2013年4月19日金曜日

心象楽園/School Lore プロットストーリー4 後編


 
 プロットストーリー4/心象楽園/構造少女群像 後編



 3、天原アリス


 ……。
 その日は放課後にお茶会を予定していた。
 何かと最近は彼女の『妹』が増える事もあり、顔合わせの意味もあるだろう。
 撫子にとって、姉妹とはどのような意味を持つのか、具体的に聞いた事はない。単純にさみしがり屋なのだろう、というのが姉妹達の見解だ。
 二十数人に及ぶ妹達だが、しかし同じ妹という立場でも、誉と花は違う。
 契を結んだ仲であり、将来の展望も暗くはない。当然、同性同士の恋仲など、今の世の中では受け入れられないものだが、自分達ならば上手くやっていけるという自信があった。
 利根河撫子は特別製だ。
 そして自分も、花も、花を慕うきさらも、他とは違うものだと、いささか選民的に信じている節がある。表にこそ出さないが、撫子に認められるという事は、そのような意味が強い。
 ただ当然希望の他に懸念もある。
 撫子は誉を一番だと言ってくれるが、それは嘘だろうと感じていた。
 何番目に好きだろうと、長くやっていける自信はあるのだが、嘘は止めて欲しい。
 そんな些細な嘘が原因だっただろうか。
 撫子、花、誉、きさらの間で、不和が広がった。
 仲直りの為にと始めた宝探しも、結局最後の一つが見つからず、後味が悪い結果となった。
 撫子は決して助言しなかった。
 珍しく頑なで、関係性が壊れるのではないかという懸念すらも解っていながら、答えを出さなかったのである。これにはいつも冷静な花も困り顔であった。
 お茶会は、そんな直近の妹達の不仲を取り持つ為にも催されたのだろう、撫子はいつもより気合を入れていた。
 それならば、最初から面倒な事をする必要もないと誉は考えていたものの……残念ながら、誉も花も、撫子の考えている事など解りはしない。
 撫子が本当に心から愛しているのは、自分ではない。花だ。
 そしてその花を、きさらはずっと追い回している。まるで誉だけが疎外されているような気持ちになるのも、仕方が無かった。
 自分の何が悪いだろうか。
 一度聞いてみよう。
 嫌われるのは恐ろしいが、もやもやを抱えたままでは、きっと不和が今よりも酷くなる。撫子にはっきり言ってもらって、そこからまた、関係を考えて行こう。
 ――それが今日であった筈なのだ。
「動かないでねー。あの子みたいになっちゃうからねー」
 不和は解消され、また新しい関係で臨めるのではないかと、そう期待していたのに。
 どうしてこのような事になってしまったのか。
 小銃を突きつけられ、声も出さずに涙が流れる。
 眼の前にはクラスメイトが無残な姿で転がり、頭を銃弾で撃ち抜かれていた。
 周りにいる生徒達は皆声を殺し、床に座り込んで抱き合う者、茫然自失とする者、様々だった。
「サツはなんだって?」
「交渉、ダメでス」
「お前日本語下手だから出せねえな。まあいいや、他の奴当たらせろ。んで頃合いまで長引かせろ。備蓄は運び込んでるし、装備も充実してんだ。特殊部隊乗り込んで来ようと、丸ごと吹っ飛ばせるって伝えとけ」
「ハイ」
 カタコトの日本語を話す男が指示を受けて走る。胸に下げる無線機からは、絶えず哨戒の情報が流れていた。男は誉に突きつけた銃を離し、顎を上げさせる。
「美人だね。ええと、生徒番号、あった。スキャンしてーと。アクセース、アクセース。はい来た。あ、いいとこの娘だね。ご両親、お金出してくれそうだね?」
「――も、目的は、御金ですか?」
「女子校丸ごと占拠しちゃったんだよ? 主目的もあるけどさ、やる事色々あるでしょう。あの子達みたいに? まあほら、全部連れてってってのは無理だから、見繕ってさ、ご両親脅すもよし、国脅すもよし、向こうのお国で売り飛ばすもよし。すげえ夢広がるね?」
「で、出来るわけないでしょ。そんなこと」
「出来ちゃうねえ。突発的なテロリストさんじゃない訳よ、僕たち。あそこに積んである荷物何かわかる?」
 そういって、教室の端に積まれた荷物を指差す。生徒達を三つの教室に押し込んだ後持ち込んだ木箱だ。
「君達でも解りやすく言うと、自動小銃と弾とロケットランチャー。手榴弾にその他諸々? あと食糧と水が一週間分だねえ。え、日本でそんなもの手に入る筈ない? 逃げ切れる訳ない? あっはっは。まあ何だ、金持ちに産まれたのを悔みなさい悔みなさい」
 装備、機微、組織、明らかに素人の集団ではない。完全にプロ、という訳でもなさそうだが、少なくとも訓練を積んでいるように、素人目に見ても解る。
 リーダーらしき男は日本人のようだが、他の人間はみな、大陸系に見えた。
 過去数件起こっている、学校占拠事件。
 一件を除いて成功例は無いが、まさかそんなものが自分達の学院で起こるとは、夢にも思うまい。
 関係のきな臭い大陸側の工作員。
 思想的なものまでは、誉も詳しくはないが、これをする事によって日本政府にダメージを与えられると踏んでいるのだろう。そして彼等個人も『旨味』がある。
 もうかれこれ、拘束されて何時間が経つだろうか。
 時計は外され、窓も事前準備したらしい暗幕がかけられているので、時間が解らない。
 ふと隣に目を向ける。撫子は力なく座っていた。手を握ると、彼女も握り返す。
 皆が憔悴しきっている。
 信じられない程の心労に、数人は倒れた。焦って逃げようとした二人は、目の前で殺され、挙句死姦され、撮影されている。
 もう無茶苦茶だ。
 警察はどうしているのか。顔を上げ、同じ部屋に詰め込まれた花を見る。
 彼女は、皆が衰弱している中、一人強い瞳を向け、きさらの手を握りしめていた。
「はいはい僕だよ。あ、何? 突入? はええなおい。日本の警察っていやあ、そりゃあもう犯人様に手厚い事で有名じゃねーの。やっぱアレか、良いお嬢様結構いるから、圧力か? それとも裏がばれたか? あーあー。D1とD2は正門警戒。B3とB5は威嚇射撃。S1S2は指揮車両狙撃しろ。警官なんぞ何人殺してもいいぞ。あ? もしもしもしもし? くっそ、やりやがった。おいA1、カメラ持ってこい」
 男に指示され、A1と呼ばれた男がPCに接続したカメラを持ってくる。何をしでかす気なのか、男は花ときさらに前へ出るよう指示した。
「あー、警察さん、動画みてる? いえい。これからこの子達の頭ふっ飛ばします。突入なんてしてみろよ、ここのガキどもみーんな犯してぶっ殺すからね。世界配信しちゃうからね。日本警察まじ無能だってバレちゃうぜー? 高画質でガキどものアソコも脳ミソも丸見えとかすげえよたぶん、再生数。A1お前やれ、一人でやるなよ、手開いてるやつ呼べよ。僕は外見て来るからさ」
 そういって、リーダーらしき男が教室の外へと出て行く。
 A1は無言で机にカメラを置き、並んだ花ときさらに向かって銃を構える。
「や、やめ――やめてッ」
 撫子が絶叫する。
 同時に銃口が撫子に向いた、その瞬間だった。
 花が飛び出し、A1の腹部にミドルキックを叩きこむ。
 のけぞったA1の腕を掴み取って小銃を叩き落とすと、そのまま首を捕まえ、あり得ない方向に捻じ曲げる。
 比喩でなく、ミリリッと、静かな教室に聞いた事もない音が鳴り響くと同時に、A1は失禁し動かなくなる。
「は、花!?」
「……ここで大人しくしていて」
「は、花さん、何を――」
「いいから!」
「で、でも」
 花がきさらの手を離し、誉と撫子に近づく。
 絶対ここから動くなと、そう言いつけて、彼女は教室を出て行った。
 教室がどよめく。緊張の糸が雁字搦めになり、泣き出す生徒、脱出の相談をする生徒、様々と現れる。
「誉、出ましょう」
「でも、花さんはここに居ろって」
「またアイツラが来て、殺されないとも限らない。立って、誉」

 ……。

 教室の真中で立ち尽くしていたアリスは、眩暈がする頭を押さえ、その場にしゃがみ込む。
 まるで掃除もされていない、埃っぽい床の上で、アリスは押し寄せる波に耐えていた。
 高等部旧第一校舎一階。旧2-2組には、周囲には乱雑に積まれた机に椅子、何時使うかもわからないような備品達が無造作に置かれている。
 日当たりは悪く、リノリウムの床は所々割れて美しさの欠片も無い。
 旧世代の遺産が横たわるココは、現在倉庫として使われている。
「……残滓、ね」
 こんな場所に足を踏み入れたのには訳がある。
 杜花と同時に体験した、利根河撫子達の記憶だ。
 杜花、アリス、早紀絵の三人が『結晶の影響』だと思い込んでいた黒い影の正体が、まさか超常現象であったなどと、アリスはとても人には話せない。
 狂人かメルヘンな脳をしているか、どちらかと疑われるだろう。
 厳密には幽霊ではない。これは残滓だ。
 彼女達、前世代の『自分達』が体験してしまった悲劇が、そのまま残っている。
 結晶が見つかった場所以外で見受けられた黒い影の噂の大半が、悲劇の残滓を再生し続けているものであると気が付くまで、そう時間は要さなかった。
 旧第一校舎は、震災の影響で老朽化に拍車がかかり、申し訳程度の耐震工事をして倉庫に使っていると聞いていた。
 だが、東日本大震災とは時期がずれる上に、耐震工事はその数年後に相当の規模で入っている。
 実際柱や壁、床張り下のコンクリート自体には罅も無く、改築工事が得意な観神山女学院ならば、未だ平然と使っていても不思議ではない状態なのだ。
 原因は恐らく、その黒い影だろう。
 こんなものが頻繁に見受けられるような校舎で、授業などしたくはない。
 彼女達の残滓を追って、アリスはこの校舎に足を踏み入れていた。鍵は生徒会が管理していた為、侵入は容易であった。電気も通っているようで、暗い事はない。
 だが、どうも物理的な明暗などよりも、その雰囲気の暗さに圧倒させられる。
 しゃがみ込んだ床をマジマジと見れば、不自然に開いた穴が目立つ。
 今しがた追体験してしまった記憶……弾痕だろうか。
 思いだすと吐き気がするような凄惨な事件に、頭を掻きむしる。
(私は……大聖寺誉の代替え。杜花様は花お婆様。早紀絵はきさら嬢)
 教室を後にし、階段を上ろうとした時の事だ。
 廊下に灯るLEDライトの明りが、妙な違和感をアリスに与える。
 ここはもう数年、清掃も入っていない筈だ。
 教室は確かに酷いものだが、廊下には塵がない。しゃがみ込んで指で擦ってみても、塵が付く事はなかった。手すりも同様である。
 一応持って来たライトで廊下の奥まで照らしても、明らかに清掃された痕が見受けられた。
(冬休みの間……誰がが掃除した? ここに何かを新しく入れる予定はないし……)
 不可解である。アリスは息を飲み、階段をゆっくりと昇り、二階の廊下をそっと覗く。
 時刻は五時過ぎ。
 既に辺りは暗い。引き返して、杜花を連れて来た方が良いのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎる。
 だが、アリスは直ぐその考えを振り払った。
 自分の意思で、何かを知ろうとしているのだ、他人を巻き込む事はない。そもそも、こういった光景は間違いなく、杜花に悪影響を与えると考えたからこそ、自分一人で来ているのだ。
 アリスはいつも受け身だ。
 早紀絵のように何かを積極的に調べたりはしない。とても保守的で、そのバランスが崩れてしまうような行いは、忌避している。アリスが求めるものは、平穏なのだ。
 しかしそんな平穏を崩してまで、何かをしなければいけない場所まで来てしまった。
 二階廊下をゆっくりと、足音をなるべくたてないように歩いて行く。
 十メートル程進んだ頃、見えて来たのは3-3とプレートが下げられた教室だ。二階廊下も同様にして清掃の後が見受けられる。
 教室扉の窓には遮光フィルムが張られており、中を窺い知る事が出来ない。扉に手をかけても、びくともしないのだ。
 鍵の束から3-3とラベリングされた鍵を取り出して使用するも、まるで鍵穴が合わなかった。
 鍵穴に目を凝らす。
 どうみても、それは最新式の錠前だ。扉を手で押すと解るが、扉はガタ付きすらしないのである。裏側から板張りされているのかと思えばそうでもなく、質量がある為にガタ付かないのだろう。
(何の部屋? 倉庫にしては、鍵が新しすぎる)
 疑問に思い、アリスは扉に耳を当ててみるが、大きな音はない。しかしかすかに、空調の駆動音が聞こえる。
 中に何かがあるようだ。倉庫以外使用用途の無いこの校舎で、空調など必要ない。
「――アリス嬢」
「ひゃああっ!」
 突然後ろから声を掛けられ、思わず絶叫して尻もちをつく。
 顔を上げると、そこには物静かな顔をした兼谷が平然とたたずんでいた。音も無く現れるのはいつもの事だが、状況が状況なだけに性質が悪い。わざとだろう。
「か、兼谷さん」
「旧校舎なんて場所に、どんなご用事で」
「に、荷物の移動がありますの。使えそうな部屋はないかと見ていましたのよ」
「なるほど。しかし生徒一人では止めた方が良い。耐震も碌に入っていない校舎ですから」
 兼谷はあきれた、という風にジェスチャーする。
 誤魔化せただろうか。しかし安心出来ない。
 ……早紀絵から既に話は聞いている。
 彼女が何者かは知らないが、ESPデータなるものを引き継ぎ、市子達が持っている超能力を強いレベルで再現可能だというのだから、嘘は通用し難い。
 読んでくれるなと願うしかないのだ。
「兼谷さん。この部屋って、なんだか解りませんこと?」
「さて。私も赴任したばかりで、旧校舎についてまでは」
 嘘だと、直ぐに解る。
 初めての物事に当たる際、兼谷はとにかくあらゆる情報を収集して頭に叩きこむ、大変良く出来た人間だ。
 それこそ、クラスメイトの名前を出せば、その人物がどんな生活を送り、成績はどのくらいで、どんな性格をしていて、家族構成がどんなものかまで、即答出来るだろう。学院そのものの情報についても、彼女は網羅していた筈だ。
「そうですの。鍵もありませんし、ここは諦めますわ」
「それが宜しいでしょう。薄暗くてここは危険です」
 兼谷に導かれ、旧校舎の入り口にまで戻されてしまう。強行する意味は無く、無茶をしても疑われるだけだ、下手な真似をしない方が無難だとして、アリスも諦める。
「そういえば、兼谷さんは何を?」
「貴女が旧校舎に入るのを目にしたので、止めに来ました」
「なるほど、心配をさせましたわ」
「いいえ。さあ、寮に戻って。市子お嬢様のお相手をしてあげてください」
 兼谷に頭を下げ、旧校舎を後にする。
 あそこには何かがある。早紀絵の話から推察するに、もしかすれば改竄機構のマザーコンプでも置いているのかもしれない。
 兼谷が去った事を確認してから、校舎の裏手に回ると、それは直ぐわかった。
 壁伝いに新しいケーブルを引いた跡。複数人が工事をしたのだろうと解る、真新しい痕跡が見つかる。
 確かに、こんなところをわざわざ調べるものはいないだろう。そも、改竄されているのだから、皆が疑問に思う訳がない。
 表に周り、改めて寮への道に戻る。
 街灯に目をやると、大きくはないが、明らかにアンテナらしきものが付属されているのが解った。意識せねば気づきもしないだろう。
 アンテナを潰しても意味がない。この不可思議な状況をどうにかしたいならば、大本を潰すしかないのだが、それすらも早急に修理されては堂々巡りだ。彼女達には自信があるのだろう。
 現状は恐らく、市子の構想をとっくに通り過ぎた場所にある。
 市子は自分が戻りさえすれば良かったのだ。
 だから故に、ここまで大規模な改竄など、想像する筈もない。市子の発想を協力したのか、そもそも市子の発想ではないのか、現状は間違いなく七星一郎の構想の中だろう。
 当初予定されていた状況から乖離が酷くなり、そこに二子の考えが挟まり、一郎が実行力を与えた結果、だろうか。
 彼は、本当に娘想いの酷い父親だ。幾重にも重なった七星家の面倒事に、自分達は完全に踊らされているのである。
「アリス」
 辿りついた白萩の入り口には、杜花とメイが居た。
 珍しい組み合わせである事から、アリスが小首をかしげる。この二人の接点といえば、早紀絵を介さなければまず無いものだ。
 が、しかしこれを支倉メイとしてではなく、利根河撫子のクローンであると見ると、なんとも言えない気持ちになる。
「杜花様、支倉さん、どうしましたの」
「世間話ですよう。アリス様は?」
「ちょっと生徒会活動棟と、旧校舎に。支倉さん、少し聞きたい事が」
「マザーコンプですか。旧校舎にありますよ」
「アッサリ話しますのね」
「杜花様がパンチしても壊れませんし、電源も落ちませんし、壊したら治しますし」
 言わずとも解るのか、メイがにっこりと笑う。余程無意味なのだろう。
「メイさん。一時的にでも解除は?」
「私の権限では、一部アンテナの出力を弄る程度です。これもメンテナンス用権限なので。兼谷を倒せるなら考えられますけれどもねえ。意味ないと思いますよ。それに、お三方はもうアンテナ程度の影響は受け付けないでしょう。脳と精神に耐性が出来ていますよ」
「そういうモノなのですか、あれは」
「一度自覚してしまえばなおさらです。当然上書き出来ますけど、そのたびに出力を上げるので、脳に負荷がかかりすぎます。本来の目的から言えば、もうあのアンテナはガラクタです」
 市子(撫子)との不自然な生活を送らせる上で、既に全員が改竄影響下の外にあるとなった場合、改竄機構は完全に鉄の塊でしかないだろう。
 それを止めない、もしくは出力を上げないという事は、まだ兼谷が気が付いていない事を示しているのかもしれない。
「でも、改竄に気が付かない人間は、アンテナ範囲外に出ても長い時間継続します。それに、これは二子ちゃんが得意ですが、深い部分で弄られていた場合、そもそも改竄されているという意識すらないです。このESP、あらゆる超能力の中でも、特殊な部類なので」
「支倉さん自身の力では?」
「劣化版も劣化版なのです。兼谷の十分の一、二子ちゃんの五十分の一、市子の七十の一、大本たる利根河撫子の、百分の一ぐらいです。市子の意識が本当に撫子に迫った場合、本領発揮もあり得ますねえ。市子が諦めておらず、二子がしつこく、兼谷が強要した場合、今使っている市子二子のESPデータを撫子のESPデータに上書きして改竄機構が発動。今度こそ抗えないでしょうねー」
 メイは小さく頭を下げる。末端はやはり末端なのだろう。
 しかしどうも、気になる点がある。杜花もこれには首を傾げた。
「メイさん。今、改竄機構に乗せているのは、市子二子のデータなんですね?」
「はい。撫子ではないですねー」
「でも、何故ですの? 市子御姉様は、撫子に近づきすぎたからこそ、自殺してしまったのでは」
「……んー。調整が難しいのでしょうかねえ。強すぎたのかな。そもそも、市子の場合、元からある生のESPデータですよね? 結晶に宿っていたものです」
「そう、ですね」
「撫子の場合、無いところから作っている訳です。言葉で説明し難いですねえ。寒くなってきましたし、お部屋に行きましょうかあ」
 肌をこする。メイに促され、三人は話の場をメイと早紀絵の部屋に移す。
 早紀絵はどうやらまだ戻ってきていない様子だ。
 二人が座卓につくと、メイは紙とペンを用意して広げ、箇条書きにして行く。

