2013年3月22日金曜日

心象楽園/School Lore プロットストーリー3

 

 プロットエピソード3/心象楽園/怨嗟慟哭


 
 その日は昼間から放課後まで、体調が優れなかった。
 精神的疲労もあるが、周期的に恐らく生理前の所為だろう。普段ならば大体を忍耐でカバーしているが、心が疲れているとそれも難しい。薬を飲んで誤魔化すにも、副作用の眠気には敵わなかった。
「調子悪そうね」
「少し寝ます」
 自室に戻ると、服を着替えるのも煩わしく、不作法だが、鞄を置いてそのままベッドに入ってしまった。
 軽い吐き気と微熱がある。
 生理に入るまであと三日程は付き合わねばならない。以降は何も不調が無くなるタイプの人間だ。
「……そういえば、戻ってくるのが……早いですね。私、放課後直ぐ、戻ってきたのに」
「今日は早退してね――実家に用事があったから」
 実家といえば、七星本家だろうか。
 そんなに近くにあるとは知らなかった。恐らくはテロ対策で場所は明かされていないのだろう。
「あと一つね」
 なるほどと、頷く。結晶の関係で戻ったのだろう。
 失われた結晶四つの内三つを回収。
 そして最後の一つは、恐らく身近にある。冬休み前には問題が解決しそうだ。
 惜しむらくは三つめと一緒にあった手紙が、雨ざらしのお陰でグズグズになり、読むどころではなくなっていた事だろうか。
 杜花の直感的に、四つ目はおそらく、大した事は書いていないだろうと思う。
 火乃子と早紀絵の考察通りなら、結晶は限りなく近くにある。この部屋である可能性が高い。
 一応部屋中をひっくり返してみたが、見つからなかった。
 電波や電磁波が影響しているとすれば、早紀絵の携帯に不具合をもたらす事で、場所の特定が出来るのではないかと考えたものの、極度に影響を与えるようなものはなかった。恐らく三つめは破損していた所為だろうと、二子はいう。
 二子は、あれが魔力結晶などではない事を、認めている。
 聞くべき事は沢山あったが、無理矢理話させようとして喋る人間でもない。
「ねえ、杜花」
「……はい」
「もう少しなの」
「そうですね。もう少しで全部集まる。私へのまともな手紙も、有ると良いんですけれど……」
「それも、そうなのだけれど。もう少しなの。もう少しで、貴女は、七星市子に逢える」
「何を、言って」
 まどろみが訪れる。
 杜花の半眼が、二子の険しくなる顔を認めたが、力が入らない。
 これは今、こんな状態で『魔法』を行使するつもりか。
 精神的に弱ってきている――弾けそうにない。


「だから教えて。七星二子は、貴女の為にいるのだから」



 ……。

 ざりざりと、音がする。

 否定しよう、否定しようと心を縛るも、彼女の魔法はじわじわと蝕む。

 いい加減にしてほしい。そんな事をされたら、私は貴女を嫌いになってしまう。

 それでも……見たいのだろうか。嫌われてでも、見なければいけないのか。

 止めて欲しい。穿り返さないでほしい。眼を覚ました時、私は耐えられなくなってしまう。

 ……。
 ……、……、…………、……。



 ……、……、……、……。


 ……十月の文化祭に向けての準備が着々と進みつつある。
 観神山女学院はこの通り閉鎖空間である事から、文化祭だろうと通常一般人が入れるような場所ではなく、入れるとしても許可証を得た肉親程度だ。
 その代わりに学校同士の交流会としての色が強く、近隣の一校、市外県外から十校の女子校がやってくる。時期になると一通一通手書きの招待状を書いて送るのが通例だ。
 文化祭が迫ると皆の気分が盛り上がり、非常に笑顔が多くなる。何せ普段学院に缶詰である生徒達にとって、他校との交流は願ってもないものだ。
「で、杜花の試合相手なんだけど」
 杜花はグローブをはめながら三ノ宮風子の話を聞く。クラス毎の催し物もあるが、個人では総合格闘技部に参加する事になっていた。
 運動部系最大の目玉が、夏の全国総合格闘技若年部チャンプ、欅澤杜花の試合である。
 杜花の女性ファンは凄まじい数がおり、当然他校の生徒達からも注目されていた。
「全部で五試合してもらう事になるけど、いいかな」
「お相手は?」
「文化祭に来る、聖隷白百合女学院空手部部長の仁王坂麻美、帝都女学園総合格闘技部部長の園崎アリカ、仙台女子高等学校柔道部副部長神野静香。んで海外から、台北女学近代科学少林寺拳法部部長の王美君。この人総合の台湾チャンプだね。で、最後は在日米軍からジャスミン・コナー。レスリング銀メダリストだ。ヤバイ組み合わせだぜー」
「全員と一日で戦うんですか?」
「二日間で。前半学生二人とチャンプ、で、二日目は学生一人とメダリストだよ」
「良く集まりましたね」
「ほら、総合格闘技主催してる格闘技日本に話持ちかけたの。試合は撮影されるよ。学院長許可も取った。メディアの売上も杜花に入るようになってる」
「お金はどうでもいいです。そういえば仁王坂さんとは一度ヤりましたね。強くなったかな」
「おお、余裕っすね日本チャンプ」
「どのぐらい手加減すれば映りが良いでしょうね」
「……。そ、そうだな、せめて2ラウンドは持たせてほしいな……」
「頑張ります」
 杜花は大変インパクトのある選手だが、如何せん試合時間が短すぎる事で有名だ。
 予選本戦二十試合のうち、一分かかったものが一試合しかない。
 相手は全国選りすぐりであるからして、それらを瞬殺する杜花の実力は、何時でも世界をとれるレベルと称されている。
 杜花を表紙にした格闘技雑誌は、イマドキ紙媒体だというのに飛ぶように売れ、客席から見ているような臨場感がウリのモデルムービーは、数か月映像売上ランキングのトップに君臨した。
 強すぎて美しすぎる総合格闘技選手、は今年の流行語大賞に上がるだろうと言われている。
 杜花を出せば経済効果が間違いなく産まれ、期待どころの騒ぎではないのだが、本人は隔離された女子校におり、なおかつマスコミ関係に関して大した興味がない。
 杜花は取り敢えず人をぶん殴れればそれで良いのである。
 明確な存在証明だ。
「さて、少し動きますか」
「おっけい。おーい、誰か、杜花とヤんない?」
 練習していた生徒達が、一斉に振り返って手を挙げる。殆ど杜花のマネージャーと化している風子が二人程見繕った。
 早速一礼してからリングに上がり、相手と相対する。
 短髪で長身、浅黒い肌が健康的な三年生だ。
 杜花の身長175センチをもってしても、相手は大きい。
 互いにグローブを合わせる。その力強さが杜花にも伝わってきた。
「先輩。宜しくお願いします」
「あ、あの。こちらこそ……ああ、試合(ヤレ)るんだ、うふっ凄い、やった」
 ……大きくはあるが、彼女は杜花の前で乙女であった。
 杜花は距離を取る。相手はボクシングスタイルだ。リーチに負ける。
 警戒なフットワークを駆使し、相手が自分のフィールドを作って行く。
 杜花はほんの少しだけ眼を閉じ、見開く。
 外野の声援、助言を排除。
 全ての集中を相手に向ける。
 リング上の空間を把握し、手中に収める。丹田に気を練る。正中線に筋を通す。
 相手の呼吸に合わせ、此方も動く。
 危機感。左舷からのストレート。人体が反応しうるゼロコンマ先を読んで動く。
「くっ」
 牽制ジャブからのストレートだったが、それは何故か当たらない。
 そこに居た筈なのに居なくなる、という不思議な感覚が三年生を襲っているだろう。杜花の対戦相手はその不可思議な体験をする事になる。
 杜花は右自然体のまま、ノーガードだ。相手は確実にカウンターを警戒する。が、どうにもならないのが欅澤杜花である。
 凄まじいとは解っていても、いざ立ち合って本物に出会ってしまった動揺からか、歩調が乱れる。
 杜花はその隙を見逃さなかった。
 不用意に放たれた右ストレートを、右腕で跳ねあげると同時に、鍵のように曲げた手頸に引っ掛ける。踏み込んだ足に対して、杜花の出足払いが飛ぶ。
 三年生は物凄い勢いで弧を描き、地面に横から叩き落とされた。
「あぐっ……っつぅ……」
「先輩、足が乱れています。呼吸もバラバラです。フェイントが浅すぎてフェイントになりません」
「は、はい」
「続きしますか?」
「いえ、堪能しました」
(堪能?)
 ともかく三年生はご満悦の様子である。本人が満足ならそれで良いだろう、皆幸せが良い。
 次に上がってきたのは二年生だ。規定ギリギリのグローブの薄さ、すり足、撫肩気味。
 投げが得意な生徒だろう。
「柔道かな」
「は、はい! 柔道とレスリングです。打撃はここにきて教わりました」
「はい。では、宜しくお願いします」
「はひ!」
 グローブを合わせて立ち合う。
 構え自体はレスリングだ。体勢が低く、タックルが来ると解る。
 総合格闘技の発展以降、相手を即座に引き倒し得るタックルの重要性が追求された。
 胴タックル、両足、片足タックルの他に、相手の重心を利用した腕へのタックルなども研究検証され、現在の格闘技世界において、大変重要な技能と認知されている。
 本当に早いタックル程恐ろしいものはない。片足を取られ、引き倒され、そのまま足関節になど持って行かれれば、流石の杜花もタップせざるを得ないだろう。
 勿論、当たればの話だが。
「シュッ――」
 一息。かなり速い。
 が、杜花は予測済みだ。本来ならばここに膝を合わせるのだが、杜花の膝蹴りとなると、威力とタイミングが良すぎて、相手の頸椎に多大なダメージを与える結果となりうる為、本番以外ではまずやらない。ヘッドギアの恩恵など杜花の前では微小だ。
 杜花はそのまま受ける事にした。
「いっっやっあっ」
 左脛に体重をかけて、そのまま後ろに倒そうというのだろう。
 しかし、杜花の脚は地面に根を張ったように動かない。脛にくっついている頭と首と肩、良く作用しているが、少し足らない。
 杜花はそのまま自分からしゃがみこむ。
 ただしゃがむのではなく、右脚を相手の左脇腹から差し込み、上に乗りかかるようにする。
 変形三角締めが来ると予測したであろう二年生は、必死に上体を杜花の脚から抜こうと試みるも……杜花の筋力を跳ね返せていない。
 首は左脚で固められ、左腕が杜花の右脚で完全にロックされ、そこから一気に仰向けにされる。
 杜花が上体を反らすだけで締めと関節が一緒にキまる。
 もがいた二年生は、暫く堪え、やがてタップする間もなく落ちた。
「あら」
 杜花が二年生を抱き起こし、背後から横隔膜を圧迫して活法を試みる。数度の刺激の後、二年生は何が起きたのか解らない、という表情で目を覚ました。
「おはようございます」
「あへ。あ、そっか、締めはいって。あふ」
「怪我は?」
「杜花さんのフトモモが凄かったのでどうでもいいです怪我とか」
「さ、左様で」
 二年生もご満悦の様子だ。幸せなのは良い事だとして、杜花も納得してから、リングを下りる。
「今の何。変形三角締めにしては変形すぎる。てかどこ抑えたらああなるんだ……」
 風子は杜花の謎技に対して苦言を呈する。確かに、普通ではないだろう。
「ウチの流派の関節締めですね。まず使う機会はないですけれど」
「本来どんな時に使うのさ」
「欅澤神道無心流は、女性の為の武術です。あんな状態になるとしたら、つまり男性に覆いかぶさられた時ですかね」
「なあるほどねえ」
「本来服を着た状態で想定された技ですし。服を使うと、もっと痛くて凄いのがですね……」
「あ、聞くのも怖いから良いや。なんか平気で殺人技ある流派だろうし」
「さて。運動量が足りませんし、少し講義しましょうか」
「よしきた、ぶちょー、杜花の講義きけるよー」
「マジですの? はい集合、全員集合。杜花様に傾注!」
 総合格闘技部正式所属ではない杜花が部活に顔を出すのは稀だ。
 若年部チャンプである杜花の講義となれば、全国県外からでも応募者が殺到するだろう。またと無い機会に、強い女性を目指す生徒達は眼を輝かせた。
「では、組みつき状態からの対応についてご説明しましょう。打撃戦を主とする人々からすると、組みつき状態は非常に面倒です。上手く投げ飛ばせればそのまま馬乗りにも行けますが、全国ともなるとそんな簡単にマウントなど取らせてもらえません。指を自由に使えるグローブを装着している人なら容易い方法があります。風子先輩」
「あいあい」
 リングに上がり、風子を前に立たせ、組みつく。
「ぶっちゃけてしまえば、眼に対する攻撃以外、女性は殆ど規制がありませんので、何でも出来ます。ここをこうして、こういう指を作って、組みつき状態で、鎖骨を……」
「あががががががががッッ!!」
「こうなります」
「杜花加減して死んじゃう」
「出来れば折り曲げてしまいましょう。腕や足を取らず折れる骨は全部折りましょう。もったいない精神です」
「絶対に違います杜花さんそれちがいたたたたたたッッ」
 痛さに悶える風子が、杜花は可愛く思えて仕方が無かった。



