2013年4月5日金曜日

心象楽園/School Lore ストラクチュアル5


 
  ストラクチュアル/5 恋慕クオリア 



 旧県社欅澤神社。
 建立は1620年。藩主導の下建造され、本社に建御雷神、経津主神を、摂社に保食神(稲荷)を祀る。
 社名は『欅多き山間に美しき所在り また山幸多く餓える事なく』というよみ人知らずの詩から付けられ、欅の名は後に町名になる。
 侍が刀を竹刀に持ち変え始める頃に奉られた神社で、敷地内からは当時の道場跡なども発掘されている。現在は調査を終え、宮司一族の古武術流派『欅澤神道無心流』道場が建つ。本格的な古武術からエクササイズ、食事制限ダイエット指南まで幅広く扱ってる(エクササイズ、ダイエット指南当は駅前欅街ビル二階)。
 代々女性宮司が治めており、現在は14代目欅澤花宮司。
 ご利益は必勝祈願、安産祈願、無病息災、五穀豊穣等。
 主な行事は1月1日歳旦祭、1月14日歳火祭(どんと祭)、2月20日欅澤神社例大祭……。
 アクセス手段は観神山駅より市バスで15分。
 宮司からの言葉
『身健やかに心逞しく。欅澤神社は女性からの信仰が厚く、現代を生きる強い女性たちの後押しをする役割を果たしています。神を拝むにもまず心と身体が必要です。日々絶え間なく動く大きなうねりの中に疲れても、微々たるものでも信仰心があればこそ、前を向いて生きて行けると考えています。当神社では建御雷神、経津主神と御祀りしていますが――……』

 電子ペーパーに落とした情報を手に、欅澤神社を望む。
 勢いで言ってしまったあと、引けなくなって綿密に計画まで立ててしまう自分が恨めしかった。
 年末正月など、一般家庭ですら忙しいというのに、泊まる家は神社なのである。計画した後、普通ならば絶対否定されるであろう許可も、何故か二つ返事で降りた。
 欅澤杜花にして『あのお婆様が私のお願いを聞いてくれるなんて、明日は地球が割れます』と言わしめるほどである。
 欅澤家の問題はクリアしたが、天原家はどうか。
 政治家家系の正月であるからして、とにかく挨拶挨拶、器量の良いアリスなどは、看板としていつも出ずっぱりの引っ張り凧であり、冬休みといえば労働期間そのものだ。

『年末年始はヒトのお家に御泊りします』
『待ってくれアリス。お父様を見捨てないでくれ』
『そうよアリス。お父様の支援者からの人気は貴女があるからこそなのよ』
『ベス、流石にそれは言いすぎじゃ……いや、でもアリスがいるとだな、やっぱりこう受けが違う訳でだな……』
『御姉様方にお願いして。御泊りしますわ』
『……お、男の家じゃないよな?』
『違いますわ』
『そ、そっか。御友達か?』
『もしかしたら将来を誓う可能性もあります』
『ええ? ベス、アリスはその、アレなのか?』
『……アリスも大人になるのね。母さん嬉しいわ』
『ど、どちら様にお邪魔になるんだ?』
『欅澤杜花様のお家に。神社ですのよ。許可も頂いておりますわ』
『けや……なるほど。解った。普段正月お前を使って悪かったな。羽を伸ばし……伸ばせるのか神社で?』
『御話では空も飛べるとか』
『ベス、アリスはその、アレか? 少し夢見がちに……』
『御上手なのね。しっかりやるのよ、アリス』
『はい、お母様、お父様。アリス、頑張りますわ』
『な、なんか解らんが、まあ粗相のないように。あ、挨拶は行くからな、娘を預けるわけだし。あれ、でも欅澤……』
『お父様?』
『花さんか……い、いや。うん。行く行くからな。逃げないからな』

 と言うわけで、何故か欅澤神社に最大与党の幹事長夫妻が挨拶に行くという事態に発展した。
 ただおそらく、欅澤花は動じないだろう。動じるとすれば欅澤家の男どもである。
 そして満田早紀絵はどうか。

『パパ、ママ。私年末年始は実家帰んないわ』
『なんだ、学院で過ごすのかね。まあ良いが』
『早紀絵ちゃんの顔を見るの、お父様が凄く凄く楽しみにしてましたのに』
『こら、早紀音』
『んー、三日以降に戻るね』
『そうか。お小遣いはいるか?』
『貰えるものなら貰うよ。御賽銭代』
『初詣に行くんだな。どこの神社だ』
『欅澤神社』
『けや……なるほど。欅澤さんとはどうなんだ』
『えへへ』
『まあ。お父様観て、早紀絵の顔。こんな顔私達に向けた事あったかしら?』
『早紀絵が幸せならば何でもいいな。うん。早紀絵可愛い早紀絵マイエンジェル』
『で、神社に御邪魔するのよ』
『そうかそうか。じゃあママと一緒に顔を出すからな、宜しく伝えてくれ』

 電話越しにそのようなやり取りがあった。と言うわけで、何故か欅澤神社に流通王夫妻が挨拶に行くという事態に発展した。
 ただおそらく、欅澤花は動じないだろう。動じるとすれば欅澤家の男どもである。
 それぐらいならまだよかったのかもしれない。所詮幹事長、所詮流通王である。
 問題はそこからだ。
 冬休みに入る二日前の事だ。
 突如欅澤杜花、天原アリス、満田早紀絵に対して職員室からの呼び出しがあった。どうやら電話らしいが、普通の電話といえば、内線の繋がっている白萩の電話にかかってくる筈である。職員室に赴くと、教員という教員が三人に振り返る。更に教頭に連れられ、向かった先は学院長室であった。
 初老の女性、学院長は締めるところを締め、緩める所を緩める、とても生徒達にウケのよい学院長だ。性格も大らかで知られており、まさかその学院長が手を震わせながら三人を待っているとは、流石に誰も予想しなかった。
 電話の通話ボタンを押すと、映像ディスプレイが全面に映る。
 そこに居たのは、なんと七星一郎であったのだ。

『やあ、杜花君。お久しぶりだね、パパだよ』
『御久し振りですお父様』
『そちらの二人は初対面だね。七星一郎だ。天原君所のアリス君と、満田君所の早紀絵君』
『お初にお目にかかりますわ。天原家三女、天原アリスです』
『あ、本当に若いんだなあ。良い男だねえ。満田家長女の早紀絵ですよ』
『いや、可愛いところが揃ってる。彼等が大事にするのも解るよ。急に呼び出して悪かったね』
『いいえ。私達に何かありましたか』
『うん。最近二子とはどうだい?』
『喧嘩したばかりです。なんとなく、御解りでしょう?』
『はは。いや、参ったな。兼谷からも聞いてる。二子が悪いね。ああ、そうそう。君たち年末年始、御泊り会だろう?』
『な、なんで解るんですの?』
『解っちゃうんだな、これが。まあほら、七星系列の子って沢山いるからねえ。そんな事も耳に入るよ』
『おいモリカ、このおじ様平然とスパイ居ます宣言したよ』
『解りきった事ですね。それで、どうしましたか?』
『うん。仲直りに二子もいれてくれないかな。ちょっと先走っただけで、良い子なんだよ本当は』
『……アリスさん、サキ、どうしますか』
『七星一郎にお願いされて断るって日本じゃ生きていけないってことじゃないか』
『私まだ死にたくありませんわ』
『という事で、大丈夫です。ところでお父様』
『良かった。なんだい、御礼に何でも聞くよ、杜花君』
『どのくらいまでが、貴方の想定内なんですか』
『――ふむ。九割九分かな。ただ残り一分は不確定要素そのものだ。僕もビックリだよ』
『有難うございます』
『欲が無いね。何でも答えるのに』
『貴方に聞く必要が出来たら、お電話さし上げます。面と向かって御話しましょう』
『おお、凄い目だ。僕を殺そうって奴は数多と居たが、君ほどの迫力は無かったね。何か不味い事あったかなあ。まあ大丈夫、挨拶に行くよ、新年のね。それじゃあ二子を宜しく頼むよ』