 ESPデータによる記憶改竄は『他者感応干渉能力』発見と共に研究、開発される。
 殊更強い力を持っていたのが利根河撫子。
 脳を弄るだけでは再現不可能であった。
 それはどこから来る働きなのか。
 研究の結果、能力発現は個人の積み重ねで得た脳のプロセス(思考、行動)によって成り立つ。
 例外的に遺伝からの発現も確認される。
 市子、二子は発現し易くする為、外科手術で脳を調整されている。
 市子は撫子になる為の全てを詰め込まれている。
 市子は完全に撫子を再現している? 強すぎて改竄機構に上書きし難い?
 そもそも、まだ市子は撫子として形を得ていない?

 メイはそこまで書き切ると、小さく溜息を吐く。 
「結論から言いますとですね、七星一郎、いいえ。真お父様は、肉にあまり興味がないのです」
「どういう事ですの?」
「はい。真お父様は常々、人間を作りえるのは記憶であると言っていました。記憶こそが生後の肉体を形成し、能力を覚醒させる。同じ肉から出来ているからと、同じ人間にはなりえないのです。だからこそ、真お父様は苦心しました。大切な娘を蘇らせたいと、悪魔に魂などとうの昔に売り渡し、更には悪魔から買い戻して、悪魔も買収しました。この観神山女学院が、観神山市が、娘を作る為の基盤なんです」
「あの、二千年代初頭をモチーフにした街づくりも、その一環ですか」
「はい。そしてこの女学院のありとあらゆる所に、当時の面影を残したままにし、女学生何たるかのデータを逐一蒐集しました。『健全』の授業もそう。女学生の思考ルーチンを大量蒐集して、統計化して、利根河撫子の理想像へと近づけるデータに生成するんです。彼女が生きていた当時から、イベントだって大した変わり映えはないのです。学生たちはその全ての行いを監視され、統計を取られ、撫子の糧となる。記憶の人工生成なんです。そしてその全てが組み込まれてしまったのが、七星市子なんですよ」
「……」
 杜花が押し黙る。大方予想はしていたが、本当にこの学院は、丸ごと全部、利根河撫子の為にあったのだ。
 娘の記憶を完全再現する為に、人間の思考、行動、言動諸々を解析して最適化し、極力利根河撫子に近付けて行く実験施設である。
 どうしてこんな辺鄙な観神山市街に、七星の大きな研究所が乱立しているのか、その理由が良く分かる。
「……支倉さん。貴女は、データ人格は『人間』足りえると、思いますの?」
「逆にお二人にお聞きします。では人間とはなんですか?」
 そんな事、考えた事もない。人間は人間だ。
 人の種族が交わって、人として産まれるものを言う。
 だが、科学が進み、あらゆる事が神にも近づいた人間達は、新しい方法で人間を生み出せるようになったとするならば、それはやはり、人間なのではないのだろうか。
「神は人など造りません。人は人が造ります。セックスするにしても、科学で培養するにしても、結局人の手で出来ます。人の手で可能な限り限界まで本人に近付けたもの、それが本人でないというならば、じゃあもう人間っていうのは、ブレが許されなくなる。考えが多少変わっただけで、貴女はその人を否定しますか?」
「つまり、メイさん。あれは間違いなく市子だと、そういうんですね」
「はい。人の本質は魂であり、記憶です。生前の市子とデータの市子、総合的に検証しても、ブレは0.0001%未満でした。つまり、市子です。そして同時にそれは、撫子でもある、筈なのですよ」
 メイが言葉尻を濁す。
 本人も、市子については認めていても、零から生み出そうとしている撫子については、確証が持てないでいるのだろう。
「人間なのは、まあ解りましたわ。でも撫子かどうかは、まだ解らないと?」
「……何をもってして個人で、人格なのでしょうねえ。私は肉が撫子ですけど、意識は支倉メイです。それは記憶から生成され、認められた個人ですよねえ。うん。そう。そうですよう」
「杜花様」
「ええ」
 やはり、まだ撫子は、完成していないのだ。
 ――ともすればやはり、まだ抗える内に抗わなければ、このまま偽りの学院生活を強要される事になる。
 メイが俯き、いつもは見せない、暗い表情をする。
「貴女達もたぶん、普通では、ないですよ」
「……アリスが誉で、サキがきさらで、私が花、と」
「もしかしたら、もう実感しているかもしれませんけども。疑った方が良い。過去を再現する為に用意された貴女達は、本当に『オリジン』でしょうか。過去、七星系列の病院で検査を受けた事は? 手術をした事は? そもそも生まれる前、貴女のご両親は本当に貴女の親ですか? DNA検査は? 脳にチップは有りませんか? 遺伝子改造の痕跡は? ――特に、杜花様は」
「そこまでして……まだ、完全再現出来ていないという事ですよね、メイさん」
「……だとしても、逃げられませんよ。恐らく、この学院での再現は、一番真に迫っていますから、真お父様や兼谷が、諦める筈が無いです。だからきっと、現状が否ならば、どうにかして止めるしか、無いでしょうね」
 市子が残した最終手段というものに、頼るしかないのだろう。
 その言葉を受けて、杜花は何か、少し遠くを見てから、意を決したようにする。
 それは、アリスや早紀絵にとって好ましい決意だろうか。
 アリスには、とてもそうは思えない。明らかに、自分だけの決意だ。
 その暗い表情は――市子の死後、仮面を被り続けた、あの欅澤杜花だ。
「杜花さ……」
「解りました。先に失礼しますね」
 数秒の沈黙の後、杜花は部屋を出て行った。
 メイの語りは饒舌だ。いつもとは違う。
 もしや彼女は、現状を面白がっているのだろうか。
 ただ、助言したいだけなのか。
 それとも、協力の態を繕った、撹乱者ではないのか。
 ……。
「ちょっとだけ読めました。疑うのも無理ないですよねー」
 そういって、メイがアリスに近寄り、その手を重ねる。上目使いで媚びる姿が猫にも似る。
「私は、幸せが良いです。貴女達が不幸だというのならば、市子の意思も尊重して、解決の手助けをします。それにですね、本当はこういうの、どうでもいいです。サキ様と幸せになれたら何でもいい」
「ある意味一途ですのね」
「はい。それで、アリス様。貴女は、自分が貴女だと、思いますか?」
 生前の自分を知るすべなどない。メイは解っていながら問いかけているのだろう。ブレがあるかないかを見極めているのかもしれない。
 これはあざとい子だ。確かに、アリスが過去視した撫子と、似ても似つかない。
 肉が同じだろうと、同じ人間になるとは限らない。
 そしてこの子は、その体現なのだろう。
 何か、酷く切ない気持になる。
 彼女は撫子になれなかった撫子だ。そもそも彼女個人は、あまり必要とされていないのかもしれない。
 本人を本人と認めて貰えない辛さなど、アリスには理解出来る悩みではないが、想像する事は出来る。
 アリスはメイの肩に触れてから、抱きしめる。
「あ、あれ?」
「少なくとも、私達は貴女を『支倉メイ』として認識していますわ。他の誰でもない。困った事があったら、いつでも言ってくださいまし。何の助けにもならないかもしれませんけれど、私は貴女を遠く感じませんわ。まあ、少しいやらしい子だとは思いますけれども……私の好きな人の、恋人ですもの」
「あはは。何、言ってるんですかあ……何……何言って……」
「さみしいから、求めるんですの。さみしさが深ければ深いほど、深く繋がろうとする。私達は似た者同士ですわ。貴女は私は、自分を自分と、認めて貰いたい。市子御姉様だって、そうだったのかもしれない。何が正しい答えなんでしょう。個人って、どこから線引きするものなんでしょう。私達は、何処から来て、何処へ向かえば、一番後悔しないのでしょうか」
「真お父様は言ってました。自分が何者か決めるのは、自分だけだって。作る手助けはするけれど、自分に目覚めるのは、自分だけだって。彼は、愛国者です。自分の才能のあらゆるものを動員して、この国を形作る怪物です。国家国民、個人においても、彼は手助けします。けれど、目を覚ますのは、国家国民であり、個人のみだと、ずっとずっと、そう言っていました。だから、大丈夫です、アリス様。メイはメイです……でも」
「でも?」
「たまに、凄く、自分が解らなくなります。外から認めてくれる人も、たまには必要だと、思うのです。嗚呼、だからその……アリス様、ね?」
 しまった、忘れていた、とアリスは頭を掻く。
 どんなにさみしそうな顔をしても、支倉メイは支倉メイである。あまり爛れた関係をアチコチに残したくはないのだが、アリスはもう既に押し倒された後だ。
「だ、ダメですわ。もう、油断も隙もない」
「あふふ……。ダメと言われたら、メイ出来ないです。貴女は杜花様とサキ様のものだから。でも、欲求不満なら、いつでも、傷のなめ合いをしましょうね、アリス様」
 ちろりと紅い舌を出して、彼女は怪しく微笑む。メイを退けて、アリスは部屋を後にした。
 まったくもって、自分の周りにまともなのが居ない。自分すらも怪しい。もう本当に、真っ当な考えを持っているのは、早紀絵ぐらいなのではないだろうかとすら思えて来る。
 押し迫られて火照る身体を撫でつけ、アリスは溜息を吐いた。
「あ、そだ。アリス様」
「ひゃい」
 メイがドアから顔を覗かせる。
「……? もし、本当にまだ撫子が再現されていないとするのならば、ですが」
「え、ええ」
「兼谷は、意地でも再現しにくると思います。どういった手段を用いるかは、解りませんけれどー」
「心に留めておきますわ」
「……してきます?」
「け、結構ですわ」
「あふふ。ではまたー」
 ここ最近、杜花とも早紀絵とも、してはいない。
 それどころでは無いという事もあるが、やはり言い出し難いのだ。メイはそこに目を付けたのかもしれない。あざとい子である。
 気は多いし、もて余すものも多い。
 自分が違う物になって行く、いや、新しいものに変わって行く実感を得ながら、アリスは部屋へと戻った。




 ……。

 甘い夢を見る。
 もうずっとそうだ。恋多き天原アリスは、まどろみのさなかに居る。
 やわらかな刺激に目を覚まし見上げれば、黒髪の乙女が此方を見下ろしていた。
 彼女は女神のように優しく微笑む。ただそれだけでも、心の内から温かみが染み出すような思いだ。
 手を伸ばし頬に触れれば、彼女はその手を取り、キスをしてくれる。
 身を起して辺りを見回す。
 時はいつか。小庭園には四季折々の花々が咲き誇る。
 直ぐ隣では、髪の短い乙女が屈託なく笑う。
 アリスは躊躇い無くその乙女に縋り、啄ばむ様なキスを幾度となく繰り返す。
 気が多くて、適当で、けれど賢しい彼女が気になってしまう自分も、大概に酷いものだと思いながらも、止める事が出来ない。
 やがてそんな卑しいアリスの手を引く乙女が現れる。
 彼女は怪しく微笑み、悪戯にアリスの身体をその手で、舌で舐めまわす。
 紅く光るような瞳は、楽園において異質だ。
 羊たちの中に紛れた狼だが、しかし彼女は、羊になりたかった狼だ。
 いや……羊を繕っていたのに、それを無理矢理引きはがされた、狼だ。
 これだけ美しい獲物が揃っているのだから、手を出さない方が間違っていると、彼女は言う。
 アリスに否定感はない。むしろ、そんなものに奪われてみたかったのかもしれない。
 狼が理性で押し殺していた欲求を、アリス達が自ら解き放ったのだ。
 果実にも似た甘みと酸味が、直接頭の中に流れて来るような快感に、アリスは恍惚とする。
 三人の美しい乙女に囲まれ、この世のものとは思えない快楽が襲う。
 ……幸福だ。
 誰にも手渡したくない楽園がここにある。
 恋して愛され、堕ちるに堕ちるこの堕天の園は、逃げるに難い。
 例えそれが、既に失われてしまった筈のものだとしても、与えてくれるというのならば――。

 ……。

「はあっ……くぅぅッ……」
 ……ベッドの中で、アリスが小さく呻く。
 荒れる息をこらえながら、秘部を弄り回した手を口に運び舐め取る。
 もう何度目だったか。下着もベッドも既にぐしょぐしょだ。とめどなく押し寄せる快感に我を忘れて自慰に耽っていたが、時刻を見れば既に三時を過ぎている。
 漸く落ち着いて来た。
 自分が何をしていたのか振り返り、顔が赤くなるのが解る。
 なんていやらしい子、なんてふしだらな子、自分をそのように心の中で罵りながら後処理を済ませていると、なんだか果てしなく虚しくなる。
 ダルさを引きずりながら、廊下に出る。階段を下りて給湯室に向かい、コップ一杯の水を飲み干す。
(……もう、終わっているのに)
 既に滅びた世界に、今自分達は暮らしている。
 SF小説の主人公が、あったかもしれない並行世界で、自分が本来どこの住人なのか気が付いてしまったのと同じだ。
 ここは完全に歪んでいる。
 最後にまともな記憶があるのは、冬休みが終わり、学校に戻って来て、校門をくぐった瞬間までだ。以降は改竄されている。
 それから二週間と少し、何の疑問も抱かずに暮らしていた。
 市子は生きており、しかし杜花とアリス、早紀絵の関係性は継続されているという、まるで都合が良すぎる世界だ。
 いや、有り得た。有り得たが、あってはならない事なのだ。
 自分達は市子が亡くなってしまったからこそ、杜花に近づいたのだから。
 そんな幸福な世界は、だが長続きはしない。
 過去との符合、デジャヴを幾度となく繰り返した結果であるし、何よりも、欅澤杜花が完全に自重を失っている点は気懸りだった。
 彼女は――普通ではない。
 肉体的に精神的に、同年代の少女達と比べるまでもない。だが時折見せるその危うさが、どうしようもなくアリスを引き付ける。
 彼女は本来『御姉様』ではないのだ。もっと違う何か。
 なりを潜め、当たり前を繕っているだけで、その本性は自分の好きなものを全部下に組み敷く女王である。
 彼女の理性でその性質を抑え込んでいた。そして彼女自身が市子を枷にもしていた。
 だが、今この世界においては、その必要がないのだ。
 彼女もまた幸福の中にいた。
 最愛の市子から、移り気の認可も降りてしまっていた。彼女にとって市子こそが最大の価値観だ。彼女が許可するならば、杜花が自重する意味はない。
 自覚があるかないか、それはアリスも解らないが、先日の風子の件は肝を冷やした。風子を受け入れた場合、杜花の関係性の拡大の引き金になるのではないかと……直感的にそれを否定した。
 杜花の手腕は異常だ。
 好ましく思い、近づくまでは良い。
 だが身体を許して、杜花が乗り気になったならば、もうきっとその人物は抜け出せないだろう。精神的に肉体的に、彼女の虜にされてしまう。
 アリスは身体を抱く。
 引き締まっていて、なおかつ女性の柔らかさを保つ杜花の身体は、触れるだけで心が躍る。
 温かい唇、まるで気持ちの良い部分を全て把握しているような手は、アリスのように無知な処女すら、絶頂に導いた。
 あれを直に体験してしまうと、市子が杜花を誰にも渡したくなかったのが、良く分かる。
 欅澤杜花は、明らかに女性を狂わせる。
 ……しかし……。
 思う所がある。
 二子の思惑だ。アリスと早紀絵は、二子の思惑に囚われない為に、殊更性急に杜花を手放すまいと計画した。市子がいるという事は、杜花が他を見なくなるという意味であったからだ。
 だが結果として、記憶はともかく自分達の関係は地続きになっている。
 これだけの改竄が可能ならば、その関係性すら簡単に破綻させられた筈だ。
 つまり市子と杜花だけの関係、アリスと早紀絵は遠くから見ているだけの、今までと変わらない相関図を、何故作らなかったのか。
 それをやらなかったのは、誰の意図なのだろうか。何を配慮したのだろうか。
 この世界は幸せすぎる。
 だが全て虚飾であると気づいてしまえば、これ程虚しく残酷なものは無い。
「――あら、アリス?」
「ッ……御姉様」
 頬を撫で、眼の前の人物をしかと確かめる。七星市子。だった何か。
 今のアリスには、これが間違いなく二子であると認識可能だ。
 雪中展示会の準備を終えた後、生徒会三役室に居たアリスと杜花を襲ったのは、あの黒い影であった。
 様々な疑問が一気に噴き出し、改竄された記憶がよみがえり、しかしとんでもない矛盾に頭を悩ませた。
『あれ』は結晶の影響で齎されたものではない――最初から、もっと別の物。七星市子ではなく、利根河撫子そのものであった。
 対話は不可能だった。
「どうしたの、こんな夜中に。というか、もう朝になるわよ?」
「御姉様こそ」
「少し眠れなくって」
 市子……二子が手を取る。
 小さい手だ。まるで昔の市子を思い出す。
 彼女は小さい頃から『御姉様』であった。彼女に手を取られ、この人に従って行こうと、そう心に決めたのである。
 それら全てが仕組まれていたなど、思い返すだけで悲しくなる。
 これは……この彼女は今『誰』なのだろうか。
「……御姉様」
「うん?」
 あの時。
 アリスの視覚認識は、情景が四十年前の世界にとって代わり、何故撫子が怒っていたのかが、否でも良く分かった。
 彼女は逃げていたのだ。
 重たい足を引きずりながら、追手に物を投げつける。
 死した妹を背負いながら、その後ろを気にしながら、とにかく、逃げ回っていた。