 それからたっぷり二時間、杜花は総合部の面々に対して講義を続けた。
 最終的に風子がボロクズのようになっていたが、風子は満足そうである。
 練習を終えてシャワーを浴び、着替えた頃には既に六時を回ろうとしていた。
 文化祭前は準備なども考慮して、校舎施錠、閉寮が七時になる為、食事時間もバラバラになる。寮に戻る頃には、すっかり一人ぼっちで食事する事になるだろう。
「はあー……。涼しいー」
 外に出ると夜風が心地良い。道場の暑苦しさとは天と地の差だ。
「杜花、今日はありがと」
「鎖骨大丈夫ですか?」
「まあ、頑丈が取り柄だし。杜花ったら激しいんだから」
「特殊性癖で安心しました」
 三ノ宮風子はさわやかに笑う。
 変態だが、杜花は彼女の大らかさと気前の良さに惚れこんでいた。
 恋愛感情はないが、彼女ほど融通がきいて、接していて苦の無い人間はなかなかいない。
「ねえ、杜花。あのさ、今後の事なんだけれど」
「はい?」
「あ、あのさ。もしその、今後も総合続けるのならさ、プロとか、なるじゃん? そうなったらさ、やっぱほら、トレーナーとかマネージャーとか、必要じゃん?」
「まあ、確かに」
 杜花としては……どうだろうか。
 ――彼女に、許して貰えるならば、続けるかもしれない。
「それでその……ウチ出資でさ、道場作ろうかって、思って。ウチはほら、医療製薬会社でしょ。格闘技に怪我は付き物だし、プロモーションとして最適で、杜花なら他のスポンサーも沢山つく。だ、打算的な話も、そ、そうだけど。杜花はやっぱ、強いし、ずっと上を目指して貰いたいし……わ、私……一番になった杜花、見てみたい……し……。も、杜花が、良ければ……なのだけれど」
 ショートヘヤーを弄りながら、風子が顔を赤らめる。
 ……惚れられている。間違いなく。
 普段、妹になりたい、という子をあしらうのは慣れていたが、こうまで好意を向けられると、流石に気恥ずかしい。
 さて、どう受け答えたものか。
 三ノ宮風子を好ましく思っているのは事実であるし、格闘技を通じて付き合って行きたい、というのならば賛成だが、風子のそれは違う。
 三ノ宮医療製薬の長女様が、本気で一緒に居たいと、そう言うのだ。
 三ノ宮家の人間を引き付けるフェロモンでも出しているのだろうかと、自分を疑いたくなる。妹もよっぽどなのだ。
「うーんとですね……その」
 どう答えるか、濁すか。杜花が頭を悩ませていると、後ろから気配を感じた。
 杜花と風子が振り返った先には、夕闇に紛れるように、人の影がある。
「市子御姉様」
「い、市子」
「ごきげんよ、杜花、それと風子ちゃん」
 笑顔で、ぶれは無く、ゆっくりと歩み寄るその姿は、他の誰かが真似しようと思って出来るものではない。存在そのものが、瀟洒で優雅だ。
 七星市子。
 学院の代表格であり、欅澤杜花の姉であり――将来を誓った、親の同意の無い婚約者だ。
「練習帰りかしら?」
「そ、そうなの。いや、杜花借りちゃって、悪いね、市子」
「とんでもない。面倒くさがりの杜花にスポットライトを当ててくだすった貴女ですもの。幾らでも借りて行って」
「御姉様、私は物じゃありません」
「あいや、今日はありがと。ほんじゃね」
「あ――風子せんぱ……脚はや」
 風子は結局、苦笑いを浮かべて走り去ってしまった。下半身の強い彼女に追いつこうと思えば、杜花でも余程頑張らねば追いつけない。話もはぐらかす形になってしまい、これはあまり宜しくない。
 だが、どう答えたものだったろうか。
 杜花は市子を見る。市子はニコニコと笑っていた。
「御姉様、どうしたんですか」
「んー? 私は殆ど文化祭の準備が済んでしまったから、暇を持て余していたのよ。そういえば今日は杜花が総合部に行っていたなと思い出したから、参上したの」
「そうですか。でも、私はもう寮に戻ってしまいますよ」
「今日は私もお邪魔しようかしら、寮に」
「指導教員を説得してくださいな」
「お安いご用よ。さ、行きましょ」
 市子が左隣に付く。杜花は咄嗟に手を繋ごうとして、直ぐひっこめた。
 もう夕刻とはいえ、誰が観ているか解らない。繋ぐにしても、面識のある人がいる事は避けたい。幾ら仲の良い姉妹といっても、やはり角は立てたくない。
「白萩に行くのは久しぶりだわ。杜花、食事は?」
「今日はシチューだった筈です。一人分くらい余ってるでしょうから、ご一緒に」
「あら、いいわね。最近段々と冷えて来たし」
「個人的には、もう少し先が良いですね」
「シチューじゃご飯のオカズにならないって?」
「そ、そうは言いませんけれど。何かと暑苦しい空間に居るものですから」
「杜花が練習してるところ、見たかったわ」
「何も面白い事なんてありませんよ。皆がヘバッて倒れて行く姿しか拝めませんもの」
 市子が何か言おうとして、口を噤む。
 杜花は、なんとなく何が言いたかったのか解り、小さく俯く。
「そ、そういえば御姉様は、文化祭で何か、出店するんですか?」
「私は個人よ。婦女子に大人気、占いの館。演劇部に小物も借りてね、結構本格的なの」
「……頭痛大丈夫ですかそれ」
「少しずつ覗くぐらいなら、何ともないわよ。むしろ杜花が心配なのだけれど」
「台湾チャンプとレスリング銀メダリストが居るくらいですし、たぶん普通に勝てますよ」
「女子校の文化祭なのに、見世物の格闘技っていうのも、どうなのかしら……」
「御姉様って、古いタイプのお嬢様ですよね?」
「こら杜花。古いとか言わないの。古式ゆかしいのよ」
「ふふ。そんな御姉様が好きです。もっと怒りますか? 怒ってください」
「やあよ。杜花ったら、こっちが怒っても喜ぶだけなのだもの」
 ちらりと向けた視線が、市子と重なる。寮は目の前だ。
 指導教員を説得しろなどとは言ったが、市子の言葉など二つ返事で承諾するだろう。
 泊まる、という事は、杜花の部屋に来る、という事だ。
 触れた小指が絡む。
「――ねえ、市子」
「あ、ん。何?」
 今日は非常に調子が良い。
 普段一人なのに、今日に限って対人戦を行った所為だろうか、いつもよりも格段に『火照』る。
 そのタイミングで市子が来たのだ。こんなに都合の良い日は無い。
 杜花の、悪い病気が持ち上がる。
「今日は、準備で疲れたでしょう。汗もかいたかもしれませんね」
「そう、ね。ちょっと、荷物を運ぶのに……」
「お風呂、入らないでね」
「も、杜花……それはその……」
「ね、市子」
「……はい」
 市子の背後に寄り、周りに誰も居ない事を確認してから、髪の毛ごしに首筋の匂いを嗅ぐ。
 いつも市子がつけている柑橘系のコロンの香りと、シャンプーの匂い、そしてほんのりと汗の匂いが混ざり合い、何とも言えない。
「だ、だめ、誰かに見られたら」
「はい、おしまい。入りましょうか、御姉様」
「もう……」
「ただ今戻りました」
「お邪魔します」
 寮の玄関を開ける。準備期間故か、下駄箱を覗いても外靴(校内用ローファ)の数が疎らだ。
 靴を脱いでスリッパに履き替える。
 二階奥の杜花の自室に荷物を置き、廊下に出た所で天原アリスと遭遇する。
「ずるいですわ!」
「あ、アリスさん?」
「ごきげんよ、アリス。どうしたのかしら」
 逢うなり第一声がそれとはどういう事か。もしかすれば余程腹に据えかねるものがあるのかもしれない。
「って、あら、御姉様? どうしましたの。あ、まさか今日はお泊りで?」
「ええ。なんだか帰る気力がなくって」
「指導教員の許可の後、お願いしますわ。御姉様とはいえルールですので」
「アリスさん、それでずるいとは?」
「あ、そう、そうですのよ。というか御姉様と一緒に泊まるっていうのもどうなのかしら!? ……それはそれとして、私が立腹しているのは、三ノ宮風子先輩ですの!」
「興奮してますね」
「興奮もしますわ。杜花様はウチのクラスで一緒に『大正ロマンカフェー』をして『やだ杜花様凄い似合う、格闘技などするから堅気な人なのかと思ってたら大正美人でお淑やか』とかなる予定でしたのに、いきなり横から来て『あ、杜花はウチで出るから、矢柄着てメイドカフェとかないッスわ、天原さん』とか抜かすんですのよ?」
 アリス発案の謎模擬店の事だろう。
 大正と平成のダブルコラボを現代に再現、というコンセプトで進められている喫茶店だ。
 一体どんな所からそんなネタを仕入れて来るのか解らないが、クラスのお嬢様方からすると、
『え、給仕された事しかないのに、わたくし給仕なんて出来るかしら?』
『奉仕される側が奉仕するという謎の背徳感がありますわね、是非ウチのメイドを客にしたてて私が奉仕を』
『平成凄いなあ。あの時代一体どんな頭の人が暮らしてたんだろ』
 などなど、なかなかに好評の結果可決された。物珍しさを前面に押し出した発想の勝利である。
 ちなみに次点は早紀絵提案の『他校交流、文通指南所』である。
 純粋な乙女たちからすれば、早紀絵の発案は実にお嬢様学校らしいのだが、つまるところ出会い系である。満田早紀絵はブレずに満田早紀絵だ。
「もう対戦相手も組まれてしまっているので、覆しようがありませんよ」
「け、怪我などしないでくださいましね……」
「アリスは心配性ね。杜花が負けたりしないわ」
「ま、万が一顔などに拳が当たったら……ああ、ああああ……が、眼帯……眼帯? 眼帯杜花様いいですわね御姉様」
「眼帯……眼帯かあ……ああ、いいかも、アリス、杜花の眼帯いいかも」
「というわけで眼帯大正ロマンカフェーになりますわ」
「要素多すぎです……」
「そうそう。アリス、カフェをやるなら、給仕指南役も必要じゃないかしら」
「嗚呼、鋭いですわ御姉様。その通りです。しかしなかなか、お嬢様方に指導するような度胸のあるメイドとなると」
「ウチの兼谷を出しましょう。アレは凄いのよ。私どころか一郎お父様にすら苦言を呈するのだから」
「ええ……? 心強すぎですわねそれ。何者ですの?」
「少し辛い過去があるだけで、普通の女の子よ。杜花とやり合うぐらい強いかもしれないけれど」
 兼谷(かねや)といえば、市子お付きのメイドだ。普段のお出迎えから身の回りの事を、全て兼谷がやっている。
 一郎氏がどこから拾ってきたのか、国防軍特殊訓練キャンプにブチ込まれてみたり、警察特殊部隊に無理矢理ねじ込んで技術を身につけさせられたりと可哀想な想いをした人である。
 お陰で杜花も唸る程強い。
「御姉様、それは本当に人間ですの?」
「アリスさん、私人間ですけれど」
「杜花様が? はは、御冗談を、面白いですわね、杜花様」
「ほんと、杜花は面白いわ」
「ぐぬぬ」
 何かと相性の良い市子とアリスに囲まれると、杜花も反撃に出れない。言いたい事はあるが、この二人相手では争っても仕方が無いので、杜花は引き下がる。
「あ、そうでした。まだちょっと校舎に用事が。それではまたあとで」
「はい、頑張ってくださいね」
「無茶はダメよ、アリス」
「はい。ではごきげんよう」
 そういって、アリスは廊下を走る速度で歩いて行く。意地でもルールは守りたいらしい。
 アリスが消えて行く姿を認めてから、階段を下りて炊事場へ赴く。
 半寸胴にはメモ紙があり、正の字が書かれていた。人数からして目算すると、シチューにはどうやら一人分の余裕はありそうだ。
 業務用冷蔵庫を覗くと、これまたちゃんと一人分余計にラップをかけられたサラダがあり、棚を覗くと一人分の余計にパンがある。
「……」
「まあ、都合が良いわね」
「いや絶対事前に用意させてましたよね」
「偶然偶然。杜花、指導教員に許可を貰いに行くから、準備をお願いしても良いかしら」
「ええ。どうぞ」
 そういって、市子が炊事場を出て行く。
 こんな都合良く一人前余ったりはしない。今日は元から泊まるつもりだったのだろう。
 こういった怪しげな根回しを、わざわざ怪しげにやるのが市子だ。準備が良いとも言う。
 取り敢えず小分けにして、シチューを温める。余った材料で他の物は作れないか、と思ったが、こちらは都合良く余っていたりはしないらしい。
「お、モリカおっかえりぃ」
「サキ、ただいま」
 炊事場にひょっこり顔を出したのは早紀絵だ。シャツにスパッツという、なんともラフな恰好で居る。この寮でそんな恰好をしているのは、早紀絵を覗いて他は無い。というか明らかにブラをしていない。
「見てたよ、スパ。恋する乙女の如く、窓からこっそり」
「ストーカーみたいですね」
「おいおいそりゃないよ……って、モリカ、二人分食べるの?」 
「……今日は」
「私がいるから」
 と、先ほど消えたばかりの市子が顔を出す。早紀絵はあからさまに嫌そうな顔をした。
「市子先輩? なんだい、今日は泊まるの?」
「ええ。杜花のお部屋に」
「……わざと言ってるよね」
「うふふ。早紀絵は敏感ね? 私はそんな意図、まるでないのに」
「うう……市子怖いよぉ」
「御姉様、許可は?」
「一つ返事で頂いたわ」
「ですよね。サキ、炊事場に何か用事?」
「あ、なんかモリカの気配したから」
「何かアンテナでも搭載してるのかな。え、盗聴器とか発信機とか……」
「ないないない。ナチュラル。市子先輩だってきっとそうだよ」
「そうそう。杜花を感知するなんとなくセンサー」
「たぶんアリスさんも搭載してますよねそれ」
「でしょうね。これも妹達の愛のなせる技ね」
「それとなく私を除外するなし。あー、ま、お二人仲良くやるといいさー」
「サキ、拗ねましたか」
「べべ、別に拗ねてないし! ふん」
 そういって、早紀絵はそっぽを向き、ずかずかと去って行く。今に始まった事ではない。五分後くらいには機嫌を直しているだろう。
 彼女は市子が嫌い、という訳ではないらしい。
 ただ、市子が居ると杜花の傍に居られる時間が減るのは間違いないので、このお嬢様の扱いには困っている事だろう。
「さて」
 温めたシチューを皿に盛り付け、サラダやパンを台車に乗せる。配給も慣れたものだ。
 基本的に、朝食と夕食は全員が揃って取る事になっているが、文化祭準備期間は本当に例外だ。
 市子にドアを開けて貰い、渡り廊下を通って食堂棟に赴く。食堂棟には人影一つない。市子がいなければ、寂しい夕食になった事だろう。
「静かな食堂って寂しいわね」
「ええ。普段は賑やかですからね。御姉様、ハイ」
「ありがとう」
 二人並んで座って食事を始める。
 普段常に一緒に居るが、二人きりで、食堂で食事は恐らく初めてだろう。
 美味しそうに大きく食べる杜花と違い、市子は美味しそうに小さく食べる。
 杜花はどうしても、周りと食事のペースが合わない。
 ヒトがいる場合、極力合わせようと努力はするのだが、食べる事が好きな杜花は、なるべくなら誰にも邪魔されず、静かで、満たされた食事をしたのだ。昼食などは誰の誘いも受けず、殆ど一人で食べる。
(スープを啜る音もしない、パンを千切る仕草一つが綺麗。こうはなれないなあ)
 ふと不思議に思う。
 当然といえば当然なのだが、暮らしている環境は殆ど同じなのに、差異は出る。
 市子は実家から通っている為異なるが、この寮に暮らしている生徒達は、その殆どが同じ時間を共有し、同じ学校で同じ授業を受けて同じような生活をしているのに、皆個性が違う。
 当たり前だ。人は違う。だが、ではどうしてと言われた場合、答え難い。
「杜花、そんなにジッと見られたら、食べ難いわ」
「ごめんなさい。御姉様の食べ方が、綺麗だから」
「杜花も美味しそうに食べているじゃない?」
「うーん。そうなのですけれど。これは、なんとなく思ったんですが、みんな同じような暮らしをしていて、同じ指導を受けるのに、大きな差が出るって不思議ですよね」
「そうかしら。同じになってしまったら家畜だわ。私達人間が一人として同じものが居ないのは、理由があるのよ」
「はて。遺伝子?」
「いいえ。経験と記憶よ。個々人に含まれるロジック。自分には何が必要で何が不要か、何を無視して何を気にするか。何に興味を示して、何に興味を示さないか。経験と記憶の取捨選択が人間を作るの。もし、同じ遺伝子を持った双子が居たとしても、同じ人間にはならないわ。例えばクローンだったとしても、二人のクローンが興味を示す事が違えば、違う人間になる。だから、不思議でもなんでもないわ」
「効率的な取捨選択をして、同存在になる事は?」
「人間は、非効率な生き物なのよ。本来生殖などあり得ない、同性を好きになってしまったり、ね」
「じゃあ、効率的な取捨選択を強要したら、同存在になるでしょうか」
「面白い考え方をするのね。でも、どうかしら。人間って、簡単じゃないわ」
 ふふふと、市子が笑う。
 当然と言えば当然で、大して熟考する必要もないような話でも、市子は取り上げて意見する。
 上からでも下からでも、市子が口にすると嫌味に聞こえない。どうやっても、この人間と同じようにはなれないだろうと、妹ながらに思う。
「それにしても……杜花」
「はい」
「……貴女、もてるわよねえ」
 何の話かと思えば、市子御姉様は気を揉んでいらっしゃった。
 立て続けに三人。
 杜花を持ち上げようとする人物に出会えば、確かにそのような印象も付くだろう。
「風子先輩に、アリスさんに、サキですか?」
「ええ。私は、慕ってくれる人が、喜ばしい事に沢山居るけれど、杜花とは違うみたい」
「サキに関しては性的な意味で、が付くと思います。あの子、気が多くて」
「じゃあ、風子ちゃんとアリスは?」
「風子先輩は、総合に誘ってくれた恩人ですし、アリスさんはその、幼馴染ですし」
「ふぅん……」
 市子が遠くを見る。明らかに、やきもちだ。
 杜花は『七星市子に嫉妬させている』という満足感に、思わず下品な笑いが漏れそうだったが、グッと堪える。市子のこんな姿が見たくて、杜花はたまに他の女の子と仲良くしている所を見せつけたりもしていた。
 自分があまり性格の良い人間でない事は、十分承知である。
「後で教えてあげます」
「そう……でもその、貴女を、そういう風に想ってる人って、どのくらい、居るのかしら?」
「それを知って、御姉様はどう考えるんですか?」
「どうも、しないわ。うん……ご、ごちそうさま」
 市子が逃げるようにして、食器を片づけて行ってしまう。
 お話は後だ。御姉様と妹、では話せる話題ではない。
(市子可愛い。可愛いなあ。ああ、本当に)
 そんな姿を見て、胸の奥が熱くなってくるのが解る。
 今日は素晴らしい日だ。市子に、存分に教えてあげられる。
 どれだけ欅澤杜花が、七星市子しか見ていないかを。

