がどこの誰なのか……それすら、怪しい限りです。二子嬢は市子嬢に似ておりますな。では種が強いのか。いや、七星のトップに昇るような人物、そら種も強いでしょうな」
「複雑な家庭ね」
「七星に単純なものはいません。一郎氏も、元は研究所の主任研究員だったそうです。実績が認められ、上まで上り詰めたそうですが……大体、そういった人物は過去を消したがる。私達に知る由はないですな」
 七星。
 日本国のあらゆる分野に手を伸ばす、現日本国王家だ。
 その権力は凄まじく、何かしらの悪事を働いたとしても、誰からも非難の声があがらない程、驚異的なものである。
 勿論指摘する人物はいるが、突然掌を返したり、いつの間にか政界を引退していたり、どこかに天下っていたり、死なない形で消えて行く。
 アリスの知る限りで与党に十人以上、七星姓を名乗らない七星がおり、野党や弱小政党にまで七星家の人間はいる。
 司法行政立法その全てに彼等は潜んでおり、挙句の果てに非合法なアウトロー集団まで七星傘下であるとすら噂されていた。ともかく、かの家に楯突く者は皆から見えなくなる。
 うすら寒い。
 そう思って当然だろう。
 だが日本国において七星は血液だ。彼らが廻らなければ、日本国は回らない。
「二子について、何か他に知っている事はあるかしら」
「私の知っている事といえば、七星にはあまり足を踏み入れないのが一番良い、という事ですな。しかし市子嬢の死は天原家としてもイレギュラーでした。おっと、口が滑りましたな」
「いい。言って、爺」
「解りますでしょう。天原は政治一家。七星は王。付け入る隙があるのならば、です」
「ある程度予想はしていましたわ。そう。お父様も悔しがっていた事でしょう」
「爺は、アリスお嬢様の幸せを願っています。強い女性が、強く羽ばたいて行く姿を、見せて貰いたいのです。だから、お嬢様。お好きに生きてください。旦那様も強引なところがあります。貴女がそれを好しとしないのならば、父だからと容赦する必要はない。蹴飛ばしてやればいいのです、あのハナタレを」
 アリスの父、藤十郎が子供の頃から面倒を見ていた爺だからこそ言える言葉だ。隣で黙っている武藤など、身体の割に半分ビビッている。
 天原の考えている事を、アリスが知らない訳がない。そういう思考回路なのだから。
 将来七星の実権を握るであろう市子と、その娘が仲が良いとなれば、どうにかして関係を持たせようと思うに違いない。
 アリスとて、一切の利害関係を無視していたわけではないのだから。
「出ます。武藤」
「どちらへ」
「二子と仲良くしますわ。将来役立つでしょう」
 武藤を連れて車を抜け出し、黒塗りの防弾車に近づく。近くで何かを探していたらしい七星二子は、アリスの姿を認めると、満面の笑みを浮かべて迎えた。
 その姿は学院のブレザーではなく、所謂ゴシックファッションに近い格好だった。
 黒が基調のレザーとフリルが絶妙にあしらわれており、二子はまるで人形そのものである。
 その昔のファッション誌でなら良く見て取れたが、今はまず着ている人など見た事が無い。彼女の身の丈にキッチリ合うように作られており特注品だという事も解る。
 特殊な趣味なのか、アリスには解らなかったが、それがあまりにも似合いすぎているという事は理解する。
「ああ、探したわ、アリス。迎えに来たの」
「二子さん。私に何かご用事でも?」
「まま。寒いから車の中で話しましょう。そこのでっかいのは抜きで」
「武藤ですわ。ボディーガードですの」
「どうも」
「逞しいわね。でも安心して。うちの車、ミサイルでもぶち込まれない限り壊れないから。天原アリスの身柄は七星が責任を持つわ。一緒に帰りましょう」
 アリスは暫く思案したあと、それを承諾する。
「武藤。爺に宜しく伝えて」
「あい解りました。では、失礼いたします」
「二子さん、学院への帰還連絡ですけど……」
「アリスは私が迎えに行くと、手続き済みよ、ちなみに外出時間延長もしておいたわ」
「……手回しが良い事で」
