2013年3月8日金曜日

心象楽園/School Lore プロットストーリー2

 


 プロットエピソード2/錯覚残滓



 明け方の澄み切った空に、白い息が吐き出されては流れて消える。
 もう十一月も末である、朝方ともなると、地面には霜がおりている。
 白萩を出発した杜花のいでたちは学院指定の体操服だ。
 上下長袖で、えんじ色をしている。デザイン性皆無の、平成初期からそのまま時代を乗り越えたような、大変生徒達に不人気な体操服である。
 運動するのにファッションを求めている訳でもないが、流石の杜花も多少気にしていた。残念ながら、ストイックでスポーティな現代味溢れる運動着は全て洗濯中だ。
 一定の速度を保ちながら、観神山女学院の外周側にある第一中等部校舎の脇を走り抜け、学院の公共広場に出る。いつものお気に入りのベンチまでたどり着くと、その足を止めた。
 冷たい空気が流れて行く。森林公園のようなこの中央広場は、生徒達からも好評だ。
 中央に配置された噴水から周囲八方向に道が延び、学院の中央でもある為、それぞれの道が各方面へ繋がっている。
 周囲を囲む芝生は運動にも最適で、この早朝からでも自己鍛錬から部活動まで、ちらほらと生徒達の姿が見える。
『おはようございまーす』
「はい、おはようございます」
 ランニング中の剣道薙刀部に早速挨拶をかけられ、笑顔で会釈する。
 この時間は大変お気に入りなのだが、どこからともなく声を掛けられる事が多く、だいぶにぎやかになってしまった。
 嫌という訳ではなく、まるで自分の存在が皆の集中を削いでいるのではないかと、いささか心配なのである。
 自意識過剰で済んだなら良いが、何人か此方に余所見をして転ぶ光景などを見ていると、一概にそうとも言えない。
 設けられた芝生に腰を付き、柔軟体操をしながら凝り固まった筋を伸ばし、全身の血流とリンパを意識しながら、息を吐き、脱力して行く。
 その体は、異様に柔らかい。新体操選手もかくやという柔軟は、もはやそれだけで人目を引く。
 首、腕、脚、腰、一しきり全て伸ばし終えると、次は筋肉トレーニングだ。
 腕立て腹筋背筋に始まり、バービーに反復横とび、逆立ち歩行、短距離ダッシュ数十本……いささか女子高生にしては多すぎる量を、女子高生の半分の時間でこなし、杜花は漸く一息つく。
「おはよう、欅澤さん」
「ん。おはようございます」
 いつもの時間に現れる、いつもの人。
 自らを名乗りたがらないらしく、杜花も名前は知らなかったが、学院の警備を任される国防官の中年女性である。そのいでたちは、この寒い中半袖に薄手のスポーツウェアパンツだ。
 日本各地に存在する所謂『お嬢様学校』や『おぼっちゃま学校』には、特別派遣として国防軍の特殊編成部隊が配置されている。
 警察との折り合いで、部隊は警察特殊部隊と国防軍特殊部隊の混成となっており、統率は国防軍側がとっている。
 果てしなく精強な人々だ。
 確かに、大変苦い記憶が産んだこの制度だが、おそらくは七星の後押しだろう、と杜花は踏んでいた。陰謀論者ではないが、特例措置や特例事項は、世の中大概『アレ』の所為になってしまう時代なのである。
「元から鍛えていたみたいだけど、そう、ふともも辺りがまたイイカンジに締まった」
「隊長さんの指導のお陰です。あまり締めすぎると、乙女らしくなくなっちゃいますけど」
 隊長、と呼ばれた女性は満足そうに頷き、足踏みをしてから拳を構えた。
「どう?」
「今日はちょっと目があるので」
「むう、残念ね。ま、アンタの顔なんてブン殴った日には、ここのお嬢様方から陰湿ないじめをくらいそうだからね」
「あはは。大丈夫です、私、当たりませんから」
「くっ……きっつい事言うわねえ」
「ああ、隊長さん、あれ」
「ん、なんだい?」
 杜花が明後日の方向を指差し、振り向いた瞬間、杜花の体は地面に沈み込む。
 隊長が不意打ちに気がついた瞬間には既に遅く、両足タックルが見事に決まり、即座に這いあがった杜花はマウントボジションを取る。こうなると、相手に実力がある場合、ブリッチをしたところでそう簡単には解けない。隊長は両手を上げる。
「まったく、参った参った」
「ふふ」
「狡猾なお嬢様だね、アンタ」
「生憎、私は一般庶民なんです」
「そうなの? 他のお嬢様方よりお嬢様然としてるもんだから、そう思ってたのに。じゃあほら、卒業したら国防大学いって、国防軍入りなよ。成績も良いんだろ? 私の上官になれる」
「あら、階級は?」
「二等軍曹だよ。叩き上げなもんでね……ていうか、プロスポーツとかしないのか? なんでも出来るだろ、アンタ」
「いえ、遠慮します。私は家を継いで、女性神主になるんです」
「なぁるほどなあ。ねえ、そろそろどいてくれる? お嬢様方が顔赤くしてるし」
「あら、失礼」
 マウントを解いて、隊長に手を差し出す。
 ある日から突如始まった『手合わせ』は、これで何戦何勝目だったか。杜花は週一、二回あるこの機会を楽しみにしていた。
 自己鍛錬は良いが、生憎と相手がいないからだ。かといって格闘系の運動部に入りたい訳でもない。自由な時間に好きな事をやれるというのが、杜花には最適だった。
 そもそも、杜花の運動量に付いてこれる生徒が限られる。周りに合わせては本末転倒だ。
「タックルも重心が低くて、鋭い。そのでかい胸揺らしてレスリングウェア着たら、さぞかし人気になれるぞ、ええ? あっはっは!!」
「隊長さんは下品ですねえ」
「男ばっかりだしな、部隊。まあとにかく、次は勝つからね。不意打ちでも文句言うなよ?」
「ええ、次は寸止めで立ち技にしましょうか。ええと、柔道も古武術もアリで」
「え、そんなのも出来るのか? システマや実戦レスリングだけじゃなく?」
「見よう見まねですけど。本職は古武術です」
「まいったね、こりゃ。ほんと惜しいよ。そいじゃな」
「はい、今日も御勤め御苦労さまです」
「ういうい。また一日、お嬢様方に手を振りながら、ブラブラ学院ほっつき歩く仕事が始まるよ」
 後ろ手を挙げて彼女は去って行く。口は汚いが、杜花はかの女性をいたく気に入っていた。強くて気さくで、とても頼りがいがある。
 彼女たち部隊が本気を出すような事件が起こるような事があってはならないが、もしそのような事態になれば、必ずや活躍してくれるだろうと、大変な期待がある。
 大陸間との戦争状態に突入する切っ掛けとなった『アジア戦火』前、大企業の子息を人質に立てこもる事件が数件あった。
 犯人達はズブの素人だったが、素人故に統制も取れず、数十人の生徒達が犠牲になっている。
 観神山のような学校では、防衛意識の向上と精神成長の為にとして、当時犯行グループが撮影したビデオの上映会などがある。
 付随して護身術の講習や犯罪統計、果ては諸外国からの勢力についての講座もあるのだが、大半がそのスナッフビデオにも近いビデオ上映会でダウンする為、参加率は著しくない。
(でも、あれで男性嫌い併発する子多いと思うなあ……)
 大変過激な場面があり、一方的な主張が掲げられ、人権が蹂躙される映像が含まれています、という注意喚起の下、医療スタッフをそろえた上で一応は賛同者のみが映像を見るのだが、気絶、ひきつけ、過呼吸、その他諸症状が絶えず、特に男性恐怖症は顕著である。
 余計な虫を付けたくない人々にとっては都合が良いかもしれないが、卒業後の異性との交際や結婚にまで支障が出るようでは困りものだ。
「あ、あの、あの」
 あれこれと考えながら仮想敵を脳内でブチのめしているところ、生徒から声を掛けられる。
「はい?」
「た、鍛錬のお時間に、し、失礼します。あの、杜花様、これを、その」
 といって、ショートヘヤーの利発そうな子が、杜花に手紙を差しだす。
 封筒は厳つい紙質で、蝋で閉じてあるのはどんな勘違いか。ともかく『アレ』の類だろう。
 杜花はそれを笑顔で受け取る。
「あら、お手紙ですか?」
「は、はい。そ、それでは」
 余程精いっぱいだったのか、弾けるようにしてショートヘヤーの子は去って行った。身体のバランス、走り方から見て、運動部だ。
 制服のスカートが高等部とは異なり、紺のプリーツではなく、チェック柄だ。中等部の生徒だろう。
 杜花はそれを懐に仕舞い込み、公園を後にする。
 走りながら先ほどの少女の事を考え、心の中で独り頷いた。
(可愛いなあ)
 たった数年とはいえ、少女の成長は著しい。
 元から自分を客観視する事に優れている杜花は、中等部時代の事をことさら鮮明に、なおかつ気恥ずかしさ一杯に覚えている。
 中等部の彼女には、今の杜花が、当時の市子のように見えているのだろうか。
 そう考えると、複雑ではあるが、悪い気はしなかった。
 寄宿舎を目指す途中、丁度躑躅の道に差し掛かる。今は部屋に二子が同居している為、こういった類の手紙は籠って読めない。どんなちゃちゃを入れられるか解ったものではないからだ。
 封筒を開けると、中から可愛らしい便せんが出てくる。ガワとはだいぶ印象が違う。
『御手紙を受け取ってくださり、有難うございます。中等部三年一組の川岸命と申します。本来ならば直接告白しなければならないところを、このような形をとってしまい、申し訳ありませんでした……』
 つまるところ、いつもの内容である。
『見目麗しく』『お優しく』『知己に溢れ』『とても素晴らしい』『まるで鳥の囀るが如く』云々。
 杜花も、当然褒められれば嬉しいが、どうもこういった手合いは定型文的で、いまいち面白味に欠けた。
 本人はきっと一大決心の後に、渾身の想いで手紙を届けたのかもしれないが、数ダース分も貰っていると気持ちは薄れてしまう。
 だが無下に断れば禍根を残しかねない為、杜花は『市子式』のお断り方を採用していた。
「いや……定型にしてるのではなく、私が面白みなくて定型になるのかも……」
 流石にこう続くと、自信が目減りして行く。
 とはいえ、皆に愛される『御姉様』を目指している訳でもない。
 一応は苦悩していた。
『……毎朝汗を流す姿を見ていると、とても胸が熱くなりました。特に杜花様が上腕を鍛えている姿など見ているだけで身体がしびれるような思いです』
(ん?)
『……杜花様の腹筋は果してどれほど滑らかな線を描いていることでしょうか』
(んん?)
『嗚呼、私はそのふくよかで逞しいであろう肉体に抱かれて――』
(ちょっとマズイ子かな……)
 鍛錬を評価してくれるのは、ちょっと違う切り口で好感を持てたが、いささか生々しい。これは『妹宣言』ではなく。
『杜花様に無茶苦茶にされたいんです』
(ああ、なるほど)
 性欲の吐露である。
(あんな可愛い顔してハードですね……。やっぱりこの学校色々ダメかもしれない)
 長い間閉鎖空間に居ると、価値観というのはそこの様式に習った形になる。
 自己が形作られた大人ならまだしも、思春期甚だしい少女達はありとあらゆるものを妄想によって形作って行く。
 悪い見本の典型がここにあった。
 セックスなどした事どころか見た事もないであろう少女の想い描く、まるで百合の花咲き誇る花畑で甘い露を身に纏いながら優しい光に包まれて無上の喜びを胸に抱き果てるまぐわいか。
 あまり人の事も言えない杜花だったが、流石にこれはちょっとだった。
 とはいえ、類稀な運動神経が杜花人気の下支えになっているのは間違い。
(あまり目立ちたくはないのだけれど)
 通常、スペックの高い同性は嫌われる傾向にある。
 杜花は人気こそあれ、その分影で恨まれている事も多々あるものだ。
 僻み嫉みは、人間が人間である限りは存在する。が、やはりここは特殊環境だ。
 そもそも、美男美女が同性から妬まれるのは、数多の異性の目をその一身に受けて独り占めするからであり、毛嫌いされて当然といえばそうなのだが、生憎ここは生徒から教師に至るまで女性しかいない。異性は居ないので、異性を奪い取る存在ではなく、この学院の象徴的なものとしての見方が強い。
 その究極的完成系が市子である。
「運動部員には結構睨まれちゃうしなあ……」
 じゃあ控えるか、などといえばそんな義理は一切ない。杜花にも杜花の自由がある。
(にしても、この子に『市子式』通じるかな。逆に襲われそう)
 週に数件発生するイベントに頭を悩ませながら、寄宿舎に戻る。
 手紙を自室の机の中にしまった頃には六時を過ぎだ。二段ベッドの上を覗くと、そこでは世界屈指の大財閥のお嬢様が、未だ寝息を立てている。
 あの口の悪さも、あの邪悪な視線も、寝ていればまるで天使だ。
(本当にそっくり)
 小等部の頃だろうか。市子がこのぐらいの小ささであったのは。
 あの頃から市子は輝いていた。
 ……それにしても小さい。
 幾ら発育が悪いからと、ここまで小さいのもおかしいのではないだろうか。
 杜花に、ある種の予感がよぎる。
 その口達者さもそうだが、そこに存在している、という威圧感に気圧されて考えに至っていなかった。もしかしたら、本当は、まだ十二歳程度ではないのだろうか? という疑問だ。
(詐称、例外的飛び級、ま、七星なら)
 幾らでもあり得るか、と納得する。
 彼女が此方に来て一週間。思いの外、問題は起きていない。
 トビ抜けたお嬢様の例にもれず常識外れである為、たまに突飛な行動はするが、ワガママというわけでもなく、言われた事は素直に聞く。特に杜花の言いつけは文句ひとつ上げない。
 このまま従順でいてくれればいいのだがと考えながら、杜花はタオルを持って浴場へと赴く。
 一階には、一度に十人程度が入れる浴場がある。浴場のルールは意外と少なく、常時入れる。
 身だしなみは常に整え、どこに出ても恥ずかしくないような女性でいよう、という校訓もあるせいか、身体に関わる近辺の規制は緩く、薄い化粧も嗜みとして許されている。ちなみに度が過ぎると即洗顔を申しつけられるので、皆控えめだ。
 脱衣所に入ると、どうやら先客がいたらしい。
 鍵がつくような立派なロッカーではなく、籠に衣服を入れるようになっている為、学年分けの為につけられた制服の色ラインを見分ける事が出来る。生憎名札はない。別学年と一緒に入る、というのは、やはり皆避けたいらしい。
 どこの世界でもそうだが、序列はあるし、運動部ともなればもっと顕著だ。
 杜花がどこに入ったところで誰も文句は言わないだろうが、一応制服を確認する。
 白のラインは二年生だ。しかもその畳み方が、妙に几帳面で――いや、籠を覗く迄もなく『天原入浴中』と、可愛らしい似顔絵と丸文字のポップが立ててあった。
 杜花は顔を少しだけひきつらせる。が、時間は押している。
 仕方なく、服を脱いで籠につめ、浴場へと足を踏み入れる。
「あら、あらあら、杜花様じゃありませんの」
「……おはようございます、アリスさん」
 中に入ると、一糸纏わぬ姿のアリスが何故か仁王立ちしていた。杜花の思考回路にいささかの支障をきたすが、即座に復旧し、対処する。
「何を?」
「体操ですわ」
「さようですか」
 金髪の美女が仁王立ちする光景を目の当たりにした画家や彫刻家が居たのならば、そのインスピレーションを極度に刺激されて怪しげな絵画やオブジェを制作した後なんでこんなものを作ってしまったのだろうと幾許かの後悔はすれどモデルが美人なので評価は高くなるであろう、そんな光景だ。
 杜花は頭を振り、怪しげな思考を止める。やはり支障があるらしい。
「しかし、こういった公共の場で、その、全裸で体操、というのも」
「浴場において全裸で体操してはならないと言う取り決めがありませんわ」
「ごもっともです」
 アリスの横を抜け、だいぶ低い位置に取り付けられたシャワーをひねる。設備は古いので、出て来る水はまず冷水だ。
 いまどきどこにこんな、昭和の忘れ形見のような施設があるのだろうかと、使う度に首をひねらずにはいられない。歴史ある神社の母屋とて、全電化でもっと立派なシャワールームぐらいある。
「アリスさん」
「何ですの?」
「ここ、古くて趣深いのは良いんですが、こういった設備はどうにかなりませんか」
「古くて趣深いのが売りですから、まあどうにもなりませんわ。立派なのが使いたければ第二、第三寄宿舎にでもお邪魔するしかありませんわねえ……そうですわ、杜花様、貴女の宣伝も兼ねて……」
「あ、お断りします」
「あン……もう」
 高等部の一部、中等部、小等部諸々の生徒が入居しているのがそちらの寄宿舎で、それこそホテルのような作りになっている。
 中等部以下の場合、保護者やお手伝いなども一緒に泊まれる施設になっていて、とにかく便利だ。
 何かと古いものが目立つこの学院だが、その中でもこの寄宿舎はまさしく化石である。
 シャワーがお湯になるのを待ち、頭からかぶる。杜花からすれば軽い運動とはいえ、代謝が良い為汗はかき易い。何も考えず浴びていると、背中に気配を感じ、すぐさま振り返る。
「お背中、流しましょうか」
「――お願いします」
 天原アリス。ついこの前の事件……つまるところ、お茶会事件だが、以来、杜花がアリスに接する態度は、他の誰とも比べようのない、微妙なものになっていた。
 事件自体は実しやかに囁かれるだけで、大々的な噂にはなっていないが、早紀絵が面白がってバラした場合一日で広がるだろう。
 何せ御姉様級二人が、しかもアリスの方から無理矢理キスした、という珍事だ。お姉様方の動向を伺うお嬢様方が知れば、失神必定の美味しいイベントである。
 アリスは、寂しがり屋だ。
 市子が亡くなってからというもの、数は多くないが、追い詰まると杜花に泣き付いた。
 まだ友情の範疇。姉妹の範疇、と考えていたのだが、あの事件はその一線を逸脱した。
 杜花にアリスの考えは解らない。ただ、我慢し続けていた事だけは、確かに自覚している。
 切なそうに、愛しそうに、貴女が好きだと告白した彼女の心底に何があるのか。また問題が一つ増えたと思う反面、自分の評価が勝手に固まって行くのを感じる。
 しかし生憎、即答してあげられるような立場に、杜花がいない。
 だがそんな杜花を、アリスは気にする節もない。杜花が答えを出さないのは当然だという態度でいる。
「杜花様のお体……やわらかいのにハリがあって、ああ、お肉ってこんな風にもつきますのね?」
「あまり鍛えすぎるとその、グラビアじゃなくボディービル誌を飾る事になりそうなので、控えめにしています」
「あはは。杜花様も気にしてらっしゃるんですのね、そういう事。ええ、私、やわらかい身体の方が好きですわ」
 果してアリス程のお嬢様が、人さまの背中など流した事があるだろうか。石鹸をかける手はやはりぎこちない。杜花も、これには顔を赤くする。
 何かとんでもないところに踏み込んでいるような気がしてならない。
「ひゃふふっ……あ、くすぐったいですってぇ……」
「あら、ごめんなさい、手が滑って」
「あ、あう。いえ、はい」
 アリスの手が前へ滑り込み、その胸に当たる。
 アリスは『質量がありすぎるのが悪い』と言わんばかりだ。運動するのにいささか難がある為、冗談めかしてはネタにするが、胸が大きい事を誇らしくは思っていない。
 小等部の頃には既に大き目のブラが必要だった程で、その点を市子によく弄られた。食べてるものが違うのか、運動か、遺伝子とは本当に顕著なものだ、などなど。小学生の会話ではないが、子供のころから市子はそんなものである。
「……今この姿を皆に見られたら、どう思われるかしら、杜花様」
「あらぬ噂をたてられて、学院で生き辛くなると思います」
「あら。私はそれでも良いのに」
 積極性が、違う。
 アリスは杜花の事に関して、もう少し控えめであった筈だ。これではお上品な早紀絵である。
 タイミングはどこだったかと思案する。
 確か、友人に逢うといって出て行って、戻って来たらこうなっていた、だろうか。
 確か……二子も外に出ていた。帰ってくるタイミングこそ違ったが、部屋に戻って来た二子も、どこかいつもと違う、上機嫌な様子であったと記憶している。
「ニコに、何か言われましたか」
「助言を少し」
「あまりアレに耳を傾けない方が良いと思いますけれど」
「少しだけ素直になっただけですの。杜花様」
 後ろから、抱きしめられる。アリスのきめ細やかな肌の感触が、直に伝わってくる。
 何故、何時の間に、こんな甘い声で鳴けるようになったのか。
 アリスという人はもっと、明確な形をもった、他とは違う空気を持つ少女であったのに。
 そう、思いながらも。
 好かれる事が嫌ではない自分がいる。
 ただ、どう答えてよいか解らない。
 ここで答えを出してしまったら、万が一にも、二子に頼まれた調査協力が、おざなりになってしまうかもしれない。
 抑えている感情。誰にも見せようとしなかった、うす暗い欲求が、アリスの接近で解凍されている。
 自分は、天原アリスを。
 いや、と頭を振る。
「ダメよ、アリス。そんな事をしていると、直ぐ嫌われてしまいます」
「ッ……は、はい」
 アリスが、咄嗟に身体を離す。
 アリスがこうなってしまうその理由を、杜花は少なからず知っている。二子のあの『魔法』だ。
 ただ『経験上』、あれは人の心の中に『何もないもの』を生成出来たりはしない。
 アリスの言う通り、助言だろう。アリスが腹の中で抱えている事を具現化させただけにすぎない。建前が薄まり、本音が見え隠れするようになる。
 つまり、本当に、アリスは杜花が好きなのだ。
 それをぶつけられ、答えてあげられる立場にない杜花は、少なからず悲しく思う。
「ゆっくり、行きましょう。それともアリスは、そんなにも私が欲しいんですか?」
「は、はしたない真似をしましたわ。でも、その」
「ええ。解ります。だから、大きく咎めたりはしません。少なくとも、今の問題が解決するまでは……」
 少し、待ってほしい。それは、隠すべくも無く、本心だ。
「いいんですの。解っていた事ですもの」
「私も流しましょうか、お背中」
 二人が背中を流し終わり、脱衣所に戻ると、ドタバタと複数人が勢いよく出て行くのが解った。
 どうやら朝から逃げられない状況に陥ったらしい。
 自業自得で、自分が受け入れた事実は否定しようがない。
「こりゃだめですわねー、杜花様」
「……お、追い詰められてる感」
 今日もサロンが騒がしそうだ。