 ……。

『撫子、走って!』
『誉が、でも、花は』
『いい! 構うな、逃げて隠れろ! こいつぅッ――殺してやるッ! 殺してやるッ!! よくも! よくも!!』
 ただ、傍観者として、楽園の終わりを見つめていた。
 背を撃たれた誉を背負い、撫子が逃げ回る。
 それを追いかけるテロリストの前に、欅澤花が立ちはだかった。
 怒り、悲しみ、負の感情のその全てを、姉妹を殺した相手に向ける花の表情は、過去観た事もない、感情表現の限界値であっただろう。
 へらへらと笑う鬼畜が一発、拳銃を撃ち放つ。
 花はそれに対して、腕を差し出した。
 それもそうだ。たった一人の女子高生、拳銃を持った大の大人が負ける筈がない。
 だが、花は痛みなど無かっただろう。彼女にとって、そんなものはどうでもいいのだ。
 ただ殺さねばならない。
 愛しい人を殺したコイツを殺さねばならない。
 とても少女とは思えない、明らかに脳内リミッターが外れた筋力で飛び出した花は、男の顔面に拳を叩きこむ。すかさず腕を蹴り飛ばし、更に回し蹴りで相手を吹き飛ばす。
『くそ、くそくそ……なんで、なんでこんな……お前らの所為で……!!』
 絶叫と共に、花は男の首を捕まえ、そのまま腰に乗せて地面に叩きつける。
 以降は見ていられるものではなかった。
 数十発に及ぶ、全力の拳が男の顔面に浴びせられ、首の骨は既に折れている。
 花は拳銃を拾い上げて、腹部に全弾撃ち込み、そこで止まった。
 追手が来る。逃げなければならない。
『誉……撫子……きさら……無事で……お願いだから……』
 彼女は涙を抑えて、その場から走り去った。

 ……。

 あの場に残っていたものは、撫子、そして花の絶望の感情そのものだ。
 早紀絵の話を思い出し、それが、学院各所で目撃されている、黒い影の正体であると判断する。
 確かに、結晶の影響もあったのだろう。だが全てでは無い。
 結晶が無かった場所、それ以外の場所で目撃情報があるのは、彼女達が……未だに、逃げ続けているからだ。
 四十年、ずっと逃げている。
 死した二人も、まだ生きている花すらも、学院に感情を置き去りにしてしまったのだ。
 人の心象が現世に反映されるなど、冗談でしかない。
 だがもう、それ以外信じられない領域に、いるのである。
「……アリス、どうしたの。何故泣くの」
「どうして……こんな事……どうして……。彼女達は、未だ逃げ続けているのに。まるで見せつけるみたいに、私達はこんなに幸せなフリをして……どうして……七星一郎は……二子は……市子は……」
「――やっぱりダメなのかしら『そんな事ないわ』」
「――でも二子、アリスが悲しんでる『大丈夫。さみしがりだから、抱きしめて、あげればいい』」
「おねえ、様?」
 アリスは、自分の口を塞いだ。
 知らせてはならない人物に、喋ってしまっている。それは、改竄の影響か、いや、感情がずれてしまった為か。脳は、ストレスを避ける為に、何とか解消しようと、策を弄する。今の言葉は、出るべくして出てしまったものだろう。
「――上手くいかなかったのよ。『なんとでもなるわ』」
 声が、二重に聞こえる。
 二子の口から発せられる……いや、市子を装った二子の口から、二子の言葉が漏れている。
「御姉様。いいえ。二子さん。私では、この世界を甘受出来ませんわ。ただ、辛いだけ」
「――アリス。アリス。私の可愛い妹。違うの。私は……『これは、撫子達の供養でもある。そして、蘇生でもある。姉様、躊躇う必要なんてない。姉様の死を悲しむ子達を――幸せにしないと』」
 市子が、二子が、アリスの手を離す。
 真正面から、彼女に捉えられてしまった。アリスにはどうする事も出来ない。
 悲しく虚しい世界は、また幸福になってしまう。
 ……。
 それを何故辛く思う必要があるのか。
 ……。
 受け入れて、楽になれば良いのだ。
 ……。
 杜花と、市子と、早紀絵と、皆で――笑って過ごせば良い。
 ……。
「ダメ、二子。ダメ。強い負荷は、かけられない。『でも』」
 目を見開く。
 躊躇い、その綺麗な顔を歪める『二子』を押しのけ、アリスは廊下に出て、近くの物置きに閉じこもった。
 頭痛がする。前頭葉が発熱するように、ずきずきと痛む。
 まずい。
 喋ってしまった。感極まったとはいえ、言い訳にならない。
 早紀絵の話では、二子自身はもう思考を読みとろうとはしないという。心を縛っていれば、改竄も免れえると聞いていた。
 だが、アリスが周知である事実が知られれば、その限りではないかもしれない。芋蔓式で杜花、早紀絵も疑われる。
 市子は躊躇っている様子だった。しかし、今の二子はやる気でいる。
 人格データは競合する筈だが、今は二人が一緒にいるのだろう。
 そして問題は、むしろ兼谷である。
 彼女は思考を読み取って周り、改竄機構の届かない場所を補う中継アンテナとして機能している。更に言えば、この計画の推進者だ。
(酷い善意もあったものですわ……)
 ドアを背に凭れかかり、項垂れる。
 廊下で足音が聞こえ、すぐ真後ろ、ドアの前で止まった。
 コンコンと、ノックが響く。
 ガチャガチャと、ノブを回す音が聞こえる。
「――アリス、聞いて、アリス、聞いて」
「――違うの。こんな筈じゃあないの。嗚呼、どうして」
「――許して、アリス。私は、貴女達が愛しいわ。愛しているの。ずっと傍に居たいの」
「――杜花が好きだって良い。早紀絵と一緒に居たって良い。私は幾らだって、貴女が幸せなら幾らだって譲歩する」
「――私……私は、死にたくなんかなかったの。当たり前じゃない……知りもしない姉妹に、何故殺されなきゃいけないの」
「――ずっとずっと、幸福で有りたかった。そうなる筈だった。なのに……なのに……」
「――私は、ただのデータなんかじゃない。私は市子よ。七星市子。貴女が慕ってくれた、姉よ」
「――お願い――傍にいて――さみしくて……死んでしまう……ここを、開けて、アリス、お願い――」
 もう。
 もう貴女は死んでいるのだと。
 アリスの神は、あの時死んでしまったのだと――。
「言えない……私は……言えませんわよ、そんなこと」
 ドアを開け、涙を流す『市子』を抱きしめる。
 どうにもならないほど、これは市子だ。
 わが神だ。
 天原アリスの全てを作った、最愛の超越者である。
 彼女のようになりたかった。
 彼女の傍に居れば幸せだった。
 彼女の笑顔が好きだったのだ。
 何故、何故泣かれねばならないのか。
 何故死して悲しまねばならないのか。
「もう――もう考えたくもありませんわ。これ以上するというのなら……いっそ殺してくださいまし」
「受け入れて、くれないのね、アリス」
 アリスの視界で、二子の像がブレる。同じ人物が、二重三重にも重なるのだ。
 重なる彼女は、酷く、悲しそうな顔をした。
 アリスは、それに応えてあげる事が出来ない。
「……そう。夜分遅く、お邪魔したわね。アリス」
「――ええ」
 そういって、ふらふらとした足取りで、彼女は去って行った。
 迂闊であった。
 なるべく二子とは二人きりにはならないようにと配慮していたが、やはりどうしても、寮では限界がある。
 二子は杜花を相当警戒している。杜花と一緒にいる場合、絶対改竄能力は用いなかった。市子の事に関して、杜花が何をするか予測出来ないであろうし、一度教育された事も影響している。
 明日には、市子が隠したものを探しに行くというのに、まさかその前夜にこうなってしまうとは。
 物置を抜け出し、自分の部屋に戻る。
 足取りは重い。項垂れて部屋に戻ると、五月が眼を覚ましていた。
「五月?」
「会長、どうしました?」
「……ううん。何でも無いの。明日は展示会だから、早く休みましょ」
「そう、ですか。魘されていたみたいですから」
「ごめんなさいね」
「……私には、相談出来ないような、悩みですか」
「……五月?」
「――いえ、なんでも。おやすみなさい」
 そういって、五月がベッドに戻る。
 ……濡れた毛布を上げたままだった。
 今度は気恥かしさに項垂れ、タオルを敷いてから床に就く。
 もう嫌になる。
 もう何度目か解らない溜息を吐く。




 御手洗いの鏡に向かい、自分の顔を確かめる。
 普段はつけないファンデーションで隠してはあるが、やはりクマは濃い。寝不足もあるだろうが、一番は心労だろう。
 三時限目終了後の放課後。
 今日は雪中展示会がある為、授業は午前で終わりだ。
 準備に多少の苦労はあったものの、杜花などの機転のお陰で恙無く進むだろう。展覧の順番や細かい事については、全て職員会議に提出して段取りも決めてあるので、アリスの役目は終わっている。
 それは良い。問題はこれから小庭園を探索する予定がある事だ。
 早紀絵の言葉を信じるならば、市子はそれを邪魔しないという。
 だがどうだろうか。昨日の二子が気掛かりだ。本当に上手く行くだろうか。
 あれほどまでに自己の復活を願い、それを成し遂げてしまった人物が、全てを破綻させるようなものを、残しているのか。
 残していたとしても、既に取り除かれた後ではないのか。
 市子が自分の決めた事を曲げるような人物でない事は、アリスが一番知っている。
 しかし、ことは人の生死、いや、存在の消滅に関わる事だ。もし市子に虚言が無くとも、兼谷はどうだ、二子はどうだ。
(幸福のおしつけ。自分が幸せだと思う事が、人の幸せにも繋がっていると、本気で思っている人がいるとすれば……)
 恐らくそれは、七星一郎に他ならない。
 市子や二子にその気が無かろうと、一郎の代弁者たる兼谷が本気で止めにかかれば、単なる女子高生でしかない自分達に成す術はない。
 きっと彼に『そんな事に何の意味があるのか』などと問うても意味はない。
 彼はそれこそが皆が望んでいると思っているに違いない。
 思考が、思想が、とてもではないが、一般人ではないのだから。
「……嫌になりますわ、ほんと」
 何が嫌か。
 それは現状に抱える不満であるし、後ろに控えているものの大きさであるし――何よりも、二子が演じる市子が……悪いものに見えない自分が一番嫌なのだ。
 杜花は否定的、であるように見える。早紀絵とて認めているとも思えない。
 自分はただのデータではないと、市子は必死に訴えていた。
 人間の魂の在り処など、思想家でも宗教家でもないアリスには解らない。だが、もし人の心がデータとして完全に保管可能で、その全てを再現し、肉の器に移し替えられるのならば……それは本人ではないのかと、アリスは思い悩む。
 そも個人とは何なのか。
 肉だけならば人形だ。魂だけなら幽霊だろう。
 仮初でもその二つが揃っているならば、むしろ個人である事を、否定する事が難しいのではなかろうか。
 そして問題は市子だけではない。肉を提供している二子にもある。
 彼女は何故そこまでして市子になりたかったのか。
 それは本当に本人の意思なのか。
 一郎が強要しているだけではないのか。
 彼女達の心底を、アリスは知らない。だからこそ、頭を抱える。
 失われてしまった姉の復活と、自分である事を止めてしまった妹、その二人。
 神を失って失望したアリスは、狭間で揺れる。
(――私は、常に受け身。こんな状態でも、何をすればいいのかすら、思い浮かばない。流されてばかりで、人の言葉を真に受けて……何が正しいのかなんて、本当は解っていない)
 天原アリスという生徒達の理想像は、仮初のものでしかない。
 切迫すれば思い悩み、危機に瀕すれば何もできない、そこらじゅうにいる弱い人間と同じである。常に強い人間はいないだろうが、アリスは己を偽る事に対して不快感を覚えている。
 正論だけで動く人間はおらず、正しい行いが全てを正しくするなんて理想論は持っていない。だが、どうしてもそのような行いが、不愉快であり、不安なのだ。
 結局、天原アリスがどれだけ薄っぺらい人間なのか、自覚して憂鬱になる。
 市子が居た頃、そんな不安は一切なかった。
 彼女が後ろ盾しているという安心感からである。
 嫌な人間で、弱い人間だ。
 勿論、勿論、解っている。
 人間は誰かに付き従い、後ろ盾を得て生きている。そんな一般的なもの、普遍的な事実だとしても、アリスは許せなかった。
 何が上に立つ人間か。
 何が愛しい人か。
 たった一人も救えず、たった一人の死を引きずり、たった一人愛するだけでは足りない、業突く張りな自分が、ほとほと嫌になる。
(……)
 顔を両手で叩き。目を瞑る。
 何も思いつかない。思考は巡るばかりだ。
 明確な答えなど、きっと何処にも無い。
 何処にも無いからこそ、今はその隠された最後の『何か』に縋る他ない。
 早紀絵は最終手段と言っていた。それがどんなものなのか、明確に把握しているのは市子だけだという。
 市子を消してしまうものなのか。それとも、この改竄機構を破壊するものなのか。
 だとしても……そのあと、どうなる?
 アリスは杜花程強靭ではない。早紀絵程楽観的でもない。ただただ、不安だけがある。
 ――御手洗いを出て、中央広場に向かう。
 外に出ると、既に閲覧順番が回って来た高等部の姿が見受けられた。
 昨晩降った雪は、警備隊協力の下に道路側は退けてある。広場から八方向に延びる通りの両脇には、小等部の生徒達が作った雪像が等間隔に並んでいた。
 芸術品の模造、仏像、ぬいぐるみ、人気キャラクター、統一感は無いものの、皆で一生懸命御姉様達に見て貰おうと造りました、という生真面目な雰囲気が伝わってくる。
「杜花様、早紀絵」
「あら、どこいってたの、アリス」
「少し御手洗いに。寒いですわね」
「中央広場にして良かったですね。直ぐ暖をとれます」
 二人をチラチラと見る。市子……二子の姿は見受けられない。寮でも見かけたし、午前は一緒に授業を受けていた筈だ。会話は無かったが、彼女は市子を演じたまま、何食わぬ顔で居た。
 何処に行ったのか。
「杜花様、市子……御姉様は」
「放課後から姿が観えません。警戒して然るべきですが、手が足らない。対策して行きたい所なのですけれど……私は兼谷の監視で手いっぱいですね」
 今のタイミング、小庭園へ行って探し物をするには丁度良いのだが、雪中展示会後には大講堂で上級生と下級生の交流会がある。
 大注目である欅澤杜花、天原アリスが居ない交流会ともなれば味気ない事この上ない。
「二人とも、この後ですけれど、手筈通りに」
「ういうい。しかし交流会に私達が居ないのは、ちょっと不味いなあ。てか、下級生達の目当てなんて間違いなく市子に杜花にアリス、それに居友とか槐な訳だし」
 本来なら、もう少し日取りを考えたい所だ。だが、あまり時間は開けていられない。
 普段の放課後や休日となると、市子はまだしも兼谷が動いていて、大変面倒である。
 今日は兼谷も雪中展示会の警備にあてられており、しかも此方の働きかけにより、杜花の目の届く場所に配置してある。兼谷は自由には動けないのだ。
 故に今日が最適なのだが、交流会は念頭に置かねばならない。
「じゃあ、モリカ、お願いね」
「貴女達を泥まみれにするのも気が引けますが、仕方ない。アリスも、お願いします」
「ええ」
「監視カメラには気をつけて。気休めですが。区切りがついたら、私も行きます。では」
 三人が頷きあい、杜花が後輩たちの下へと歩いて行く。
 アリスと早紀絵はそれを確認してから、中央広場を抜けて躑躅の道を通り、寮の裏手にまで足を運ぶ。
 物置からスコップやシャベルを引っ張り出し、肩に担いで寮の裏を抜けて行く。
 雪かきされていない林の中は兎に角歩き辛いが、そんな事も言っていられない。
「アリス、顔色悪いね」
「喋ってしまいましたの。彼女に」
「……ま、想定内だよ。そう気を病む事ないさ。アイツラ、頭の中覗くし、むしろバレないと思っている方が警戒心無さ過ぎるからねえ」
「ごめんなさい」
「やめてよ。そんな辛そうな顔、私見たくない」
 早紀絵が溜息を吐き、疲れたように笑う。
 同じなのだ。
 自分の認識外の常識が跋扈する中を生活しなければならないという不自然さを、真っ当な理性で乗り切れる訳がない。自分達の置かれた状況の一つも理解出来ないのだ、疲れるのも当然である。
 死んだ人間が生き返り、生きていた人間が別の物になってしまうという不可解さ。
 死んだ人間を皆が生きていると認識し、当たり前のように過ごす不愉快さ。
 忘れていれば良いのに、思い出してしまったその不遇。
 自分が馬鹿ならば良かったと、そう思う事がある。
「市子、何隠したんだろうね」
「神社で、二子さんも言っていましたわね。姉様は本能と理性を隠したと。そして、支倉さん曰く、これが理性と」
「……一度死んでさ、それが不愉快だったら自分達でどうにかしてって。酷い話だよ」
「解ってやっていますのよ。私達では、何も出来ないって」
「……アリス?」
 市子は、文字通り人の心を読む。
 杜花やアリスがどれだけ市子に心酔していたのかは、彼女が一番理解していた事だろう。
 本物が復活し、それに不快感を覚えたら自分達で始末をつけてくれなどと言うのならば、きっと自信があったに違いない。
『自分達の妹がそんな事をする訳がない』と。
 杜花はどうか解らないが、アリスに関しては、その通りである。
 本当に、現状をブチ壊してしまえる程の物を手に入れられたとして、それを自ら使用可能であるかと問われれば、絶対に無理なのだ。
 死んだ人間を二度も殺せない。
 まして、それは市子なのだから。
「アリス。ダメだよ。市子はもう死んだ。あれは、データだよ」
「人間って、なんですの?」
「難しい話は苦手だなあ」
「少し、考えましたのよ。もし、貴女や杜花様が亡くなってしまった、死んでしまうかもしれない状況に陥ったら、どうしようかと」
「ふぅん……どうするの」
「もし、私が七星程の資産、技術、権力があったのならば……やっぱり、いかなる形でも、生かそうと思うでしょう。サイバネティクスでも、幹細胞医療でも、とにかくあらゆるものを集結させて、貴女達を救おうと、考える」
「それじゃあ七星一郎だよ」
「だから、少しだけ彼の気持ちが解りましたの。最愛の娘を失くして、正気でいられるかと。まして、それが引き金で妻すら失くしている。常人ならば神経衰弱して当然。でも、彼は逆だった。どうしても、娘たちを蘇らせたかった。そして娘もそれを望んだら……与えるでしょう、きっと。例えそれが『人間』と呼べるか否かは別にしても『娘』である事には違いないと。そう決めつける」
「妄執だよ。当たり前の人間のやる事じゃないよ。アリス、毒されすぎ」
「解ってますわよ」
 怒気を孕む声をあげてしまい、ハッとする。
 早紀絵を見ると、彼女は怒るどころか、悲しそうな顔をしていた。
 今更、これぐらいでどうにかなる関係性ではないのだ。杜花やアリスの悲しみを理解しているからこそ、早紀絵は自分達を受け入れてくれる。
「ごめんなさい」
「アリスは悲しい。モリカも悲しい。じゃあ、終わらせないと」
 旧サナトリウム、現白萩の裏を抜け、小路を進み、やがて見晴らしの良い場所に出る。
 しかし、どうも、何か……いや、明らかに、おかしい。
 今は冬だ。
「――何、これ」
 一歩踏み込む。小庭園はそこにあった。
 早紀絵にも、アリスにも、それは見慣れた光景である。
 だからこそおかしいのだ。
 何故ここには春の陽気が漂っているのか。
 雪などひとかけらも見当たらない。
 青い芝生が茂り、左右の花壇には春の花が咲き誇っている。
 中央にはガゼボ、周囲は茨の蔦に囲われている。
 記憶と寸分たがわぬ楽園がそこに存在するのだ。
「まずい、なんか不味い。ああ、こりゃ、アリス、下がって」
「……最初から、ここは、ただの小庭園なんかじゃ、なかったんですわね」
 踏み込む。今になって引き下がれない。
「ああもう。しかし宝ってな。アテもなく掘り返すのもおっかないよ、ココ」
「早紀絵、学院の地図はあるかしら」
「あるけど……」
 そういって、早紀絵がプリント用紙を差し出す。
 確認しても、小庭園の存在は書かれていない。元からここは秘密の場所という扱いであった。自分達が意識してここに来たのは、必ず市子を伴うものであった。
 意識しないように作られていたのだろうか。いや、市子の死後も訪れた事がある。
 そうだ、杜花にキスを強請ったのも、ここだ。
 そもそも、何故『こう見える』のか。
 能力が固定化されている場所、と捉えた方が良いのかもしれない。
 最初から『存在した』のは間違いない。
 そしてもしかすれば、この空間を作りあげているものは、市子の力に寄らないものなのかもしれない。
 チリチリと、記憶がチラついては消えて行く。
『庭園の君』とは、自分だ。
 一番最初に、市子に出会った場所は――この小庭園である。
 いや……何時だ。
 いつ出会った?
 撫子が……違う。
 市子が……。
 撫子と出会ったのも――ここではなかったか。
 