 普通の過程を踏んだところで、学院のルールを簡単に変更出来たりはしないだろう。今更なのであえて突っ込むような真似はしない。しかし如何様な用事でアリスを待っていたのだろうか。
 セダンに乗り込む。奥には二子、手前にアリスだ。
 内装は天原家所有の防弾車両よりも重厚な作りになっており、政治家如きを乗せるようにはなっていない様子が解る。
 ドア一つとっても、一体何センチあるのか、とにかくぶ厚い。これなら本当にミサイルでもぶち込まれない限り無事だろう。いや、ミサイルがぶち込まれても、鉄の棺桶として機能するに違いない。
 ほどなくして車が発進する。学院とは別方向だ。
「どちらへ?」
「天原のお嬢様をデートにお誘いしようと思ったの」
「間に合ってますわね」
「あらそう。やっぱり姉様じゃなきゃダメかしら。それともモリカ?」
「……」
 悪戯っぽく笑う仕草が、過去の市子を想起させる。
 コレには聞きたい事が山ほどある。だが、そう簡単にベラベラ喋るような人間でもなかろう。
 何故今になって学院に通うようになったのか。
 市子とはどういう関係にあったのか。
 杜花から聞いた話、所謂『遺品』とは何なのか。
 話では黒い影についても、何かしら知識がある様子だ。聞けるものなら聞いてみたい。
「ふぅん。お話好きと聞いていたのだけれど、そうでもないのね」
「貴女ですからね」
「ま、私の落ち度だわ。でも、この髪型気に入ってるの。顔は変えようがないから許して頂戴。声もね」
「ごめんなさいね、決して、貴女が気に入らないとか、そういうものではありませんのよ」
「解るわ。特に貴女やモリカにはキツイでしょう。そう聞いたもの」
「それで、何故私を迎えになど来たんですの?」
「学院では、貴女は忙しいでしょう。モリカと早紀絵の件もあるでしょうし」
 こいつは、どこまで知っているのか。ミステリアスを通り越して嫌味である。
 しかしこちらとしてもこういう機会を設けて貰えたのは好都合だ。
 印象だけで相手の価値を決めたくはない。
 裏の裏まで知っているのは七星ならば当たり前、いちいち気にしていたらきりが無い。勿論、それらアピールに手心は欲しいところだ。
「アリスは本当に美人ね。近くで見たら余計そう思えてくる。姉様が手元に置きたがったのも解るわ」
「二子さんと市子御姉様は、仲が宜しかったのかしら」
「とてもよかったわ。だから姉様を独占していたモリカに怒りすら覚えていたの。見えない敵と戦っていたのね。でも、実際に逢えば、あれがどれほど怪しい生き物なのか良く分かってね、怒る気も失せてしまったわ」
「所謂サロン対談での事ですわね、きっと」
「ふふ。女子校って、何でも事件にしてみたり、対談にしてみたり、会合にしてみたり、好きよね。でもたしかに、有意義だったわ。アリスも知っているでしょうけれど、私はモリカと取引したの」
 全容は知らないが、有る程度の事は聞いている。此方も一度は協力した身である。
 生徒会活動棟の鍵を持って来た杜花を見て、アリスは悲鳴をあげそうだった。とうとうこの日が来たのだと。欅澤杜花が動いたのだと。
 いつか彼女の耳に入ってしまうのではないかと恐れていたが、まさか影に接触済みでアリスの前に現れるとは思わなかった。
 取引。
 つまり、市子に関しての諸問題を解決するその協力関係についてだろう。
 では今回二子がアリスを迎えに来たのは、その口止めだろうか。
「私、誰にも言いませんわよ。ああいった問題は、ルール外の事をしないと解決出来ない事が多い。まして市子御姉様の事、敢えて皆にばらして問題化するような阿呆ではありませんわ」
「それは助かるわ。私も悪いと思っているのよ。ごめんなさいね、アリス」
「いいえ」
「でも今日は問題解決のお話をしに来たんじゃないの」
 車が一度跳ねる。どうやら地下に潜ったらしい。駐車場だろう。
『イズミホテル駐車場』と看板が見える。街中にある、中クラスのホテルだ。
 車が止まり、運転手が扉を開けると、ホテルの裏口には総支配人以下の従業員が並んでいる。