 というわけで、何故か欅澤神社に日本国王が挨拶に行くという事態に発展した。
 これには流石の欅澤花も首を傾げるだろう。欅澤の男たちに関しては失神もあり得る。
 ちなみにそのあと、七星の系列会社が配送会社をミツタ運輸に切り替えたり、七星の系列会社から天原家に対する支援者が増えたり、七星の系列会社が一斉に欅澤神社の氏子になったりという出来事があったが、気にしない事にした。
 やる事の桁が違うのだ、いちいち反応していたら七星とは付き合えない。
「七星怖い。聞いてよモリカ、あれ以来ウチの株価が上がりすぎてヤバイ。規模がヤバイ。小国なら一撃で滅ぼせるくらいの経済操作」
「支援企業が百単位で増えたんです。こりゃ総理行きますわね、お父様」
「御札の初穂料だけで八ケタ行ったそうです。賽銭箱も千円硬貨で満杯とか。恐ろしいですねホント。ちなみに全部孤児院に寄付したそうです」
 七星一郎のお願いに答える、とはこういう事だと実感する。
 気にしないようにしたが、やっぱり無理だった。
 十二月末。欅澤神社。
 境内を見渡せば、あちこちにブルーシートをかけられた屋台が見受けられる。祭りの前の静けさというのは、一種の高揚感がある。生憎アリスは屋台で買い食いなどした事がないので、今回が初体験になるだろう。
 天原家において神社に用事といえば、衆院選必勝祈願くらいである。
 周囲を望む。
 左手には手水舎、その奥に神楽殿。右手には社務所や御神木などが見て取れる。正面には拝殿、奥に本殿と、典型的な造りだ。
「他と一緒ですわよね?」
「はい、一般的な様式です」
 少し頭を下げて鳥居の左側を抜け、手水舎で左手、右手、口、柄杓と濯ぐ。
 拝殿に向かい、普段使わない為、わざわざ下ろして来た五万円札を奉じ、鈴を鳴らして二礼二柏手……一礼。
 色々願う事はあったが、取り敢えず必勝祈願だけにした。
 普段フザケタ調子の早紀絵に懸念があったものの、流石にこう言った事には慣れているらしく、卒が無い。
「神社に五万円札投げる人、直に観たの初めてですよ」
「カードは投げられませんもの」
「そうそう、私も下ろしてきたのよ」
 といって五万円札の束を投げいれようとする早紀絵の手を杜花が止める。
「いや、そういうお嬢様ギャグとか要らないので」
「え?」
「え?」
 二人の間に妙な沈黙が流れる。
「あ、親のお金とかじゃないよ? 一部現金化……」
「いえそういう意味で言った訳ではないんですけど。下手するとその束会社役員のボーナスですよね」
「そうそう。そんぐらい。えい」
 バサバサと音を立てて賽銭箱の中へと会社役員月収が落ちて行く。自分でもアレかな、とはアリスも考えていたが、この成金にはついていけそうになかった。杜花が頭を抱える。
「えーと……あとで回収しましょう」
「な、なんで?」
「私、お金の価値が解らない人と一緒に居たくないなあ」
「いやいや。解ってるって。大卒初任給が六十万ぐらいでしょう。良いパソコン一台くらい」
「解ってるのに何故」
「投資投資。ほら、欅澤神社大きくするって言ったじゃない」
「あー……え、結婚前提なんですか?」
「違うの!?」
「するんですの!?」
「え、どんな話になってるんですかそれ?」
「ええ。そりゃないよモリカ。身体だけの関係だったなんて」
「そ、そう言われると辛いですね……」
「法改正。重婚」
「アリスさん私利私欲で政治しないでください」
「馬鹿な。わたくしの望みが日本臣民の望みですわ」
「ダメだこの独裁者早く何とかしないと。でもそれは応援しようかな」
「あー……えーと。杜花さん?」
 会話の方向性が明らかに神社に似つかわしくない俗物的なものへと変化している所に、おっとりとした大人の女性の声が杜花を呼ぶ。
 視線を向けると、そこには和服姿の美しい女性が立っていた。雰囲気がとても杜花に似ている。
 アリスは訝る。
 杜花は一人っ子で、姉妹は居ないと聞いていた。眼の前の女性は高く見積もっても二十代後半だ。もしかすれば従姉かもしれない。
「あ、お母様」
「杜子ちゃんやっほ。ああ久々に見てもほんっと美人」
「はあ、お母様……お母様!? またまたまた、御冗談を、はは、アリス騙されませんわ」
「御久し振りね、早紀絵さん。そちらは、天原アリスさんね。御噂はかねがね。杜花の母の、杜子です」
 どうやら冗談ではないらしい。静々と頭を下げる姿が、それだけで趣深い。
 女系家族で、皆若くして婿を貰って子をなしているとは耳にしていたが、どうにもこうにも、母と言われてもピンとこない。
「天原家三女の、天原アリスですわ。杜花様とは懇意にさせて貰っています」
「天原ともなると、御忙しいでしょうに、こんな所ですけれど、ゆっくりしていってくださいね」
「とんでもない。此方こそ御世話になりますわ」
「杜子ちゃんいつみても綺麗だよねえ」
「早紀絵さん、年上をちゃん付けなんて、いけませんよ」
「ああ怒られちゃったってか怒られる為に言ったんだけど」
「ごめんなさいお母様。サキったら相変わらずだらしなくてスケコマシで」
「ふふ。あれね、ノーフューチャー」
「いや未来あるし」
 肩書きと観た目が相克する人間というのは、初対面からすると大変接し辛いものがある。しかも相手が杜花の母ともなると、どういう態度で居ればよいのか解らない。総理大臣に挨拶した方がマシな体面を繕えるだろう。
 杜花にとても良く似ており、目元などそっくりだ。
 杜花も将来こんな美人になるのかと思うと、それはそれで大興奮である。顔にも口にもしないが、嬉しい接し辛さだ。
 杜子に従い、境内の奥へと進んで行く。
 小路を進むと、やがて鎮守の杜にぽっかりと開いた空間が現れた。欅澤家の母屋である。
 初めて訪れる訳ではない。今年の文化祭で出張社務所などという催しをした際、何度か顔を出している。生憎杜子にも花にも多忙で逢えなかった為、以前は杜花の親類の禰宜に指導を頂いた。
 杜花自身は裕福ではない、とは言うのだが、それはアリスや早紀絵と比べるからであって、十分中流以上だろう。そもそも市子と比べればアリスも早紀絵も下流である。
「ただ今戻りました」
「おじゃましまー」
「御邪魔します」
 築数百年の家を改築しているらしく、日本家屋らしい様式と、現代建築らしい施行があちこちと入り混じっていた。
 今回アリス達が御邪魔するのは、使われていない離れである。
 土間から上がり、しっかりと磨かれた床の上を行く。家柄、こういった場所に来ない訳ではないが、杜花の家ともなるとひとしおだ。
 そもそも今回、杜花の家に御邪魔した理由が果てしなく不純である。
 杜花も祖母に説明はしていない。いや出来ない。
 欅澤花は『みんなで御泊りしたい』という御願いに対して『構わない』とだけ答えたという。
 離れに案内される。
 十五畳の和室で、窓からは庭園がのぞめる。畳みの匂いが鼻孔をくすぐり、何か懐かしい気分にさせられる。案の定掛けてある掛け軸には『平常心』とあった。暗喩かもしれない。
「日本人はやっぱり畳ですわね」
「アリスさんは、ハーフでしたか?」
 杜子が問う。明らかに観た目が外国人のアリスの発言であるからして、疑問もあるだろう。
「ええ。母はイギリス人ですの。国籍は日本ですのよ」
「あら、ごめんなさいね。他意はないの」
「いいえ。仕方ありませんわ。昔こそ悩みましたけれど」
 日本国で港が開かれて、はて何年たったか。
 そんな日本国だが、未だ西洋人の数は多くない。百万単位で居るのは、アジア戦火から逃げて来たアジア人ぐらいで、金髪碧眼ともなると数はやはり少ない。
 ともすれば虐めなどもありそうなものだが、居たとしても居友のような人間だけだ。それも今は知人である。
「そういえば、七星さんもいらっしゃるのよね」
「あとから来るみたいです、お母様」
「義理の妹と聞いたけれど、仲良くしているの?」
「ええ、良く慕ってもらっていますよ」
 杜花が笑顔で平然と嘘を吐いた。いや、方便というべきか。少なくとも、七星からの氏子が増えた事実は周知であろうから、何かしらがあるとは思っているだろう。
「家の事だから、杜花さんにお願いするわ。準備が終わったら、母様が御部屋にいらっしゃるから、ごあいさつなさいね」
「はい」
 早速部屋に荷物を置き、三人で母屋に向かう廊下に出る。途中、客間など空いている部屋で、数人の巫女や神職が手作業をしているのが観えた。新年の準備だろう。
「初詣にはどのくらいの人が来るのかしら」
「二万人くらいですね。大きな神社が近県にありますから、そちらの方がケタ違いに多いでしょう。此方に来るのは近隣の人達ですね。小さくても氏神なので」
「あ、あの巫女さん可愛いー」
「アルバイトの子ですね。市立観神山の。問題起こさないでくださいね、サキ」
「どうかなあ」
「結構いますわね」
「親戚からと、アルバイトさんで、年末年始は二十人くらいでしょうか」
「モリカは手伝わなくていいの?」
「御泊りが無ければ間違いなく駆り出されてるでしょうけれど。誰にも言っちゃだめですよ――大変だから、ラッキーです」
 杜花が声を顰めていう。その仕草がなんだか可愛らしい。
 やはり実家という事もあり、学院での気の張ったような杜花とは、ほんの少し違って見える。
「こんな年末年始初めてですよ。ああ、社務所での御手伝い、三時間ぐらい入れるようにしてありますから、お二人とも宜しくお願いしますね」
「やった。販売業なんて職業一生体験しないかと思った」
「金髪に巫女装束って合いますかしら」
「ありあり。アリスは何着ても大丈夫」
「まあま、皆さん年末年始は毎年忙しかったでしょうし、今年ぐらいは」
「そうですわねえ」
 そんな話をしていると、やがて杜花の祖母、欅澤花の部屋に辿り着く。
 杜花が声をかけると、中から祖母とは思えない、若い声が聞こえて来た。
 襖を開ける。三人で頭をさげて入出し、花の前に出る。
「かけなさい」
「失礼します」
「失礼しまっす」
「失礼しますわ」
 ただの祖母ではない。綿密に受け継がれた血を今に残す、欅澤家14代目当主だ。
 アリスは家柄、様々な御偉い様に顔を合わせて来たが、ここまで重苦しい空気で迫る女性は初めてであった。聞くところによると、花はまだ五十五歳だ。祖母というには若い年齢であり、杜子と同じく、年相応にはまず観えない。髪型から服装にかけて、隙がまるでない。
 瞳が違う。
 眼力とでもいうのだろうか、静かに安置される無名の名刀の如き鋭さだ。
「ただ今戻りました。この度はわたくしのワガママを聞いてくださり、誠にありがとうございます」
「おかえり。面白いの捕まえてきたね。まあ早紀絵はいい。そちらは」
「天原家の三女、天原アリスですわ。この度は御招きいただき有難うございます」
「ああ、藤十郎の娘ね。お父様は元気かい」
「はい。病気一つありませんわ。不躾ですけれど、父と面識が御有りですの?」
「藤十郎さんは柔道をやっていたでしょう」
「ええ。四段ですわ」
「下手糞でね。指導した事があったね。泣くほど扱いてやったよ。来るんでしょう、彼は」
「はい。挨拶に上がりますわ」
「杜花、四季彦に道場の掃除するように言っておきなさい」
「畏まりました」
 どうやら父である天原藤十郎は、正月から身体を傷める事になるらしい。最近運動不足だから丁度良いだろう、とアリスは納得する。
「それで杜花。聞いていなかったけれど、何でまた年末年始に御泊り会なんて思いついた」
「タイミングがなかなか合いませんでしたが、合致したのが年末年始でした」
「無理を言ったのは私ですの。ごめんなさい、お婆様」
「許可しておいて帰れなんて言わないよ。ほら、早紀絵何しに来たの」
「花婆ちゃんに聞きたい事あったし。あと杜花といちゃつこうと思って」
 流石というか、何と言うか。早紀絵はブレない。花の前でもそのまま満田早紀絵である。
「いい。解ったよ。杜花は好きになさい。お年玉だ」
「やったー」
「アリスも好きになさい」
「え、杜花様を?」
「いいよ」
「や、やったー」
「ちょ。お婆様その、私はですねえ……」
「ねえ杜花。貴方、七星に何かしただろう」
「何かと言いますと」
「最近羽振りが良くて仕方ないよ。神様も大喜びさね。まして一郎が来るんでしょう」
 一郎と、花は言った。
 この日本で、彼をまるで親族のように呼び捨てにする人間が、どれほど居るだろうか。何の躊躇いもなく自然に出た言葉は、しかしアリスに不思議な印象を与える。
「市子御姉様の、妹様が来ます」
「……それは何人目だ。どこの子だい」
「さて。存じ上げませんけれど、京都の出だそうです」
「解った。あとは良い。学院では早紀絵以外肩肘を張って疲れるだろう。ゆっくりしていきなさい」
「私も凄い頑張ってるし、肩肘張りまくりだし」
「小うるさい小娘だね。お前は少し仕事をしなさい。神楽殿の掃除」
「ええ、御泊りに来たのに!?」
「杜花嫁に貰うんなら一通りぐらい出来ないと困るだろう」
「モリカ、出来ないと困る? うち、メイド二十人ぐらいいるけど」
「家事分担すると、長く続くって聞いた事ありますね。空いた時間に二人で家事なんて、憧れません?」
「うっし。じゃあやるよ」
「御しやすい子だね。杜花とアリスはゆっくりなさい」
「はい、有難うございます」
「ご配慮感謝しますわ」
「うん。行っていいよ」
 そういって、三人は花の部屋を後にする。
 なるべく気を張らずにいようとしたが、花の前では難しかった。額の冷や汗を拭う。
 どうも、自分の父、更には一郎とも交遊があると見える。杜花も知らなかった様子で、意外そうな顔をしていた。
 離れに戻って御茶を啜りながら、杜花に問う。
「なんだか凄いお婆様ですわね」
「……信じられないくらい喋りましたね」
「ふ、普段そんなに喋りませんの?」
「ええ。しかも機嫌が良かった。まして私にあんなに優しくするなんて……明日には銀河が一つ消えるかもしれません」
 杜花が顔を青くして言う。冗談でそこまで言わないだろう。
「早紀絵さんは……」
「待ってアリス」
「はい?」
「昔からそうだけど、なんでずっと早紀絵さんなの?」
「早紀絵さんは早紀絵さんでしょう」
「早紀絵かサキにして」
「……まあ、良いですけれど。早紀絵」
「あ、何か良い。もう一回」
「早紀絵」
「うん。何?」
「良く解りませんわね。ともかく、早紀絵は花お婆様と仲が宜しいんですのね」
「孫よりも孫みたいな扱いされてる感凄い。あれかな、花婆ちゃんの好みなのかも、私」
 それは……あり得る。
 姉妹、もしくはそれに近いと想定される人物の中『組岡きさら』という子は、早紀絵のようにショートカットで痩躯の、ボーイッシュな人物だった。
 花は彼女達を守るために命をかけている。ただの仲の良い御友達では無かった事は確かだろう。
「何にせよ、お婆様もアリスさんを」
「待ってください杜花様」
「はい」
「昔からですけれど、なんで早紀絵はサキで、私はアリスさんですの?」
「アリスさんはアリスさんでしょう」
「素が出ると呼び捨てですわよね」
「ぐぬ……じゃあアリスで良いですか」
「はい。そう呼んでくださいな」
「アリス」
「うふふ。はい」
「アリスは、お婆様に気に入られたみたいですね。どうやらアリスのお父様とも、旧知のようですし」
「意外でしたわ」
「私もです。実際のところ、私はお婆様の横のつながりを、一切知らない。喋りませんし。一郎氏とも知り合いみたいですね。ああ、なんだかもう、本当に。私達って……」
 一体、どんな因果で繋がっているのかと、そう考えるだろう。
 杜花と早紀絵の調べでは、どうやら自分達が『用意された市子の友人』である事が予想されている。
 利根河撫子その周辺、そして幻華庭園、符合する部分が多い。
 当然、用意されたからと言って、自分達が台本通りに何かを演じている訳ではない。アリスが市子を慕い、杜花と早紀絵に恋心を抱くのは、当然ながらアリスの好みだからだ。しかしそれでも、どんな構造になっているのかは、気になる。
「花婆ちゃん、話してくれるみたいだね。誰が聞く?」
「私ちょっと遠慮したいです」
「ちょ、モリカ、孫でしょ」
「あんまり孫的でないというか……絶対二人の方が訊き易いし話しやすいと思いますよ」
「じゃあ、わたくしが」
「どうぞどうぞ。ごめんなさいね、アリス」
「いいえ。個人的にも御話してみたいですし」
 これは本音だ。もしかすれば、これからもずっと御世話になるかもしれないのだ。今から友好を深めても問題有るまい。
「よし、じゃあ私神楽殿の掃除してくる」
「なんだかごめんなさい、お婆様ったら」
「ううん。でもご褒美頂戴ね」
「……欲しいのなら」
 そう言われ、杜花はほんのり顔を紅くして伏せる。
 それは早紀絵に向けられたものだが、アリスもそんな姿を見て、胸にクる。可愛い。
「くふふ。ああ、やだもう、杜花その顔可愛すぎ」
「ほんとほんと」
「や、やめてください、二人でからかって。もうっ」
 早紀絵が跳ねるようにして、テンション高く部屋を出て行く。
 早紀絵が出て行くと、一気に静かになってしまった。普段からそういう場面が無いわけではないものの、人様の家ともなると、そうも行かない。
 杜花と視線が合う。彼女は静かに笑う。
 そうだった。
 御泊りに来たのは、花に話を聞きたいという事もあるが、それは実際のところ、アリスからすればサブイベントにすぎない。メインは眼の前の御姉様である。
「な、なんだか旅館に来たみたいですわ」
「そうかもしれませんね。私も普段は此方に上がらないので。あ、露天風呂もありますよ」
「ホントですの?」
「どぅいっとゆあせるふ。お父様とお爺様がDIYに凝っていまして、自作です。なかなかの出来で、大理石まで使ってるんです。金使いすぎだ馬鹿どもと、お婆様は怒っていましたが、意外とお気に入りみたいで」
「本格的ですわね。ああ、それは楽しみかも。一緒に……あ、あはは」
「そうですね。あ、お酒も買ってありますから、一杯やりながら」
 女子高生として、乙女として、お嬢様として、その会話はどうなのかと思うが、無類の日本酒好きのアリスとしては喜ばしい。良い純米酒ならば、それこそ何合でも行ける。そこに杜花まで加わったらどうなるんだろうか。想像して頭が茹る。
「さて。家を案内しましょう。広くありませんけれど」
「お、お願いしますわ」
 広くは無い、とは言うが、和室六部屋、洋室二部屋、リビングダイニングに広い炊事場、トイレは四つで更に離れが一つ。プラスして二階建ての別宅が一つある。
 御風呂とシャワールームは別で露天風呂までついている。まるで隠れ家的旅館にでも来たような雰囲気だ。
 アリスの家はというと、まるっきり洋館のような作りで、別荘も幾つかあるが、昔ながらの天原家だ、華族趣味でどこも大体西洋風である。
 欅澤家の母屋は横に長く、当然縁側も長い。一番奥まで行くと、そこが杜花の部屋だという。
「ちょっと待っててくださいね」
 そういって部屋に入って五分程。杜花が扉から顔を覗かせる。
「あんまり綺麗な部屋じゃありませんが」
 中に入ると、日本家屋らしい空気がまるでない洋室が見て取れた。
 どうやら杜花の部屋だけは設計そのものが異なるらしく、十畳ほどの空間にはフローリングの床に白い壁紙、趣味の良い調度品が光る。
 雰囲気を出す為か、空調は隠れる作りになっており、電燈なども真鍮製のシャンデリアである。外を望む窓枠さえも彫刻が施してあり、ちょっとした西洋モデルルームの趣だった。
 そして何より、ベッドが天蓋付きである。
「まあ。杜花様というと、茶室のようなイメージがありましたけれど」
「趣味で……。お父様とお爺様のDIY精神がですね……いえ……私のワガママ……はい」
「もう本職にしたらいいじゃありませんの。あら、このクローゼットは渋いですわね」
「あ」
 クローゼットに眼をやる。
 茶褐色で細工も施してあり、部屋にマッチしているのだが、どうもクローゼットの隙間から、ピンク色の布がはみ出ている。
「あら、何か挟まって……」
 フリル、だろうか。ピンク色のフリルが挟まっている。
 クローゼットというくらいなら、恐らく収まっているのは衣装だろう。で、ピンクである。
 アリスは杜花に振り向く。
「杜花様?」
「い、急いで片づけたもので。はは、お恥ずかしい。まあま、此方に来てくださいよ」
「な、なんで遠ざけますの」
 それだけだろうか。
 全体的に調和はとれた部屋なのだが、ところどころ、何かこう『空き』のような部分が観える。そこには何かしらを置いていたのではないかという隙間だ。
「部屋を出ましょう」
「そんな。良いお部屋じゃありませんの。私、好きですわよ?」
「いやいや。アリスやサキなどの部屋に比べたらきっと粗末ですし、さあ、出ましょ……あっ」
 振り向いたアリスの後ろで、ガコッという音がする。改めてみると、クローゼットが開き、中からピンクの衣装や、熊のぬいぐるみなどが顔を出していた。
「杜花様の御友達で?」
「……ええ、まあ」
「杜花様、こういったものも着るんですのね」
「た、たまに」
「アリス、見てみたい」
「いえ、そんな可愛くされても。それはちょっと。人さまに見せるものじゃ。部屋着ですし」
「何も隠す事ありませんわ」
「恥ずかしいです」
「着なくてもいいですの。じゃあ、写真とかは?」
「……」
 笑顔で迫るアリスに観念したのか、杜花が傍らからタブレットを取り出す。二世代ほど前のものだろう。
 杜花が操作すると、無指向性ホログラムが展開、一つの映像が空間に浮かぶ。三次元立体表示(モデルグラフィクス)で、杜花の全体像が回転して観えた。
「……わお」
「誰にも言わないでくださいね」
 その映像は、フリルがたっぷりあしらわれたピンクと白の衣装を着こみ、ぬいぐるみを抱える杜花の姿である。
 とても嬉しそうに笑い、撮影者に向けてアピールしていた。恐らく相手は市子だろう。
 可愛い。
 アリスは瞼を瞬かせる。どちらかといえば強いカッコいい、でも控えめでお淑やか、というイメージが定着している杜花とは正反対だ。まるで子供のように屈託の無い笑みを浮かべる姿は、これが格闘怪物であると言われても誰も信じないだろう。
「ほんと、市子御姉様しか知りませんから、ほんと。家族にも内緒に……」
「可愛い」
「え、いやその」
「杜花様これ可愛いですわ。ああ、お人形さんみたいっ」
「し、身長175センチですけどね……脚も太いし……筋肉ついてるし……細工無しで板とか殴って割れるし……和弓とか普通に避けられるし……」
「い、いやいやいや。それはそれで良いじゃありませんの。強い杜花様は強い杜花様で。この映像くださらない?」
「だ、ダメです」
「くださいな」
「そんな、駄菓子屋さんで御買物するみたいに言われても」
 アリスは覚悟を決める。ソファに座る杜花の隣に腰かけ、その手を取る。
 欅澤杜花という人間は思いの外押しに弱い。彼女自身に関わる余程の事でない限り、なんだかんだと首を縦に振る。あまり多用すると嫌われるので、加減が重要だ。
「拡散しないでくださいね。特にサキ」
「個人で楽しみますわ。あ、圧縮はいりませんから、そのままくださいな」
 携帯端末を取り出し、データを受け取る。どうやらオマケもくれたらしく、フォルダには何種類かの立体モデル映像が保存されていた。
 どれもこれも、ここ最近はまるで見せていなかった、華やかな笑顔だ。
「可愛らしい」
「面と向かって言われるとやっぱり恥ずかしいですね」
 この笑顔を取り戻したい。
 なるべくなら、笑って暮らし、笑って卒業したい。
 二人で、三人で、何の憂いも無く、将来を見つめたい。
 これからを歩んで行く人間が、高校生時分から人の死を引きずって生涯を過ごすなんて真似はしてはいけないのだ。悲しむべきものはあるだろうが、区切りは付けねばならない。
 死んだ人間とて、親類や恋人の不幸は望まないだろう。
 市子について、アリスは区切りをつけている。
 勿論思い返せば悲しくもなるが、いつ何時も忘れずにいられずにいて、私生活に支障をきたすなんて真似はしない。
 杜花は偽り続けて来た。本来ならばきっと時間が解決しただろう。一年経ち、やっと整理を付け始めたというのに……、問題はそう簡単には片付かなかった。
 髪をかきわけ、杜花の横顔を撫でる。彼女は何も言わずその手を取った。
「ずっと嫉妬していましたの。市子御姉様の一番は私なのにと」
「良く睨まれましたね」
「でも、長く付き合えば良く分かった。私は貴女達の間には入れる余地もないのだと。それはそれで悔しくて、私は市子御姉様から貴女を引きはがそうとすら考えていた。二人とも、私では手の届かない人間なのだと解っていても」
「私は、怖かった。貴女がいつか、市子御姉様を攫って行くんじゃないかと。そもそも、七星としては間違いなく、御姉様と貴女の組み合わせを欲していた。私はイレギュラーです」
「そしてこんな形になるなんて、誰も予想していなかった」
「こんなダメな人間が好きなんて、アリスも変わってますね」
「市子御姉様のようには、まず行きませんけれど。私、杜花様を幸せにしたいんですの。気持ちは解りますわ。でも、杜花様には未来がある。私と、それに早紀絵なら、貴女にまた、本当の笑顔を取り戻せますわ」
「きっと色々、大変ですよ。ご存じの通り、私はまともではないし」
「何も構いませんわ。こうして手を繋いでいる時、私は自分を偽れませんもの。もう、ずっと心臓がドキドキいってて、ちょっと倒れそうですのよ」
 顔が赤くなるのを抑えて、杜花の手をとり、胸元に寄せる。杜花は恥ずかしそうにしながらも、アリスの瞳から眼を離さない。茶色の瞳がまっすぐ此方を向いている。
「ご存じの通り、今日はその、とっても不純な目的で来ましたの」
「ええ」
「で、でも。いきなりはやっぱりその、怖い。杜花様、キスしてくださいな」
 杜花が小さく頷く。唇に触れる程度のキスだが、彼女からしてもらったのは初めてだ。
 唇を離すと、アリスは耐えきれず、思わず破顔した。杜花からの体温が、香りが、刺激が、たまらなくうれしい。
「あ、あはは。ああ、やだもう。杜花様ったら。なんだかエッチですわ」
「してほしいって言ったのはアリスなのに」
「が、頑張って勉強してきましたの。だからその……私、このお休み中にその……えへへ」
「勉強?」
「ど、同性同士の。その、交わり方と言いますか……」
「どこでそんな」
「ネットと官能小説と漫画ですわ」
「なんか色々ダメな気がしますね、それ」
 早紀絵から色々と話は聞いているが、杜花は半端ではないらしい。早紀絵にしてそう言わしめる杜花であるから、そもそもそんな準備はせずとも、全てまかせてしまえばよいのだが、それはそれでアリスのプライドが傷つく。
 しかし予習などどこでしたら良いのか解る訳が無い。仕方なく、ネットの掲示板で伺いを立てたところ、各種指南サイトや小説漫画を勧められた。
「でも流石にいきなり双頭ディルドは難しいと思いますわ」
「今すぐその本捨てた方が良いです」
「頑張りますわ」
「そんなに肩肘張らなくても……私が上手かは知りませんけれど、その。まかせてくれればたぶん」
「やだ、男らしい……」
「女です」
「杜花様なら何でもいいですわ」
「サキじゃあるまいに……」
 杜花に縋りつく。だいぶ気分が高まってしまった。
 胸の奥からこみ上げるような欲求ともなると、呼吸を整えるのも難しい。あ、もしかしたらこのまま早速始まってしまうのではないか、という懸念がある。
 思わず顔をあげ、杜花を観た。
「……アリス?」
「あ、ああ、その。まだ、身体も洗ってませんわ私!」
「私は野獣か何かですか。ほら、部屋を出ましょう」
「あら、どちらへ」
「バスがある内に、街に買い物に行こうと思っていたんです。一緒に行きますか」
「え、ええ。勿論ですわ」
 取り敢えず状況を回避する。今からでも悪くはないのだが、もう少し準備はほしい。そういう意味で、二人でデートに行くのは好都合だ。
 早紀絵には申し訳ないが、これは良い機会だ。杜花と二人で出掛けるのは一体何時ぶりだろうか。折角の忙しくない年末年始だ。こんな機会は今後あるまい。
 大声で憚るような目的で来た訳ではないのだが、意味するところは実際複雑なのだ。
 欅澤杜花を押し留める。それが最大目標だ。
 もし、何らかの方法で記憶を引き継いだ二子が、市子として振る舞うようになった場合、懸念されるのは杜花の不安定に揺れる心である。
 杜花の依存は果てしなく深い。
 今の今まで生きてこれた事自体が奇跡に近い。逃避し続けて来たからこそ弊害を免れただけで、彼女は半分死んでいるのだ。
 早紀絵もアリスもそれは良く承知している。
 市子という人物はもう居ない。
 例え七星がとんでもない技術でもってして、七星市子の記憶を復元したからといって、それは生前記憶を残したデータに過ぎないのだ。親友以上の感情を抱いている彼女に、死人を愛させる訳にはいかない。
 だからこそ、彼女の為になんでもしてあげたかった。
「杜花様」
「はい?」
「絶対離しませんわ」
「そ、それだけ聞くとなんだか怖いですね」
「ひどい!」
「嫌われましたか、私」
「ひどいので離しませんわ」
「アリスってこんな甘え方するんですね」
「あぐっ……行きますわよ、ほら」
「もう」
 杜花が呆れたように、でも嬉しそうに笑う。今はほんの少しでも良い。まだ時間はあるのだから。



