2013年3月15日金曜日

心象楽園/School Lore ストラクチュアル3


 
 ストラクチュアル3/劣等感の熱情


 ……。
 小等部も五年生の頃。三ノ宮火乃子は欅澤杜花に出会った。
 たった一つ年齢が上というだけなのに、杜花はどこまでも大人しく、落ち着いていて、まるで周りの子供達が見せるような無邪気さや喧しさとは無縁の存在だった。
 姉である三ノ宮風子はあんなにも腕白でたまらなく五月蠅いというのに、どうしてこうも差があるのかと悩んだものだ。
 火乃子は名前とは裏腹に、ひっそりとしていて、目立たず、日々を静かに過ごす事を是としていた。故に姉ではなく欅澤杜花こそが、火乃子にとっての規範だった。
 どうしたらあのように振る舞えるのだろうか。
 どうしたらあれほど冷静でいられるのだろうか。
 幼心に抱き続ける疑問と、杜花に対する仄明るい気持ち。ただそれだけを目指して毎日を過ごしていた。
「欅澤さん」
「はい、どちらさまですか」
 それはやがて、抑えられなくなり、遠くで見守るだけだった彼女に対して、とうとう声をかけた。透き通るような声を直に聞き、遠目から見ているだけだった笑顔が近くにある。
「私を、妹にしてください」
 いつの頃から有るのかは知らなかったが、この学院には『姉妹』の制度がある。
 厳密化されているものではなく、まして無粋なルールがある訳でもないが、概念として存在するのだ。
 ただ数は多くない。『御姉様』などと呼ばれるだけの人間が、多くないからである。
 そういう意味で、欅澤杜花は三ノ宮火乃子にとり、最上で最適であると感じていた。
 例えたった二人の姉妹関係でも、杜花が姉ならば、皆に強く認知されるであろうという自信があった。姉は『周囲の評価』だけで決まる。
「ごめんなさい、私は、市子御姉様の妹なので」
 誰かの妹が、誰かの姉になってはいけない、などというルールはないが、杜花にとって『姉』とは七星市子だけのものだったのだろう。精一杯の想いをこめた告白は一撃にて破れ去った。
 だが、火乃子という人物は元来から大人しい振りをしているだけで、心に秘めているものは情熱的だ。勿論、それがただ振り撒かれるだけならば害悪そのものだが、杜花という規範を大事にする火乃子は努めて冷静である。
 いつか必ず振り向いて貰う。
 絶対に妹にして貰う。
 必ず、欅澤杜花の傍につく人間になると、小等部五年生にしては固すぎる意が決する。
 彼女の傍にいる為にはどのような努力が必要なのか、彼女に好かれる為にはどう振る舞えばいいのか、三ノ宮火乃子とは、欅澤杜花だけを目標にして、この学院で暮らして来たとすら言える。
 だが、しかし、見よう見まねをすればするだけ痛々しく、努力は空振るだけで実を結ばない。
 必死ではあったが、自分が方向性を間違えているという自覚もあった。
 中等部二年の頃。
 改めての告白もまた、願いかなわず撃沈する。欅澤杜花にとって姉とは七星市子のみ。
 ただ凄い人だという認識で居た七星市子に対して、憎悪というよりも、殺意にも似た感情が湧いたのはこの頃である。
 幼心と大人としての自我が鬩ぎ合う年頃、七星市子という存在は絶対的な悪として火乃子には捉えられた。
 如何にして杜花から、邪魔者の市子を引き剥がすか。
 あわよくば、市子をこの世から消すか。
 それだけを考える日々が訪れる。
 悪意と熱意はしかし、中途半端な覚悟と、根っからのお嬢様気質と、自意識の葛藤により、何か間違った方向に進み始めた。
 しかもそのタイミングで七星家と三ノ宮家の確執が明らかになり、火乃子の市子に対する想いは更に拗れた。
 祖父曰く、七星は自分達の研究を全て持って行ったと。
 自分たちの功績を何もかも奪い去ったという。
 三ノ宮家は古くから製薬で財を築いて来た。
 祖父は七星の研究チームと合同で開発していた薬品を奪われたと言う。
 共同開発品は数あり、以降世界でシェア90%を有する事になった薬の製造技術や権利などを丸ごと持って行かれたらしい。
 三ノ宮家にとって七星家とは因縁の敵である。
 そして火乃子の前に立ちはだかっているものもまた七星だ。運命を感じざるを得なかった。
 七星市子を排除し、欅澤杜花を解放する事こそ、三ノ宮家の積年の恨みを晴らすものなのだと、信じて疑わなかった。
 ……――とはいえ。
 接していると不覚にもなんだか心地良くなってしまうような七星市子を殺すなんて真似は出来ないし、そもそもそんな大それた真似が出来るような人間ではない火乃子は頭を悩ませていた。
 市子からすれば本来路傍の石ころである火乃子に、彼女自らが何かしらのアクションを起こす訳がないし、火乃子が杜花と仲良くしているという事実が有る事で、市子の火乃子に対する対応は実に親身だ。
 なんて良い人なんだろう。
 これは戦ってどうにかなるんだろうか。
 ああでも憎らしい。
 それが本音である。
 恐らくは同志であると考えている満田早紀絵ですら、市子に強い当たりはしない。
 七星市子とはそういう存在なのだ。
 だが何もしないのも……三ノ宮としてどうなのか……。
 なので『実現しえない方法で七星市子を貶めるような振りをする』という、倒錯的な攻撃方法に出る。
 呪術でなんかアレ出来ないだろうか。
 魔術でアレをソレ出来ないだろうか。
 オカルト方面からの攻めだ。
 ああ、私は憎たらしい七星市子を攻撃出来ている、という自己満足を得られて、なおかつリスクが少ない。
 もはや形骸化してしまった七星に対する復讐は、火乃子にとってただの趣味となり下がった。
「杜花さん、お願いだから妹にしてくださいお願い」
「ダメです」
 目的の為に手段を選ばないのか、手段の為の目的なのか。精神的に成長するにつれて、火乃子は目を覚まして来たともいえる。
 五年も続けてダメなのだ。杜花にとって姉は一人だった。
 では自らの『学年一位の成績』や『お嬢様らしさ』を育てる原動力となった欅澤杜花と、超えるべき敵七星市子に敬意を表して、こんな馬鹿げた遊びはこれで最後にしようと、火乃子は今までにない、大きな儀式を執り行うと決める。
 人間の血……は無理だ。自分のも痛いのは嫌いだ。なので、学院内で捕まえたカエルの血を使って魔方陣を描き、学生身分にはだいぶ良い値段をした本を片手に、夜中ひっそり抜け出して、寄宿舎裏手の林の中で儀式を行った。
 カエルの血も集まり難いので、だいぶ小規模になってしまったが、それなりの趣は確保出来た。
 何しているんだろう自分はと、自嘲しながら呪文を唱え、それで終わり。
 その筈だったが、そうはならなかった。
 ……。

 最近、三ノ宮火乃子は不満を募らせている。
「三ノ宮、もう放課後よ。優等生が一日寝て過ごすってアリなのかしら」
「……五月蠅いですね。七光」
「そりゃ貴方もでしょう」
 七星が笑う。
 転入は半年前、学校に登校し始めたのはここ一カ月だ。
 嫌な予感はしていたが、案の定七星二子は自分と同じクラスになり、あまつさえ隣の席にいる。
 元から一学年三クラスしかない学校であるから、確率的にありえるとしても、まさか隣になるとまでは考えていなかった。
 いや、以前から席を置ける空間はあった。元からそこに配置されていたのだろう。
「本当に機嫌の悪い子ね。もう少しなんとかならないの?」
「ならないでしょう。というか、貴女がここにいるっておかしいでしょう」
「宜しくねお姉ちゃん」
「な、殴りたい……」
「殴ってどうぞ。楽しい事になるだろうけれど、おほほ」
 三ノ宮と七星の繋がりは深い。
 七星の製薬部門企業ナナホシ製薬は、三ノ宮医療製薬から独立した人間が七星に入社後、社長として就任して出来あがった会社である。
 その折に幾人もの研究者、技術者が引き抜かれており、大変な損害を被った。当時は一大訴訟戦争となったものだ。
 火乃子の祖父で三ノ宮医療製薬代表取締役社長の三ノ宮輝秋とナナホシ製薬社長の時田典弘の確執は大変有名なものであるが、現在は企業体として大きく反発しあっている訳ではない。
 大量の資本と人材と技術を保有する七星と戦争して勝てる見込みが無いからである。故に三ノ宮の人間はその腹に抱えているものが大きい。
 三ノ宮の愛娘風子と火乃子、そして七星の市子と二子は、年が近いと言う事もあり、外で何度か親に連れられて顔を合わせている。
 風子は元からフランクなので、七星に強い不信感など抱いてはいなが、火乃子は違う。
 次代を担う娘と祖父からも見られている為、扱いが姉よりも高いのだ。
 七星二子とも何度も顔を合わせている。故に解る。
 こいつはまだ高校生ではない。
 つい最近まで京都のお嬢様学校に席を置いていた筈だ。それも小等部である。
 おそらくは、皆が疑問に思っているだろう。高校生というには小さすぎる。
 だが、相手は七星だ。
 何かしらの形で七星に恩恵を受ける人々がそれに大きな声を上げる訳がないし、そもそも二子の態度が違う。
 態度が限りなくでかい。
 饒舌で、知識豊かで、その辺りの高校生など面喰って黙り込むだろう存在感を有している。
 七星の秘蔵っ子は伊達ではなかった。
「さて……モリカにでも会いに行こうかしら」
「口にせず行ったらどうです」
「聞かせる為に言ってるのだから、口にもするでしょう?」
「いちいち気に障りますね」
「……もしかして具合が悪いのかしら。ちょっとおでこ出しなさい」
「あ、こら」
 二子のひんやりとした手が火乃子の額に触れる。それを嫌って手で払うと、二子は呆れたというようにボディランゲージを示した。
「熱は無いようね。でも念のため、医療保健室行った方がいいわ」
「何のつもりですか」
「同輩のよしみ。仲良くした方がいいでしょう」
 これだけの人材、大人になったらどれほどの脅威になるだろうか。恐らく七星でも上の位置に付く事だろう。
 そうなれば、三ノ宮期待の星である火乃子は嫌でも顔を突き合わせる事になる。
 腹立たしいが現実だ。
「姉といいアンタといい、どうしてそう、お節介で煩わしいのでしょうね」
「姉様は貴女の事だいぶ気に入ってたみたいよ。お話にも出て来たし。杜花が狙われてるって」
「それ、気に入ってるの?」
「気にもしなかったら名前もあがらないわよ。姉様よ?」
 ……その巨星は堕ちた。
「早く行ってください。杜花さん、足が速いから直ぐその場から居なくなる」
「そうだった。あの子落ち着きないわよねえ」
「ふん」
 黒髪を靡かせ、七星二子が去って行く。去り際に群がる他の生徒達を適当にあしらう姿は、流石としか言いようがない。
 物が違う、出来が違う、質が違う。
 三ノ宮火乃子という人物も人さまから見ればそう思われるだろうが、七星の娘というのはどれもこれも、何かが違う。
 人を引き付ける容姿もそうだが、でかいのに好かれる態度、大雑把なようで気が利いていて、何事も冷静だ。矛盾を内包して全ての整合性を合わせている。
 それを形容しようと思った場合、出てくる単語は『怪物』だろうか。
 彼女の父である七星一郎は妖怪とまで言われていた。
 そして七星市子――彼女は、学院内で蔑まれる場合、『魔女』と形容されていた。
 憎らしく思いながら、あれだけはどうしようもないと諦めざるを得ない、そんな存在。
 しかし彼女は死んだ。
 三ノ宮火乃子が魔術を行使して、三日後の出来事である。
 当時の衝撃は未だに後を引きずっている。
 ありえない死。
 出来すぎたタイミング。
 憎いといっても、御遊び半分、本気で恨んでいた訳ではないのに。
 本気で恨んでいないからこそ、影響もある筈がない呪術魔術などという非科学的なものでの復讐を選んでいたのに。
 だが事は成った。
 七星市子は消えていなくなったのだ。
 終わる筈だった三ノ宮火乃子の欅澤杜花への執着が再熱したのも、それは仕方が無かったのかもしれない。いや、逃げ場を求めたとでも言うだろうか。
 現実と非現実の狭間で、火乃子は苦悶を強いられていた。
 呪殺の咎と、七星への恐怖。
 一番の敵がいなくなったとはいえ、背負い込んだものは大きく、更に言えば、市子の存在によって抑圧されていた杜花に対する気持を抱いている者達が、だいぶと動いている。
 満田早紀絵、天原アリス、これらは長い間幼馴染であるから、察してはいたが、ここ最近その色が更に強い。
 そして一番の問題は……やっといなくなったと思っていたのも束の間に湧いて出た七星である。
 杜花が二子をどのように考えているかは知らないが、まだ不信感を抱いているのだろう。
 しかし、性格は悪いが……二子は市子にそっくりだ。ひょんな拍子でくっつかれたらたまらない。
 どうにかその前に、杜花に接近したいのだが……。
(……いや、だって怖いし……ま、また否定されたらなんか辛いし……)
 火乃子は決意だけ一人前で、実際に行動に移した試しがない。
 小等部の頃から形成された自我の所為か、どうも後ろから嗅ぎ回っている方が板についている気がしてならないのだ。満田早紀絵などもそれだろう。
 たまに、杜花とアリスが一緒になっているところを遠くから眺めては羨ましそうにしているのを目撃する。
 ああ市子の弊害だと頭を振り、火乃子は鞄に教科書を詰め込んで教室を後にした。
(杜花御姉様とアリス先輩、キスしたって噂だけど……)
 最近は杜花とアリスの接近が寮内で良く語られている。
 元市子の妹同士、なおかつ二人は御姉様級だ。
 外から見ているだけで満足な輩は大興奮のネタだったが、火乃子からすれば不愉快である。火乃子自身が市子の妹になっていれば、今よりも接近出来ただろうか、などと後悔することもしばしばだ。
 溜息を吐き、鞄を持って教室を出る。
 火乃子は寄宿舎に戻るでなく、校舎内の階段を上がる。
 高等部第二校舎は三階建で一年と二年が入っており、小ぢんまりとした作りになっている。
 三階奥にある第二生徒資料室の前で立ち止まった火乃子は、鍵を取り出して扉を開け放った。
 中は薄暗く、寒い。
 様々な資料や小道具が仕舞われる部屋は、果していつから使われていないのか、少なくともここ数カ月誰かが出入りした様子はなかった。
 偶然にも手に入れた鍵が火乃子の手元にある所為もあるだろうが、開けようと思えばマスターを使えばいい話だ。
 つまるところ、ここは必要とされていないものが収められており、誰も興味を示さない場所なのだろう。学院にはそんな場所が幾つもある。
「流石に十二月は、ここも寒いなあ」
 生憎暖房の類は使えない。元から大きな暖房を持ち込むことが難しい。電気料金の差異でばれる事はないだろう。そもそもこの市は特区で、電気代は無料だ。核融合炉さまさまである。
 だがここはある意味、学院でも有数の電子機器密集地帯と言える。
 資料室というだけあって、あまり広さはない。
 隣の空き教室の脇に、準備室のように据えてある部屋なので、アパートメントのワンルーム半分程度である。
 火乃子は部屋の隅、窓からも廊下側からも死角(窓などはフィルムが張ってあるので覗かなければ見えないが)になる場所に陣取り、布団を被る。ここが火乃子の安住地帯だった。
 かねてから望んでいた第一寄宿舎白萩への入居は叶ったが、相部屋である。
 しかもその相手が末堂歌那多だというのだ。
 世間知らずすぎて、騙すのは容易いのだが、突飛な行動が目立って自由はきかないのだ。
 そんな歌那多を可愛くは思っている。言い換えれば、彼女ほど純真な子もいない。
 ただ、故に火乃子からすれば眩しすぎる存在だ。ある意味憧れといっても良い。
(あー……一人落ち着くー……一人最高ー……)
 マットレスに布団。
 それが部屋の隅に押し込められるような形になっているのが、火乃子のスペースだ。手近なところからノートPCを引きずり出し、パスワードを入力してスタンバイを解除する。
 火乃子は小さい頃からコツコツと運び入れた禁制品を現在ここに保管していた。寄宿舎にもあるが、此方はサブのものである。
 大半がPC、カメラ、電子ペーパーなどの禁制品で、当然見つかれば全て没収だろう。
 書籍はまだ良いが、PCとカメラは不味い。
 なので、もし見つかっても良いように、指紋、動脈、顔面認証、更にパスワードは一度に三回入力失敗すると電磁石で物理破壊が起きるように設定されている軍事用ノートである。
 国が管理する量子コンピュータでもない限り解錠は無理だ。カメラも同様である。
 鞄からカメラを取り出し、データをPCに移動させる。
 フォルダから種類を分別し、一つの画像をプレビューする。
(スクールロア第30号)
 中央広場の隅、もはや誰も利用者がいない掲示板に、不定期で張りだされる壁新聞だ。
 大変不誠実なネタがモットーとされており、とても下世話で普通の壁新聞としては認可されていない為、ひっそりと公開されていた。
 前に出たのは二カ月前であるから、それなりに期間が空いている。誰が発行しているのかは未だ解っていない。
 使用されている機材からするに、新聞部ではないのかという疑いもあった。
 しかし掲示物の許可を出している生徒会が黙殺しているところを見ると、それも疑わしい。あらゆるところが出していると噂が広がっているので、その全てがブラフである可能性が高い。
 製作者は策士で、しかも生徒会権力に影響のある人物だろう。
 ともかく暇な学院生徒にとって、恰好の娯楽であることは間違いなかった。
(……学院の謎。鍵……櫟の君、か。特集……御姉様周辺、そして七星二子か)
 紙面は大まかに四つに分けられ、最初の見出しは学院の謎、と銘打たれたものだ。
 鍵、そして小さく書かれた櫟の君の文字。
 櫟の君、どこかで見覚えがある。
 確か小説だったか……記憶は曖昧だ。
 だが青少年向けの女性同性愛小説だったのは記憶の片隅にある。それもかなり古い。
 登場人物が『何々の君』として登場したはずだ。
 この学院の生徒の事だ、そういったものを参考にして鍵を作ったのかもしれない。
 特集記事は御姉様周辺。
 イメージイラストが入っている。上手い。平成時代の美少女イラストリスペクトだろう。
 名前は伏せてあるが、これがすぐ天原アリスであると解る。
(アリス先輩かあ)
 まさしく御姉様と呼ばれるのに違和感のない人物だ。
 生徒会長で、有能で、美人で、包容力がある。
 問題はこれが市子の元妹で、欅澤杜花に惚れこんでいるという部分だろう。記事にもそれとなく示されている。
 記者は良くあの人物に接触して嗅ぎ回れるものだ。もしかすれば自分に近い人間なのかもしれないと考察する。
 最後の記事は七星二子についてだ。
 市子の死後にやってきた怪人物として紹介されている。
 火乃子が知っている以上の情報は載っていない。
 ここで火乃子は違和感を覚える。
(……普通この新聞、怪談などをメインに扱っていた筈なのに、黒い影の噂も、魔女の話もない。あるのは……当たり障りのない、中等部のトイレの話か)
 風の噂では、生徒会活動棟に出ただの、黒い影を見て三年の居友が倒れただのと聞いていた。
 記者はなかなかに鋭く噂を嗅ぎつけて記事にする事で有名だったというのに、これはどうもおかしい。
 意図的に避けているとしか思えない。
 影の噂は数号前には有った。
『スクールロア』とフォルダ分けしてある中の画像を確認すると、やはり有る。火乃子の予想ではそろそろ魔女の話もあがるものだと思っていただけに拍子抜けだ。
 魔女。
 この学院において人気者の悪口として良く使われていた。七星市子はそれだろう。
 三十年以上昔からある怪談で、不思議な事や不可解な事件が起こるとその都度話題にあがる。市子の死後はそれが顕著だった。
 だが生憎、彼女を殺したのも魔女である。
(……まさか本当に死ぬなんて)
 魔術儀式を行った三日後に七星市子が自殺した。
 しかも儀式の途中、火乃子はありえないものを目にしている。
 黒い影だ。
 黒い影が話題になったのは市子の死後であるから、それよりも先に火乃子が目撃していることになる。
 まさか、あの儀式が、あらぬものを召喚してしまったのか。
 そしてその影が市子をとり殺したのではないか。
 ありえない。それはおかしい。
 確かに邪魔だとは思ったが、死んで良いとまで思ったのは、中学も二年までだ。
 彼女の死後……杜花の笑顔も極端に減った。
 杜花の写真が収められているフォルダを開く。日付順に並べると、その素顔が良く分かる。
 この一年の笑顔の少なさは、冗談では済まされない。確かに杜花は平静を装っているが、観察しているとあからさまだ。
 そして、こいつ。新しいフォルダを開く。
(それにしてもあいつやだなあ……どうしてあんななんだろ……)
 七星二子。
 画像閲覧アプリを立ち上げ、隠し撮りした写真をディスプレイに表示する。
 右に市子の正面写真、左に二子の正面写真だ。
 加工ソフトで光加減を調節し、同じ状況下で撮られたようにしてある。
(似てるなあ。二子はまだ13だっけ。ちょっと子供っぽくて丸い顔してるわね。あ、黒子が左右逆なんだ)
 市子の目元にある泣き黒子は右に、二子は左にある。ただそれでも、二子は市子の少し前の姿、と言われれば、誰もが信じるだろう。
 別の写真を比べる。体型は当然違う。市子は165cm、二子は135cmしかない。
 今度は杜花の画像を表示して、三人を並べる。
 杜花は175cmだ。火乃子が155cmであるから、会話する時はいつも見上げる形になる。
 ホログラム表示に切り替え、杜花を取り巻く人間達の相関図を整理して行く。
 杜花を中心に、上に市子、その横に二子、左右に早紀絵とアリス、その下に自分やその他の人間を、隠し撮り画像から加工したバストアップ写真として表示する。
 生憎自分は欄外だ。
(どうやっても食い込めなかったここに……)
 杜花の横に自分を据える。関係性は『?』とした。
 ――これが答えなのだろう。
 自分が彼女の何になりたいか、今になって良く分からなくなっているのだ。
 もっと近づきたかったのは確かだが、恋人にでもなりたいか、といえば何か違う気がしてならない。
 尊敬だけで留めるか、といえば、それも不満なのだ。自己顕示欲でもない。
 ただもう少し、杜花の傍にいても、不思議ではないような立場になりたかった。
 さり気なく触れて、何でも話せるような間柄だ。
 つまるところ親友だろうか。
 生憎、そこには早紀絵がいる。
(自己批判自己批判)
 全ては己から発し、己に帰る。
 火乃子は少なくとも、自己を客観的に見つめて反省出来るだけの賢明さがあった。結局は自分の何かが足りないのだ。
 ではそもそも……欅澤杜花を死して尚手放さない七星市子とはどれだけの人物なのか。市子と自分の詳細データを照らし合わせ、これで何度目だったか、溜息を吐く。
 どうにもならない差だ。
 しかしあの人格者である杜花が、そういった対外的なものだけで市子を見ていたかと言えば違うだろう。
(あれは姉妹じゃなく恋人だものねえ)
 愛、恋。
 残念ながら火乃子には実感出来ない感覚だ。
 恋焦がれる想いこそあれど、真正面から誰かにそれを受け取った試しはない。
 果してどれほど甘美なものなのだろうか。
 この二人は、一体どれだけの繋がりを持っていたのだろうか。
(や、やっぱり……えっちとかしてたのかな……)
 どんなものだろうか、こんなものだろうか。
 パス付きの格納フォルダを開き、めくるめく官能画像をいっぺんに表示する。ホログラム表示を切り忘れて、それが眼の前一杯に広がった。
「あばば……あー……すごいなー」
 手違いだが思いの外凄かった。
 これだけは死んでも見つかってはならない……コラージュ画像の数々である。
 色々と拗らせすぎて画像加工技術が極まってしまった火乃子の負の遺産だ。杜花の体型に似た女性の画像に、杜花の顔が差し替えてある。
 繋ぎ目など当然の如く、彩光も色合いも完璧で、コラージュと言われなければ、杜花の関係者が腰を抜かすレベルのものである。同時に杜花に殺される。
「んー……」
 全面に広がる画像に包まれながら、布団を被る。
 スカートを捲りあげ、ショーツを降ろし、自らの手を、彼女の手に見立てる。
 真面目な分、溜まるべくして溜まったうっ憤の発散は、火乃子の場合自慰に重きがあった。
 故にどうしても一人になれる空間が欲しかったのである。
 ふと、広がったホログラム画像の端に、歌那多の画像がある。擦れてしまった自分では、まず届きそうもない純粋な彼女。
 何も知らない彼女は、事あるごとに火乃子を頼った。
 彼女に必要とされている自分が好きな自分が、嫌いで仕方が無い。
 三ノ宮火乃子は、貴女が慕ってくれるほど、綺麗な人間ではないのにと。
「あくっ……あ、かな……た……あ、ちがっ……ッ、違う、あ、ごめん、なさいぃ――」
 口にして、再認識し、ダメな人間である事に対する絶望と、己の抱く欲望の歪曲さに、打ち震える。