「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 ある時期、絶滅した言葉が学院内で常用化している事がある。ごきげんようはその一種だ。
 状況に応じた言葉があるのに、学院ではこの挨拶で全てが済む。
 何かあまり、自分には似合っていないように思えていて、積極的には使わないのだが、ごきげんよう、とされた場合はごきげんよう、で返している。しかし流石に山の手お嬢様言葉など使う人物は観た事はないが。
「うぃーす」
 が、早紀絵の場合はもう少し配慮した方がいいような気もする。
 杜花がそう思うのであるから、周りも当然思っているだろう……と、考えたが、早紀絵の場合は少々荒っぽい方が、お嬢様方に受けが良いらしく、好んで言葉を荒らしている。見た目もどちらかといえばタチだ。
「さっきー、ういっす。眠そうだねー」
「ちょいとねえ。あたくし、昨晩はお勉強にいささか力を入れすぎちまって」
「え、それ何語。あははっ」
 と、何故か山の手お嬢様言葉の早紀絵が眠そうに現れ、隣に着席した。
「どこでそんな言葉覚えたんですか」
「ははは。ほら、文芸部入ったでしょう」
「――ああ」
 文芸部。市子が一人だけで部員をしていた部だ。
 市子の自殺後は誰も入っていなかったが、どういう訳か早紀絵が部長になり、同室の支倉メイが部員として席を置いている。
「あそこは変な本沢山あってさ。平成時代の雑多な本ごろごろ出てくるよ。良く分かる何々シリーズとか、専門知識をかいつまんで簡単に説明する奴とか」
「オカルト研究部の部誌を探しているんでしたっけ」
「そうそう。意図的に隠されてる可能性が高いね。ああ、そうだ、文芸部」
「ええ」
「出ないね、黒い影。メイに張らせたんだけど、何時になっても出てこないって。三回試しても」
「支倉さんが可哀想です」
「安心して。ちゃんとギブアンドテイクだよ。メイなんて喜んじゃってしょうがないよ」
「そ、それならまあ」
 早紀絵のペットは実に従順だ。早紀絵と一緒にいて、メイが反抗した姿など一切見ない。
 杜花としては、人さまをペット扱いするのもどうかとは思いつつ、本人合意ならそれでもいいか、などと考えている。
 杜花とは産まれが違う彼女達の価値観に(早紀絵は更に特殊だが)敢えて問題を呈した所で、杜花の得るものはない。むしろ水を差しかねない。
「そうだ、モリカ、実は二子から鍵を預かったのだけど。文芸部の鍵と言われたんだけどさ、入口以外鍵の締まってる場所がなくて」
「御姉様ですよね。なら、考えるべきは、それが本当に鍵として機能するかどうか、でしょう」
「どゆことさ」
「鍵の形をしてるからといって、鍵として機能するかどうか。鍵だとしても、使い方が違うのではないか、という話です」
「ああ、市子ならやりそう。しかしなあ、他にどんな使い道があるかな」
 早紀絵に文芸部の鍵だと言われるものを預かり、観察する。
 立派なものではない。小さな南京錠を開ける程度にしかならない鍵だ。とても部屋などを戸締りする為には使わないだろう。
 市子は鍵を鍵として使う事は少なかった。もうひと手間、面倒くさい事をする。その方が『情緒がある』というが、本人は良くても、残された者達からすれば厄介極まりない。市子のこういった趣味は、杜花でも頭を悩ませる事があった。
「あら、何か書いてある」
「え、平たい部分にはなにもないけど」
「ほら、ここです」
 鍵の側面部分。
 殆ど面積がないそこに、何か文字が彫られている。十円玉並の薄さであるから、眼で見ようと思っても流石に小さすぎる。
「虫眼鏡」
「おぅい、誰か虫眼鏡、杜花御姉様が虫眼鏡を欲していらっしゃるー」
 と、生徒もまばらな教室で、早紀絵が声をあげる。
 杜花御姉様がお困りだ。皆が鞄の中を漁り始める。一人が『ありましたわ!』と元気よく挙手、見事に虫眼鏡は杜花の手元に届いた。読書用のルーペだろう。
「ありがとう、阿古屋さん」
「いえ、とんでもありません。お役に立てて光栄です」
 阿古屋は感激したようにいう。杜花もその嬉しそうな姿に応える為、目一杯に笑顔だ。
 早速ルーペを用いて側面部分を覗きこむと『木楽の君』と縦に彫り込まれている。
「きらく?」
「横に彫れなかったのかも。薄いですし。だから、木と楽で櫟(イチイ)か(クヌギ)と読むのかもしれませんね」
 杜花がペンを取り、メモ帳に文字を走らせる。
「旧漢字の楽ね。しかしイチイ? クヌギ? の君って。モリカは解る?」
「さあ。ただ、市子御姉様は『何々の君』と妹を分類していたと思います。これもまた、本人しか知りませんが」
「あ、あいつ面倒臭い事好きだなあ」
「今更です」
 こんな薄いところに、そんな細かい文字を個人で彫れる訳がない。特殊器具が必要だ。他の誰かが持っていたのならば、不思議にも思う所だが、市子なら何かしらの手段でそんなものを作るだろう。
 鍵自体はだいぶ年季が入っている様子だが……彫跡は何か真新しい印象を受ける。
「しかし簡易な鍵とはいえ、瀟洒ですね。作りに気抜かりがない」
「それは思った。たぶん専門の人に作らせたんでしょうね」
「イチイ、もしくはクヌギ。でも基本的にクヌギと読む筈です」
「櫟の君。妹対比表とかあればいいのに。二子に聞くかな」
「そういうものは残さないでしょう、市子御姉様ですし」
 暗号の答えを残すような人間ではないだろう。
 しかしともかく、この鍵が当てはまる人物、そしてこの鍵を用いる場所に、例の書物があるかもしれない。それは杜花にとって有益か否か。判じかねるが、早紀絵はやる気であるようだ。
「どうしても読みたい本なんだ。この鍵の合う場所にあるとするなら、是非見つけたいね。ここ一週間文芸部をひっくり返したんだけど、やっぱり出てこなかったし。それにねえ」
 ごにょごにょと、早紀絵が耳元で呟く。周りの視線が少し熱いので、内緒話はむしろ堂々として貰った方が嬉しい。
(市子の感じからして、どうもまともな本が多すぎる)
(普通の本ばかり、と。それも変ですね。幾つか、少年少女向け漫画などを貸して貰った事があるので、たぶんそちらに隠しているのかも)
(察するに、魔女に関する記述がある本を隠してる。市子もそう呼ばれていたし)
(細かい批判を気にする人でもありませんが、何かしら、不愉快な記述があったのかも……さ、サキ、耳に息かけないで)
(あ、モリカ良い匂い……)
(今日はそんなのばっかり……貴女もアリスさんも、ああもう……)
「モリカは狙われている。性的に」
「私寝技もそこそこ出来ます」
「ああ、関節と締め技ね。さぞ心地よく死ねるでしょう。くふふ。ああ、ところでモリカは、貴女自身どう呼ばれていたのかは知らないの?」
「私は、一度しか聞いた事がありませんけれど。たしか躑躅の君です。出会った場所でしょうか。私が一番最初に市子御姉様とお話したのが、躑躅の道なので。花言葉は自制心、でしたっけ」
「じゃあ櫟は?」
「……穏やか、かな」
 思案する。クヌギの君。穏やかな貴女。
 妹は皆上品な人間ばかりなので、当てはまる人物が多すぎる。クヌギが生えた場所で出会った、としても、生えている場所など知らないし、人物を特定出来ない。
 市子の妹。妹のお付きまで含めると、さて何十人居たか。
 市子開催の定例茶会は全員が参加する事は少なかった。覚えている顔も疎らである。
「けれど、今更蒸し返して、どうするんですか、そんな本」
「貴女はアレに整理をつけたい。私はアレが隠していた事を知りたい。睨まないでよ、公開しないからさ。杜花は市子と仲が良かったけれど、全部知っている訳じゃないでしょう」
 確かに、そうだ。
 あれだけの人物の全てを把握するなどまず出来ないだろう。杜花とて例外ではない。しかし魔女の記述、となると、表には出したくないものだ。眠り続けているなら、起こす必要性は感じない。
 ……が、そこまで隠されたものだ。一緒に魔力結晶があってもおかしくはない。
 気は進まないが、早紀絵の話が全て間違っている訳でも、的を外している訳でもない為、考えどころだった。
「ま、本来なら杜花の手を煩わせたくなかったし。いいよ、自分でやってみる」
「……そうだ、それなら、新聞を使ってはどうですか」
(あ、こら、声大きい)
(ご、ごめんなさい)
(新聞。そう、スクールロア第30号。昨日の夜はそれ書いててね、眠いったらないよ)
 早紀絵は小声でいう。
 スクールロア。早紀絵が発行している新聞名だ。
 オカルトを話題にしたり、学院内のゴシップを取りあげたりする、学内秩序を著しく欠く大変精神衛生上宜しくない新聞である。
 新聞名の語源は、学校と、民話を意味するロアをくっつけたものだ。
 フォークロアというカバン語を、更にもじってスクールとロアをくっつけた俗語である。
 昔からネットロアと呼ばれるものもある為、そこから考え出したのだろう。
 非公式新聞である為、大々的に掲示される事はない。今はほとんど使われていない、中央広場に生える木の陰にある掲示板に張り出される。
 読者数は不明だが、それなりに人気はあるらしく、発行されると生徒間で話題になる。
(あれ、どうやって印刷しているんですか)
(正規の新聞部のコピー機。貴重な電子機器だよん)
(でも、ちゃんとパソコンで書かれていますよね)
(違う違う。ワードプロセッサって知ってる? 文章特化のパソコンみたいなやつ)
(さて)
(六十年近く前は全盛だったね。以後はパソコンに移行したけど。印刷紙に直接文章を印字できる。技術ってさ、結局どこかに特化したものに戻ったりするのよ。それの現代版。文字書くだけだから、パソコンや携帯より学内の規制が緩い。自室でレイアウト決めて、新聞部のを借りるの)
(よく貸してくれますね)
(お友達がいるからさあ)
 ああ、と頷く。
 早紀絵の口から発せられるお友達、というのは、大概アレだ。
(しかしなるほど……『学院に潜む謎。用途不明の鍵。そこに記されていた文字とは』でいいね)
「もしかしたら、結晶も、あるかもしれません、危険を感じたら、すぐ私に」
「あいさ、お、先生来たね」
 HRが開始する。
 日々の事、注意事項、これから年末にかけての事。代わり映えのない話である。
 黒板の脇に掲示されている時間割に眼をやると、一時限目は『健全』だ。
 健全発育教育学習の略で、一昔前の小学校における総合学習やら学級活動に相当する。担任の担当である為、教員の変更はない。
「今日は思考発達テストです。プリントを配りますから、配り終わったら班を作ってください」
 前から回って来たプリントを貰うと、近くの席をくっつけて、四人組を作る。早紀絵とは離れ、一つ向こうのアリスと一緒になった。
「さて、この一カ月何がありましたっけ」
 思考発達テストは、一か月ごとに区切りがある。
 その一か月、何を想い、何を考え、どう行動したのか、書き出して行くのだ。その中から自分の考えるべき事、反省すべき点、伸ばすべきところを探り当てるのがこの教育の目的だ。
 とはいえ、自分の生活を丸裸にしてしまう可能性を秘めるこれは、皆のねつ造で作られていると言って良い。しかしそれでも良いという。考える事が主眼なのだ。
「色々ありすぎて、そろそろ頭が疲れましたね」
「恋心を抱いて」
「やめてください」
「苦悩して」
「ですから」
「告白してみたり」
「……」
 一つ向こうの席で、アリスがはっちゃける。隣の生徒はアリスと杜花を交互に見て、物凄く興味ありそうな顔をしていた。
「という小説を書いてらしたんでしたっけ、杜花様」
「恥ずかしいから言わないでください」
 アリスに遊ばれている。ゆゆしき事態だ。
「まあ、杜花様は小説をお書きになるの?」
「た、嗜む程度に。人さまに読ませられるようなものではありませんので、悪しからずです」
「残念だわ。きっと人気が出るでしょうに」
 アリスに視線を送る。彼女は悪気のない笑みで此方を見ていた。悪気などあろうはずもない。ただちょっと杜花様を弄ってみたかっただけだろう。
 本当に、厄介やら面白いやら、大変な人物になってしまった。
「杜花様は、する事が多いから書く事も多くて大変ですわね」
「アリスさんもそうでしょう」
「私はそうでもありませんわ。ルーチンワークも多いし」
 とにかく考えた、という事実とそれに対する対処法を書き連ねるのが目的なのだから、出来事を抽象化し、玉虫色にした思考を出して行けばいい。匿名であるし、書き方は自由である。