 一時間に一本しかないバスで麓の欅町に赴く。
 周囲はどこも浮かれた空気があり、学院などよりも強く年末を意識させられる。基督教文化行事から突然日本文化行事に移り変わる様は、数十年前から大差はなかった。
 ただ欅町の場合他の町とは異なり、平成テイストで煌びやかさも抑え気味である。
「しかし見事に地元密着的ですわね」
「若い子は隣町に行ってしまいますしね。ここに来るのは近くの学生か、七星企業従事者の家族でしょうし」
「それで、何を買いに?」
「お菓子」
「え?」
「お菓子です。甘いの」
「あー……」
 そういって近場のスーパーに入り、他に目もくれずお菓子コーナーへと赴く。
 持ち込みは出来るが、他の眼が気になる学院では工場生産的なお菓子は貴重だ。この機会に食べてしまおうという事だろう。
 アリスといえば、そもそもスーパーで御買物、などという事自体が初体験に近い。
 値札を見る度一喜一憂する。
「あ、これお安いですわよ。へえ、一万円しないものなんてありますのね……」
「アリス」
「はいな」
「腕組むのは良いんですけれど、籠を持つとお菓子が取れないです」
「じゃあ私が籠を持って、杜花様が取ればよいのではありませんこと?」
「その発想はありませんでした」
 どうやら腕組みは良いらしい。籠を預かり、杜花に付き合う。
「これ、何ですの」
「これはお菓子というより携帯食糧ですね。栄養補給スナック」
「ああ、非常食?」
「うーん。ほら、小腹って空きませんか?」
「ありますわね。食べませんけれども」
「あれを埋めるものです。あ、アリスはこれが良いかも」
 そういって杜花が籠に入れたのは、イギリス製のショートブレッドだ。輸入商品も扱っている様子である。
「私日本人ですのに」
「美味しいんです。何かと食について揶揄される国ですけれど、これは完璧です。クッキー好きでしょう?」
「お母様、たまに張り切ってお料理するんですけれども、大体日本料理か台湾中華ですのよね。母国の料理は、と訊くと、苦い顔をされてしまって。はい。あ、これは?」
「これはその、なんと説明したものか」
「理科実験具? お菓子コーナーに?」
「此方の粉と此方の粉を混ぜると、反応して泡が立って練るとなんか不思議な味が……」
「ああ、理系啓蒙のお菓子なんてありますのね。へえ」
「なんか違うような」
「ふふ」
「どうしました?」
 まさかこんな日が来るとは夢にも思っていなかったのだ。
 好きな人と一緒に買い物に出るなどという、何気ない出来事でも、アリスは心が躍る。今日は朝から心臓が余計に働きっぱなしだ。
 アリスよりも背の高い杜花を見上げると、杜花もまんざらではないらしく、恥ずかしそうにする。
 こんな顔が毎日見れたのならば、他に何もいらないだろうとすら、思えてくる。
 勿論現実的なアリスは、それが夢見がちな発想であるとは自覚しているが、やはり眼の前にある幸せには、周りの物も霞んで見えてしまうものだった。
「杜花様、杜花様」
「なんでしょう」
「私は良く言われるのですけれど、杜花様から見ても、私は可愛いでしょうか?」
「……可愛いですよ、凄く。なんでこんな子に気に入られてるんだろうって、たまに思います」
「杜花様も可愛いですわよ」
「かわ……アリス程じゃないです」
「んふふふっ。ああ、こんな時間がずっと続けば良いのに」
「大げさですよ。ほら、お会計しないと」
 会計を済ませて、時計を見ればまだ一時半という中途半端な時間であった。
 ピッタリ一時間ほどバスの待ち時間がある為、そのまま近くの喫茶店に入る。チェーン店で、大した凝りは無いが、短い時間を潰すにはもってこいだ、と杜花は言う。
 問題は、アリスがこんな店に入った事がないという事ぐらいだろう。入るとしても、大体グレードが高くて、コーヒー一杯で四千円を超えるような店である。
「あら、一杯千円ですのね」
「まあ、チェーンですし。席代ですよ」
「なるほど。じゃあ杜花様と同じもの……あれ、ウェイターは?」
「カウンターで貰ってくるんです」
「あ、学食と同じようなものですわね。お会計もそこで?」
「はい」
「……あの、お菓子に説明とか、その、パティシエの一言とか」
「工場生産だから無いでしょう」
「そ、そうですの……調理場もありませんわね、そういえば。へえー」
 妃麻紀と入った喫茶店でも多少のショックを受けたが、此方はその比では無い。
 ひと気も多く、以前のようにゆっくり何時間も、という訳にはいかないのだろうと、一人納得する。
「一般的って、此方の事ですわよね」
「まあそうでしょうね……あ、なんだかごめんなさい。配慮も無く入ってしまいました」
「とんでもない。きっとこういう所に入らずにいたら、政治家になった時に『天原氏は普通の喫茶店にも入った事がない。金遣いが解らない。庶民感覚ー』って批判されていたに違いありませんわ」
「お金持ちが消費しない世界とか資本主義的に最悪なのに。いるんですかそんなの」
「いるそうですわ」
「たぶん共産主義者でしょう。しぶとい事です」
 取り敢えずアカの所為にして、世間知らずを繕う事も無く片づける。
 コーヒーの味は可も無く不可もなく、ケーキも無難でいう事はない。そんな事よりも何でも美味しそうに食べる杜花の姿を見ている方が有意義である。
「杜花様はお料理が御上手ですわよね」
「どうでしょう。ほら、寮の子達は、あの通りですし」
「わたくしも人の事は言えませんのよね。塩と砂糖を間違えるし」
「それはただおっちょこちょいなだけじゃ……ああ、カレーの日にご飯を炊き忘れた私が言えた義理はありませんけど」
「一か月ぐらい前ですわよね。確かあの時は一年組が……あ、ご飯が少しべっちょりしていたのは」
「不覚。急いで炊いたもので……ん」
 もう懐かしい話になってしまった話題を取り上げていると、杜花がほんの少し目線を横に流す。
 何事かとアリスも目を向けると、明らかに解りやすい程チャラチャラとした男性が二人、此方を見ている。
 どこかで見覚えがある。
「あら、この前のチンピラ、じゃなくて夜のお店の方」
「あ、アリス、あのですねえ……」
「あーれー。この前のお嬢様じゃーん。どしたのどしたのー。今日は二人ー?」
 この前のチャラ男さんである。
 以前は武藤の覇気だけで退散したが、今日といえばうら若き乙女二人組だ。
「ええ。デートですのよ」
「まーじで。ってことはそっちの可愛い良い子もミカジョ? よろしくぅ」
 金髪男の目線は、杜花の胸に行っている。確かに、解らなくもない。あれは質量もインパクトが大きい。杜花は眉の端をピクリと動かしてから、男に挨拶する。
「ごきげんよう。アリス、お知り合いですか」
「以前武藤が追っ払ったお店の方ですわね。今日は此方に?」
「そうそう。君らみたいな可愛い子探してたのよ。今日あのデッカイ御兄さんは?」
「デートに連れてくる程無粋ではありませんのよ、私」
 武藤が居ないと解り、後ろに控えていたもう一人が近づいてくる。
 サングラスを外し、彼は杜花を凝視した。
「っべー。可愛いなあ。ねえねえ。お茶してるならさ、僕等も混ぜてくんない?」
「柳瀬、おい」
「なんだよ大辺。すげー可愛いだろうよ。諦め……なに?」
「柳瀬、やめ」
 どうやらサングラスは、杜花が何者なのか知っているらしい。
 必死に柳瀬と呼ばれる金髪の方を揺すっている。
 ――杜花が立ち上がると、大辺と呼ばれるサングラスがビクリと跳ねあがる。
「あ。す、すんませんその。こいつ女とみれば直ぐ声かけちゃって」
「観神山の子と解って声をかけるのですから、金髪さんも相当の度胸ですね」
「いやあ、それほどでもないよう。あ、お嬢さんスタイルすっごいね。名前とか教えてよ」
「――欅澤杜花です」
 確信を得た大辺が、柳瀬の肩を引っ張り下げる。大辺は半笑いで、額に汗をかいていた。
 アリスはそんな様子を、愉快そうに見守る。頼もしくて仕方が無い。
「はは。あの、杜花選手。ファンです。サインください」
「あ、そうなんですか。どこに書きます?」
 そういって、杜花は慣れた手つきで懐からペンを取り出す。杜花が町に出るという事は、こういう事もあり得るのだろう。
「おいおい、大辺?」
「や、やめろって。お前なんぞ五秒で心停止させられるぞ」
「え、何それこわい」
「す、すんませんホント。コイツ片づけておきますんで。有難うございました」
「いえいえ。応援有難うございます」
「うは。マジ嬉しいッス。頑張ってくださいッ」
「えちょ、大辺、待てって。あ、杜花ちゃん! 金髪ちゃんまたね!」
「ええ、機会がありましたら」
 そういって、大辺は柳瀬を引っ張って店外に出て行った。
 周囲の視線が少し気になるも、杜花は動じない。
「意外な所にファンが居るんですのね」
「町に出るとたまに。なのでペンも持ち歩いてます。あの金髪さん、なんか面白いですね」
「ええ、バイタリティ溢れる方ですわね」
 普段ならばBG付き以外で絶対外出出来ないアリスも、杜花がいるとなると話は違う。面倒事を避ける為に呼んでも良かったのだが、今日は杜花に頼りたかった。相手方に聞こえるように声を出したのも、わざとである。
「でも、杜花様が居てくれて良かった。一人じゃきっとお話出来ませんもの、ああいう方」
「そもそも一人じゃ出ないでしょう、アリスは」
「あン。それを言わないでくださいまし。いいじゃありませんの。杜花様に頼るという事実が必要なんですわ」
「だ、打算的ですね」
「わたくしか弱い乙女なので、守ってくださると有難くありますわ」
「え、仕込み?」
「ち、違いますわよ」
 杜花が笑う。なるほどその手があったかと、アリスは感心した。
「次連れてきて貰う時は、そうですわね、十人くらい仕込みましょう」
「要らないです」
 結局そのあと、杜花の身分がバレたのと同時に、アリスが天原藤十郎の娘であると露見した為、ちょっとした握手会&サイン会になってしまったので、早々に切り上げてバス亭へと向かう事になった。
 アリスは終始杜花の腕を掴んだまま離さない。
 どこからどうみても、同性カップルである。いまどき珍しくもないので好奇な目こそないが、そこはやはり観神山の誇る御姉様級の二人だ、異様に目立つ。
 他のカップル達とは雰囲気がまるで異なる。
 一人は黒髪で背が高く、コートを着ていてもその大きな胸が主張している。姿勢はまっすぐで歩く姿にブレがなく、とかく凛々しい。
 一人は見事な金髪で、どこに行けば出会えるのかといった趣があり、まさしくセレブそのもだ。場に似合わないという事で着飾ってこそいないが、アリスの場合容姿と雰囲気だけでファッションである。
 町を歩いていて一人出会えれば幸運という人間が二人、しかも並んで腕組みしているのだから、通行人が気にするのも仕方がない。
「問題といえば、スーパーの袋をぶら下げている事ぐらいですわね」
「何がです?」
「ちょっと嬉しいんですの。私達、きっと似合っていると思われてますわ」
「今日はその、アリスはずいぶん……」
「だって、そういう目的ですもの。まあ、なんてふしだらなんでしょう」
「……サキからは散々聞かされてますけれど、結局のところ、アリスは、私の何処が良いんでしょう」
 女として、女にそれを聞くのもどうなのか。思う所はあるが、面と向かって言われると難しい質問である。そもそも恋心を説明するのに論理が必要だろうかと考える。
 基準としては市子だろう。
 アリスにとって市子は神にも等しい。とても手の届く存在ではない。アリスの身に付けた瀟洒さは、その全てが市子に起因する。杜花と同じといえばそうだが、アリスの場合はそれが恋心に発展するほど、身近に感じられなかった事だろう。
 ただ杜花は違う。元からどこか所帯染みた雰囲気がある所為でもあろうが、彼女はもっと身近な尊敬すべき人物だった。
 小等部の頃からずっと見続けて来た彼女は、いつの間にか市子を持って行ってしまっていた。憎らしく思った事もある。しかし、市子を虜にしてしまう魅力があるという、その事実は論理的に説明出来る部分ではない。
 他人の物を欲したといえば、最悪に聞こえが悪いだろうが。
 彼女は強く、仕事が出来て、美しく思う。
 例え杜花が告白した事が真実だろうと、杜花にならばされても構わないとすら、思っている。
「なんででしょうね」
 バス停の待合椅子に座り、時計を見る。十分ほどで来るだろう。
「……嘘だとは当然、考えてません。とっても、嬉しく思ってます。二子の魔法……いいえ、あの超能力は、人の心に無いものを植えつけたりはしない。忘れさせたり、思いださせたり、する事は出来る筈です。だから、貴女が私を好ましく思っているのは、間違いなく、真実だと思う」
「関係ありませんわ。二子さんは。私は……離しませんわよ。ずるくたって、構わない。私は、貴女と一緒に居たい。……死人に、取られたくなんて、ありませんわ。私達は、生きているのだから。杜花様は、これからの未来がある。私が、早紀絵が、きっと貴女を幸せにしますわ」
「だから、こんな、年末年始に。それほどまでに、逸る必要がありましたか」
「解りませんの?」
 欅澤杜花は、地に足が付いていない。捕まえていないと、直ぐどこかに行ってしまいそうだ。
 アリスに告白した時もそうであったように、一人にすると、遠くに行ってしまうような、嫌な予感がある。もし、仮に二子が市子になったとしたら、杜花は耐えられるのだろうか。
 その状況、理解不能の技術、不可解な、死人の復活に、杜花が耐えられるだろうか。
「あの時は、止められてしまいましたけれど」
「ダメです」
「どうせ、早紀絵は言ったんでしょう?」
「……」
「何でもしますわ。貴女の為なら。だから、お願い、どこにも、行かないでくださいまし……」
 まるで、去り際の人間を引き止めるように、強く強く縋る。杜花は静かに、アリスの頭を撫でる。
「……私は、最悪な人間なのに。貴女は本当に、馬鹿ですね」
「馬鹿にならず恋など出来ますか」
「情熱的ですね。本当に。私は、なんて恵まれているのかと、逆に不安になります。状況が壊れて、壊れていない振りをして、引き摺って。そんな私を、貴女は好きという。私も、好きですよ。凄く」
「えへへ……はい」
 バスが来る。早紀絵はどんな顔をして待っているだろうか。きっと、怒っているに違いない。
 けれど許してほしかった。
 この困った人を留めておくには、今を見せる必要がある。
 今、自分がどれだけ、他の人に愛されているか、知らせなければいけないのだから。



 神社に戻って離れに行くと、そこではむくれっ面の早紀絵が、一人布団を敷いてテレビを見ていた。
『魔法拳法少女サディスティック崋山ちゃん』の年末特番二時間スペシャルだろう。
 布団を抱いてゴロゴロと転げ回り、そのままアリスの足元にまでやってくる。戯れに押してやると、彼女はそのまま転がって元の位置まで戻って行った。
「サキ、ただいま」
「……」
「早紀絵、どうしましたの。なんだか深海魚みたいな顔して」
「ずるいですわ」
「あ、なんかアリスに似てますねそれ」
「に、似てませんわよ」
「人が掃除してる時にデート行く人いるぅ?」
「買い物です」
「買い物ですわ」
「いや二人で行ったらデートでしょそれ」
「これから三人でここに泊まるのにですか?」
「……あ、そうか! ならいいや。まだ時間あるし。モリカ、次出る時は私も連れてって」
「はいはい」
「あー、何その反応。ちゃんと掃除もしたのに。あの花婆ちゃんにして『なんだ出来るじゃないか』と言わしめたこの家事能力を褒め称えても全然バチとか当たらないと思うです私」
 彼女は生粋のお嬢様だが、彼女個人のスペックは果てしなく高い。女たらしなだけで、任せれば大概の事を平然とやってのける。勉強とて上から数えた方が早いくらいだ。
 杜花が眉を顰める。余程の事だったのだろう。いや、もしかすれば花が早紀絵に甘いだけかもしれないが、少なくとも杜花には衝撃的だったらしい。
「サキ、ちょっと」
「なになに」
「おでこ出してください」
「ほい」
「んっ」
「くふふっ」
 というわけで、ちゃんとご褒美は贈呈された。
 アリスは冷蔵庫にお嬢様らしからぬアレソレを詰め込みながら、そんな情景を見守る。早紀絵の嬉しそうな顔といったら無い。
 今まではなんとなく、人様の家という事もあり、これから何かをするのだという意識はあっても実感は無かったが、杜花を留めるという事がどういう意味なのか、じわじわと心にしみるような気持ちが湧いてくる。そして主目的もあるが、やはり、この三人で一緒に寝泊まりするという、期待感は大きい。
 長期の休みに仲が良い同士で旅行に出かける機会もなかったが、今まさに、それに近い状態なのだ。
「早紀絵、ちょっと来てくださいまし」
「お、なになに?」
「少し首を傾けて」
「お?」
 自分も、大概な人間なのだと実感する。
 自分達は姉妹でも友人でもない。
 彼女の死後、杜花に集うべくして集ってしまった、欲深く、寂しがりの一団なのだ。誰かに寄り添われていないと不安で仕方が無い、不出来な子である。
 一人ひとり、非凡なものを持っていても、それ故に孤独も強い。
「あ、アリス?」
「三人で仲良くするんですもの。まだでしたわよね」
「あ、うん。嬉しいんだけど、アリス、顔真っ赤だよ」
「だだだ大丈夫ですわよ。キキキスぐらいなんともありませんわ」
「落ち着けし」
「アリスって、なんか急にキスしますよね。そういう性癖なのかな。今日二回目ですよ」
「性癖とか言わないでくださいまし」
「デートにいった挙句キス!? ちょ、モリカ私も」
「はいはい、サキはダメな子ですねー」
「ダメな子でいいですー、くふふっ」
 なんだかそれはずるい。
 アリスも杜花にしがみ付く。それを見た早紀絵が逆方向にしがみ付いた。杜花が眼を瞑って呆れた顔をしている。果してこんな状態、周りから見たらどう見えるのだろうか。
「杜花さん。二子さんがいらっしゃいま……し……たのだけれど……」
「お母様、これは」
「……いいのよ。杜花さん。私も解っていたもの。お母様もそのおつもりだったでしょうし……大丈夫、夜になって離れに近づく人はいませんから。大きな声を出しても、何をしても、私は……あ、御赤飯はいるのかしら?」
「アリス用にいると思うよ、杜子ちゃん」
「まあ、そうなのね。杜花さん、優しくしてあげなさいね」
「……どうして私の周りはこう、性に寛容な人ばかりなんでしょうね……」
「ああ、流石欅澤の女……因果な血……」
 何かに陶酔しているらしい杜子を連れて、杜花が出迎えに行く。
 窓の外を臨めば、庭園の向こうに黒塗りの車が一台止まっているのが解る。明らかに七星特別仕様車だ。
「うわごっつ。あんなの乗ってるのか、七星は」
「爆弾でも吹っ飛ばないそうですわよ」
「しかもあれでしょ、仕掛けた奴は七星の私兵団にぶちころころされちゃうって」
 七星に敵対する人間は多い。
 特に大陸のテロリスト、そして国内の共産勢力は七星を目の仇にしている。それを言うのも、七星の場合、法律にも警察にも頼らず、独自の防衛機構を有しているからだ。
 今の時代、大企業は独自の警備部隊を抱えている場合が多い。七星においては、その装備は常に最新式であり、下手をすれば国防軍レンジャー特殊部隊一個中隊と張り合えるという。
 噂、でしかないが、七星が台頭し、日本国土強靭化を掲げて以降、国内の反日勢力は勝手に瓦解していった。その裏に居たのが、七星の警備部隊ではないのか……という。
「怖いですわね、七星」
「怖いねえ、七星。あ、来た」
「……」
 杜花に連れ立たれて来た七星二子は、大きな鞄を無言で置くと、アリスと早紀絵を睨む。
 今回のイレギュラーにして『幻華庭園』的には必須の人物である。
 本来ならそこまで再現したくなどないのだが、七星一郎にお願いされては仕方が無い。
「……杜花の」
「あン? 何?」
「杜花の貞操を守りに来たの。貴女達、杜花に触らないでね」
 どうやら、最大の障壁でもあるようである。
「ヒトの貞操を勝手に守らないでください」
「だ、だって。アリスはオボコでしょうけれど! 早紀絵はケダモノじゃない!」
「反論出来ない」
「私も反論出来ませんわねそれ」
「私も反論の余地がありません」
「ここは野獣の檻だわ。こんなところに少女を放りこんで、何しようっていうの、早紀絵」
「いやいや、流石にそれは違う」
「私ですわよ、提案したの」
「アリスが? なんでまた」
「貴女に杜花様を持って行かれない為ですわよ」
「アリスもう少しほら、そういうのはさあ……まあいいか、本当の事だ」
「あぐっ……杜花、なんとか言って頂戴。そもそも何よ、私に取られない為って。杜花は私のよ」
「二子が寝言言ってるよ。ませるな十三歳」
「あ、貴女達と四つしか違わないわよ! ああもう。やだ。杜花、ねえってば」
「……少し御話ししましょう。二子」
「ホント? うふふ」
 思いの外ゲンキンな子である。杜花と二子は、手を繋いで離れを後にした。
 しかしどうも違和感が拭えない。
「……なんか子供っぽいな」
「やっぱり感じますか」
「うん。普段もっと落ち着いてたでしょ、あの子。それに結晶を手にしてから、もっと市子に近づいてた」
「……少し考えていた事なんですけれど、もし、あれが着脱可能で、今は装着していないとしたら? もしくは、データを上書きしているとか」
「鋭いね。じゃあ……あれは、素か。素の二子。でも、素の二子ってほら、杜花毛嫌いしてたっぽいじゃない」
「記憶自体はあるんですのよ、きっと。混濁しているのか、もしくは、本当に、杜花様が好きになってしまったのか」
「難しい子に難しい物与えた結果があの難しさだよ」
「ま、本来なら仲良くやりたい所なんですわ。あの子が許せば」
「まあ、同感……ねえアリス」
「はい?」
「十三歳なら……行けるかな?」
「いや流石にドン引きですわ。というか怖いもの無さ過ぎですわ」
「おお、アリスがまるでゴミでも見るような目で私を見てる……」
 早紀絵はともかく、二子の調子は気になるところだ。当初現れた頃よりも、格段に子供っぽい。しかし杜花には愛着があるとみえる。どうにもこうにもアベコベなのだ。
 御しやすくあればいいが、あの二子の事だ、癖は強いだろう。
 結局、杜花は七星一郎に直接何かを聞きだすような真似はしなかった。
 それは希望であるし、懸念でもある。七星一郎に根掘り葉掘り聞いて、その後にどのような影響があるかわからない。故に聞きださなかった事は後の憂いにはならなかった。しかし聞く機会を逃したのは、近い未来としては惜しい。二律背反的である。
 情報に対する懸念と、杜花が一応未来を見てくれているという希望。難しいところだ。
 やがて二子が杜花に連れられて再び現れる。何があったのか、濡れた猫のように大人しい。
「どしたの」
「花怖い」
 どうやら相性が良くなかったらしい。
 そもそも一個下です、と十三歳の子供を連れて来られたら花も首をかしげるだろう。
 とはいえ……もっと思う所はある。
 何せ二子は、撫子に似ているのだ。
「さて。皆さんは夕食までゆっくりしていてください。私は少し、鍛錬してきます」
「休日ぐらい休んでもいいじゃない?」
「落ち着かないんです。日課ですし」
「じゃあついてく。腕立て伏せの上に乗るよ」
「ではお願いします」
 そうして杜花と早紀絵が出て行ってしまった。
 残されたのはアリスと二子だ。アリスは少し気まずかったが、相手をしない訳にもいかない為、二子にお茶を出す。
「実家から?」
「そうよ。全く、年の瀬に何してるの、貴女達」
「なかなか機会がありませんもの、仕方ありませんわ」
「いつでもあるでしょうに。貴女、しれっと嘘吐くわよね」
 対面に座る二子は、呆れたように溜息を吐く。態度の大きさはいつも通りのようだ。
「本音を喋れというなら、喋りますわよ」
「聞こうじゃない」
「対貴女合宿ですわ。杜花様達と兼谷さんの一件も聞いてますの。プロを仕掛けて素人を脅すなんて、流石七星ですわね」
「所有権が此方にあるものを返してもらったまでよ。それとも何、杜花が素直にアレを渡す訳がないじゃない。兼谷が適任」
「調べましたけれど、結局あれは何ですの」
「単なる記録媒体よ」
「インプラントされている、と。御姉様も、貴女も」
「結構調べたわね。どこまで知っているのかしら」
「杜花様、早紀絵、私の統合的な見解なら、公開可能ですわ。何も考えないまま、貴女を迎えたりしない」
「そりゃどうも。ふン。こんな筈じゃあなかったのに」
 二子が鼻を鳴らす。どういうつもりかは知らない。溜息を吐きたいのはこっちである。
「不確定要素はありますけれど、結晶が記録媒体なのは間違いない。それを何故市子御姉様が隠したのかは、貴女達も良く分かっていない。どうやら結晶には市子御姉様の人格データや記憶が入っている。そして貴女はそれを手に入れて、七星市子になろうとしている。問題といえば、バックアップがある筈なのに、結晶を求めた事でしょうかね」
「全部終わったら、そんな考察も意味を成さないのに、良くやるわ。ええ、ほぼ満点よ。私は七星市子になる。それに、杜花は私の。貴女達は触らないで」
「そうならない為に、この合宿があるんですわ。冬休み後、貴女は何かをするつもりでいる。そうでしょう」
「バラすと詰まらないから喋らないわよ。ま、せいぜい杜花の気を引く発情雌猫演じてればいいわ」
「まあ下品な。超能力で読みとりましたの?」
「ほ、ほんとなんだ……い、いいえ。使わないわ。杜花にぶん殴られるから」
 一応反省はしているようだ。以前は起きぬけの杜花であったから命拾いしたものの、恐らく次は無いだろう。杜花の張り手を食らうなど、身の毛もよだつ。
 それにしても、彼女自身は市子になる事を自覚して、あまつさえ告白している。もう喋っても構わない段階にいるとみて間違いなかろう。
 折角だ。順を追って喋って貰おうではないか。
「ま、色々ありますけれど、仲良くしましょう」
「アリスって、案外図太いわよね」
「ぺらっぺらの精神で、市子御姉様の妹なんてしてませんわよ」
 二子が、クスリと笑う。
 子供っぽくなっても、御しやすいという訳ではないだろう。
 幸いまだ四日はある。
 どうにか……最良の方向に、導ければよいのだがと、アリスは頭を巡らせた。