 ……多少の虚脱感を覚えながら、寄宿舎への道を行く。
 もう夕方だ、陽は向こう側に消え去ろうとしている。
 丁度躑躅の道に入ろうとしたところ、街灯の明かりが灯ると同時に、火乃子は何か動くものを見つけた。
 植え込みを乗り越えたそれが、ピョンと飛んで此方に向かってくる。
「あ、ネコ」
「あおぅ」
 猫だ。黒と白のパンダで、鼻に黒いブチがあるのが特徴である。
 少し太っていて、足だけ白く、ホワイトソックスとでもいうのだろう。雑種だ。
 しっぽも長く、先が鍵のようになっている。この近辺をネグラにしている猫らしく、小等部の頃から成猫であった記憶がある為、結構な歳で有る筈だ。
「おいでおいで」
 人懐っこく、呼ぶと此方に寄ってくる。決まった名前はない。およそ十程の呼び名があるとされている。
 学院には猫が住まい、確認されているだけで八匹はいるという。勝手に迷い込むには人里離れている為、誰かが持ち込んだのだろう。首輪も付いている為、猫好きの学院長が付けているのではないかという噂だ。
(猫アレルギーに配慮とかないのかな……密閉してないから大丈夫か)
「ねーこねこねこねこー。がうがう」
「んぉあー」
 間の抜けた声が響く。お腹でも空いているのだろうか。そもそも何処で餌を貰っているのか……考えられるところとすれば、各種寄宿舎と、食堂と、職員棟だろう。
 生憎食べられるものを携帯するような生活はしていないので、猫には諦めて貰う。
「またね」
「にゃおぅう」
 名残惜しみながら猫に別れを告げる。実家で飼っている猫とも暫くあっていない。
(あんな首輪つけてたかな)
 猫には首輪がつけられている。しかし基本的に鈴が装飾されているだけのような気がしたが、あの猫はタグのようなものを首から下げていた。
 以前……といっても、学院内を縦横無尽に駆け回る猫をじっくり観察したのがだいぶ昔である為、確かではないが、以前は見なかったものだ。
(誰かがつけたのかな)
 猫可愛いと言っている私が可愛い、という自己顕示の構造は昔から変わらないので、見栄っ張りが付けた可能性もある。
「戻りました」
 寄宿舎に戻ると、炊事場の方から何か日本人の遺伝子をくすぐるような匂いが漂ってくるのが解る。
 確か今日は二年生の担当日、つまり杜花が余計に張りきる日である。
 ご飯が炊ける匂い、それと味噌の香り。今日は一般的な家庭の御夕飯なのだろう。
 二年が担当ならこれほど安心して晩御飯を待てる日はない。三年は慣れているものの、たまにビックリするような物を作って提供するので警戒している。一年は言わずもがなだ。
「三ノ宮さん、おかえりなさい」
「ただ今戻りました、天原先輩」
 廊下の向こうから歩いて来たのは天原アリスだ。
 ここ最近とても機嫌が良いらしく、いつも以上に友好的に人へ接しているような気がする。それも杜花効果だろうか。
「今日は杜花さんが」
「ええ。ご飯にお味噌汁に焼き魚、なんてメニュー、久々なだけにワクワクしますわ。杜花様はお料理が得意ですし」
「私の実家はいつも純日本食でしたよ。ちょっと塩分が気になりますけど」
「杜花様はその辺り、恐らく抜かりないでしょう」
「そうでした」
 アリスに頭を下げ、一階西廊下を抜けて真中の部屋に辿り着く。ここが自室だ。
 表札には『三ノ宮、末堂』とある。
 自室に入ると、同室の末堂歌那多がいた。
 居るのは当然なのだが、彼女は部屋の真中にある丸いカーペットの上で、胡坐をかいている。
 禅宗だっただろうか、この子は。
「歌那多さん?」
「あ、火乃子ちゃん。あのですね、あの、えーと。瞑想なんですが!」
「はい」
「無って言いますよね無」
「そうですね」
「でも無って事は無がありますよね。じゃあ本当の無ってなんですか?」
「それがすぐ解ったらブティストも天文学者も頭を悩ませないと思うんです」
「あー、やっぱり難しいかー、難しいよねー」
 彼女は、ちょっと良く分からない。
 この学院、あちこちとお嬢様はいるのだが、歌那多は飛びきりのお嬢様だった。箱入りも箱入り、箱の中にある箱の中で暮らしていたのではないかと思うほどである。
 生活能力は皆無に等しく、放っておいたら勝手に餓死するのではないだろうか。
 火乃子もお嬢様だが、何かとシビアな祖父のお陰でそれはない。
 歌那多の両親は過保護極まり、断腸の思いで歌那多をここに入学させたと聞く。
 それは正解だろう。努力次第で自活能力は養える。幸い先輩たちは皆有能だ。
 歌那多本人も可愛らしいので、誰にでも可愛がられている。庇護欲をそそられるに違いない。かくいう火乃子も遠からずだ。
「火乃子ちゃん、何故ブッダは非想非非想は己の悟りではないと思ったのでしょうか」
「せ、専門的な事はちょっと。でも、ブッダさんはほら、それじゃあ誰の魂も救えないと思ったからじゃないですか」
「おー。なるほどねー。ねえねえ、捨身行の事なのですけれど!」
「しゃしん……あ、捨て身か……はい」
「あれって自殺じゃあないでしょうか!」
「思う所無く死ぬのと思う所あって死ぬのでは違うんじゃないでしょうか」
「死の意味かあ。私出来ないなあ。痛いの怖いし……」
 そういって右腕をさする。何か不安に思うとさする癖があるらしい。
「高いところから落ちると、着地までに気を失うので痛くないと聞きました。本人からは聞けないでしょうが」
「……なるほど、あ、そっか! それこそが無!? 無を感じるから意識が無くなる!?」
「いや全然解らないです……」
 仏教なんて門外漢すぎる話題を持ち出して尚テンション高く語る彼女は楽しそうだ。
 いつも突拍子もない話題を持ってくるので、火乃子は慣れている。むしろそれが彼女の性格にマッチしていて、可愛いとすら思っていた。わざとでは出来ない芸当だ。
 火乃子が演じた所で寒いだけである。
「人は死ぬと、裁きを受けて輪廻転生するそうです。天は菩薩に近いですがこれはやはり六道の一つでしかなく、努力しなければ天人五衰といってその身が滅びる事になります。人は私達の世界です。修羅餓鬼畜生なんかはもうアレです、行きたくないですねー」
「うんうん、そうですね」
 適当にあしらいながら、鞄を机に置き、上着を脱ぐ。食事の時間までまだ時間がある。
 ベッドに腰かけると、歌那多もちょこちょこと寄ってきて右側に腰をおろし、火乃子の顔をジッと覗きこむ。
 日本人と、西洋人の遺伝子が都合よく混ざりあったら、このようにはっきりとした顔立ちになるのだろう。
 赤い髪が火乃子の頬にかかる。色気のない、ふんわりとした石鹸の香りが、気取らない彼女らしい。両親が寄宿舎に預けるのを躊躇うのも解る気がした。
「どうしました」
「火乃子ちゃんは、杜花御姉様が好きですよね?」
「あ、ぐ。え、う、うん。ええ。はい」
「杜花御姉様は、あまり詳しくないけれど、市子様? が好きだったんですよね?」
「おそらく」
「で、早紀絵様は杜花御姉様が好きで、アリス様も杜花御姉様が好きで、火乃子ちゃんも杜花御姉様が好きで、私も好き?」
「好きの、意味合い度合いが違うと思いますけれど」
「度合い。度合い。愛の違い?」
「家族の愛と他人への愛は違うでしょう。そのうちでも好きの、段階というか、量というか」
「あー。うん。お父様とお母様の好きと、杜花御姉様の好きは違う気がするし、火乃子ちゃん好きのも違う気がします」
「私好きですか?」
「お父様が、三ノ宮と仲良くなるといい事があるっていうんですけれど、そんなことしなくても私達仲が良いし、たぶん好きですよね? あれ? 火乃子ちゃん私嫌い?」
 まあ、小売商品を取り扱う歌那多の家が三ノ宮と遠からずの距離に居たいというのは解る。
 取り扱い法が緩和したとはいえ、まだまだ普通の店で薬品取り扱いは難しいが、健康器具部門や健康食品部門での提携などはありえるだろう。
 ただ、そういうものを抜きにして、歌那多とは仲良くやって行きたいと思っている。
「好きですよ」
「あー、だよねー。うん。ところで火乃子ちゃん!」
「はい?」
「私の事好きだよね?」
「な、何回も聞かれると恥ずかしいです……」
「じゃあじゃあ、教えて欲しい事があるのですけれど!」
 そういって歌那多は勢い良く立ち上がり、眼の前で制服を脱ぎだす。
 突拍子もない事をしだすのは慣れているが、流石に脱がれるのはどうかと思う。
「ちょ、ちょっと?」
「んぎー……火乃子ちゃん、左袖ひっぱって」
 あまつさえ脱ぐのを手伝えと言うのか。火乃子は仕方なく左袖をひっぱり、脱衣を補助する。
 どうも、右腕が動かし辛いらしい。
 常々、右腕が不器用な気はしていたのだが、ここ最近はそれが目立つ。
 あとはポンポンと服を全て脱ぎ、とうとう全裸になった。
 大きくは無いが形の綺麗な乳房、引き締まったウエストが神々しい。
 脚は……日本人離れして長い。
「それで、全裸になって何を?」
「えっちってどうするんですか?」
「げぼ」
「火乃子ちゃん?」
 空気が変なところに入って噎せる。何を言い出すかと思えば、まぐわいが何だと?
 同級生に聞く話ではあるまい。
 そんなものネットで調べろと言いたいが、歌那多はキャンディヘヤーを揺らしながら、眼は爛々と輝いている。
「ど、どうしてそんなこと」
「あのねー、私、卒業したら、お嫁さんに行くでしょう?」
「ああ、大企業のどら息子のところに」
 外で一度顔を合わせた事がある。
 確かに熊のマスコットに似た愛嬌のある人物だ。有能か無能かは知らないが。
「どら? それでね、やっぱり夫婦になったら、えっちはすると思うんです」
「そうですね、しますね。でもそういうの人に聞くものじゃないと思いますけれど」
「ええ!? じゃあ、昔の人たちは、どうやって子供を増やしてたんですか?」
「なんとなくわかるんじゃないかな……私達だって動物だし……」
「んーと、男性器を女性器に挿入して射精して、それが卵子に辿り着いて、細胞分裂をする」
「そうですね」
「それは解るのですけれど、そこに至るまでの過程? が良く分からなくって」
 お願いだから処女にそんな事を聞かないでほしかった。
「あの……私、経験あるように、見えますか?」
「見えないです!」
 あったらあったで問題だが、そうはっきり言われてしまうと人間としての魅力が無いように思えてしまう。確かに、火乃子は自分が地味であるとは自覚している。
 今後外に出て、男性とまともに会話出来るかどうか怪しいレベルで自信はない。
「見えないですけど、火乃子ちゃんは頭がいいので、えっちにも詳しいのかと!」
「つまり私が耳年増であると。歌那多さん酷いです」
「あ、御耳だけ老けるんだー。ともかく教えてください」
 どうしろというのか。
 歌那多は二段ベッドの下、つまり火乃子のベッドに全裸で横たわった。誰かが部屋に来たらどうするつもりなのか。
 歌那多は素直で宜しいのだが、教えて貰う事になると実にしつこい。沢山学んで来いと言われたのだろう。それを真に受けているのだ。素直だから。
 しかたなく、火乃子は部屋の鍵を閉めてから、歌那多の横に正座する。
(肌白いなー……)「それをマグロといいます」
「マグロ!? 新築地ですか!?」
「築地めいた何かですね。あと、私教えませんよ?」
「ええ!? ここまでしておいて酷い」
「な、なったの自分からでしょう」
「むー……」
 不満そうに歌那多が起き上がる。
 流石に知識として教えるのならまだしも、これは実践コースだ。
 ふと、先ほど自分を慰めた時、歌那多の顔がよぎったお陰で酷い罪悪感に駆られた事を思い出し、火乃子は顔を赤らめる。
「本番で数こなせば覚えますよきっと」
「粗相がないようにしたかったんです」
「処女でえっちが上手な女の子とかたぶん男性ドン引きしますよ」
 男性のフェチズムなど知らないが、処女で床上手なんてギャグも甚だしい。経験豊富な新人社員を求める企業のような男が沢山いては困る。
 が、知識と積極性はその足しにはなるだろう。教える気は無いが。
「ところで……右腕、動かし辛そうですね、最近」
「あ、う、うん」
 火乃子の脇を抜け、脱ぎ捨てた服を拾い上げる。急いで着替えようとしたらしいが、ショーツを穿こうとしてそのまま転倒する。更に起き上がろうとして右腕をついたところ、力が入らず転がる。歌那多はうつ伏せのまま動かなくなった。
「歌那多さん?」
「……最近動かしにくいんです。医療系の会社の火乃子ちゃんなら解るかもですけど」
「……もしかして、右腕」
「神経接続型全関節稼働義手(フルサイバネテック)です」
 なるほど、と、今までの歌那多の不調に納得が行く。
 ここしばらく物を取り落としたり、右半身をやけに動かし難そうにしていたのは、そういう理由があったのだろう。
 神経接続型全関節稼働義手。
 つまるところ、脳から送られる信号を機械的に接続した義手が感知し、日常生活の上で必要な動作の全てを賄えるようにした、超高級義手の事だ。
 世間ではSFからとってサイバネティクスと呼ばれている。
 医学他通信や制御、システムあらゆる技術の統合体で、この技術を用いて商品化出来る企業は、アメリカ、ドイツ、日本の三つにしかない。
 三ノ宮の娘ですら驚く程の高額なもので、腕一本ともなれば丸の内に土地が買える。
「何故放っておいてるんです? 定期健診は?」
「受けてるのだけれど、直すのに必要なパーツの取り寄せに時間がかかるそうなのです」
 ありえる話だ。特注品で、製作には一年かかると言われている。
 きっと欠損した部分がそれこそ面倒な部分だったのだろう。
「あ、あの、あのね? 誰にも言わないでほしいの」
「バレたからといって、差別するような心の狭い人がここに居るとは思いませんけど」
「恥ずかしい」
 そういって、右腕をさする。
 動かない、とはいうが、外から見ても繋ぎ目すら解らない。余程精密で丹念な仕事のなせる技なのだろう。
「勿論誰にも言いません。でも大変でしょう。補助が必要なら皆が手を差し伸べてくれるのに」
「わ、わたし。いっつも、一人じゃなにも出来ないのに、更に腕も不自由なんてバレたら、もっと皆に迷惑かけるみたいで、あの。私、ちゃんと一人でも生活出来るようにってここに入ったから。解らない事は沢山あるけれど、勉強して、教えてもらって……」
 元から庇護欲をそそる子ではあったが、今日ほど健気で可愛らしく見えた日はなかった。
 彼女は本当に何も知らないだけであって、迷惑をかける事に恥を覚えているし、常に前向きな姿勢を崩したりはしない。どうして右腕が無い如きで、彼女を責める事が出来るだろうか。
 火乃子は歌那多の傍に座り、上着を羽織らせる。
「偉いですね、歌那多さんは」
「偉い?」
「迷惑をかけたくないって気持ちは大切なんです。けれど、それを黙っていられると、まるで皆が信用されていないような気にもなってしまう。辛かったら助けを求めてください。少なくとも私は手を貸します」
「……うん。ごめんなさい。火乃子ちゃんを信用してないとか、そんなんじゃ全然なくって。火乃子ちゃん好きだから、あんまりこういうこと、教えたくなくって」
「全裸にはなるのに……」
「もし、このままずっと腕が不自由だったら、旦那様にも申し訳ないかもしれないなって思って、それだったら、事前に色々教えて貰っていたら、ごまかせるかなー? っておもって」
「その程度で嫌がるような男なら蹴飛ばしてしまった方がいいでしょ……まあ、ないと思うけれど。歌那多さん可愛いし」
「可愛い……私?」
「自分では言わない方が良いです、単なる嫌味にしかならないから。七星みたいに」
「あ、可愛いにも度合いがあるのかな。うん」
 つい最近まではフィクションであるとされていた物事が実現可能になってきた現代においても、歌那多がつけているような義手は一般人の手には届かないものだ。不調になるまでそれが義手だと気づかない程の完成度の物となればなおさらである。歌那多は恵まれた存在だ。
 ただ当然……そのうちに抱えているもの、悩むものはあるだろう。
「おういカノカナ! 食事の時間だよ……って、おお、火乃子が歌那多襲ってる!」
「ええ!? 早紀絵先輩! か、鍵は!?」
「え、勢いよく開けたら開いたけど。壊れてるんじゃない? あ、続きするの?」
 ……時計を見る。夕食の時刻を少し過ぎていた。わざわざ後輩を呼びに来る早紀絵の面倒見の良さは評価するのだが、もう少しデリカシーを持ってもらいたい。
「さ、早紀絵先輩。これはですね」
「早紀絵様、今日のおゆはんは?」
「今日は全権を杜花に委任して作られたからたぶん超美味しいご飯に味噌汁に焼き魚と切干大根だって。食べて体力付けないとえっちでバテるよ」
「違いますって! ああ、早紀絵先輩お願いだから……」
「ああ? 何でもするって言ったね?」
「言ってないです。お願いだから黙っててください。じゃないと」
「じゃないと……なんだね、ん?」
「スクールロアの発行者だとバラします」
 推測だ。証拠はない。
 ただ、日ごろ記事を読んでいて、ひっかかる部分は幾つかあった。満田早紀絵がオカルト好きである事は周知であるし、杜花やアリスの事情を逐一観察出来る立場に居る。以前から疑いはしていたが、今回の記事は致命的だ。
 影や魔女の噂を書かなかったのは、もしかすれば杜花に配慮した可能性がある。
「え? 何で知って」
「ふっ」
「ああ! カマかけたな!? くそ、愛読者がこんなところに居たとは……だ、黙っててね?」
「なので黙っててくださいね」
「あい。後輩に一本取られたか……ってほら早く服着せてあげなよお腹空いた」
 もたもたとする歌那多の着替えを手伝い、自室を後にする。
 歌那多は、普段差し出さない右手を差し出していた。それを掴み、食堂棟へと向かう。
 同室の人間に隠していたのだ、余程気を使っただろう。
 先ほどとは打って変わって、華やかな笑顔を湛えている。
(これぐらい無邪気になれたら……私は汚くなりすぎた)
 同い年の少女を羨むようになっては……乙女として終わりだなと、小さく心の中で涙を流す。