『問題一』 新しい友人との関係構築について。
『思考』  N生徒との関係をどう作り上げて行くか。どのような人物なのか。何に配慮すべきか。
『詳細』  以前から知らぬところで少なからずの繋がりを持ったN生徒と知り合い、今後も確実に顔を突き合わせて行く為、相手がどのような人物でも否定ばかりでは禍根を生む。どうにか友好な人間関係を築きたいが、かなり特殊な人物であるので、対応が難しい。此方が何もしなくとも、少なからずの悪意を持っているように思える行動をとる事があるので、その対処に追われる。
『行動』  対話を持ち、冷静に相手の求める事を判断し、N生徒との境界線を引く事に成功する。相手も此方の意図を汲み取ってくれた様子で、以降、大きな問題は起きていない。ただ、関係維持に苦労する可能性がある為、ことは繊細だ。弛まぬ努力が今後真の友人関係を築き上げる事に繋がると考える。

『問題二』 同輩との関係変化について一。
『思考』  S生徒との関係に変化が生じる事が少しばかり恐ろしい。元の関係ではいられない場所にきている。
『詳細』  かねてから付き合いのあるS生徒からのアピールが強くなる。幼馴染ではなく将来のパートナーとして歩まないかという、殆ど告白にも似た発言をされ、経験のない自分は戸惑うばかりであった。大変好ましくは思っており、長い友人でありたいと思っていただけに、その衝撃は比ぶるものが無い程のもので、未だ悩んでいる。
『行動』  心の広い人物であるし、長い付き合いの為、此方が答えを出さない事は承知している様子だった。相手に甘える形で、問題を保留する。現在案件を抱えている為、解決後にもう一度深く考え、相手の将来も慮り、禍根の残らない人間関係の構築に努めたい。

『問題三』 同輩との関係変化について二。
『思考』  A生徒との関係に変化が生じ、前代未聞の事態に陥ってしまい、思考が停止する。
『詳細』  幼馴染であり、多少苦手なれど、大変尊敬していたA生徒から衝撃的な告白と行動に出られてしまう。問題二の生徒とはまた違った意味で大変色の濃い生徒である為、対応が困難極まり、好かれている事を嬉しく思う反面、辟易としてしまっている自分がいる。
『行動』  こちらも付き合いが長い為、A生徒は答えを出さない此方を非難したりはせず、大きく構えている。甘えてばかりで自分が嫌になるも、それすらも好ましいと言われる始末に訳が解らなくなる。行動も何もない。問題二の生徒と同じような、微妙な関係になってしまっている。優柔不断と判じられても仕方なく、自分は酷い人間であると自覚し、身勝手にもストレスを感じる。ただ、S生徒、A生徒、どちらも此方を好ましく思っている事実を知っており、今後二対一の戦いになる可能性が高い。解決が困難になる前に線引きをしたい。

 ……ガシガシと消しゴムをかける。
 こんなもの幾ら匿名でも出せたものではない。エピソードを取りあげられた場合、確実に視線が杜花に集まってしまう。
「あら、消してしまうんですの?」
「色々と漏れだしていまして。破棄です破棄。アリスさんはどうなんですか」
「わたくしはー」
 どうやら人に見せられるものらしい。アリスからプリントを見せて貰うと、大半が杜花の事で埋め尽くされていた。

『出来事』  心情の移り変わり
『詳細』   人の心は常に一定とは限らず、何かしらの切っ掛けによって大きな転換期を迎える事が御座います。私もその例に漏れず、かねてからお慕いしていた方に、その胸の詰まるような想いを告白致しました。小等部も一年の頃からの顔見知りであり、後の親友でもある生徒M様に対して、私は様々な気持ちを抱いていました。この気持ちが何なのであるか、様々と思案しました結果、恋心ではないかという結論に至りました。抑えるに抑えきれず、お恥ずかしながら、知人達の観ている前で告白を行いました所、良い返事は頂けませんでした。普段は何事もハッキリ仰る方なのですが、殊このようなお話になりますと、とたん口を噤んでしまう方でいらっしゃるのは承知の上でしたので、多少の懸念は有りますものの、特段と思い悩む結果には至りませんでした。
『今後』   生徒M様は現在とてもお忙しい身でいらっしゃいますし、諸問題を抱えていると耳にしております。M様は不誠実な方ではいらっしゃられないので、諸問題の解決後、必ずやお答えして頂けるものだと信じて疑いません。たとい望まぬ答えが帰ってこようとも、長い間の親友として、その後もお付き合いして行きたい次第です。

 思わず眉間を摘まむ。
 名前こそ伏せられているが、観る人が観れば杜花とアリスの事であろうと察するに易い。
「流石にその、これはちょっと」
「どのようなことですか」
 と、隣の生徒、後藤田がプリントを持って行く。
 暫く目を通し、顔を赤くしてから杜花とアリスを交互に見る。ほら見ろ。
「あ、アリス様と杜花様は、その、仲が、とても宜しいんですね……はふ」
「ほら、アリスさん、見てください。貴女が有害図書のような妄想を書くものだから、後藤田さんの頭がパンクしてます」
「あんまりな言い方ですわ、杜花様。妄想だなんて。せめて『事実を元にして書いているが、誇張表現も含まれる』程度にして頂きたいものです」
「テスト的には問題無いにしても、私としては問題があります。訂正を求めます」
「生憎、このテストに杜花様を配慮するような決まりごとはありませんのよ?」
「確かに、匿名ですし、特定し辛くはありますが、こういうものを外に出すのは同意しかねます。アリスさんは私の心情を汲み取ってはくれないのですか?」
「おっと、感情論ですの? 頂けませんわね。正当な理由が無い限り、私は取り下げたりしませんわ」
 このテストは何を書いても良い。筋だった問題と、思考と、行動が記されていさえすれば良いのだし、教員が評価する訳ではない。
 クラスでこのような事をこのように考えこのように行動しあわよくば解決した、というエピソードで取り上げられ、皆が他の人物の問題を共有し、議論したりなどする為にある。
 勿論、特定されそうなものは、事前に教員が取り除くので、まず、まず無いとは言えるが、絶対安全ではない。
 どうする。
 アリスとまともに言い合って勝てる自信が杜花には微塵も感じられない。
 なのでやはり感情論だ。
「……私、もっと秘めたものが良いです」
「ぐ、ぬ……ッ」
 大きな杜花が縮こまって俯く。
 アリスが顔をひきつらせ、隣の後藤田は心の中のテンションが上がりっぱなしなのだろうか、今にも『ふぇひひひっ』と笑いだしそうな顔をしている。
 班のもう一人、田井中は我関せずと無表情を作っているが、さっきからカチカチとシャープペンシルを鳴らし、芯をプリントの上に二本三本とボトボト落として状況を見守っていた。
「杜花様、普段そんな顔、絶対しないくせに、ずるいですわ、ずるいですわ」
「ぶっひゅるっ……けふっ……お、おお落ち着いてくだひゃい、ふひ、二人とも……ッ」
「アリスさん……」
「わ、解りましたわ。解りましたから、ああ、うう、消しますわよぅ」
「とても助かります」
 言質を取り、ウンウンと頷く。後藤田は漏れて来たツバを拭くのに必死だ。田井中は田井中で、いつの間にか全て外出してしまった芯を集めるのに必死である。
 見計らい、杜花はアリスにウィンクを飛ばす。
「かわ……うう、憎らしい子ですわ」
「まあまあ。もっと当たり障りのない事を書きましょうそれが良いです」
 結局、杜花もアリスも当たり障りのない出来事と対処を書き記し、提出した。
 教員が集まったプリントをシャッフルし、特定を困難にして行く。ある程度混ざり終えたところで、教員は一枚のプリントを手に取った。
 ――瞬間、杜花に凄まじいまでの危機感が走り抜ける。
 そのプリントは不味い。
 杜花の発達しすぎた第六感が、警鐘を鳴らし続けるが、教員は手に取ったプリントを……黒板に張り出した。
 横目で早紀絵を見る。
 そうだ、このクラス、まだ危険人物が居た。いや、本来警戒するべきはそちらだったのだ。アリスは今回イレギュラーなのである。
「えーと。綺麗な字ですね。この一枚を取りあげてみましょう。『問題一、親友との友好関係について』はいはい。よくありますね。『思考、友情の上限とはどこか。愛情の下限とはどこか。想いをどう伝えるべきか』……あら、面白いものを手にしてしまいましたね。学校で推奨する訳ではありませんが、先生としては、学校に居る間に、得られるべきものは全て得るべきだと考えています。さて……『詳細、今の時代、同性同士の恋仲も珍しくはなくなりました。学院で暮らしている方々は、日々どこかでそのように浮ついた話を耳にしていると思います。私個人もまた、性別関係なく人を好む人間で、中でも長い時間を過ごしてきた友人に、殊更強い気持ちを抱いています。あまり強引な手段は相手を傷つけてしまいかねないので、自重を余儀なくされていますが、とにかく常々もどかしく思っていました』……面白い子がいたものですね。『対処、相手との温度差に悩みながら過ごす苦痛は誰しも感じた事があると思います。私の場合は相手がとても近いだけに、温度差を余計に感じてしまい、まるで一人だけ小躍りして、冷めた目で見られているのではないかと大変不安になりました。生徒……』……えっと……」
 教員の言葉が途切れる。
 本当に、本当にチラリと、教員の目線が此方に向いた。
 杜花はまた、早紀絵に小さく視線を送る。早紀絵はガン見していた。杜花は決意する。寝よう。
「……えーと。ごめんなさい、これはちょっと特定出来てしまいますね。ただ、対処の部分は省くにしても、そう、この学院は小等部からずっと一緒だという子が多いので、決して他人事とも言えませんね。同性同士の結婚が認められて二十年ほど経っていまして、学院内でも、チラホラ耳にします。卒業生の中にも、学院を卒業後に結婚したというお手紙を頂く事もあります。ただ、交遊を深めすぎて、その二人同士、もしくはその二人を取り巻く人たちとの諍いが無い訳ではありません。絶対的には否定できず、しかし様々にセクシャルな問題と、友好関係の破壊に繋がりうるこういったお話は、皆で考えて対応を話し合うのに十分な価値があると思います」
 教員は精一杯に繕った。その教育魂に、杜花はひっそりと涙する。
 この人は少しおっちょこちょいだが、生徒の気持ちを思いやれる、素晴らしい教育者だ。ただちょっと選択肢を誤っただけだ。
「班で議論し、まとめたものを提出してください」
 アリスを見やる。なんだか少し嬉しそうな顔をしているのが、何とも言えなかった。