 六時半を過ぎた頃、夕飯に招かれる。
 手伝いなどしなくて良かったのだろうかと思ったが、この日はどうやら花が調理場を仕切っていたらしく、杜花や杜子は辟易としていた。本当に特別な日以外は出てこないというのだから、これまた驚きである。
「お婆様、信じられないぐらい嬉しそうです」
「そんなに?」
「ええもう」
 長いテーブルには、上座に祖母、そして杜子と続き、杜花、以下欅澤の男性と早紀絵、二子が並んでいる。嗚呼、本当に女性上位の世界なのだなと納得はするも、問題は自分が何故か杜花の隣に居る事である。
 視線を巡らせると、並んで座る欅澤家の男性陣二人と眼が逢う。二人とも、なんと人がよさそうだ。
 杜花の父は欅澤四季彦。
 親戚の神社で派遣の禰宜をしていたところ、杜子と見合いする事になってそのまま結婚したという。全体的にこざっぱりとしており、大変好感が持てる。
 杜花の祖父は欅澤八雄。
 歳の頃は六十半ばだろうか。本人曰く『何時の間にか婿になっていた』らしい。どうなっているのかこの家は。勿論花は美人であっただろうし、特に不満もなかったという。常に笑顔で声も大人しく、正しく好好爺である。
 男性としてどうなのか、と言われると、アリスも首をかしげるが、この家らしいといえばらしい。
「学院時代を思い出しますわね、お母様」
「杜子、杜花」
 花の指示で杜花と杜子がお酒を注いで回る。いや、未成年なんだけど、なんて話が人様の家で通じる訳もない。まして花の指示はこの家で絶対だろう。
「ビールも飲みますよね」
「お酒は大概大丈夫ですわ。あ、いけませんわね、ふふ」
「お酒強そうですよねえ……」
 実家に独自の日本酒セラーがあるとは流石に言えない。
 しかし、普段大人数で食卓は囲っているが、一般家庭にお邪魔してごちそうになるのは、これが初めてだ。早紀絵に目を向けると、彼女も何だか嬉しそうにしている。というか場に馴染みすぎて違和感がない。
 かわって二子はというと、相当眉を顰めている。
 アリスにしてレベルの違うお嬢様が、まさかこんな席にはつかないだろうから、納得だ。
 夕食、というよりも宴会の態にある。本当に赤飯まであった。
「アリス」
「はいな」
 花に呼ばれる。何事かと思うと、手招きされたので、察して酒瓶を手にして近づく。
「察しの良い子だね。こんな事一つでも、その人間がどんな事を考えて生きてるのか、良く分かる」
「まあ、有難うございますわ」
「杜花」
「はい」
 杜花がお酒の入ったコップを持ってやってくる。花がコップを掲げたので、それに合わせて乾杯する。
 わざわざ三人だ。
「杜花様とこうしてお酒を飲むなんて、思いもしませんでしたわ」
「しかも一般家庭の食卓でビールですよ。アリスのお嬢様としての体裁が気になって仕方ありません」
 まあ、確かにと、ほんのり頷く。
 アリスは容姿で得している部分と損している部分が二分する。
 傍から見ればどう考えても、ホテルで夜景をバックにワインなど飲んでいそうだ。二子に連れられた時などそのままのイメージだろう。
 だが実際のところ、こうして気兼ねなくして居た方が性に合う。
 問題は似合わないという一点だ。
「お嬢様なんてものは、大したものじゃない。ちょっと上品なだけで、それだけだよ。みんな同じく人間さね。交われる時に交わり、笑える時に笑っておかねば。お嬢様なんて態を気にしていると、損も多い。得が少ないとは言わないけどねえ」
「花お婆様も杜子お母様も、学院の卒業生でしたわね」
「当時は今ほどじゃあないよ。けど勿論そういうのも多かった。私の周りに居たのは、特にね」
 恐らく、姉妹たちの事だろう。利根河撫子他の子たちだ。
 どうやら話してくれるらしい。
 ……見ると、杜花は頭を抱えている。花は本当に喋らない人なのだろう。
「杜花。よくもまあお前も……血は争えないのかね」
「杜花様はお婆様そっくりですわ。きっとお婆様も人気でしたでしょう」
「杜子」
「はい」
 主語が無くても伝わるらしい。杜子が持ってきたのは、焼酎である。
 酔わなければ喋れない事なのだろう。
 此方としては、きっと聞くだけで良いのだ。余計な事は必要なさそうである。
 杜子がお酒を注ぐと、花が一気にあおる。流石欅澤の女、飲みっぷりもタダものではない。
「……どこまで知った。どこまで調べた。何故調べた」
「観神山女学院占拠事件。利根河撫子。大聖寺誉。組岡きさら。欅澤花。知ったのは最近です、お婆様」
「市子御姉様からの繋がりで、様々と詮索しましたの。本来は杜花様が市子御姉様について、整理を進める為でしたのに、掘り起こしたら不発弾が出て来たようなものですわ。ごめんなさいね」
「そりゃあネットで検索しようと出てこないさね。徹底的に押さえつけたみたいだからね。私が何をしたのか、知ってるだろう」
「欅澤花は、利根河撫子、大聖寺誉を逃がす為に三人のテロリストを殺害、とありました」
「当時は必死だった。拳銃持ってる相手だ、加減なんてしてやれなかった。けれど、撫子も、誉も、救えなかった。きさらだけ生き延びたけれども、あの子もショックで、そのあと自殺したよ」
 結局……あの事件の姉妹たちで、生存者は花だけという事だろう。
 口を閉ざしてしまうのも仕方が無い。
 アリスはちらりと、遠くの席を見る。どうやら二子と早紀絵は話し込んでいる様子で、此方を見ていない。早紀絵には後で話すとして、二子はどうだろうか。まさか自分の親類の末路を知らない訳でもあるまい。
「今はもう、そんな事は起こらないだろうさ。ただ気がかりがある。杜花、アリス。なんだって、お前達は『私達に』似てる? 顔じゃない。身体じゃない。空気そのものが、当時を再現したようだよ。だから、老婆心で心配なんだ。そして……あの二子とかいうのは、何だ?」
「……ご存じの通り、七星一郎の娘ですわ、お婆様。利根河真の、何番目かも解らない娘」
「お前たちが泊まりに来ると聞いて、当時を思い出した。まさか杜花」
「幻華庭園」
「――……解った。後で呼ぶ。ただ忙しいからね、時間を見るよ」
「はい」
 花が俯く。その表情は重く、辛いものを堪えているようだ。それを観た八雄が花の傍に寄る。
「花さん、何か悲しい事があったかい」
「良いんだよ、放っておいてくれ。ああまったく」
 アリスがハンカチを差し出すと花はそれを受け取り、小さく礼を言った。
 壮絶な過去を乗り越え、生き残ってしまった妹が一人、ここに居た。
 一体彼女はどれほど悲しんだのだろうか。
 どれほど辛かっただろうか。
 想像すれば想像するほど、自分に重ねてしまう。
 それとは別に、花の口調はどこかに予定調和があった事を示していた。
 七星一郎が手を回したのは、自分達の代だけではないのかもしれない。恐らくは杜子も、その内の一人と数えられる。
「……この話は終わりだ。年末にこんな悲しい顔をしていたら、神様が逃げる。ほら、食べな」
 気を取り直したようにして花が言う。後だと言うのだから後だろう。焦る必要も無いと、杜花が頷く。
 三十九年前に何があったのか、それを知らねばならない。
 本来ならばヒトのトラウマを穿り返す行いであるし、聞き出せないのではないかという懸念はあったものの、花は協力してくれる様子だ。
 そもそも、話すつもりでいたのだろう。杜花、アリス、早紀絵、二子。この組み合わせが泊まりに来るという事実に、何かしらの因果を感じたに違いない。
「杜花様」
「ふぁい」
「あ、食べてからどうぞ。唐揚げ、美味しいですものね、仕方ありませんわね」
「んく。はい、なんですか?」
(幻華庭園の描写、的確ですわ。今日見せて貰った家の構造にそのまま。作者は……)
(お婆さまでしょうか。だとしたら文学少女だったんですねえ……意外すぎて明日には宇宙が一つ無くなりますね)
 作者は利根零子とあった。もしかすれば共著かもしれない。
 櫟と呼ばれる御姉様に集う、妹の二人と、もう一人。
 死が二人を別つまでと誓った櫟と園。
 それを羨む躑躅に、園と躑躅を取られまいとする木苺。
 だが結局、櫟は二人のどちらかを選ぶ事も出来ず、懊悩の中に自決する。
 木苺も自分の所為ではないかと悩み果て、妹の二人からは離れてしまう。
 当時の彼女達がモデルだとするならば、何故そんな悲惨な終わり方をしたのだろうか。もっと幸福な終わり方があっても良かっただろうが、著者が欅澤花だとすれば、嫉妬そのものかもしれない。
 自滅しようとも、櫟の利根河撫子と園の大聖寺誉を結びたくはなかったのか。著者が利根河撫子ならばそれはもっと複雑だ。
 だが現実の彼女達は、もっと悲惨な散り方をした。まだ、小説の別れ方の方が、マシだっただろう。
 そして小説においては、もうひとつ気になる点がある。
 それは宝探しの話で、結局見つからなかったものだ。それが原因で登場人物四人は以前に増して険悪になってしまい、櫟自殺の原因になってしまう。
 七星市子が何を狙って、この物語を採用したのか……アリスも杜花も早紀絵も、首をかしげるばかりであった。
「杜花」
 様々と思いを巡らせていると、花が隣で何かを思い出したように杜花を呼ぶ。
「はい?」
「卒業後はどうするつもりだい」
「家を継ごうと」
 以前から聞いていた話だ。市子の生前は恐らくお嫁さんが夢だったろう。
 今は聞いてあげるなと声をかけたいが、花にそんなものは通じないだろう。
 花は暫く考えた後、杜子に声をかける。
「はい、お母様」
「弟か妹を作ってやれ」
「え、ちょ。お母様、それはその、この子たちの前で言うような事では」
「杜花は自由にさせる。後継ぎくらいポコポコ作れ」
「わ、解りました……し、四季彦さん?」
「ううう、うん。わわわわ解った」
 どうやら杜花に弟か妹が出来る事が決定されたらしい。
 ……どうも様子がおかしい。
 場を和ませようというにはハードなお題である。
 良く見れば、花の顔は紅潮しており、明らかに酔っていると解る。
 そして今度は御鉢がアリスに回ってきた。
「お前は藤十郎の子だろう。家はどうする」
「三女ですので。政治家は目指していますけれど」
「杜花はくれてやるから、三分割しろ」
「あの、お婆様、もしかして酔ってますか。いやいや、私ケーキとかじゃないですないです」
「早紀絵!」
「はいはい。何何酔っ払い婆様」
「仲良く三分割しろ」
「私とアリスと二子で? 二子は別にいいんじゃない?」
「ま、待ちなさいよ。どんな話になってるのそっち!?」
「二子!」
「ひゃ、ひゃい」
「……一郎はなんて言ってる」
「将来の事?」
「そうだよこの学歴詐称」
「好きにして良いって言われたわ。だから好きにするの。あと杜花私のだから」
「みんなで勝手に私の所有権奪いあわないでください。怒りますよ、ぷんぷん」
 杜花を見る。
 何時の間にか日本酒の一升瓶が空いている。いや、飲みすぎだろうそれは。ぷんぷんって何だ。
「も、杜花様?」
「何かしら。アリス。ふふ」
「そんなサディステックな笑みを浮かべる場面じゃありませんわよ」
 飲みっぷりは良いのだが、アルコールに強いという訳ではないらしい。出来あがりすぎである。
 この状態をどうするべきかと判じて、アリスは早紀絵に縋りつく。まだマシそうだ。
「早紀絵、早紀絵。杜花様が」
「杜花三分の計」
「はい?」
「三国志じゃ……ワシは呂布じゃ」
「いや、呂布じゃあ中原だけしか……ってダメだ使い物になりませんわ。二子さん……?」
「あー……お酒ってあー……。米で酒とか何それ。なんでこんな味に……あー……」
「二子さん?」
「……アリス。アリスじゃない。ああ良かった。これからお茶でもどうかしら。良い茶葉がね、手にね入ってね」
「いやいや、ここ神社ですわよって……記憶混濁してますの?」
「杜花に害虫が……私のなのに……こう、権力でなんとか……」
 だめらしい。
「もう何でもいいです。考えるの阿呆みたいです。アリスってどんな味ですか?」
「ちょ。杜花様酔いすぎですわ。ああもう、お酒好きなくせに弱いとこんなんばっかり」
 結局夕食という名の宴会は、終始酔っ払いによって支配されてしまった。
 花など嬉しいのか悲しいのか、泣いたり笑ったり大変である。
 杜花に至っては本性がダダ漏れしているらしく、早紀絵に絡んでとんでもない事になっていた。
 二子においては一人でブツブツと言いながら、ティーカップに日本酒を注ぎだす始末である。
 やたらにアルコール分解が早いアリスは、そんな席を客観的に見つめるも、そんな中に自分がいるのだと思うと、なんだか嬉しくて仕方が無かった。
 普段繕っている人間がぶっ壊れる様が面白いのもそうだが、やはり皆、腹に抱えているものが重たいのだろう、反動も大きいと見える。
 きっと今後はあり得ないだろう。醜態など晒せる内に晒しておいた方が良いのかもしれない。
 アリスは、コップに並々と焼酎を注ぎ、一気にあおる。
 流石にグラッと来た。
「杜花様ー?」
「にゃい」
「うわ、お水要り……ますわよね」
 すっかり出来あがった杜花に近づく。彼女は胸元を大きくはだけて横になっていた。意識はあるらしいが、まともに会話出来そうにない。
「お風呂」
「はい?」
「お風呂行きます」
「いや、飲酒後って危ない……ああ、いっちゃった」
 ネックスプリングでゾンビのように起き上がった杜花の身体能力に驚きつつも、流石にあの状態でお風呂は危ないだろうと心配する。他を見ると皆思い思いにしているので、アリスもついて行く。
 長い廊下をよたよたと歩く杜花を後ろから支えながら、漸く脱衣所についた。
 風呂は三つの区画に分けてあり、手前が脱衣所とシャワー、隣に風呂桶のある風呂場、直ぐ隣にガラス張りの窓があり、そこから外に出て露天風呂に入れる仕様になっているようだ。
「んにぃー」
「杜花様、腕から首は抜けませんわ」
「アリス、脱がせてください」
 顔を赤くしてぼーっとしている杜花の世話を焼く。これではまるで赤ん坊だ。
 とはいえ、肌蹴たその姿はどう見ても大人である。栄養は全て胸に行くのだろう。
 見る機会など幾らでもあったが、いざ近くでマジマジと見つめると、実に迫力があった。
「本当に入りますの? 危ないですわよ?」
「大丈夫です。アリスが支えます」
「あ、私前提なんですわねコレ」
 リクエストされたのならば応えない訳にもいかないので、アリスも服を脱いで風呂場まで寄り添う。杜花を風呂椅子に座らせると、彼女はまるで機械のような動きで蛇口から直接水を汲んで、頭から被った。
「うわ、ちべた。杜花様、何して……」
「く、あ、おおぉ……はい。大丈夫です、酔ってません」
「酔ってないは酔っ払いですわよ、もう……え、ほんとに醒めましたの?」
 水濡れた頭を縦に振ると、杜花が立ちあがって、代わりにアリスを風呂椅子に座らせる。
 何事かと思えば、彼女はその手にボディソープをとって、スポンジでもなく直接アリスに塗りたくる。いや、これは酔ってるだろ、というツッコミも入れる暇はないし、ぬるぬるでそれどころでは無い。
「あ、ちょっと。それは、さすがにぃ……」
「アリスって幾つありましたっけ」
「は、82です。いえ、そんなに揉まなくても、い、摘まんじゃ駄目ですわ」
「細いから大きく見えるのかな……あ、やっぱり敏感なんですね」
 背中に圧倒的質量を感じる。
 話では94のGと聞く。確かに運動をする杜花からすれば、それはかなりネックかもしれないが、今現在においては凄まじい脅威である。
 自分の物とて小さくは無いが、いざこれだけ大きいものが直接肌に触れると、泡の滑りもあいまってとてつもない感覚がある。
 以前寮でお互いに背中の流しあいなどしたが、状況が異なるだけでここまで意識するものとは思わなかった。
「どうですか。心地よいですか?」
「あくっ……え、あ。ええ。そうですわ、ね。三助さん」
「お尻の方もちゃんと流しましょうね」
「く、ふっ……」
「あはは。初々しいですね。私もそんな可愛い反応が出来る女なら良かったんですけれど」
「い、苛めないでくださいまし」
「それです。それが出来ない。ああ、私は本当に損する人間なのだと実感します。はい、お湯かけますよ」
「あっ」
 背中流しという名のマッサージが中断してしまい、思わず声を出す。
 振り向くと、杜花はほんの少しだけ片頬を釣り上げ、うす暗く笑っている。
 流石に言えない。
 今のが気持ち良かったので続けてくださいとは、アリスのプライドが許さない。しかし杜花の顔はあからさまにそれを求めていた。聞くだけには聞いていたが、どうやら彼女は本物らしい。
「杜花様」
「はあい」
「手加減してくださいまし……」
「――あ。ご、ごめんなさい。アリスの反応が良すぎるものだから、つい楽しくなって」
 どこまで本気なのか、杜花が平謝りする。
 本当ならば、そんな謝罪も要らないのだ。彼女が好きなようにアリスを求めてくれるなら、満足である。
 しかしながら、生憎処女の身だ。思いっきり踏ん切りをつけるような度胸が無い。杜花から状況を進めてくれれば有難いものの、彼女もどこかに引け目があるのだろう、アリスのやんわりとした拒絶をそのまま受け取ってしまう。
 なんとなく、これは不味いと思う。
 互いに遠慮した挙句に折角の流れも汲み取れず、その晩に何もなく終わってしまって後々後悔する、というのは、男女関係なくどこにでもある話だ。
「外のお風呂、ちゃんとお湯も張ってあるので、入りましょうよ」
「え、ええ。そうですわね」
 杜花を気にしながらも、手拭を手に立ち上がる。
 ドアを開けると一気に外気が流れ込み、とてつもなく寒い。あわてて露天風呂に入って辺りを見回すと、それが本当に良く出来ているものだと感心する出来である事が解る。
 屋根付きで床面には大理石、周囲にはどこから持ってきたのか、大きな岩が据えてあり、植木もしっかり植わっている。
 竹で編まれた壁と屋根の隙間から、大きな月が顔を覗かせ、やわらかな明りを注いでいた。ところどころに積もった雪がまた、情緒を醸し出す。何もかもが本当に良く出来ていた。素人仕事とは思えない。
「これ、本当にDIYですの? 旅館じゃありませんの」
「お父様とお爺様、五年かけたそうですから」
「お風呂好きなんですわね」
「いえ。ただたんに、花お婆様と杜子お母様が露天風呂に入っている絵が観たいという、お父様とお爺様の欲求によってなりたっているって」
「フェチズムってたまに凄いものを生み出すんですのね」
 杜花の母と祖母は実に美しい。父と祖父の気持ちは解らないでもない。とはいえ頑張りすぎである。
「さて、呑み直しますか」
 と、杜花が積もった雪の中から晩酌セットを取り出す。一体どんな準備の良さなのか、呆れるほどだ。
 燗の方が好ましいのだが、露天風呂が熱めである為、それを見越したものだろうか。
「それほど高いものじゃありませんけど」
「頂きますわ」
 猪口に注がれたお酒を一気にあおる。
 雰囲気の所為もあってか、冷がやたらと美味しく感じた。学生がやる事ではないなと自覚しつつも、止めろと言われて止めないだろう。
「ああ、なんだか、一気に老けてしまったような気がしますわ」
「学院じゃ出来ませんし……ああ、いえ。もう見せても良いかなあ」
「杜花様は嫌がっても、皆の呼称は杜花御姉様ですし、私も一部からは、アリス御姉様なんて呼ばれてますの。きっと幻滅しますわよ。愉快ったらありませんわね」
「二人が私を見てくれるなら、私は何でもいいです」
「ふふっ」
 お湯の中を這うようにして、杜花に近づく。
 彼女が呆けて空を見上げている隙に、猪口を取りあげてお酒を口に含む。
 杜花がアリスに振り向く所を見計らって、その唇を合わせた。浅いものではない。アルコールの焼けるような味と風味が、杜花の舌が絡まる。
 ――酷い学生もいたものだと、自嘲する他ない。
「ぷあ……アリス、もしかして今になって酔ってますか」
「酔ってませんわ」
「あらら。でも、そうですね。アリスはシラフじゃあ、恥ずかしすぎて死んじゃうかも、しれませんし」
「……この後、その。離れはほら、二人がいますわ。だから、杜花様の、お部屋に」
「ん。大丈夫です。安心してください。優しく、してあげますから」
 鼓動が大きくなる。身体が温まって、血流が良くなった所為もあるだろうが、当然それだけではない。
 耳に、胸にと軽い愛撫が挟まれ、気分が高まって行く。
 これから彼女の物にして貰うのだ。
 彼女が何処にも行かないように。
 彼女が離れてしまわないように。
 打算的だろうか。
 即物的だろうか。
 もしかしたら、他の人たちから観れば不純に思われるかもしれないが、では、ではどうやって、どの手段を用いて杜花を留まらせれば良いのかなど、アリスには解らなかった。
 いずれきっと明け渡すものなのである。まごつけば躊躇えば、それだけ不安は大きくなる。
 恋を実らせる為であり、そして戦う為でもある。
 あのイレギュラーにだけは、絶対に渡さない。
 彼女に渡した瞬間、杜花はきっと、全部持って行かれてしまうのだから。