 食事と風呂を済ませ、作業時間になる。
 寮長の鷹無綾音に部屋の鍵が壊れている事を報告してから自室に戻ると、丁度部屋の前に早紀絵と杜花が居た。どうやら遊びに来た、という雰囲気ではない。
「おお、カノ、待ってた」
「どうしましたか」
「まあまあ来たまえよ、我が家へ」
 早紀絵はどうでもいいが、杜花がついてくるならば歓迎だ。
 二階に上がり、早紀絵の自室に案内される。中では中央の座卓に支倉メイがお座りをしながら待っていた。
 流石早紀絵のペット、従順である。
 座るように勧められ腰をかけると、隣に杜花が座った。
「他の班の材料が余っていたので、料理ついでにお菓子を焼いてみたんですよ」
 座卓の真中に学院では貴重品な焼き菓子がある。種類こそ少ないが、どれも形が整っていて、香りが良く、食欲をそそられる。
 そもそも何処からか買って来るという選択肢が無い為、料理上手な人間が進んで作るか、食堂のオバ様が気まぐれに作るのを貰って来る他ない。
 一応生もの以外の持ち込みは一応禁止されてはいないが、お菓子食べたいから、といった理由で持ち込むのも、なんだか食い意地が張っているようで人の目が気になる。
 故に出来たてのクッキーなど本当に久しぶりだ。まして杜花作となるとテンションも上がる。
 メイがお茶を淹れて、ご主人様に撫でられる。
 いや、火乃子も二人の関係をそこはかとなく知ってはいるのだが、こうあからさまで良いものなのか。
「先輩方おそろいで、私何か、しましたか?」
「いえね、カノはスクールロア知ってるでしょう」
「……ええ。昔から読んでます」
 杜花の前でボロを出したくない。
 本来ならそれも知らせたくはなかったのだが、わざわざこうして出迎えにまで来て、あまつさえお菓子まで用意しているのだから、余程の理由があるのだろうと納得する。
「へえ。三ノ宮さんも読むんですねえ」
「いえあの、その。好奇心で」
「ハードユーザーでしょう。いいよそんなに繕わなくても、貴女の話なんて、杜花は風子から聞いてるし」
「ぐぬっ」
 おのれ姉。
 三ノ宮風子が欅澤杜花を総合に誘って、それ以来仲良くしているのは知っているが、妹の話を自分の知らないところでしてほしくなかった。
 色々と繕っているので、虚飾が剥げた姿を杜花に見られるなど……それは恥ずかしい。
「好きです。毎号読んでますよ。ただ、今号は納得いきませんでした」
「ほう、読者の意見を聞こうじゃない……うわ杜花これ美味しいお嫁に来て」
「保留で」
「くそう……で?」
「数号前から続いてた黒い影の話、いきなり途絶えましたね。それと、魔女の噂、そろそろ特集でもされるのかと思っていたら、天原先輩の話になってましたし」
「……サキ? 黒い影の記事、書いてないんじゃ?」
「あいや、自殺霊と絡めた事はしてないよ。怪談話だ、それは昔からあるよ。説明させて。いいかい、そもそも昔から、自殺霊も、黒い影らしき何かの話も有るわけ。話題になり始めたのは市子の死後。次の記事どうするかなって所で、まあ悩んではいたけれど、杜花の事もあるし、完全に除外してるよ、その話題。魔女も同様」
「そう、か。ごめんねサキ」
「ああ、だから記事にならなくなったんですねって……あの、そういう話題って」
 まさしく禁句だ。
 誰の前でもない、欅澤杜花の前でその話題を出して良いものなのか。横目で杜花を伺うが……表情に変化はない。
 今回呼ばれたのは……その話か。
 いや、まさか。魔術行使は誰にもバレていない筈だ。
 中等部三年の当時、綿密に第二寄宿舎を脱出する計画をたて、準備し、執り行い、動揺しながらも、誰にも気がつかれず部屋に戻った。
 本当は誰かに見られていた? 
 杜花と早紀絵に誰かが喋った?
「どうしました――三ノ宮さん、少し、震えてるみたいですね」
 火乃子は常人だ。杜花の鋭い目線から逃れられるような人物ではない。
「あ、こりゃ何か知ってるね。いやね、とあるものを探してるんだけれど、次への手掛かりが無くってね。取り敢えず学内中噂のスポットは当たってみたんだけど、収穫は零。それで、なんか詳しそうな人いないかなって探してた訳。で、どうやらスクールロアなんてケッタイな物を愛読している人がいるみたいだから、声をかけたの――メイ、アーンして」
「あーん」
「おいしい?」
「ふぁい」
「おー可愛い可愛い。で、カノはなんか知らないかな。黒い影、そして魔女の噂について」
 どう、すべきか。
 二人にどこまで知られているか解らない。
 あの日、あの晩、市子が死ぬ前に見た黒い影。この二人はそれを探していると見える。
 確かに、黒い影が市子だと噂されて久しい。杜花が、その噂を好しとせず潰して回っている、というのなら納得出来る話である。
 協力はしたい……が、問題がありすぎる。どう誤魔化すか。
「魔術」
「……はい?」
「魔術儀式を執り行いました。そしてその時、影を見ました。ここの裏の林です」
 流石に、市子をなんとなくとり殺す為にやりました、などとは言えない。しかしこれは間違いのない真実だ。魔術儀式を行っている途中に影を見た。
「なんでまた、魔術なんて。三ノ宮さんは、そういうのが好きだったんですか」
「あう。あんまり、人には言えませんけれど。昔から、呪術とか魔術とか好きで。あの、言わないでくださいね。こっそり夜に抜け出して、儀式をしたんです。その時、黒い影がざわざわと動きまわって、歩き回って……」
「まあカノの趣味なんてどうでもいいよ。誰にも言わないし。こういう話を私達がしてるってことを黙っていてくれれば良い。それで五分、どう?」
「はい」
「……歩き回るタイプのものですか」
「噂に上がってる奴だね。佇む、走って迫る、そしてこれ、歩き回るだ。しかしなるほど、寄宿舎裏の林か。なんか出そうな雰囲気はあるわな」
「地中に埋めたのでしょうか……」
「どうだろうか。杜花センサーでなんとかなるんじゃない?」
「状況が顕現すれば確かに。重要な情報ですね、助かります」
 杜花が火乃子に笑いかける。
 それは、純粋に嬉しいが、その笑顔に色気がない。形式としての笑いかけだろう。
 杜花を観察し追い回して来た火乃子に通じるものではない。火乃子も生返事しか返せなかった。
 しかし本当に手掛かりに飢えていたのだろう。杜花と早紀絵はこの問題について議論している。もう用は無いのだろう。
 いや、それはネガティブすぎる考えだ、として頭を振る。
 状況を自分から作る事をしてこなかったからこそ、構ってもらえていなかったのではないか。
 クッキーを齧りながら、何か会話のネタになるようなものはないかと探す。
 ふと目を向けると、大人しくしている支倉メイと眼があった。
 身長は火乃子と同じくらいで、胸も含めてふっくらしている。
 髪は少し茶色が入っており、杜花よりも長いだろうか。
 あまり視界に入る人物ではないが、いざ近くで見てみると、おっとりとした雰囲気の中に妙な空気がある。いうなれば、何か卑猥だ。
 やっぱり早紀絵にそういう事強要されてるのだろうなあと、妄想を走らせてから、いや今みんなと居るのに何をしているんだ私と、我に返る。
 メイがニッコリと火乃子に微笑みかけた。
「恋をしてる瞳」
「……はい?」
「待っていても来ない。進んでみたら?」
 どういう意味……そう問おうとしたところ、メイが身体を寄せて、耳元で呟く。
(匂いがするの。なりふり構わなければ、もっと構ってもらえるわ。もしそれでもダメなら、いつでも私に相談して? たくさんたくさん、慰めて、あげるから)
 太股に、メイの手が伸びる。杜花と早紀絵は議論の真っ最中だ。
(そういうの好きそうな匂い。ヒトにされた事ある?)
(な、ないれひゅ……)
(んふふ。がんばってねぇ)
 早紀絵と杜花が此方に視線を戻すよりも早く、メイが離れる。
 とんでもない人種に出会ってしまった衝撃に、火乃子は目玉があちこちと散る。全身けいれん気味だ。
「カノ、どったの」
「ああああにょ」
「あにょぉぉ?」
「あの、お手伝いさせてください。私は、現実に見ていて、し、信じられないけれど、でも、見ていて、何か、他の事を思い出すかも、しれないし」
「でも、危険がない訳でもないんですよ、三ノ宮さん」
「つ、ついていくだけでも。出過ぎた真似は、しませんから」
 早紀絵と杜花が目配せしてから、頷いた。
「誰にも喋らない」
「はい」
「モリカの警告は全部信じる」
「はい」
「ならいい。こっちとしても情報が欲しいところなんだ。じゃあ明日の放課後、寄宿舎前ね」
「あ、ありがとうございます」
 メイに視線を向けると、彼女が小さく頷く。
 ともかく杜花の役に立って、もう少し目を向けて貰いたい。
 そして……そして、どうして貰いたいだろうか。
「あの、不躾なお話なのですが、杜花さん」
「はい、なんでしょう」
「この一年と少しの間……ずっと、市子様の話題を避けていたと思います。何故、今になって」
「――耐えるのに飽きたんです。それに、限界も感じていました。どんな形でも、自分の中で整理をして決着をつけないと――私は一生、市子御姉様の影を追い続ける事になる。保留し続けて、当時の私を保ち続けるなんて、出来ない。私は、私にならなきゃいけないんじゃないかって、そう、思いました」
 重苦しく吐き出される言葉に、早紀絵も黙り込んだ。
 火乃子も、なんと言葉を紡げば良いのか解らない。
 あれだけ一緒にいた二人が、死をもって別たれたのだから、当然だろう。
 そして、それに対して火乃子は、どう考えるべきだろうか。
 呪いも魔法もない。
 あれは偶然が重なっただけ。
 でももし、何かの間違いでその祈願が成就し、市子を殺し、杜花を絶望せしめたとしたならば、その証拠が提示されたのならば、火乃子は、自責に押し潰されるのではないのか。
「済みません。でも、杜花さん。私……いえ、私達は、ずっと杜花さんを見つめてきました。早紀絵先輩だってそうでしょう」
「う、あ、ああ。うん。そうだよ」
「私達では、とても市子様には敵わない。これは解りきった事です。けれど、私も、早紀絵先輩も、天原先輩だってそう、市子様に届かないまでも、杜花さんを支えたいと、助けたいと思ってる。これは、身勝手で、理不尽な話ですけれど、貴女はアナタ一人だけの物じゃあないと思います。貴女が明るく笑える日が来るのを、みんな楽しみにしてる」
 偽善的な建前にも聞こえるだろうが、今口に出せる精一杯の本音だ。
 寮の皆が、学院の子達が、欅澤杜花に期待している。
 学院の象徴として、誰もが誇れる人物として、彼女は見られているのだから。
 彼女本人の都合は当然あるだろうが、生憎、彼女は市子と同じくして、私人よりも公人に近いのだ。
「……アリスさんにも似たような事を言われてしまいました。頑張って繕っているんですけれど、やっぱり、昔から一緒に居る人たちには、通じませんね。まだまだです、私は」
「昔から……一緒」
「……? そうでしょう。貴女ほど、私みたいな人に熱心な子、居ませんでしたもの。ああ、風子先輩あたりもかな……」
「三ノ宮姉妹を引きつける何か持ってるんじゃないの、モリカ」
「いやあ……」
「あの、その……迷惑、でしたね」
「まさか。妹、でしたね。じゃあ、問題が全部片付いたら、名乗って構いません。二番目になってしまいますけど、それでも良いなら。あ、アリスさん次第で一番かな……」
「も、モリカ? 貴女、あんなに嫌がってたのに、いいの?」
「別に結婚しろって言われてる訳じゃありませんし」
「げふ。そ、そだね。そっか、良かったねカノ……カノ?」
 なんてことをしてしまったのか。
 なんでこうなってしまうのか。
 今の今まで叶わなかったものが、こんなにアッサリ叶ってしまうものなのか。
 市子が死んだ所為であるし、杜花の考えが少しでも変わってきている事も示している。
 望み望み望み、否定され否定され否定され、引きずりに引き摺って、これか。
 これでは本当に、悪魔と契約をして、その結果にもたらされた幸福ではないか。
 一体どんな対価を要求されるのか。
 いや、もう既に払わされているのかもしれない。
 この苦悩こそが災厄そのものだ。
 呪えば穴は二つ用意される。
 もう半身は埋まり始めているのではないか。
「ごめんなさい」
「……三ノ宮さん?」
「ごめんなさい……わた、私が……私が……」
「おい、カノ? 嬉しすぎて狂った?」
「い……いえ……、あ、あのう、嬉しいです。それでですねその……」
「はい?」
「口ぶりからするとその、探しているのは、影だけではないような、そんな気がしますが」
 告白出来るものではない。
 私が市子を呪いましたなどと、言えるものか。言って何になる。杜花に謝罪を述べた所で、杜花が許してくれる訳がない。
 下手をすれば、それこそ仇討なんて真似もあり得るだろう。
 彼女はそんな事を平然としてしまう可能性が見え隠れする。
 そして杜花の才能なら、人を素手で殺すなんて事も容易い筈だ。
 総合格闘に勤しむ姉の風子を見ていれば解る。
 あの風子すら足元に及ばない強さなのだ、彼女は。
 黙っていよう。
 もしかすれば、杜花は鋭い故に、何か感づいているかもしれないが、詳細までは解るまい。火乃子が全力で謝罪しても、市子は帰って来ないのだ。
「ああ。これいいのかな、モリカ」
「協力関係なら。先ほど宣誓も受けましたし。乙女には契約と恥じらいが必要です」
「んじゃ。あんね、結晶を探してるんだ。二子曰く市子のものだったそうだ。四角い結晶でね、虹色をしてる。毎度封筒にソレと手紙が入ってる。今回は地中か木の上か……鳥の巣の中とかあるかもね」
 杜花と早紀絵がまた議論を始めた。流石にもう入る隙間はないだろう。
 メイに目配せすると、彼女はニッコリと笑う。
 火乃子は三人に断り、約束の時刻を確認してから早紀絵の部屋を後にした。
 階段を下り、給湯室でお茶を淹れてから、自室に戻る。あの部屋では飲んだ気がしなかった。
 自室に戻ると歌那多が机で勉強をしていた。
 邪魔をするのも悪いと思い、声をかけず自分の椅子に座る。
(……願いが叶ってしまった)
 祈願が成就してしまった。嬉しさと罪悪感がじわじわと込み上げる。
 杜花の、妹。
 欅澤杜花の妹。聞くところによれば、もう数十人がそれを目指して失敗している。最近同級生の川岸命も失敗したと聞くが、これは妹宣言ではなかろう。風子も苦い顔をしていた。
 だとしても、杜花の心情の変化には驚きだ。
 それだけ、彼女の中の市子という存在について整理がついて来たのかもしれない。
 一か月の間にあった変化……二子だろうか。
 確かにアレは七星への幻想を押し潰すに十分な存在だが、それだけでもないだろう。
 影と結晶、それを追い求める事で、杜花の市子一辺倒の考えが打破されたのか。
 アリスとの関係も気になるところだ。
 アリス次第で一番と言っていたが、まさかあのアリスが妹になりたいと考えていたとは意外だ。どう考えても御姉様の立場だろうに、杜花はそんなアリスすら心酔せしめるのか。
 だからこそ、杜花からの言葉は嬉しく、なおかつ衝撃的だ。
(……素直に喜べる程、狂っている人間ならよかった)
 愛しい人に認めて貰える事だけを是と出来る人間ならば良かった。
 どんな犠牲を孕もうと産もうと、自らに訪れた幸福を諸手を上げて喜べるようなクズなら良かったと、思う。
 しかし残念ながら、そんな利己的な考えも、他者の不幸を笑顔で迎えられるような思想も、火乃子には残っていない。
 火乃子は、だいぶと大人になってしまった。
 黙っていられるか。
 杜花が卒業するまであと一年と半年程、その全てを幸せに彩り続けられる程の虚飾を、火乃子に作れるのか。
「火乃子ちゃん」
「……ん?」
 頭を抱えていると、歌那多が肩をたたく。
 何事かと振り向くと、眼の前に日本現代史のテキストが広がった。
「アジア戦火時の日本の政治形態なのですけれど」
「アリス先輩が無茶苦茶詳しい筈です」
「えー。火乃子ちゃんがいいです。――大陸国家分断後、暴走した一部軍閥が半島を嗾けて、日本海沿岸部に上陸させて、原発やら主要施設の攻撃を行ったわけですけれど、事前に防げなかったのかなって」
「攻撃されないと攻撃出来ない、敵が眼の前にいても弾を撃てない、そんな軍隊を持ってたんですよ、日本は。国防軍ではなく、当時は自衛隊と言います。その後沿岸部を幾つか占拠されて、米国と初めて軍事合同作戦を決行、局地戦と放射性物質汚染で、多大な犠牲が出ました。人権人権と言っていられなくなっている状況になっている事に、上の人たちはまだ気が付かなかった。侵攻軍と内患の共同作戦で占拠地域の原発が三つほど爆発、県庁市役所襲撃、そこで漸く国家非常事態宣言を発令、戒厳令が敷かれました。遅すぎる内閣の対応に与党野党から反発が起きて、離党者達が自衛隊の幕僚級を引きこんでクーデターを起こした訳です。それが今の自人会党の前身ですね」
「アリス様のおじい様達?」
「そうですね。まあ意見は当然分かれます。大陸から支援を受けていた政治組織を片っ端から排除して、自衛隊駐屯地や滑走路に群がる左翼団体を機銃で殺害。その他諸々、汚い役目を全部負いましたから。彼等を独裁者というならそうかもです」
「日本でクーデター成功なんて明治以来ですねえ」
「外圧か、本格的な被害が無い限りは動き難い風土なんですよ……解決しました?」
「あい」
 歌那多が嬉しそうに頷く。
 現代史は記憶だけすれば良いのだから、簡単な部類だ。ただ前後の因果関係を理解しない歴史教育が排除されて久しく、昔よりも面倒になっていると聞く。
 日本の転換期であり、七星が以前よりも躍進する機会を得た時期だ。
 元から巨大な組織だったが、応用科学の権威と研究者たち人材を集めに集め、総動員して富国強兵に協力している。
 三ノ宮が人材と技術を奪われたのもこの頃だ。
 三ノ宮を抜けて七星の製薬会社社長となった時田が持って行った技術の中で、その後最重要となった所謂放射性物質除去薬の理論は、七星の研究所で完成、莫大な富を生み出した。
 確か、七星一郎が関わっていた筈だ。
 遺伝子工学の応用品という胡散臭い代物だが、結果的に日本臣民の放射線被害を軽微に抑えた。
 七星一郎は日本救国の英雄なのである。
(確か昔は……そっか、七星一郎は襲名性だから……なんて名前だったかな)
 歌那多の背中を伺い、此方を振り返らない事を確認してから、本棚の辞書を収める箱の中に入った電子ペーパーを取り出す。
 実家の商売柄、ネットで拾った事件スクラップを幾つか閲覧し、新型薬の発表の記事を見る。
(この頃にはまだ旧名か。32年前。2035年か。主任研究員……利根河真(とねがわ まこと))
 五年後の記事には既に七星を襲名していた。余程の天才だったのだろう。経営の手腕も人間のソレを超えているとしか思えないものが多い。
(……32年前当時……45歳!? 今77なの!? そ、そっか。おじい様と喧嘩してた訳だし……じゃあ二子はずいぶん後の子だな……いや……遅すぎる。幾らなんでも。……七星なら、まあ独自で精子保管もあるか……)
 改めて七星一郎の怪物ぶりには驚くほかない。
 日本国の危機を救い、なおかつ躍進を遂げさせた大傑物だ。彼が出現しなければ、今頃どうなっていただろうかと、身震いする。
 未だに大陸では戦火が広がる。今こうして日本がまだ客観的に居られるのは、幸福な事である。だが当然、平和維持活動として日米独英仏は大陸に軍事介入を繰り返している。
 収まるまでいつまでかかるか……それは不明だ。
「火乃子ちゃん!」
「わっと、と」
 声をかけられ、思わず電子ペーパーを腹の中に仕舞う。
 歌那多は気が付いていないのか、ニコニコとしたままだ。
「ど、どうしました?」
「さっき早紀絵様と杜花御姉様に呼ばれていたけれど、何かあったんですか?」
「あ、ええ。大したことじゃないんです」
「えー」
 歌那多は確か、七星系列の会社に嫁ぐ筈だ。どこの部門を担当するのかは知らないが、彼女もまたここを卒業後、この国を形成する一部分になるのだろう。
 これだけ純真な子が、この国の光と闇の中に放りだされてしまうかと思うと、一抹の悲しさがある。
 だが、それは皆同じなのかもしれない。
 ここで暮らす生徒達は皆ご令嬢ばかりだ。元から関わっていたり、これから関わる人々に嫁いだり、自ら立ち上がったり、様々な形で社会の歯車になる。
 箱庭の中で育てられた乙女達が、汚泥に塗れて行く姿は……残酷だろうか。
 三ノ宮火乃子はどうあっても逃げられない立場にいる。
 個人の為に何かを悩み考え、憂鬱になれる機会は、この箱庭が最後なのだ。
 故にこの学院は、尊いのである。
 幸福で過ごせるならばそれに越したことは無い。最大の思い出を胸に抱き、外へと出て行けるのだから。
 外とのギャップに苦しんだとしても、記憶は自らを支えてくれると、火乃子は考えている。
「火乃子ちゃん?」
「うん?」
「どしたの……? 悲しい?」
「少しだけ」
 故に自分は、どうするべきなのだろうか。
 もし自分が杜花に告白すれば、それは悲しい想いを更に絶望へと突き落とす結果となるのではないのか。
 彼女の気持ちも、自分の思い出も、全て穢してしまった。
 高望みなどするべきではないのだと、後悔が押し寄せる。
「歌那多さん。私は酷い子です」
「そうなの?」
「はい。もし酷い子でも、ずっと仲良くしてくれますか?」
「酷くないし、ずっと仲良しです。火乃子ちゃんは私に色々な事を教えてくれるし、助けてくれます。火乃子ちゃんが酷い子なら、きっと世の中もっと酷い人で溢れていて、大変な事になっちゃうと思います」
「そう、かな」
「うん。ねえねえ火乃子ちゃん」
「うん」
「今日は一緒に寝ましょう。お布団入っていいですか?」
「……」
 歌那多が機嫌よく飛び跳ねて、火乃子の布団に勝手に潜りこむ。
 仕方なく、電気を消し、歌那多の隣に並ぶように寝ころぶ。
 彼女はどうしてこんなに明るいのだろうか。腕の話題に触れる時のみ、彼女は悲しそうな顔をした。それを覆い隠す為なのだろうか。
 歌那多の脚が火乃子に絡み、思わずビクッと跳ねあがる。
「火乃子ちゃん温かい」
「こ、恒温動物だからかな……」
「おててください」
「んっ」
 彼女の右手に触れられる。
 体温はない。握る力もどこかよわよわしい。やはり機能低下しているのだろう。
「……事故?」
「中学の時、爆弾で」
 物騒な世の中ではあるが、街中で爆弾テロが頻発するほど治安が悪くなった訳でもない。
 爆弾を用いたテロといえば、大きなものは二年前だろうか。
 確か池袋の繁華街で爆弾テロがあり、仕掛けられていた爆弾が三つ起爆。百人近くが死傷したものだ。
 犯行グループは『格差是正帝國士魂会』という右派系の名称を名乗っていたが、その裏で糸を引いていたのは大陸からの工作移民だという事が逮捕後判明した。
「怖かったね」
「腕はどこかにいっちゃって、体中に破片が突き刺さってね、もう凄かったみたい。記憶は曖昧なのだけど」
「良く助かったね」
「うん。危なかったって言ってた」
「腕は、細胞再生医療でどうにもならなかったの?」
「ダメだったです」
 身体には傷一つ見当たらなかったが、相当の技術が用いられているのだろう。もしかすれば、義手の類は腕だけではないのかもしれない。恐らく細胞再生医療の恩恵だ。ただ、腕一本は難しかったのだろう。
 ……溺愛する娘を手放して学院に入学させたのは、それも理由と考えられる。
 確かに目を離す事になるが、恐らく末堂家の数倍近いセキュリティに守られたこの学院ならば、軍隊が押し寄せてくるか、沿岸部から潜水艦搭載ミサイルが飛んでくるかしない限りは無事だ。
 大手小売の末堂家は、そういった奴らの格好の的だ。
「たまに思いだすの。使用人の井上さんは、私をかばって死んでしまったみたい。とっても優しい人だった……小さいころから、ずっと御世話してくれてた、お母さんみたいな人」
「……うん」
「御無事ですか、ならよかったって。そこから私も、意識がなくて、それだけが、記憶にあって」
 歌那多の震える身体を抱きしめる。
 火乃子では想像も出来ない悲惨な目にあったのだ、それも仕方が無い。
「火乃子ちゃん。酷い子なの?」
「……そうかもしれない」
「酷い子でも良い。ずっと一緒にいて。仲良くして、嫌いにならないで……」
「――ならないよ。歌那多がどんな子でも。大人になっても、仲良くしよ」
「うん。うん。ありがと、火乃子ちゃん。あ、歌那多って呼んでくれた」
「う、ん」
「そう呼んでね。これからずっと」
 歌那多がゆっくりと眼を閉じ、やがて寝息を立て始める。
 自分はこんなにも良い子に、好かれるような人間ではないのに。
 聞けば幻滅されるような事をしているのに。
 強く有りたい。
 汚い過去を引きずってこれから生きて行きたくない。
 この子の前でも胸を張れるような人間になりたい。
 ……どうすればそうなれるだろうか。そればかりは、学校では教えて貰えない。
 偽る事で得る幸福か。
 告白する事で被る罪悪か。
(ごめんなさい……ごめんなさい……市子様……杜花様……)
 それに――七星二子だ。彼女は姉の死をどう思っているのか。
 答えを出せる日が来るだろうか。
 三ノ宮火乃子には……どれが正しい選択なのか、まだ解らなかった。