 ……。

 ヒトに見られてしまう。汚らしい私が晒されてしまう。
 どうして、何故、そんな辱めを、受けねばならないのか。
 私が一体何をした。
 やめて、七星二子。やめて――

 ……。

 杜花はわざとらしく、後ろ手で部屋の鍵を締めた。市子が小さく反応する。
 市子は寝具も用意していたが、杜花が許さなかった。
 ブラウス一枚を羽織っただけで、ブラもつけていない。辛うじてショーツは身につけているのだが、それもだいぶ、少女らしからぬ黒く薄手のものだ。
 杜花が近寄ると、座卓の前に腰かけていた市子が、ほんの少しだけ引く。
 長い髪が真っ赤になった顔を隠す。
「杜花、趣味が、悪いわ」
 批難する声を無視し、隣に腰かける。白く滑らかな太股に手を這わせ、耳に齧りついた。
 市子が声を上げる。これから、何をされるのか、不安と、期待があるのだろう。
「そのつもりで来たんでしょう。暫くは忙しくて、放課後は一緒に居られなかったし」
「そう……だけれど。も、もっと、情緒があっても」
「情緒で楽しめるような、高尚な人間ではないの、私は。知ってるでしょ?」
 息が荒くなってくる。今すぐ床に捩じ伏せて、嫌だと泣き叫ぶ姿を蹂躙したい。
 ただ、久しぶりであるから、いきなり乱暴にするのも良くないと、一応の理性は働かせる。
 今、杜花の部屋には、学院最大のタブーが二つ存在する。
 誰からも慕われ、誰にでも認められる彼女が、女に責められて悦ぶようなマゾヒストであると、一体誰が知っているだろうか。
 そして、女が泣き叫ぶ姿を見るだけで無上の歓びを感じてしまう人間が市子の妹だと、誰が知っているだろうか。
 早紀絵もアリスも、知らないものだ。
「市子の汗の匂い、すごくえっち」
「貴女が洗うなというから……恥ずかしい……」
「下の方も、凄い匂いがするんでしょうね」
「あくっ……」
 敢えてベッドには行かない。至高の彼女を杜撰に、無配慮に扱うのが良かった。
 自分という大した存在ではない人間に、好き放題されるというギャップがまた、杜花の下品な思考を満たす。
「あーあ、もう濡れてる。市子、期待しすぎじゃない?」
「あ、貴女に触れられると、そう、なってしまうの。いいえ、そう、させられてしまったの……」
「初めにこんな事を私に教えたのは、市子なのにね?」
 初めて二人で交わったのは、小等部の六年生の頃だ。
 ちょっとだけいけない事、などという秘めたる気持ちで、隠れてはキスをしていたが、やがて市子の方から杜花へ愛撫を行うようになった。
 杜花の身体は幼少から発育が良く、生理も来るのが早かった。敏感で、市子も反応が楽しかったのだろう。
 中等部の一年で、二人同時に処女を失った。
 放課後の空き教室だ。
 夕暮れの光が注ぐ中、机に腰かけた二人は、陰部に中指を挿入し、一緒に貫きあった。
 杜花は痛みに強く、そのじんわりとした刺激と、市子のモノになったという満足感から酷い恍惚を得ていたが、市子の場合、自己が満たされた幸福と共に、痛みが快感だったらしく、杜花が指を前後に動かしただけで、彼女は達してしまっていた。
 自分と市子の違いが明確になったのが、あの頃だ。
 生殖行為にならない性行為は、子供が出来ないという『ある意味のメリット』のお陰で、エスカレートする。市子は痛がりながらも悦び、市子が痛がる姿を見て、杜花が歓ぶ。
 覚えたてのウチは、狂ったように求めあっていた。高校生になり、落ち着きこそしたが、二人は行為に対して互いの補完を強く見出していた。
 肉体的に精神的に、深く繋がる事で、誰も入り込めない世界を作り、依存しきっていた。
「市子」
 覆いかぶさり、何度となくキスをする。唇を通じて得られる快感は、性器を直接弄るようなものとは違い、甘く、強い。
 唾液を絡ませ、飲み、飲ませている間に、市子はすっかりと出来あがってしまっていた。
「こんなだらしない顔、他の人が観たら腰を抜かすでしょうね」
「み、見せられないわ……杜花にしか見せられない……」
「本当に? 本当はもっと皆に見て貰いたいんじゃないの?」
「だ、だめ。そんなことしたら、恥ずかしくて、死んでしまうわ」
「でも、居友とは仲が良いよね。アレには見せられるんじゃない?」
「み、見せられないわ。見せるわけない……」
「あーあ、市子に浮気されちゃった。可哀想な私」
「ち、違う。違うの、だ、だって、二人で、お話したでしょう? 居友さん達と敵対しないようにって……も、もりかぁ」
「でも私、もてますから。他の人に拾って貰います、御姉様」
「あ、いや、嫌だ。ダメ、杜花、他の人なんて、ダメ。私と居て、ね、ねえ? 何でもするから、本当に何でもするからぁ」
 よがる市子に理不尽な話をぶつけて楽しむ。当然市子も理解してそれに付き合う。
 二人で一人だ。
 どちらかが欠ければ、どちらかも死ぬしかない。
 ただ、そんな危機感をあおるだけで市子は喜ぶ。不幸になってしまう自分を想像して幸せなのかもしれない。
 市子の首筋を、ほんの少しだけ強く噛む。制服を着ていればバレ無い程度の痕が残った。重ねて強く吸いつき、耳元で囁く。
「今日、風子先輩との間に割って入ったでしょう」
「あ、う」
「普通貴女なら、お話が終わったタイミングを見てくるのに、風子先輩の時は急に入って来た」
「は、はい」
「アリスさんとの時も、なるべく早く遠ざけようとした」
「う、うう」
「サキの時なんて、どんな速さで戻ってきたの? 市子は、サキが怖いんだ」
「だ、だって……」
「迷惑ですね。折角みな、私の事を気にしてくれるのに、貴女は直ぐ遠ざけようとする」
「い、いやなの。杜花は、私のなのに。みんな、可愛いから、杜花が取られちゃうかもって、怖いの……さ、早紀絵なんて、もうずっと貴女ばかり見てるし……し、して、ない、わよね? 早紀絵と、キスも、エッチも……して、ないわよね?」
「さて、どうでしたっけ。サキは手が早いから」
「や、そんなあ……杜花、ダメ、杜花は、私の。ずっとずっと私のなんだから……」
 泣きだした市子の顔を眺める。滴る涙を舌で舐めとる。
 そんなわけが、有る筈もないのに、市子は不幸な自分に酔っている。もしかしたら、という微少な可能性に自分の全てを重ねて、愛する人を取られた悔しさを噛みしめている。
 市子の陰部に触れていた杜花の太股が、生温かくなる。焦点が合わず、強く震え、杜花を抱きしめる。
「くふっ……くっ……変態。市子は変態だねぇ?」
 なんて可愛らしい生き物なのか。
 なんていじらしい生き物なのか。
 これが学院の代表?
 これが日本最大財閥当主の長女?
 虐められてよがってイくような変態が?
 こんな、体力だけが自慢のような、おかしな女に責められて?
「あうっ……くふっ……あ、うぅうぅ……」
「うーそ。市子、全部嘘。私は市子しか見えない。市子にしか見せない。市子にしかしない。市子としかしない。私と貴女は産まれた時から、こうなる事が運命づけられてるの。だから離れようなんて思わない、離そうなんて思わない。私の半分は市子で出来てるんだから。可愛い、市子、可愛い。一杯愛して。一杯愛してあげる。ずっとずっと、死ぬまで、死んだあとも、生まれ変わっても、何度と繰り返そうと、私はずっと貴女の傍に居る。市子、市子――」
「うん……うん。ずっと一緒だから……離れないから……貴女は私の、私は貴女のものだから……好き、杜花、大好き……」
 市子しか目に入っていない。
 周りにどれだけ沢山輝かしい宝石があろうと、杜花には市子しか見えなかった。
 同時に、市子もまた、杜花しか見えなかった。
 これからも片時も離れず一緒にいるのだ。
 例え、死が二人を別とうとも。
「してあげる。市子の汗臭いあそこ、無茶苦茶に掻き回してあげる。二回三回程度じゃ終わらせないから」
「嗚呼――」