 娯楽のない学院において、楽しみというものはそう多くは無い。何かしら小さな事でも楽しみを見つけて行かねば、ストレスを抱えるし、孤立しがちになってしまう。
 由々しき事だが、当然イジメも存在する。
 それは趣味の不一致であったり、群れたがらなかったり、話が下手だったり、弱気だったり。
 運動系なら運動音痴、文化系なら不器用、音痴、様々と理由はあるが、学院特有で名物ともいえるのが、家格の高低差である。
 その点やはり杜花は特殊だった。
 実家は歴史ある神社とはいえ規模は小さく、周りのお嬢様方に比べればその経済的な家格はどうやっても目劣りする。
 私立で、屈指のお嬢様学校である観神山女学院に入学するとなれば、それ相応の経済力と、コネクションが必要になるのだが、当然そんなものは欅澤家にはない。しいてあげるなら、祖母と母がここの卒業生であるという事ぐらいだろう。
 杜花は特待生だ。
 入学試験において判断力テスト、運動能力テストでずば抜けた成績を収めている。
 一般的な学力テストは平凡より少し上程度だったが、その二項目においては、ずば抜けた、という言葉すら生ぬるい成績であった。上限を設けていないテストで、単純に全国平均の約三倍である。
 この結果に驚いたのは両親であり学校だ。祖母は当然のように頷いていた。
 中等部卒業までに何かしらの成績を収める、という条件で入学費、学費を全免除され、本人は進んで何かをする事はなかったが、中総体の県記録は陸上部門で殆ど杜花に塗り替えられた。
 経緯は様々とあり、普通の女子高生と分類するにはいささか抵抗のある杜花だが、やはり根っこは一般家庭の子である。
 そしてそんな杜花が小さく楽しみにしているのが、食事だ。
(今日のお腹は洋食を欲している気がする)
 中央広場近くに建てられた高等部用学食にて、杜花は手前のメニューとにらみ合っていた。
 学院の学食は細かいメニューの指定がない。和、中、仏、伊、露、西、米、土、別枠で洋食、などと国を選ぶと日替わりメニューが提供される仕組みになっている。
 西はスペイン、土はトルコだ。
 和中仏伊は解る。日本でも一般的な食事だ。
 しかし米、となると、それはジャンクフードではないのか。
 仮にも、日本屈指のお嬢様学校の高等部の昼食がハンバーガーにコーラで良いものか。
 杜花は小等部からここに暮らしているので然したる疑問はないが、教員たちの間では『なんでジャンクなんだよ』という話は毎度持ち上がる。
 しかし学院長の答えは明確だ。
『この子たちずっとここにいるわけで、もし外でハンバーガー食べる事になった場合、手掴みに抵抗を覚えて相手方と食事を楽しめなくなってしまうんじゃないかと思うのでいれました』というものだ。アメリカ料理の項目にはその注意書きがある。
「オバ様、今日の洋食は」
「エビフライランチ」
 杜花は小さくガッツポーズを決める。やったのだ。
 そもそも洋食とは、日本における西洋料理の総称である。
 カテゴライズが難しい部類で『日本風の西洋っぽい料理』は大体洋食に入る。学院ではカレーも此方に分類される。
 杜花の所帯染みた感性もあり『本日洋食ありマス』の立て札を見ると、何か心がほっこりした。
 勿論、ご立派なご息女をお預かりする学院であるから、料理に手抜かりはない。
 あちこちみても、禅料理めいたものを静々と食べている生徒や、音一つ立てずスープを啜っている生徒もいる。
 確かに美味しいのは知っている。が、今日の杜花のお腹は洋食だった。
 お盆を受け取る。
 ご飯、お味噌汁、お漬物、そして綺麗に千切りにされたキャベツとその他野菜のサラダ、上には神々しく坐す四本のエビフライ。
 ソースは小皿に二種類が取り分けられている。タルタルとウスターだろう。
(嗚呼、定食だ。すごい、物凄く庶民っぽい。私庶民だって実感出来る)
 お歴々に持て囃される杜花御姉様として居ると、自分が普通の庶民である事をたまに忘れてしまうが、洋食を手に取った瞬間に得られる一般人な空気に、杜花は現実を見る事が出来た。
 心躍らせながら、適当に窓際の席を選ぶ。
 授業終了後、頑張って早歩きして来たので、まだ人も疎らだ。
 清潔感溢れる食堂は白を基調にしている。デザインに凝ったテーブルに椅子。全面ガラス張りの外からは昼の心地よい陽気が降り注ぎ、もう冬も近いという事を忘れさせられる。
 素晴らしい昼。
 こんな昼を毎日味わいたい。そう思いながら、手を合わせ、食材の生命と、漁師と、農家と、卸しと、運送会社と、石油会社と、その他調味料を作っている会社とか、なんかそれらに感謝する。
「いただきます」
 箸を持ち、まず味噌汁を啜る。
 化学調味料を使わない天然の旨味が利いたダシ、辛すぎず香りの良い味噌が口内を湿らせる。
 ほぅと一息。周りに人が居たのなら、杜花の恍惚の表情に生唾を飲み込んだやもしれない。
 お椀を持ちかえ、ご飯を一口する。
 噛みしめるほど甘みがある。農作物はかのテロの影響で大変な被害を被ったと杜花も聞き及んでいる。それでも農家は諦めず、農地の除染、品質改良を重ねた結果に齎された奇跡がこの米だ。涙の出る想いである。
 そしてメインのエビフライだ。
 箸で丁重に掴み取り、まずタルタルソースをつけてその口に運び込む。
 至高の揚げたての揚げ物。荒めの衣を使っているらしく、歯ごたえがある。
 サックリ、という良い音と共に、中に閉じ込められていたエビの艶めかしい肉の旨味が口内に弾ける。酸味とまろやかさがあいまったソースがまた、その味を引き立てた。
 噛みしめ、飲み込み、杜花は一人頷いた。
(もしかしたら、過去最高傑作ではないでしょうか)
 少しお行儀が悪いが、エビを箸で掴んだまま、食堂のオバ様に目線を送る。
 オバ様は力強く頷いた。杜花も嬉しくなる。
(三十本くらい食べられそう)
 出来ない事も無いが、次の日には『欅澤杜花様がエビフライの大食いに挑戦して食堂の在庫を枯らした』と言われかねないのでまずやらない。しかしともかく、それぐらいに美味しい。お昼時の一番お腹が空いた頃である事も要因だろう。
 至高なのか究極なのか良く分からないが、とにかく素晴らしいエビフライランチを、綺麗に、静かに、美味しそうに、全てが満たされた想いで食べて行く。
 杜花の姿を見つけた数人は、すっかりその姿に見入っていた。
「あふ……ん?」
 ご飯味噌汁エビフライキャベツのローテーションで八割方頂き終わった頃、入口に見知った姿を見つける。いつも四、五人のグループで行動をしている三年生だ。
 しかし違和感がある。いつも中心にいる人物が見当たらないのだ。
「こんにちは、槐さん」
「あ、ああ。これは、欅澤さん。ごきげんよう」
 槐那美(えんじゅ なみ)。
 高等部の三年生で、遠縁に皇族がいるという、ご立派な家の子女だ。
 彼女の従姉に当たるのが、いつも真ん中に居る筈の居友御樹なのだが、近くに寄って来た彼女達を見ても、やはりいない。
「居友さんはどうしました?」
「い、いえ。ミキは少し体調を崩していて、医療保健室に暫く泊まっているの」
 医療保健室は名前の通り医療設備を整えた保健室で、外科、内科、小児科、歯科、心療内科が併設されている。
 レントゲンどころか最新式のMRIなども備えつけてあり、よほど大きな病気でない限り手術も可能だ。大きくはないが入院設備も整っている為、短期継続的に治療が必要と判断された場合は、お泊りとなる。
「どこか悪くされたのですか……あ、ご一緒に」
 取り巻きがランチを持って杜花の近くの席に腰かける。
 杜花の隣に座った槐は、料理を持ってこられても、食が進まないらしく、小さく摘まんでは口に運ぶ程度で、まるで病人のようだ。此方を入院させるべきではないのか。
「よければ教えてください。居友さんとは、浅からぬ仲ですし」
 居友御樹といえば、中央広場事件の主犯である。アリスに突っかかった居友を、市子と杜花が止めに入ったのだ。
 それだけならば禍根も残るが、まさか市子と杜花がそのまま放置するわけがない。幾度となく市子主催の茶会に誘い、二人で籠絡にかかったのである。
 以来、居友は『仲の良いお知り合い』という仲だ。
 居友は存在感がある。
 市子やアリスと似たものを持っている、お嬢様然とした人物で、居れば必ず目立つ筈だ。
 ここ最近見かけなかったのは、そういう理由があったらしい。
「いえその……何と言いますか……身体に別状は無いのです」
「……では、心?」
 杜花の直感が、嫌な予感を捉えている。
 そういえばと、早紀絵の話を思い出した。
「欅澤さんには、申し上げにくいと言いますか……」
「市子御姉様の事ですか」
 杜花が市子の名前を口に出すと、取り巻き二人の雰囲気が変わり、重苦しくなる。予想通りだ。
 早紀絵の話では、黒い影を目撃した後、ショックで医療保健室のベッドを埋めている人が何人かいる、というものであった。
 ただの黒い影ではなく、居友には市子の影に見えてしまったのだろう。
 市子と杜花による籠絡作戦後の居友御樹は、体裁的には反市子を繕っていたが、実際のところ、かなり仲が良かった。
 対外的に『反市子の最右翼』として名前は上がるも、その実、市子と共謀して『御姉様二大勢力図』のようなものを作り上げていた雰囲気がある。
 そんな背景もあり、実情を知らない彼女達は、杜花に対して素直に告白は出来ないのだろう。まして自分の『御姉様』が病床に伏しているとなれば、不安で押し潰される想いだ。
 杜花には嫌という程解る。
「もう市子御姉様は居ませんから、バラしてしまいますけれど」
「はて」
「市子御姉様と居友さん、とても仲が良かったですよ。もしかすれば、居友さんはまだ隠しているのかもしれませんけれど。槐さん。私は、この通り。慕うべき彼女を失った人間です。貴女が今、どれだけ苦しんでいるか、十分解るつもりです。そんな私でよければ、是非聞かせてください。何があったのか。相談に乗れるかもしれません」
 槐も杜花の気持ちを推し量ったのか、辛そうに俯く。
 旧体制の御姉様方一人が死去、一人が病床ともなると、学院全体の雰囲気にも悪い。現に、市子が亡くなった当初の学院といえば、まるで水を打ったように静かだった。
 不幸が続き、嫌な噂もちらほらと耳にする。
 杜花はそれを打破しなければいけない。
 誰に背負わされたものでもない、自分の責任でだ。
「おかしいと思っていたんです。あれだけ市子様を嫌う風にしていながら、影でどれだけ市子様の死を嘆いていたか。それに今回も……欅澤さん……いいえ、杜花様、こんな不甲斐ない年上を、助けてくれるかしら」
「一つ上なだけです。辛かったですね。皆さんも。抱え込むのは、本当に辛い。是非、話してください」
 取り巻きの一人が俯き、涙で袖を濡らす。居友の不調も堪えたのだろうが、直接的にではないにしろ、今の学院に広まるうす暗い雰囲気に、辟易としているのかもしれない。
 噂話だったらどれだけ良かっただろうか。
 ただの噂であったものは、今生徒達の眼の前に、着々と顕現し、不安を与えている。
 同時に市子の、根も葉もない悪い噂が広がる。早急に止めねばならない。
 槐はハンカチで眼元をぬぐってから、静々と語りだす。
「ミキが倒れている事は、伏せてあります。実家の用事だとしてありますけれど、医療保健室に居る所を観た生徒がいるらしく、また余計な噂が立ってしまって」
「最初から別の病気としておくべきでしたね」
「……おかしな話と……笑ってくださっても」
「いいえ。全面的に信用します。黒い影ですね」
「……ッ……はい、はい。そうです。今から二週間程前の事でした。ミキと、このメンバーで、いつものように談話室を借り切り、談笑をしていたんです」
 居友のグループの本拠地は高等部第一校舎だ。
 第二校舎よりも日当たりが悪いと不評ではあるが、夏は涼しく、特別教室などは皆此方に入っているので、移動教室の際とても便利である。
「誰からの話だったか、一部の人しか知らない生徒資料室がある、という話題が持ち上がりました。もう長い間この学院に暮らしている私達ですから、そんなものは見たことが無い。それで高等部図書館で、校舎改装前の地図を拾ってきて、調べたところ、どうもデッドスペースが幾つかあるのだと解りました」
「二千年代初頭の改装ですね。今はもう四回、五回と改装が入っていますから」
「はい。ですから、もう他の部屋とくっついてしまったか、塗り固められているのではないかと、私は思ったのですけれど、ミキが興味を示しまして。確かミキは『禁制本があるかもしれない』なんて、根拠もなく言っていました」
 禁制本。
 つまるところ、学院内に持ち込み禁止で、見つかった場合没収されて卒業まで保管されてしまう、禁制品の事だ。
 市子はどこに仕舞っていたのか、禁制品の漫画や小説を隠し持っていたはずだが……。
 杜花の頭が回る。
 早紀絵が持ってきた鍵に関わりがあるかもしれない。
 そもそもこの学院、改築に改装を重ねて、将来の生徒数増加も視野に入れている為、無駄なスペースが多い事で有名だ。
 高等部だけでも旧第一校舎、第一校舎、第二校舎と三棟存在する。
 杜花の記憶が正しければ、小等部入学以来第一校舎は二度、第二校舎は一度改装が入っている。実際のところ、ちゃんとした間取りが描かれた製図など存在しないのではないかとすら言われていた。
 ミキの話はあながち根拠のない話とは言い切れない。
「それで、四人は探しに出た」
「はい。閉寮前には戻ろうと言う事で、第一校舎を見て回りました。二手に分かれて、私とミキ、そしてこの子達で、一階から三階まで隈なく探し回っていたのですが、私が御手洗いに行っている隙に、ミキの悲鳴が聞こえて」
「何時頃……でしょう」
「十七時少し過ぎたあたりでしょうか。二階廊下でした。もう周りは暗かった。悲鳴を聞き付けた私達が駆け寄ると、ミキは震えていて……市子が、市子が、と。黒い影が観えたと。生憎、私達は見ていないんです」
 状況としては、先の岬萌と同じだろう。今回は出現が早い様子だ。そもそも、決まった時間に現れるとは限らないし、噂の出現時間を比べても、時間はまちまちだ。
「どんな様子で現れましたか」
「……走って迫ってきた、とか」
 早紀絵が一番恐れていたものだ。
 杜花は元からそれがなんであろうと恐怖は無い。原因も判明しているのだから、原因物を取り除くだけで、この問題は解決する。