 結局のところ、大晦日から元旦にかけての一日は、慌ただしすぎて何が何だかアリスにも良く解らなかった。
 花と杜子と八雄は受付に厄払いにとてんやわんやで、当然昼もとれないような状況が続き、四季彦は手伝いとアルバイトの統括である為それこそ目まぐるしくあちこちをかけ回り、なんだかんだと杜花まで手伝いに出てしまった。
 人が忙しい様を横目で見ていられる程、アリスは神経が太くない。
 手伝いに出ると申し出たところ、早速巫女装束を着せられて社務所の番である。
 しかしその判断は誤りだったと言って良い。
 元日十二時すぎ。
 人が集まってくる頃合いには、社務所の前に女学生が屯していた。
「お守りは此方から900円、2100円、3000円ですわ。破魔矢はそちら、絵馬はこちら、干支のお人形は小さいものが1500円……はい。有難うございます。あ、二列になってくださいまし!」
「アリス御姉様の巫女装束なんて、今後見られるかどうかっ」
「アリス様、お写真一枚ー」
「だ、ダメですわよ。御奉仕中ですわ。えーと、杜花様のお父様!?」
「う、うん。えーと、一時、一時に抜けられる。バイトの子くるから」
「一時まで待ってくださいな。今はただ粛々と、ほらそこ撮らないで」
 どこから嗅ぎつけたのか、観神山女学院の生徒が多い。面白がって市立中高からの生徒も群がっている。
「御姉様、お写真の初穂料は?」
「だーめーですわーよぅ。あとで、あとでですわ! あ、はい。有難うございます。杜花様のお父様、お守り在庫何処ですの!?」
「幸姫さん在庫持ってきて、乙女坂さんこれ会計に回して、美濃部さんこっち人足りないから誰か呼んできて」
 話では、例年の1.5倍以上の参拝客が溢れかえっているらしく、特にこの時間、女学生達は社務所に集中していた。それもそうだ、天原家のお嬢様が巫女装束で神様に御奉仕中である。
 アリスが観神山の学生である事は、アリスが思っている以上に有名なのだろう。
 何かと民衆支持の大きな天原藤十郎の娘が通っている、というだけならまだしも、アリス自身の器量の良さが合いまった結果、観神山女学院の外では、アリスがお嬢様の代名詞のような扱いなのである。
 家族のプライベートに入ってくるのは問題だろう、と思いつつも、こればかりは防ぎようが無い。人気が出るか出ないかなど、民衆の眼が判断するものだ。
「杜花様のお父様!?」
「し、四季彦でいいよ」
「四季彦さん、杜花様は?」
「お守り足りないんで、発注してたガワに中身を詰める作業をお願いしているよ。二子さんもそちらだ」
「ああ、裏方ですのね」
「……杜花まで出したら凄い事になりそうだけど」
「流石にこれ以上捌けませんわ。あ、はい、計5100円ですわ。有難うございます」
 先ほどから早紀絵の姿を見ない。どこへ行ったのかと視線を巡らせると、近くのテントでその姿を見つける。どうやら御屠蘇を配っているらしい。案の定、そちらにも学生が群がっている。
「アリス、お守りここに……何ですかこの群衆」
「杜花さ……」
「あ、杜花様ッ」
「杜花さんですわ。あ、すごい、まさしく巫女さん!」
「杜花様、ええと。大人気ですわ欅澤神社」
「……少しひき付けましょう。普通の参拝客の方からバンバン捌いていってください」
「相解りましたわ」
 そういって杜花が社務所を出て、女学生達に振る舞い始める。アリスは他のアルバイトと顔を見合わせ、小さく意気込みを入れ、次から次へと来る参拝客を捌きにかかる。
 流石の杜花だ、女学生達のあしらい方の手際が冗談にならない。少し遠くでちょっとした撮影会状態である。問題は嗅ぎ付けた早紀絵が職務放棄で杜花に寄って行った事ぐらいだろう。
 販売業、とは言わないが、ともかくこういった仕事などトンと関わりの無いアリスだ。最初こそ戸惑いはあったが、一時間もすればすっかり馴染んで、むしろ必要上のスペックを発揮している。
 右から左から来る注文を受けながら的確にお守りやお飾りを配って会計する様は、一角の熟練者である。また乗せるのも上手く、お守りおみくじ一つで良いところを、最低三つは持って行かせる。
「ふは。大変ですわ」
「アリスさんって、本当にお嬢様なんですねえ」
 隣のアルバイト、美濃部が話しかける。彼女は市立高の二年生だ。
「大したものではありませんけれど。外に出ると新しい実感がありますわね」
「なんかもう雰囲気とか全然違うし。お嬢様学校って大変じゃない?」
「小等部からいますから、何とも思いませんわね。ああ、だいぶ捌けてきた」
「はい、600円です。有難うございます……ねえねえ、やっぱりさ、女の子同士とか、あるの?」
「貴女の学校にも居ますでしょう」
「いるけども。規模が違いそうだし」
 それは確かに、そうだ。所謂一般人の共学高とは物が違う。自分が正しくそれであるし、女性同士のカップルなど、探せば幾らでもいるような学校だ。
 そもそも、お互いの気持ちだけでなく、観神山女学院の場合政略的な意味が多々ある。
 このご時世、女性同士の権利も結婚も子作りも許容されているのだ、別段と男にこだわる必要性が無い。故に親達が考える事は、良いところのお嬢様を引っ掛けてきてね、という、薄暗い打算である。
 いつの世もその辺りは変わらない。
 天原家は七星家との家族交流の足掛かりとして、アリスを観神山女学院に通わせた。七星もそのつもりでいたのだ。
 今となっては、物悲しいだけである。
「美濃部さんは、女性が御好き?」
「あ、私は異性愛者だよ。アリスさんは?」
「同性愛者ですの」
「おお……。ねえねえ、巫女の恰好してこんな事いうのもあれだけど……ど、どんな感じなの?」
 美濃部の話は抽象的だ。どう答えて良いものかと考えた後、一つの結論に至る。
「びっくりしましたわ。ええ。人間って空も飛べるんだって」
「あ、アリスさんが幸せそうで何よりです」
 二日前を思い出して顔を赤らめる。いや、正確には昨日もなので、昨晩だ。遠くの杜花を見やる。女学生達には絶対向けないような顔を、アリスは知っていた。
 杜花の手解きは、早紀絵の言う通り半端ではなかった。確かに痛みこそあったが、充足感はその何倍もあり、杜花の手際の良さで、過去に覚えの無いような感覚に何度も襲われた。
 知ってはいたが、やはり欅澤杜花は怪物である。
「天原さん、休憩とっても大丈夫だよ」
 もしかしたら今晩も、などと考えて期待を膨らませていると、四季彦がひょっこりと顔を出す。
 どうやら無事波は乗り切ったらしく、少し早いが休憩に入れるらしい。
 社務所を出て杜花の下へと向かうと、新たなモデルの登場に学生達が湧きたった。休憩になるかどうかは、少し怪しい。
「杜花様、お疲れ様ですわ」
「ああ、アリス。休憩ですか」
『今杜花様がアリス様の事『アリス』って呼び捨てに』『年末に何かあったんじゃ』『胸が熱くなりますわ』
 などなど、杜花の発言が波紋を呼ぶ。というか何故こんなに観神山の生徒ばかりなのか。
「ねえ貴女達。私が此方に来ているなんて、どこから?」
「お父様に、欅澤神社に初詣に行きなさいと」
「私はお母様から」
「私もですわ」
 杜花の顔を見る。彼女は呆れたように溜息を吐いた。
 どうやら、この子達は七星系列の子であるらしい。七星一郎という男は、本当に物事を適当にするのが得意である。余計な事を、と思いつつも、これはチャンスだと位置づける。
「杜花『御姉』様、ちゃんとサービスしませんと」
「アリス?」
 そういって、杜花の腰を抱いて並ぶ。さあ撮るが良いさと、言う間もなく彼女達はシャッターを切り始めた。冬休み明けには、この写真が学院内で面白おかしい噂になっているに違いない。勿論それに伴って市子の問題も挟まるだろうが、そこから先はアリス達の世代が作る事だ。
 アリスには考えがある。
 杜花が市子をふっ切りたいと言うのならば、やはり『御姉様』であるべきだ。妹も取り、御姉様といえば欅澤杜花と言われるような状況を作り上げる事こそ、彼女の為になる。
 あと一年と三カ月、それがあれば、学院生活は無事に終えられるだろう。
「逃がしませんわ」
「……ちょっと心地良い自分が嫌です」
「ふふっ」
 生徒達に散々と写真を取られ、やっとの事で解放されたのが20分後であった。それでも振り切ってである。
 杜花はまだ仕事があると言って別れてしまったので、早紀絵でも捕まえようと思ったのだが、早紀絵は早紀絵で女の子にちょっかいをかけていたので、これはいつもの事だと流す。
 早紀絵はアレで良いのだ。特定の人間を見ろ、などとは言えない。
 愛の多い彼女は、分け与えるのが義務だと考えている。その時その時、真剣に此方を見てくれれば、アリスに不満はなかった。
 その内早紀絵とも……あんな事を……。
「……なんて顔してるの、貴女」
「――ハッ。ああ、二子さん」
 母屋近くで突っ立って妄想に耽っていると、二子に声をかけられた。
 彼女もまた巫女装束なのだが、色々な意味で似あいすぎて、アリスも反応に困るレベルである。
 いうなれば漫画かアニメの登場人物だ。
 彼女の小さい肢体に纏われた白と紅の装束は、嫌になるほどピッタリであり、長い黒髪がまたそれを演出付ける。今にも悪霊退散とか降魔調伏とか言いそうであるし、なんか不思議な力も使いそうだ。
 実際使うのだから困ったものだが。
「ひれ伏したくなるほど似あいますわね、ホント」
「別に伏せなくていいわよ。伏せられるの慣れちゃって新鮮味ないし」
「手を前に出して」
「うん?」
「脚を前後に開いて」
「はあ」
「指をそう、そういう風に立てて」
「はい?」
「台詞は『あくりょうたいさんっ』ですわ。ひらがなっぽく喋ってくれると」
「言わないわよ、もう」
「ノリが悪いですわね。お仕事は?」
「休憩して良いって。全く驚きだわ。まさか私が雑務なんて」
「今のうちしか出来ませんわよ、貴女は」
「……それもそっか。アリス、お昼は?」
「まだですわ。皆さんお昼を用意している暇もないでしょうから、そうだ、屋台なんてどうでしょうね」
「えっ」
 屋台、と聞いて二子がたじろぐ。どんな印象を持っているか知らないが、アリスと同じく初めてだろう。
「実は私も初めてなんですの。なんだかワクワクしちゃって」
「アリスって思いの外子供っぽいわよね」
「いいんですのよ、御祭ってのは童心に帰れるからこそ価値がありますの」
「ふぅん。ああでも、私財布なんて無いわよ」
「観神山だと、確かに貴女は要らないかもしれませんわね。まあま、私がお支払いしますわ」
「借り作るみたいでなんかいやだけれど。じゃあ宜しくね」
「ええ」
 流石に装束のまま屋台を回るわけにもいかなかったので、長いコートを羽織って屋台の並ぶ場所にまでくる。ちなみに二子はそのままだ。
 逸れないように手を繋ぐと、その手が妙に馴染む。初めて繋いだにも関わらずだ。
「目立つんだけど」
「可愛いから良いじゃありませんの」
「どういう理屈よ。というか、ねえ、アリス」
「はい?」
「貴女、私の事嫌いじゃないの?」
 はて、苦手とは言ったが、嫌いと言った覚えは無い。
 そもそも杜花を独り占めしない限りは、彼女は至って普通の……いや普通ではないが、女の子である。
 七星市子の義理の妹を無下に扱うような気持ちは持っていない。
「杜花様を独占しない内は、お友達ですわよ」
「ねえ、貴女。昨日と一昨日の夜だけれど……」
「杜花様と同衾しましたわ」
「ず、ずるい。なんかずるい」
「……貴女こそ、杜花様が嫌いじゃありませんでしたの? あ、焼きそば。値段の割にお肉が少なくて味が濃いという噂の焼きそばがありますわ。おじ様、二つくださいまし」
「あいよー」
 それからすっかり黙り込んでしまった二子を引っ張りながら、あれにこれにと買い漁る。
 手荷物が一杯になったところ、二子が携帯を取り出してワンコールすると、一般人を装ったBGが三人程集まってきた。
 家の中ならまだしも、七星のお嬢様をこんな所に唯で放置出来るわけが無いだろう。
「二子さんのボディガードさんですわね」
「ええ。天原氏」
「じゃあ、これとこれとこれ、それとこれ。杜花様と早紀絵にお願いしますわ。なんでしたら貴方達も召し上がって」
「了解しました。ああ、それと」
「はいな」
「一郎様から。娘と仲良くしてくれとの事でした」
「言われずとも、この通りですわ。ねえ二子さん」
「ん。幸田、妻木、物部、大丈夫よ。そうだ、兼谷は」
「兼谷様は……あちらに」
「そっか。ありがとう」
 そういって、BGを下げる。
 兼谷は来ていない様子だ。あちら、とは彼等しか解らない場所だろう。
 しかし、屈強そうな彼等にして『兼谷様』などと呼ばれる兼谷の七星での位置は、一体どのあたりなのだろうか。ただのメイドでない事は確かだ。そもそも、メイドは趣味でしているんじゃないのかと思う事もある。仕事こそ完璧だが、彼女は奉仕する側として違和感がある。
「あら、兼谷さんは来ていませんのね。二子さんがこんなに可愛らしいのに」
「後で写真とってメールでもすればいいわ」
「どこかに座りましょうっか」
 人ごみを抜け、少し外れにあるベンチを見つけて腰をかける。
 本社とは離れた、摂社の保食稲荷(うけもちいなり)の近くだ。鬱蒼と茂る広葉樹の中に、鳥居が幾つも続いた御社が見て取れる。
 そもそも保食神は神代の神で、古事記によれば月読に奉仕したら叩き斬られたという不遇の神だ。
 同じ食物神の宇迦之御魂神と同一視され、そちらが稲荷として祭られている為に、更に同一視されて稲荷となっている。
 が、欅澤神社の場合、土地神を朝廷の話にすり合わせて保食神と同一視しているので、本来は地元の豊穣神である。
 本殿に祭られているのはタケミカヅチとフツヌシだが、摂社の此方にもちゃんとした御祭がある。
 という話を杜花に聞いた。
 日本神話は分霊や同一視、本地垂迹まで合わせると、訳が分からなくなるのはいつもの事だ。
「稲荷ってなんであんなに鳥居があるんでしょうね」
「通る事が大事らしいわ。願いが通じるに形を与えた結果だとか」
「まあ博識。どれ食べます?」
「ええと……それなに?」
「さあ……」
 取り敢えず指定された食べ物らしきものを二子に差し出す。ビジュアルで買ったので、何かは解らない。
 リンゴにしては小さいが、飴のようなものが絡まっている。
「リンゴ……飴?」
「そのままね。たぶんそっちはチョコがかかったバナナだし、チョコバナナとかよね」
「面白いのが置いてますのね。ふむ。頂きます……ん。安っぽいのに何だか美味しく感じますわ、このチョコのバナナ」
「リンゴなのか飴なのかりんご飴なのか……まあ不味くはないし。御祭っぽい雰囲気がるわ」
 買ってきたものを一つずつ考察しながら処理して行く。
 遠くから眺めるばかりであった神社の祭日を満喫しているのだと思うと、何か文化祭の時のような幸福感がある。二子もまんざらではないようすで、想像していたよりも楽しんでいるようだ。
 一しきり食べ終わって塵を片づけてから、遠くに聞こえる喧騒に耳を傾ける。祭りの中の静寂というのは、殊更特別だ。
「なんだか幸せに感じてしまう自分が気持ち悪い」
「何か、私達だけ違う場所に来てしまったような、不思議な趣がありますわ」
「当事者ではない楽しみというのもまたあるのよ」
「……貴方は傍観者だった」
「もう当事者だけれどね」
 七星二子は、本来傍観者であった。市子達周辺の事を、耳にするだけの存在である。
 市子が死に、二子が代わりに来て、物事はおかしな方向に回り始めた。いや、裏に作られていた歯車が、動き出したと言って良い。
 彼女は最初、杜花を嫌っていた。市子を二子から取り上げた悪人とすら思っていたのだろう。それが何故今になり、杜花に愛着を示すのか。
 今現在、二子に結晶、もしくは市子のデータは無いだろう。
「何故貴女が杜花様を。貴女は市子御姉様じゃありませんわ」
「……。最初こそ嫌いだったわ。私の愛しい姉様を、杜花は独占していたもの。貴女だって考えた事があるでしょ」
「幼少の頃ですわね」
「でも実際。解るでしょ。欅澤杜花って人物を知って、接して、話して、私の印象は随分と変わったわ。それに加えて、姉様の記憶があった。つぶさに一つずつ記憶を確認している内に、あの子の綺麗な部分も汚い部分も、全て観えるようになった。あの子は姉様の物であり、姉様はあの子の物。では姉無き今、あの子の所有権は代替え品の私にあるでしょう」
「無茶苦茶な理屈ですわね。でもまあ、貴女個人が好いているという事は間違いありませんのね」
「それに私は、市子になるのだもの。だから、貴女達にはあげない」
「通りませんわね。杜花様の気持ちはどうなるんですの?」
「ふふ。何それ。冗談?」
 二子が笑う。
 どんな反応を見せるかと思って聞いたが、やはり二子は、杜花が耐えきれないと自覚して取り入ろうとしてるのだろう。
 アリスと早紀絵の懸念は、これで揺るがないものになってしまったとも言える。
 爪を噛む。どうしても止められない癖だ。不安になると、これが出てしまう。
「屈しないし、渡しませんわ」
「無理よ。もうシナリオは出来ているもの」
「シナリオね。利根河撫子以来の、ずっと続く狂気の産物ですわね。七星一郎が何を考えているか、知りませんけれど」
 利根河撫子。
 その名前を聞いた二子が、不思議そうな顔をする。
 誰だと言わんばかりだ。
 冗談はやめて貰いたい。
「撫子?」
「やめてくださいな。貴女達の血縁でしょう」
「利根河ってことは、七星になる前の一郎お父様の、血縁者?」
「……知りませんの? 本当に? 冗談じゃありませんわよ?」
「知らないわよ。どこの誰」
 何かが歪む。
 どこかがおかしい。
 二子は、全て知っていて動いているのではないのか?
 七星市子になるという事は、利根河撫子になるという事も同義なのである。少なくとも七星は、そのように動いている。
 何故その実行者が知らないのか。
 カマかけ……にしては、二子の反応が、妙だ。
 アリスは携帯を取り出し、取り込んだ写真を二子に見せる。
「姉様ね」
「いいえ、利根河撫子ですわ」
「……ッ! 何それ。そもそも誰なの」
「利根河真の、第一子。学院で非業の死を遂げた、貴女の御姉様でしょう」
「知らない。知らないわ。なんでこんなに……。違う。オリジンなんていない。私は私だもの。姉様も姉様よ。遺伝子的、電子的に弄られてはいるけれど、間違いなく、私は一条の子」
「……失礼な話ですけれど、私達は、貴女達市子二子とも、撫子のクローンであると考えていましたわ」
「莫迦な事言わないで。嘘なんて吐かないわよ。私達は、本当に似ているだけだもの。アリス、お願いがあるわ」
「ええ、どうぞ」
「話して。こんな――こんなことってないわ。私は市子になるの、撫子なんて、知らないのよ」
 どうするべきかと、考える。
 情報をタダで渡す程、アリスはお人よしではない。
 恩を売っておくべきか、それとももっと明確な情報と取引すべきか。
 アリスは少し考えて、恩を売る事にした。
 何せ相手は記憶を改竄する。ここで聞き出した所で、消されてしまっては意味が無い。だったら、二子自身に恩を植えつけて置く方が有効である。
「努々この恩義忘れぬ事ですわね」
「恩着せがましい。まあいいわ。覚えておく」
 利根河撫子については、対七星二子における重要なファクターを担っていない為、全ての情報を開示した所で問題はないだろう。
 杜花と早紀絵には後で説明するとして、一先ず二子に知り得た事を話す。
 観神山占拠事件も含め、幻華庭園に関する話もだ。
「……自殺? 利根河撫子は、部室で首を吊ったのね。姉様と同じように」
「ええ」
「……そっか。自殺動機、解ったわよ。そして私は、修正済みなんだわ」
「どういう事、ですの」
「恩を返しましょうか」
「……是非」
「魂とは記憶よ。その逆も然り。七星市子は、利根河撫子に近づきすぎたんだわ。魂は死した筈の肉体の生を望まなかった」
「未だ信じられませんけれど、七星が確立した技術というのは、本当に、魂すらデータ化してしまったんですのね?」
「……案外容易だったわ。ただ、普段脳が使っていない領域のデータすら汲み取る必要があった。マッピングに時間はかかったみたいね。でも、姉様その他の姉妹達によって、それは成った……けど、これは」
 二子は髪をかきあげ、ブツブツと呟き始める。相当の動揺があったのだろう。
 七星一郎は、もしかすれば本当に、七星市子になるようにだけ、二子に言ったのかもしれない。
「違う、私は。そんな、知りもしない人物になる為に来たんじゃない。総合的に、似通っただけで……でも、それでは……お父様は……娘を、蘇らせたいの?」
「それが解ったら、私達も頭を悩ませていませんのよ?」
「そりゃ、そうね。でも、もう動いてしまっているものだし。そう、変わらない。撫子イコールで市子だったとしても、私は市子姉様が好きだったのだもの。そう、私は市子に、なれるから……だから……」
「貴女自身はどうしますの? 今は違うにしても」
「……私は、いい」
「支離滅裂ですわ。貴女は貴女でしょう。そう、何故敢えて死した人物になりたがるのか、解らない」
「そ、それは……――ああ、もう、何よ、うううぅ……」
 そういって、二子が立ち上がる。広葉樹の小路を暫く歩いたあと、彼女は振り返った。
 巫女装束が翻り、黒髪が流れる。
 その表情を、どう判じれば良いだろうか。
 悲しいのか、虚しいのか、良く解らない。もしかすれば、何か訴えかけようとしていたのかもしれない。
 しかしアリスにかける言葉はなかった。
 二子が走り去って行く。当然、止める術は持たない。
(説得で、止められる? いや、何をするかも聞けなかった。聞いたところで、どうしようもないのかしら。彼女が喋った後、消される可能性だってある……何もかも、彼女の前では不確定ですわね)
 時計を見る。そろそろ戻らねばならない。