 ……。

 ぎちり。
 ぎちり。
 ぎちり。

 ざりざりと、音がする。

 思考をねじ切る。干渉を引きちぎる。脳が火であぶられるような痛みがある。

 例え脳幹が切れようとも、ここから先は、絶対に見せない。私と市子の、間に、入って、来るな。

 例えお前が、七星市子の妹でも、これ以上するならば、私は、お前を殺す覚悟がある。

 比喩でなく。

 脅しでもない。

 冗談で済ませられるなら、殺意はいらない。

 今すぐ、やめろ。

 ……、……、……。
 ……、……。
 ……。
 ……、……。
 ……、……、……。。

 ……。

 相手は柔道主体の選手だ。柔道ではIHで三位、国体では優勝。国際強化選手としても選ばれており、今後を期待される選手である。
 総合では東北ブロックで二位の成績を収めている。格闘センスは一級品だろうが、いかんせん打撃練習が少ない。顔を殴る事に対して、引け目を感じているのだろう。
 その様子では今後勝ち残ってはいけない。
「フッ――」
 杜花の放ったボディーブローがまともに神野の腹部を貫く。もんどり打って倒れるかと思ったが、神野はタフだった。
 しかし食らってしまった後では遅い。
 杜花は首を下げた神野の頭と腕を脇に抱え、自分の身を後ろに捨てる。
 綺麗に一回転し、縦四方固めのような体勢になる。このままでは脇腹に拳を受けてしまうが、残念ながら杜花はそんなに甘くない。
 初めに抱えた首の骨がギリギリの前傾になって痛めつけられ、挙句首を絞められている故に、殴るどころの話ではないのだ。
 神野がタップし、レフリーがストップをかける。
 ゴングが鳴り響き、杜花はリングの上で手を挙げた。
 息を荒げる神野に対して手を差し伸べる。『どうにもならない相手』とやりあった人間は、もはや悔しさを露わにする事すら馬鹿らしくなってしまうらしく、素直に手をとった。
 少女たちの歓声が聞こえる。格闘技日本の用意した特設ステージは大盛況であった。
「加減したねえ」
 風子がタオルと飲料を持って現れる。試合時間は約二分。
 二ラウンドは厳しかったが、いつもより伸びた。
『相手が全力で来るのに加減するなんて失礼』などという考えは杜花にはない。加減される相手が悪いのだ。
「やあやあ、やっぱすごいねー欅澤選手」
「ああ、どうも」
 ステージの裏で待っていたのは、格闘技日本の雑誌部門記者の女性だ。細い身なりをスーツで固めており、まさしく出来る大人の女性といった趣である。
「今年の世界大会は棄権するって?」
「はい。長い時間外に出るのはちょっと。学校が好きなんです。ごめんなさい、期待に応えられなくて」
「小山選手が代表になるの。本人は嬉しさ半分悔しさ半分みたい」
 小山というと、以前優勝を争った山のような女性だ。
 様々なプロ団体からお呼びがかかっているらしく、酷い怪我をしない限り今後は安泰だろう。
 杜花はというと、各種スポーツ団体、アイドル事務所、マスコミ各社、数えればキリが無いオファーがある。どれにも行くつもりはない。が、アイドル事務所は少し気になった。
「彼女なら勝てますよ」
「欅澤選手がちょっと異常なまでに強いだけで、小山選手も半端じゃないからね。でも今後は?」
「機会があれば、絶対出ない、とは言いません。心変わりもあるでしょう。その折はお願いしますね」
「まかせてえ。あ、一枚いいかな?」
「はい」
 ファイティングポーズを取る。写真うつりには自信があった。
「……胸でかいなー……」
「ど、どこ撮ってるんですか。記者のおじさま達じゃあるまいに」
「いやー、自覚あるか知らないけどさー。これ一枚でウチの資金源の雑誌さ、アホみたいに売れるんだよね。いまどき紙の雑誌がそんな売れるって無いよ? というわけで今後の格闘技日本を支えると思って、どうか!」
「……じゃあ、もう少し撮りましょう」
「お?」
「そして袋とじにしてしまいましょう。なんかちょっと前のグラビアアイドルっぽい」
「あはは! 良く知ってるねそんなの! いいよ、編集長だって二つ返事さ! というかお願いしちゃうよ。まかして! おい、レフ! カメラ! ライト! 欅澤選手綺麗に撮るんだからはやくはやくっ」
 スタッフが素早い動きで広告カキワリやら撮影道具を一式そろえてやってくる。
(駆け出しのアイドルっぽい)
 乗せられてるな、と想いつつ、悪い気は全然しなかった。むしろ、杜花がこんなことまでしてる、と知った市子がヤキモチをやく姿を想像して、嬉しくなる。別に裸になる訳でもないのだ、これで喜ばれるなら安いものである。
「選手、グラビア写真集出さない?」
「それは調子良すぎです」
「おお、怒られちゃった。まあま、今回のイロ付けて置くからねー、はい、笑ってー、あ、可愛い……」
「記者さん、お名前は?」
「え? 和泉三重子だけれど」
「三重子、ちゃんと撮ってくださいましね」
「あ――は、はい」
 それから三十分ほど撮影とインタビューに付き合い、解放されたのが十二時を回った所であった。
 ノリにまかせてサービスをしすぎた所為か、記者の女性はすっかり杜花に執心であった。今更ながら、自分は大概な人間だなと、少し反省する。
「きょ、今日は有難うございました……その、また、機会がありましたら……む、むしろ個人的にその、あ、これ、私の携帯番号です。お声がかかれば、いつでも、飛んで行きますから、御姉様」
「おね……和泉さん?」
「み、みえこでいいです……」
 スタッフから『あの男勝りが……』『たまげたなぁ』などと声が聞こえてくる。流石に遊び過ぎた。
 名残惜しそうにする記者に手を振り、ステージを後にする。
 本来なら直接市子の所へ向かいたかったが、小腹が空いて仕方が無い。時間的にも頃合いだ。食堂へ行けばありつけるだろうが、それでは本格的な食事になってしまう。昼食は市子と食べたい。
 では、と思いつき、杜花の足は自分のクラスへと向かった。
 が、杜花の考えは少し甘かった。
 教室へ向かうまでの間、とにかく引き止められる。
『杜花様ですわ!』『チャンプの? あんなに美人なのに?』『サイン貰おうサイン!』『ご一緒にお茶は如何ですか?』『杜花先輩一緒にお食事を』『首絞められたい』『ほねおられたい』『三角締め……』などなど、たまに間違ったものも混ざっていたが、教室に辿り着くだけなのに二十分近い時間を取られた。市子ならばもっと上手くかわすだろうにと思う。
 やっとの思いで高等部第二校舎二階の一年二組の前に辿り着く。
 前日には訪れていなかった為、その変容ぶりに驚く。
 普通、文化祭程度の喫茶店なら、教室に多少の装飾を施して終わりだろうに、一年二組はもう外観からして変わっていた。
 壁は全て板張りに張りかえられ、窓の部分は古風なステンドグラスに差し替えてある。入口も引き戸であった筈なのに、開き戸になっており、何処から持ってきたのか、扉自体も周りに合わせて木製だ。
(恐るべしアリスプロデュース……)
 彼女には手抜かりなどという言葉が存在しない。一日でどうやって仕上げたのだろうか。その手際に恐れ入る。
 扉を開くと鈴が鳴る。
 眼の前に広がったのは、矢柄に袴、そして白いエプロンをつけたお嬢様方の姿だ。いらっしゃいませ、という声が木霊する。
「ああ、杜花様! いらっしゃいましたのね!」
 妙にテンションの高いアリスが寄ってきて、早速杜花の手を掴み、座席へと案内される。机も教室机ではなく、ちゃんとした調度品だ。金髪に純日本ファッションが実に眩しい。
「可愛いですね、アリスさん」
「ふえ?」
「凄く似合います。それは市子御姉様にも見せてあげませんと」
「ふ、あ、あ、あはは。そ、そうですの。可愛い。私が?」
「はい。そりゃあ、もう。とても」
 余程衝撃があったのか、アリスは白い顔を一気に紅くする。
 そこまであからさまだと、杜花も誤魔化しようが無い。
「杜花様」
「はい?」
「もう一回言ってくださいまし」
「アリスさんはとても可愛いですね」
「うっ」
 アリスがふらつく。倒れそうになるのを立ち上がって支えると、周りから黄色い声があがった。
「ほ、本当にこういうので倒れる人いるんですね」
「す、少し過激でしたわ……、ちょっと、休んできます」
「え、ええ。お大事に」
 ふわふわと覚束ない足取りでアリスが去って行く。どうしたものかと、取り敢えず椅子に腰かけた。
 喫茶自体は盛況で、席は大体埋まっている。見た事もない制服の生徒が沢山おり、なんだか不思議な感覚があった。
(あ、セーラー服だ。可愛いなあ。ウチは小等部だけなんですよね、セーラーっぽいの)
 セーラー服の生徒と眼が逢う。反らすのも不躾なので、軽く会釈した。生徒は顔を赤らめて伏せる。
「杜花お嬢様」
 愛想を振り撒いていると、アリスの代わりに他のウェイトレスが注文を取りに来る。
 見知った顔に、なれない呼び方だ。
「兼谷さん、指導だけじゃなかったんですね」
 兼谷は静かに頭を下げる。市子お付きのメイドは、確か市子の計らいで皆の給仕指南役を買って出ていた筈だ。
 茶色いショートヘヤーに切れ長の目、均整のとれた体つきが、雰囲気からして無駄が無い。
 出来る女性を形にしたような人物で、他の少女たちと違い、奉仕する様が瀟洒極まる。
 杜花の眼で見ても、その体幹がまっすぐで、雰囲気に隙が見当たらないのだ。
「はい。何せここのお嬢様方の世間知らずぶりときたら、どこの田舎で育ったんだよと言わざるを得ませんので」
「あ、相変わらずで」
「まあ、私の田舎には敵いませんがね」
「兼谷さんって、どこの……日本じゃないですよね?」
「経済崩壊したヨーロッパのとある国のド田舎です。日々の食事にも困るようなクソ田舎です杜花お嬢様」
「一郎氏はとんでもない人拾ってきましたね」
「まったく。モノ好きでスケベな方です」
 恐らく、この日本においてこうまで大々的に七星一郎をスケベ呼ばわりする人間は兼谷しか存在しないのではないだろうか。
 ただ、兼谷は一郎、市子共に大きな信頼を置かれている故に、その扱いは唯のメイドではない。
「それで杜花様、ご注文をお伺いします」
「では、このクランベリーパイと、ショコラケーキと、お勧め三点スイーツ盛りと、紅茶をください」
「一人スイーツパーティでも開催なさるおつもりですか?」
「動いたので」
「ああ、先ほどの試合ですか。杜花お嬢様、相変わらず脇が甘い」
「反省してます」
「だからボディブローで一発KO取れないんです。杜花お嬢様は投げが主体ですから、致し方ないでしょうが」
 どこで観ていたのか、すっかり批評されてしまった。格下相手、確かに手抜かりがあったかもしれない。こういった件に関して、兼谷は辛辣で的確である。
「良く見てますね」
「はい。いつかは戦わねばならない相手ですし」
「え?」
「市子お嬢様を持って行くなら私を倒すか、私をメイドにするかしないといけません」
「あの……他の方には、あまり……」
「大丈夫です。一郎様しか知りません」
「いやそこ一番話しちゃまずいところでは?」
「大丈夫です。知っての通り七星一郎という女たらしは妾だけで果してどれだけいる事やら。そのオヤジの娘が学院で女を垂らしこんだ所で怒る筈もありません。子供は何時作るという話もしていましたね」
「あわわわわ」
「産婆でも乳母でもお任せください。どちらが孕むか知りませんけど、必ず完璧に取り上げて差し上げます。では」
 とんでもない発言を残し、兼谷が去って行く。恐ろしい人物だ。
 そしていつの間にか親公認になっていた。
 今後市子と付き合って行く上で避けて通れない道だと思っていたのだが、もう既に通り過ぎていた感がある。
(将来の悩みが一つ消えてしまった……えへへ)
 市子との百合色の未来図を脳内で描いていると、やがてケーキが運ばれてくる。
 運んできたのはクラスメイト……なのだが、一人恰好がおかしい。
 周りの生徒は皆矢柄に袴だというのに、彼女一人だけウェイターである。
 白いシャツに黒のウェイターベストを着こみ、腰に小さなエプロンをひっかけた痩躯の王子様のような彼女は、銀のお盆が実に良く似合った。
「……サキ?」
「やあ。おつかれ」
「誰かと思いました。やだ、カッコいいですねそれ。細身のサキに良く似合います」
「ああ、そういって貰えると、着た甲斐があるよ。実はもうね、これで外歩くとモテちゃって……えへへ」
「解る気がします」
「これから三人とデートしなきゃいけないのよん。4Pは流石に初めてだなー」
「そういう発言さえなければ良いんですけど」
「あ、モリカ、ヤキモチやいた?」
「いえ別に」
「ぐふっ。し、辛辣だあね……そういえば一人なの? 市子のアレは?」
「小腹だけ埋めようと思ってきたんです」
「小腹埋めるのにこれだけ食べるってのも……じゃあ私も付き合おうか……」
 と、言ったところで、制服に着替えたらしいアリスがズカズカと近づいてくる。
「ウェイターさん、お茶をいただける?」
「あ、アリス?」
「ほら、仕事してくださいまし。それでなくても午前中はその格好で女の子引っ掛けてたでしょう」
「そ、そーだけどもさ、お昼だしさ、モリカとお茶……」
「それはいけませんね。サキ、お仕事してください」
「ぐぬぬ……わーたよぅ。お茶ねお茶」
 アリスが正面に座り、機嫌よさそうに微笑む。どうやら体調は良さそうだ。
「もう良いんですか」
「ええ。丁度お昼ですし」
「サキの恰好、似合いますね」
「そ、そうですわね。うん」
「アレは流石サキとしか言いようがありませんね。アリスさんも好きでしょう、ああいうの」
「そ、そんなことありませんけれど」
「衣装を用意したのは?」
「私です」
「一着だけ?」
「はい」
「誰用に?」
「早紀絵さん用に……って、ああもう、ええ、そうですわよ。だってあの子の男装見たかったんですもの。ああ、凄く似あう凄く……」
 恥ずかしそうにするアリスが可愛く、思わず笑ってしまう。
 恋多き乙女であるアリスがほほえましくて仕方が無い。
 杜花も、市子がいなければもしかすれば、この二人に靡いていたかもしれないのだ。それほどに、杜花も、アリスも、早紀絵も、距離が近い。
 勿論、市子無しに今の杜花はあり得ないのだから、今後も可能性として存在しない人間関係だ。
「ケーキ、どうぞ」
「あら、では」
「サキも」
「ふあ……んく。はい?」
「サキもアリスさんが好きですよ」
「げっほっ……なな、何を言い出しますの、杜花様」
「あの子、本当に好きな子には、直ぐ手を出したりしないんですよ」
「……それは、杜花様も含めて、という事ですの?」
「ええ」
「……それはなんだか……辛いですわね。早紀絵さん」
「――そのうち、ちゃんと応えてあげませんと」
 市子と杜花がどこまで進んでいるのか、明確にはアリスも知らないだろうが、市子と杜花がただの姉妹ではないとは自覚しているだろう。
 故にどうあっても、早紀絵の想いは杜花には届かないのだ。
 遠くない未来、ちゃんと断らねば示しが付かない。早紀絵の一方的なものだが、自覚した上で無視し続けるのは気分も都合も礼儀も悪い。
「ああ、ごめんなさい。こんな話をして」
「いえ。でも、そ、そっか。早紀絵さん、私の事……」
「あ、サキ」
「え?」
「嘘です」
「も、もう、杜花様ったら」
「ふふ、ごめんなさい」
 なるべくなら……禍根は残したくない。
 皆が笑えて、幸せになれる方向が一番良いに決まっている。
 姉妹の関係も、早紀絵との関係も、永遠ではない。あと一、二年の間に、全てはガラリと変わってしまう。この箱庭は限定された楽園なのだ。