 あとはスクールロアにでも解決したという噂を流せば、有る程度片がつく。
 今回はだいぶ発見が難しそうであるし、二子を伴った方が無難だろう。
 何よりも、鍵が問題になる。
 あの鍵は扉を開くものではなかった。もし、鍵をかけられて密閉された箱や机に入っている場合、取り出すのに手間がかかる。二子から『丁重に扱ってね』と釘をさされているのだ。
 そうでなければ、杜花なら鍵(腕力)で解錠可能である。
「理解しました」
 水を口に含み、ゆっくり嚥下する。
 場所は高等部第一校舎。時間は六時までだろう。以降は施錠される。
「どう、されるのです?」
「アテがあります。いち早く問題を解決して、居友さんの元気を取り戻しましょう……ああ、アテが来た」
 入口から、小さい肢体の少女が、威圧的に入ってくる。
 彼女は歩くだけで周りから振り向かれ、振り向かれるたびに笑顔であいさつをしている。
 七星市子の義理の妹、それも勿論有るが、彼女そのものが傑作品だ。生徒の中には、一目見て眼を保養しようという者もいるだろう。
 あの性格でなければ、杜花とて危ういところである。
「モリカ、貴女、お腹減っているのはいいけれど、あんなに早く行かなくてもいいでしょう。もう食べ終わってるし」
「だって、お腹空いたんですもん。あれ、見てたんですか?」
「たまには貴女とランチと思ったのよ。私の事避けてるし。迎えに行こうとしたら、競歩みたいな速度で食堂方面に歩いてく貴女が観えたでしょ、それ見てちょっとぐったりしたのよ」
「ニコではお腹が満たされないじゃありませんか」
「それ、聞こえによっては結構酷いから、考えて発言した方がいいわ。で、モリカ、この人たちは?」
 近くで見て、余程驚いたのか、槐は目を見開き、あわてて挨拶した。
「槐那美、三年生です。ごきげんよう、その、七星さん」
「槐。ああ、居友の親戚。七星二子よ。今後ともよしなに。何話してたの?」
「例の事です。居友さんが目撃したみたいで。今は少し休養中です」
「なるほど。居友とは仲良くしていたみたいだしね、姉様。それで、杜花はどうするの」
「解決に向かいます……槐さん」
「はい。あの、もしどうにか出来るならば……お願いします。もう出ないと解れば、あの子も」
 望んでも戻らない、輝かしい日々が杜花にはあった。
 だが、彼女達にはまだ希望がある。
 居友に詳細を伝えるのは無理だとしても、杜花自身が解決に乗り出したと聞けば、少なからず安心出来るだろう。悲しみを広げてはならない。
 居友には、踏ん張ってもらわなければならないのだ。こうして悲しむ人達の為にも、この学院の雰囲気を変える為にも、耳にしたくない噂を消し去る為にもだ。
「私は御先に失礼します。槐さん」
「はい」
「私は思うんです。一番辛い時に、何でも話して、何でも聞いてあげられる人が隣にいるべきだと。もし相手が話してくれなくたって、殴りつけてでも話させるんです。勝手に死なれるより、遥かにマシですから。居友さんをお願いします」
「――はい」
「では、また」
 それがどれだけ重たい言葉なのか、ここにいる全員が理解する。
 愛しい人が何に悩み、何を考えていたのかも解らないままに消えてしまう悲しさ、虚しさ、恐ろしさは、経験が無くとも、説得力を持って迫る。
 槐らに背を向け、二子を伴って席を離れる。
 カウンターを通り過ぎようとしたところで、杜花の袖が下から引かれた。二子が少しむくれている。
「こら、モリカ」
「なんですか、もう」
「一緒にランチして。まだ食べられるでしょ。軽食を貰って、どこかで食べるの。いいでしょう」
「解りました。BLTサンドにしましょう。こういう時アメリカンは役に立ちますね」
「うん」
 食堂のオバ様に『その胸維持するのにカロリーが必要なのね』と突っ込まれながら、二人分のBLTサンドとカップに入ったコーヒーを受け取り、食堂を後にする。
 二子は背の高い杜花を見上げながら、興味深そうに胸部を凝視し、自分の胸と比べる。
 二周り程体型が違う上に、杜花の胸は平均女性の一、二周り大きい。
 幾つ、と問われたのでGと答えると、二子が変な顔をした。確かに、二子はブラも必要ないだろう。それを考えると杜花はあまりにも強大な存在であった。
「胸の大きさが女性としての品格を決めるものではないわ」
「私は運動するので、少し邪魔ですね。あと、外に出ると男性の視線がちょっと」
「気にする事ないわよレズビアンなんだし」
「酷い。私別にレズビアンじゃないです。私を慕ってくれる人が大概女性なだけですし、この学院女性しかいないです。そもそも男女比べるほど出会ってないです」
 何か性癖に対して言い訳しているようにも見えるが、杜花の言葉に嘘はなく、本当に性別を比べる程男性に出会っていないのだ。とはいえ、今後男性に針が振れる気がしないのも確かである。
「姉様とはどうなのよ」
「御姉様に関しては、男女関係ありません。そういうの、超越してます。解るでしょう」
「じゃあ早紀絵とアリスは」
「……幼馴染だし、親友ですよ」
「あの二人がそれで納得するもんですか」
「そうそう。言いたい事があったんですよ、貴女に」
 朝の冷え込みとは打って変わって、昼の日差しは温かい。上着を着ていれば凍える心配も無いだろうとして、野外の屋根がついた休憩所を選ぶ。幸い他の生徒の姿は見受けられない。
 二人は向かい合って座ると、杜花は早速頂きますをして、BLTサンドにかぶりつく。
 他の店のBLTサンドは食べた事など無いが、これも間違いない。
 しっかり燻製がきき、味を損なうか損なわないか、ギリギリのところまで炒められたベーコンの塩味と、シャキシャキのレタス、瑞々しく甘みあるトマト、そして手作りマヨネーズの酸味が合わさり、食べているのに余計食欲が湧く。パンも当然食堂で焼いているので、香りがたまらない。
「はふ……」
 この旨味が残っている間にブラックコーヒーを流し込むと、味がリセットされると同時にまた齧りつきたくなる衝動に駆られる。まるで永久機関だ。
「いつも思っていたけれど……惚れ惚れするほど美味しそうに食べるのね、貴女」
「食べるのが好きなんです。その分動きますけど……これ美味しいなあ……」
 あまり美味しかった為か、下品にも手に付いたマヨネーズを舐め取ってしまった。
 二子の前であるという事にハッと気が付き、目線を逸らす。
「ふっ……くっ……なにそれ何よそれ。モリカ、貴女、なんかエッチだわ」
「心外れひゅ。発言の撤回を求めまひゅ」
「食べてから喋りなさいよ……ああもう……ねえ貴女」
「はい、なんですか?」
「私の近くで『安心』してるでしょう」
 ギクリ、とした。
 確実に、間違いなく、まず人に見せないような姿を晒してしまった。
 何かと視線のあるこの学院、粗相一つでも話題になりやすい杜花は、細心の注意が必要な暮らしをしている。人気維持の為にしている訳ではなく、市子の妹として恥じない姿こそが必要だからだと思うからである。
 ではこのありさまは何か。
 こんなもの、それこそ市子の前でしか見せないものだ。
 BLTサンドの旨さを憎みつつ、取り敢えず包みをくるんでテーブルに置き、コーヒーに口を付ける。二子といえば、物凄く嬉しそうにポソポソとサンドを齧っている。
「うん。手ぬかりない作り……。あ、そうそう。魔力結晶、一つ回収したわよね」
「ええ」
「力と同時に込める想いは人それぞれなのだけれど、姉様に関しては、込める想いを整頓している様子ね。一つ目の結晶は客観的な思考が詰められている様子だった。持ち主本人じゃないから詳細は解らないけれど、傍から見た貴女、に関してもあるみたいね」
「知りたくない情報でしたね」
「今ちょっとだけ、私に姉様を見たでしょう。貴女の素が出てたってことは」
「……否定しません。何せ気を張る生活をしていますから、親しい人の前でくらい、ゆっくりしたかったという気持ちが、貴女で錯覚を起こしてしまったのでしょう。不本意ですが」
「うん、うん。それでいいの。私も自信が湧くから」
「同一視されて、頭に来たりしないんですか?」
「来ないわ。義理とはいえ姉。まして愛しい姉様。彼女は私、私は彼女。一番の妹の貴女に認めて貰えるってことは、喜びこそすれど、怒りなんてない」
 物申したいが、そこは避ける。墓穴を掘る可能性が高い。
 四つある魔力結晶の内、一つは回収済み。もうひとつは目途が立った。
 それを含めあと三つ、果してどこにあるか解らないが、せめて来年の頭までには解決したい問題だ。杜花の耳にも、影の噂が聞こえ始めている。
 それにしても、と思う。
 何故市子はこれほど重要視され、なおかつ問題になりえる結晶を隠したりなどしたのだろうか。
 手紙には『迷惑をかけてやりたかった』とあるが、杜花が巻き込まれる事は間違いなく想定したであろうし、手紙程度で杜花の歩みが止まる訳がないと、解っていた筈だ。
「何故隠したんでしょうね」
「自殺した理由と関係あるかもね」
「私と親しかった妹達には、それとなく聞いてみましたが、理由を語られた子はいませんでしたね」
「杜花が言うならそうでしょう。やはり貴女宛の遺書があるわ」
「次の結晶にも、手紙が入っているかもしれません。それに期待しましょう」
「そう、ね」
 二子の眼が細まり、杜花を見つめる。
 目を離すのも負けたような気がするので、杜花も見つめ返した。
 が、二子は暫くして、諦めたように目線を逸らし、BLTサンドの残りを咀嚼する。
 魔法を使おうとしたのだろう。
 生憎、余程自我が薄まっているか、相手を受け入れた状態でなければ杜花には効かない。
 二子の用いるものは、市子も用いていた。導入を必要とするらしく、手法的にまるで催眠術だが、催眠術では説明のつかないような効果がある。
 相手の思考に介入し、情報を引き出したり、幻惑を見せたり出来るらしいのだ。
「お生憎様」
「貴女の寝ている間にでも、と思ったのだけれど、それもダメだったの」
「ニコ、それは最悪ですね……あ、思い出した」
「何?」
「貴女、アリスに掛けたでしょう」
「少し素直にしただけよ。本人が否定すれば出来たレベル。でもあの子、完全に受け入れてるもの」
 少しも悪びれる事なく、二子は手元のコーヒーに口をつける。
 元から社会性がなく、常識外の存在である事は理解していたが、こうも相手の同意なく魔法を使うのでは、危なっかしくて仕方が無い。
 それは人間の尊厳を傷つける行いであるし、市子から魔法にはリスクを伴うと聞いている。
「人には知られたくない事が沢山あります。例え貴女が自尊心旺盛で、他人を人とも見ていないとしても、故意に人を操るなんて真似を許容できる筈もない。やめてくださいね」
「モリカに規制される謂われは無いわね」
「もし御姉様に近づきたいと思うのなら止める事です。私も嫌いになるでしょうから」
「……考慮するわ」
「頭、痛くなるんでしょう」
「頭痛薬でなんとかなるから、心配いらないわよ」
 杜花に嫌われる事は避けたいと見える。使い方が慎重になるだけだろうが、目立った使用をされるよりマシだとして、杜花は納得する。
 相手様の力を使う使わないなど、本来他人の杜花がどうこういう問題ではない。親しい仲ならば親身にもなるだろうが、相手は二子だ。
「あれを使うってことは、何かしらを引き出そうとしてますね」
「そ。姉様がこの学院でどう暮らしていたのか知りたいの。それに、地均しでもある」
「地均し?」
「舞台が必要なの。踊っている間に、足元に石ころなんてあったら、躓いてしまうでしょう?」
「常々思っていたのですけれど、何か企んでますよね」
 杜花の言葉を聞いた二子は、スクと立ち上がり、手元のゴミを丸めて投げる。ゴミは放物線を描いてクズ籠に収まった。
 二子は髪を揺らして、杜花に振り向く。
「私が何も企んでいないように見えて? 企みがあるから、この学院に入学して、貴女に近づいて、貴女の周辺を嗅ぎ回り、姉様の遺物を回収してるの。安心して。貴女最大の味方は私であり、最大の敵は私なのだから」
「解りやすくて助かります」
「うん。杜花、手を繋いで。校舎に戻りましょ」
 周りの視線を鑑みると、並んで歩いているだけでも注目されるのに、手を繋いだらどんな噂が立てられるか解ったものではない。が、二子が何にせよ、どんな企みがあるにせよ、今彼女が向ける笑顔は無垢で、行動に対する打算は一切見いだせない。
 杜花もゴミを片づけると、ハンカチで手をぬぐってから、二子に手を差し出す。
 手を繋ぐ筈だったのだが、腕を組まれた事は計算外だった。
「なんだか、機嫌がよさそうですね」
「私も、モリカの前では少し素直で居ようかしら。貴女が貴女を見せてくれるなら」
 憎らしいと、そう思っていたのではなかったのか。
 杜花が市子に愛されるのを憎悪していたのではないのか。
 下から覗きこむ笑顔を見ていると、それらがまるで嘘であったかのようだ。
 美しい子だと、そう思う。
 じわじわと、七星市子の居た場所に、七星二子が入り込んでくるような感覚を認める。
 それが他の誰かだったのならば、全力で否定しただろう。
 杜花の中にある市子のスペースは、神聖不可侵だ。
 しかし殊二子に関しては、防衛機能がまともに働いていないのだろう。
 認識上の誤認、経歴の詐称、セキュリティー不具合、感じるたびに、受け入れるたびに、不安は広がるが、どうする事も出来ない。
 幼さとは邪悪だ。
 打算無き打算、悪意無き悪意が、杜花の世界を浸食している。
「……今日の五時。第一校舎入口でいいですね」
「ええ。初デートね。楽しみだわ」
 怪談相手に喧嘩しに行くというのに、暢気なものだ。
 魔力結晶の齎す不具合。そして、それを取り戻す事で、どうやら二子は彼女の生前の感情を感じ取れるという。敢えて二子にそれを追及はしなかった。気取られるのを嫌ったのである。
 どうにか、杜花だけで、市子の生前の想いを知る事は出来ないだろうか。
 結晶がもたらす影と、対話は可能なのだろうか。少なくとも以前のものは無理だった。
 残り三個の魔力結晶。
 全て持ち出され、全て七星の手に渡る前に……市子の想いを知りたい。
「モリカの手、やっぱり温かいわね」
 ……腕に縋りつく彼女の笑顔に、ほんの少しだけ、引け目を感じる。
「手の温かい人間は、心の冷たさを隠しているそうですよ」
「冷たいか温かいか、判断するのは他人よ、モリカ」