「ようこそおいで下さいました。七星様。総支配人の森田でございます」
「御苦労さま。突然で迷惑をかけたわね」
「とんでも御座いません。お部屋をご用意して御座います。どうぞごゆっくりおくつろぎください」
「ああ、ちなみに此方は天原よ。自人会党幹事長のご令嬢」
「これは。これは。以後お見知りおきくださいませ」
「ええ。親類が此方に来る際は、ここを利用させていただくよう申し上げておきますわ」
「ありがとうございます。では、ご案内いたします」
 総支配人自らに案内され、エレベーターに乗り、最上階まで上がる。
 どうやらVIP客室専用のエレベーターらしく、部屋に直接上がれるようになっていた。
 駅近くの中級ホテルにしては、大ホテル並みの客室だ。
 アリスの眼で見ても、暗すぎず、明るすぎない部屋のコーディネイトに、雰囲気を壊さない程度の調度品が並んでいる。
 アリスの頭の中で計算機が動く。
 普通に泊まれば一泊だけでも相当だろう。
 安いものには大して計算機は働かないが、世間の目が気にする高いものに関しては即座に試算出来た。
 とはいえ、これでも七星や天原からすれば安い方だ。
「あら、ホテルの外観と違って良いお部屋ですのね。七星の、そういう為のお部屋ね」
「その通りよ。そもそもこれでも立派すぎるわ。もう少しグレードが低くても良いのだけれど。これより下が無くって」
「流石に七星を一般客室に泊める訳にも行きませんでしょう、ホテルとしても」
 窓際の席に腰をおろし、外を望む。もう夕暮れだ。緋色の光がゆっくりと山間に沈んで行く。
 見下ろす町は綺麗に区画整理されている為、ポツポツと灯り始める電灯が規則正しく光るイルミネーションのようにも思える。
 そんな光景を眺めていると、やがてボーイがアペタイザーとワインを運んでくる。
 が、どうやら注がないらしい。
「あらら。二子さん?」
「私が注ごうと思って。不作法かもしれないけど、仲間内ならこうでしょう?」
「まあ、あざとい」
 二子は振袖を抑えるような仕草をしてから、ああ、袖が無かった、という風に笑い、アリスにワインを注ぐ。普段は振袖を着て生活しているのだろう。
 確かに、似合いそうだが、日本人形そのもの、と言われても否定出来ない感がある。
「仕草が瀟洒だわ。いけない子。良く飲むのね」
「生憎と学院では飲めませんわ。とはいえ、お酒は好きですの」
 そういった席に出ると、飲まない訳にもいかない。
 見た目の所為か、ワインばかり勧められるが、本当は純米酒が好きだった。
 とはいえ、高校生の身分で酒好き、というのも印象が悪いので、学院で知っているのは杜花ぐらいなものである。
「小綺麗すぎるわよねえ、ココから見える、欅町は」
「それは良く思いますわ。でも、整備に口を出したのは七星でしょう」
「私が関わったわけではないし。都市設計なんて全く解らないわよ」
「それもそうですわね。あら、このお酒美味しい」
「貴女に下手なものは飲ませられないし」
「……気味が悪いとはこの事かしら」
「藤十郎に聞いたのよ?」
「まあ、お酒の質をとやかくいう歳でもありませんわ。貴女は?」
「私は、あー、その、お酒弱いから」
 ほんの少しだけ恥ずかしそうに言う。
 雰囲気だけで『なんでも持っていそう』とは思えるが、流石にお酒まで完璧な訳ではないらしい。ただ、二子が飲んでいるのは瓶入りのオレンジジュースである為、妙なギャップに少し面白くなってしまう。
「な、何を笑っているの、アリス」
「いいえ。可愛らしいところもあるんですのね、貴女」
「ど、どこがよ。あ、いあ、いいじゃないオレンジジュース」
「年相応が良いですわよ。その方が皆を騙せますわ」
「……そういう考えもあるか。流石先輩ね。勉強になるわ」
 と、調子を取り戻したらしい。
 二子はコップを置くと、アリスに向かって居住まいを正す。やっと本題に入ってくれるらしい。
「強引に誘って悪かったわ」
