2013年12月24日火曜日

私の幼い女王様 4、肯定


 
 4、肯定


 大人になりたかったあの子、大人になれなかった私、そして大人になりたくなかったあの人。私達三人が思い描いた理想というのは、思いの外陳腐で、解りやすく、しかし、果てしなく遠いものだった。
 当たり前の幸福という虚妄は、人間における精神病の一種である。その価値基準は定まらず、何処にあるか解らず、何によって齎されるかも不明であり、現実感はなく、しかし漠然として意識に刷り込まれた、拭いきれない厄介な病だ。
 この病から逃れる術も、治療法も、特効薬も存在しない。私達は命果てるその日まで、形の無い幻影を追い続けることになる。
 私は命を大切にせよという名言や標語が大嫌いだ。セットで語られるのはいつも幸福である。
 その定義も曖昧なままに持て囃される命は宝などという意味不明な主張は、聞くたびに殴りつけたくなるものだ。
 そもそも、それは大体自分の為だからだ。
 近しい人の命を守りたいのは、自分が悲しみたくないからである。死んだ人間に悲しみも何も無い。相手に生きて欲しいという希望は悉く自分勝手であり、救いようのないエゴの塊だ。
 そしてその考えそのものが、私であった。
 どうやら本来はそれで正しいらしいが――私は嫌で、気持ち悪くて、その苦悩に耐えられず自らの命も天秤にかけたのである。
 彼女の本当の想いは、実際のところ何一つ解らない。そもそも、私の想いだって解らない。愛とは何なのかなどという問いまで行きつき、それに答えを出そうと必死になるほど、解らない。
 彼女の死が齎したものはただ一つ、私はごく一般的な人類と同じように、幸福探索病を患い続けろという現実のみである。
「んぐっ……くああ」
 コーヒーを啜ってから、私は椅子の背もたれで伸びあがる。欠伸を一つし、改めて後ろを振り返る。
 実に寂しい。何も無いだだっ広いリビングだ。家具らしいものと言えば何だか高そうな五人掛けのソファーにテーブルぐらいなものである。私はリビングの端に設けられた事務デスクでパソコンに向かい合っている状態であるから、その空間における虚無度は果てしない。
 それにしても、慣れない作業というのは思っていた以上に苦痛なものだ。思わず思考が関係ない方向に飛びだしたので、一端頭を切り替える。
「んー……自動車の新車……システム問題あり……あー……ハナエ株持ってたかな……」
 複数用意されたパソコンを弄りながら、国内外のニュースを集めてはブログにあげて行く。
 時事ニュース、事件事故ニュース、面白ニュース、エンターティメント、アニメゲームの計五つのブログをひっきりなしに更新する仕事であるからして、作業はかなりの量になる。集めたニュースに関連するアフィリエイトを探して張りつけるだけで午前は終わってしまう。
 時計を見れば既に十三時を回っていた。私は携帯を取り出し、ハナエに連絡する。
「もしもし」
『はいはい』
「お腹すいた」
『用意してあるから、おいで』
「うん」
 携帯を切り、鏡を見て前髪を整えてから、私は事務所を後にする。
 およそ30秒でハナエの家に到着した。
 ハナエが倉庫にしようとしていた部屋で、私は仕事らしい何かをしている。単なるアフィリエイト稼ぎであるからして会社に所属している訳でも、社会に出ている訳でもないが、定時が決まっており、お手伝い料という名の給料も出るので、感覚としてはバイトである。
 部屋に上がり込むと、直ぐにトマトの匂いに気が付く。リビングではタンクトップにエプロンという姿のハナエが私を待っていた。
 可愛らしい。抱きつきたくなる。
「まるで新妻」
「それはアンタもだ」
 どうやらパスタらしい。ネットでレシピを引いて作った割には、見た目も良い。しかし良く考えれば、彼女は少し前まで家の事を全てやっていたのだから、出来て当然なのかもしれない。
「美味しそう。やっぱり上手だね」
「まあなあ。食べて見て」
「頂きます」
 席に付き、食事にありつく。このような生活を始めてから、もう二か月ほどたっただろうか。私とハナエは半ば同棲のような形を取っている。いや、ほぼ結婚だろうか。生憎制度上無理なので、世知辛くはあるが、これはこれで満足のいく生活形態であった。