 先に用事を済ませてしまおうと考えた。
 観神山女学院高等部は、休日祝日開けの次の日に一時限目がない以外は、全て六時限目まで授業がある。授業時間は基本五十分、終了時刻は十五時三十分で、HRと掃除が終わると、必要な人間だけ選択科目の授業を受ける。一般的な高校のソレと大差はない。
 そもそもが進学も就職も目指していない学校だ、主眼は全て規則正しい生活そのものにある。
 有り余る時間は部活動に向けられる。
 数は少ないが、芸術系の特待生は何人か存在する。美術部も規模が大きく、観神山女学院の生徒だけで作った展覧会が市内で催される機会も多い。
 運動部はなかなかの成績を収めており、個人ではあるが全国選手も輩出している。
 杜花もその一端を担っているのだが、普通科しかない学院だ。体育科を置くべきではないかと議論があるらしい。一昔前と違って女子校の数も増えている、体育科でも有名になれれば宣伝にもなるだろう。
 とはいえここは唯の学校ではないので、作るのは難しい。
 学院の品位を落とすとまでは言われないが、一般生徒が大量に入れば、それではプレミア感が減るからだ。ある程度の宣伝が出来れば満足なのだろう。ここはそういう場所だ。
「ちょいと」
「はい、なんで……うぇ!?」
「シッ。あまり大きな声を出さないでください、はしたないですよ」
「すす、済みません……」
 高等部よりも放課が早い中等部だ、そろそろ人も疎らになるであろう頃を見計らい、杜花は中等部校舎に来ていた。プレートには『3-1』という表記がある。
「突然ごめんなさいね、川岸さんはいらっしゃいますか」
「川岸、ですね。えーと、ああ、部活に行ったと思います」
 教室を覗きこんでも、確かにその姿は見受けられない。
 今朝の今、早速お返事を返す為に杜花は中等部まで来ていた。
 川岸命と言ったか。神様のような名前だ。
 手紙を読む限り、多少危ない性癖を抱えている様子なので、あまり引き摺りたくはない。
「川岸さんは、何部で?」
「総合格闘技部です。強いので、高等部と混ざって練習していると思います」
 ああ、周りと目の付けどころが違うと思っていたら、どうやらそういう類の人間だったらしい。
 しかし近づき難い部活に所属しているものだ。
 総合格闘技部。
 女性社会の肥大化に伴い、『強い女性(物理的)』を目指し、護身術よりも此方に目を向けた結果、今日本でそれなりの人気を博している競技だ。
 女子部門は高総体の種目には含まれていないのだが、近いうちに種目入りされると目されている。
 現在公式の試合といえば『(株)格闘技日本』主催の大会で、世界大会も存在する。年齢だけで差別化されており、体重差階級がない。
 杜花の二倍近い体格の、熊のような女性も出てくるが……杜花は去年の若年部チャンプだ。
 約三百人近い参加者の中、ただの一撃も食らわず、黒髪を靡かせてリングを駆け抜け頂点に上り詰めた杜花の異名は、実況アナウンサーが絶叫してつけた『墨染の衝撃』(ノーブルインパクト)である。
 試合の時期が近づく頃だけ部活に顔を出しており、正式な部員ではない。
『杜花様が熱いスパーリングをしている』と解ると、生徒が挙って観戦に現れる為、迷惑がかかってしまう。
「……総合格闘技部かあ……試合前以外に、あまり顔を出したくないですねえ……」
「不都合が御有りですか? で、でしたら私が呼んできましょうか?」
「ううん。いい。行ってみます。お気持ちだけありがたく受け取っておきますね」
「あっ……あは、はい。し、失礼します」
 らしく振る舞い、中等部を後にする。
 西南に位置する大校庭の脇には、柔道部、剣道薙刀部、弓道部、レスリング部と各種道場が並んでおり、その一番端に総合運動部の道場が佇む。
 茶褐色のラバー敷き校庭を囲む柵に沿って歩き、道場を目指していると、ちらほらと、見かけた顔がある。
「お、欅澤。運動しに来たの? 柔道場空いてるわー、すっごい空いてる。乱取りしてく?」
「いえ、今日は総合格闘技部に、しかも運動じゃない用事でして」
「残念。衝撃さんならIHどころか福岡国際だってとれるだろうになあ」
「その呼び方やめてください、恥ずかしい……まあその、団体の人数が足らないとなれば、考えます」
「よし、一人減らしてくるかあ」
「やめて」
「はっは、冗談。いつでも来てね、寝技超楽しみっ」
 柔道部主将がカッカと笑う。彼女はどこまで本気か解らないのが恐ろしい。
 相当に強く、国際強化選手としても登録されている彼女は、並の男など立ち会ったら相手は三秒も地面に足を付けていられないだろう。
 実家は旧武家で、とにかく血の気が多い事で有名だ。
 しかしそんな彼女も、市子の前では大人しい乙女であるというのだから、そのギャップが面白い。
(あー……練習してるなあ)
 総合部の道場前に辿り着き、ノックを躊躇う。
 ほんの少しだけ扉をあけて中を覗くと、丁度リング上には見知った顔がスパーリングの最中であった。同級生だが、その相手が問題の川岸だ。
 目を細める。
 動きが良い。小さな体躯を生かし、素早いラッシュを得意としているようだ。
 ただ、投げに対処しきれないらしく、腕を掴まれた場合逃げるのに難儀している様子がうかがえる。
 ローキックにも似た足払いを受け、川岸が派手に転倒した。
「軽いんだから、捕まったら終わるよ。重心が高すぎる。もっと低く、素早く、ほらコイッ」
「ハイッ」
 部員は二十人ほど。高等部と中等部で十人ずつだ。
 リングは高等部、床のマットで中等部が練習するのだが、川岸は実力が認められているのか、高等部と一緒に練習している。杜花の見立てでも、川岸は筋が良い。
 しかしタイミングが悪かった。一生懸命練習しているところに声をかける訳にもいかない。
 今日はやめておこうと、振り返ろうとしたその瞬間、杜花の防衛機能が警鐘を鳴らす。
 背後からの接近、右側か、左に飛ぶようにして転がり、相手の背後に回る。
「はやっ! どうやってんのそれ!?」
「あ、部長。お久しぶりです、ではこれで」
「まちまちまちまちまちぃ。待ってよ、杜花。ウチに用事あるんじゃないの?」
 敵意を感じて退いたのだが、相手は総合部の部長だ。大方、杜花を後ろから抱きかかえようとしたのだろう。
 杜花よりも身長が低く、とても格闘技をしているようには見えない短髪の女性は、大げさに杜花を引き止める。
 三年で部長の三ノ宮風子(さんのみや かざこ)だ。
 名前の通り、一年の三ノ宮火乃子の姉である。
 妹同様、とにかく杜花を気に入ってやまない人間の一人だ。運動能力が過剰な杜花に目を付け、総合に誘ったのもこの人物である。
 妹と比べ、容姿こそ似ているのだが、豪快さが違う。小さい体躯とは信じられない程力があり、成人男性ぐらいなら肩に乗せて走り込み十本など容易くやってのけるだろう。
「野暮用です」
「なるほどなー、おーぃ……むぐぅッ」
 総合部の面々に大声を上げて杜花の来訪を知らせようとした風子の口を塞ぐ。ここで見つかったら、間違いなく腕試しのスパーリングおよび技術指導を強要されるだろう。
 それが嫌というわけではないが、時間が押している。断りきれない状況になる前に対処しなければ、六時コース確定だ。
「今日はこの後も用事があるんです、今ここでバレると、他の用事がトンでしまいます」
「むぐぐ」
「解っていただけます?」
「はふっ。杜花の手なんかレモンの匂いする!」
「まあま、それで?」
「解ったって。じゃあ近いうち来てくれる? 皆楽しみにしてるんだ」
 杜花がどこかの部のヘルプに入ると、練習の効率があがり、試合では成績があがり、皆のテンションも上がると言う素晴らしい効能を示す事になる。
 天才的な運動能力を妬まれながらも、やはり大多数の各運動部から熱烈なお誘いがあるのは当然だった。
「予定に入れておきましょう」
「それだけ良い返事がもらえれば十分だ、それで何だい?」
「川岸命さんに所用が」
「ああ……」
 その名前を聞き、風子がバツの悪そうな顔をする。
「何か問題でも」
「たぶん告白したんだろう」
「解りますか」
「アンタに憧れて入った子なの。やる気あるし、強いし、期待はしてるんだけどねえ……その、スキンシップがね、多少過剰でね。あの子ガチなのよー」
「手紙を読んだ時点でそうだろうとは思ってました。あまり酷くなる前に対処しようと思って」
 頷く。
 本格的にレズビアンなのだろう。しかも相手とのスキンシップを過剰に欲するタイプのだ。杜花の付き合いの中、そういうタイプは居ない。早紀絵はアレだが、杜花には穏便だ。
 間違いなく今後苦労するタイプである。
「取り敢えず呼ぶよ。陰にでも居て頂戴な」
「はい」
「おうい、川岸! おっきゃくさーん」
「は、ハイッ」
 道場の陰に行くよう指示されたらしい川岸が、タオルで顔を拭いながら現れる。
 Tシャツにスパッツ、引き締まった身体が強調される。
 ショートの手前ぐらいの髪の毛をかきあげながら、客人にさわやかに笑いかけたあと、驚愕のまま止まった。
「あがッ」
「お手紙ありがとうね、川岸さん」
「きょああぁぁぁッッ」
「ちょ、川岸さん?」
 川岸は……走って逃げた。
 どうやら部長と言い争っているらしい。
 やがて静かになると、部長が首根っこを捕まえて杜花の前に引っ立ててきた。凄い腕力だ。
「なんだ、男の腐ったような根性の無さだねアンタ」
「だだだ、だってえ。け、今朝お手紙渡したばっかりで、今日ってえ……これもう完全に私フラれてるじゃないですか!?」
 察しは良いらしい。
 本来ならば、悩んだ振りぐらいしてあげて、青春の謳歌を手伝うのだが、手紙の内容が内容だけに放置出来なかった。
 うっ憤を募らせて襲われたらたまらない。
 襲われたところで怪我をするのは川岸だが。
「部長、川岸さんをお借りしても」
「いいよ。どうせ今日練習出来ないだろうし、コイツ」
「ああ、ヒトデナシ! 置いていかないでぇ……」
 無念、仲間を失った川岸は、俯いたままモジモジとしている。
「少しお話しましょうか」
「き、切り捨てるならズバッとお願いしますよぅ」
「ごめんなさい」
「あぐっ……す、好きなのに……」
「まあまあ、ほら、歩きましょ。冷えるから、上着を着て」
 そういって、杜花はブレザーの上を貸し与える。汗でべとべとになるから、と否定しつつも嬉しそうに受け取る。
 傾いて行く夕日の中、校庭脇を進む。
 女子サッカー部の声、剣道部の気合い、陸上部のかけ声など、様々と聞こえては流れて行く。
「女性が好きなんですね、川岸さんは」
「……はい。あ、性同一性障害とか、そんなじゃないです。自分は女だって自覚してます、女の子が好きなだけ」
 脳と身体の不一致、性癖、同性カップルでどちらかが『身体的演出』としてタチを演じたい場合や、自分の身体が気に入らない人間は手術する。昔ほど厳しい目では見られない上、保険適用内で安価だ。
「私の周りにも何人かいますよ。特別な事ではないでしょう。私だって遠くない」
「そう、なんですか。昔からその、男の子苦手で。中等部一年で編入して来たんです。女の子が沢山いて、みんなお上品で、なんか場違いだなって思いつつも、すごく面白くて、素敵で、みんな良い子だから、拍車がかかって……それでその、杜花様を初めて見たのは、休日自宅で観たテレビでした」
 川岸を伴い、中央広場にまで赴く。川岸に座るよう促し、自分も腰かけた。
 テレビ、というのは恐らく、一年前のテレビ中継だろう。若年部決勝戦は、全国放送されていた。
「こんな人、いるんだなって。一言一句間違いなく覚えてます。実況の人が『何故当たらない、何故そこに居ない。黒髪が靡き、拳が巨体を突き刺す。若干十六歳、まさしくリングは全て彼女のもの。白いリングに墨を溶かしたかのような優美さ鮮やかさ、欅澤杜花が猛攻をかける。まさしく墨染の衝撃だ』って、物凄くテンション高く絶叫してて、なんか聞いた事ある名前だと思ったら、そうだ、市子様の妹君だって思い出して」
 予選、決勝トーナメント、10試合10KO。
 唯の一度も打撃を浴びず、唯の一度も転ばない。
 決勝の相手は17歳、女子高生というにはあまりにもデカイ相手であった。
 流石の杜花も苦戦を強いられたが、2ラウンド目で相手の大ぶりな攻撃をかわし、腕を捕まえリングに頭を叩きつけた。
 一本背負いの変形で、地面に対して直下に落とす。頸椎を損傷する危険がある為、杜花の流派でも使用制限のある技だ。
 個人的には優雅とは言えないものではあったが、それだけ相手は強かった。
「こんな素敵な人が居るんだって。次の日から総合の門を叩いたんです。いつかその、杜花様と試合たくて」
「それにしてはだいぶ、面白いお手紙でしたけれど」
「ご、ごめんなさい。もう、自分でも何を書いてるのか解らなくなって、とにかく気持ちを伝えたくて、い、今考えると、あんまりですね」
「他の人たちの定型文に比べると面白みがありましたけれど、あれでは『貴方と嫌らしい事をたくさんしたい』としか、伝わらないと思います。でも嬉しいですよ」
「え?」
「私が、私自身をしっかり評価出来る部分を好いてくれるの。あまり自分を評価しない私ですけれど、武道、格闘技だけは、自分が何ものなのか良く解りますから」
「……杜花様は凄いです。お嬢様らしくちゃんと振る舞って、勉強も出来て、とても強い」
「無茶苦茶にされたいんでしたっけ」
「ひゃあ……ああうう、そんなこと書いてました……」
「ごめんなさい、貴女には、私を見せてあげられない」
 立ち上がる。
 はっきりとした否定の言葉に、川岸は乾いた笑いを漏らした。
 そして遠くから何ものかが歩いてくる姿を認め、余計に認めざるを得なかったのだろう。自分はこの人とどうにかなるような立場にない、と。
「モリカ、貴女ね、放課後十分ぐらいは教室にいなさいよ。迎えに行ってもいないから、毎回貴女のクラスメイトに変な目で見られて仕方が無いわ」
「ああ、言ってくれれば良いのに。ニコったら恥ずかしがり屋ですね」
 川岸は何も言わない。ただ、向かってきた二子に対して、頭を下げた。
「あら川岸」
「お知り合いですか」
「お父様が昔居た研究所の主任研究員の娘。観神山に居たのね」
「隣町に居たんですが、やはり此方の方が何かと都合が良いらしく」
「そうね。七星の威光を直に受けられるココなら、都合も良いでしょうね。それで、川岸、モリカのブレザー着て、何してるの?」
 観神山名物、上司の娘と部下の娘の微妙なやり取りである。
 川岸はバツの悪そうな顔をしてから、杜花に視線を送った。
「総合格闘技部なんだそうです。技術的に悩みがあったらしく、相談に乗りました」
「そうなの。運動得意なのね、羨ましい。モリカ、次は世界戦だっけ?」
「出る機会があるなら、優勝します」
「おお……モリカが自信たっぷりに言ってる……まあ、そうね。川岸、良かったわね、優勝候補に指導貰えて」
「ありがとう、ございました」
 そのありがとうございましたは、七星の仲介に入ってもらってありがとうございました、という意味だろう。
 川岸はブレザーの上着を杜花に返すと、ランニングするようにして去って行った。
「……可愛い子なんですがねえ」
「強いの?」
「筋は良いです。ただ軽いので、筋力アップがネックですね……それにしても、どうしました?」
「どうって何が」
「探していたんでしょう、私を」
「理由も無く探しちゃダメなの? 待ち合わせは五時だけど、別にその間貴女の顔を拝んでいても良いじゃない」
 二子が膨れる。杜花は、しょうがない人だと笑って、その頭を撫でつける。
 滑るような手触りの黒髪は、杜花の記憶を蘇らせる。この髪は、是非梳かせて貰いたい。
「あ、ちょっと、子供みたいに扱わないで」
「子供でしょう。本当は幾つなんですか? まさか高校生じゃないでしょう」
「……13よ。言わないでね、面倒くさくなるから」
「言いませんし、言ったところで誰も批難しませんよ」
 小さいとは思っていたが、ついこの前まで小学生であったとは。いや、今さらだろう。
 杜花はブレザーを着こみ、二子を伴って歩く。時刻は四時半だ。
「七星の研究員か。立派なんですね、彼女の親御さん」
「大変有能ね。有能じゃなきゃ七星の主任研究員なんて務まらないけれど」
「そういえば、一郎氏も元は研究員でしたね。何の研究をしてたんですか?」
「遺伝子工学研究よ。他にも色々してたみたい。とびっきり頭が良い分、色々はっちゃけてる人」
 なるほどと頷く。
 確かに、杜花が市子の葬儀で出会った七星一郎は、大変エネルギッシュな人物だった。
 三十代後半に見えるのだが、本来は相当歳をとっている筈である。
 遺伝子工学、幹細胞学でアンチエイジング、なんて話も冗談にならない時代なので、藪を突っついたりはしない。
「研究員から、七星のトップ。凄まじい努力ですね」
「――ええ。お父様は上手く立ちまわった。研究も成功して、巨額の富も生み出した。独立せず、ずっと七星に尽くし続けた人。十人ぐらいの才能を、一人に集めたみたいな感じ」
「好きですか、お父様」
「うん。大好き。妾の子だろうがなんだろうか、娘息子全てに愛をまんべんなく注いでくれる」
 ……マスコミの話だけを信じるなら、妾の子といえば二子だけだ。今、とてつもない話を聞いている気がした。
「でも、やっぱり、お父様は市子姉様を一番愛していた。彼女の為の御膳立ては全てお父様がやった。この学院を整えるよう指示したのだって、お父様だもの」
 人口も主産業も無いのに潤う市。
 整いすぎた街。
 整い続けている学院。
 もしかすればその全てが、七星市子の為に揃えられたものなのかもしれない。
 彼女が彼女たる為の世界だ。
 そこには何不自由ない生活と、輝かしい日々があった。
 全ては遠い記憶である……はずだったのだが、彼女の死後に送られて来たのは、妹。
 まさしく市子をそのまま小さくしたような、美しい少女だ。
 遺伝工学研究……まさか、と思う。出来たとしても、理由が解らない。
 ……杜花に、嫌な疑念が湧く。
 七星市子の、自殺理由だ。
 全ては憶測でしかないが、もし、市子と二子の間に、何かしらの不和があったら。
 この二人と、そして父の間に、苦悩するべき問題があったのなら。
 杜花は頭を振る。