「お酒、久しぶりですの。こういうお誘いなら暇がある時に何時でもどうぞ」
「そう。ならよかった。それで、お話なのだけれどね、少しは想像しているだろうけど、モリカの事」
 何かと思えば、それか。
 今日はひと段落つけたつもりでいたのだが、どうやら二子はそれを許してはくれないとみえる。
 確かに、市子亡き今、欅澤杜花について何か知りたければ、その周辺に居た人間に聞くのが早いだろう。
 だが二子が杜花の何を知りたいのか、その意図が謎だ。
「私達の事は良く調べているのに、杜花様の事は調査不足ですの?」
「家から血筋から夫婦の夜の付き合いの数まで、それは当然解るけれど、彼女自身が学院でどう暮らしてきたのか、それは流石に解らないわ」
「御姉様や杜花様から伺っていませんの?」
「姉様とモリカは主観だもの。客観が知りたいわ」
 なるほど、と頷く。
 しかしヒト様のプライベートを明かせ、とは大きく来たものだ。喋るとでも思っているのだろうか。
「でも、杜花様のプライベートをお話するような口は持ち合わせていませんの」
「じゃあ話題を変えましょう。貴女とモリカは仲良しよね」
「ええ、まあ」
「キスするほどに」
「――まさか。そんな事ありませんわ」
 カマカケに引っかかるほど愚かではない。少なくともアリスは、誰にも見られていないと思っている。あるとすれば早紀絵だが、あれも憶測で喋っている感じがあった。実際その通りだが、現場を押さえられない限りは、噂でしかない。
「ふふ。かからないか。まあいいわ。姉様と欅澤杜花は、姉妹とは言えなかった。あれは恋人同士だったわ。色々と証拠も上がっていてね、これは解ると思うわ」
「そうですわね」
「七星としては、欅澤杜花よりも天原アリスと一緒になってもらいたかった。これも、恐らく知っている」
「推察ですけれど、自覚はありましたし」
「そう。では貴女自身、姉様をどう思っていたの。どう慕っていたの? 貴女にとって欅澤杜花は、眼の上のタンコブではなかったのかしら。キスの話は冗談としても、かなり仲が良い。お友達として?」
「元妹同士として。幼馴染として。お友達として、ですわね。ですから、杜花様を疎ましいとか、邪魔だとか、そんな事を思った試しがありませんわ。そもそも、私は市子御姉様を、ちゃんと御姉様と見ていましたの。恋患いしていた訳ではありませんのよ?」
「なるほど、なるほど」

 ……。
 二子がグラスの縁を指で撫でる。
 キュイン、という高音域の音が耳につく。
 二子の視線はまっすぐだ。アリスも眼が離せなかった。いや、離す事が出来なかった、が正しいだろう。じわじわと、視覚から七星二子という少女が侵入してくるような錯覚に襲われる。
 様々な人と眼を合わせて話すアリスにとって、初めての体験だ。
 どこか、頭の奥がチリチリと焦れるような感覚がある。
 二子がグラスから指を離す。
 同時にアリスはその視線を避けた。
 驚いたのはそこからだ。
 ここはホテルの一室。立派な、布クズ一つ落ちていないような部屋だ。
 眼を疑う。
 周りを見渡す。
 己を見る。
 自分は何故か私服ではなくブレザーを着こみ、その手触りまでそのものだった。
 周りはホテルの部屋ではなく、どこかで見た光景。
 市子がお茶会を催していた、高等部第二校舎の談話室だ。
 手前のテーブルに並んでいたワインは紅茶に、前菜はクッキーにとって代わっている。
「……――は?」
「自我が強くて見せるのに苦労するわ。貴女、魔法は信じる?」
「ま、魔法?」
「姉様から知らされていない。やっぱりモリカだけなんだ……」
 そう呟き、ブレザー姿の二子が指を弾くと、彼女自身の身長が伸びる。
 伸びたのか。
 いや、違う。
 市子に、市子に見える。
 違う。市子だ。
「お、おね……御姉様?」
「アリスは、どんな大人になりたい?」
 ぞわりと、背筋を駆け巡る緊張。
 額に脂汗が浮かぶ。
 思わずクセで親指の爪を噛みしめてしまい、伸びた部分は一噛みで折れてしまった。
 なんだこれは。何が起こっている?