 お茶を持ってきた早紀絵を弄ったり、紅くなるアリスを弄ったり、喫茶店として楽しんだかどうかは別として、とても良い休憩が取れた。
 手土産も用意して、早速市子がやっている占いの館にまで赴く。
 個人、とは言っていたが、名目上は部活動からの出店だ。何せ文芸部は部員が一人しかいない。
 部活棟にまで赴き、一番奥の部屋までたどり着く。元から簡素な造りの部活棟であるから、凝りようが無いのは仕方が無い。
 文芸部室の扉には小さく『文芸部出店 思占館』という張り紙があった。その下には『現在占い中』の注意書きがあった。
 ちなみにインチキである。
 暫く表で待っていると、他校の生徒二人が出てくる。
 手を繋いでいる様子、その仕草から、カップルだと解る。
(ああ、カッコイイ系とカワイイ系の、典型的なカップル。私と市子は……ビジュアル的に、っぽくないんですよね)
 二人とも黒髪ロングだ。妹の方がでかい、というのもある。傍から見るとどう映っているのか。
「失礼します」
「はい、いらっしゃい……、あら、杜花、来てくれたのね」
 濃い紫色のビロードがかった垂れ幕で覆われた部屋。正面には客用の椅子と机が二つ、正面には市子が坐している。演劇部から小物を借りて来た、というだけあり、あちこち装飾が多い。いっちょまえに水晶玉などもある。
 市子本人は、というと、いつもは前で揃えている髪を分け、長い後ろ髪を高い位置で一本に結んでいた。
 衣装は黒くて長めのドレスワンピースである。自前だろう、安モノ感が一切ない。指にも曰くありげな指輪を幾つも嵌めている。
 確かに、何かしてくれそうな雰囲気があった。
「御姉様、胡散臭いです」
「杜花、あのね、そこは綺麗ですとか、可愛いですとか、普段と違って素敵ですとか、色々あるでしょう?」
「素敵で美人で可愛いのはいつもの事でしょう。胡散臭さを目指したのでは……?」
「……なるほど、なら正当評価ね。うん。ふふ」
 長い付けまつげを揺らして、市子が笑う。化粧も少し濃いめなのは演出だろう。
 しかしながら、その格好で表を歩くのは……いささか難がある。
「実は御食事に誘いに来たんですけれど」
「あら、もうそんな時間? 行列とまではいかないけれど、ひっきりなしに対応していたから」
「宣伝してないですよね」
「したら私一人じゃどうにもならないから、ひっそりよ」
 そういって、市子は表に顔を出し、表の注意書きに何か書き加えて戻ってきた。恐らく『お昼休憩』とでも書いたのだろう。
「さて、杜花は占わないの?」
「インチキじゃありませんか」
「そうそう。ここにあるタロットもトランプも水晶玉も八卦も何もかもただの飾り」
 占いっぽいものは沢山あるが、それらは一切使用されていない。全ては市子の頭の中で処理される。
 所謂魔法だ。
 他の人間が聞いたのなら笑い転げるであろうソレだが、市子の力は冗談にならない。効力に差はあるが、相手の思考を読み取ったり、幻惑を見せたり出来るという。
 如何せん杜花の場合精神が強靭すぎるらしく、効き目は薄い。
「杜花は効き難いのよね。じゃあ悩みはあるかしら。お悩み相談も受けるわ」
 そういって、謎の動きで水晶玉をこねくり回す。なんだか面白がられているようで癪だったので、面白くしてやる事にした。
「……実は恋人がいまして」
「ええ、ええ」
「知らない間に恋人のお父様からも許可が出ていたらしく……将来結ばれる事が決まってしまいました」
「――え?」
「実は同性で、まだ学生身分ですけれど……本気で愛しているんです。絶対に幸せにしてみせます。ただ……」
「た、ただ?」
「私、格闘技団体やスポーツ団体やアイドル事務所やマスコミやその他諸々からオファーが多くて、今後そういった職業に付きながら、彼女をどう幸せにして行けばいいのか悩んでいます。私がお嫁さんになった場合、彼女の家はとても立派なので、それこそ外にも出して貰えないんじゃないかと不安があります」
 市子は、鯉のように口をパクパクさせてから、咳払いを一つする。
「ええとまずその……一郎……じゃなくて、彼女のお父様だけれど……そのお話は、どこから?」
「彼女お付きのメイドさんからです。まず冗談は言わない人ですし」
「あ。そりゃ確定です。間違いありません。お父様に喋るなと言ったのに……でもそんな簡単に許可が出るなんて」
「どうしましたか占いの先生」
「いいえ。そう、では今後の憂いは無くなったのね、おめでとう。ふふふ」
「有難うございます」
「それで、貴女の今後だけれども」
「はい」
「……た、たぶん、彼女は彼女の苗字を名乗って欲しいだろうから、お嫁さんになるのが一番だと思うわ。あ、貴女のお名前は……杜花さんね」
「ワアスゴイ、ナンデワカルンデスカ」
「……七星杜花。うん。姓名判断的にもかなり良い線です。間違いありません。そうするべきです」
「凄い速さで姓名判断しますね」
「前に何度かしてみたし……じゃなく、凄いんです。それで今後ですけれど、ええと、な、なるべく毎日御顔は観たいと思ってるかもしれませんね。なのであまり忙しい職につかれると、彼女が拗ねると思います。というか彼女のお家の仕事を手伝えば良いと思います。うん。秘書とかどうでしょう。秘書の杜花さん。ボディガードも兼ねてますね」
「……秘書でボディーガード。あ、凄い良いかもです。出来る女っぽいです」
「ええと……ちょっと待ってて」
 市子は、杜花との間にカーテンを引き、後ろに下がってしまう。
 何事かと思って数分後、いつもの市子の姿で現れた。
「あ、御姉様」
「えっと、杜花?」
「はい?」
「……その……こ、今後とも……宜しくお願いします……」
 顔を真っ赤にし、静々と市子が頭を下げる。
「こ、こちらこそ」
 普段、あれほどの事をしているというのに、何か初々しい気持ちになる。改めて、この子が好きなのだと再認識し、胸がいっぱいになった。
 市子を抱き寄せて、頬にキスをする。
「そっかあ。一郎お父様、許可してくれたのね……そうだ」
「はい?」
「指輪が欲しいわ」
「……ファイトマネーとスポンサー費とメディアの売上で確か……うん、結構ありますから、貧相なものをプレゼントしたりはしません。七星市子を飾って恥にならないものを……」
「違うの。作りましょ」
「ああ、もしかして、シルバークレイで?」
「ふふ。そうそう。いいでしょう? 今度の休みは杜花も外に出れるよう学院長に『お願い』しておくから、デート。ね?」
 市子は余程嬉しいのか、いつもより声が高く、上ずっている。
 一番の障害かと思った父からの許可がこんなに簡単に出るとは考えていなかったのだろう。そもそも不許可だったとしても、杜花も市子も駆け落ちぐらいする気でいた。
 いても良いのだ、ずっと一緒に。何の後ろめたさもなく。
「……市子」
「あっ、う、はい」
「お腹空きました」
「ヤダもう……ならそう早く言って頂戴」
 照れ隠しに腹の具合を言い訳にするのは、乙女としてどうなのか。ただ、市子は幸せそうだ。
 本来なら校内で手を繋いだりはしないのだが、文化祭というお祭りならば許されるのかもしれない。ただやはり、相当目立つらしく、不本意にも視線は大量に集めていた。
「お、御姉様、みんな、見てる」
「良いんです。もうさっさと結納済ませて籍入れちゃうのだもの。ああ、式はどうしましょう? 欅澤神社で良い?」
「結婚式の自給自足っていうのも……そもそもあの小さい神社じゃ、七星関係者収まりきりませんよ」
「何万人来るかしら」
「何……万……?」
「そりゃあもう! 式場周辺に経済効果をもたらすレベルだもの」
 こうしているとスッカリ忘れてしまうが、七星市子は七星の長女だ。関係者だけで何万人いるともしれない。その人間が一斉に動いたら、そりゃあ経済効果も産まれてしまうだろう。
 ……ドーム貸切……も、あり得る。
「こ、こぢんまりが良いです」
「ダメ。これから次世代を担う私達が、同性で結婚するのよ? 社会現象化すらあり得るわ」
「マスコミ各社が絶賛する結婚式とか物凄く嫌です」
「絶賛しなきゃ提携切るって脅せば乗せるわよねきっと?」
「色々敵に回し過ぎですそれ」
「ふふっ、冗談よ。さ、ついたわ、あら?」
 食堂に付くと、丁度昼という事もあり、本校他校の生徒でごった返していた。
 取り敢えず注文だけを済ませて奥に進むと、個性の強い面々が席を陣取っているのが解る。早紀絵と、アリス、そして風子と火乃子だ。珍しい事もあるものである。
「杜花様、御姉様。今から昼食ですの?」
「おうー、こっちおいで。二人でいちゃいちゃさせないぞおい」
「このメンツでご飯とか食べるの始めてかも」
「わ、私居て良いのかな……」
「みなさんごきげんよう。実はね――」
「だー、あー、ダメです先走り過ぎです御姉様」
「くふふ。杜花あわてすぎ」
 市子が、華のように笑う。
 丁度良い機会だ、昼食後は、このメンバーで過ごすのはどうだろうか。
 文化祭は明日も続く。きっと楽しいに違いない。
 人間関係、様々とあるが、こうして仲良く笑って過ごせるのも、きっと今だけだろう。
 この後何をしようか。
 明日は何をしようか。
 近いうちに、市子とデートもある。
 クリスマスは、年末年始は、どうするんだろうか。
 もしかすれば、七星家に顔を出す事になるかもしれない。
 まだまだ高校生身分だ。学生らしい事もまだ楽しみ終わっていない。
 これからどんな未来があるのだろう。
 学院の外に出て、上手くやっていけるだろうか。
 市子の妻として、ちゃんと出来るだろうか。
 不安は大きい。
 けれども、それ以上の期待がある。
(……んっ)
 テーブルの下で、こっそり手を繋ぐ。
 市子が、悪戯っぽく微笑む。
 きっと大丈夫だ。
 彼女となら、何処にでも行ける、何処までも行ける。
 ずっと一緒に居られる。
 嗚呼――この幸せを、ずっと続けて行こう。
 自分達には、それだけの力がある。


 ……、……、……、……。

 止めて、止めて、止めて止めて止めて止めて止めて止めて――――!!!