 眠い目をこする。
 昨晩は寝付けなかった。悩みがあった事も当然だが、歌那多の寝相にも問題がある。
 幼いころからのクセらしく、彼女はいつも抱き枕を抱えている。その代わりになってしまったのが火乃子だ。
 やたら抱きつかれるわ涎でだらだらだわこすりつけられるわで、気がついた頃には三時をすぎていた。 
「『憑』かれた顔ね」
「悩みが多い年頃でしてね」
 わざわざ近くに寄ってくる七星二子に悪態をつく。四時間目の授業は体育だった。
 緑のラバー敷きになっている校庭には、生徒達がわらわらと群れてサッカーをしている。
 大体こういうものは何処の場所何処の時代でも本業か、それに近い部活の人間が活躍する為、部活無所属で運動神経に難ありの火乃子は外で見ている事が多い。
 女性社会大いに結構、アクティブでアグレッシブな社会大歓迎だが、人には得手不得手があるのだ。
 上下何故か半袖ショートパンツという健康的ないでたちで病的に肌が白い二子が、此方を覗きこむ。
「私に何か言う事があるんじゃないの?」
「な――何も」
 ……やはり、というべきか。
 これも七星市子同様、人さまの顔色を窺って相手の心を鋭く見抜く力があるのだろう。
「そう。いいの、別に。一応言っておくけれど」
「……」
「私は貴女が憎いなんて一つも思っていない。いつでも仲良くして頂戴、三ノ宮」
「――もし」
「うんうん」
「もし、私が、七星市子を殺したと言ったとしても、貴女は仲良くしてくれますか」
「あはは。貴女に姉様が殺せる? 無理無理。どうしたの急に。貴女がどうやって姉様を殺せるの? そんな度胸が貴女に有るわけがない。呪術や魔術で呪い殺したの? まさしく魔女ねえ」
「あ、貴女。どこまで……」
「……私は別に。憶測でものを言っているだけ。でもね、俄か魔女が本物を殺すなんて事出来ないのよ。貴女は姉様が邪魔だった。解るわ、その気持ち。私だって遠からずの立場だもの」
「……どういう事」
 二子が、直ぐ隣に腰かける。
 転がってきたサッカーボールを投げて返しながら、静かに言う。
「貴女、主役になりたいって思った事はない? 演劇会でも、合唱会でもいい。観神山の絵画コンテストでも良いかしら。何か人から見られ、称賛され、羨望の眼差しを受けるような立場になりたいと妄想した事ぐらいあるでしょう」
「……その分勉強したわ」
「偉い子ね。やっぱり人間は、こう有象無象と居ると、その中でも抜きん出たものになってみたいと思う。私と違って、姉様は全部持っていた。どこに居ても全ての視線は彼女に集まる。その影に光るものがあろうとも、二番手は所詮、二番手」
「貴女がそうだと、言いたいんですか」
「姉様を愛してたわ。そして同時に憎らしくも思っていた。私だって姉様ぐらいの事は出来るのに。顔だって一緒なのに。でもほら、生憎こんな性格でしょう? 根暗は根暗ね。羨むだけでは何も手に入らない。行動を起こさなきゃいけない。立ち上がらなきゃいけない。私は結局一人では何も出来なかったわ。そして、自動的に代替え品になった」
「貴女達……七星は」
 二子が立ちあがり、どこかへ行ってしまう。
 話すだけ話して、此方の質問からは逃げる気だろうか。そんな失望を抱えていると、しばらくして二子が戻ってくる。その手にはサッカーボールがあった。
「パス練習。一応やらないと単位貰えないわ」
「……」
 二子がボールを蹴る。が、途中で止まった。二子は……あわてたように蹴り直す。
「コホン」
「運動はダメなんですね。見たら解りますけど」
「貴女だって得意には見えないわ」
「勉強してたもので」
 火乃子がボールを蹴る。が、明後日の方向に飛んで行った。火乃子はあわてたように走って取りに行き、戻ってくる。
「ふん……ボールが蹴れてなんだっていうんですか」
「同感だわ。気が合うわね。ボールで企業は引っ張れないわ。サッカー選手じゃあるまいに」
「ただ体力は必要でしょう」
「それは思うわ。ほどほどよ、ほどほど。ああやって走りまわるのは性に合わないけど、パス練習ぐらいなら丁度」
 ボールを蹴る。今度は二子に辿り着いた。
「それで三ノ宮。七星がなんっ……だって?」
「代替え品なんていうぐらいだから。市子の代わりに来たってことですよね」
「っ、そ、そうなるわね。っと、あ、三ノ宮! 返すの早い!」
「少しぐらい動けないと、ほら、がんばって二子ちゃん……ってああ、どこ蹴ってるんですか」
「ふン。で、何が言いたいの」
「代わりってのが、おかしい。市子は市子、貴女は貴女……っと、そうでしょ」
「そうではない事情があるっ、のよ。私は七星市子にならなきゃいけない。あわよくばそれを超えなきゃいけない……判断するところは、私では、ないらしいけど」
「超える? 判断? っと。何それ意味わかんない」
「……私も解らないわ。ただ思うの。高いところを目指して歩むことが悪い事だろうかって。私はね、三ノ宮、貴女達と仲良くするために、ここに来たのよ。杜花と、アリスと、早紀絵と、彼女達周辺の人々とね」
「……ならもう少し、性格を直さないといけませんね」
「悩みどころだわ。治るものかしら、これ」
 教員の笛が校庭に響き渡る。集合の合図だろう。
 ボールを持ち上げ、二子に向き直る。
 二子はただ、教員の合図に駆け寄って行く生徒達を眺めていた。
 どこか懐かしそうに、どこか嬉しそうに、穏やかな目をしている。
「幸せ。私は今、とても幸せだわ。京都で、うす暗い座敷で暮らす生活なんかとは、全然違う。ここも箱庭だけれど、ここには少なくとも個人だけではなく社会性がある。人間関係がある。楽しみがある。可愛い子もいる。気になる子もいる。だから、私は貴女を憎いなんて思っていない。友達が欲しいの。沢山」
「……貴女」
 彼女の本籍は未だ京都にある。そして妾の子であるから、名前も本来は一条二子だ。
 どんな生活を送ってきたのか知れないが、彼女の口ぶりから察するに、楽しいものではなかったのだろう。ましてここまで頭が良いと、とても小学生程度と同じレベルで会話するのは不可能だ。
 七光などと呼んだが……。まさかだ。
 あの怪物の子供が、まともな人生を歩んでいる訳がない。彼女には彼女なりの苦悩があり、努力があるのだろう。
「火乃子でいい。二子でいいでしょ」
「あっは。何よ。人の弱いところ見せたら、直ぐこれなんだから」
「くっ……あ、アンタね」
「嘘。嬉しい。ありがと火乃子」
「あっ」
 ボールを取り落とす。冷たく小さな手が火乃子に触れた。
 何もかもを包み込むような笑顔。
 優しく、花香る空気。
 敵対者を友好者に変えてしまうほどの強烈な接触。
 覚えがある。記憶がある。忘れられもしない。
「おーい、七星、三ノ宮、いちゃつくな、後でしろ、先生お腹空いたんだけどー」
「神田! 貴女は大人の女性なのにデリカシーが無いわ! もう少し配慮なさい!」
「ちょ、教員に何言って」
「や、やかましい! こういう需要もあるんだよ!」
 あははと、笑いが巻き起こる。
 七星は強烈だ。だが、その全てが『七星』だという訳でもないだろう。
 少なくとも今、二子が見せた表情も行動も、彼女自身のものだ。例え市子に似ていたとしても。それだけ、彼女達義理の姉妹は、思い思われ、似せていたのかもしれない。
 二人で教員の下に駆け寄る。事情を知る子も少なくは無い為、三ノ宮と七星が仲良くしている姿は余程意外だったのだろう。数人に声を掛けられる。
「七星様とは和解されましたの?」
「……事情が入り組んでいまして。好きでもないし、嫌いでもないです、彼女」
「気が合いそうですのに」
 愛想笑いで会話をかわす。彼女との関係は、彼女の言う通り長くなるだろう。
 火乃子個人としても、いがみ合いを続けたところで得るものはないと思っている。
 ただ腹に据えかねるものがあったのだ。
 自分を見せない人間同士というのは、どうしても深い部分で繋がる事は出来ない。
 しかし彼女が少しでも歩み寄ってくれるというならば、話は違うだろう。
「んじゃ、解散」
 チャイムがなる。
 昼にでも誘ってみるかと思い、二子に声をかけようとしたところ、別のクラスメイトに阻まれた。どうやらそちらと昼食を取るらしい。
 チラリと二子と眼が合うも、火乃子はそっぽを向いた。
 タイミングはいつでもある。それは気にせず、教室に戻って着替えを済ませる。
「かーのー」
「ん?」
 昼食を取ろうと食堂へ向かおうとしたところ、隣のクラスから忙しなく歩いてくる姿が見受けられる。
「こー」
 一応は注意されて走らなくなったらしい、末堂歌那多だ。
「火乃子!」
「歌那多。どうしたの」
「はあ、はふ。昼食、一緒にどうですか!」
 その手には、少し大き目の紙袋が抱えられている。相当急いで食堂から貰って来たのだろう。
「サラダドネルケバブとハンバーガーどっちがいいですか?」
「じゃあサラダで」
「はい! どこで食べますか?」
「えっと……外は寒いし、ああ、温室がいいかな」
 中央広場の西側にある温室だ。日ごろから気温が一定に保たれており、植物の観察所としても休憩所としても人気がある。そこそこの規模で、電気代無料の恩恵をフル活用した施設だ。
「あの、歌那多?」
「はい?」
「そ、その。手、握らなくても」
「えー?」
 歌那多が積極的に仲良くしてくれるのは、火乃子としても大変嬉しいのだが、歌那多は声が大きい上にリアクションが大きく、大変目立つ。
 それが仲良さそうに手を繋いで歩いていたら、嫌でも目立つ。しかし握られた後振りほどくのは大変印象が悪い。
「……、い、行きましょうか」
「はい!」
 視線が気になる。
 大人しい、まじめ、群れないで通している人間が、とびきり騒がしい人間と一緒にいるのだ、規模は大きくとも閉鎖空間故に人間関係が親密な学院において、それは驚くべきものである。寮の同室とは知られているが、ここまでとは、といった見方が強いかもしれない。
「火乃子、顔赤いですよ?」
「な、なんでもないです」
「あ、なんで皆見てるんだろ、やっほー?」
 歌那多が手を振ると、愛想笑いの小さなお手振りが帰ってくる。そりゃあ反応にも困るだろう。
「あ、小等部の子達だ。校舎少し遠いですよね? 校舎向こうだっけー」
「ええ。学院だと南東方向の、他の施設があまりないところにありますから、私達は用事がないと行きませんし」
 校舎を抜けて温室に向かう途中、小等部の一団に遭遇する。温室で観察をした戻りなのだろう。
 基本的に施設らしい施設は中央に集まり、中高は一緒になっている部活棟なども、生徒会以外は小等部別だ。
 何にしても、やはり身体が小さい故に中高施設は使い難い上に、大きなお姉ちゃんが沢山いる。好んではやって来ないだろう。火乃子にも記憶がある。
 故に同じ学院の中に居ながらも、接触機会といえば交流会や大講堂集会、文化祭などの大きなイベントのみである。
「ちっちゃくて可愛い。三年生くらいかな?」
「名札の色が白ですから、二年生でしょう」
「そっか、色分け。小中高全部制服違うのってなんでなんです?」
「さあ……確か、気持ちを一新出来るからとか、そんな話を聞いた事が」
「同じ学院内だから、そういう感覚ないのかもですね!」
 小等部六年、中等部三年、高等部三年、十二年も同じ場所で暮らし同じ場所で勉強を続けるので、一新するものといえば制服ぐらいだ。
 小等部は白い、セーラー服に近いもので、中高はブレザーである。中高は細部デザインが違い、スカートの柄も異なる。
 制服はとてつもない人気を誇り、ネットオークションでは数十万で取引される。
 生徒写真付きで顔が可愛ければ……七ケタだろう。
 自分たちがどんな目で見られているかなど、生徒達は知るまい。
 自分の学校がどんなものなのか知ろうと思い立ち、休日のうちにネットで裏の方を探すなんて真似をしない限りは。
「あ、今日は少ないですね、人」
「寒いから食堂で食事済ませちゃうんでしょうね」
 温室に入ると、外とはうってかわり、温かな空気に包まれる。思ったよりも人が少ない。
 南国に生えるような奇抜な木や蔦があちこちと生え、春から夏にかけて咲くような花もある。
 火乃子と歌那多は水場の方へと赴き、ベンチに腰掛ける。池には紫色の蓮などが情緒良く、観賞用に揃えられていた。
「もう冬だというのに、ここはまるで別天地ですね」
「蓮は泥沼でも綺麗な花を咲かせる事から、不浄より出る浄として仏教で珍重されるとかされないとかだそうです」
「博識な事で……変に仏教は詳しいですよね、歌那多って」
「もしかしてほめられましたか!?」
「歌那多は頭がいいですね」
「あふ。褒められると嬉しいです」
 嬉しそうに微笑み、ハンバーガーにかぶりつく。
 学院に来るまでハンバーガーなど食べた事もなかったらしい。かくいう火乃子も学院で初めて食べた。
 外の世界のハンバーガーと学院のハンバーガー、きっとレベルが全然違うのだろうなと、火乃子は想像する。
 そもそも箸もナイフフォークも用いず、袋から食べようというのがいまいちシックリ来ていない。色々と汚れてはいたが、火乃子もお嬢様である。
 ともかく歌那多は気兼ねなく食べられる米国食がお気に入りらしく、大半それで済ませていると聞く。栄養バランス考えた方が良いよと注意はしたが、こればかりは聞き入れられなかった。
「歌那多は食べても」
「ふとりゃにゃいれふ」
「おのれ……私も食べよう……」
 定番のドネルケバブだ。
 生地の中には野菜が多めに入っておりヘルシー、とはいうが当然牛肉も入っている。
 学院の食堂は生徒、教員の他に寄宿舎への食事まで賄っているので、その規模は大きい。ましてご令嬢方に配給するものであるから、そのレベルはとても高い。
『観神山女学院~お嬢様の昼食~』という電子書籍は、数年前ベストセラーを記録した。
 ケバブにかぶりつく。
 契約農家で育てられた新鮮な野菜の心地よい歯応えと野菜独特の潤いを感じる。
 薄く千切りにされたキャベツと人参、そこにピリ辛いオーロラソースの濃厚な旨味が絡み合う。
 もう一口齧る。
 生地の豊潤な芳しさと、良い牛肉でしかありえない鮮烈な味が紛う事無くマッチし、口の中の幸福を満たす。
「あ、これすごいおいしい。独自メニューですよね」
「さあー?」
「聞いた私が馬鹿でした。でもこういうのもあるんだ」
 変わり映えのない事を繰り返すのが得意な火乃子は、チャレンジ精神が薄い。昼食もそのうちの一つで、いつも和食ばかりだ。
 ごくたまに気が変わって洋食を試すぐらいで、普段はご飯に味噌汁が恋人である。勧められなければ食べなかっただろう。
「しかし仏教語りながら肉食というのも」
「ええ? じゃあ歌那多は何を食べればいいんです?」
「歌那多は好きにすればいいと思います。それが貴女らしいから」
「もしかして歌那多認められてます?」
「認めてます」
「あやー。認められたかー。どうしようー」
「どうしようとは?」
「え? 認めたってことは……お嫁さん?」
「貴女はいまいち良く解らないところが多いですけれど、その発言に至るまでに一体どんなプロセスを踏んだのか果てしなく気になりますね」
「――そ、そなんだ? 歌那多、お嫁さんなのにお嫁さん貰う所でした。重婚は法律違反?」
「法律違反ですしお嫁さんは無いと思います」
「じゃあ、どうやってずっと一緒に居よう?」
「いや、あのですね。ここを出たら互いに違う場所に行くのですから、ずっと仲良くは出来ても一緒は無理でしょう。貴女は七星系列のお嫁さんに、私は三ノ宮の跡取りですから、たぶん東京の大学でしょう。医学部とか薬学部とか」
「それは寂しいです。でも大人になるってそういう事なんでしょうか? 毎日電話はしていいですか?」
「旦那様がヤキモチやかないならたぶん大丈夫でしょう」
「そうかあ。旦那様、ヤキモチやきじゃないと良いですね。ヤキモチって食べ物ですか?」
「う、ううんと。つまり、自分の好きな人が、他の人と楽しげに話していたら、どう思いますか?」
「混ざろうと思います!」
「左様ですね。じゃあ歌那多には関係ない話ですね」
「ああ! でもでもですよぉ、火乃子が、杜花御姉様の事ジーって見てる時、歌那多なんかギューってなります」
「え、あ、あら、そうですか?」
「なので火乃子は歌那多を見てくださいね」
 彼女にとって、自己矛盾とは些細なものなのだろう。むしろそれよりも問題がある。まさか歌那多が自分にヤキモチなどやいていたとは思わなかった。
 歌那多の言うように、火乃子は頻繁に杜花の方へ視線を向ける。近くでそれを見ていた歌那多はそれが『なんかイヤ』だという。自分の視野狭窄加減が腹立たしい。
「ええと……歌那多は、ううん……」
「火乃子、見てください、ほら」
「もぎゅ」
 両手で顔を押さえつけられ、強制的に歌那多を凝視させられる。
 灰色の瞳が輝かしい。
 幼さと大人びた顔立ちが鬩ぎ合い、少女と大人の境界線でしか出しえない、瞬間の可愛らしさがある。
 こんなにも良い子に爆弾など浴びせかけるような奴が居たとしたら、思想信条法律国家関係なく大悪党だ。
「火乃子」
「にゃ、にゃんれふ?」
「火乃子はエッチは教えてくれませんでした」
「そ、そうれひゅね」
「じゃあせめて、ちゅーくらい教えてください?」
「な、なれぎもんへい」
 どういう理屈でどういう話なのか。どうしてそれがこうなるのか。なんで疑問形なのか。
 真昼間、人が居ない訳でもない温室で、どうしてキスなのか。どんな思考回路があったらそこに至れるのか。本当に全部謎だ。
「火乃子は歌那多が好きだし、歌那多は火乃子が好き。歌那多、旦那様より最初に火乃子としたいです」
「は、はにゃひて」
「離すとたぶん逃げちゃうような気がします」
 それはそうだ。
 キスなんてしたこともない。
 そもそもこんなノリでするものじゃないと火乃子は思っている。いや、さっきまでハンバーガーとケバブ食べていた同士のキスというのもどうなのか。
 いやいやそうじゃない。人目がある、噂が立つ、杜花に……。
「ぷはっ」
「あっ」
 杜花に……なんだろうか。
 杜花がキスしてくれるか?
 妹の話だって単なる口約束であるし、妹だからとキスする訳ではない。
 それに火乃子には彼女に言えない秘密がある。
 そんなものを抱えて彼女の近くに居れるだろうか。罪悪感で押し潰されるのではないのか。
 では歌那多はどうだ。
 彼女がキスしたいと言っている。
 歌那多は良い子だ。世間知らずだが、可愛らしく、嫌味の一つもない。
 彼女には、初めて好きと言われた。自分も好ましく思っている。彼女は、例え火乃子が酷い子でも、受け入れてくれるという。
 なんて心が広いのだろうか。
 ……なんて、なんて自分は浅ましい人間なのだろうか。
 歌那多は代替え品ではない。歌那多は歌那多だ。
「ごめんなさい、歌那多。キスは、ダメです」
「あう……そ、そっかあ……あ、あれ?」
 歌那多の眼に涙が浮かぶ。本人も、それが理解出来ないのか、拭ってはこぼれる雫に困惑している。
 三ノ宮火乃子は、彼女に泣いて貰える程素晴らしい人ではないのに。
 胸を張って好きだと言って貰えるような人間ではないのに。
 変態なのに。
 ひきょう者なのに。
 ただただ……虚しい。
「あの、えっと……あ、ああ、ほら、あそこに、猫いる猫!」
 困り果てた火乃子は、ひきょう者らしく眼の前の現実から逃れ、話題を他にそらす。
 温室の小窓から入ってきたのは、黒ブチの猫だ。躑躅の道の前で会った猫と一緒である。余っていたケバブの肉の欠片で誘うと、猫はトットと小走りで近づいてくる。
「か、歌那多。泣かないで。ほら、猫……来たから?」
 が、どうだろうか。
 猫が嫌いなのか、猫アレルギーなのか、歌那多の顔が余計に引きつる。
「歌那多?」
「こ、この猫怖いの……痛いから……」
「引っ掻かれたのかな……ご、ごめんなさいね……ほら、外、出よっか」
「うん……」
 どうしてこうなる。
 逃げたからか。
 何故上手くいかない。
 理路整然と物事を進めたがる火乃子にとって、感情という制御不能の存在の扱いは不慣れであり、ましてそれが他人の物となればなおさらだ。
 好かれているのに、応えてあげられない。
 好きな人がいるのに、それが本当に好きだったのか、だとしても好いていて良いのか、それすら解らない。
 偽り続けるからいけないのか。
 それとも、これこそが呪いなのか。
「……ごめんね。歌那多、ごめん」
「う、ううん。なんで火乃子が謝るの。ダメだよ、何も悪くないよ、火乃子」
「応えてあげられないんです。か、歌那多は、好きです。でも、その……」
「また悲しそうな顔。歌那多と居ると、悲しいですか?」
「ち、違うの。違う。嬉しいの。私、人に好かれた事なんて、無いのに。貴女は、私を見てくれるから。だからこそ、私はどこに行けばいいのか、何を見れば良いのか、本当のことを、口に出来なくて、直視出来なくて」
「……難しいです。火乃子。歌那多は、あんまり難しい事解らないから、火乃子が嫌なら、言ってくださいね?」
「嫌じゃ……」
 何と言うべきだったのか、言葉が出てこず、喘ぐ他なかった。
 背を向け、走りだそうとした歌那多を引き留めようと、左手を掴む。
「――あぐっ」
「あっ、ごっ、ごめ」
 いや、火乃子の所為ではない。掴んだのは左手だ。
 歌那多は突然声をあげて、右手を抱える。蹲り、痛みに耐えているようだ。
 何事が起こったのか、歌那多の顔を見れば、額には脂汗が滲んでいた。
 尋常ではない。しかし右腕が痛いとは、どういう事か。
 神経接続された腕は確かに触覚もあるが、極度の衝撃などに対してはセーブがかかり、痛覚が遮断される作りになっている。
 所謂幻痛……無くした部位が痛みだすという病の類だろうか。
「歌那多、薬か、何かないの? 腕が痛むんでしょう?」
「ね、猫、猫を……遠ざけて、欲しいです……」
 ――猫。
 思わず振り向く。
 温室の出入り口には、猫が座っている。黒ブチのある、首にタグを下げた猫だ。
 猫はジッと此方を見つめるようにして、微動だにしない。理由は知れないが、ともかく歌那多の言う通り、猫を捕まえ、遠くに行かせる。
 再び歌那多のところへ戻れば、彼女は多少疲れた顔をしているものの、痛みは無くなったらしく、平然と立っている。
「……保健室行こうか。少し休んだ方がいいです」
「うん……」
 歌那多の肩を抱き、医療保健室棟に向かう。
 楽しく、嬉しい筈の昼食が、ダメになってしまった。
 折角、歌那多が仲良くしてくれるのに、それに全く応えられない自分がいる。
 そして、歌那多の体調不良は一体なんだったのか。
 猫との繋がりが観えず、辟易とする。
 何一つ上手くいかない。
 それはつまり……契約を破るからだろうか。
 杜花と仲良くしたいと願って、それが叶いつつあるところで、歌那多と仲良くしたばかりに――。
 まさか、そんなばかな。
「違う。違う違う違う」
 違う。
 それは単なる妄想だ。
「違う」
「か、火乃子?」
 自分の頬を引っ叩く。
 自分は今、自分の作り上げた妄念に支配されかかっているだけだ。
 市子は唯の自殺。
 仲良く出来ないのはタイミングが悪いだけ。
 そのように自分に言い聞かせる。呑み込まれたら終わりだ。
 常々そうだ。
 自分こそが最大の敵だったではないか。いつも肝心な所で一歩引いて前に出ない。決意はいっちょまえで行動が伴わない。
 自ら道を切り開こうと努力などしただろうか。
 それは立ち振る舞いでも、勉強でもない。
 本当に必要な事に対する努力があったか、という問題だ。
 いつも間接的だ。
 直接触れる事を恐れている。杜花への告白とて、ただそれだけで突っ込んだ話などした事がない。
 人は勝手に寄って来ない。
 優しくしてくれる人すら遠ざける。
 現実は、この箱庭から出た先は、もっと恐ろしいものがあるに決まっているのに、自分には覚悟が足りていない。
「歌那多」
「うん」
「待ってて。ちゃんと、応えるように、するから」
「――んっ」
 杜花に告白しよう。
 しなければいけない。
 杜花と早紀絵ならば、明確な答えを用意している可能性もある。自分は妄執に取り憑かれた酷い人間であり、人さまに好かれるような人間ではないと告げよう。
 そして沙汰を待つ事こそ、七星市子に掛けた呪いを解く方法だ。
 迷惑だろう。
 悲しまれるだろう。
 築き上げた思い出は瓦解し、夢は打ち破られるだろう。
 だが、そうだとしても、胸を張って自分を自分と言い切る為には、どうしても、犠牲が必要だった。