 アリスの思考回路がオーバーロード、熱を上げる。
「ごめんなさいね、アリス。寂しい想いをさせてしまって」
「や、やめて、やめてくださいまし。後生ですわ、二子さん」
「二子を知っているの? まあ、どこで出会ったのかしら。あの子は孤独な子だから、仲良くしてあげてね」
「冗談……言って……これは、なんですの。二子さん、二子。七星二子!」
 席を蹴飛ばし、勢いよく立ちあがる。アリスの顔は怒りに満ちていた。
 これが何なのか、どういった原理で起こっている事態なのか、それは一切解らなかったが、ともかく、これが二子の悪意の塊である事は感じ取れている。
 七星市子は死んだ。
 眼の前にいてはいけない存在だ。
 絶対に、こんなものは間違っている。
 一体自分が二子に何をした。
 どうしてこれ程の屈辱を、悲しみを、与えられねばならないのか。
「アリス、落ち着いて。貴女らしくないわ。心を静めて、穏やかにするべきよ。さあ」
 ――手を伸ばして。
「嗚呼」
 眼の前には、生前そのまま、美しい姿で市子がいる。
 何の記憶の違いもない、アリスの過去その全てを形成するビジュアルだ。
 憧れていた。
 心から信頼していた。
 この人のようになりたいと願い続け、弛まぬ努力を続けてきた。しかし決して叶わぬ願いだという事も、十分理解していた。
 アリスにとって、七星市子とは神と相違ない。
 神聖であり、人間として接してはいけない存在なのだとまで思っていた。
 しかしその神は死んだ。
 だというのに、今間違いなく眼の前に存在する。
 手を伸ばす。
 ぬくもりがある繊細な手が、アリスの手をそっと掴む。流れるようにしてその胸に抱かれ、アリスは思わずしがみ付いた。
「違う、違う違う、こんなの、御姉様は、お亡くなりになったのに、だから、居る筈がないのに、違うのに」
「アリス、悲しいのね。胸を焼くほどに」
「御姉様ぁ……御姉様ぁ……うぅ……うううぅぅぅゥッッ」
「アリスは、どうして悲しいのかしら。そんなに私が恋しかった?」
「ち、ちが、違うんですの……まるで、まるで母を失ったような、そのような想いで……私は、貴女を尊敬して、やまなかった。貴女こそが目標で、そして貴女にこそ、私は作られた……今の私は、貴女がいたからあるんですのに……それが、急に、なんで、なんで、自殺なんて……」
 出会ったその日からの思い出が、走馬灯のように蘇っては消えて行く。
 小等部の頃。アリスは一際美しい宝石を見つけた。その宝石は何故か生きているのだ。生きていて、アリスに話しかけてきた。
『天原さんは、おおきくなったら、どんなものになりたいですか?』
 その頃なんと答えただろうか。
 眼の前の宝石があまりにも素晴らしくて、何を喋ったのか記憶にない。
 一撃で打ちのめされたのだ。
 このようなものになりたいと。
 この人を慕い、この人に慕われたいと。
 この人と一緒に上に昇って行きたいと。
 笑う時も、悲しむ時も、いつも一緒だった。
 この人と過ごす時間がこの世でもっとも輝いていた。ただそれだけではダメだ。この人の輝きに負けぬほどの人間になろうと、アリスは小さいながらに決心し、様々と乗り越えて来たのだ。
 けれども、そうだ。
 この人の隣には、もうひとつの石があった。あまり磨かれておらず、手放しで称賛出来るかと言えば違う、しかしどこまでも愛着が湧くような、そんな石。
 ずっと懐の中で温めて居たくなるような、そんな石の彼女が。
 その石は不思議だった。
 宝石の指示に無表情で応え、自らを磨いて行く。
 自らを削れと言われ、自らを削って行く。
 主体性が無いのか。そう思った時期もあったが、しかし違う。
 玉石混交の学院において、その出自も、バックグラウンドもないような彼女は、何時の間にか宝石に劣らぬほど人の目を集めるようになっていた。
 純粋に、ただ凄いという感想しか浮かばなかった。語るべき言葉が何一つ出てこない。あれはそういうもので、更にそれを育てた者は、一体どれだけの力があったのか。
 自分とは何なのか。
 自分では、あのような宝石にはなれない。自分では、あのような石にはなれない。
 自分は何になりたいのか。
「まだ、まだ私は解らないのに。貴女は勝手に、先に逝ってしまった」
 具体的な未来は、まだら模様を描いてその形を薄めて行く。
 本当になりたかった自分が、この先に見つけられるのか、突如不安になる。
 何にでもなれる、何でも出来る、そのように思っていた自分が恥ずかしい。
 だからこそだろうか。
 具体的な夢を語ろうと、保障された未来があろうと、確実に自分を自分と言い切れるだけの未来が描けないからこそ、強い自分を持っていた七星市子に、そして強い自分を描こうとしていた杜花に、その答えを求めていたのかもしれない。
 政治家?