『市子だけじゃありません。貴女達自身すら、疑った方が良い』

 天原アリスには、姉が二人いる。両方とも、妾の子で、養子だ。

『過去を再現する為に用意された貴女達は、本当に『オリジン』ですか?』

 夫妻は不妊がちであった。先進細胞医術の恩恵を受け、漸く恵まれた正妻の子がアリスである。

『過去、七星系列の病院で検査を受けた事は? 手術をした事は? そもそも生まれる前、貴女のご両親は本当に貴女の親ですか? DNA検査は? 脳にチップは有りませんか? 遺伝子改造の痕跡は?』

 自分が産まれた病院は……本家は東京にあると言うのに、何故か、観神山の医療センターだ。
 そうだ、常々疑問だったではないか。
 何故こんな僻地の病院で産まれたのかと。
 最新医療が揃っている?
 だったら、何もここで無くとも、東京の大きな大学病院にでも、行けばいいのだ。
 ここの病院は?
 そうだ。当然、そう、当然の如く、七星である。

「……早紀絵、貴女、どこの病院で、産まれましたの?」
「え? ああ、私観神山なんだよね。だからなんか、ここには縁があるのかな」
「杜花様は」
「そりゃ観神山だよ。医療センター」
 嗚呼と、頭を抱える。
 自分達の経歴どころか、産まれる前から既に、自分達は用意されていたのだ。
「早紀絵、ガゼボの裏、きっと何かありますわ」
「モリカが言ってたの、ほんとかね」
「隠すとしたら、そこしかありませんもの」
 二人で慎重にガゼボの裏を確かめる。
 しゃがみ込み、草をかき分けると、そこにはガゼボの壁に、何かが彫り込まれている。
 ……。
 そうだあの時。
 ……。
「何か、彫ってあるね。……『四人の永遠を誓って』あ、ちょ、アリス?」
 アリスは躊躇い無く、シャベルを土に差し込み、ひっくり返す。二、三度掘り返すと、やがて固いものに当たった。
 土を退けてそれを外に出すと、両掌で持ち上げられる程度の箱が見つかる。
「おおおお、本当にあった」
「撫子御姉様と、花さんと、きさらさんと、私で……こんなイタズラをしたと、思い出して……」
「な、おいおい、アリス?」
「ごめんなさい、なんだか記憶が、混線してますわ」
 密閉性の高い箱を開けると、中から装飾の付いた小箱が出て来る。そこには、しっかりと南京錠で鍵がかけられていた。
「何故、所有者の『櫟の君』が、わざわざ鍵に『櫟の君』って、書いたんだろ」
「彫り込んだの、恐らく市子御姉様ですわ」
「……ああ、ヒント用か。幻華庭園に、辿り着くように」
 早紀絵に目配せすると、彼女は懐から、櫟の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
 音も無く、鍵は外れた。
 一度だけ目を瞑り、息を飲み、ゆっくりと開く。
「……手紙だ。それに、これは……三人分の……指輪?」
「――撫子……市子――」
 記憶が混線する。
 本来知りえない彼女達の悲劇に、心臓を鷲掴みにされ、息苦しくなる。
 早紀絵は何も言わず、アリスの背中をさすった。
 封筒から手紙を取り出す。そこには三人宛の、市子からのメッセージが残されていた。

『これを見つけて、開けてしまったという事は、貴女達が私の存在を認めてくれなかったのでしょう。七星が開発した技術は、間違いなく完璧です。私のデータは私本人と寸分たがわないものです。人間は情報の塊であると、お父様は言っていました。私もそれを信じていました。例え死ぬような目に逢おうと、私は何度でも蘇る事が出来ると、そう教えてもくれました。恐らくここに至るまで、貴女達は私の記録媒体を探しあてたかもしれません。妹とは仲良くしてくれていますか。仲良くなったからこそ、私の存在を認められなくなってしまったのでしょうか。私は最低最悪な人間です。即座の復帰は無理という判断が下り、私は焦りました。私が居ない間、貴女達が杜花を取りあげてしまうのではないかと、必死だったのです。押し迫る自殺衝動を抑えて、今私はこの文を認めています。私は、貴女達に仲違いして貰いたかった。幻華庭園も、撫子達も、皆宝探しで失敗していましたね。そうなれば良いと願っていました。杜花を、貴女達にあげたくなかった』

 自分が死んでしまうという自覚。
 復活できると解っていても、居ない間に杜花を取られてしまうのではないかという、焦り。
 過去を倣い、自分が居ない間に一番仲違い出来そうな方法を模索した、その結果。

『けれど、今、この箱の中に入っている古い手紙と、指輪を見て、酷く後悔しています』

 早紀絵が中から、もうひとつの手紙、つまり撫子が残したものを拾い上げ、読みあげる。
 内容は簡素なもので、つまるところ『四人で幸せになりましょう』というものであった。
 アリスが眉間を摘まんでから、市子の手紙の続きを読む。

『しかしもう、シナリオは作ってしまいました。配置も終え、助言者も決めました。父とも相談しました。そして妹を差し向けるよう、手配してあります。態よく貴女達の関係を壊してくれる事でしょう。妹は、恐らくオリジンで特別製の二子。それで都合がつかない場合、撫子のクローン。御子か、夜津子、五花、立花、七葉、八穂、九重、藤子。さて、誰でしょうか。私は、私が沢山います。彼女達は、いつでも私に成り替わってくれる。皆が皆、同じ顔、似たような考え、利根河撫子になる為に産まれて来た子達です』

 七星一郎の妄執によって生まれた姉妹達。その筆頭は、この手紙を書き終えたあと死ぬ運命にある。姉妹達はどこまで知り、どこまで本気にして、どこまで実行する気で居たのか。
 アリスも早紀絵も、知りたいとも思わない話であった。
 それではまるで、残機制のゲームではないか。
 人間の価値というものが、彼にとってどのような位置にあるのかなど、考えるだけで頭痛がする。

『私は、死にたくなんかない。七星市子は、七星市子として産まれて、七星市子として死にたい。貴女達に、杜花を取られたくない。とられたくなかった。けれど、貴女達が嫌いなんてことは、ありません。私がもっと広い心を持っていれば、貴女達に恨みを買う事も、無かったでしょうに。私は酷い人間です。どうしても、どうしても認められないと言うのならば、以下のコードを、私の前で読みあげてください。そうすれば、私のメインデータ及びバックアップ接続しているサーバの全てがデリートされます。アリス、早紀絵。迷惑を掛けました。こんな茶番に付き合ってもらって、ごめんなさい』

 読み終え、アリスは手紙を握り締める。
 その顔は、怒りとも悲しみともつかない、虚しいものであった。
「……で、ない……」
「アリス……?」
「できる、わけない。出来る訳ないじゃありませんの! こんな、こんなのずるい! わた、私達の手で、死んでしまった彼女を、また殺せっていうんですの!? そんな、そんなの無茶ですわ! 市子御姉様を殺せなんて、そんなの、出来ませんわよ!!」
 解っていた事だ。
 最終手段と言うのだから、そのぐらい当然である。
 しかし、いざ現実として突きつけられて、冷静で居られるほど、アリスは強い人間ではないのだ。誉を合わせて三度も、三度も同じ人間の死に付き合わねばならないなど、冗談も極まる。
 市子は本気なのだ。
 市子は本気で、死ぬ気などなかった。
 こんな事、出来る訳が無いのだ。尊敬する人の御真影を踏めない。拝む神を踏めない。
 自分で仕立て上げ、自分で後悔し、それら全てを他人に任せるなど、無茶苦茶だ。
「じ、自分で、そんなもの、自分で決着付けろってんです! 幻滅も良いところ、不愉快極まりますわよ!」
「アリス、落ち着いてよ」
「いやだ、こんなのいやですわ。私もう、見たくない。見たくない。違う、私の御姉様は、こんな気狂いじゃない。性悪じゃない。優しくて、美しくて、誰からも尊敬されて、常に心の底から、輝いている人ですもの。違う違う違う違う違うッ!!」
「アリス、落ち着いてってばッ」
 頭を掻きむしるアリスを、早紀絵が後ろから抱きとめる。
 もう、何でもいい。
 どうでもいい。
 このまま気にしない振りをして、幸せにしていればそれが一番の幸福だ。
 七星一郎はまさしく正答を得ていたのだ。それが、この仕組まれた自分達に最適化された幸福であると、彼は理解していたのだ。
 だったら何も掻き回す必要はない。
 今、二子の中にいる市子は、自分達も許容している。四人で幸せになろうと言ってくれている。それは自分達が積み重ねた結果だ。
 杜花と、アリスと、早紀絵が、どうにかその関係性を新しく築き上げようと考えた結果を、彼女は汲み取ってくれている。
 ……。
 ならば甘受すべきだ。
 何を否定する。
 そんな意味がどこにある。
 無い。
 無いのだ。
 何一つない。
 悲しみしか生まない。
「早紀絵、もう良いじゃありませんの。許容しましょう。彼女の肉が二子だとしても、意識は間違いなく、市子御姉様ですわ。だったら、その通り私達が振る舞って、幸せになれば良いんですのよ」
「違うよ、そんなの」
「何が違いますのよ」
「造られて、埋め込まれた記憶なんて、ロボットと変わらないじゃない。生体アンドロイドと何一つ変わらないよ。AIが幾ら進化したって、AIはAIなんだ。それは本人じゃない。記憶は、魂なんかじゃない」
「だったら、それで良いですわ。何も、自分から不幸に突っ込む必要なんてない。代替えだって構わない。私は――私は、貴女達と、幸せになりたいだけなのに」
 早紀絵に支えられ、ガゼボの中に入り、腰を下ろす。
 頭を抱えるしかない。
 まさか本当に何もかも壊してくださいと、そんな事を強要されて、する奴がいるだろうか。
 アリスにはとても不可能だ。
「私は、私だよ。色々都合つけてみたけどさ、私もたぶん、弄られてる。アリスも、杜花もだ。でもさ、私はきさらなんかじゃない。貴女も誉じゃあない。杜花も、花婆ちゃんじゃない。自分は自分だよ」
「貴女、知ってて……」
「二子も、市子じゃあないんだ。二子なんだよ。性格悪いけどさ、あいつ、火乃子になんて言ったか知ってるかい? 今が幸せなんだって。京都の座敷に詰め込まれてたのが、まるで悪夢みたいに思える今が幸せなんだって。だから、アイツは勘違いしてるんだよ。アイツは、人との接し方をまるで知らないし、自分ってものをまだ持っていなかったのかもしれない。市子にならなくたって、認めて貰えるって事、知らないんだ」
「御姉様の代替えは、幾つもいるそうですわね。じゃあ、縁もゆかりもない、そちらにお任せしましょ。ええ、それが良い。それなら、罪悪感も少ない」
「メイ曰く、ダメだそうだよ。二子しか適合しなかったってさ。百人近い姉妹の中、二子だけ」
「そん、な。どうして」
「私は開発者じゃない。アリス、ダメだよ。見失っちゃだめだ。市子は死んだ。人は、蘇るようにはなっちゃいないよ。例えそれに近い事が出来たとしても、人間を蹂躙して死者を生き返らせるなんて、私は倫理観とか、そんなものを語ってる訳じゃない。でもダメだよ。人殺して、人蘇らせるなんて、旧世代の魔術やら呪術だ。現代で、人がそう簡単に蹂躙されちゃダメなんだよ」
「貴女は……なんで、そこまで、否定しますの?」
「そんなの、決まってるでしょ。市子に、モリカもアリスも、とられたくないからだよ。アリスがやらないなら、じゃあ、いい。私が、アイツに引導を渡す」
 早紀絵が、アリスから手紙をひったくるようにする。
 こんな世界は懲り懲りだと、言わんばかりだ。
 今、何か、早紀絵にとんでもない裏切りを受けたような、暗い気持ちが湧きあがる。
「あ、ああ」
「アリス。私が幸せにする。死んだ人間に――貴女達をわたさ……」
 ないと、言い切る前に、早紀絵の口が止まる。
 彼女は庭園の入り口を見ていた。
 視線を向ければ、そこには彼女がいる。