 ……。
 静かになってしまった自室で一人、歌那多がいつも座っている椅子を見つめる。
 彼女は転入組だ。今年の四月に、初めて出会った。
 望んでいた白萩への入居を喜んでいたのも束の間、何も知らない、何も出来ない彼女と同じ部屋になった。
 四月五月は苦難の月だった。
 まず着替えを知らない。下着すら自分で穿いたことが無いというのだ。
 外の学校に通って居た頃は、常にメイドがついていたという。
 辛うじて最低限として食事は一人でとれるものの、用意、片づけなど以ての外、当然掃除洗濯など出来はしないし、刃物一本使った事がないという。
 身の回りの事一つ出来ない。
 尻の拭き方まで質問される始末だった。
 成長した赤ん坊、とでも言うだろうか。とにかく手間がかかり、同室の火乃子は仕方なくその面倒を見ていた。
 末堂は一体どんな娘にする気でいたのか。いまどきの女がこれでどうする。
 多少の怒りはあったが、しかし。それでも許されてしまうのが、末堂歌那多という少女だった。

『――ありがとう、火乃子ちゃん』

 無垢に笑い、打算無く礼を言う彼女の笑顔を怒りでブチ壊したくなかったのだ。
 まるで母親にでもなったような気分だった。そして赤ん坊は飲み込みが早い。教えれば教える程に彼女は知り、習い、真似をし、知識に貪欲になって行く。
 自らが自らとして立ち上がる喜びを覚えたという。
 二か月、三か月と経つにつれ、不思議な彼女は次第に周りにも受け入れられるようになる。
 酷い子供っぽさは相変わらずだったが、何を話しても笑顔で、何に対しても興味を示し、自らの意見も口にする彼女は、会話相手として最適だったのだろう。
 距離があった同級生の寮生達に慕われ、クラスでも彼女は中心にいる。
 彼女が図らずとも仲間が付き、彼女は守られて行く。
 火乃子の手から離れて行く一抹の寂しさがあった。
 自分とはまるで違う人種だ。
 元から自分のような奴と居る人間ではないという事は、解りきっていた。
 しかしそれでも、末堂歌那多は三ノ宮火乃子を慕っていた。
 まるで自分には必要不可欠な人物であるように。
 たった八、九か月。だが幼い彼女にとっては、かけがえのない月日だったのかもしれない。
 彼女の好きは、何の好きなのか。
 キスがしたいというのは、単なる友好の証だろうか。
 いいや、まさか。
 未来の旦那と比べられて、火乃子が良いと言われたのだ。
 胸が熱くなる。
 思いだして頬が火照る。
 好かれている。
 肉親のような気持ちではなく、他人としてだ。
 杜花を想い、杜花だけを見つめてきた火乃子は結局、彼女に振り返って貰える事はなかった。
 自分の力ではどうしようもなかった。七星市子が居ないからこそ、杜花が此方を、チラリと、同情的に取り扱っただけだ。
 大して仲の良い友達が居る訳でなし、他の子達から好かれている訳でもなし。
 自分は人間としての魅力が劣っていると、自虐してやまないような自分を、歌那多は好いてくれている。
 彼女なら、戸惑う気持ちを受け止めてくれるだろうか。
 彼女なら、それに応えてくれるだろうか。
 三ノ宮火乃子は卑怯な人間である。
 その事実を覆い隠そうとする事、それ自体が卑怯に他ならない。
 自己肯定する。
 あちこちと気を回して何が悪い。
 好きだったものを延々と好きだと言い続けるなんて事は無理だ。
 これから自らの心の支えになるものを、手近なところで見つけて、何が悪い。
 歌那多が好きだ。
 いざとなれば、許嫁だろうとなんだろうと、引きずりおろしてやる。
 相手は七星だろうが、所詮末端だ。
 三ノ宮医療製薬次々期頭首の名は伊達ではないのだ。適切な時に、適切なものを使って何が悪い。
 ……ああだからそうだ。
 この気概が、まるで足りなかった。
 欅澤杜花を……奪う覚悟がなかったのだ。相手が七星市子だろうと、眼の前から簒奪してやるという勢いの一つもなかった。
 ――つまり、自分が欅澤杜花に抱いた感情とは、その程度だったのだ。
 裏側からジリジリと、妬むだけ妬んで、やったのが魔術か。
 お笑い草だ。
 そうだ。
 だからこそ、線引きをしなければいけない。今の今まで積み上げたものを否定しなければいけない。
 犠牲を生まねば、新たなものを作る事は出来ない。平成期から低迷した日本国の大転換と似る。今、まだ犠牲を払い続けている。それだけを背負い込むと、覚悟したからこそだ。
 杜花は怒るだろうか。
 巨漢をぶちのめすだけの杜花の拳はきっと、悶絶するほど痛いだろう。だが、殺されないならば安い代償だ。
 ――払おう。
 そして、得るものを得よう。
 火乃子は自分の椅子に向かい、一時間後に控える探索のおりに、どのような事が起こりえるか予測し、どう話を切り出し、どう逃れるかを書き出して行く。
 大したものを持たない自分に出来る事は、考察し、先を読み、切り抜ける道筋を立てる事ぐらいである。
 まずは今自分の身の回りで何が起こっているのか、再確認する必要がある。
「……市子、杜花、アリス、早紀絵、二子、私。影、魔女、結晶、噂」
 紙とペンをとり、フローチャートを描いて行く。
 市子の死後一年と少し。
 今になって七星市子を取り巻いていた人々が動きを見せている。
 七星二子の出現がタイミングなのか、それは定かではないが、少なくとも杜花近辺の人間関係に変化が見られる。
 自分も恐らく、その内に入っているだろう。欅澤杜花が動くにつれて、徐々に事が進んで行く。
 因果関係は不明だが、早紀絵の話から汲み取るに、数か月前から噂になっていた黒い影と七星市子、そして彼女達が探す結晶には繋がりがあると見えた。
 確かな線で結べるものではないが、七星二子の出現が、それらを繋いだと考えてもおかしくはないだろう。
 黒い影。
 皆はそれを七星市子の亡霊と言っていた。杜花はそれを許容出来ず、噂を潰して回っている。
 二子も同様の行動原理が存在したとしても不思議はない。だが、これは他の意図もありそうだ。
 結晶。
 詳しくは聞かされていないが、その結晶とやらが影に繋がるのか。
 それは……何だ?
 まさか魔術的なものでもあるまい。
 火乃子は趣味として魔術を齧っただけであり、本気で信じているものではないのだ。二子はまるで市子が魔女であるような言い方をしていたが、二子の言葉を真に受けるほど火乃子は馬鹿ではない。
 七星市子が隠した。
 それが影を発生させている。
 そしてそれを、杜花周辺は探している。
 その過程で、杜花、アリス、早紀絵の構造に変化が起こった。
 以前よりも親しく……以前よりも近しい。
 七星市子が原因であり、状況を作ったのは、七星二子ではないのか。
 その結晶とやらを探すのに、杜花達の手を借りる必要があったのか?
 あえてトラウマを穿り返すような真似、する必要はなかろう。
 する必要があったからこそ、したのだ。

 ――結晶探しとやらは、むしろオマケではないか?
 ――杜花達の関係を変化させる事こそ……目的では?

 ではなぜそうなる。
 動機が不明だ。
(市子を起点に、一年後、杜花様と二子が。アリス先輩と早紀絵先輩が……あれ……なんかどっかで観た構図だ……)
 何か、おぼろげな既知感に襲われる。
 このような特殊な人間関係、そう簡単に道端に落ちている訳がない。
 そもそも、火乃子はそんな状況が出来得る学校にはココしか通った事がない。
 ではフィクションか。
 漫画かアニメか小説か、ドラマかもしれない。
 休日は自宅に帰って、山のように積まれたサブカルチャーを消費するのが習慣であるからして、似たようなものがどこかにあっても、おかしくはない。
 そもそも百合モノ好きで、数十年前に流行った女性同性愛モノの絶版やらリメイクを片っ端から蒐集している。
 その中で学園物……などと行ったら、それほど掃いて捨てるほどある。
(いやいや……だからなんだと。現実と幻想の区別がつかない、とか大人に文句言われそう)
 今ここで起こっている不可思議な事も、怪しげな人間関係も、全ては現実だ。逃避はいけない。しかし頭の片隅に置いておいても問題はないだろう。
 それよりも問題は自分だ。自らに咎があるかないか。
 あろうが無かろうが、既に全てを告白すると決めているが、黒い影、市子の死、そして二子、魔女の因果関係は不穏である。
 二子は冗談、憶測であるとして、火乃子が魔術を使ったのではないかと口にしたが、本物の魔女たる七星市子にはそんなものは通用しないと言っていた。
(早紀絵先輩も、魔女について知りたがっていたみたいだな……)
 黒い影や魔女について何か知らないか、と質問を受け、影の方について答えた。火乃子は学院の魔女についての知識などたいしたものはない。ただあるのは……。
(――学院の魔女って確か、人の心を読んだり、幻覚を見せたり……魔性の魅力を……持っていたり)
 ……だから市子、そして二子はそれに該当するのだろう。
 ……では、その噂は何処から来た?
 似たような造形の『魔女像』は、もっともっと、市子が頭角を現す前から存在した。過去にも同じような人間が居たのだろうか。
 あんな……あんな怪物じみた人間が?