 本当に?
 政治家一家だから、自分もそうならなければいけないと思っただけでは?
 まだ自分を評価する段階にいないのでは?
 好きな人は?
 本当にお前は同性愛者なのか?
 だとしたら、早紀絵は、杜花は、もし今後良い仲になったら、ではどうしたい?
 いや、そもそも、自分がその間に入れるのか?
 早紀絵はお前を遊んでいるだけでは?
 杜花に至っては、気にすらしていないのではないか?
「……アリス。アリス。貴女は素晴らしい子。強い矜持を持っている子。誰でも真似できるものではないわ。育めばいい。諦めず、前を向けばいい。私はその手助けを、し続けたかった。でも、どうやら、私はもういなくなってしまったみたい。ああ、では、どうかしら。私が一生懸命育てた、妹がいるのだけれど……」
「で、でも。杜花様は、貴女しか見ていませんわ」
「そうかしら。どうかしら。あの子は寂しがり屋だもの。少しだけ頑張って、振り向かせてみたらいいんじゃないかしら。親身になってくれるわ。心を開いた杜花は……ふふ、貴女が想像もつかない程……」
「ああ、でも……」
「好きなのでしょう。好きなものを好きで居れば良い。外見で精神は決まらない。心が人を映すのよ」
 ずれる。
 ずれる。
 七星市子の形をしていたものが、次第にズレて行く。
 やがてその姿は、昔のテレビのノイズのようにモザイクがかかり、新しい形を作った。アリスの顔が、ふくよかな胸に埋まる。
 抱きしめていた背中は、細いのに逞しい。
 抱きしめられる肩が、まるで羽毛に包まれるようになって行く。
「アリスさん。どうしたんですか、そんな、顔をしわくちゃにして。綺麗な顔が台無しです」
「あ、あ、ああ。杜花様。ごめんなさい、最近どうも、お恥ずかしいところばかりお見せして……」
「それは、アリスさんが私に、見せても大丈夫だと思っているからではありませんか?」
「そ、それはその……長い、付き合いですし」
「もっと、アリスさんの、ううん。アリスの、皆に見せない部分、私にも見せて欲しい。そうしたら、私も、ふふ。アリスに私を見せてあげられるのに」
 見てみたい。
 市子にしか見せなかった『欅澤杜花』がどんなものなのか、彼女によって磨かれた石は、本来どのような輝きを秘めているのか。
 誰も知らない彼女を見てみたい。
 自分如きを晒す程度で、杜花は見せてくれるだろうか。七星市子という記憶を塗り潰して、天原アリスという記憶を刷りこめるだろうか。
 無理と判じたではないか?
 何を根拠に?
 やってみたのか?
 ――否定されるのが怖いだけではないのか?