「『それじゃ困るわ。そう、とんでもないもの、残してたのね。私』」

「二子……タイミング悪いね……あ、アリス?」
 引き止める早紀絵の手がするりとアリスから離れてしまう。
 それを解っていたように、黒髪を靡かせた『市子』が手を伸ばし、アリスを迎えた。
 柔和な笑みが怪しく誘う。
 まるで誘蛾灯に誘われる虫の如く、アリスはフラフラとそちらに近づいて行く。
「『あーりす。遊びましょう。今日は、何をしましょうか?』」
「アリス、だめ、そっちにいっちゃだめ、ダメだよ、アリス、アリス!!」
「『杜花はいないの? じゃあ二人で遊びましょう。貴女は、甘えるのが、大好きだものね、今日は私を独り占め出来てしまうわ』」
「アリス! 市子はもう死んだんだよ! そいつは二子だ! アリス、見えないの!?」
「『ずっとずっと一緒にいましょう。私に任せてくれれば良いわ。アリスは本当は弱い子だもの。私が守ってあげる。私が幸せにしてあげる。アリスは将来何になりたい? 私が全部叶えてあげる。私は貴女達の願望を叶える人間でありたいの。愛しい妹達の全ての願いをかなえる存在でありたいの。杜花も、そう、早紀絵だって一緒よ』」
 ……。
 じりじりと、じりじりと、脳が熱くなる。
 熱を帯び、意識が混濁して行くのが解った。
 過去と、現在と、未来の記憶が記録が予測が、雪崩の如く押し寄せて来る。
 幸せでありたかった。
 幸せになれると思っていた。
 何の憂いも無く、障害も無く、幸福のまま生きて行けると信じていた。
 彼女がいれば。

 市子が――撫子が居れば――アリスは――誉は――杜花は――花は――早紀絵は――きさらは――。

「『思いだしているのね。解るわ。私もそうだった。彼女達の再現が組みこまれた貴女達だもの。そしてこの学院で蒐集されつくしたデータに情報に、更には思念なんて手に取れないものすら許容させられてしまった貴女だもの。私は市子であり撫子。貴女はアリスであり誉。杜花は花であるし、早紀絵もきさらよ。全部全部、彼女達を、私達を幸福にする為に用意されたものなのだから。希望なんて幾らでもあるわ。何度でも繰り返せるわ。ただ、もうこれを最後にしましょう。だって、準備が大変ですもの、うふふっ』」
「御姉様……会いたかった」
「『うん。これからは、ずっと一緒よ。アリス。私の可愛い妹なのだから』」
「アリス!!」
 彼女の柔らかい身体に抱かれると同時に、意識が暗転する。
 信じられない程の憎悪と、嫌悪と、それを超越する安心感が、アリスを包み込んだ。




 ※、欅澤杜花



 走る。走る。
 嫌な予感だけがあった。
 生徒達との交流会に参加していた杜花だったが、御手洗いを理由に抜けて来た。先ほどから二子の姿がまるで見当たらない。しかも、兼谷は何時の間にか視界から消えていた。
 此方は全部掌握されていたのだろう。
 別に心など読まなくても、学院の監視システムを掌握していれば人間の行動監視など簡単だ。そして恐らく、杜花も何時の間にか兼谷か二子の感応干渉の影響下にあったと考えられる。
 ではどうする。
 どのタイミングが良かった?
 休日など以ての外、放課後などなおさら無理だ。
 どれも同じだと頭を振る。一番好都合に見えたのがこのタイミングしかなかったのだ。
 警戒はしていた。
 リスクもあった。
 しかし、杜花は自身を過信していたと言える。それこそ、兼谷を捕まえて縛り上げた方が良かっただろう。確率は上がった筈だ。
(なんて馬鹿なんでしょうね、私は――ッ)
 不味い。酷い危機感が杜花の第六感を刺激する。
 中央広場通路を駆け抜け、躑躅の道を思い切り横断し、そのまま雪の積もる林を突っ切って行く。普通ならば雪に足を取られてそれどころではないが、杜花においてはそれも問題がない。
 およそ五分だろうか。
 目的の場所に辿り着いた時、もう既に何もかもが遅かった。
「二子ッ」
 小庭園ヴィジョン。季節感がずれている。
 市子はこれは据え付けられたシステム、いや、宿らせた能力の残滓と言っていた。そして市子のものでもないと話していたと記憶する。
 ここは心象の庭園だ。
 七星市子が一番大事にした場所である。
 ここで契りを交わし、ここで市子との全てを始めたのだ。
 全ての欲しい物が揃った場所。
 自分達の想い描く『少女の園』の再現映像。永遠に失われない心象の表現である。
 見る人間によって多少の差異はあるが、見る人間全てに幸福を授ける場所だ。
「『懐かしいわね、杜花。ここで姉妹を契ったのよね。アリスもそう。早紀絵は特別だったわ。貴女達にはここを見せてあげられる。幻の庭園。私が作ったものではないのよ。撫子が残したもの。最初は知らなかったけれど、そうよね、私だって仕組まれているのだから』」
「黙れ。喋るな。私にはもう、貴女が市子には、見えないのだから」
「『そう。ま、大した問題でもないのよ。本当なら、こんな事せず貴女に欲して貰いたかったのだけれど、仕方が無いわね』」
 言い切った瞬間、猛烈な情報量が脳味噌に直接流れ込んでくる。
 その全てが市子の記憶だ。
 市子がどれほど杜花を愛していたか。
 告白が叶った後も恋していたか。
 誰にも渡したくなかったか。
 どれだけ幸せを願っていたか。
 どれだけ死にたくなかったか。
 どれだけ杜花しか見ていなかったか。
 杜花の脳内にある記憶とのすり合わせが急速に行われ、膨大な処理量に脳が発熱する。
「『ごめんね。ずっと貴女の頭は読めないなんて言っていたけれどね、全部知っていたわ。だって、怖かったんですもの。貴女が他の子に浮気するんじゃないか、他の子とキスしてるんじゃないか。私、心配で心配で心配で心配で、心配で仕方が無かったの。だからもう、ずっとよ、ずっと貴女の頭の中身を覗いて来た。でもね、貴女は本当に私しか見ていなかった。ああ、こんな相思相愛があるかしら。杜花、杜花杜花杜花、大好き、愛しているわ。貴女の願いなら何でも叶えられる。貴女無しでは生きていけない。好き、大好き、杜花、胸が熱くって仕方が無いの。私を愛して、市子を愛して、杜花。いい、何をしても良い。また、いつかのように私を蹂躙して。貴女の物にして。無茶苦茶にして。愛してる。愛してる愛している愛してる、杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花――』」
「――ぐっ……ぎ……くっ……私の、望み?」
「『ええ、そうよ。貴女の望み。言って頂戴』」
 小庭園に、一歩踏み込む。
 自分の望みとは何か。
 終わりの無い幸せだ。
 市子が居て、アリスが居て、早紀絵が居る、誰にも邪魔されない楽園が欲しい。
 そしてそれは与えられていた。二週間も気づかず暮らしていた。
 それだけ、杜花の頭が日和っていたのだろう。
 心労に次ぐ心労、市子の残した性悪な仕掛けに、二子の面倒なワガママ。
 それら全てが、最初から全部用意されていて、絶対に手を出せないような奴が後ろにいたという事実。
 具合が悪くて仕方が無い。
 不愉快で頭に来る。
 違う。
 そんなものは違う。
 市子は死んでしまったのだ。

『どうだろうか。記憶とは魂そのものだ。君の心に彼女の記憶があれば、それは生きている事になるのかもしれない。ただそれでも、手にとれる人間としての形を得たものを欲したのならば、その限りではないだろう』

 葬儀の後、一郎が話した言葉が脳内をリフレインする。
 そういう事か、七星一郎。
 杜花が記憶だけでは生きていけないと。肉を欲する愚か者であると、そう思ったからこそ用意した代替えか。
 それがお前の善意なのだなと、杜花は吐き捨てる。
 唾棄すべき狂気の発想に、まともではない杜花すら、嫌悪を覚える。
 死んだ人間を科学によって蘇らせる事について、杜花は何ら否定感もない。それで幸福だと思える人がいるのならば、別に幾らでもすればよい。
 だが復活する人間の人選が問題だ。
 よりにもよって、杜花にとりて唯一無二と思ってやまない、愛すべき、虐げるべき、尊敬するべき神のようなものを、再現させようなどと、冗談ではない。
 あれは最初から唯一無二だ。
 撫子などという人間は知らない。
 杜花にとって市子はただ一人なのだ。
「なら。なら、死んで、市子。もう二度と、私の前に現れないで」
「『な――常識を疑う精神力ね。辛いでしょ。諦めなさい、杜花。それだけで貴女は幸せになれるのに』」
「幸せを、勝手に決めないでください。そんなもの、自分で決める。貧者が欲するものが、お金だけだと思いますか。愚者が欲するものが、欲望だけだと思いますか。止めて。そんな、頭の悪い発想。そんな無茶苦茶やって、私達を混乱させて、貴女は幸せなんですか」
「『違う。貴女達が願ったものだもの。そして、貴女の祖母も、彼女達に組み込まれた遺伝子が欲したものだもの。それが幸福でないと言うのならば、では何が幸せなの。そんなの、おかしい』」
「……不出来ですね。市子を再現しきれていない。下手糞です、二子」
「『酷い言い方。再現、じゃない。私は、七星市子、そのものよ、杜花』」
 感応干渉に精神力だけで抗い、視線を巡らせる。
 ガゼボの奥には、アリスと早紀絵が横たわっている。
 その横には何か、箱だろうか。恐らく、手段は手に入れたのだろう。しかし二人が倒れている今、このままでは打破出来ない。
 杜花は覚悟を決め、一歩、また一歩と足を進める。
「『く、なんで、力が弱まるの。姉様、私に干渉してるの?』」
「二子、独り言ですか?」
「『ちが、違う。私は市子よ。七星市子。私は、七星市子になる為に産まれて来た。七星市子を再現出来るのは、私だけなのだから。私は、姉様が好きだったから。私は、姉様の願いを叶えたかったから。姉様に蘇って貰いたい。姉様を幸せに――違う、違う違うッ』」
 五歩、六歩、七歩。
 足は順調に『二子』に近づく。距離にして三メートル。
 杜花からすれば、一瞬で拳を叩きこめる距離だ。
 だが、どうだ。
 握り締めた拳を見る。力を込めた足を見る。
 そのどれもが、動こうとはしない。眼の前のものを、殴り飛ばしてはならないと警告している。
 二子の細い首だ。本気の杜花にかかれば、頸椎など一撃である。
 それはつまり、彼女を殺害するという意味だ。
 やるとすれば、恐らく手加減は出来ない。
「あ、も」
「――……?」
「もりか。ごめん、もりか。私、取り返しが、付かない事……こんな、つもりじゃ……『どうして、姉様まで。どうして。ああ、もう――兼谷ッ!!』」
「御前に」
「なっ」
 彼女はどこからやって来たのか、視界の端からゆっくり歩くように現れた兼谷が、杜花と二子の間に割って入る。
 その姿はいつものメイド服ではない。
 髪を上に結い上げており、黒いスーツ姿だ。
 関節部に重作業用強化パーツがはめられている。あれは関節が弱った老人用に開発されたと聞いていたが、この場合、恐らく軍事用、つまるところ、拳一つで人間を致死に至らしめる重圧が産まれる装備である。
 彼女が本気になれば、杜花もただでは済まない。
「『どうして。杜花、全然効かない』」
「貴女の所為です。市子お嬢様。貴女が彼女に能力を使い続けたから、耐性が出来ているんでしょう。もしくは欅澤杜花自身のESPか……さて、一度引きましょう。二人はともかく、杜花お嬢様は厳しい」
「待って下さい。一つ、聞きたい事がある」
「……どうぞ? お答えしますよ『欅澤花』さん」
「いつ、弄ったんです」
「産まれる前と産まれた後に。満足いただける答えでしたか」
「踏ん切りが付きました。私はやっぱり、空っぽだった」
「――左様ですか。お互い整理する部分もあるでしょう。交渉するというのならば受けます。整理がついたら、いつでも旧校舎二階にどうぞ。手厚くお迎えします、杜花お嬢様」
「貴女は何故、そこまでするんです」
「――私はメイドです。七星に幸福をもたらす為に居る、メイド筆頭の、兼谷恵(けい)です」
 そういって、兼谷は懐から拳銃を取り出す。
 杜花は目を見開き、自分の意識を周囲に広げ、兼谷を射程に捉える。
 殺意さえ読めれば、杜花に拳銃は無意味だ。着弾場所が解るのである。
 相手が引き金を引く、その一瞬の動作に全力の集中を注ぎ込む。
「はい、隙あり」
 ……。
 ガツンと、頭を殴られるような衝撃があった。
 物理攻撃ではない。二子と同じく、感応干渉の応用だろう。視界が一瞬ホワイトアウトする。
「くぅぅっ――兼谷ッッ!!」
「けたたましい女は、女性にも嫌われますよ、杜花お嬢様」
 襲い来るか、どうするのか。全力で警戒する。しかし、幾ら経っても攻性危機を感じない。
 ……どれだけ時間が経ったか。
 視界が戻った頃には、二人の姿が見当たらない。
 辺りを見回し、危険が無い事を確認してから、杜花は早紀絵に近づく。
「……アリスは、連れて行かれましたね」
「あっ……ええと、モリカ、私――そうだ、二子、あいつ、あいつッ」
「落ち着いて。サキ、『宝物』は?」
「……ここに、ある」
 そういって、早紀絵は自分の下着から手紙を取り出す。いざとなっても悪あがきするだけの胆力がある早紀絵には恐れ入る。そして恐らく、早紀絵の記憶力なら全て頭に入っているだろう。
「焦ってたのかな。あいつら。でも、もう少し慎重にするべきだったね」
「無意味だったでしょう。この学院は七星の庭。私達の行動なんて、全部知られている。でも、ごめんなさい。私は、自分を過信しました」
「まったく、困っちゃったね」
 ふらつく早紀絵を立たせ、抱きしめる。
 ここまでしてしまっては、彼女達も後戻りが出来ない。いや、最初から戻る道など作っていないだろう。
 予想外、想定外があろうと、全てを無為に出来る自信があると見える。
 幸福の強要など、御免こうむる。
「アリスの目測通り、あれはまだ、撫子ではなさそうですね」
「そもそも、市子が撫子になり替わるのか、新しい人格が出来るのか、それもわかんないや」
「撫子のESPは、とても強いと言っていましたね」
「メイの言葉を信じるなら、そうだね」
「だからやはり、まだ、違うんですよ。それに、考えていた事があります。マザーコンプから改竄を行っているという話でしたが、ESPデータ自体、そもそも結晶にしか宿らないのでしょう」
「誰にでも適用出来るようにした加工品以外は、そうだろうね。市子の結晶を考えるに」
「二子の身体から結晶を取り除いていては、本末転倒です。マザーコンプは恐らく、増幅器でしかない。大本のESP発信者はコンプではなく、二子自身」
「……つまり結局、消さなきゃダメってことだあねえ」
 早紀絵から箱を受け取り、中身を見る。
 そこには指輪が三つ。
 そして底には、古く黄ばんだ封筒が一つ入っていた。
「これは?」
「たぶん、撫子のものでしょ。新しい方は、私達宛の手紙。市子のデータの削除コードが載ってた。それと、私達を分断して嫌がらせしたかったって性悪な話」
「やきもちやきにしては、過激すぎますね。私同様、病的」
「ああ、自分で言っちゃったよこの子。ま、そだけどさ」
 新しい手紙を置き、古い手紙を慎重に開くと、達筆で簡素な文字が綴られていた。

『最近、私達はどうもすれ違いが多くて、要らない諍いを起こしているように思いました。私は、小さないざこざはあったとしても、貴女達とずっと幸せに生きて行けると信じています。私は、花も、誉も、きさらも大好きです。これからも、私と一緒にいてください』

 指輪の一つを取って輪の内側を覗くと、そこには名前が入っていた。三つにそれぞれである。
 それを置き、今度は新しい手紙を手に取り、内容を改める。杜花は溜息を吐いた。
「サキなら、どう読みますか」
「さて。モリカには、違って読めるの?」
 間違いなく、これは市子の本音だ。ただ、二人とは、読み方が異なるだろう。
 彼女の言葉を思い出す。
 
『経験と記憶よ。自分には何が必要で何が不要か、何を無視して何を気にするか。何に興味を示して、何に興味を示さないか。経験と記憶の取捨選択が人間を作るの。もし、同じ遺伝子を持った双子が居たとしても、同じ人間にはならないわ。例えばクローンだったとしても、二人のクローンが興味を示す事が違えば、違う人間になる。だから、不思議でもなんでもないわ』