 ……、……。

「――あー……」
 市子と一緒に作った指輪を、胸元に抱きしめる。
 欅澤杜花には、目の前の光景が良く解らなかった。
 どれだけ現実味があろうと、全てが空虚に流れて行く。
 棺の中から顔を覗かせる美しい彼女は、当然のように目を醒ますであろうと、信じて疑わなかった。
 何もかもがおかしい。
 何もかもが間違っている。
 自分を置いて、彼女が去る訳が無い。
 ずっと一緒に居たのだ。
 彼女の隣にいなければ、呼吸も出来ないのではないかと疑ってしまう程に、二人は傍に居た。
 白黒の横断幕も、煌びやかに飾られた仏前も、それを取り巻く人々も、何を嘆いているのか解らない。
 七星市子はここに居る。
 離れる筈がない、死ぬ筈が無い、喋らない筈がない。
 だから何も、悲しむ必要などない。
 葬儀の間、杜花はただ虚空を見つめていた。念仏は耳に入る事もなく漂って消えて行く。かけられる慰めの言葉も、半分以上が理解不能であった。

 何だそれは。
 この度は葬儀にお越し頂きまして。
 何だそれは。
 七星の次代を担う彼女の死は。
 何だそれは。
 さぞお辛いでしょう。
 何だそれは。
 どうか、気をおとさず。
 何だそれは。
 火葬。
 何だそれは。
 納骨。

 ――何だそれは。

「何ですか、それは」

 気が付けば、杜花は墓前に立っていた。
 ただならぬ気配に、親族一同が杜花を警戒し、警備員が駆け付ける。
 杜花の肩に手をかけた警備員の一人が、胸部にゼロ距離で掌底打を受け三メートル程吹き飛び、他の墓にぶち当たって気絶する。
 止めに入った他の人間は、なすすべなく地面に伏せた。
 杜花には状況が理解出来ない。
 地球の空気が無くなりましたと、言われたようなものだ。
 信じられるか、そんなもの。
 控えていたSPが拳銃を取り出して杜花を囲ったところで、一人の男性が前に出る。
「やあ、お嬢さん」
 見た所、三十後半ほどだろうか。
 声は軽く、身体も大きい。喪服を着る姿も、悲壮感を感じさせない、力のある空気だ。
 オールバックの男は、杜花の前に立ち、小さく礼をする。
「欅澤杜花君だね。兼谷、間違いないね」
 兼谷。市子のお付きだ。
 兼谷から話を聞いた男性は頷き、杜花の傍によって、一緒に墓を望む。
「市子の良い人か。それは礼を欠いた。父の、七星一郎だ」
「――おとう、さま。ですか」
「そう。七星の当主だ。市子の恋人だね。うん、兼谷から聞いている」
「あっ……お初に、お目にかかります。欅澤家長女の、杜花です。御姉様とは、懇意にさせて貰っています」
「うん。市子も隅に置けない。何時からだい?」
「小等部の頃から、ずっと一緒です」
「となると、すごした時間は僕なんかよりも長い訳だ。なるほど、それは、受け入れ難いね」
「あの、お父様。御姉様は。何か、皆、良く分からない事を、言っているのですが」
「死んでしまったよ。部室で首を吊ったそうだ。何故だろうね。そんな兆候は誰にも見せていなかった。事前の検診でもストレスは零という結果だった筈さ。その調子では、恋人の君も知らなかったんだね」
「死って。御姉様が、私を置いて、死ぬわけがありません。お父様、御冗談が、過ぎます」
「冗談で済んだら、葬式はいらないんだね。残念ながら、市子は死んでしまったよ」
「……そんな。毎日、一緒に居たのに。そんな」
 曇り空が泣きだす。
 降りしきる雨の下、市子の墓前には異様な光景があった。
 男と、少女と、それを囲う拳銃を構えた黒服が五人。
「……強い雨だ。良ければウチにおいで。話す事もあるだろう。おい、お前ら、いつまでそんな物騒なもの出してる。片づけろ。傘をお嬢さんに。さあ、行こう、杜花君」
 それから七星の本家に招かれ、食事をしながら市子の思い出を語った。
 七星一郎は杜花の言葉を聞きながら、その言葉を噛みしめるように頷く。
 学院において、七星市子はどれほどのものなのか。市子はあの時、この時、どうしたのか。普段の市子は、自分以外には見せない市子は、市子は――もう居ない。
 どれほど喋っただろうか。
 追いつけない現実と自分の記憶をすり合わせるような作業であった。
 七星一郎は一度も席を立たず、杜花の話を全て聞いていた。
「辛さは、後からやってくるだろう。彼女の死を自覚した時、君は君であれるだろうか。記憶とは残酷なものだよ」
「彼女との思い出を胸に、生きて行けるでしょうか。私は」
「どうだろうか。記憶とは魂そのものだ。君の心に彼女の記憶があれば、それは生きている事になるのかもしれない。ただそれでも、手にとれる人間としての形を得たものを欲したのならば、その限りではないだろう」
「ごめんなさい。七星一郎ともあろう人に、こんなに時間を取らせてしまって」
「学生身分が気にする事ではないよ。まして市子の恋人だ。きっと僕は君の支えになれるだろう。困った事があれば連絡してくれ。大半の事は何とかなる。何とかするような立場に、努力してなったんだ。僕は」
「ありがとう、ございます。お父様」
「うん。君が望むなら娘にだってしてあげられる。同じ七星の名を継げる。僕は君を気に入ったよ。流石市子が目を付けるだけの事はある。いつでも本当にお父さんと呼んでくれ」
 七星一郎が、就寝時以外に四時間の時間を取ったのは、後にも先にもコレだけだという。
 彼が止まると言う事は、大日本国が止まるという事だ。
 特別の配慮に感謝し、杜花は自宅へと送られた。
「お婆様、お母様、ただ今戻りました」
 玄関で出迎えたのは、祖母の欅澤花と、母の欅澤杜子だ。
 そのあと直ぐ、祖母の自室に招かれる。
 祖母はまだ54という若さだ。祖母も母も学院の卒業生で、卒業後直ぐに婿を取り、子供を儲けている。
 女系家族の典型で、一族の男は立場が弱い。
 特に祖母は界隈から『妖怪』とまで言われている。欅澤神道無心流の免許皆伝だ。
「七星の子だったね」
「……はい」
「そう。何故だろうね。どうしてかね。杜花」
「はい」
「心を腐らせるな。さすれば記憶も腐る。お前の記憶にある七星を殺したいのか」
「いいえ……」
「平静でなさい。泣くなとは言わない。無様な姿は皆も狂わせる。泣くなら一人で泣きなさい」
「……」
「――どうして、こうなるのか。因果か、呪いか。甚だ、運命は恐ろしい」
 本来なら道場にまで引き摺られ、投げ飛ばされていたところだろうに、祖母はそうしなかった。
 悲しむ杜花の気持ちを察したのか、それとももっと別な理由があったのか。杜花には少なくとも、その時判断するだけの頭は無かった。
 半身を殺され、殺された事を隠し続ける人間。
 欅澤杜花に、苦痛と絶望の日々がやってくる。