「――ああ、すごい深度。導入が難しいだけで、ハマるとしっかりキマッちゃうのかしら」
「あ、ああ……あれ。市子御姉様は……杜花御姉様は……」
「手荒な事をしたわ。でも私にはやらなければいけない事がある。私は市子姉様ではないから、きっと彼女のようにはなれないけれど、彼女に近づく必要がある。勝手にいじくってごめんなさいね」
「ええ……ええ……」
「忘れる必要はないわ。覚えていて良い。そして葛藤してほしい。モリカ、早紀絵、貴女。七星市子を巡る眩い貴女達には、本来どんな形をしているのかしら?」
「そ、それは」
「おっ……って、すごい、なんて自我」
「それは、どういう意味、ですの」

 ……。
 パチリと、指が弾かれる。
 同時に、全身から汗が噴き出した。まるで一時間走り込みを続けたような虚脱感が襲う。一体自分が今までどのような空間にいたのか思い返し、両手を握り、開いて、感覚を確かめる。
「催眠術……?」
「私は知らなきゃいけないのに、あの学院の子達ときたら、誰もかれも口が堅いし、話せば泣くし、なかなか聞き取り調査が出来ないのよね。だから少し強引な手立てを考えた。特に貴女からは、聞かずには居られないから」
「ヒトの……人の心を、そんな風に弄んで……」
「――弄ぶつもりなんてない。貴女達の姉様への想いは、死して尚彼女の、そして私の糧になる」
 彼女はその掌に乗せた、何かの結晶を正面に掲げた後、懐に仕舞いこむ。
 あれは、杜花曰くの魔力結晶だ。
 それを回収する協力関係にあると、杜花は言っていた。
 生徒会三役室でその事実を知らされた際は、杜花は何の冗談を言っているのかと思ったが、今まさにその片鱗に触れ、七星二子が間違いなく自分達の知る一般的な常識の範囲外にいると自覚した。
 催眠術か、トリックの類か。
 この虚脱は、まさか薬ではあるまいか。
 だとしても、それらを用いた所で、あれほどの幻覚を意図的に見せるなどという事が、出来るだろうか。少なくともアリスはそんな事例を知らない。
「聞いてアリス。もし貴女は『貴女』を見つけられる手段を知ったら、手を伸ばすでしょう」
「――ことと次第によりますわ」
「いいえ。間違いなく手を伸ばす。先ほど伸ばしてしまったように。聞いているでしょう。この結晶。これを集める事が私の私を発見する事であり、モリカにとっても、同意義なの。杜花を取り巻く貴女達もまた、その例に漏れない」
「協力しろと……?」
「遠からず近からず。具体的に言えば、もっとモリカを揺さ振って貰いたい。もっと貴女に素直になってもらいたいの」
「お断りですわ。私は私のもの。誰の物でもないし、そんなこと、人に指摘されてハイそうですかと頷くものですか」
「少し解らないわ。貴女は、自分に厳しすぎるわね。もっとモリカに甘えればいいのに」
「ま、前の私は。確かに、甘ったれだったかもしれませんわ。でも、もう止めますの。一番悲しむべきは」
「モリカ、だと思う?」
「そう――でしょう」
「貴女はこんなにも悩んで、こんなにも苦しいのに。それはモリカも知るところでしょう。だからこそ彼女は、貴女をある程度受け入れてくれる。もっと踏み込んでみないの? 好きでしょう、モリカのこと。貴女は、モリカが貴女に抱く感情を考えた事がある?」
「わかりませんわ、そんなこと」
「今なら片鱗が解る。姉様の記憶が少し戻っているから。モリカは――貴女達が想っている程、潔白な人ではないわ」
「帰ります。もう、こんな事は止めてくださいまし」
「もうしないわ。これで十分。――工藤、アリスが御帰りよ」



 それからどのような道筋をたどって学院に戻ったのか、アリスは頭になかった。
 ただ、頭と心が無茶苦茶で、二子の言葉が脳内に乱反射ばかりする。
 心と記憶を丸裸にされた。
 どんな原理かは知らないが、ただそれだけが屈辱である。決して全てをひた隠していた訳ではない。皆が心中察する範囲では、外に出していた。
 だが、市子と杜花に対する想いをここまで吐露した事はない。普通ならば、黙っていれば秘められると誰でも考えるだろう。それが二子には通用しないのだ。
 悔しい。
 恐ろしい。
 しかしあれは今、寄宿舎に居座っている。
「会長、どうでした……酷い顔。どうしました」
「あまり人さまに言えない事があっただけですの。体調は問題ないから、安心して……」
「それで安心しろと言われましても」