 

 漸く解放されたのは、夜も七時を過ぎた頃だった。
 昼程ではないが、夜になると今度は厄払いの予約が多い為、花や杜子は九時頃までは空きが無いと言う。
 夕食も取れないだろうという事で、杜花が炊き出したお握りと卵焼き、それとウィンナーにかぶりついて腹を満たす。労働の後、これほど胃に沁みるものがあるだろうかと驚くほどに効いた。
「いやあ働いたね、こんな働くなんてね」
「貴女も人気で大変でしたわね」
「流石に御屠蘇を学生に振る舞う訳にはいかなかったから、他のもの振る舞ってきたよ、愛とか」
 窓を閉め切った縁側で、降り出した雪を眺めながらお茶を啜る。二人とも装束のままである。流石に外に面した社務所に一日いると、身体も冷え切るというものだ。
「……お酒」
「はい?」
「氏子から大量に奉納されてるお酒。あれってどう捌くんだろ。家庭内で消費は出来ないよね」
「いやあ、神様のものですし」
「アリスって神様信じてたっけ」
「アニミズム否定なんてしませんわよ。宗教とは信仰するからこそあるんですわ。まして私、政治家の子ですわ」
「ああ、じゃあ戦勝祈願とか行くわね。というわけでお酒飲みながらお風呂入ろう」
「どういうわけか知りませんけれど……またですの?」
「またって?」
「……あ、いえ」
「なんだ、そんな楽しい事二人でしてたの? ずるいですわん」
「はいはい。でも貴女、お酒飲むと呂布になるじゃありませんの」
「たまに関羽にもなるらしいよ」
「豪傑にはなりますのね」
「んで。どだったのん」
「どう、とは?」
 早紀絵がニタリと笑い、アリスに絡む。というか既に首筋を食んでいる。どんな早業か、早紀絵の手は何時の間にかアリスの懐に潜り込んでいた。
「あ、ちょ、ちょっと」
「流石にさ、一番はやっぱり杜花にあげなきゃって思ってさ。逸る気持ちを抑えて抑えてー」
「貴女って本当に、ダメな人ですわねえ」
「いけない、余裕で返されてしまった。もっとこう恥じらうかと思ったのだけれど」
「恥ずかしいですわよ、もう」
 絡みつく早紀絵を退けて、服を直す。
 幾らなんでも、いつ見られるかも解らない縁側で始める訳にもいかないだろう。
「……杜花様はその、あれが標準じゃありませんわよね?」
「あれが標準だったら、世の中の女性から異性愛者消えるんじゃないかな?」
「私その、初めてでしたのに。当時の事いまいち覚えてませんの。フワフワとしてて……」
「あるあ……あるある」
「あ、あんな所舐めたりするんですのね」
「そりゃまあ」
「あっちにも、入りますのね」
「ちょ、杜花処女に何したんだ……」
「え、いえ。そんな恥ずかしい……ただ、杜花様は『アリスって本当に何でも出来ちゃうんですね』とは」
 どうやら自分のされた事は、処女ではされない事らしい。当然比べる対象が無いので解りもしないが、幸せだったのは間違いない。
「……卑しい人間かしら、私たち」
「他にどう言われようと、いいさ。あの怪物抑えておくんだよ? タダで済むかね。気持ちが通じ合えば、とか、心が融合して、とか、そんな戯言聞いていられないよ」
 早紀絵が溜息を吐く。
 外の雪はとうとう本降りだ。まるで白い和菓子のように大きな塊が、地面に、生垣に積もって行く。
 空を見上げる早紀絵の頬に、なんとなくキスをする。
 早紀絵もそれに答えて、アリスの頬にキスをして、二人で笑う。早紀絵の細い指が重なり、絡む。
 昼間二子とかわした会話を思い出す。
 彼女のやろうとしている事は、魂の支配だ。此方が出来る事といえば、肉体的に繋ぎとめる他ない。
 いざ事態に直面して、アリスと早紀絵の二人でどうにかなるものだろうか。例えそれが不可思議なものでも、七星市子という尊敬される存在は、二人にとって強大なのだ。
「アリス、ちょっと寒い」
「じゃあ、本当にお風呂……もう」
 早紀絵が寄りそう。撫でやすい位置に頭を置くのが、またいやらしい。アリスは彼女の望み通り、そのさらさらとした短い髪を撫でつける。
「二子さんは、撫子を知りませんでしたわ」
「――話したんだ。でも、そうか……じゃあやっぱり、二子は全部知ってるわけじゃないんだね。少し、可哀想な事したかな」
「態度が態度ですもの、当然の帰結ですわ。そして、御姉様の自殺動機も解ったと」
「なんて?」
「魂が、自殺した撫子と似すぎた結果、だそうですわ。彼女達にとって、魂とはデータ。どうしてそこまで御姉様……七星市子が撫子に近づいてしまったのかは、解りませんけれど」
「私達が探して、見つけたもの。それらは皆、撫子に関するものだった。市子は自分が何者なのか、知ってしまったんじゃないかな。他に何か言ってた?」
「自分は修正済みだと。会話は録音してますわ」
「すげえ、スパイみたい」
「打算的な自分が嫌になりますけれどね」
 携帯を早紀絵に渡す。
 彼女は眉を顰め、それに聞き入っていた。二子が市子を演じ始めるのは、準備が出来ると言っていた冬休み以降か。なるべくならそんな事を止めさせたいのだが、二子は聞く耳など無いだろう。
「シナリオは出来てる、か……アリス、七星一郎の立場に立って考えてみよう」
「あの変人奇人の類の脳味噌なんて、解る筈ありませんわよ」
「そうかな。頭は良いかもしれないけれど、純粋な人だと思うよ」
「よくそんな事が解りますわね」
「そしてなんか、子供っぽい。シナリオってさ、何のためのシナリオだろうね」
「二子さんが、市子御姉様を演じる為のもの?」
「もし今の話が本当なら、七星一郎の目的は達成されたようなものなんだよ」
「そう、か。利根河撫子の、復活」
「うん。クローン云々は解らないけれど、データとしては撫子を再現しきった故に、市子も自殺してしまったって言うんでしょう。で、そのデータは修正済みで、もう自殺してしまうような不具合……自殺しないよう改変してる訳だ。市子という素体の代わりに、二子を据えた。じゃあもうそれでいいじゃない。敢えてモリカを気にする必要なんて、ないさね?」
 早紀絵は鋭い。その通りだ。
 此方には何の確証も無いが、二子自身が悟って答えを出しているとするならば、もうほぼ決まったようなものである。
 七星市子において、利根河撫子の再現は叶った。
 そしてデータは修正してあるので、もう自殺するような事はない。
 七星一郎は、死んだはずの娘を、自分の手で再生したと言える。
 ではそれで終わりだ。
 杜花を巻き込む必要がない。
 ともすると、だ。
「じゃあ……もう、出来たから、それは、良いんですのよ、きっと。その出来あがった撫子が、欅澤杜花を欲しているから、与えようと……そういう事じゃありませんの?」
「……過去を拾い上げる作業から、未来を作る作業に移ったって事か。本格的に、敵が七星一郎だよ、それ」
「勝てる気がしませんわね」
「ぶっちゃけて言うけど、二子だけが相手なら、私は最終手段として、モリカの退学を促すつもりだった。彼女はさ、別にあの学校中退だって、問題ない訳さ。私達が囲いこめば良い。私達の愛しい女王様として居てくれれば良い。モリカの感情はまた別でね?」
「それで済みそうもありませんわね」
 七星の、まだ役職も無い小娘個人が相手だったのならば、もしかすれば希望も観えたかもしれないが、七星の当主が杜花を娘の嫁にしたいと言うならば、それは困った事態である。
 彼に逆らうという事は、明日から日本では生きて行けない、という事だ。
 満田家と天原家の権力をかき集めた所で、それは七星からみれば塵芥だ。
 汚い話だが、どうしてもそうなってしまう。反抗しようと思ったところで、妄想するのが関の山なのだ。
「一郎氏、とても杜花様を気に入ってましたわよね」
「そりゃ、もしかすれば一郎より出来の良い市子が認めた相手だもん……」
 ――付け入る部分があるとすれば、それは恐らく唯一、二子自身の自我の葛藤のみだろう。
 自分が何者なのか、二子との対話で疑念を抱かせる結果となった。そして彼女は、完全に自分を失う事について、まだ悩みがあると見える。
 アリスと早紀絵の二人で、そこから切り崩せないか。
「――なんて話聞いても、諦めようとも思わない私達って、なんか病気かもね。くふふっ」
「ああ、きっとお家に迷惑をかけてしまいますのね。天原家可哀想。ふふっ」
「ま、取り敢えず。お風呂入ってゆっくりして、また明日だね」
「元旦ほどは参拝客も来ないらしいですわ。そしてたぶん明日は」
「そっか。満田家天原家七星家、ご両親そろい踏みか……面と向かって一郎に話は、聞けないよなあ」
「無理無理ですわ。逆に触れない方が良いでしょう」
「そうかね。うん。話広げるのも良くないかな。よし、冷えたし、お風呂行く。アリスどうする?」
「じゃあ、ご一緒しますわ」
「えっへっへ。洗いっこしようねー、アリスちゃん」
「……幸せそうですわねえ、貴女」
 早紀絵は頭の回転が速く、何かと頼りになる。加えて人間関係の不真面目ささえ眼をつむれば、なんだかんだと楽観的な彼女に、救われる事は多い。
 市子や二子、それに杜花、アリスも含めて非凡だが、早紀絵も十分普通ではない。
 皆、市子の為に用意された人々だ。そしてこれから、そのシナリオに反抗する。
「早紀絵」
「なあに?」
「私、杜花様にされてばかりでも癪なので、攻め方を教えてくださいな」
「ま、真顔で言う事かいそれ。ああ、清純可憐な乙女はどこへ」
「新しい事には学ぶ意欲が湧きますの」
「生真面目なこって。大歓迎だけどねー、えへへ」
 情緒もへったくれもない、腐れ爛れた関係でもってして、杜花を引き止めるのだ。
 いまさら、恥も外聞も気にしてはいられない。