 ……。 

 ――いい加減にしろ。これ以上覗くな。
 ――いい加減にしろ。これ以上頭の中を穿り返すな。
 ――散々警告したのに。
 ――もう、許さない。


 ……。
 人一人、どこかで野たれ死んだ所で、杜花には全く関係のない話だ。
 例えどこかで戦争が起こり、何万人と死のうと、杜花には与り知らぬものである。
 身近な人が死んだなら、きっとそれは悲しいだろう。人には個人の価値がある。顔も知らない人間を悲しむような涙は持っていないが、親しい人の死を悼む心はある。
 では己が死んだらどうなるのか。
 己は己の為に悲しむ事は出来ない。
 己の死を悲しめる本人はいない。
 だからつまり、欅澤杜花は、もう既に死んでいたのだ。
 本来ならば、悲しむ筈もなかったのだ。
 市子が死んだと知り、同時に死ぬべきものだった杜花は、彼女の死を受け入れられず、のうのうと生きている。
 そう、もう、居ないのだ。
 何もかも終わってしまっている。
 そして杜花は、とうとう自覚した。
 自分は屍だ。
 ――欅澤杜花は、生きているべきではないのだ。
「……二子」
 眼を覚ます。
 いつから寝ていたのか、記憶はない。案の定、隣には二子が控えていた。
 瞬間的に怒りのメーターが振りきれる。
「モリカ、これはね」
 起き上がり、手加減無しで平手を打つ。
 二子の軽い身体は弾かれ、机に酷くぶつかった。机の上に置かれていたものが、盛大に床へばら撒かれる。それを意に介さず、杜花は歩み寄り、片手で二子を掴みあげ、更に突き飛ばす。
「あぐッ」
 嫌な音が響く。二子は腕を抑えて悶えるが、当然杜花はどうでもいい。
「するなと言ったでしょう」
「だっ、けふっ……だって……わ、私は……」
「市子の代わりになると? ふざけた事言わないでください。殺しますよ」
 どう殺してやろうか。少し考える。
 後先はどうでもいい。
 何せ自分もこれから死ぬ身だ。
 あんな糞ったれの家族もどうでもいい。
 なんでもいい。
 世界は既に終わっているのだ。
 この馬鹿者を殺してやれるならそれでいい。
 首の骨はアッサリとしすぎる。市子と同じように紐で吊るしてやった方が良いだろうか。
 サンドバッグにしてやっても面白いかもしれない。殴られるたびに内臓を抉られる痛みは、想像を絶するものだろう。
「私は、私は、杜花、聞いて、お願い、乱暴、しないで、聞いて、杜花……ッ」
「市子と同じ声で、同じ顔で、喚くな。ああ、そうだ。この前言いましたっけね。そのぴぃぴぃ囀る声帯ぶっ潰すって。頭に来る。もう二度と喋らなくて良いです」
 二子の髪を捕まえ、頭を引きずって地面に叩き伏せる。
 口の中に手を突っ込み、顎を上げさせ、その細い首に渾身の拳を叩きこめば、もう喋るまい。
「はぐっ、ぐっ……んんっっ」
「どうせお前たち七星に巻き込まれて死んだんでしょう、ならさ、七星一人ずつ殺せば良いですよね。何人いるか知りませんけど、百人だろうと千人だろうと、全部消す、なんてどうでしょうね」
 拳を振り上げる。その手を降ろそうとした瞬間、腕を後ろから掴まれた。
 怒りで周りが見えなくなっていたのだろう。
「モリカ、ダメ、ダメだって! 貴女が本気出したら、人が、死ぬってッ」
 ドアの外には数人、観た影がある。アリスと火乃子だ。
 アリスは明らかに人払いをしている。火乃子は直ぐにドアを閉じて、外の生徒に対して対応しているらしい。大きな音を出し過ぎたか。
 怒ると周りが見えない。まして市子の事では、それも仕方が無かった。
「離して、サキ」
「だめ、ダメダメ。二子が死んじゃうから! そんなことしたら、そんなことしたらッ」
 振り払うのは、容易かっただろう。早紀絵は身が細い。
 ただ、早紀絵には何の咎もない、愛しい友人だ。彼女が危害を加えられるのは、理不尽極まる。どういう理由があれど、彼女自身は杜花を案じてくれているのだ。
 少なくとも……早紀絵は家族よりも、大事に思う。
 二子の口に入れた拳を引き抜き、腕を降ろす。
「げほっ……げほっ……ッ」
「二子、おい、大丈夫? 杜花離れて」
「……――」
「けほっ……んくっ……杜花の手、けほっ……なんかレモンみたいな匂い、する」
「ええ……そ、そんなで良いの貴女は……、あ。二子?」
 二子は胸を押さえて立ち上がり、離れた杜花の前に立つ。
「……階段で転んだわ。腕を挫いたみたい。保健室に、行って来る。早紀絵、連れて行って」
「――あ、貴女。だ、だって、階段って……」
「階段から転げ落ちたの。二段ベッドの。酷い打ち方をしたわ」
「そ、そ、そう。解った。私、階段から落ちるとこ、見てた。いや、派手に転んだね」
「ええ。我ながら間抜けだわ。けほっ……杜花も、気を付けてね」
 そういって、早紀絵に伴われた二子は部屋を出て行く。
 入れ替わりでアリスと火乃子が顔を出した。
 杜花の顔が余程酷かったのだろうか、火乃子が顔をひきつらせる。アリスはそのまま此方に歩み寄り、杜花を抱きしめた。
「何か、ありましたのね」
「小うるさいので、殺そうと思って」
「そうですの。でも、平日夕方にそれは、過激すぎますわ。直ぐバレてしまいますもの」
「殺し損ねました」
「ええ。むしろ良かったと考えるべきですわ。こんな環境では、いたぶれないでしょう」
 アリスは……本心はともかく、杜花の話に同意する。落ち着かせる為だろう。
 見え透いたものだが、同意という錯覚が、杜花には心地が良い。
 たまらなく悲しく、虚しくなる。
 ――何をしているのか、欅澤杜花は。
「酷いんです。二子ったら、私の頭の中を、勝手に覗いて」
「ええ、ええ。酷いですわね。そうだ、休みませんこと? 疲れたでしょう」
「あ、あの、私、お茶、淹れてきます」
「ああ、三ノ宮さん。お願いしますわ。杜花様、さ、座って」
 アリスに促され、座卓の前に座る。アリスはずっと杜花の腕を掴んだままだ。少し震えている。
 杜花が常軌を逸脱した強さである事は、皆も知るところだろうが、本物の暴力を目の当たりにして、やはり怯えがあるのだろう。
 暴力、は生ぬるい。
 殺そうとしたのだ。殺人現場に居合わせたものと大差が無い。
 欅澤杜花の身体能力は、凶器そのものである。
「――何がありましたの。杜花様」
「何も。何もありません。少し、腹が立っただけです」
「詳しく話してはくれませんのね」
「……ごめんなさい。ご迷惑をかけました」
 杜花は項垂れる。
 幾ら二子が無茶をしたからといって、あそこまでしてやる事は無かった。せめてでも、平手一つで許してやるべきだったのだ。
 当時の記憶が想起された事も理由にあるだろうが、人を殺す技術を持つ人間が暴走するという事態は、車が歩道を走りだすものと同じである。
 平静、平常心。
 ずっと学び、鍛錬し続けて来たものだ。今更何が変わる。
 杜花の過去を知りたいという人物が、少ししつこく聞いて来ただけだ。笑い飛ばせ。
 まだ殺してもダメ、死んでもダメだ。
 何もかも、解決した、そのあとにするべきだ。
「杜花様」
「はい」
「私では、力になれませんの? 私、ええ、私、杜花様の為なら」
 熱くなったか、絶対言ってはいけない事を言おうとしたアリスの口を、人差し指で制する。
 それだけはダメだ。
 それは、本当に愛する人だとしても、言ってはいけない言葉だ。
「あ……う……」
「それは、ダメです。例えどれだけ愛しい人でも、言ってはいけない。私のようになる」
 過去を無理矢理回想した所為か、フラッシュバックの嵐に眩暈がした。
 幼少期の頃から、市子との出会い、楽しい事辛い事気持ち良い事、淡い恋に破れる恋、叶う想いに辿り着く愛。ざりざりと音を立てて脳内を通り過ぎて行く。
「沢山、思い出していました。一番色濃かったのは、去年の文化祭。私は試合をして、御姉様は占い、アリスさん達は喫茶店で大盛況でしたね」
「はい。とっても、楽しかったですわ」
「市子御姉様の、お父様。一郎氏が本当に私達の婚姻を認めてくれると確認を取ったのも、あの時でした。舞い上がっていました。何もかもが輝いて見えた。これから先もこの素晴らしい時間を過ごして行こうと、心に決めていた」
 机の上から床に散らばったものの内、封筒を一つ拾い上げる。
 中にはアナログの婚姻届と、戸籍謄本がある。未成年者同士の結婚の場合、親のサインが必要だが、そこは空欄になっていた。
「……ッ……そう、です、わよね。ええ。愛して、いたんですものね」
「何も疑問に思いませんでした。御姉様……市子が忙しいのはいつもの事。私以外に妹も沢山いるし、生徒会の仕事もある。彼女は七星です、勉強だってしなきゃいけない。だから、一週間ぐらい、放課後に逢えない事なんて沢山あった。でも、その一週間後、彼女は死んでしまった。私に、断りなく」
 あの時、無理矢理にでも顔を合わせていたのなら、気づく事が出来たのではないか。
 もしや、自分が何かしただろうか?
 彼女を追い詰めるような何かを、してしまっただろうか?
 いいや、まさかだ。
 この婚姻届を、笑いながら書いたのは、その出会えなくなる一週間に入る、前日である。
「葬儀を終えても、私は良く解らなかった。いつも通りにしていれば、ひょっこり顔を見せるものだとすら思っていた。それが一カ月、二か月と続き、段々と、記憶ばかり辿るようになっていた。三か月が過ぎ、四か月を通り越し、市子が居ないと、自覚し始めた。私は必死でした。とにかく繕わねばと。このままでは市子が死んでしまう。市子が居た記憶がなくなってしまう。皆の中から市子が消えてしまう。だから私は、彼女が亡くなった後も妹を演じ続けました。私が妹をしていれば、皆は市子を覚えてくれている。私も市子を自覚出来る。でも、見てくださいよ、この通りです。皆は市子の悪口を広めて、あまつさえ怪談にまで仕立て上げて、私を御姉様などと呼ぶ」
「あ、それは……その……」
「――アリスは何も悪くない。アリスが寂しがりなの、知ってます。貴女が私に懐くのは、市子が居なくなった所為だと、そう考えるようにして逃げていました。サキが急に積極的になったのも、たまたまだろうと適当に流していました。でも違う。ごめんなさい。私が全部悪いんです。私が、私でなく、市子の妹であろうとしたから。無理だったんです。死人は戻って来ない。死人は人に忘れられて行く。何せ人は今に生きているから。私も例外ではない。でも、それが汚らしいと。どれだけ、貴女が私に好意を寄せてくれても、どれだけサキが私を好きと言ってくれても、私はそんな移り気、汚らしいと、煩わしいと、そう考えるようにしていました」
「杜花様……」
 首にネックレスとして下げていた指輪を、引きちぎって座卓に置く。
 胸が引き裂かれ、そのまま中から内臓が噴き出すのではないかと思うほどの辛さがあった。
「でも、ほら。だって。私、こんなですもん。出来た人間じゃないんです。まともじゃないんです。今にでも、好きと言ってくれる貴女達に縋りつきたい。許してくれるなら、貴女達を無茶苦茶にしてしまいたい。依存し合いたい。私、小等部からずっと、市子とセックスしてました。彼女、マゾヒストで、虐めると凄い悦ぶんです。私も虐めるのが凄く好きで、覚えたての内は、毎日のようにしていました。貴女達と顔を合わせるその数分前までシてた事だってありますよ。私が、あの市子が、動物みたいな声をあげて、お互い楽しむんです。いつ貴女達にバレるかなんて、想像しながら、ええ、凄く、楽しかった。繋がっているのが心地よかった。アリスもどうですか。御望みなら、私は幾らでもシてあげますよ。処女でも丁寧に、丹念に、気持ち良くなれる女の子に、してあげられる」
 声を震わせながら、アリスに全て話す。
 自分が、どれだけ天原アリスの抱いている理想と違う人間なのかを知らしめる。
 アリスはこんな人間と一緒に居て良い子ではない。
 こんな気狂いに振り回されるような人生を歩んではいけない子だ。
 その身は天原家の為に、未来の日本の為にある。
 だから、もう。
 これ以上、欅澤杜花には触らない方が良い。
 ――だが、どうだ。
 座卓に叩きつけた手に、アリスの白い手が重なる。
「貴女は……優しすぎる。貴女は精神異常者だ」
「想い人一人救えず、政治家なんか出来ますか。杜花様はヘタクソですわ。今のだってどうせ、私を慮ってそんな事を言ったのでしょう」
「偽り無く本当です。私はサディストですもの。女の人を殴り飛ばして悦に入る変態ですから」
「じゃあ先ほどもきっと心地よかった事でしょうね。七星を殴り飛ばす奴なんて、この世に二人と居ませんわ。それに、きっと私が杜花様と一緒になったら、間違いなく優しくしてくださいますわ」
「何故、そう思うんです」
「だって泣いてるじゃありませんの。まさか嬉し涙じゃありませんでしょ」
 目元をぬぐう。
 果してそれは、一体何に対して流した涙なのか、自分でも良く分からない。
 市子の死に対する悲しみか、二子を殴り飛ばした後悔か、あまりにも優しすぎるアリスへの想いなのか。自分は、こんなにも脆い人間だったのだろうか。
「……指導教員への説明と説得は、私がしておきます」
「あっ」
 そういって、アリスが立ちあがり、杜花に背中を向ける。
 何か、言葉をかけねばと、不安になる。
「杜花様」
「はい」
「私達を置いて行ったり、しないでくださいな。御姉様を失い、杜花様まで失ったなら、私と早紀絵さんの人生は、きっと薄暗いものになるでしょうから。私は、貴女をひっぱたいてでも、貴女の不安を取り除きます。もう、そんないつでも死んでやるみたいな眼、向けないでくださいまし」
「……ごめん、なさい」
「何度でも言います。汚らわしいと、移り気と、想ってくださっても構いません。私も早紀絵さんも、貴女が好きですわ」
「……ずるいです、アリスさん」
「ずるくて結構。肝に銘じて置いてくださいな」
 アリスは背中を向けたまま、そういって部屋を出て行った。
 入れ替わりに火乃子がお茶を持ってくる。
 この子にも……迷惑をかけた。
「杜花さん?」
「はい、なんでしょう」
「いえ。さっきと全然、顔色が違いますから。アリスさんに、何か言われました?」
「ちょっとだけ、愛の告白をされただけです」
「あー、なるほどなーってえええ……ッ?」
「火乃子、お茶をください。下品な事を喋りすぎて、口が腐りそうです」
「え、ええ。仰せのままに……」
 お茶に手を伸ばそうと身を乗り出した所で、膝に何か違和感を覚える。
 座卓の下を覗くと、いつも付けているコロンがあった。市子から貰ったものだ。
 しかし二子のぶつかった衝撃で地面を跳ねた為、ケースの一部が割れている。
「御姉様から貰ったもの……なの……に?」
 コロンが入っている容器自体はガラスなのだが、それを保護する為に周囲が黒いプラスチックケースで覆われているものだ。
 その一部が罅割れ、ケースとしての役割を果たしているのだが、中に何か、白いものがみえる。
「……そっか、ここにあったんだ」
 ケースを取り外し、中身を出す。
 そこには、杜花宛の手紙と、そして結晶が仕舞い込まれていた。



 それから一時間程して、早紀絵が戻って来る。
 二子の怪我は打撲傷だけで、大した事は無いと言う。
 朦朧とした状態から起き上がっての平手であった為、初弾の平手が致命傷になる事は無かった様子だ。
 本来なら、あの程度の体格で杜花の全力平手を食らった場合、鼓膜破裂や顎関節骨折、頸椎捻挫もありうる。
「ごめん、サキ」
「どーせ碌でもない事言ったか何かしたんでしょ、アイツ。でもモリカは軽い攻撃が凶器だから、気を付けないと」
「ただ、暫く顔は見たくありませんし、彼女に謝る気もありません」
「だろうなあ。メイと交換しておくかね。夜はこっそりおいで」
「それはメイさんに迷惑でしょう」
「大丈夫大丈夫。ねえメイ?」
「おおせのままにー」
 いつ二子が戻ってくるかも解らない為、杜花は部屋から逃げ出して早紀絵の部屋にいた。
 勿論暴力をふるったという、厳然たる事実はある。
 しかし二子は、杜花がそれだけの事をされれば当然怒り狂うだろうと、解っていた筈だ。故に、階段から転げ落ちた、などという庇い方をしたのだろう。
 早紀絵とアリスの口八丁手八丁で、指導教員にばれる事はなかったが、疑いの眼を避けられる訳ではない為、今後行動するには少し気を使う必要があるだろう。
「それで、モリカ、ただで逃げて来た訳じゃないよね」
「ええ。実は」
 そういって、胸ポケットから先ほど見つけた手紙と結晶を取り出す。
「やっぱりモリカん所にあったか。二子には申し訳ないけど、怪我の功名とでもいうかね」
「三個目……前のが、アレでしたし」
 火乃子と見つけた結晶は破損があり、人体にも宜しくないという事で直ぐに二子が引き取った。
 杜花の主眼は結晶よりも当然手紙に向いていたが、こちらも一年間以上雨ざらしになっていたお陰で、とても読める状態になかった。
 市子の用意した手紙は四つの結晶と同時に存在した事になる。
 彼女が亡くなる前の一週間に、何らかの意図で全てを隠したのだろう。
 以前の二つ、此方は入手のシチュエーションを、市子側である程度想像出来たかもしれないが、猫に付いていたとなると、最悪発見されない可能性が高かっただろう。
「もう読んだ? 私も読んで良いもの?」
「はい」
 手紙を早紀絵に渡す。

『杜花へ。私を見つけてしまいましたか? これはどのタイミングで、何番目に見つかるのでしょうか。少なくとも、貴女は探索を初めてしまった後なのでしょうね。そこに妹はいますか? それとも私?』