「久しぶりにお酒を飲んだから。皆には内緒よ」
「そう、ですか。お水、要りますか」
「お茶にして」
 ベッドに身体を投げ出し、ただただ思い返す。良い休日が台無しだ。
「アリスー、戻ったって? ケーキは?」
 ドタバタとやってきた早紀絵に対して、疲れた眼を向ける。早紀絵はそんなアリスを見て、一歩引いた後、また前に出た。
「まあ久々に外に出たら疲れる事もあるね。ケーキ食べたら治るんじゃない?」
「糖分摂取で治ったらどれだけ楽か……いえ、摂取しましょうか」
 早紀絵が早速、部屋の端に畳まれていたテーブルを持ち出し、部屋の真ん中に据える。
 お茶を持って現れた金城五月は、自室に異物が混じりこんでいる事に気がつくと、非難の声を浴びせる。当然早紀絵は適当に笑ってそれを流す。
「いいんですの。お約束でしたから」
「会長、早紀絵さんに甘いですよね」
「何か違反している訳でもないし、早紀絵さんが元気で五月蠅いのはいつもの事ですわ」
「おお、すごい言われようだ。まあまあ、追加のお茶も持ってくるから」
 疲れているのだろう。
 先ほどから、自分が何を言っているのか、自分でもよくわかっていない。
 朦朧としている、とも違う。
 抑える事に疲れて、ただ思いついた事を口にしている状態だ。
 アリス、早紀絵、五月の三人が、喫茶店で包んでもらったケーキを消費しながら、何気ない会話を交わす。しかしどうも今日の天原金城部屋は来客が多いらしい。
 ノックが聞こえ、五月がそれに応えると、顔を覗かせたのは杜花であった。
「サキを知りま……したね、ここで。サキ、何してるんですか。それ美味しそうですね」
「ああ、杜花様。杜花様の分もありましてよ。甘いもの、お好きでしょう」
「アリスさんはなんて気がきくんでしょう。ご相伴預かります」
 杜花が笑顔を見せる。
 微笑み自体は良く見せるが、本当にうれしそうに笑う顔はなかなか見ない。
 彼女のそばにいて、彼女がどのような時に本当に笑うのか知れねば、そんな判断もつかないのだが。
 杜花がアリスの隣に座り、嬉しそうにケーキの包みを解く。
 皿に取り、フォークで切り、刺して、口に運ぶ。彼女は眼を閉じて、甘みを噛みしめている様子だ。
 ――見てみたい。
 欅澤杜花の本心を、本当の顔を。七星市子に見せていたという、欅澤杜花そのものを。
「杜花様」
「ふぁい。ん。なんで……んむっ」
「ちょ、アリス?」
「か、会長!?」
 虚ろな思考は、やがて杜花という一点に辿り着く。
 本当の自分とやらを探すための手段を得る為に。
 そんなものは内にしかない。それが大前提だ。
 アリスは自分を探す為に社会から消え失せ旅に出てしまうような人間ではない。
 己はここにいる。
 その己に最も苦悩をもたらす存在こそが、杜花だ。
 では杜花にこそ答えを得るきっかけがある。
 二子は言う。
 手を伸ばしてみたらどうかと。アリスは我慢しすぎていると。もっと甘えてみたらどうかと。
 それが正しいか、否か。
 アリスには解らない。
 ただ、その選択肢を無下に捨てるほど愚かでもない。
「んっ……んふ」
 杜花の柔らかい唇の感触を確かめながら、脳に痺れるような刺激を感じる。
 杜花は突き放すでなく、ただアリスの行為に驚いていた。生クリームの香りがする。
 胸の奥でじりじりと焦がれていた感情が、蓋を開いて現れるのを自覚する。
 頬にキスされるようなものではない。
 その比ではない。
 空っぽになっていたスペースは、代わりに理性と、言い訳で埋め尽くされていた。
 唇を通じて、今杜花を支配しているといううす暗い感情を取り込みながら、言い訳で埋め尽くされたスペースを、言葉を発すると同時に開けて行く。
「杜花様。私、貴女が好きですの」
 早紀絵は、その光景を見ながら、半笑いのまま硬直している。
 五月は、とんでもないものを見てしまったと、顔を手で隠しながら、その指の間から光景を覗く。
 杜花は……諦めにも似たような、そんな表情で居る。
 解れかかった糸が解かれ、他の糸へと紡がれて行く
 アリスは、踏み出してしまったその一歩を『アレ』の影響と知りながら、後悔などしていなかった。


 

 ストラクチュアル2/天原アリスの憂鬱 了

 

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