 ……。

 ……何時の間にか一時間以上経っていた事に気がつく。
 手は最初のフローチャートと『言い訳』と『会話誘導』を書いた所でピタリと止まっていた。
「……あ、れ?」
「――どうしたの、火乃子。急に黙り込んでしまって」
「え?」
 椅子を軋ませ、振り向く。
 そこには七星二子が居た。
 別段と驚きはないが、驚きはないが……何故、無いのか。
「折角招き入れてくれたのに、黙られたら悲しいわ」
「あ、そう、だっけ。ごめん」
「ううん。貴女って物事に向き合うと周りが見えなくなるタイプよね。マジメで良い事だわ。ただ、周囲もたまに警戒していないと、突然足を掬われるかもしれない。注意した方が、いい」
「そう、ですか。御忠告どうも。そっか、二子が、いたんだっけ。すみませんね、もてなせなくて」
「そろそろ十七時になるけれど、貴女、何か約束があるのではなくて?」
「あっ! そうだった。ええと……二子」
「うん?」
「考えてみたけれど、やっぱり、私は市子を殺してない。あれは、自殺です」
「――貴女の思考は面白いわね。ただ一人だけでそこまで想像出来るのだから、やっぱり頭が良いわ。少ないのは因果ね。ただ、これ以上は知らない方が、貴女の為。友人として警告するわ」
「正解……? 何の、何に対しての、正解?」
「杜花周辺を取り巻くその全ての答え。ねえ、火乃子。魂って何か解る?」
 この子は、何を言っているのだろうか。
 先ほどから、そこに二子が居るのに、二子としてハッキリ認識出来ずにいる。若干のダルさと倦怠感に、ずるずると足を引っ張られているようだ。
「私、宗教は門外漢なので」
「七星一郎曰く、魂とは、記憶よ。良い答えだと思うわ。ただ貴女は、作られたレギュラー」
「どういうこと……」
「……貴女の思考が、彼女達を導くかもしれない。貴女は主役にはなれないけれど、重要なファクターにはなりうる。頑張ってね、火乃子。私は貴女の友達だから。友達になれたから。使ってごめんね」
「う、うん。ありがと……う……?」
 ……。
 二子が……二子が、いた。
 気がした。
 今確実に、誰かと会話を交わしていたはずだ。
 だがどうも、何もかもが曖昧で、手に取れない。
 記憶の中を模索しても、明確なビジョンが、つい数秒前の事が思いだせない。
 時計を見る。
 もう五時前だ。多少ダルさがあるも、まさか杜花達との約束をスッポかす訳にはいかない。幸い待ち合わせ場所は寄宿舎のすぐ裏だ。
 火乃子は上着を羽織り、自室を出て勝手口から裏の林に向かう。
 辺りは既にうす暗く、ライトが無ければ歩き難い。
 枯れ葉を踏みしめながら奥へと進んで行くと、やがて二人の姿を認める。早紀絵は普通に制服の上からジャンパーを羽織っていたが、杜花はスカートを校則以上に短くし、打撃戦用のプロテクターを付けている。
「……えっと」
 出鼻をくじかれる。
「ああ、モリカね。これでいいの。以前は酷い目にあったんだ」
「危険度はものによるみたいですから、危険を察知したら直ぐ逃げてくださいね」
 相手は幽霊みたいなものではないのか。
 しかし二人が言うのだから間違いあるまい。進行に問題はない。
「済みません、遅くなりました」
「いーよ。ところでどのあたりだね」
 二人を先導して前を進む。
 杜花は終始当たりを警戒し、早紀絵はおっかなびっくりとついてくる。
 一年前の記憶を掘り起こしながら、場所を探って行く。遠い場所ではなかった。同じような景色が続く林の中を潜り抜け、十分ほどで記憶にあるような場所に辿り着く。
 種類は解らないが、三本の木が特徴的に並び、線で結べば三角形になるように生えている。
「ここです。ここで魔方陣を描いて、呪文を唱えました」
「特徴的な場所ですね。確かに、何か埋めるならありそうです」
「掘ってみるかあ……土弄りなんて何時以来だろ……」
「昔は掘りましたね」
「ああ、モリカにビンタされてねえ……」
「ビンタ?」
 それは――、一体どんな状況で、ビンタをされて土弄りをするハメになるのだろうか。
「小等部に、大人の言う事を聞かない、悪戯はする、時間は守らない、授業勝手にサボる、そんな子が居たんですよ」
「あえなくその子はモリカにビンタを食らって、調教されてしまったのでした、憐れ」
「名誉の為に私からは口にしませんよ」
「あっはっは……いえねえ……」
 早紀絵が小さなスコップを手に持ち、枯れ葉を退かせながら土を掘って行く。見ているだけというのも後輩として問題なので、火乃子もそれを手伝う。
「腐葉土だからアチコチやわらかいな……逆に固めた所が怪しいかな」
「早紀絵先輩はなんで杜花さんにビンタなんて食らったんですか」
「あいやその……私ね、ひっどい子供だったのよ。んっ。これは……石か。親の言う事すら聞かない子でさ。授業抜け出して、花壇荒らしてたの」
「酷い子もいたものですね」
「言わんでくれ火乃子。まあそれで、理科の授業で花を植えてた杜花に見つかってね、ビンタを二発食らった挙句、柵を乗り越えて逃げようとした私をひっつかんでひっ倒して、強制労働に従事させられたわけよ。花壇抑留という」
「ええと……良く生きてましたね」
「小等部じゃなかったら今頃死んでただろうね……」
「まるで人をバケモノみたいに言わないでください。ほら、サキ頑張って掘って」
 それが馴れ初めなのか。だとしたら一体、どんな理由でここまで仲良くなれたのだろうか。
 恋愛云々は抜きに、欅澤杜花と一番仲が良いのは、間違いなく早紀絵だ。杜花も早紀絵を信頼しているように、遠くから見ていて良く感じ取れた。
「どうやって……仲良くなったんですか?」
「その場だよ」
「ええ? ビンタされて仲良く? 早紀絵先輩って、その、ま、マゾヒスト?」
「最初こそ否定してたんだけど……最近はまるで否定出来る気がしないんだよねえ。ねえモリカ、ちょっと罵ってよ」
「無駄口叩いてないで早くしてくださいよこのスケコマシ。ミカンの腐った部分」
「ああ、自分がダメ人間だって実感出来る」
「え、ええ? も、杜花さん?」
「……コホン。リクエストに応えたまでです。まあ、ほら、仲が良いと判断してくれれば」
 恐らくだが、杜花は半分以上本気で言ったのではないだろうか。言葉に籠る感情が違う。
 確かに、早紀絵はスケコマシだ。仮にも積極的に杜花を狙う立場にありながら、あちこちの女の子に手を出しているのだから、言われても仕方が無い。
 それを考えると、杜花も早紀絵に対しては満更でもないと見える。
 早紀絵にアリスに、恐らくは二子。
 杜花も苦労人だ。
「ないですねえ」
 それから二十分程だろうか。三角形の木の内側は全て探し回った。
 どう考えても、元から積もっている枯れ葉が腐葉土化したものしか見当たらない。杜花の用意した手拭いで手を拭きながら、結晶の所在を疑問視する。
「ないね。となると、木の上とかか」
「結晶の直上に出たりするものでは」
「経験上違うね。モリカ」
「離れた距離にも効果が及ぶようです」
「あの、こんな事を言うのもアレなんですが……それって、結晶って何なんでしょう?」
「魔力結晶……」
 杜花が呟く。その言葉は明確だが、含みがある。懐疑的なのだろう。
 ――このあたりだ。
 会話に食い込む。流れを作る。
 自分の進めたい会話を、推測で成り立たせる。
「恐らくは二子の受け売りですよね。アレが本当の事を喋るとは思えないのですが」
 そこには杜花も早紀絵も頷く。
 それは結晶であり、何かしら不可思議な事象を起こしえる。魔力なんてものを信じていない火乃子からすれば、それはもっと別の物として見て然るべきだ。
「何か、機械的なものなんじゃないでしょうか。影というのも、ホログラムでは? ホログラムアバターなら、人間の形にも見せられるでしょう。大きな電源も必要ない」
「勿論、その可能性もありますが。その影が物を飛ばしてきたりした場合、貴女はどう思いますか?」
「……飛ばして来たんですか?」
「飛んで来たよ。ビュンビュン飛ぶ。私等に向かってガンガン飛んできたよ。アリスも経験してる。私達だって馬鹿じゃない。ただの影なんて言うなら、なんかの端末なんじゃないかって思うけど、あんな小さいものが、反重力装置備えている訳がないでしょう」
 ここまでハッキリ言われてしまうと、火乃子も否定出来ない。
 反重力装置なんてものは、理論がやっと現実に近づきつつある段階のものだ。
 1キロの物体を3センチ浮かせるのに、規模にして五階建てのビル一個分に相当する装置が必要になる。
「だから、それが何かが解らないにしろ、魔法とか魔術とか、それを込めた魔力の結晶、と呼ぶほかない」
 ――流れとして、このあたりが問題だ。市子の名は地雷に等しいが、出さねばならない。
「市子様が……魔女、だからですか?」
「悪い噂としての魔女ではありません。彼女には、何かしら不思議な力があった。私は――それを受け入れていたし、心地よく思っていた。だから、魔力なんでしょう、きっと」
 辺りに積み上げた枯れ葉を散らしながら、寄宿舎の方面を望む。
 ほんの少しだけ距離はあるが、寄宿舎二階の窓は窺えた。
 次第に辺りも冷え込んで来ている。閉寮まではまだ時間はあるも、ここから先活動しようと思った場合、時間外活動届を出さねばなるまい。途切れてしまう。タイミングが、悪い。
「あ、時間気にしなくていいよ。三人分出してあるから。いやあ、綾音ちゃんは杜花には甘い甘い」
 早紀絵の準備の良さに、今は感謝するほかない。
「サキには厳しいんですか?」
「ま、それが可愛いのだけれど、彼女」
「聞きたくない話題ですね。三ノ宮さん、他に心当たりはありませんか?」
 とうとう来た。
 これを待っていた。そしてコレこそが、三ノ宮火乃子という人物像を崩壊させる言霊だ。
「ええとですね」
 黒い影。
 世間では市子に見えたと言うが、火乃子にはハッキリ見えなかった。
 黒い影は呪文詠唱終了後に、歩き回るようにしてフラフラと火乃子の周りを漂った後、遠くに消えてしまった。
 何か……どこかで、見た事のあるような動きだ。
「――仮に、ですが」
「はい」
「それが、移動するものに隠されていたとしたら、どうでしょうか」
「そりゃ奇抜な発想だね。なんだろ、鳥? ネズミ? 夜だから鳥は無理か。ネズミが背負うにはでかいな……」
「例えば」
 例えば――猫とか。
 思い返せば、あの猫が首から下げていたタグのようなものは、丁度早紀絵の示す結晶の大きさ程度ではなかったか。
 手紙がついているというが、それは首輪内部に入れれば、入らない事もないだろう。
 あの動き回るような影。
 近寄り、離れ、様子を窺うような仕草。
「猫です。そう、この近くで良く見る、黒ブチの猫」
「そりゃ……なるほど」
「何時の間にか、首輪をつけていました。首輪には、タグのようなものが、ついていたと思います」
「モリカ、そいつだ。カノは猫好きだもんね」
「それで、実は、ここからが問題なのですが」
「……何か、あるんですか」
 これは推測だ。
 直感から導き出した関連性としか言えない。
 あの猫を見ると痛いという、末堂歌那多である。
「先ほど、機械ではないという話になりましたが、やっぱり私は機械的なものなんじゃないかと思います。今日、昼休みに歌那多と昼食を取っていたんです」
「仲良いね。ふふ」
「茶化さないでください。歌那多は猫を見た途端」
 途端。
 その先を、どう説明するべきか、先ほどずっと考えていた。誰にも言わないと約束したものだ。彼女の右腕がサイバネティクスで出来ていると、言わねばならない。
 人に言わない、という約束は破る。
 破るが、相手は杜花と早紀絵だ。彼女達は絶対にばらさないという自信がある。そもそも自分たちが今している事こそ、人におおっぴらに言うものではないからだ。
「三ノ宮さん。何か、言い難い事ですね。サキ、誰にも喋らないと約束してくれたら、おでこにキスしてあげます」
「拷問されても喋らない。絶対だ、絶対にだ」
 計算通り、成る。
 もし、猫がその害悪を振り撒いていたとしたら、それを取り除くことによって、今後歌那多の負担が減る。
 心の中で何度も歌那多に謝る。
 申し訳ない。
 だが、この人達は、約束を破るような人物でないことは確かだ。
(歌那多。ごめんね。私酷い子だ。約束一つ守れないや。でも、解って。私は、胸を張りたいの。今後絶対、貴女に嘘を吐かない為にも)
「途端、苦しみ出しました。歌那多の右腕は、神経接続型全関節稼働義手なんです」
「うえええ!? ちょ、超高級品じゃない! で、でも末堂の娘ならあるか。全くそんな気配がなかった」
「私は知ってましたよ。彼女の手を掴んだ時、明らかに人間の肉の手触りではありませんでしたし、体温が無かった。最近不調のようでしたね。体幹バランスも悪かった。身体が右に傾いていましたから」
「どんな観察力よ」
「……細胞再生医療ではどうにもならなかったそうです。ともかく、あれは大変精密な機械です。勿論普通の電波や電磁波を受けた程度で不具合など起こりえないでしょうが、使用者の状態をモニタリングし、データを送受信する機能はついている筈。みなさんの知っての通り、怪奇現象を引き起こす程の強い、説明出来ませんが、強い発信があれば、精密機械に不具合も起きるでしょう。歌那多は失った右腕が痛いと泣いていた。以前にも経験しているんでしょう。不具合が起こり始めたのは学院内で間違いが無い。そして、その流れから行けばやはり」
「結晶が、何かしらの不具合を誘発していると。後で二子に迫りましょう。今は、猫を」
「猫の問題解決出来れば、歌那多も救えて、私達も目的が達成出来る。一挙両得じゃない」