 話の通り、二日目は元旦ほどの入りはなかった。元旦が最盛期の土地柄という事もあるらしい。
 その日は裏方の手伝いをしただけで、社務所もアルバイトだけで十分回っていた。ただ厄払いの方は予約もある為、此方は花他派遣の神主で回す事になっている。
 あいも変わらず生真面目なアリスは、何か仕事はないかと杜子に問うた所、ハサミとゴミ袋を預けられた。
「思いの外ありませんわね」
「皆さんお行儀が宜しい事で」
 あれだけの出店と参拝客がいるのだ、もっとあるだろうと思っていたのだが、言われるほど多くはない。
 かれこれ一時間程歩き回っているものの、一向にゴミ袋は埋まらなかった。神社の裏手にまで回ってみても、やはりない。
「アリス、そう眼を皿にして探さなくても」
「普段やらない仕事というのは、どうしても力が入ってしまって。私、何か間違っています?」
「いいえ。私、アリスのそういう所、好きです」
「堅苦しいと思われたりしませんかしら」
「不真面目なサキと合わさって丁度じゃありませんか?」
「ワンセットですのね」
「あ、いや、そんな深い意味は……」
「解ってますわよ。あ、でもいいですわ、今の」
「はい?」
「杜花様がうろたえるの。嫌われたくないって、思ってくれているんですのよね」
「アリスは、昔から手ごわいですねえ」
「ふふ。じゃあ少しサボタージュしましょうか、杜花様」
 そういって、アリスは影に寄り、押しのけられた雪の塊を手に取る。
「うん? あ、雪像ですか」
「そうそう、あれは小等部の頃でしたっけ」
 自分のする事はなるべく完成に近い形にしたいアリス、大体なんとなく形に見えればよい早紀絵、基本的な基準は全部市子に任せている杜花、そして意識しなくても完成に近い市子という、なんとも言い難い組み合わせのメンツだけに、いざ問題が発生すると、とにかくアリスはよく出張った。
 小学生時分に誰も完璧など求めていないのだが、それでもアリスは気にするのである。
 完璧主義と言うわけではなく、純粋にワガママなのだ。自分の納得したものでなければ、受け入れがたいとも言えた。
 雪が少なくない土地柄、小等部には雪にまつわるイベントがある。
 雪を用いて小等部が小さなオブジェを作り、中等部、高等部と交流を図るというものだ。
 全員個人のものを作り終えてから、普段仲の良い者同士で大き目のオブジェを作ってみようという話になった。一人だけ小等部六年の市子を加えた四人が、あれこれとモチーフを持ち寄って、結局杜花の案が採用される。
 杜花の案はくまのぬいぐるみだ。
 四人で分けて部位ごと作ったのだが、どうもバランスが悪い。
 形さえ出来てれば、年長のお姉さま方も笑ってくれるよ、と早紀絵。
 自分の仕事には絶対に自信のある市子。
 市子を真似たお陰でそれと違わぬ出来の杜花。
 無難も無難、確かに間違ってはいないのだが、どうも納得出来ないアリス。
 大して怒る事もない話なのだが、その時アリスはほとほと担任教員が手を煩わせるまでぐずったのだ。
「あの時、なんであんなに怒ったんですか」
 杜花が器用にくまの頭を作る。本当に、何でも卒なくこなす人物だ。
「市子御姉様と同じ事をする杜花様に、腹が立ったんだと思いますわ。みんな器用に作っていた。小学生にしては、出来すぎな程に、良く出来ていた。でも、納得いかなかったんですわ」
「名指ししませんでしたね」
「貴女の名前を口に出すのも悔しかったんですの。当時はまだ、杜花様が私達に加わって、間もない頃でしたし。貴女の出来が悪ければ、馬鹿にもしたでしょう。傲慢な子でしたもの、私は。でも、杜花様は何でも簡単にしてしまう」
「それについては、覚えがありますね。格闘技をしていても、なんで三日練習したぐらいで、そんなに上手くなれるんだって。でも努力してない訳じゃない。基礎的なものは、それこそ花お婆様にぶん投げられて、ぶん殴られて、入院するまで扱かれて、身につけたものですから。最初から、強い人間なんていない」
「勿論そうでしょう。でも勘が良いんですわよ。こればかりは才能ですわ。持たざる者からすれば、理不尽以外の何ものでも、ない」
 くまの胴体を作る。杜花の造った頭と合わせて、一メートル程の雪山の上に鎮座させる。
「アリス?」
「比べて比べて、探して探して、知る度に、貴女と市子御姉様、そして私にどれだけの差があるのか、良く解りましたわ。市子御姉様は、到底追いつけるものではなかった。でも貴女は違った。確かに遠い。けれども、まだ尊敬から恋心が芽生えるぐらいの距離だった」
「アリスからみると、市子御姉様は……」
「――杜花様、私は、神を失ったんですのよ。信仰すべき、神様を」
「……半身だなんて、おこがましい話でしたね」
「困りますもの。杜花様まで完璧では。それでは、手が届かない。そうでしょう、杜花様」
 杜花の、紅くなった手に、自らの手を重ねる。
 雪に触れていた所為で、互いにひんやりと冷たい。両の手を合わせて、杜花の手を胸に抱く。
 杜花は手に届く範囲にいる。
 崇高で、高尚で、高嶺どころか天に生えていて、とてもではないが人間の手にも眼にも触れないような、市子ではない。
 杜花と眼が合う。
 今日で何回目だろうか。ここにきて何回目だろうか。巫女装束を着た人間がやるような事ではないと、理解していると尚、その後ろめたさが心地良い。
「……本当にキス魔ですね、アリスは」
「お嫌い?」
「……いいえ。許してくれるならば、もっと悪い事を、してみたいです」
 順調だ。
 それで良い。
 アリスも杜花も、自覚の中に居る。少しでも距離を縮め、少しでも離れられない依存が必要なのだ。
 求められるならば、どんな事でもしたい。
 杜花が欲するならば、その全てを与えたい。
 その代わり、ずっと見ていてい欲しいのだ。
「――あっ」
 杜花を抱きしめていると、視線の遠くの木陰で、何かが動いたのが観えた。昼のまだ明るい時間、顔は見えずとも、その配色で誰だかがすぐ判別出来る。
(ああ……謀らずしも、再現、かな)
 状況こそ違うものの、これではまるで幻華庭園そのものだ。
 そこに居たのは、二子だ。此方に気が付いてはいないのか、木の陰でジッと状況を見守っている。
「アリス、どうしました」
「何も……。戻りましょっか。冷えましたわ」
 二子に流し眼を残して、背を向ける。
 自分の事、杜花の事、早紀絵の事で頭がいっぱいだったが、いざ二子の立場を考えると、どうだろうか。その心中は複雑としか言いようがないだろう。
 最愛の姉が亡くなり、姉の代わりになれと言われ、強制的に転校、そして姉が愛した妹に接して、過去を穿り返し、知りに知り、いつの間にか、妹に恋心を抱いていた。
 しかしそれが本当に二子の感情なのか、市子の記憶から来るものなのか、もしかすれば断定出来ていないのかもしれない。
 挙句ここに来て、市子とはつまり撫子という、観た事もない姉の再現であったなどと知らされては、穏やかでいろ、という事の方が難しい。
 だが、可哀想だからと、杜花をやるつもりなど毛頭ない。
 アリスは知っているのだ。
 敗者がどれだけ惨めか。
 それが例え、自ら端を発したもので無いとしても、社会的に負けと観られてしまったら、おしまいなのである。挽回するには努力が必要であるし、天運すら味方につけなければいけない。
 世の中は平等になど、出来てはいないのだ。
 理不尽と向き合わねばならない。二子はその要素が、多いか、少ないか。
「杜花様。今日はお餅何個食べましたの?」
「十個だっけ……」
「え、何それこわい……うげ」
 ……、だがどうやら、この二子という人物は、櫟ほど大人しい人物ではないらしい。
 後ろから押され、思わずつんのめる。
「あぶなっっととと、二子さん?」
「昼間っから、巫女さんの恰好して、いちゃいちゃと、アンタ達はもう!」
「二子。危ないでしょう。謝ってください」
「はい。アリスお姉さんごめんなさい。良い?」
「ぐぬっ……可愛くありませんわね」
「杜花、アリスとくっつきすぎ。私ともくっつきなさい」
「くっつく、というより、ぶら下がる?」
「も、もう少ししたら、姉様ぐらい大きくなるから。きっとその頃には、誰も見分けなんかつかないんだもの」
「泣き黒子の位置、御姉様と逆なんですね」
「うわ、アリス聞いた? 杜花ったら姉様観察しすぎ」
「そら舐めましたし吸いましたし」
「あーあー。子供にそういう話聞かせないで。あ、くっつくっていっても、そ、そういうのダメだから!」
「子供に手を出したりしませんよ……犯罪者じゃないんだから」
 このような姿を見ていると……もしかすれば大丈夫なんじゃないかと、思えてくるのが恐ろしい。
 本当に、二子がこのような調子でいつも居たならば、いがみ合いながらも、毎日仲良くやれた事だろう。
 この子は、この子自身はどうするつもりなのだろうか。
 そして、本当に真に迫る程に『市子』だった場合……心配するべきは、杜花だけだろうか?
 己はどうだ? 神を失った憐れな信者ではないか。
「ああ、お母様」
 薄暗い思考を回復させ、杜花の声にハッとする。遠くに見えるのは、杜子だ。
「三人とも、お母様がお呼びですよ。冷えたでしょうから、母屋に入ってください」
 どうやら『後』がやって来たらしい。二子は小首をかしげている。
 母屋に上がり、花の部屋に赴くと、座卓には花と向かい合う男性が一人いた。
 テレビや電話でしかその顔を知らない、現日本国王、七星一郎である。
「一郎お父様?」
「やあ二子。明けましておめでとう。仲良くやってるみたいで良かった。杜花君、アリス君も、おめでとう」
 正座し、頭を垂れる。花の前である事もそうだが、そうせざるを得ないような、空気があった。
 七星一郎は、今年で七十七。
 普通ならばとうの昔に引退していて然るべき人物だが、その容姿はどうみても三十代後半である。
 髪は黒々しく、顔にもシワ一つない。
 背筋はまっすぐに伸び、外国製であろう高級スーツが、厭味な程にマッチしていた。
 早紀絵の話では、全身どころか内臓までバイオアンチエイジングしているらしく、七十代と言われて信じる人間はいないだろう。恐らく、彼は死ぬつもりなど毛頭ないのだ。
「杜花、アリス、二子。座りな」
「はい」
 一郎の後に敷かれた座布団に三人が腰かける。早紀絵はどこへ行ったのだろうと、花に目配せすると、頭を振られてしまった。もしかしたら、他の巫女さんにちょっかいを出している最中なのかもしれない。
「それで、一郎。なんて話だったっけね」
「真でいいよ、花さん」
「はあ。なんだってまあ、出会ったころより若返ってないかい、アンタ」
「死ぬつもりが無いものでね。僕はまだ仕事があるんだ」
「日本の潤滑油、御苦労なこった」
 花がやれやれ、といった調子で溜息を吐く。
 真、つまり本名の時代からの付き合いなのだろう。するとタイミングはいつか。撫子の死後だろうか。
「お婆様。一郎氏とは」
「いいのかい、これ」
「いいさ。ずいぶんと昔の話だからね」
「パトロンだ。撫子繋がりでね、もっと手広くやってみたらどうかって話でさ、コイツに色々出して貰ったんだよ。お前達、喋るんじゃないよ」
「ええ、勿論」
 なるほど、と心の中で頷く。
 欅澤神社は、道場の他に欅町でエクササイズやダイエット、健康食事法指南なども経営している。
 かなり小規模で、杜子の他にインストラクターが一人、二人いる程度だが、それでも元手となるものは必要だっただろう。
「もっと大きなものにすれば良いのに、花さんは欲が無くてね」
「お前だろう、最近ウチの賽銭箱に硬貨詰め込んだりしたの。全部募金したよ」
「だろうと思った。まあそれは良いよ。で、杜花君の事だけれど」
「ああ。三分割しろって言った所だよ」
「三分割? そうかあ。杜花君程だからね、妾が何人いても、そりゃあ構わないさ。でもなあ、やっぱり親としては、二子を正妻にしてほしいんだよねえ。天原君と満田君には僕が掛け合うよ」
「本人達に任せたら良いだろう、そんなもの。お前、娘何人もいるだろう」
「さて何人いたかな……十……五十……百だったかな? しかしその中でもね、やはり市子、それに二子は特別なんだよ。聞いてくれるかい、花さん」
 ……この人物が何を言っているのか、アリスはいまいち、良く解らなかった。
 娘、と呼ばれたら普通一人二人だ。
 十やら五十なんて数が、出てくるわけもない。単位としておかしい。
(二子さん、御兄弟、どのくらいいますの)
(把握してるだけで数十かな。何せお父様、お妾さん、凄い数いるし。ちなみに、全部女性)
(頭がくらくらしますわ)
「……話? 何があるんだい」
「出来たんだよ。とうとう。再現可能だったんだ。人間を、データとして復活させた。花さん。いや、花。君は、あれほど悲しんでいただろう。あれほど嘆いていただろう。僕も悲しかった。あの子が自殺して、妻が自殺して、もうどうすればいいのか解らなかった。だから我武者羅に頑張ったよ。敵をなぎ倒して、ライバルを蹴落として、七星に尽くし続けた。実力を必ず評価する、素晴らしい企業体だよ、七星は。そして僕は、とうとうやりのけたんだ」
 花の、顔面が蒼白となる。口が半開きになり、目は見開いて一郎から離れない。
 その反応も当然だ。
「……馬鹿を、言わないで。真、貴方……」
「ああ、懐かしい口調だ。今の杜花君のようだ。そうだね、君が思わずあの頃に戻ってしまうような衝撃が、あるかもしれないね。でも本当さ。撫子は、蘇るんだ、花」
 七星一郎は、尊大に、そして感傷的に、韻を踏んで語る。花は頭を抱えた。
 日本国王がやってきて、死んだ娘が、お前の愛した姉が蘇ったのだと語られたら、一体誰がまともな反応を出来るだろうか。
「……真、じゃあ、その、二子は」
「二子は間違いなく、普通の子だよ。君達が思っているかもしれない、クローンなんてものじゃない。肉体は思いの外程度の低いものなんだよ。遺伝子さえあれば出来てしまう。それは違うんだ。そんなものを人間とは呼ばない。人間とは、オリジナルの肉体と、構成される高度な記憶によって成り立つんだ。今はまだ、もう少しだけ時間がかかる。完全に戻った暁には、是非花にも見て欲しい」
「……頼みます……お願いだから……真、出て、いってくれますか……」
「……そうだね。いきなりだった。ごめんよ。逸る気持ちがあったんだ。今日はあえて良かったよ、花」
「……――そんな……まさか……」
「二子」
「は、はい。一郎お父様」
「帰りは何時だい?」
「あ、明日の午後には、帰ります。大丈夫でしょうか」
「うん。姉妹達も呼んである。みんなの前で新年の挨拶、出来るかな?」
「出来ます。お父様」
「よかった。じゃあ、僕はお暇するよ。正月から忙しい身で申し訳ない。ああ、そうだ、杜花君」
「――はい」
「最初は戸惑うかもしれない。でも大丈夫だ。彼女は間違いなく撫子であるし、そして市子なんだ。君達祖母と孫、まさかこんな形になるとは思いもよらなかったけれども、僕は、欅澤の女性達に、なんとか恩返しが出来る。君のおかげさ。ありがとう」
 そういって、七星一郎は部屋を後にし、その後ろを二子が付いて行った。
 杜花が花に寄り添い、その肩を抱く。
 アリスは一度頭を振り、一郎の残す余韻から脱却を試みる。
 恐ろしい人物だ。
 ハッキリとした口調、明確な言葉、正確な反応、相手に聞かせる語りは、いざ面と向かって話した場合、アリスでは対処しきれず、呑みこまれるだろう。
 たったこれだけの時間で、何故彼が七星一郎なのか、その片鱗を味わう事になった。
 そして問題はその語る内容である。
 殊この問題において、七星一郎は答えそのものといえる。
「うわ、今の七星一郎?」
「あ、早紀絵。遅いですわ」
 入れ替わりで早紀絵がやってくる。
 花の様子を見て、一応空気を呼んだのか、大人しくアリスの隣に腰かける。
(一体何があったの)
(たぶん、事の顛末が聞けますわ。だから、静かに)
(う、うん)
「お婆様、大丈夫ですか」
「……とんでもない男に引っかかったもんだよ、本当にさ」
 花は杜花を退けると、お茶を一気に飲み干しだ。アリスとしては、掛ける言葉も見当たらない。
 しかし下世話な直観はあった。
 おそらく花と一郎、いや、真は、浅からぬ関係だったのだろう。
 出会ったのが撫子の死後だとすると、殆ど杜花の祖父と花が一緒になった時期と被ってしまう。大きな声では言えないのだ。
「……利根河撫子、大聖寺誉、欅澤花、組岡きさら。三十年以上前の、所謂学院の『人気者』だ。私は、心の底から、撫子が好きだった。必ず一緒になるものだと、信じて疑わなかったよ。けれどさ、私は気が多かった。誉も、きさらも、好きだった。どうにか、ずっと皆で一緒に居られないかと……全く、頭の中が花畑で出来ていたとしか思えないような事を、良く考えていた」
 疲れた顔のまま、花がとつとつと語りだす。
 その昔学院にあった、一つのグループの末路だ。
「姉妹制度なんてものを作ったのも、撫子だった。少女趣味でね、けれどそれを瀟洒にやってのけるだけの才能があったし、あの子には不思議な力があった。とにかく憧れていた。どうにもならないほどに。当時は今みたいに、同性同士が結婚出来る訳でも、子供が作れる訳でもない。非生産的であるし、社会的な認知度も低い。断然風当たりの強い時代だったけれども、愛さえあれば、なんとでもなると、私もあの子も、いや、みんな考えていたんだと、思う」
「本当に、私達は、まるでお婆様のコピーなんですね」
「杜花からの話を耳にするたびに、当時の記憶がよみがえった。お前を学院にいれると決めた時も、真っ先に一郎が声をかけてきた。そして時間が経って、この通りさね。でも、まさかお前達まで同じような道を辿るまいと、そう思っていた。むしろ、喜ぶべきだよ、杜花。お前は、姉以外何も失っていないのだから」
「……」
「事件の当日は、丁度これから昼休みという頃だった。突然一団が入ってきて、生徒達を三つの教室に詰め込んだ。そこで確か、見せしめに二人が殺された。銃声に悲鳴に怒号。この世の終わりかと思ったよ。綺麗どころが選ばれて、目の前で輪姦された。意味不明な主張に、カタコトの日本語も混じって、それがテロリストだと、漸く自覚した。長い間閉じ込められて、やがてテロリストが慌ただしくなった。警察隊が突入してくるっていうんだ。見せしめに一人殺すと、奴らは撫子に小銃を向けた。私は、後先考えず、そいつを殺して、教室の外に出た。それがいけなかったんだ。一緒についていっていれば、下手な所に逃げ込まず、逃げれたのかもしれないのに。もう一人殺すのに手間取ってね、あとは、あの通りだ。今でも思い出す。当時は、生徒会活動棟だったかな。あんな所に逃げ込んだもんだから、パニックになって。追いかけて来た一人が、誉を撃った。錯乱する撫子を蹴飛ばして、逃げるように指示して、私はそいつも殺した。未だに、その感覚が手に残っている。そのあと、私が危険だっていうんで、追い回されて、隠れて、あの子達が無事である事だけを、祈って……祈って……」
「お婆様、もう」
「ダメだ。もう二度と、語らないんだ。ここで喋らずいつ喋る。私はあの子達を救えなかった。だから、お前は、杜花、お前は救わなきゃいけない。お前の愛しい人全員を守らなきゃいけない。全部ぶっ飛ばしてやれるほど、強くなきゃいけない。杜花、お前は、強くなった。少し、おかしなほど、強い。褒めてやらず、悪かった。お前ならきっと、お前の愛しい人達を、救えるね。私みたいに手間取らず、どんな手段を使ってでも、守ってあげられるね……」
 不意に、アリスの瞳から涙がこぼれる。
 花はもう、杜花なしでは座っている事も出来ない程、当時を思い返し、涙を流していた。
 最愛のヒトの死。
 最愛の姉妹の死。
 更には、助かった筈の親友にまで自殺されてしまい、たった一人取り残された彼女の悲しみをどのように例えれば良いのだろうか。
 ずっと喋らず抱え込んできたのだろう。
 どれだけ心を歪めてしまっただろう。
 もし、アリスが、杜花と早紀絵、一時に失えば、恐らく生きてはいない。
 そんな責め苦に、耐えられる訳がない。
 しかしこの人は耐えたのだ。
 耐えて、子を残して、時代を作り続けて来たのだ。アリスは敬意を払わずには居られなかった。
「お婆様のお陰で、私は杜花様に出会えましたわ。貴女のようなヒトがいるからこそ、きっと今の強い女性がいるんですわよ」
「そうだよ。花婆ちゃんみたいなヒト、私好きだよ?」
「そうだったら、いいね。私自身が無駄でなかったと、杜花の苦労が無駄でなかったと、そう証明出来るのなら、それほど幸福な事はないよ。だから、アリス、早紀絵、杜花。どんな形だって良い。お前達には、どうしても、幸せになってもらいたいんだ……幸せに……」
「お婆様。少し、休みましょう。厄払い、お爺様に言っておきますから、今は」
「……ああ」
「あ、ごめん、二つだけ、花婆ちゃん!」
 黙り込んでいた早紀絵が声を上げる。
 花を休ませたいのは山々だが、此方には知っておかねばならない事がある。
「――良い。言いな」
「一つは、幻華庭園について。これ、作者は?」
「……ペンネームがもじってあるだろう。撫子だよ」
「じゃあなんで……あんな終わり方なの?」
「私も、成人してから知ったんだ。いや、一郎に知らされた。この通りなのかと、聞かれた。大体そうだと、答えたよ。たぶん、躑躅と園、私と誉、執筆当時は選べなかったというのが、本音なんだと思った」
「解った。じゃあ、もうひとつ。櫟の君と書かれた、この鍵について、何か知らない?」
 そういって、早紀絵は懐から『あの鍵』を取り出す。
 花が知らねば、この鍵の用途は完全に不明だ。
 杜花に肩を支えられていた花は、その鍵を手にし、眼を見開き、顔を驚愕の色に染める。
「どこで」
「市子が持っていたらしい。二子から渡されたの」
「……幻華庭園に、宝探しの話が、あるだろう。現実にも、それをやっている。話と同じく、最後の一つは見つからなかった。その最後の一つを開く為の、鍵だった筈だよ」
「花婆ちゃんも、知らないんだね」
「結局何を隠したのか、解らない。幻華庭園と同じ結果だ。あれほど仲が悪くなった訳ではないが、皆に不満は残ってしまった。撫子も結局、何がしたかったのか……」
「ごめん。有難う」
 花が杜花に連れられ、襖の奥に消えて行く。
 アリスは聞こえないように溜息を吐き、隣に座る早紀絵の袖を引く。
「酷い話が、あったものですわね」
「親子飛んで二代か」
「一郎氏の語り口は、明らかに、善意のつもりだったのでしょうね」
「性質が悪い」
 やがて、杜花が戻る。離れに戻ろうという事になり、一同揃って離れへと向かう。
 外を覗くと、相変わらず参拝客は数いる。和室の幾つかでは、会計などに追われたアルバイト達が計算機を唸らせていた。
 本来ならば手伝ってあげたいのだが、どうにもこうにも、今はそれどころではない。
 離れに戻ると、座卓では二子が一人でお茶を飲んでいる。その視線をまっすぐ、杜花に向けた。
「聞いたら、話してくれたわ。一郎お父様」
「そうですか。確かに、聞けば答えそうな人ですね」
「うん。結局、私も姉様も、貴女と花の為に居たみたい。ねえ、杜花」
「なんですか」
「早紀絵とアリス、好きよね」
「――ええ、勿論」
「……どうしても、もう、『市子』には、戻らない?」
「彼女はもういません」
「解った。同意はしないけれどね。多少いちゃつくぐらいなら、許しましょ。そのぐらい心を広く持たないと」
「ふン。何様だよ、本当に……」
 悪態を吐こうとした早紀絵を、アリスが制する。
 二子は……頭を抱えていた。
 やがて、嗚咽が漏れる。予想していた通り、彼女自身も、どうしたらよいのか解らないのだろう。
 何もかも、無茶苦茶なのだ。
 過去から続く因果と、パズルピースを自作して組みたてる七星一郎。
 自殺した撫子と、撫子を再現しようとして自殺した市子、更に、その役割を与えられた、二子。
 魂は、データという形で復元されたという。
 では、二子自身の魂は何処へ行くのか。他の者ではダメだったのか。
 ヒトとは、何処から来て何処へ向かう存在で、何が良くて何が悪いのか、そんなものを保障する者は誰もいないのだと、二子そのものが表現していた。
 葛藤しない方がおかしいのだ。悩まない人間など、それこそヒトではない。
 ヒトは己の価値を保障する何かを求めて、死ぬまで歩み続ける他ないというのに、彼女に課せられたものは、前提として自己の否定なのである。
「私は、姉様が好きだった。数多といる姉妹の中、市子姉様は燦然と輝く星に他ならなかった。そんな姉に死なれて、悲しくない訳がない。自殺した原因は、きっと姉様に良く聞かされていた、貴女達にあるのだと、そう信じ切っていたの。なのに、お父様は、私に市子の代わりになれと言った。姉様を追いやった奴らの中に混ざりたくなんかない。ぐずってぐずって、一年も引き延ばした」
「やっぱり、警戒されてたんですのね、私達」
「するわよ。何もない筈の姉が自殺したら、疑うでしょう、人間関係を。でも、結局抵抗しても意味は無くて、本家に呼ばれて、姉様の部屋を割り当てられた。掃除をしていたらね、杜花にも見せた、手紙の在り処の暗号と……私宛の、手紙があった。内容は短いものだったわ。『恐らく二子でしょう。もし他のヒトが見つけても、見ない振りをしてください。学校に、私の本能と理性を隠してきました。みんなで探してください』って。姉様が結晶を隠した事は知っていたわ。バックアップデータもあるから、そこまで重要視していなかったけれど、お父様は気にしていた。とはいえ、七星がいきなり入って行って、学校中を荒らす訳にもいかない。取引先のお嬢様方だって沢山いたしね」
「……二子は、一番最初に、学院で不思議な事は起きていないかと、そう聞きましたね」
「うん。お父様が懸念していたのは、そこ。ご存じの通り、私にも、姉様にも、力がある。これは、人為的ではあるけれど、先天的であり、発生は後天的なものなの。私も姉様も、脳を弄られてる。説明すると面倒なんだけどね。なんでそんな事されるのか、解らなかったけれど、撫子の話を聞いて、理解したわ。撫子になるには、どうしても、彼女の持っていた超能力を再現する必要があったんでしょうね。故に、酷似しすぎたとも、言える。そして、脳のデータを全てマッピングして記録する『結晶』に、その力が宿ってしまっていると、考えられた。学院から、黒い影が市子姉様に似ているって事は、事前に聞かされていたから」
「なるほど。だから、結晶の傍では何が起こるか解らないと、そう言っていたんですね」
「これだけの事、私も不確定なのに、全部説明出来る訳もなかったし、混乱を招くのは嫌だったから、喋らなかったわ。そして、貴女達を疑った事。それについては、謝罪する。ごめんね、三人とも」
 あの二子が……三つ指をついて、土下座する。
 どう対応して良いか解らず、アリスは杜花に視線を向けた。
 杜花はそれに気が付くと、小さく頷いて、二子に寄り添う。ずるいとは思うが、適材適所だ。
「らしくありません。二子」
「どうあれ、黙っていたのは本当だもの……。ともかく、結晶は全部集まった。更に言えば、私達の関係は、劣悪になったと、言って過言じゃない。姉様が何を考えていたのか、今の私には解らない。でも、これだけは言える。一度段階的に人格データを私に移して、試運転したから。姉様は、どうにもならない程、杜花が好きなの。早紀絵と、アリスと、仲良くしている姿を見るだけで、胸が張り裂けそうになる。独占欲が、異常に強いのよ。私の比じゃない。もうこれは、病気だわ。精神疾患よ。依存以外の何ものでもない。杜花が傍に居ないと、頭がおかしくなりそうになる。けど、私は、でも、姉様が好きだから、姉様の意思をくみ取りたい、姉様を生き返らせたい」
「……七星一郎の悲願だろうさ。だけど、それじゃあ二子はどうするんだ。二子自身は、どこに行くのさ。私達はさ、別段と貴女自体を嫌いな訳じゃないのよ。苦手だけどさ。義理の妹ってんなら、相応に付き合っただろうさ。貴女自身が失われて、それで良いの? もし人格二つ入れるとしても、人格データは競合しないの?」
 早紀絵が前に出る。二子は早紀絵に向き直り、疲れたような笑みを向ける。
 その表情をどう読み解けば良いだろうか。諦めにも似ていた。
「競合する。ボーダーみたくなるでしょうね。だから、私は全部明け渡す。一郎お父様の悲願と、姉様の希望。その二つを託されて、否定出来る人間はきっと、家族ではないわ」
「で、でも、それじゃあ」
「何。心配してくれてるの。それが解ってたのなら、もっと躊躇ったかもしれないわね、早紀絵。でももう良いの。全部終わってるから。この話は、終わりにしましょう。もし謎があるなら、目覚めた姉様にでも聞けば良い。聞ければの話だけれど。ああ、なんか、喋ったらお腹空いちゃった。ねえ、杜花、お願いがあるのだけれど」
「――聞きましょう」
「明日までで良い。二子と仲良くして。形だけでも良いから。本当に、それだけで良いから」
 二子はそういって、杜花の袖に縋る。
 その目は、明らかに悔いていた。行動もまた、それに伴うものだろう。
 そんなにも悩むならば、最初からしなければ良い。
 否定すれば良い。
 しかし、きっと彼女の決意が揺らぐ事はないのだろう。ましてアリスや早紀絵の言葉を受けて、彼女の気持ちが動く筈もない。
「じゃ、暫く二子にモリカ預けよっか」
「早紀絵、良いんですの?」
「大丈夫。負けてない負けてない」
「……杜花様は?」
「解りました。でも頭を覗かないでくださいね、二子」
「し、しない。しない。誓うわ」
「では、外に何か、食べに行きましょうか。サキとアリスはー……」
「適当にしてるよ。いってらっさい」
「ええ。解りましたわ。どうぞご自由に」
「……いきなり優しくなると、なんか怖いわね。ま、いっか。杜花、行こ」
 何か、上手く蚊帳の外に追い出されてしまったような気がしてならないが、あの眼差しを否定する事によって生まれるであろう罪悪感に比べれば、大した事は無いだろう。
 杜花と二子は手早く着替えて、外へと出て行ってしまった。
 なんだか気力が切れてしまい、アリスは畳にだらしなく寝そべる。その横に早紀絵が並んだ。
「たれアリス」
「大昔にそんなキャラが居たような……はあ」
「おっきな溜息。ま、気持ちも解るけど。いいじゃん。モリカは大丈夫だよ」
「根拠の無い自信ですわね……。あーあ。なんなんでしょ、まったく。ヒトを愛するのって、こんなに大変ですの?」
「あんまりにも特殊なヒト好きになった所為でしょ。いやね、ほら、私って結構付き合いがあるでしょう?」
「十三人でしたっけ」
「十五。まあその中には『他の子と一緒に居ないでください』って子もいるわけ」
「そっちが普通ですわよ、世間一般的に考えて」
「さあて。一般なんてものが何なのか私には解らないけど。まあともかく、そういう子は居る訳だ。でも私としては困る。なんでそんなに独占したいのかと聞けば、言葉を濁すばかりさ。論理的なものは、ないんだわね」
「恋心に論理を求める人って」
「まあそうかも。その子がさ、私を好いてくれるのは良い。私の容姿でも、テクニックでも、財産でも、構わないよ。統合して私だから。どれを主張されても、私は恥知らずだなんて思わない。でもその子は答えてくれなかった。離したくない、他の子と一緒にいるのはムカツク。感情論と言われればそれまでだけど、私には歪に思えて仕方が無い。だからさ、その子にはこう言ったの。『君も他の子達と楽しめば良いのに、どうしてそんなに価値を狭めるのか』と。そしてらその子は、『他の事はどうでもいい。私だけ見て、私だけ幸せにしてほしい』って言うんだ。アリスはどうしてか解る?」
「感情に理屈なんて。そのヒトの一番じゃなきゃ、嫌なんですわよ」
「違うんだよ。その子は『私と一緒にいるのが、貴女にとって一番の幸せだから』って言うんだ。自己の価値観を相手の幸福に重ね合わせて、肯定してるんだよ。びっくりしちゃってさ。そんな考え方存在するんだなあって」
「……それが、二子さんと何か関係がありますの?」
「むしろ市子だね。市子と杜花の場合、共依存度は冗談ではない深度さ。互いに『私と一緒にいるのが、貴女にとって一番の幸せ』だと思っていたでしょう。だからさ、敵は二子じゃないんだよ。どうあがいても、市子であるし、モリカなんだ。素の二子とモリカが一緒に居た所で、大した問題はないよ」
 独りよがりな自己肯定は、互いに共有してしまった場合、抜け出せるものでは無くなってしまう。
 それを恋の成就と言うならば幸福にも聞こえるが、その実この世で最も排他的で唾棄すべき思想である。驚くほど周りが見えなくなり、周りが被る被害すら目を瞑ってしまう。
 アリスと早紀絵は、実質的な被害者なのだ。
「それで早紀絵、その子とは?」
「……一年くらい前だっけ。飽きるほど付き合ったら、むしろ向こうが距離置くようになったよ」
「な、何しましたの?」
「好きで欲しくてたまらないというし、敏感な子だったから、毎日三十回くらいイかせ……ぐべっ」
「本当に碌でもないヒトですわねえ」
 早紀絵の頭を叩きつけると、彼女は小さく笑う。
 早紀絵の例は何とかなった様子だが、市子と杜花の場合、心も身体も共有しているものであった。アリスと早紀絵は、入り込む隙間すら無かったのだ。
 しかし杜花には改善がみられる。
 そして例え二子が市子を演じた所で、それは仮初に他ならない。
 七星一郎一押しの最新技術でもってしても、人間の復活など容易に信じられる訳がない。
 杜花の心中をどう察するべきか。
 アリスと早紀絵が出来る、最大限の努力とは何か。冬休み明けが、まだまだ不安だ。
「結晶隠し。宝探しの事だけど」
「はい」
「たぶん、市子は蘇る事前提で、私達の仲違いを狙ったんじゃないかな。幻華庭園も、花婆ちゃん達も、失敗してるものだし」
「自分の居ない間……杜花様が、私達に取られないように?」
「市子は、私も、アリスも、杜花が好きだって知ってた。足の引っ張り合いをすれば良いと狙ったのかもね」
「市子御姉様の、過去知る中でもっとも汚い話ですわね、それ。自分が死ぬのを覚って、なおかつ、蘇る手段を知っていた」
「まあ、私は市子が気に入らないから、そういうバイアスがかかっているけれど。私達を警戒したのは、間違いないんじゃないかな」
 早紀絵の意見は、納得出来る部分がある。市子の依存性を考えれば十分あり得るだろう。
 だが、アリスとしてはどうも、しっくり来ないのだ。
 彼女の杜花への想いは疑うべくもないし、それによってアリスと早紀絵が被ったものは無視出来ないものの、そこまでわざとらしくする必要があっただろうか。
 彼女は自信家だ。
 もし蘇る事が解っていたとするならば、杜花を信じていたであろうし、もし誰に寝とられていようと、必ず奪い返しに来るだろう。
 彼女は思っていても口にはしなかっただろうが、杜花以外、十把一絡げ的な存在でしかない。
 アリスも早紀絵も、警戒こそしただろうが、敵ではないと思っていたのではないか?
「幻華庭園でも、花婆ちゃんの宝探しでも、みつからなかった最後の一つ。もしかしたら、市子も用意してるかも」
「憶測でしかありませんけれど、流れを考えるに、二子さんから私達に、渡す予定はあったのでしょう。彼女が用途を知らずとも」
「休み明けたら、探しに行こう。ヒントがあるかもしれないし」
「……そうですわね。何があるか……解りませんけれど」
 市子が最後に隠したものとは何なのか。
 彼女が予定していたのは、どこまでのシナリオなのだろうか。
 二子の企みが観えない限り、もしかすれば、答えの出ないものなのではなかろうか。
 起き上がり、座卓の前に座る。
 お呼びがかからないという事は、人員は足りているのだろう。座卓の下に手を伸ばして、一升瓶をひったくる。様々考える事はあるものの、正月は正月だ。
「早紀絵、暇だし、呑みますわよ」
「わあ、昼酒。怠惰な人間にだけ与えられた最後の至宝だあね。つきあうー」
「次は何になるかしら」
「本多忠勝とかじゃないかな」
「豪傑にはなりますのね」
 お酒を呑むと、気が大きくなる。世の中の悩みが全て矮小化してしまう。
 この年で、色恋に熱を上げて、必死に取られまいと振る舞う様の虚しさや滑稽さを気にする事の、なんと小さい事か。
 好きなものを好きで居れば良い。
 なりたいものになれば良い。
 心こそがヒトを映すのだと、言ったのは市子である。
 自分が何者なのか、今なら少しだけ解る。
 天原の後継ぎでも、お嬢様でも、御姉様でもない。
 愛しい人に未来を観た、一人の少女である。
 問題といえば、多少酒臭い事ぐらいだろうか。
「早紀絵、早紀絵」
「何、何。私今、森可成なんだけど」
「なんでも良いからキスさせてくださいまし」
「もしかして口に性感帯でもあるのかなこの子……はい、じゃーチュー、うわお酒くしゃい」
「にゃんでもいいでしゅわよぅ……」
「アリスー、お父様が来たぞー」
「早紀絵ー、パパだよー」
 早紀絵を思い切り抱きしめて、舌を絡ませながらその臀部を弄くり回している所で、二人の両親がノックも無く入ってきた。
 ああそういえば、七星一郎が来た事ですっかり忘れていたが、今日は二人の両親も顔を出す予定があったのだなと、アリスはぼんやりと考えながら、まあ良いかと早紀絵の下腹部に手を伸ばす。
「あら」
「まあ」
 母のエリザベスと、早紀絵の母の早紀音が顔を見合わせて笑う。むしろうろたえているのはパパ様達だ。
「……む、娘が御世話になっております、満田さん」
「い、いえ此方こそ。いや、早紀絵もヤンチャな子で、ハハッ」
「あ、ちょお、アリス、そこだぁめぇ……ッ」
「いいじゃありませんの、あら、案外弱いんですのね、ここ……」
「あっ、あっ」
 両親たちは頷きあい、離れを後にした。
 後に杜花の両親も含め、深刻な家族会議に発展したが、花が強権でもってして押さえつけて『正妻は彼女達の判断にまかせる』という事でお開きとなった。