 解っている。
 知っている。
 杜花は一人頷く。
 そして、自分のなすべき事を知る。
「このコードを読みあげれば、デリートされるんですよね」
「本当かどうか、怪しいけど」
「決めた事でしょう。曲げませんよ、あの人は。それに、これは都合が良い」
「都合が良いって?」
「サキ、戻りましょう。ここは春に見えますけれど、本当は冬の只中だから」
「そうだった。これ、感覚器まで錯覚させるんだね」
「御姫様、助けませんとね」
「モリカ、言葉に気が無い。貴女もしかして」
「……――」
 目を瞬かせる早紀絵の唇を奪い、髪を撫でつける。
 欅澤杜花は、度し難い程の愚か者だ。今更引き返せない程に、狂っている。
 このままの状況は許容出来ない。
 市子も生かしてはおけない。
 杜花は一般的に見れば狂っているが、馬鹿にはなれないのだ。
 アリスも悩んだ事だろう。当然だ。相手は神なのだ。そして半身なのだから。
 早紀絵に肩を貸し、二人は歪んだ小庭園を後にした。
 市子を殺さねばならない。
 彼女は、死を望んでいる。




 4、七星市子、七星二子



 ……。

 一番最初に自らが何者であるか知る足掛かりとなったのは、禁制品倉庫に眠っていた幻華庭園であった。
 読めば読む程自分に酷似する人物像、それを取り巻く人物達に、七星市子が混沌たる感情を抱く。
 櫟という人物が何者なのか、作者は一体どうしてこんなものを書いたのか。
 明確な学院の描写、近隣の街並み、欅澤杜花の神社、おかしな程に重なって行く状況が、七星市子を探索者に変えるには十分な説得力で迫った。
 最初こそ面白半分だっただろう。
 だから、登場人物に準えて、彼女達を『何々の君』と分類した事もある。全て調べ上げたあと、こんな事があったのだと、杜花達とのお喋りのネタにしたって構わないと考えていた。
 だがどうだろうか。
 調べれば調べるほどに、全ては重なってしまっていったのだ。
 幻華庭園を発見してから一か月ほど経った頃だろうか。文化祭の空気も過ぎ去り、学院内はまた静かな空気に満ちていた。
 大仕事を終えた生徒会は大してする事もない。総会の準備はあるが、有能なアリスが意見書も方針も取りまとめてしまっていたので、市子というと、妹達のご機嫌取りなどをして放課後を過ごす毎日だ。
 ある日、備品を取りに行くという事で、旧校舎に上がる機会があった。
 他の生徒会委員を伴えば良かったものの、その時は一人である。御姉様という立場に胡坐をかかない市子にとって、率先作業は基本だ。
 備品の在り処を探していると、突如不思議な眩暈に襲われる。
 誘われるようにして教室に入れば、そこにはあり得ない光景が広がっていた。
 小銃を構える男と、怯える生徒達の群れ。
 そして何故か自分はその最中にいるのである。
 隣には、どこかアリスに似た雰囲気の少女、視界の端には、杜花と早紀絵に似た少女がいる。
 まさしく絶句する光景を味わい、市子は飛びだすようにして旧校舎を後にした。
 あれは何だったのか。
 どうしてあんな記憶が回想され、追体験させられるのか。市子の調査方針は、その残滓を調査する事で、とうとう深みに嵌ってしまう。
 生徒会が保有する学生名簿、卒業作文、卒業アルバム、調べれば微かだが、その記憶を掠める情報がポツポツと出て来る。
 自分の能力に由来する部分もあっただろう。知っていそうな人物から記憶を漁り、ありとあらゆる方面に手を伸ばした。
 その頃からだろうか。
 七星市子が七星市子として希薄になり始めたのは。
 オカルト研究部の部誌はもはやトドメであった。
 自分と同じような存在。自分と同じ顔、同じ能力を保有した何者か。
 利根河撫子に辿り着き、絶望する。
 市子は一郎に詰め寄った。
『お父様。私は、誰なんでしょう』
『ふむ。わざわざ聞くという事は、気づいたのかな。まず前提として、市子が私の最愛の娘である事には違いない。それを踏まえて、聞いて欲しい』
 父の語る話は、常軌を逸していた。
 自分には前妻がおり、それは自殺してしまった事。
 その原因が一人娘の自殺である事。
 娘を蘇らせようと、七星一郎にまで上り詰めた努力と苦痛と解放。
 沢山の姉妹がおり、それは皆撫子の遺伝子から培養し、代理母を経て産まれた事。
 姉妹の数はおよそ120人。
 全てが全て、撫子になる為に産まれて来たという事。
 名前はナンバリングだった。
 市子は撫子の遺伝子を引き継いではいないオリジンであるが、遺伝子的、骨格的、脳の波長、思考、行動、その諸々が最適であるとされた為、『市子』の名を授けられた事。『二子』も同様だった。
『私は私です、お父様。撫子なんて知らない姉妹になりたくなんかありません』
『でも、見てしまったんだろう。自分が今、市子なのか撫子なのか、判断出来るかね?』
『で、でも』
『そう。君は市子で良い。同様に撫子なんだ。とうとうこの日が来たのだと、僕は感慨深い。やはり、肉体なんてものは二次的なんだ。記憶こそが人間を形作る。クローンを何人も作ったけれど、オリジンの君が辿りついたのは、必然なのかもしれないね。でも、一つ懸念があるんだ』
『懸念、とは?』
『自殺衝動だよ。前例があってね。記憶が君を生かしてくれるだろうかという問題だ。彼女は既に他界した。自らの命を絶った。魂は、君の肉体生存を容認するだろうか?』
『……杜花も、アリスも、早紀絵も、皆、お父様が用意したのですよね』
『そうだよ。撫子を再現する為に。撫子を蘇らせる為に、正しい記憶の道を辿らせる為に用意した。アリス君と早紀絵君は、誉君ときさら君のご両親から遺伝子提供を受けていてね、組みこんであるんだ。杜花君は脳の伝達速度と一部記憶の擦り込みがなされている。少し想定外な程強くなったみたいだけれど。元がナチュラルな杜花君は勿論、アリス君も早紀絵君も適正がある。候補は沢山いたんだけどねえ。やっぱり、苦労した甲斐がある。人間は努力すべき生物だね、市子』
『……私は、耐えられない、のでしょうか』
『彼女達は肉体的なものでしかない。記録媒体も埋め込んでいないから、魂を集積しない。過去の残滓を感じるだろうけれどね。けれど君の場合、相当に魂が酷似してしまったんだろう。自殺衝動に悩む可能性がある。ただ、そこを通り越さないと、利根河撫子は直ぐ自殺してしまう欠陥を残す事になる。だからお父さんと一緒に乗り越えよう、市子。データの修正については早急に取り掛かるよ』
『お父様……』
『ごめんよ。全てが終わった後、君が自分を何者かと判断するかは、君次第だ。お父さんを許してくれとは言わない。お父さんはね、辛かったんだ。あのウジ虫どもに蹂躙されたまま諦めるなんて、虫唾が走る。娘を殺されたなんて、考えたくも無い。お父さんは、頑張ったよ。そして復讐は大陸で今も続いている。内患レベルの者たちは、僕の私兵で滅ぼしてやった。幾ら出てきても幾らでも叩く。もう君たちに辛い想いをさせたくない。僕の可愛い娘たちを、塵供に踏みつぶされるなんてまっぴらだ。許せないんだ。ダメな父だと罵ってくれて構わない。僕はそれだけの咎を背負った。背負う覚悟がある。戦う覚悟がある。ただこれだけは信じてくれ。決して、決して僕は、君達姉妹達を、そして杜花君達を、貶めたい訳じゃあないんだと。幸福を共有したいのだと、そう考えて、行動している事を』
 七星一郎は、決して誰にも見せる事の無かった涙を流しながら、熱く語る。
 世界最大級の財閥の長である七星一郎が、裏で起こした紛争、戦争の数は片手では足らない。大陸国家を分断したのすら、彼だと言われている。
 彼は、娘の復讐の為だけに、世界を巻き込んだのだ。
 娘である自分ですら、かける言葉が見当たらない。
 七星一郎は狂っている。
 だが、依存せざるを得ない立場に、七星市子はいるのだ。
 彼の言葉とは裏腹に、七星市子は利根河撫子へと近づいて行く。
 旧校舎、生徒会活動棟、高等部校庭、中央広場東通路。
 様々な場所で、市子は撫子の残滓を追体験する度に、市子としての存在が希薄になるのを感じた。
 自分は死ぬ。
 生きている事に耐えられない。
 一郎の言う通り、日に日に自殺衝動は増していった。
『嫌だ……死にたくない……杜花と離れたくない……杜花を取られたくない……誰にも渡したくない……』
 この時、杜花に相談していれば、何かが変わっただろうか?
 市子は否と思う。結局自殺しただろう。
 その事を話せば、杜花は確実に市子を自分の手から離すまいと、何をしでかすか解らない。本当に七星一郎を殴りに行くと言い出してもおかしくないのだ。
 欅澤杜花は欅澤杜花で狂っている。
 彼女はどうやっても、その価値観の最上位に市子がいるのだ。
 それに、ずっと一緒にいると不味い事がある。
 突発的に自殺衝動が押し寄せた場合、彼女に目についてしまうからだ。
 自殺した市子の姿を見た杜花が、どうなるか。想像するだけでも吐き気がする。
 遠ざけなければならない。
『杜花。実は一週間ぐらい、忙しくって、貴女に逢えないかもしれないの』
『そんな。市子、それは寂しいです』
『ごめんね、杜花。この世で一番、愛しているわ』
 一つキスをして、杜花と別れた。
 自分は差し迫っている。もう何日も耐えられないだろう。
 そこでやっと、父から話が降りて来た。
『済まない。修正が間に合いそうにないんだ』
『……では、どうしましょう。死にましょうか。もう、毎日、耐えられない』
『……そうだね。死んでみるのも良い。ただ、死ぬだけではないけれど。平行して考えていた構想を話そう。君が記憶を保ったまま生き返る手段だ。兼谷とも相談してね』
『それは、どんなものですか、お父様』
『うん。まず確実に復活出来る事は保障する。結晶にもサーバにも、人格バックアップはあるからね。100%だ。だから君の命については、安心してくれて構わない。でも君の懸念はそこだけじゃない。君はたぶん、杜花君を誰にも取られたくはないだろう』
『そうです。そう。アリスも、早紀絵も、良い子なのだけれど、杜花を、取ってしまいそうで。じゃあ、私が元に戻るまで、留学という態を繕うのはどうでしょうか』
『人間は逆に、生きている方が緩いんだよ。人の死というのは、凄まじい迄に心に残る。まして、欅澤杜花君は、君に酷く依存しているだろう。そして死後もたぶん、君の死を受け入れられない。彼女を分析した結果でも、まあそうなるだろうと予測されているしね。だから、市子、君は一度死ぬ事になる。寝ている間、誰にも杜花君を取られないようにするには、インパクトが必要だ』
『……』
 七星一郎は、楽しそうに、兼谷を伴って構想を語る。
 それは一つのシナリオだ。とても、これから人が死ぬのだというような雰囲気はない。
 何故わざわざ結晶を隠す必要があったのか。
 何故わざわざ彼女達に探させるような真似をしたのか。
 確かに、宝探しをなぞらえたのは間違いない。ましてそこに、義理の妹なんてものを加えて、成功する筈がないのだから、仲違いもしそうなものである。
 だが、それは異様だ。
 別にそんな事をしなくても良い筈だ。
 まして、貴重な記録媒体を学院に撒き散らすなど、真っ当な考えでは無い。
『……お父様、一つ』
『何かな、市子。面白くないかい?』
『――これは、誰の為にあるのですか?』
 蘇った今でも、あの時の顔を忘れられない。一郎は眉を顰め、唇を片方だけ吊りあげて、さて困ったと、言わんばかりの顔をしたのだ。
『矛盾点が多すぎます。わざわざ、私の結晶を隠さずとも』
『んー。兼谷』
『はい。市子お嬢様の疑問はもっともです。ただこれは必要な事と判断された為にあります。市子お嬢様を取り巻く婦女子達は、実際のところ何も覚醒していない。何も見て居ません。貴女を七星市子としか認識していない。それでは困ります。なので、怪談、黒い影、魔女、情報を散布して、探偵ごっこをさせます。どうでも良いものを隠しても意味が無い。重要なものを隠しましょう。彼女達は大変な疑問を抱く事でしょう。そして辿りついた結果に、利根河撫子がいる。彼女の過去、記憶に触れる事で、貴女の周囲を取り巻く婦女子達の「情報濃度」が濃くなります。意識せざるを得なくなる。貴女が何者なのか疑問を抱く。今現在も貴女は利根河撫子に果てしなく近づいていますが、まだ足りない。まだ違う。つまるところ、市子お嬢様が復活する前に、もっと撫子に近付ける為の、準備です』
『……じゃあ、私は、目を覚ました時、市子では、ないのかしら?』
『いいえ。自意識は保たれるでしょう。極限まで情報を濃縮して、周囲を巻き込む必要がある、それを私達は圧縮再現と呼んでいます。過去の実例もあります。それによって被験者は確実に自意識を保ちながら「自分」であり「他人」となりえた』
『……それは、どこの、誰?』
『ここに』
 兼谷は、自分の胸に手を当てて、普段見せない柔和な笑顔をとる。
 その笑顔は、どこか懐かしく、悲しい想いに彩られたものだった。
『市子は何の心配もいらないよ。市子は市子のままでいい。ただもう少し、撫子に近づけるだけさ。大丈夫、蘇る頃には、修正データも上がっているから。君は生き残れる。何度でも蘇られる。どうか、僕たちに任せてくれはしないだろうか。蘇った後は、準備期間も兼ねて、そうだね、二子に任せようか。いきなり目を覚ましたらビックリするだろうから、試用期間、ソフトライディングと考えよう。そのあと、姉妹達、誰でもいい。一番似た子かな。記憶を移し替える』
『……でも、そうすると、その、姉妹は? 御子、夜津子、五花、立花、七葉、八穂、九重、藤子……もっと他の子? でも、その子達の、意識は?』
『ご心配ありません、お嬢様。市子お嬢様、二子お嬢様と違い、彼女達は産まれたその日から、覚悟が出来ております。そのように、教育してあります。彼女達は、貴女達のバックアップの肉体に他ならないのですから』
 差し迫る死。
 選ぶ事の出来ない選択肢が、刻々と迫りくる中、市子はどうする事も出来なかった。
 欺瞞だ。
 自分は駒なのだ。
 狂った七星一郎が用意した駒の一つでしかない。
 そして自分は、その駒の中でも極限まで本物に迫っている。もっともっと、何時か見た自分の娘に近づける為に。もっともっと、自分が愛した娘になるように。
 彼は七星市子など見ていない。
 ただ、市子には、それしか道が無いのだ。
 兼谷と相談し、情報をどこに隠し、手紙の内容を精査し、結晶をどうするか、話し合った。
 市子の代わりに差し向けられる妹には、情報が伏せられるのだと言う。つまり、此方が用意した助言役以外の道筋はありえず、皆が思い悩み、頭を抱える事になるのだ。
 市子の死、代替えの妹、隠された結晶、辿る中で見つけてしまう、利根河撫子と、そして自分達の起源。
 申し訳無い。
 本当に済まない。
 目を覚ましたら、幾らでも頭を下げようと、そう考えていた。
 しかし。
『……兼谷。貴女は、記録媒体を用いた人格データ継承の、被験者だったわね』
『はい、そうです』
『……誰。いや、きっと私の親族。貴女は、誰』
『次に目を覚ました時にでも、お教えしましょう。私は心から、貴女達の幸せを願ってやまない人間の一人』
 嫌な予感があった。兼谷は、七星一郎と同等か、もしかすればそれ以上に、普通ではない。
 絶対的な信用が置けない限り、保険はかけるべきだ。
 だから、欄外のものを据えたのだ。
 通常用意した宝探しの、もうひとつ先を。
 四つの結晶という本能と、一つの理性だ。
『ごめんね、メイ。こんな事を任せて』
『あー。これ酷いですね。たぶん、自分の尻は自分で拭けって、怒られますよ?』
『……本当は、死にたくないもの。当然じゃない。生きていたい。幸せになりたい。でも、状況が発展した後、自分の死を自分に委ねられない。彼女達に判断してほしい。私は性悪で、最悪な酷い女だと思ってもらえれば、諦めも付く』
『んー。解りました。あー、でも、杜花様ですけれど、彼女、どうしますか?』
『どう、とは』
『市子好きすぎて、頭おかしくなっちゃうと思いますよ。デリートしろなんて言われて、しますかね?』
『たぶん、すると思う。彼女は、察してくれるから』
『あ、隠語かなんかなんですねー。でも貴女の死後、この相談、兼谷にバレませんか?』
『この会話、記憶を閉じ込めた結晶を、指定のタイミングで破壊して』
『解りました。ええとその、これから死んじゃうそうですけれど』
『ええ。宜しく』
『頑張ってくださいね。私達撫子の子は、撫子の完成こそが悲願なんです』
『それは、どうしてかしら』
『撫子が完成すれば、他の撫子の子達は、本当の自分を手に入れられる。撫子では無く、ちゃんと個人として見て貰う事が出来るからです。その為に、撫子の子達は、自分に適正があるとするなら、潔く引き受けて、姉妹の糧となります。私は適正まるで無いので、ま、自由なのですけれどねー』
『ごめんね……ごめん……』
『んーん。良いんです。市子こそ辛いでしょうに。話は引受けました。では、また来世』
 酷いものを背負わせてしまったと、後悔する。
 支倉メイは二子の能力被験体だ。力も弱く、適正無しと判断された為に、七星の工作員として学院に滑り込まされている。そういう姉妹が沢山いるのだ。
 無茶苦茶だ。人間の価値なんてものが、あの男には通用しない。
 そして自分もその内の一人である。
『ああ、もう終わるんだ。私は、死ぬんだ。新しい生では……』
 日に日に悪化する自殺衝動を覆い隠しながら、平穏な生活を送る。
 自殺当日も、皆の笑顔は輝いていた。
 天原アリス。
 市子さえいなければ、もっとも輝いた人物の一人だ。やきもちやきだが、人一倍純粋で、正義感が強く、頭も良い。彼女に追い回される日々が、今となっては懐かしくて仕方が無い。愛らしい彼女は、間違いなく、一番の妹であった。
 満田早紀絵。
 酷い役回りを与えられてしまった子である。その性癖には市子も閉口するが、おそらく、市子周囲の中でもっとも論理的で、感情に流され難い人物だ。彼女の笑顔には、市子にしてドキリとさせられた事が幾度となくあった。その度に杜花に、心の中でごめんなさいと繰り返した。
 欅澤杜花。
 彼女に惚れてしまったのは、元から用意されていたからだろうかと、何度か考えた。しかし幾度となく交わり、心通わせて来た市子からすれば、それが杞憂であるとしか思えなかった。彼女が本当に愛しくてたまらなかった。自らの中に内包する撫子の魂もまた、花の面影を見て、歓喜した事だろう。一人に対して、二重に愛しいこの気持ちは、どうにもならない程の衝動だ。言葉だけでは、とても抑えきれないものだった。
 行為が過激化したのも、その所為だろう。
 自分にもっと甲斐性があったのなら、その全てを受け入れただろうに。
 市子程の手腕があるのならば、撫子程の手腕があるなら、いざこざも起こさず、全員を取り持つ事も出来たのではないかと、悔まれてならない。
 その先に別の未来があったのではないかと……後悔する。
『……ああ、違う。私は……違うのに』
 文芸部室で幻華庭園を、もう何度目か読み終わった頃。市子は覚悟を決めた。
 まるで全て用意されていたかのように並べたてられた、ロープに、椅子。
 天井の電灯に括りつけ、輪の中に頭を入れる。
『左様なら私。次の新しい生では――――幸せでありますように』
 グンッという衝撃があった。頸椎が離れて行くのが、解ってしまう。
 もがき苦しみ、首を掻きむしる。
 やがてその手がぐったりと垂れる。とっくに遠退いたと思っていた意識には、何かが写り込んでいた。
『……利根河撫子。大聖寺誉』
 大量出血し、意識を失くした誉と、首を吊った撫子の姿が、網膜に焼きつく。
 市子は瞳を開いた。
 顔を失くし、ただ語る口だけになってしまった頭を持つ黒髪の何かが、首を吊った市子を眺めている。
 瞬間、紐が切れて床に叩きつけられる。
 頸椎が損傷し、呼吸器もつぶれている為、即座に緊急手術でもしない限りは、もはや生きる事は叶わないだろう。
 これから死ぬというのに。
 市子はその影が恐ろしくて仕方が無かった。
 意味も解らず地面を這いまわり、半開きになったドアを抜け、外に半身がはみ出る。
 だが、先に向かう力はなかった。
 そこから先の意識はない。
 次に目を覚ましたのは、二子の身体に入った後の事である。