「お願いです、私は、誰にも喋らないと、約束しましたから……」
「言いませんよ。私達に得がない。それに、末堂さんも、三ノ宮さんも、私達の可愛い後輩です。ねえサキ」
「うんうん。寂しかったら慰めてあげるからね」
 ――そして、まだだ。
 まだ喋る事がある。
 むしろ、これこそが本番だ。
 このタイミングを逸したら、火乃子はまた逃げてしまう。
 約束を破り、挙句虚飾だらけの自分を繕い続ける事になる。
 それでは、もう今後、誰にも胸を張る姿を見せる事は出来ない。
 そんな人間が、老舗製薬会社の代表など、一体誰が慕う。
 誰が寄ってくる。
 誰が認める。
「お二人に、隠している事があります」
 駆け出そうとした杜花が足を止め、早紀絵も火乃子に向き直る。言葉の節々から、ただならぬものを感じたのだろう、杜花の顔は険しい。
「私は、魔術儀式を行いました。市子様の亡くなる、三日前です」
「――なるほど。それで?」
「私は、市子憎しと思っていました。市子さえいなければ、貴女が、私に振り向いてくれると、当時はそう思っていた。私は彼女に居なくなって欲しいと願い、儀式をしました。それから三日後、彼女は亡くなった」
「カノ?」
「――……」
 杜花の沈黙が、恐ろしい。
 これほど冷たい目を、人間が出来るものなのか。
 まさしく、今の杜花は火乃子の知らない杜花だ。
 優しく、柔和な笑みを浮かべ、冗談を言うような彼女ではない。
 心の底から冷え切ってしまった、絶望を知るものにしか出来ない瞳が、火乃子を貫いている。
 奥歯が震えるのを噛みしめて止める。
 ここまできて、黙れない。
 今自分は、悲しみを作っている。彼女の悲しみを深めている。自らの解放を願うばかりに。
 だが回避は出来ない。
 それはやってしまった事だ。終わってしまった事だ。言わずには居られないものなのだから。
「……因果関係を、疑いました。冗談半分、魔術なんて趣味でしかない。そんなものが叶う筈がない。そういった前提に、彼女を呪いました。魔法なんて、魔術なんて、あり得るわけがない。今もそう思ってます。だから、私が結晶について、機械的な、ものではないかと口にしたのも、希望的観測でしかない。魔法なんて物は無く、すべては科学で説明がつくものならば、私の呪いなんてものは、冗談で済む」
「……三ノ宮さん」
「ハイ。何でしょうか」
「黙っていれば、そんなことは解らなかった。私も貴女に憎悪する事もなかった。貴女は御望み通り、私の『妹』になれたでしょう。望み通りの思い出をつくる事が出来たでしょう。何故、今ここで、口にしましたか?」
「モリカ、それは流石に」
 言いすぎ、という、早紀絵の言葉を手を出して制止する。
「……どうしようもなく、貴女が好きだったからです」
「残念ながら。私は今、嫌いになりましたね」
「杜花さんは、市子様に気にいられるように、努力、しましたよね」
「――ええ」
「私も、貴女に気に入られたくて、努力しました。ただ、方向を間違えてしまった。そもそも、貴女は市子様しか見ていなかった。貴女に気に入られたいが為に、躍起になって勉強して、所作を身につけ、同じ趣味を持ち、貴女だけを見てきました。小等部の頃からずっとずっとです。私は、勝手な話ですけれど、貴女に作られたようなもの。けれど、それでもダメだと、結局市子様は超えようが無いのだと、解ってしまいました。だから、あの魔術儀式がその締めくくりだった。貴女への思いも、市子様への憎悪も、それを区切りに終わらせようと思ったんです。小さな呪いは幾つも掛けました。当然何の効果もない。解り切った話です。だからこそ、あれが最後だった。聞く筈が無い、効果などあるわけがない。なのに、あのタイミングで、彼女は、自殺してしまった」
 どう、なる。
 どう、する?
 全ての思いは吐露し尽くした。
 杜花は沈黙を守っている。
 早紀絵は、火乃子と杜花を見比べ、そわそわとしていた。
「だとしても、今言う理由は解りません」
「歌那多に」
「……末堂さんに?」
「歌那多に、好きだって言われたんです。誰に見向きもされなかった私に、彼女は初めて好意を向けてくれた。三ノ宮の娘だ、なんて打算の無い、純粋な好意です。とてもうれしかった。私は、こんな私でも、好いてくれる人がいるんだって。なのに、私は酷い人で、嘘ばかりで、虚飾ばかりで、決して、彼女に胸を張る事が、出来ない人間だから。私は――」
 清廉潔白で、多くに慕われずとも、ただ一人の為に堂々とあれる人間で居たい。
 欅澤杜花という人を見本に作られた、不甲斐ない出来そこないだとしても、そんなものを好いてくれる人の為にありたい。
「わた、わたし――こんなに、立派な人を、見本にした、のに。で、出来そこないで……。せめて、あの子の前だけでも、あの子に慕ってもらえるだけの人間で、有りたかったんです。ごめんなさい……ごめんなさい……ッッ」
 地面に直接膝をつき、頭をこすりつける。
 もうこれ以外の謝罪方法が思い浮かばなかった。
 蹴られようが殴られようが構わない。それで生きていれば安いものだ。
 例えそれが荒唐無稽の魔術なれど、憎悪によって行動した、という事実に変わりは無い。
「モリカ。カノはさ、貴女が好きだったわけよ。オカルトに頼っちゃうくらいさ。ただちょっと、まがった方に向かっただけ。私だって市子邪魔だったもん。そんな知識あれば、私だってやったよ。というかどっかいかないかなとは、常々思ってたよ」
「三ノ宮さん」
 杜花が近づく。サクサクと、枯れ葉を踏みしめる音が地面を伝わる。
「モリカ!」
 早紀絵の声が林に響き渡る。火乃子は頭を下げたまま、微動だにしない。
「三ノ宮さん」
「――はい」
「確認、行きましょう。貴女の想いは解りました」
「あ、あの」
 杜花の手が、火乃子の肩にかかる。判決が下される。
 甘んじて、受け入れよう。
「――貴女に恨まれた程度で死んでいたら、七星なんてとっくに死滅してますよ。忘れましたか。七星は、日本で最も強大で様々な恩恵を与えると同時に、日本で最も恨みを買っている一族です。それに、本物が、素人に負けたりしませんよ」
 ――俄か魔女が、本物を殺す事なんて出来ない。
 二子の言葉がよみがえる。
「でも、気になります。もし結晶が魔法などではなく、機械だったなら……二子はうそつきであるし、あらゆる事象の説明がつかなくなる。サキ」
「ぬふふ。はいよ」
「躑躅の道の方をお願いします。私はここ周辺を。三ノ宮……いいえ。火乃子は、中央広場への道を」
「も、杜花、さん?」
「――私は、私に対する好意を、無視し続けました。結果に齎されたものが、貴女の不用意な行動だとするのならば、私にも責任がある。貴女を見て思いました。私の気持ちが市子御姉様に通じなかったのなら……もしかしたら、貴女よりも酷い事になっていたかもしれない。私は、幸福な人間なんですね……行きましょう」
「は、ハイ!」
 杜花の表情が、和らぐ。作ったような顔ではない。
 いつか見た、市子が健在であった頃の、本当の顔だ。
 ――成った。
 立ち上がろうとして、力が抜ける。
 思わず逡巡してしまった。
 膝が笑っている。余程の緊張だったのだろう、自覚はなくとも、肉体は正直だった。
「欅澤杜花伝説。睨んだ後輩の腰抜かす」
「やめてください……そ、そんなに怖かったかな……対戦相手睨む半分ぐらいだったんですけど」
「対戦相手の精神めっちゃ強靭だな……」
 総合格闘技で彼女と対峙する人達に同情せざるを得ない。
 ともかく火乃子は立てそうになく、探索にも参加出来る気配がない。早紀絵に肩を借りて立ち上がる。
「いったん戻ろう。火乃子置いてから、猫探索だ。夕食の余りも繕うと良いかな」
「ご、ごめんなさい、早紀絵先輩」
「……いいって。私さ、貴女の事、ちょっと馬鹿にしてたんだよ。杜花好きなくせに、なんか後ろでコソコソしてるだけで、大した事ないなってさ」
「大いに反省した結果がコレです」
「だからさ。凄いね、本当に恋すると、人は変わるもんだね」
「あ、ぐ……」
「くふふ。なんだ、可愛い顔出来るじゃない。歌那多はアレでしょ、七星系列の嫁に行くんでしょ」
「……はい」
「ぶん盗っちまおう。三ノ宮積年の恨みも多少晴らせるだろうさ。楽しみだねえ」
 早紀絵に肩を借りたまま、寄宿舎へと戻る。
 勝手口から入ろうとして近づくと、中から鷹無綾音が顔を出していた。何事かと思えば、その手には残飯を乗せた皿がある。
「げ、も、杜花に早紀絵。火乃子も。あ、外出てたんだよね、そっか、アハハ……」
「綾音さん、それは」
「ん? これ? なんだろう。お腹すいちゃって?」
「綾音ちゃん、残飯片手にそれは無い。もしかして餌やりかな?」
「あ、あんまりやるなって言われてるの。誰にも言わないでね?」
 綾音は頭をポリポリとかきながら、気恥ずかしそうに笑う。
 なるほど、猫に餌やりをしていたのは綾音だったのかと納得する。
『あまりやるな』と注意されていると言う事は……ちゃんと当番がいるのだろう。学院長だろうか。
 そんな話をしていると、やがて猫の姿がチラホラと見受けられるようになる。
「こりゃ都合良いや。カノ、どれか解る?」
「まだいませんね。杜花さん?」
「……林の奥」
 杜花の言葉に、他の三人が林の奥に目を向ける。
 ゆらゆらと、歩くような、黒い何かがいる。
 あの日観たもの。
 全身の肌がぶつぶつと粟立つ感覚に身悶えする。
 出ては、消え、出ては、消えを繰り返していた。やがて、それは走るようにして此方へと近づいてくる。
「うおぉぉ……こわ、モリカ、モリカッ」
「大丈夫ですよ」
「え? 何? 何アレ? え?」
 早紀絵が及び腰になり、綾音が混乱のあまり対処に困ってか、その場に座り込んでしまう。
 火乃子は――近づいてくる影を認め、空気と一緒に唾を飲み込む。
 影は、此方に来ると同時に消え失せた。
「おぉああぉ」
「――猫ですね、やっぱり」
「あ、猫だ」
「猫でしたね、予想通り」
「猫ってあんな影大きかったっけ?」
「影が大きくなる猫もいるそうですよ、綾音さん」
「そ、そうなんだ? 私あんまりほら、そういう知識乏しいし。そっか、良かった。幽霊かと思った」
 杜花の適当な言い訳に、綾音が納得して安堵する。
 綾音は頼りになる上級生……だと思っていたのだが、やはり彼女も世間知らずのお嬢様らしい。
「あ、お湯沸かしてるんだった。ここ任せていいかな。餌、食べ終わったら皿持ってきてくれる?」
「はい。任されました。サキ」
「あいよ。カノはここで見てて」
「はい」
 餌で釣り、件の猫、黒ブチの背後を取る。
 杜花は予断無く猫の首輪に手をかけ、器用に外して見せた。タグだと思っていたものを観察すると、それは真黒い、プラスチックの薄いケースのようなものだ。
 杜花が弄ると、やがて中から虹色に輝く物体が出てくる。
 首輪はどうか。
 これも想像通り、細長く丸められた紙が一枚、首輪の中に埋め込まれていた。
「凄い。火乃子の予想通りでしたね」
「カノやるじゃんじゃん」
「……何か、電子機器、なるべく、精密なものがあれば良いんですが」
 それが何なのか。確認する必要がある。
 杜花は虹色に光る結晶を凝視し、有る事に気が付いたらしい。
「これ、破損してますね。罅が入ってる。中身は……見えないか」
「しっかし、ここで電子機器ってなあ。カノ、隠し持ってない?」
「えうっ」
「あるんだね。ま、それ壊すのも……ああ!」
 早紀絵が何かを思い出したらしく、手を打つ。
「ちょいと待ってて」
 勝手口から入って行き、数分後、直ぐに戻ってきた早紀絵の手には、携帯電話が握られていた。早紀絵なら一つ二つ持っているだろうと予想していたが、どうみてもその携帯は最新式だ。
 しかし確かに、これなら確認出来るかもしれない。
 高性能義手程ではないが、これも高度な技術が使われており、なおかつ送受信機能が付いている。
「壊れるかもしれませんよ」
「実は不具合あるみたいでね、壊れてるようなもんなんだよね。どれ」
 火乃子は猫達に餌をやりつつ、早紀絵の行動を見守る。
 携帯電話の電源が入り、使用可能な状態になる。
 指向性ホログラムらしく、画面の内容は火乃子の位置からでは確認出来ないが……二人の顔が、どんどん青ざめて行くのが解る。
「カノ、貴女はシロだし、これはやっぱり、何かしらの機械だ」
「……サキ、その携帯、本当に、不具合で壊れたんでしょうか」
「――杜花の部屋で初起動だよ。だから……ああ、そっか」
「サキ、火乃子。お願いがあります」
「あい」
「何でしょう」
「ニコに、この事はバラさないで。彼女の口から、私に告白する義務がある」
「――了解」
「――解りました」
 黒ブチを撫でつける。
 間抜けな顔をしたコイツは、今まで何も意識する事なく、とんでもないものを隠し持っていた事になる。
 七星市子がそうしたのだ。何かしらの目的の為に。
 そうでなければ、こんな面倒な事はするまい。
 そして、それを探させた奴がいる。
 ――七星二子。
 友達が欲しいと言った彼女。
 彼女は……市子は……そして、彼女達は、何かしらに向かって、進んでいる。
 答え。
 答えがあると、誰かに、どこかで聞いた。
 それは、幸せな答えだろうか。それとも、更なる不幸を呼び込むものだろうか。主役にはなれない三ノ宮火乃子は、恐らくは傍観者だ。その真実を知る事もないだろう。
 ただ……自分は、自分なりに明確な答えを得る事が出来た。
 呪い、妄執に取りつかれ、悩み、考え、吐き出して、得たものだ。
「杜花さん、早紀絵先輩。私は、胸を張っても良いでしょうか」
 その言葉は、弱々しかっただろう。
 だが、杜花はゆっくり、優しく頷いてくれた。