「……これだけ?」
「これだけです」
「こりゃどう読めば良いんだ。ええと、出て来たのはコロンのカバーの中だよね」
「そうです。だから、この『そこに妹はいますか? それとも私?』は、時系列的に発見がいつになるか、想像出来なかったからでしょう」
「そう……かな。結晶の方はどう?」
「落としたので少し心配でしたけれど、完全な状態のようですね」
 掌に虹色の結晶を乗せる。傷一つなく、光を帯びて七色の色を放っている。
 所謂三つめ、火乃子と見つけたものは、大きく破損していた為、直ぐに二子へと預ける形になった。勿論杜花は二子に、これが魔力結晶などでは無い事を確認はしたが、それ以上は語らなかった。
「……もしこれが工業製品である場合、私は見た事ないね。ファンシーショップにならありそうだけどさ」
「歌那多さんの腕の件、そして貴女の携帯の件、偶然ではないでしょう。しかしそうなると……」
 そうなると、理屈が合わないのだ。
 杜花達が遭遇した怪異は工業製品が齎す影響にしては異常なものであった。
 歌那多や早紀絵の携帯に影響が出た、映像が出て生徒達を怯えさせた、なら、説明は付くが、明らかに敵意を持ってポルターガイストめいた霊障を引き起こし、そして二つ目に至っては杜花に強い幻覚を見せた。当然杜花に脳機能活性化を促すチップは入っていない。
「一番最初。二子はさ、霊障に気をつけろとか言って、モリカにプロテクターつけさせたよね。ってことは、アイツは承知していたってことだ。だから、結晶の不可思議性については、嘘はないんだ」
「科学的に証明できない、というだけで、という事ですか」
「うん。ただ、私達の知る科学の上で、だろうね。七星の公開されていない次世代技術、とか言われたらお手上げだ」
 結晶をどうにか出来ないかと、考えていたが、どうにもこうにも、弄りようがなさそうだ。どのドライブで読みこめるかも解らない。
 二子が言うように、この中に市子の何かしらが保存されているとするならば、不用意に触って壊すような真似は避けたい。
 結局二子頼みである。自分達は二子の掌で踊らされているのだろうか。
 二子は全てを知っている?
 いや、それも違うと、杜花は考える。そして直感もある。
 二子は、杜花達と同じく、知ろうとしている人間だろう。ただ、杜花よりも七星に近い為、裏付けされる情報が多いだけに、確証の度合いが異なるに違いない。
 結晶は間違いなく、どこに隠されているかは知らず、七星としても二子としても、欲しているものだ。
 では自殺動機はどうか。
 これは怪しい。これについては、二子も隠していると考えられる。
 手紙はどうか。
 結晶と同じく隠されているのだから、これも知る由もない話だろう。
 結晶の秘密については、疑う必要もなく二子は全て覆い隠している。
 二子、著しくは七星が欲しているものは、結晶であり、手紙の内容であり、もしかすれば、自殺動機だ。
 本来ならば、彼等が強権を使って学院を総ざらいすれば見つかるものである。しかもこれが機械的なものならば、何かしら探知する技術も機材も存在した筈だ。
 どうして杜花に協力させたのか。
 何故周囲の協力を容認するのか。
 二子の意図は、そこに隠されているのではないだろか。
「……あー……サキ様、杜花様」
「あン?」
 今まで一言も発さず、二段ベッドの上で本を読んでいると思っていたメイが上から身を乗り出す。殆ど自分から意見する事がないだけに、杜花も早紀絵も驚いた。
「メイさん、どうかしましたか」
「この小説、とっても面白いんです」
「……メイ? 世間話してないよ今。でもお前は可愛いから発言を許しましょう」
「ありがとうございます。あのですね、これ、文芸部にあった『幻華庭園』って本なんですけれども」
「ああ、あったね。お前が持ってきてたんだ」
「みんな名前が何々の君で、略称で呼ばれててですねー」
「……例えば」
「庭園の君、とか」
 それは……確か。
 杜花が市子の幻覚と遭遇した後、二子に聞いたものだ。
 躑躅の君は杜花、木苺の君は早紀絵、そして、庭園の君はアリスと言っていた。
 文芸部にあったという事は、その本をモデルにして名前を付けた可能性がある。
「サキ、庭園の君、アリスさんだそうです。木苺の君は貴女」
「へえ。おお、それじゃあさ」
「はい。櫟(クヌギ)の君の元ネタでもあるかもしれませんね。それで人物特定出来る訳じゃありませんが」
「面白い事気が付いたね、メイは良い子だなー。あ、私もそっち上がる。モリカもおいで」
「やぁん……私のベッドに御姉様達二人なんてぇ……」
 メイがどんな妄想をしているかはさておき、話は気になる。
 二人でズカズカとメイがいる二段ベッドの上に上がり、メイを挟み込むように幻華庭園という小説を覗きこむ。
「あふ。杜花様良い匂い……市子様と同じ匂い?」
「あのコロンですね。彼女から貰ったもの……です、けど。詳しいですね」
「メイは、綺麗な人が好きなので」
「左様ですか……それで、お話は、どんなものなんですか?」
「はい。それがですね、あふ。杜花様良い匂い……くぅう」
「話が進まないっての」
「頑張りますです。ええと、女子校が舞台の、ライトノベルです。杜花様達みたいな女の子が、お茶会をしたり、未来を語りあったり、恋をしたりします」
「……私達のような、女の子が?」
「はい。クヌギという御姉様。その一番の妹の庭園の君。二番の妹の躑躅の君。そして躑躅の君が好きな、木苺の君の四人が主要人物ですねえ」
 ぼんやりと語る支倉メイとは裏腹に、杜花と早紀絵は顔を見合わせ、戦慄した。
 今、何か、あってはならない符合を見出してしまっている。
「モリカ、いや。これは、市子が参考にして、私達を演出した可能性がある」
「……だと……しても……」
 たったこれだけの情報で、解決した問題が幾つかあった。
 まずクヌギ。
 あの鍵は結局、市子自身の持ち物だったのだろう。死した彼女に語る口が無い為、使途は不明だ。
 そしてこれはかなり遠くから来た、嫌な予感だ。こっそりと早紀絵の顔を見て、罪悪感が湧く。
 一番の妹、庭園の君はアリスで間違いない。二番目の妹、これも杜花で違いない。
 だがこの、躑躅の君を好きな木苺の君が問題だ。木苺の君は早紀絵だと二子は言う。
 杜花は、市子に言われて、早紀絵と仲良くするようにした。接触のタイミングは偶然だったが、それ以前から、市子は早紀絵に近づくよう、杜花に良く言っていた。
 勿論、仲良くなった後に築き上げて来た想いや時間は嘘偽りが無い。
 しかし、そのきっかけがこの本であり、市子がそれを演出しようとしていたのならば、自分達はまるで、役者ではないか。
「メイ、話の内容は」
「はい。何でも出来て、何でも知っている御姉様と、その妹達の恋の話です。とっても面白いので、杜花様もどうですか」
 そういって、メイが杜花に本を差し出す。
 受け取ると、メイは同時に、杜花の手に自分の手を重ねた。その目は熱っぽい。
「メイさん?」
「私、知ってます。杜花様が、とってもエッチな人だって」
「……あのですね」
 見られていたか。
 メイの過去の発言を見ても、市子を追いかけていた事実は間違いない。
 その間に杜花と市子の情事を目撃していても不思議ではないだろう。バラさないのならば、それはそれで良いが、メイの瞳はそれだけを訴えている訳ではなさそうだ。
「私、思うんです。杜花様は、サキ様に頼っているのに、御礼の一つもないなって」
「こら、メイ。やめて。私が好きでしてるんだし、お前にも手伝わせてるのは私なんだから」
 確かに、杜花は早紀絵に頼っている。
 早紀絵は積極的で、杜花よりも聡く、考察も情報収集も上手い。だが、依存というわけでもない。実際に動いているのは杜花であるし、解決しているのも杜花だ。
 しかし、どうだろうか。
 例え相手が要らないといっても、親友としてはやはり、相応に返すのが正しいだろう。メイの言う事は間違いない。
「確かに。メイさん、ごめんなさい。私、目の前しか見えていなくて。貴女のご主人様をずいぶんと酷使しました」
「も、モリカ、いいってば。コイツたまに訳わかんない事いうから……」
「サキ様にシてあげて、御礼するのはどうでしょう。きっと一番喜んでくれます。丁度、ベッドの上ですし」
「メイ、お前ね」
「……周りの事とか、事件の話とか、杜花様が探している物とか、メイは解りません。本当はだいぶどうでもいいです。私はサキ様がいればいい。でも、サキ様は一生懸命杜花様に尽くしているのに、杜花様は一向にご褒美をあげる素振りもないです。そんなのおかしいです。サキ様は、メイが頑張ると、ちゃんとご褒美をくれますよ」
「貰ってる。キスもしてもらったし、一緒に寝てもらったもの。メイ、もう余計な事言わないで。それにね、今それどころじゃ……」
「それどころってなんですか」
 二人に挟まれたメイが、一際大きな声を上げる。
 支倉メイが、これほどまでに自己主張する事が、今まであっただろうか。普段の垂れ目を少し細めて、早紀絵を睨んだ後、それを杜花に向ける。
 メイの手は杜花の腕を掴んでいた。
「サキ様は面倒見が良い人です。私、きっとこれからもサキ様に付いて行きます。サキ様も見捨てたりなんかしないです。とっても優しいから。エッチな事大好きですけれど、全然苦じゃない。それがこの人に対する対価なのに、サキ様は優しいから、メイを一杯気持ち良くしてくれます。だから、杜花様はずるいんです。サキ様に何でもして貰って、本当はサキ様、ずっとずっと杜花様の事見てるのに、相手にしてもらえなくて、抱きしめて貰いたいのに、使われるだけ使われるなんて」
「メイ、やめてよ」
「やめないです。杜花様はそれで良いって言うなら、メイはなんだか、とっても貴女を勘違いしていたような気がします」
 ――今日は厄日だ。杜花の何もかもが露呈して行く。
 ――そろそろ手打ちにしなければならないのかもしれない。
 偽ってきた事、騙して来た事、見て見ぬふりをしてきた事。
 それら全てが、まるで今日に纏まってやって来たような気がする。
 市子が死に、二子が来た時点で、欅澤杜花のロジックも、歯車も、全部全部狂ってしまっていたのだ。外側から杜花達の関係を眺め続けた支倉メイには、きっと滑稽に映った事だろう。
 ……確かに。確かに。
 結晶は、これで最後だ。
 手紙も、終わりだ。
 つまり、解決してしまったのだ。
 市子が何を望んで結晶を隠したのか解らず、ただ掌の上で踊らされたようなもの。
 二子の狙いも観えず、ただ、苦悩する妹達が残された。
 杜花の想いはズタズタに引き裂かれるばかりで、何も実を結ばなかったともいえる。
 折角アリスに励まされたのに、これでは何も言えなくなる。
「今日は、酷い日」
「モリカ……?」
「ねえメイさん。貴女、サキに私の事、話しましたか?」
「話しました。貴女がどれだけ可哀想な人か」
「サキ、それでも、貴女は私が好き?」
「――うん。全部好き。杜花の全部が好き」
「私がどんな酷い人間でも受け入れてくれる?」
「テロリストでも大量殺人犯でもサイコパスでもシリアルキラーでも、受け入れるよ。モリカの全部が好きだから」
「私は殺人狂で、今すぐサキを殺したいと言っても?」
「モリカになら幾らでも差し出すよ。それでモリカが満足なら幸せだもの。笑顔で死ねるよ」
「私が市子御姉様に言われて、貴女に近づいただけだとしても?」
「いいよ。誰の命令だって。理由は知りたいけど。モリカと私の過去が消えたりする訳じゃないもの」
「サキは優しいですね。貴女もアリス同様異常者です。私だったらきっと怒る」
「モリカの全部が好きだから大丈夫。モリカは、もっと甘えて良いのに、誰にも頼らないから、心配だよ」
「あの人が死んで、まるで乗り換えるように、他の子に手を出したら、私の中の彼女すら死んでしまうような、気がして」
「ただ一人だけを想い続けて生きるなんて無理だよ。記憶を一生保ち続けるのも、無理」
 負けだ。
 もう、偽るのも疲れてしまった。
「メイさん」
「はい」
「ごめんなさい。ああ、私は今日、謝ってばかり」
「杜花様?」
「サキ」
「う、うん」
「私、本当に、市子に言われて、貴女に近づいたの。でも、貴女が慕ってくれるの、凄くうれしかった。私には市子がいるからと、決して貴女には靡かないようにしてきたけれど、もう、ええ、市子はいない。アリスはああいってるし、貴女にも迫られたら、もうなんだか、どうでもいいかもしれない」
「あ、アバウトになっちゃってる……」
「疲れちゃったんです。ストレスも溜まるし。発散する場所もない。なんかもう。サキ、ご褒美要ります?」
「あ、や、あの。えっと。ご、ほうびって、どんな?」
「お手伝いしてくれた御礼です。ああ、メイさんも混ざります?」
「ぜひぜひー。ほら、サキ様、言ったじゃないですか。ゴリ押したらいけるってえ」
「わ、わたし、あ、も、もりかっ」
 頭を働かせるのに疲れてしまった。
 なんだか頭痛がする。下腹部にも痛みがある。熱っぽい。
 杜花は早紀絵をベッドに押し倒して、その上に被さる。早紀絵は、余程嬉しかったのか、半泣きだ。
「あ、モリカやわらか……って、なんか熱い?」
「すんすん……あ、杜花様、もしかして生理」
「……ごめんサキ、私ほら、生理重くて。そろそろだと思ってたけど」
「ああもう……こんな機会にそんなのあるかよぅって……私はワガママ彼氏か。杜花、部屋戻ろう」
「……二子と顔合わせたくない」
「そんな事言ってる場合かっての」
 早紀絵に連れ添われ、部屋にまで戻る。治療は終えている筈だが、二子の姿はない。
 ベッドに横になり、深く息を吐く。
 生理前三日あたりから重くなり、生理が始まった途端良くなるタイプなので、周期的には短いものの、いささか痛みが大きい。
 そろそろだとは思っていたが、今日のイライラも、思考能力のなさも、恐らくはこれが原因だろうとする。
 そうした方が良い。
「生理痛薬は?」
「鞄の中」
「水持ってくる。メイ、薬出しておいて」
「はあい」
 メイが杜花の鞄の中から、医療保健室印の薬袋を取り出し、杜花へと手渡し、一緒に小説も寄こす。
「重いのやあですねえ」
「仕方ないです。ああ、もう。メイさん」
「はあい」
「ごめんね。貴女、サキが、好きなんですよね」
「……ん。皆幸せなら、良いですね。サキ様も、杜花様も」
「なんでこう……私の周りに居る人は、優しいんでしょうかね。嫉妬とか、無いんですか?」
「サキ様は、そういうの小さいって。みんな気持ち良くなればいいじゃないって」
「あの子は快楽主義者だし。貴女はどうなんです」
「サキ様が幸せならいいです」
「……ある意味一途ですね。有難うございます。戻って大丈夫ですよ」
「おだいじにー」
 メイが去ると、一気に部屋が寂しくなる。
 元から一人部屋だったが、そこに二子が入ってからは、何かにつけて色々と聞かれていたし、会話を交わしていた。
 姉様とはどうだったのか、早紀絵とは、アリスとは、その他の妹達とは。
 学校ではどんな事があったのか、どんなイベントがあったのか、どんな出来事があったのか。
 彼女は貪欲だった。
「……私、嫌な女だなあ……」
 本を手に取り、その装丁を確かめる。かなり古い本だ。
 幻華庭園、作者は利根零子とある。
 奥付を確認し……頭が痛くなった。
(初版が2027年? 四十年前の本か……四十年……前?)
 物語を読み飛ばしながら『御姉様』の造形を探る。
 お金持ちの娘。
 万能で完全……長い黒髪に……。
 普遍的な、御姉様像だ。珍しくもあるまい。
 だが。
「水持ってきたよ……あ、本読むのね。落ち着いたら私も」
「サキ」
「はい?」
「ぶし」
「武士ぃ?」
「オカ研部誌、はやく。vol.11です。2027年の!」
「な、何?」

『どうしても起きてしまうすれ違いを解消するには、どんな方法を用いれば良いだろうか。私は幾つかの案を出し、その中から一つ選びだした。みんなで協力して、宝探しなどどうだろうか。広い学校の中を、ヒントを頼りに手探りして行くような共同作業は、きっと友好を深めるのではないかと、期待する。園も躑躅も苺も、頷いてくれれば良いのだけれど』

 杜花達は、市子の残滓に辿り着いてしまった。


 
 プロットエピソード3/心象楽園/怨嗟慟哭 了

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