 ……。

 コチコチと、静かな部屋に柱時計の音が響く。
 この旧校舎教室の景色は、市子と他人が観るものでは印象が違う。
 既存の知識の中で、記号として合致するものがその人の心象映像として現れるからだ。
 あの柱時計も、市子が観れば煙でくすんだ木製に見えるが、兼谷が観ればくすんでいないかもしれないし、新品同様であるかもしれない。
 ほぼ具体例を脳内にイメージさせるだけで、知らないものは見えないようになっている。
 暖炉の火が見えるのも、それは偽りだ。
 石畳の床も嘘、木製の机も、本来はただの勉強机である。
 そんなもの、用意させればいい話だ。
 この能力は、本当に大した事はない。
 人間の認識能力を疎外したり、勘違いさせたり出来るだけで、驚くほど面白いものではない。
 世の中には何もないところに火を起こしたり、物を触れず動かしたり、知らない場所の映像が見えたりと、オカルトとしては有名だが、実際存在すると危険すぎる能力を持つものもいる。
 産まれた時点から持っている人間は本当にごく少数だ。
 市子、二子、およびその周辺がこの感応干渉を行使出来るのは、記憶再現と脳改造あってこそである。
 ちなみに兼谷、そしてメイに関しては、二子の能力をESPデータという形で保存し、脳に接続して使用可能としている。ただ本物と比べると、かなり劣るらしい。
 解ってはいるが、無茶な話だ。
 自分達は作られた存在だ。遺伝子的にも、電子的にも弄られている。
 七星が軍事目的で実用化したESP強化兵計画を土台にしており、現在手術を受けた人間は日本国防軍や内務省の諜報部として活躍している。
 実績と経験とデータ、寸分の狂いもない研究の結果に、市子と二子の能力はある。
 あらゆる人達の頭の中身を曝け出してしまう為、幼少の頃コントロール出来なかった二子などは、本家に招かれず、母方の一条家で過ごしていた。
 最初から好きなように生活出来た市子と、ずっと檻の中で暮らしていた二子。
 一体どんな差があっただろうか。
「違うわ、こんなの。私が望んだものじゃない」
『そうは言うけれど、姉様。あの子達が気が付いたら、元も子もない』
「最初から無茶だし、めちゃくちゃなのよ。私は失敗作だと切り捨てられたの」
『そんな事ないわ。姉様は素晴らしい人だもの。一人だった私にずっと語りかけてくれたもの。妹だからといって、あそこまで気にかけてくれるような優しい人、他に居ないわ』
「私達の思う成功と、七星一郎の思う成功は違うのよ」
『それでも、これだけのものを用意してくれたわ。ただの失敗だったら、元から何もしない。そんな無駄な事、あの七星一郎がしないわ』
「……でも、これは無惨よ。瀟洒さの欠片もないわ」
 傍らの安楽椅子で寝息を立てるアリスの髪を撫でる。
 立派だが、そこまで意思の強い子ではない。こんな箱庭の中で暮らしていた子であるし、元より彼女には大聖寺誉の記憶と遺伝子が刷り込まれている。
 利根河撫子を愛してやまず、結局好きであった筈の花すらも遠ざけてしまった、憐れな子の魂だ。
『アリスは諦めてくれた。杜花と早紀絵も諦めてくれれば、それで願いは叶う。姉様は、また幸せな世界で生きて行ける』
「この力だって、永遠ではないわ。こんな事、する必要がなかったのに。そもそも、私が提案した妥協案は全部却下されたの。何故わざわざ死を知らせる必要があるの。留学でも、家の事情でも良い。彼女達の目に触れない所に行ったとすれば、いつでも戻って来れたのに。だから、私は撫子を再現する為のダシでしかないって事よ。思い出すと、頭に来る」
『……ごめんなさい、姉様。私がもっと、上手くやってたら。もっと上手くあの三人を仲違いさせられていたら、こんな事にならなかったのに。そう、姉様の記憶を漁っても、やはり欅澤杜花は、七星市子さえいれば、何でも良い子。縋るものが市子しかないのならば、それで完結していたのに。ごめんなさい』
「貴女は、貴女の意思はどうなるの。私は、差し迫っていたし、他のクローンで事足りると知らされていただけなのに、蓋を開けてみたら、適合者が二子だけだというのよ。貴女は、私などにならず、表に出るべきだった。貴女は、貴女だもの」
 幽閉され続け、当たり前の空すらも観た事がなかった一条二子にとって、外の世界がどれだけ刺激的だったのか、情報を共有している今ならば、親身に解ってやれる。
 本来ならばこのような会話も要らないのだ。だが、やはり発声は感情を伴う。意思疎通とは色と音なのだ。
『私は、良いの。姉様を幸せに出来れば、それで』
「私になる事で、貴女のメリットなんて無い。結局、それでは幽閉されているのと変わらないわ。サイバースペースでアバターと戯れているのと、大差が無い。貴女は貴女の肉で、心で、人と接すればいい。何も恐れる事はないのに」
『でも、それでは姉様が……』
 会話はずっと平行線だ。いつまでたっても終わりは見えてこない。
 互いに妥協点が恐ろしい位置にあるのだから、当然である。死ぬか生きるか、そんな妥協点だ。
 目を覚ました時点で、七星の技術の恐ろしさには驚かされた。完全に記憶が継続し、眠りから覚めたのと同様の繋がりを感じるのだ。
 体格差による身体操作にはいささか手間取ったが、人格は元より、その他諸々の七星市子が丸ごと再現されているのだ。
 半信半疑であった市子に、とてつもない衝撃を与えたのは間違いない。
 しかしデータの完全結合、接続後、問題は山積している事に気が付く。
 市子の予想した通り、杜花に関しては市子の復活という不可解極まりない事態に不信感を募らせ、アリスと早紀絵に関して言えば、一郎と兼谷の構想とは真逆に、三竦みどころか友好関係を深め……あまつさえ、肉体関係にまで至っていた。
 欅澤杜花を誰にも触れさせたくないと、常々頭を悩ませていた市子からすれば、激怒どころの話ではない。しかも誰が悪いかといえば自分なのだ。その怒りをぶつける先すらない始末である。
 結局、最初からもっと仲良くしようとしていなかったのが、悪かったのかもしれないと、今になって思う。
 一郎と兼谷は、今の市子では撫子に近いが、そのものではないと言っていた。
 隠されて見つけられる事も無かった宝箱の中身を見て、市子はそれを悟る事になる。
 三つの指輪と、皆で仲良くしましょうという文言。
 撫子は幻華庭園のような結末を望んでいた訳ではない、幻華庭園の結末は、現実にそうならない為の戒めだ。
 花、誉、きさらと四人で、真剣に未来を見ていたのである。自分とは大違いなのだ。
 だからこそ、だ。
 学院丸ごとを改竄するようなシステムの上で、早紀絵とも、アリスとも仲を結ぼうと、市子は立ちまわった。
 一郎や兼谷の敷くレールの上にいる事自体は不愉快だったが、杜花に対する盲目的な愛が関係を破壊したままでは、あまりにも生き難い。
 しかし、それもダメだった。
 彼女達はいともたやすく眼を覚まし、不条理な現実に立ち向かおうとしている。
「私は、これで終わり。手紙は置いて来たのでしょう」
『酷いわ姉様。まさか、デリートコードなんて隠していたなんて。でも、もう意味が無いわ。姉様のデータはスタンドアローンの各種研究所サーバに移してある。オフラインデータを削除は出来ないもの』
「違うの。違うのよ。それで十分なの。欅澤杜花にとってはね」
『どういう事? ……あ、思考ロック、かけないで、姉様ッ』
「貴女は、欅澤杜花が、どれだけ狂った人なのか、知らないのよ」
 主人格権限で、二子に思考を読まれないようブロックをかける。本来なら改竄機構自体止めてしまいたいが、マスターキーは兼谷が所持している為、それは出来ない。
 しかし幸い……とでも言うだろうか。
 デリートコード自体は、本人承認なくして変更も不可能だ。
 そう、問題は二子ではなく、兼谷なのだ。
 彼女は七星市子、二子に関する案件の全権責任者である。
 小さい頃から一緒におり、市子からすればお姉さんのような人であった。
 物事の分別も、勉強も道徳も、全て彼女から習い受けた。
 多少シニカルな面は見てとれるが、果てしなく強靭な人物である。
 一度、面白半分で杜花と試合をさせた事があった。
 メダリストも、総合の青年部優勝者すら寄せ付けない欅澤杜花相手に、彼女は互角の戦いを見せている。
 七星市子のその全てを賄う存在。七星一郎にすら苦言を呈する、その謎の発言力と、行動力。
 市子の死後は本家を離れていたと聞いていたが、どこにいたのか、彼女は喋る事もない。市子としても、聞くのが恐ろしかった。
「二子、兼谷だけれど。彼女は、何者かしらね」
『私も知らないの。最近あてがわれたけれど……』
 二子にも知らされていない。ともすると、彼女の正体を知る人物など、七星でも数少ないのだろう。
 そんな話をしていると、ドアがノックされる音が聞こえて、小さく振り返る。
 音も無く入って来たのは、メイド服に着替えなおした兼谷だ。先ほどまではスーツで、しかも小型化した筋力増強アタッチメントなどという物騒なものを装備していた。完全に杜花を見据えての物だろう。
「兼谷、どうするつもり」
 兼谷は頭を下げるでもなく、まばたきだけで答える。
「一郎様のご意向を最優先とします」
「お父様の意向って、何かしら」
「杜花お嬢様に納得していただきます。如何様にでもなりますでしょう」
「杜花が、貴女達の話なんて聞かないわ」
「一郎様は、皆の幸福を一番に考えていらっしゃいます。彼が『幸福』だと思うならば、手段は選びません。例え杜花お嬢様をボロ雑巾のようにしたとしても、幸福は与えられるのです。お分かりでしょう、そのような事。七星一郎が、そうしたいと言った。なら、そうする迄です、市子お嬢様」
「杜花を、どうするの」
「脳髄が焼き切れるまで感応干渉するか、四肢を叩き切って電脳の中を生きて頂くか。大丈夫です、市子お嬢様。少なくとも杜花お嬢様は幸せになれます。七星滅びるその日まで、御二人は結ばれ続ける。アリス嬢も早紀絵嬢も、望むならそう出来るよう進言しておきましょう」
「常々思っていたけれど、貴女達は狂ってるわ。一言で言い表せない程に」
「……そうならないよう、杜花お嬢様を良く説得してくださいまし」
 兼谷が慣れた手つきでお茶を入れ、市子に差し出す。
 彼女は本気だろう。一郎に苦言は呈するが、決まった事のその全てを完全に遂行するのが、この兼谷である。
 自分達は、いや、大きな枠組みで言えば、日本国民は、七星一郎の構想する『幸福』を強要されているのだ。
 確かに、紛争も戦争も起こりはしたが、同時に日本国民の生活水準は下方から持ち上げられ、ホームレスなど趣味人以外の何ものでもなく、明日を見れない生活を送る人間は六十年前から驚くほどに減った。
 彼が幸福だというのならば、それは執行され、現実となるのだ。
 ありとあらゆるものを総動員して、である。
「これからどうするの」
「アリス嬢とお戯れになっては?」
 そういって、兼谷がポケットからタブレットを取り出し、ホログラムを展開する。
 映像が十、二十と無指向に広がり、その内の一つがピックアップされた。
 学院内の監視カメラだろう。
「音は拾えないか。監視システムが古いですね。後で文句を言っておきましょう。まあともかく、何事か相談しているみたいです。明日はお休みですから、動くなら明日でしょう」
「悪趣味」
「またまた。杜花お嬢様の脳内を監視して、常に浮気しないよう見張っていた貴女の言葉とは思えませんね」
「ぐっ……」
 杜花の精神は強靭で、確かに強い能力行使は出来なかったが、思考を読みとる程度ならば容易かった。
 杜花に虫が付かないよう見張り、杜花が他の女に手を出していないかチェックし、杜花が他の女の事を考えていないか、読みとり続けていたのだ。
 性悪も性悪。
 最悪の依存症であり、最早病気とすら言える。
 そして何より一番問題なのは、欅澤杜花が、本当に市子しか見ていなかったという、とんでもない事実である。
 これだけ色とりどりの花が咲き誇る観神山女学院にありながら、欅澤杜花は市子しか見ていなかった。
 早紀絵やアリスの事は当然、友人として、妹としてと気持ちは巡らせていたが、殊恋愛対象となると、市子だけなのである。
 市子ですら、そんな事はあり得ないというのに。
 いや、彼女は人間として、間違っている。
「杜花お嬢様については、本当に色々と調べ上げましたけれど。どれだけ一途なら、そこまでになれるんでしょうねえ。恐らく市子お嬢様以外は人間とすら思っていなかったでしょう。他は喋る肉。ただ、市子お嬢様の死後は心境の変化もあった様子ですね。彼女は間違いなく、アリス嬢、早紀絵嬢に、恋心を持っている」
「……それが平常よ。私しか見ていないのは嬉しいけれど、本来はそれで良かった筈なの。私は色々間違えたわ。でも、一番間違えていたのは、あの子」
「もしかして、市子お嬢様」
「何かしら」
「欅澤杜花が、この状況をどうにか出来るとでも、期待している訳ではありませんよね」
「どうにかはするわよ、きっと。貴女達の望む結果では、無いでしょうけれどね」
 兼谷は、少しだけ自分の頬を撫で、それから微笑む。
 まるで感情を感じられない、冷たい笑みだ。
 杜花がどう動こうと、どうにかするだけの対策があるのか、それとも……それとも、どうにかしに来ること自体、計算の内なのだろうか。
「市子お嬢様。貴女は様々と矛盾に思っている事が、あるでしょう」
「ええ」
「何も無く、ただすんなりと杜花お嬢様が市子お嬢様を受け入れてくれれば、それはそれで済んだ。しかしダメでしたので、次のフェイズに移行しました。ESP改竄拡散による学院丸ごとの改竄に移りましたが、まあそれでもダメだった訳です。では欅澤杜花が何かしらを抱えて、此方にやってくる」
「貴女は……」
「デリートコード変更、知らないとでも? 私はここに来るまで、少し遠くで、別の姉妹の面倒を見ていたので、発見は少し遅れましたが」
 では、もう、バレているのか。
 決心のつかない自分の生死を、他人に委ねたコードは、変更済みなのだろうか。
「私は貴女が最後に隠したものが何だったのかまでは、知らなかった。貴女が行動し、誰かに結晶への工作をお願いすれば、貴女のバックアップからその事実が露見する。だから隠したい記憶は全て、破損させる予定のものに詰めた。直ぐ壊してはメンテナンス時に発見される。杜花お嬢様達が結晶探しを始めたタイミングで、それを破壊。こちらとしても、結晶の破損は予定外だった」
 そうだ。
 結晶を隠したのが一年以上前である。
 それを七星がそのまま放置する訳が無い。定期メンテナンスが行われる事は、当然見越していた。
 だからこそそこを逆手に取ったのだ。
 七星の研究員が大々的に出入りは出来ない。そうなると、元から生徒として潜りこんでいる七星の工作員がメンテナンスを行うだろう。重用しているのは、支倉メイである。
 彼女は撫子の複製体でありながら、七星に完全忠誠を誓っている訳ではない。しかし立場上、杜花達に一番近いのだ。
 感応干渉は、相手の感応干渉を弾ける。度合いにも寄るが、兼谷や二子では、メイの頭は読めない。
 だからこそ、結晶への工作なども彼女に託したのだ。
 本来ならば『市子の人格データを入れた二子』を受け入れられない場合の最終手段なのだ。
 現在は完全に、市子の想定外の更に外である。
 そもそも……この『メイに工作をお願いした』という記憶を持っている自分がいる時点で、バレているのと同義である。
「私達が思考と行動を読み難い人間。感応干渉を持つ、支倉メイ、でしょうね」