 ――天井を見つめる。
 明日には実家に戻る事になるだろう。人生において、何か大事な瞬間が過ぎ去ろうとしている今を思いながら、アリスは眠れずに居た。
 年末年始に押し掛けて、気前よく受け入れてくれた花には感謝してもしきれない。これが無ければ、何歩も出遅れる事になっただろう。
 最大の目的は一応達成され、あとは経過を待つばかりなのだが、不安は拭えない。
 何かが違うと、そう感じているのだ。
 身体、心情、その他諸々、欅澤杜花を『向こう側』にやらない為、様々と考え、実行した。
 打算的ではあるが、アリスも早紀絵も、その気持ちに偽りはない。しかし本当だからこそ、どうしようもない違和感が付きまとっていたのだ。
 七星一郎の真意、花の過去、二子の葛藤とこれから。
 受け入れ、押しのけるだけのものはそろっていても尚、アリスの胸には焦燥が付き纏う。
 杜花は――どう考えているのか。
 身体を交え、体液を交換しても、彼女の本心を推し量る事は出来なかった。
 そもそも、心だけではどうにもならないと判断しているからこそ、そのような事をしたのではあるが、それにしても、杜花は不透明だ。
 喧嘩していた筈の二子を簡単に受け入れ、一郎の話を静かに聞き、花の告白を冷静に受け止め、二子の吐露を、彼女は黙って聞いていた。
 それは市子という亡霊からの脱却の足掛かりであると判じれば、納得は行くが、そうも簡単なものである筈がない。
 生命を依存したヒトの死は、きっと延々と付きまとう。
 アリスと早紀絵の行為は、それ等を薄め、自分達の色を杜花に刷りこむような作業なのだ。
 彼女に、自分達の色を反映出来ただろうか。彼女は、自分達を頼ってくれているだろうか。
 熱っぽくあり、しかし、どこか空虚なキスを思い出す。杜花が歓んでくれればそれで良いとは思う。だが、本当に彼女は喜んでいるだろうか。
 好きという言葉は、彼女の心の何処から齎されたものなのか。
 ――解らない。
 欅澤杜花が解らない。
 おかしな人物の多いアリス周辺の中で、本当にもっともおかしな人間は……欅澤杜花ではないのか。
 彼女が初めてアリスに笑顔を向けたのは何時だったか。
 彼女が笑顔を失ったのは何時だったか。
 彼女の愛想笑いが増えたのは、何時だったか。
 アリスは自分に向けられる表情を、読みとる事を無視していたのではないか。
 杜花の本心を知るのが恐ろしかったのだ。
 もしかすれば、言葉ばかりで、態度ばかりで、杜花はアリスを、何とも思っていないのではないだろうか。
 単なる知り合い。友人、幼馴染。恋心を抱く事すらない、距離のある知人。
 では、彼女の本心を知るために必要なものはなんだろうか。
 隣で眠る杜花を見る。耐えられなくなり、アリスは杜花の布団にもぐりこんだ。
 彼女の柔らかで張りのある身体を抱きしめる。気が付いたらしい杜花は、薄目を開けてアリスを観た。
「アリス?」
 問われるも、答えない。
 額を突き合わせ、キスをせがむ。杜花は小さく身じろぎしてから、それに答えた。
 杜花の香りが、杜花の体温が、唇に、胸にと染みて行く。
 自分はやはり、この人に恋をしているのだと、強く自覚出来る。
 しかし、その気持ちが彼女と通いあっているとは、限らない。
「子供みたいです。どうしました?」
「好きですの」
「ん。はい。私も好きですよ」
「本当に?」
「本当です」
「ねえ、じゃあ、ここでしましょう」
「……二人とも、隣にいるのに」
「無茶苦茶にしてくださいまし。杜花様の好きなように」
「……でも」
「なら、いいですわ」
 そういって、アリスは杜花から離れ、また自分の布団に戻り、杜花からそっぽを向く。
 何分後だろうか。やがて杜花の方から、アリスの布団に入ってきた。後ろから抱きしめられ、髪の匂いを嗅がれる。
 杜花はアリスの手を取り、下着の上から下腹部を触らせた。
 彼女は分泌液が多めだ。しっとりと、濡れているのが解る。
「あっ……」
「私……アリスにこんな事をして良いのかって、ずっと罪悪感を持っていました。貴女は他の人を知らないのに、私が蹂躙してしまって構わないのかと、少し悩んでもいました」
「……――」
「貴女は人気者で、皆から尊敬されていて、とても、こんな事が似あうようなヒトではないのに、貴女は私が好きだという。選択肢は沢山あって、私よりももっと未来の明るいはずなのに、私を選んで、選択肢を狭めているような、気がした」
「そんなこと、ありませんわ。そんなこと、言い出したら、キリが無い」
「ええ。でも、貴女は私がまだ手に届く範囲に居ると言う。私からすれば、誰も彼も、皆遠くの彼方に居る筈なのに、市子も、アリスも、早紀絵も……二子も。皆、何故か寄ってきてしまった。私は、結局市子のオマケでしかない。貴女達は、勘違いしている。私はそこまで、評価される人間じゃない。相手に情報も伝えず、ただ、そう自分を卑下していました」
「そんな……」
 どう答えたものかと、言葉を詰まらせる。
 確かに、全ての切っ掛けは市子にあったかもしれない。だが、アリスも早紀絵も、杜花を魅力的に感じるからこそ、ずっと傍にいたのだ。
 確かに自分達は仕組まれていたかもしれないが、一体誰が、冗談でここまでするか。
 アリスは杜花と顔を突き合わせ、その頬を抓る。
「いひゃいれふ」
「馬鹿」
「酷い……」
「頭に来ましたわ」
「ごめんなさい……でも、信じてください。私は、貴女も、早紀絵も、好きです。やっと、今になって、自分がどれだけの人間なのか、解ってきた気がします。そうですよね、伊達や酔狂で、貴女達がこんな事をしない。私は――貴女達に愛されているんだって、実感出来ます。自己評価しましょう。私は、酷い女です。私は、ご令嬢をとっかえひっかえするような、悪女でしょう。そして貴女達は、ダメな子達」
「もう言いましたもの。でも何度でも言いますわ。杜花様も、早紀絵も、好きで好きで、仕方がありませんの。私は、貴女達と一緒に居たい。貴女達と、幸せになりたい。その為なら何でもするし、妥協しろというなら、お妾だって良いですわ。でも、これから毎日、キスしてくださいな。卒業したら、杜花様の子もほしい。何も心配要りませんわ。きっと皆、祝福してくれますもの。ああもう、胸が苦しくって苦しくって、仕方が無い」
「アリス」
「んっ」
 また唇が重なる。
 何か、今までとは違う感覚があった。受け入れた舌が口内を、一切の躊躇いなく舐り回す。
 熱量が、気持ちが、恐らく違うのだ。
 杜花はやっと、本当にキスしてくれているのだと、そう感じられる。
 息が荒くなる。
 冗談にもならない。上手すぎるのだ。
 十分程だろうか、アリスは彼女から受ける愛撫で、軽く二回達していた。
 嗚呼、本気なのだなと実感する。
 これからきっと、杜花は手加減抜きで、天原アリスを蹂躙するつもりなのだ。
「まだ、不安なんです。こんなにも近いのに、私は馬鹿なので、貴女達から、離れてしまうような、気がして」
「……はっ……ふぅ。ああ、もう。頭、ぼーっと、する。私、杜花様に、犯されて、しまいますのね?」
「減らない口。黙らせてしまいましょう。声、あげたら気づかれますよ。でもアリスは我慢して……朝まで何回、イけるでしょうね」
「かふっ……酷いヒト……えへへ……」
 満たされて行くと解る。彼女を満たしていると、解る。
 杜花は遠慮をするような人物では、いけないのだ。
 酷い女だと自認するなら、その通りにすればいい。
 アリスも早紀絵も、それを望んでいる。
 本当に杜花が歓ぶ顔が、観たいだけなのかもしれない。その為に何でもすると宣言してしまう二人は、やはりどこかおかしいのだろう。
 空を飛ぶような心地の中、杜花と出会ってから、今までの事を追憶して行く。
 たった六、七年かもしれないが、少女達にとってそれはかけがえの無いものであり、手放す事の出来ない、深い思い入れがある。だが、これからはそればかり抱いていてはダメだ。それでは戦って行けない。
 箱庭の外に投げ出された後も、想い描く幸福な未来の為に歩んでいかねばならないのだ。
 だからこそ、ここでは躓けない。
 転んでなどいたら、自分の欲しいものは、ずっと遠退いてしまう。
 もう夢だけを語る段階にはいないのだ。
 天原アリスはもう、清純可憐な乙女ですら、ないのだから。 




「お忙しいなか、御邪魔しましたわ」
「ほいじゃ、私先に行くね。おちかれさん。またガッコでねえぃ」
 帰り支度の後、外に出ると欅澤家一同が揃っていた。
 アリスが会釈をすると、杜子一同が頭を下げる。花は暫くアリスを観た後、ゆっくり礼をした。
「御世話になりましたわ、お婆様」
「手製だ、持って行きな」
 花はそういって、欅澤神社のお守りとは違う、手作り感溢れるお守りを手渡す。
 刺繍は無いが、高い生地を使っているらしく手触りが良い。外見は他と変わりは無い様子だ。
「あら、有難うございます」
「これは、直感だけどね。お前は危うい。早紀絵もだ」
「酷いお言葉ですわ。でも、欅澤の女性がそう言うならば」
「うん。私はお前が気にいってる。誉に雰囲気が似ているっていうのも、あるがね。杜花はあれだ、人が寄る。敵は多いぞ」
「心得ていますわ」
「なら、良い。いつでも来なさい」
 もう一度皆に頭を下げ、アリスは欅澤神社の駐車場から車に乗り込む。
 本来ならばそのまま実家に戻るのだが、一度学院に行こうと考えていた。
「忙しい正月だったわね」
 隣の二子が言う。
 天原家の車ではなく、七星家の車だ。革張りのシートに深く腰掛け、ジェスチャーで返す。
「ま、良かったといえば、そうかしら。貴女達の事も、余計に良く解ったしね」
「そうですの。それで、学院へはどんな用事で?」
「兼谷の様子を覗きに行くの」
「……兼谷さんの?」
 山道を下り、県道に出る。十分もすれば学院に着くだろう。
 兼谷が学院で何をしているというのか、アリスにはとんと思い当たる節が無い。
 そもそも、彼女は部外者だ。七星が理事会に、出資にと関わっている事から、絶対的に外ではないが、一メイドが主人も無しに何をするというのだろうか。
 そうだ、と二子が手を叩く。携帯電話を取り出して、どこかに連絡し始めた。
「ああ、兼谷。試験しましょう。『貴女からの出力で良いわ』。今からアリスを連れて行くから、お願いね」
 ただそれだけを言って、二子は電話を切る。
「私、生徒会に資料を取りに戻るだけですわよ?」
「まあま、大丈夫、煩わせないわ。それよりも、アリス」
「はい?」
「貴女には、良いライバルになって貰いたいわ。早紀絵にも。楽しい学院生活にしましょうね」
「まあ、渡しませんけれども。そんな申し出が出るなんて、思ってもみませんでしたわ。けれど、楽しくやるのは賛成です。別段と、貴女自身が嫌いなわけじゃありませんって、それは言いましたわね」
「優しいのね。アリスは。私、この学院に来て、良かったと思うわ。最初こそ引け目を感じたけれど。日の目を見て、他愛ない日常を過ごす幸せを、噛みしめられる。京都の奥座敷の中では、知れない世界がある。つながりがある。そう、私ね、火乃子と友達になったの。あの子、凄く良い子よ。あの子と、そして歌那多も、みんなで、楽しくしたいわね」
 楽しそうに二子が語る。
 その笑顔は、いつか見た市子のようだった。
 どうして今になって、いや、今だからこそなのだろうか。つい、アリスも笑顔になってしまう。
 彼女の言葉が本当ならば、それは素晴らしい事だろう。
 二子が杜花の心をかき乱さない限り、学院は平和そのものだ。寮生に、生徒に、皆が仲睦まじく過ごせるというのならば、きっとこれからの一年は明るい。
「正門が観えた。おかえり、アリス」
「ええ、ただ――」
 いま。
 そうだ。そんなものは当然だ。
 皆仲良く出来るに決まっている。
 はて、今の今まで、何を苦しんでいたのか。
 少し、自分が理解出来ない。
 これからも、ずっと楽しくやっていける。
 きっと幸福だ。世界は優しさで出来ている。
 ……。
 正門をくぐる。
 アリスは隣に目をやった。

 ――『彼女』は、いつものように、柔和な笑みを浮かべている。

「ただいま『市子御姉様』これから、どちらに?」
「ええ、少し兼谷と、お話があるから」
「ああ、兼谷指導教員ですわね。でも、やりすぎですわ。メイドを教員にするなんて」
「ふふ。ごめんなさい。でも、とっても有能で、頼りになるわ」
「それは、同意します。そう。うん。ええ。……はい。そうですわね。ああ、新学期も、楽しみですわ」
「……貴女に杜花を取られないように、頑張らなくちゃ」
「も、もう。市子御姉様ったら。でも、そんなことも含めて――わたくし、楽しみですの」

 世界は優しさで出来ている。
 たとえそれが、独善的なものだったとしてもだ。




 ストラクチュアル/5 恋慕クオリア 天原アリス2 了




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