「さて、着いたわね」
 高等部第一校舎。件の影『走って迫る』タイプの市子の残滓が居ると噂される場所だ。
 此方は一階二階に特別教室が詰められており、三階に三年生の教室だけある。上空から見ると、敷地としての縄張りは四角形だが、校舎自体はL字に近い。
 内側には小さな中庭が存在し、休憩出来る場所もあるのだが、生憎背の高い木が植えられている為、日当たりは悪い。
 中にあがると、まだ生徒はチラホラと見受けられる。
「どこに出たって?」
「二階廊下だそうです」
「プロテクター無しで大丈夫?」
「そうならないよう願いたいですね」
 流石にまだ生徒のいる時間、フル防備でスカート丈を短くしながら歩くのは、いささか問題がある。それに、影の噂はあるが、この時間まで残っていて何か被害を被ったという話は居友のものだけだ。
 杜花は手近な生徒を捕まえて、何かおかしな点はないかと話を聞く。
 声をかけられた生徒は、杜花と二子が並んで歩いている姿に気押されてしまっているらしい。
「け、欅澤さん、七星さん。此方に何かご用事で?」
「そうそう。用事なのよ。貴女、ここ最近変な事はなかった? この校舎で」
「……やっぱり居友さんは、普通の御病気じゃないんですね」
「あー……まあ、直ぐ回復しますよ。彼女の為にも、余計な噂は立てない方がよいでしょう」
「は、はい」
「以来、何か変化は?」
「……居友さんは三年の中心人物でしたから、重苦しくはありますね」
 居友は高慢だが、面倒見も良い。その辺りは流石に御姉様級だ。
 一年前、大輪の花を失って以来、三年の代表は居友であるからして、重苦しく感じるのは当然だろう。
「わかった。ありがとうね」
 生徒は頭を下げて小走りで消えて行く。
「あからさまですかね。私達、目立ちますし。余計な噂が立たないと良いんですが」
「大事の前の小事」
「貴女が言うならいいんですが……。一先ず二階に上がりましょう。前のように、なんとなく解るかもしれない」
「杜花センサーに期待するのね」
 入口直ぐにある階段を上って行く。
 二階は理科実験室、家庭科室、視聴覚室などが並んでいる。どうやら科学部も家政部も今日は実習をしていないらしく、二階に上がった途端、人の気配が途絶えた。
 とはいえ、何かしら不思議な感覚がある訳ではない。至って普通の、人の居ない校舎である。
「こりゃ、無いわね」
「無いですね。何も」
「居友の話も眉つばかしら」
「その昔増築して、ほら、この校舎L字じゃありませんか。元は一字だったんですよ。そこにIの字が加わった形ですね」
「じゃあ今いるのは新舎ね」
 廊下を眺めながら、L字の結合部に向かう。
 新舎と旧舎の間には、四十センチほどで鉄製の繋ぎ目があり、廊下、壁、天井とすっきり繋がっているように見せている。
 不審な点はない。
 旧舎に伸びる廊下は、左手には窓があり中庭が望める。右手側は手前から掲示板、学習室Ⅰ、学習室Ⅱなどの普段使わない、自主勉強室。その先には書道室と資料室があった。
「誰も知らない生徒資料室。これは普通の資料室ですね」
「ふむ」
 資料室の前まできて、二子が振り返る。杜花もつられて振り返ると、なにかぼんやりと、日の光から出来たとは思えない影がいた。しかし緊張感はない。それは数秒後、直ぐに立ち消える。
「上は三年の教室よね。もう一度一階に行きましょう」
 二子の言葉に従い、旧舎階段を下りて一階に辿り着く。何がしたいのだろうか。
「さっきのは見えましたか」
「見えた。霊感とか無いんだけれど、あれ姉様かしら」
「そうですか。しかし何故一階に?」
「確認のため」
 そういって、二子は廊下をまっすぐ行き、旧舎一番端の給湯室までたどり着く。
「杜花、この上は何の部屋かしら」
「何もないでしょう。掲示板があったくらいで」
「じゃあ三階にこの場所は三年の教室がある? 少し狭いわね」
「たしかー……準備室でしたね。机や椅子が詰めて有る筈……む?」
「なんで二階だけ部屋じゃなくて掲示板なのかしら」
 余程おかしな作りをしたり、壁をわざわざブチ抜いたりしない限り、こういった建物は部屋割が均一だ。柱や梁の関係で部屋を作れなかったならともかく、二階の上層下層は小さいながら部屋がある。二階のこの場所だけが掲示板なのだ。
 杜花と二子は一度表に出て、外から確認する。
「換気用の小さい窓が、一階と三階はありますね」
「二階の、窓が有るはずの部分、暗くなって少し解りにくいけれど、多少色が違う。コンクリじゃないわ」
「パネル、かな。同化してる感じですけど」
「後から張ったのかもね」
 二子が笑っている。さわやかに笑えば、えも言われぬ可愛さがあるものの、含みを入れてしまうと本当に邪悪に見える。市子の顔でそれは止めて欲しいなと思いながら、杜花は何も言わなかった。
「何よ」
「可愛いなと思って」
「心にも無い事を」
 もう一度、二階まで上がり、旧舎一番端までやってくる。そこに見えるのはやはり掲示板だ。二子は何が気になったのか、食い入るよう、掲示物を凝視している。
「モリカ、今何時」
「あーと、四時五十分です」
「丁度良い頃合いね」
「何か気になるものでもありましたか」
 二子と同じようにして、掲示板を見つめる。
 掲示物は大半が、生徒会から認可印を押された部活動勧誘や、風紀委員の啓蒙や告知だ。大して珍しいものはない。
「気になるところはありませんね。ましてここに部屋……あー……」
 掲示板から少し引き、掲示板全体を眺めるようにする。何かおかしい。
「人は、視覚情報に多大なる信頼を寄せている。特に目立つものが眼の前にあると、そればかり観てしまう。モリカ、掲示板の下を見てみて」
 そう言われ、茶色い木枠で、緑色をした掲示板の下を見る。ただの壁だ。
 いや、壁だろうか。どうも薄い気がしてならない。
 他の壁と同じ色をしているのだが、そこだけ発色が違って見える。
 左右を見ると、本当にうっすらと、隙間が空いているのが解る。杜花はしゃがみこみ、軽くノックしてみると、明らかな空洞音が帰って来た。
「……これ扉だ」
「掲示物の裏を幾つかめくってみましょう」
 もし、これが扉だとしたら、人の背の高さに都合の良い場所に取っ手などがついているだろう。幾つかチラリと捲って行くと、取り外し厳禁の字が観えた。
 そこに張り出されているのは『掲示物の掲示、取り外しは生徒会から許可を得ましょう』と書かれた掲示物である。
 生徒会印も押されている為、気立ての良い生徒達が勝手に剥がす訳がなく、注意喚起の掲示物を、生徒会がわざわざ剥がす訳がない。
 生徒会印は、会長の所持品だ。
 張り出されて時間が経っている事も解る。間違いなく、市子だろう。
 剥がしてみる。案の定そこには手前に引く為の取っ手があった。
「鍵穴はありませんね、引いてみましょうか」
「よろしく」
 二子を後ろに下げ、左右を観て誰も居ない事を確認してから、取っ手を引っ張る。ズッという音と共に、掲示板ごと手前に動いた。
「中に入って。誰かに見られるかもしれません」
「せっかちね、待ちなさいよ」
 二子にLEDライトを渡し、杜花も警戒しながら中に入り、扉を閉じる。
 部屋だが、明かりが一切ない。窓から光が漏れている様子もない。
「杜花、扉近くにスイッチは」
「あーと……も少し右照らして……あった」
 パチリ、と音を立てて電気が灯る。眼の前に広がったものは、大量の禁制品である。
 スチールラックが三つ程左右正面に並んでおり、その上には大量の持ち込み禁止品が展示会のように並べられている。
 部屋のあちこちに重なるダンボールは漫画だろう。
 一つを開けると、平成期の少女漫画が大量に詰め込まれていた。
「うわー……すごい」
「物置に使おうとして、忘れ去られたのかしら」
「これ、市子御姉様に借りた事があります。やっぱりここから持ち出していたんですねえ。あ、これ全巻揃ってる。古本屋だって見当たらなかったのに。これはー、昔のライトノベルだ。という事はーと、えーと……やっぱりあった。ニコ、見て下さいよ、ここ百合小説のレーベルでしてね……」
「モリカ、案外俗物なのねえ」
「皆が持ち上げてるだけで、私は普通の人ですよ」
「いや、普通じゃないと思うけど」
 心外だが、今二子はどうでもいい。
 自宅に戻れば確かにそういった類の本はあるが、揃えた所で大半学院で暮らす杜花には恩恵が少ない為、数を持っていない。
 まさしく宝の山である。全て没収品なのか、それとも市子がコツコツ持ち込んだものだろうか。最近の禁制品は大半が職員棟に保管されている。
 皆そちらばかり気にして、古いものがどこにあるのか、疑問に思う人間は少なかっただろう。
「姉様ったら、本当に好きなんだから」
「こういう漫画とか小説、私は御姉様に教えて貰いましたよ」
「でしょうね。しかし、本当にこんなデッドスペースがあるものねえ……確かに、文芸部」
 二子が部屋の真ん中にある業務椅子に腰かけ、手近な箱を開ける。
 彼女がその中から取り出したのは『薄い本』だ。
 杜花の脳内で様々な映像が弾けて飛ぶ。駆け寄り、瞬時に二子からその本を取りあげた。
「な、何よ。てか凄い動き。なんなのこの霊長類女子最強生物」
「ひ、酷い暴言。まあその、あまり二子が観るものではないです」
「何かの冊子かしら。薄いわね。なんか禍々しい色をしているし……ん?」
「あ、こら」
 言っている傍からまた別の薄い本を取り出す。二子は表紙を見て愕然とした様子だ。
「……あ、ああ。男性同性愛者向けの本かしら?」
「……女性向けです」
「え?」
「女性向けの男性同性愛者漫画です」
「何それ? でも、男同士が絡み合ってるわよね。わ、凄い筋肉。どれ」
 二子がページを捲る。最早何も言うまい。
「――え? ねえモリカ」
「はい」
「えっと、男性には、男性器と、お尻の穴と、もうひとつ穴があるの?」
「無いです」
「でもこれほら、穴があるって……わ、すごい、こんな形なの? あ、陰茎ってこんな? わあ、男同士でも出来るのね……え、妊娠? 妊娠するの? 遺伝子弄らず?」
「貴女の口からは聞きたくない言葉ですね」
「印刷日は……平成ぃ? コミックパレード75? 六十年近くも前の漫画なの?」
 この学院の創立は西暦2000年だ。
 今年で創立67年になる、古式ゆかしい名門である。
 ここは第一校舎だが、もう一つ旧第一校舎があり、そちらが創建当時からあるものだ。震災で欠損が出たと噂に聞く。
 現在は生徒立ち入り禁止で、申し訳程度の耐震改修を加えており、完全に物置だ。
 こちらが以降に建てられたものだ。それでも四十年は経っていたと杜花は記憶している。
 耐震工事と新舎増築がいつだかは知らなかったが、その長い間に様々と歴史があったのだろう。
 これらはその忘れ形見だ。
「もしかしたら、昔の没収品をどこからか見つけてきて保管したのかもしれませんね。あ、別に御姉様が女性向け男性同性愛者漫画を好んでいたとか、そんな話は聞いてませんよ」
「ここが元禁制品置き場だったのよ、きっと」
 古参の教員ですら、改築後の全てを把握している者はいないという話だ。この部屋もそんな中に埋没してしまった一つなのだろう。
 市子はそれを見つけ、自分の持ち込んだ本も突っ込んでいたに違いない。
「ねえモリカ」
「はい?」
「この学院、どう思う?」
 どう、とはどういう意味だろうか。
 暮らしやすいとか、すごしやすいとか、勉強しやすいとか、そういった一般的な意味合いで、わざわざ聞かないだろう。
「好きですよ。良いところです」
「貴女は一般人なのに、気後れしなかったの?」
「小等部の頃はあまり自覚出来ませんでしたけど、中等部にもなると、多少は劣等感がありましたね。皆びっくりするほどお金持ちじゃないですか。ウチなんて小さな神社ですし」
「通常入学じゃないわよね」
「特待生ですしね」
「感覚器が、人間の範疇の外と聞いたけど」
「人外みたいに言われるのは辛いですけれど、そうです。第六感と言いますか、感覚外の感覚を感知し易い。悪い予感は当たり、危機は未然に解る」
「では、姉様の自殺は?」
 部屋を物色しながら二子に答えていた杜花の手が止まる。
 言いたい事は沢山あった。
 彼女が亡くなる、一週間前からは――放課後に、出会った記憶が――ない。
 当時市子は何かしら忙しそうにしていた。
 避けられている、と不安に思った事は無い。妹は杜花だけではないのだ、他の用事があってもおかしくはない。
 しかし今考えると、その期間はこの手紙と結晶を隠していたのだろう。
「……気配は、ありませんでしたよ」
「誰かに殺された、としたら、モリカはどうする?」
 椅子に座った二子が、細く長い脚を組み変えて、杜花を見つめる。何とも読みとれない表情だ。そんなことを聞いてどうするつもりか。杜花を怒らせて楽しみたいのか。
「ニコは、自分の半分が殺されたら、殺した相手をどうしたいですか?」
「――悪かったわ。試したつもりはないの。私は、こうなってしまうの、どうしても」
「はい。でも控えてくださいね」
 二子は知っているだろう。杜花が、どれだけの人物なのか。
 実際に対峙した事こそないが、拳銃で武装した相手だろうと、タイマンならば杜花は相手を倒すだろう。ましてそれが、憎むべき敵ならば、その身が滅びようとも、向かってかかるに違いない。
「でも、もし控えられないと言うなら、言ってくださいね」
「はて?」
「その声帯を二度と使い物にならなくしてあげる事くらいは容易い」
「モ、モリカってば。怖い」
「ふふ。私、あの人と同じ顔をした貴女を殴るなんて、きっと出来ませんよ」
「だといいのだけど」
 手に持っていた危険物を仕舞い込み、改めて部屋の全景を眺める。
 物という物がギッシリと詰まっているが、整理整頓されていたように感じ取れる。
 ふと左手に目をやると、丁度スチールラックの一部が何も置かれておらず、椅子に座ると作業しやすい高さになっている。
 覗きこみ、ブックスタンドがある場所に手を伸ばすと、肘に引っかかったのか、脇の本が雪崩た。
「おとと……ああっ」
「どしたのよ、騒がしいわね。バレるわよ」
「オカルト研究部の部誌です。恐らくサキが探していたもの」
 手に取った古い本の表紙には『オカルト研究部部誌 vol.11』とある。恐らく間違いないだろう。
「鍵は関係なかったのかな」
「鍵? 文芸部のかしら」
「良く知ってますね」
「早紀絵にあげたのは私。文芸部のもの、と分類されてたのよ、姉様の遺品の中で」
「なるほど……じゃああの鍵はどこのものなんでしょう。ニコ、『櫟の君』って呼ばれていた人を知りませんか?」
「ふむ。生憎解らないわね。貴女が『躑躅の君』で、アリスが『庭園の君』だって事ぐらいしか。あ、ちなみに早紀絵は『木苺の君』ね」
「御姉様が命名する基準が解らなくなりますね。妹だけじゃないんだ……」
 木苺。花言葉は尊敬だったか、ジェラシーだったか。しかしアリスは花ではないらしい。
 これは完全に出会った場所だろう。アリスは寄宿舎裏のガゼボが大変好きだった。
「他は詳しくありませんか?」
「全く。貴女達仲良ししか知らないわ。本家で呼んでいた名前は」
「ふぅむ……まあ、サキの知的好奇心を満たすには十分でしょうか」
「……あら、良かったわね。でもそろそろよ」
「なんです?」
 二子が腕を指差す。時計を見ると言う事だろう。
 ――しかし時間を確認する前に、まずは杜花の本能が警鐘を鳴らす。
 五時十分過ぎ。
 走って迫る影が発見された時間だ。
「二子、部屋に、おそらく結晶が有る」
「待ってみてよかった。やっぱり。何らかの理由で時間が設定されてるのかしら。いや、違うわね。込めた魔力がその時間の記憶を再生している、が近い。そしてそれが発現する事で、杜花も感じ取れる」
「……なるほど。警戒だけしてください」
 杜花は部誌を二子に預け、件の廊下を警戒する。
 扉近くに行くと、扉の端に薄い手鏡が落ちているのが解った。どうやらこれで中から外の様子をうかがい、人の有無を確認していたのだろう。
 杜花は手鏡を取ると、ほんの少しだけ隙間を開けて、手鏡を差し込み外を伺う。
 ……。
 遠くの方に、何かが見える。生徒だ。先ほどチラリと見えた影と同じように思える。
 生徒だが、足音はない。まるでスライドするように移動している。
(二子、結晶を探して。恐らくそっちの箱の中)
(ふふ、なんだか楽しい)
 かくれんぼでもあるまいに、二子が笑って言う。
 生徒の陰……いいや……市子だ。
 黒髪を靡かせ、するすると廊下を動いて行く。走っているようには見えない。
 隠し部屋の前を通り過ぎ、その先で消えた。
 手鏡を返し、また来た方向を見る。先ほどと同じようにしてスルスルと、向かってきた方からまた向かってきている。
 壊れた再生機が同じ映像を何度も垂れ流しているようだ。
(あった。封筒入り、手紙付き。本当に愚かで、いとしい杜花へ)
 目的物は発見した。
 こんな状況、普通ならなんとしても逃げ出したいだろうが、杜花は違う。
(それ、貴女の力でこの影を消したりは)
(時間がかかるわ)
(ならちょっと、影に挨拶をしてきます。あれ、意思疎通可能でしょうか)
(試してみたら? じゃあ私は――この男性向け女性同性愛者漫画でも読んでるわ)
(ああ、いいんですか?)
(何が?)
(きっと素の私が見られますよ)
(大変興味深いわ)
 杜花は、両手で頬を撫でる。市子の影が一巡したのを見計らい、杜花は扉を開けて外に出た。
 廊下に出て、影が通行するその進路を塞ぐ。
 日が落ちている。
 白い電灯が灯り、窓には杜花の姿が反射する。
 少し遠くの火災報知機の赤い明滅が、何かを急かしているようにも見えた。
 影は、正面の障害物を認めた。そして――走ってくる。
 今まで歩くように、しかし歩く事なくスライドしていただけの影が、杜花の姿を認めた瞬間突如走りだした。
「――ッ」
 じわりと、心の中に汗をかく。実体のない存在に対する恐怖ではない。
 近くなるにつれて、それが見知った彼女の姿であるという事実に焦がれを感じる。
 一度目を瞑る。
 目を瞑り、開いた瞬間、そこは元居た世界には無かった。
 まるで世界がひび割れたように全ての事象を飲みこんで行き、まだら色の空間が新しい世界を構築する。
 電灯は無く、先ほど落ちた筈の夕暮れが、時間を巻き戻したように訪れる。その夕日を浴びる影は、また影を伸ばし、手を振って、小走りで杜花へと向かってくる。
 おぞましさはない。
 ただ悲しさだけがあった。
「市子御姉様」
 名前を呼ぶ。
 もっとも尊く、愛しい名前だ。その言葉を受けた影……七星市子は、微笑む。
「あら、杜花。こんなところでどうしたの。第一校舎なんて、何もないわよ」
「御姉様の御顔が観たくなってしまって」
「いつも観ているのに。寂しがり屋ね。ほら、こっちにきて。一杯見せてあげるから」
「――うん」
 立ち止まった市子の影に対して、歩みを進める。
 五メートル、四メートル、三メートル。
 次第に市子の顔がハッキリと解ってくる。
 生前の美しい市子のご尊顔だ。
 小さく微笑み、最愛の妹が、その胸に飛び込んでくるのを待っている。
 しかし近づくにつれて、その顔が見えなくなる。
 己の涙が視界を歪ませるのだ。
 二メートル、一メートル、そして手を伸ばす。
 ひんやりと冷たい手が、杜花に触れた。
「どうしたの。そんなに寂しかった? 今朝会ったばかりなのに。どうしようもない子ね、貴女は。あんなに強いのに、私の前では赤ん坊みたいだわ。本当に可愛い子。本当に愛しい子」
「市子……」
 それが、実体のない影である事は、当然十分に把握している。だが、杜花は質量を感じていた。投げ出した身体を市子がしっかりと受け止めている。
 やわらかい身体が、柑橘系の香りが、杜花を優しく包み込んだ。
 言葉に言い表せない悲しみが、杜花の心をズタズタにする。
 触覚が、聴覚が、嗅覚が、視覚が、これが七星市子であると認識してやまない。
「杜花――私の最愛の人。私の全てを捧げる人」
「市子、抱きしめて。お願い、ごめんなさい、私――私は貴女を何一つ……理解出来なかったのに――」
「何言ってるの。私が何か貴女に隠し事をした?」
「市子、何故、何も教えてくれなかったの。何故」