「――じゃあ……もう」
「いいえ。本人承認が無ければ再変更叶いませんので、メインデータの貴女ではなく、バックアップの貴女に承認を求めましたが、これも否定されてしまいました。弄くれば良かったのでしょうけれど、余計にデータは傷つけたくないと、一郎様が。私は一郎様の意図を組み、再変更の強行は諦めました」
「……なら、最初からデリートコードを渡さないよう、対策すれば良かったじゃない」
「時間が無かった事もありますが、まあ、ふふ。だって、感動的でしょう。姉妹達が必死に辿り着いた宝の中身が、貴女の死だなんて。きっと杜花お嬢様達は、言い知れない絶望を味わっている事でしょう。記憶再現には、持ってこい」
 兼谷が薄く笑い、市子を窘める。
 再現は続いているのだ。デリートコードを手にしたからと、どうにもならない位置に、自分達が既におり、むしろそれを発見する事で齎される恩恵の方が大きいと……判断しているのだろう。
 兼谷達の計画は、最初から流動的で、状況に応じて最良の選択を選ぶようになっているのだろう。
「では、杜花は私を、殺しに来るわ」
「最初から申し上げた通りです。彼女達の遺伝子操作も、記憶の擦り込みも、貴女の死も、影の噂も、結晶隠しも……貴女に撫子の人格に目覚めて貰う為です。私がいる限り、邪魔はさせません。それにしても、厳密に言えば、もっと貴女が明確に撫子であるならば、ここまでの問題には、ならなかったのですけれど」
「私の、せいだと?」
「とんでもない。製作は、製作者の責任です。では私はまだお仕事がありますので、失礼します」
 兼谷が、来た時と同じように音も無く去って行く。市子は胸を撫で下ろした。
 杜花は来るだろう。
 デリートコードを片手に、七星市子を殺しにやってくる。
 彼女にとっての七星市子は既に死んでいるのだ。
 データなどという不愉快な存在を、彼女が容認するとは思えない。
 しかしこのままでは……。
「……あ、ん……」
 椅子の軋む音と共に、アリスが覚醒する。
 彼女は頭を押さえ、感応干渉の影響に酔っているのだろう、認識がまだずれているのか、首をふらつかせている。
 市子がアリスに手を添えると、彼女はその手を取る。
「――嗚呼、御姉様。お早う御座います」
「おはよう、アリス。よく眠れたかしら」
「ええ。けれど、とても怖い夢を見ましたの。何故か、杜花様や早紀絵が、市子はもう居ないんだなんて、言って。市子御姉様はいるのに、彼女達は、それを否定して……」
「……怖かったわね。ほら、私は、ここにいるわ」
「えへへ……御姉様。なんだか、凄く、懐かしい気がしますわ」
 彼女は虚ろな目のまま立ち上がり、ソファに座る市子の隣に腰掛けて、その身を預けた。アリス同様、懐かしさに胸がいっぱいになる。
 さみしがりの甘えん坊は、直ぐに人の体温を求める。
 幼い頃から、彼女はすぐ手を繋ぎたがる子だった。
 彼女と出会ったのは、厳密には白萩裏の小庭園ではない。
 彼女の中にある小庭園のヴィジョンを引き出して見せた場所だ。物理的には小等部の中庭である。
 天原アリスと仲良くしなさいと言われ、市子はアリスに近づいた。
 金髪で、青い目の彼女は、その瞳を爛々と輝かせ、弾けるような空気を内包し、周りとは明らかに異なる存在感を持っていた。人の上に立つ七星と同等の何かだ。
 熱い心と、未来への展望。
 居るだけで周囲を華やかにする彼女は、アクセサリーには大きすぎたと言える。
 だがその実、アリスはいつまでも子供だった。
「こんなところを見たら、杜花がやきもちをやくわね」
「大丈夫ですわ。杜花様も混ぜてしまえば良いんですの。早紀絵も。ああ、なんだか、凄く幸せですの。皆でこうして戯れていたならば、頭がどうにかしてしまいそう。ごめんなさい、市子御姉様。その、私、杜花様を……」
「いいの。それでいい。それが良かった。それで、良かった筈。もう――叶わないけれども」
「え……?」
「アリス。早紀絵にも言ってあげて。杜花を、お願い」
 チリチリと、脳の奥底を掻きむしられるような感覚がある。二子が顔を出そうとしている。
 日和った市子を見かねて、二子が『幸福』を実行しようとしているのだ。主人格権限で押さえつけるのも、正直無理がある。どうあっても肉体は二子なのだ。
(どうして……そうまでして、貴女は市子になりたいの)
 ……。
「御姉様?」
「『ううん。なんでもない。そうね、それが良いわ。皆で幸せになりましょう』」
 姉は躊躇っている。
 未だ姉の考えを読みとらせては貰えない二子だが、人格を一先ず入れ変えて、全て実行し終わった後、市子に明け渡せばいい。
 市子の躊躇いで、出来る事を諦めてしまうのだけは、二子として納得が行かない。
 嵌められた、操られた、弄られた、七星一郎と兼谷に対する不満は解る。しかしその上でしか生きられない身の上ならば、では全力で利用してやるのが一番ではないのか。
 どうやっても七星市子にとっての幸福は、杜花とアリスと早紀絵、この四人での未来である。二子はまだ身体的に幼いが、数年後には市子と変わらない姿になるだろう。
 そうなれば、感応干渉での操作は必要なくなる。彼女達の脳を弄るという罪悪感には目を瞑らねばならない。
 この学院で生活し、卒業後は全員囲えばいいのだ。
 七星次代当主の妾なんて、この世で最も恵まれた地位を、どの両親も否定する筈がない。欅澤花とて頷くだろう。
 そう、何も問題はない。
 翻弄された七星市子は幸福になれる。
 終わりの無い夢を見続ける利根河撫子は、漸く悲願を達成出来る。
 そして、市子による撫子の再現は、一郎を幸福にし、撫子の子達に自由を与えるのだ。
 120人もいる姉妹達が、解放される日がやってくるのである。
「『アリス、キスして』」
「どちらに? 頬? 額? 唇? えへへ……したいというなら、どこにでも、御姉様」
「『――じゃあ』」
 スカートをずらし、白い太股を覗かせる。
 そこを指差すと、アリスは静かに頷いた。
 二子の正面にしゃがみ込み、内腿の中ほどに、アリスがキスをする。
 早紀絵にでも習ったのだろうか、二子の知るアリスとは思えない程に、官能的だ。
 市子とて、これが欲しかっただろうに。
 この美しいヒトを組み敷く快感が欲しかっただろうに。
 人一人しか愛してはいけないと、何故そのように思ったのだろうか。
 それほどまでに、欅澤杜花の支配は強烈だったのかと、思わずには居られない。
 一人の人間、一人の少女として認められる日。
 欅澤杜花は、たった一人の価値を他の誰よりも認め、他の誰よりも蔑ろにした人物だ。
 自分達七星の子は、自分が思っていた以上に価値が低い。
 異常なほどの数の姉妹が居たと知ったのもつい最近だが、二子もその内に含まれていたのだろう。
 姉妹の中でも、そう。七星市子は違う。
 彼女こそ太陽なのだ。
 彼女は生きなければいけない。
 皆を照らさねばならない。
 二子には、それを創る使命がある。
 母よりも優しかった姉を蘇らせ、幸福にする義務がある。
 だから、ほんの少し我慢してほしい。
 今は辛いかもしれないが、将来訪れるものは後悔のない絶景だ。
「御姉様は私が何になりたいのかと、良く聞きましたわよね」
「『――そうね』」
「今なら答えられますわ。私はやっぱり、ずっと貴女の妹でありたい。弱い私を支えて欲しい。きっと、御姉様もそれを願っている筈だから」
 アリスの手が伸びる。
 わざとらしいフェザータッチに、思わず身体を震わせた。二子の太股をなぞり、彼女は無言で『脚を開け』という。
 二子にはいまいち、その意味が解らず、市子に情報提供を求める。市子が無言で提供した情報に驚き、二子が仰け反った。
「……御姉様?」
「『あ、あの。いえ。いいの、そういう事を、したい訳じゃあ……』」
「――誘っていましたのに? そうしたいから、こんなところ、キスさせたのでは?」
 市子の嘲笑いが聞こえてくるようだ。
 どれだけ精神的に市子に近かろうと、残念ながらどう足掻いても肉体は二子である。つまり、処女なのだ。
 笑顔でキスはしよう。肌を合わせる事も吝かではない。
 だが流石に、妹にあそこを舐めるように申しつける程、小慣れてはいない。
 この処女は、杜花のものだ。
 二子の意思というよりも、市子を尊重した結果である。たった一度しかない機会を、他の妹達に捧げる事は出来ない。市子ならば市子であらねばならない。
 本来なら、もっと早く杜花に手を出させる予定があったのだ。
 正確に言えば、杜花が二週間も市子に触らないという事実自体が不可思議なのである。肉体的な依存も深い二人にとって、二週間一切なしはかなり苦痛であった筈だ。
 下世話だが、杜花と市子を刷り合わせる上で必要不可欠な問題なのである。
 何故手を出さなかったのか、二子には解らないが、市子は察している様子だった。
「『ごめんねアリス。また、今度で良いかしら』」
「御姉様がそう言うならば。もう、なんだか、私がえっちな子みたいですわ」
「『ふふ。ごめんなさい。私、少し外を見て来るわ。アリスはここに居てね』」
「はい」
 アリスにそのように言いつけ、逃げるようにして部屋を出る。
 部屋を出た途端、全てが現実に戻る。
 ここは古臭い旧校舎であり、暖炉があるような家ではない。コンクリートの薄暗い廊下が、足の裏から身を冷やす。
 高等部旧第一校舎。物置にしか使われていない、前時代の遺産だ。
 同時に、学院で起こった悲劇も内包している。感応干渉のパッシブな部分が、ここに犇めく人々の生活と、うめき声を良く捉える。
 日々の営み、変わらない日常と、終わりを迎えた楽園の悲鳴である。
 階段を上がり、三階を通り越して、屋上踊り場にまで至る。
 鍵も掛けられていないここを開けば、外はすっかり夜であった。冷たい風が肌に刺さる。
 常駐研究員が除雪したらしく、屋上に雪はなかった。
 雨ざらしの灰色の上を行き、室外機の合間を縫って、緊急用貯水塔の上に昇る。
 高等部旧第一校舎は少し奥まった場所にあるが、屋上ともなると学院中に生い茂る木々よりも高い。遠くには観神山市街の明りが良く見て取れた。
(……見た事もない景色なのに、懐かしく感じる。撫子のものかしら。でも、確か郷愁って、見知らぬ物にすら感じられるのよね。心の原風景、なんて)
 ……。
 思い起こす原風景は小さな庭園であった。
 リアルではない。ネットサーバ上でのものだ。
 二子が開設していた五感没入型デバイス(フルダイブ)対応の、アバターコミュニケーションサイトである。
 金に物を言わせた最新機器でのサポート体制によって、利用者数は個人開設に関わらず三十万を超え、一角の地位があった。
 外に出られない二子にとっては、そこが全てである。
 妹達ともそこでコミュニケーションを取っていた。本来は皆同じような容姿なのだろうが、各人アバターの色は様々だ。没個性を嫌うあまりだろう。
 そして初めて七星市子と出会ったのも、ネット上である。最初は知らなかった。
 マスター権限で不可視化したアバターを使い、利用者たちのログを盗み見る(サーバログでは面白くない)という悪趣味を日課としていた二子は、一際目立った集団がある事に気が付く。
 その中心人物が市子であった。
 一般ユーザを装って近づくと、彼女はすんなりと受け入れてくれた。真っ当に肉のある人間とコミュニケーションを取った事がない二子からすれば、何故彼女はそんなにも警戒心がないのかと、まず面喰った。
 何度か対話を繰り返し、特に仲の良い『フレンド』を招く事が出来るマイルームにまで招かれるようになってからは、それこそ隠しだてなく、互いの身分を明かす事になる。
『七星? あら、なんてこと。親族なのね。まったく、自分の姉妹が何処にいるかも解らないなんて、一郎お父様ったら、本当にとんでもない人だわ』
『……二子。二子よ。序列二番なの』
『嗚呼……嘘。私は市子よ。貴女が、京都の一条家の子ね。まだ幼いと聞いていたのに、やっぱり七星の子は、達観しているというか、大人びていて参っちゃう』
『本家の大姉様!? こんな俗っぽいもの、する人じゃないと思っていたわ』
『ふふ。私だって、ただのヒトですもの。でも、そう、貴女が――』
 市子もまさか親族が居たとは思わなかったのだろう。だが彼女は直ぐに『運命』だと言った。
 安っぽい言葉だが、二子にとってその言葉程重かったものはない。自分達は出会うべくして出会ったのだと、市子は譲らなかった。
 彼女の言葉はいつも優しく、温かい。
 七星市子が居たからこそ、最低限人間を信用出来るだけの心が出来あがったとも言える。
 一週間に三度ほど、出会う機会があった。市子のマイルームはカスタマイズ庭園である。
 四季折々の花々が咲き乱れ、良く陽が当たるガゼボで、二子は市子に本を読んでもらう。
 話は解らない。
 市子が持ってくる本はいつも同性の恋愛ものだ。ただ、姉に愛されているのだとは解った。
 自分とそっくりな義理の姉は、二子に恋の素晴らしさを説く。
 それがどれだけ切ないか、温かいか、気持ちが良いか、例にとって語る。
 二子には市子が輝いて観えた。
 そして同時に、自分は決して表に出る事のない影である事を、自覚する。
 市子は常々、自分達が何者なのかを知りたがっていた。
 何処から来て何処に行くのか、どうして人は一人として同じ人間はおらず、多種多様なのかと。自分達は何故こうも似ているのに、考え方が違うのだろうとも、言っていた。
 心と肉。
 魂と魄。
 人間を構成する要素は何も物質だけではないのだ。
 魂はどこにあるのか。心臓か、脳か。単なる戯言か。
 いいや、まかさ。幾千年と魂の呪縛と開放に努める日本人である、それは明確なカタチこそ無いが、確実に存在するのだと自覚して生きて来た。
 例えば、魂を視認できるようにし、それを、他の人間に移植したならば、それは元来の魂を持つ人間と、同じものになるのではないだろうか。
 もし、そんな事を実行する人間がいたとすれば、間違いなく狂人であると、市子は笑っていた。
 しかし、半ば自覚していたのだろう。何故、自分のデータが収集されているのか、疑問に思わなかった訳がない。そしてその全ては、奇しくも二人の姉妹に与えられてしまったのだ。
 ……。
「『姉様。私もね、解っているのよ。私達が憎むべきは、七星一郎という魔人だってこと。でも、産まれたその日から仕組まれて、彼の掌の上でしか生きられない私達に、何が出来ると思う? 私、最初は姉様になるなんて嫌だったわ。けど、姉様はここで終わって良い人じゃない。結晶からだけじゃなく、みんなから姉様に抱く想いや、感情を蒐集したの。悪い癖でね。誰も姉様の死なんて受け入れたくない。みんなが求めてる。貴女には、生きる価値がある。そして姉妹達の事も知った。だからね、私は全部受け入れて、市子に、撫子になろうと思うの。貴女を幸福にして、妹達を撫子の呪縛から……解き放ちたい』」
 返答は、ない。
 寒空の月を見上げる。
 泣くつもりはなかったが、二子の目元からは一筋の雫が滴った。
 明日はきっと、杜花が来る。
 愛憎に病む、狂人がやって来る。
 これは、自分の為なのだ。
 ストックとして準備されるだけの姉妹達に『個人』を与える為に。
 死ぬべきではない姉に、未来を齎す為にである。
 自分の価値の証明なのだ。
 
 

 プロットストーリー4/心象楽園/構造少女群像 了



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