 真っ白な空間には、清潔感と消毒の匂いが満ちている。
 生徒IDを承認、面会を選択、入院者から即座に許可が下りる。
 エレベーターの操作パネルで3Fを指定する。音もなく上がり、着いた先では窓から望む外の景色が広がっていた。
 学舎とは離れた位置にある医療保健室棟は少し小高い場所に建っている為、三階からでも十分観神山女学院の全景を見渡す事が出来る。
 案内板に従って入院棟の奥へと進む。
 病室全室が個室となっており、入院者数も多くは無いので人は疎らだ。
 奥から見た事のある姿が此方へと向かって来るのが解り、火乃子は頭を下げた。
「アリス先輩」
「三ノ宮さん。ごきげんよう。末堂さんのお見舞い?」
「元気な筈ですから、お見舞いという程でもありませんが」
「ええ、元気でしたわ。色々あったみたいだけれど、三ノ宮さんは大丈夫なのかしら」
「この通り」
「……なんだか、良い顔をしてますわね。ふふ。末堂さんが逢いたがっていましたわ。たった二日しか離れていないのに。仲がよさそうで羨ましい」
「寂しがりですから。では」
「はい。またあとでね」
 どうやらアリスも見舞いに来ていたらしい。
 末堂歌那多は医療保健室に入った後、様子を見る為入院する事となった。
 彼女自身は問題ない。腕の不具合だ。
 機能低下が著しく、パーツ交換が出来るまでは殆ど使えないという話だ。あの結晶の影響は余程大きかったのだろう。
 一番奥の部屋、305号室の扉をノックし、中へと入る。
「火乃子!」
 中では、病棟に居るのがおかしいほど元気な歌那多がいた。ベッドから跳ね起きると、直ぐ様火乃子に近寄ってくる。
「歌那多、大丈夫、ですよね」
「暇ですよぅ」
「だろうと思ったから、本を持ってきました」
「やった!」
 歌那多が抱きつき、大いに喜ぶ。
 今までなら困った顔をしたところだが、今は違う。
 歌那多をベッドに戻してから、火乃子は窓際に立ち、ブラインドを開ける。日の光が白い病室を緋色に染めた。
「その腕のパーツは、結局どうなるんですか?」
「うん。急ピッチであげて、一週間で届くって。部品が難しいだけで、取り付けは簡単だから、日帰りで戻れますよ!」
「よかった。不自由しなくて済みますね。医療保健室にはいつまで?」
「電話があってね、大事な身体だから、お父様とお母様は腕治すまで入院してろ! っていうんですけれど、それは暇すぎます。なので、明後日には出して貰う事にしました。ちょっとだけ授業はお休みして、寮で大人しくしてます。でも大事な身体ってなんでしょ、歌那多は妊婦さんでもないのに」
「そっか。良かったですね」
「――火乃子?」
「はい?」
 灰色の瞳が火乃子をジッと見据える。キャンディヘヤーが左右に揺れた。
「なんだか火乃子、うんと、ええと、うん?」
「何か、違いますか?」
「そう、そう。なんだろ、大人しく? 違う。落ち着いた? ううん。余裕があるように見えます!」
 慧眼だ。
 本能的、直感的に感じ取れるのだろうか。現に火乃子は、今までのような焦りとは無関係の場所に立っている。一皮剥けたと言うべきか、澱を吐き出したと言うべきか。いや、心を掃除した結果だろう。
 市子と杜花への後ろめたさは既に無い。
 杜花への幻想も、現実へと塗り替えられた。今あるものは、可愛らしい目を火乃子に向ける、同い年の女の子に対する想いだけだ。
「実は幾つか告白しなければいけない事があります。聞いてくれますか?」
「うん。お話に飢えてたの」
「昨日電話をして、既に三ノ宮本家には通達済みです。貴女の旦那になる予定だった烏丸家にも、宣戦布告してあります」
「えう?」
 昨日の事だ。もう既に火ぶたは切って落とされている。
「即時電話会合になりまして、三ノ宮家、末堂家、烏丸家とお話合いになりました」
「お父様達とお話したんですか?」
「はい。烏丸家の怒りは怒髪天を突く勢い。末堂としては悩みどころだったと思います。三ノ宮親族一同は好意的でした。何せ、まだ貴女と烏丸のおぼっちゃまは婚約した訳ではなく、両親同士の同意だけの関係でしたからね」
「あー。難しい事は、解らないです。でも、ええと? どゆことですか?」
「三ノ宮家は烏丸家に宣戦布告。末堂歌那多の行き先は不透明となったわけです」
「――あ、うん?」
「歌那多」
「は、ハイ」
「約束します。ずっと一緒にいましょう。お婆ちゃんになってもずっと。私、貴女が好きです」
 難しそうに小首を傾げていた歌那多の顔が、突如綻ぶ。
 自分の好きだという言葉に、彼女は過剰なまでに反応した。ただの好きではないと、直ぐに解ったのだろう。
「あ、あはっ。本当ですか? ずっと一緒ですか? 毎日? 私、烏丸さんのところ、行かなくてもいいんですか?」
「誰にも渡しません。気変わりが早いと思ってくれて結構です。強引だと罵って貰っても構わない」
「ううん。ううん。うそ、やった。火乃子、あ、そっか、火乃子が、お嫁さんに貰ってくれるんだ?」
「貰います。もう籍も入れてしまいましょう。三ノ宮歌那多、ちょっと文字数が多いですけど」
「沢山練習して早く書けるようにします。旦那様? 旦那様って少し変。ご主人様? うーーっ、ね、ね、火乃子!」
「はぁい、なんですか、歌那多」
「ちゅーしてください!」
 何故ここまで強引にする必要があったのか。
 火乃子自身も、烏丸に喧嘩を売りつけた後考えもしたが、瑣末な事だと吐き捨てた。
 三ノ宮、いや、火乃子と烏丸は大激論の末喧嘩別れに、末堂の判断を探ったが、末堂は次女である歌那多の身の振り方に、そこまで執心していたわけではなかったらしい。
 曰く『娘が幸せになれる方を取る』と言う。
 これが何処ぞの馬の骨ともなれば別だろうが、何せ喧嘩を売りに来たのは、世界シェアも高い日本一位の医療製薬企業、三ノ宮医療製薬の跡取りである。
 烏丸は歌那多の卒業後婚約、結婚と見据えていたのが甘かった。そんな横やりが入るとは考えていなかったのだろう。
 また恋患い、また出遅れ、また手遅れとなってからでは遅い。
 火乃子の決断は早かった。
『末堂の娘を釣ってくるとは、火乃子もとんでもない女になったもんだ』とは、電話を受けた祖父の言葉だ。否定されても貫くつもりだったが、祖父の意見は好意的で、祖父が肯定したからには、父も母も逆らえなかったようだ。
 こんなに良い子を、愛も恋もないような、顔も名前も覚えて貰っていないような、親同士の決めた相手に持って行かれるなど、考えるだけでも頭が痛くなる。
 頭が痛くなるような想いはもう、懲り懲りだった。
「約束を守れる人間に、なります。胸を張って、私はそう言える」
「んっ」
 ベッドに腰かけ、歌那多の腰を抱く。
 頬をこすり合わせると、あの歌那多が、恥ずかしそうに手をすり合わせる。
「強引で、ごめんなさい。でも、これからも、私は沢山、貴女に教えてあげられる」
「あふふ……うん。火乃子。ああ、なんだろう、凄く、胸が、一杯です。ずっと、火乃子に御世話させてしまって、迷惑に思われてたら、どうしようかって、不安で、ぎゅーってなって。火乃子は、歌那多の方を向いてくれないのかなって、思ってて、だから歌那多……あの、が、がんばって裸になってみたり、ちゅーして貰おうとしたり……」
「……あ、あれ天然じゃないんだ……あざとい子」
「だ、ダメでした? 恥ずかしい子でしたか、歌那多は」
「一生懸命だったんだ。いじらしい。ダメな子だね、歌那多は」
「あふ。ダメな子です。ダメな子ですけど、ずっと一緒にいてください」
 いざ、真正面から歌那多の顔を見つめると、頭から湯気が出そうになる。歌那多は唇を少しだけ尖らせて、目を瞑っていた。
 ほんの少しだけ、触れるようにキスをする。
 嫌な事も、辛い事も、寂しい想いも、汚い思い出も、それらが全て、陳腐なものに思えてしまうような、甘い衝撃があった。
 これから先、障害は多いだろう。
 まだまだ乗り越えなければならない壁は沢山ある。
 ただ、火乃子は一人でだって、その全てを戦うと決めた。
 この子がずっと笑顔でいられるようにと、祈るでなく、願うでなく、自らの力でそれを得る為に。
「か、火乃子」
「ん?」
「も、もう一回、ちゅーして、ね?」
「――うん。可愛いよ、歌那多」
「あふふっ。んーっ」

 ……。
 永遠に続くものはなかろう。
 想いとて何時か朽ち果てると、身をもって知っている。
 人間なのだ。
 その記憶から生み出された魂は、変化し、劣化する。留める術はない。
 しかしだからこそ……人は人を人たらしめる為、決意するのだ。
 無理を承知で、無理を押し通す為に。
 失ってしまったものすら、取り戻すために。
 ……。


 

 ストラクチュアル3/劣等感の熱情 了



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