 何故、死んでしまったのか。

「死んだって……ちょっと杜花、何を言っているの。疲れているの?」
「――ごめんなさい。市子、今、何か悩んでいない?」

 何故、教えてくれなかったのか。

「悩み、ねえ。貴女に泣き付かれてしまった事かしら?」
「違うの。もっと、深刻なお話」
「うーん。無いわ。あったのなら、貴女に相談するもの。私を一番理解してくれる貴女に」

 これは、違う。
 先ほど、二子が言ったように、力を込めた時の記憶を再生しているだけなのだろう。杜花は彼女にとってイレギュラーではない。今の事態に、設定されたテンプレートで対処しているのだろう。
 つまり、当初の市子。
 まだ、死ぬような悩みを抱えていない、いつもの市子なのだ。
 それでは意味が無い。それでは真相に辿り着けない。
 杜花のやり場のない怒りを、どこにぶつけていいのか解らない。
 他の結晶に、期待するほかないのだろうか。
 心の奥がチリチリと焦げる。この接触は……あまり身体に良くないのだろう。
「ごめん」
「謝ってばかり。いつもそんなに謝らないでしょう、どんな事しても」
「市子が悪いの。市子が、こんなにも可愛らしくて美しいから」
「ここじゃ、誰に聞かれるか解らないわ……もう、ダメって言っているのに」
「うん?」
 市子の頬が、赤く染まる。杜花以外には絶対に見せない表情だ。信頼の証、愛情の証明。
 誰にも犯される事がなかった筈の、杜花だけの市子。
 自然と、流れるように、杜花は市子の手を握り締め、腰を抱く。
「だ、だから、ここでは……」
 ……。
 ノイズ。
「モリカ、突っ込みすぎ」
 プッツリと全てが消え去る。
 杜花の観ていた光景が、感じていた体温が、跡形も無く消え失せた。
 杜花は支えを失い、その場に座り込む。
 隠し部屋から出て来た二子に対して、杜花は虚ろな視線を向ける。
 ……。
「心が開きっぱなし。長い間魔力に触れると脳幹が切れて飛ぶわよ。てか、ちょっと持っていかれてるじゃない。何があったか全然観れなかったけど、無理矢理介入してよかった」
 何事かを呟く二子が、廊下に座り込んだまま動かない杜花に手を差し伸べる。
「姉様には逢えたのね。何か聞けた?」
「……ううん」
「ううんって……モリカ?」
「いつもの、市子だった」
「……市子って、ああ、普段はそう呼んでたのよね。そりゃそうか、個人同士なら婚約者だったのだものね……モリカ、悲しい?」
「……悲しくない訳が、ないでしょう。辛くない訳がないでしょう」
「そうね。でももういないわ。いるのは、その代替え品の私だけ」
 二子の言葉が理解出来ない。
 酷い虚脱感を感じると同時に、本音を覆い隠していた筈の理性が吹き飛んでいるのだけは感じ取れた。抑えようにも抑えきれないものが込み上げる。
「こんなにも、想って、こんなにも、捧げて、こんなにも、貰って、私は――私の何もかもを、彼女が作ったのに……彼女は、私の半身だったのに……。おかしい、何もかもが、こんなの、あり得る筈が無い。市子が、私を置いて、遠くに行くなんてありえない。そんなの、そんなのおかしいよぅ……」
「モリカ」
 二子がしゃがみこみ、大きな杜花の身体を目一杯包もうと抱きしめる。
 まるで手が届いていないのに、それは温かかった。
 市子と同じ匂いがする。
 同じ温かさがある。
 同じ顔で、同じ声で、同じ雰囲気。
 違うといえば、その性格ぐらいだ。
 目の前の温もりを求め、杜花はたまらずしがみ付く。
 何が何だか、解らなくなる。
「ニコ、おかしい、おかしいんです、こんなの。私は間違っていない。市子だってそう。間違っているとしたら世界が間違っている。この世の中が狂ってる。そう思わないと、冷静でいられなくなる――市子の妹として演技が出来なくなるッ」
「落ち着いて――モリカ?」
「……殺してやる。市子を追い込んだ奴を……市子を悩ませた奴を……頭から引きちぎって殺してやる……ッ! もし今まだ生きているとしたら、呼吸しているその事実すら頭に来る……ッ」
「モリカ!」
「怒りで――頭がおかしくなりそう……なんで。なんで……う、うぅぅっぅぅッッッ!!」
 廊下に杜花の慟哭が響き渡る。
 何もかもを背負い込んでしまいながらも、決してその姿を見せなかった少女の怒りだった。
 市子の妹として振る舞う事が、決して誰にも市子を忘れさせまいとする行動そのものだった。
 市子の妹として恥ずかしくない振る舞いこそが、市子の権威を示す事だった。
 姉などと呼ばれたくなかったのは、姉はまだいると信じて疑わなかったからだ。
 世の中は間違っている。
 市子の居ない世界など、無いも同然だ。
 半身を失い、人はどうやって生きていけるだろうか。
 彼女の死を無視する事でその全てのリスクを回避して来た。だが、限界だったのだろう。
 幾ら強靭な精神を持とうとも、人間には心の許容量が存在する。どうにかこうにか、それをやりくりして生きているのだ。
 ある意味、今回の出来事は杜花にとって幸福だったのかもしれない。
 器が壊れてしまう前に、余計なものを排出出来た。
 まだ真実を知る機会は存在する。
 市子の悪い噂を消し去り、
 市子の最期の想いを知り、
 市子を追い詰めた人間を――この手でくびり殺す。
 市子は望まないだろう。
 市子ならば、杜花の幸せを願うだろう。
 しかしそんな市子も、自らの死によって杜花を不幸に追いやったのだ、死して尚決して弁解出来る立場にはないのである。
「……不様なところを見せてしまいましたね、ごめんなさい、ニコ」
 呼吸を整える。
 繕おうが、つぎはぎだろうが、平常心に見えるようにいるのが、杜花だ。その心にどれだけの傷を抱えていようと、他人に開いて見せる訳にはいかない。
 しかしどうも、七星二子が来てから、それが難しくなっている。それは二子の魔法の影響だろうか。それとも、二子自身の影響だろうか。
 これは容姿が似ているだけで、違うもの。七星市子の代わりなどありえない。代替え品などもってのほかだ。市子の代わりなどなく、そもそも、二子に失礼である。
「無理、しなくていいのに」
「無理しなきゃいけない。無理しなきゃ、届かない場所に答えがある気がするんです」
「一人じゃ背負いきれないわ。七星市子は、重すぎる」
「じゃあ貴女が背負ってくれますか」
「貴女が求めるという選択をしないじゃない」
「然り。その通りですね。まったく……不器用なんです、昔から」
「貴女……」
「……手紙、ありますか」
「うん」
 二子は結晶を懐に仕舞い込み、手紙を杜花に渡す。
 白い紙一枚。『本当に愚かで、いとしい杜花へ』と書かれていた。
「読んでないわ。七星の名に誓って」
「信じます」

『杜花へ。貴女は私の死にとてつもない怒りを覚えている事でしょう。私の所為です。ごめんなさい。でも、本当はこんな手紙を見つけて貰いたくなかった。それでも貴女は探すだろうから、書きます。近くに妹はいるでしょうか。義理の妹です。一番最初の手紙に、妹は私とは全くの別物と書きました。しかし、どうでしょう。一緒にいて、ほんの少しでも心を許したりしたことでしょう。貴女は私以外の人間に警戒心が強いから、私が注意すれば、余計に警戒してくれるものだと思いました。そしておそらく貴女は警戒した事でしょう。その最中でも、結局貴女は、義理の妹に対して、自分を少しでも見せている筈です。そして、どこかに私を、七星市子を見ている筈です。試すような真似をしました。でも仕方がありません。私はこういう人間だったのですから』

「――あの人は……もう、本当に……」
「七星だもの、とびっきりのね」

『貴女は妹を疑っているかもしれない。更にいえば、私の自殺原因なのではないかとすら、思っている。妹の名誉の為にも、ここで告白します。その子ではありません。その子は、姉思いの本当に良い子です。だから、お願いします。その子の為にも、これ以上の探索は止めてください。杜花には未来があります。私がそれを脅かしてしまった事実は否定できませんが、それでも、私は杜花に、もっと未来を見て貰いたい。妹は、私と同一視される事を苦に思いません。むしろ喜びを感じています。ずっとずっと近くなることに、快感を覚えています。その子は代替え品。私の、貴女の、もしかしたら、この国の為のものです。仲良くしてあげてください。 市子』

 これを、どう受け取れと言うのか。七星市子は、あまりに残酷ではないだろうか。そこまで配慮するならば、何故死んだ、何故こんな手紙を残したのか。
 これでは『もっと探してくれ』と、言わんばかりではないか?
「ニコ。本当は、御姉様が死んだ理由、知っているんじゃありませんか」
「知らないから、貴女宛の手紙を探してるんでしょう。結晶の件は別件なのよ。何故か一緒にあるだけ」
「正直な話、私はアナタと、貴女達を疑っています。七星という人達を」
「……姉様が自殺するとしたら、きっとそれしかない。だから言ったでしょう、私は詳細はしらねど、貴女の最大の味方であるし、最大の敵なのだと」
 今、杜花はとうとう、七星に敵対するような文言を口にした。
 疑っていながら、ずっと危機感を抱いていながら、決して口にしなかった言葉だ。
 しかしここまで来ると、もはや言わずには居られなかった。眼の前にその矛先を向けるべき相手がいるのならば、口に出さずには居られなかった。
 市子と同じ顔をした謎の人物。最初から何もかもがおかしいのだ。
「貴女を人質にとったら、七星は何か喋りますかね」
「いいえ。欅澤家が丸ごと無くなるだけよ」
「ニコ」
「うん?」
「貴女は今、私の味方ですか?」
「ええ。胸を張って言える。私は未だ貴女の味方よ、口は悪いけれどね」
「――では、少しだけでいい。その憎らしい貴女の胸を貸してください」
「……お安いご用よ」
 答えはどこにあるのか。何故市子は答えてくれないのか。二子はどこまで知っているのか。
 杜花の心が誤作動を起こしている。
 何をすべきか、何が出来るのか、どうすればいいのか。何一つ解らない。
 だからこそ、市子は前に出ろというのか。未来を見ろと言うのか。
 自分で杜花の未来を真黒に染めておきながら、それでも前に進めというのか。
 杜花はただ、二子の胸で啜り泣く。
 今日ほど涙を流した日は、過去に一度とてなかった。


 


 プロットエピソード2/錯覚残滓 了



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