「この前裸で中華鍋振るってたじゃん」
「油跳ねる跳ねる……やっぱ裸エプロンで作るならインスタント食品がいい」
「雰囲気が無さ過ぎるだろそれ」
「えっち」
「解った解った。今度は私がやるからさ」
「揚げ物が良い」
「最悪じゃねーか」
 そんな会話をしながらパスタを突く。味は可もなく不可もなく、なんともハナエらしい味である。基本外食で済ませていたのだが、やはり女二人でいるなら料理ぐらいしなきゃな、などと提言したハナエに乗り、現在は二日交代で料理をしている。
 私達の関係性をどう説明すべきか、なかなかに困った問題だった。
 母は許容しているが、父は予想通り難色を示した。自分の娘が同性愛者で孫の顔は拝めないと解った時の父の顔といったら、何だか忘れられないものがある。
『……な。ん? ええとだな、つまり、女が好きだと?』
『まあ、そうなるんでしょうか』
『お前が閉じこもった原因は、当然理解を示すが……父として、ううん、ミチ』
『良いじゃありませんか。ハナエさん、とても良い人ですよ。アナタからすれば、不思議な事かもしれませんけれど』
『それで良いのか、お前』
『引きこもりの娘が外に出るようになったのも、未来を見るようになったのも、ハナエさんが居たからです。両親としては、娘の幸せを第一に考えるべきだと思います』
『ははは。ああ、ええとですな。体面上の話をしたところで、なかなか納得して貰えるもんじゃないと思う訳ですよ、お母様。とにかく、私はタツコが好きです。愛してます。私がこの子を幸せにします』
『……は、ハナエ、それは恥ずかしい……』
『――親父達にどう説明する』
『そういうプライドが、娘を不幸にしたのだと、私は思います。この子は誰の子ですか。私達の子でしょう。お父様達にどれほどの関係がありますか』
『……ミチ、私がそれで納得すると思うか?』
『ええ。プライドが高くて、狭量ですけれど、私の旦那は決断出来る人です』
『う、ううむ……』
 父の判断は保留だった。父はプライドの高い人物であるし、何より世の中の規範からはずれたり、当たり前の事が出来ない人間を極端に嫌う。確かに私の例もそれに当てはまるかもしれないが、流石に性の差の問題ともなると、父も一概に判断出来なかったのだろう。
 父としてどのような気持ちだろうか。娘としては一抹の申し訳無さもあるが、父の望むような人生は恐らく、今後も訪れないだろう。
 状況としては保留、状態としては同棲であるから、無難な位置である。
「そういや、澪さんには最近あったか」
「うん。何でも結婚するとかで」
「あー……まあ、思う所は私達以上にあっただろう」
 つい三日前の事だ。実家に戻った所、澪が訪ねて来た。マンションの部屋を引き払い、結婚して家庭に入るという。彼女の話では以前から懇意にしてくれたお客さんで、会社社長らしい。会社といっても小さな町工場で、大してお金は持っていないけれど、などと笑いながら話していた。
 娘を失った悲しみを埋める事、流石に夜のお仕事だけでは未来が観えなくなった事……娘の存在が結婚の障害として立ちはだかっていた事、それを、彼女は包み隠さず話してくれた。
 酷い話だろう。
 だが現実、何時死ぬか解らない娘を引き取りたいという男がどれほどいるだろうか。愛は確かに様々な障害を乗り越えるかもしれない。しかし絶対ではない。澪も悩んだ事だろう。
「感情っていうのは凄いパワーでさ、現実を踏み倒してでも理想を追求しようとしたりする。だが残念ながら、大体はその感情に自身の力が追い付いていない、そして周りはその理想を理解し、許容したりしてはくれない。どんな不幸を被ろうと戦い抜こうって決意があっても、運が向かねばそれまでだ。澪さんはまさに、体現してしまった人だろう。いやだね、まだ二十代でさ、こんな夢の無い話したくないね……まあ、幸せになれると、良いな。心から、そう思う」
「ハナエは、私にとっての現実なの。カナメは、私にとっての理想だった」
「そうだな。でも別に、その気持ちを捨てる必要はないさ。胸に抱き続けての、信仰心だ」
「ハナエは、優しいね。理屈臭いけど」
「酷い事言うなあ」
「褒めてるの。そんな貴女が良いから」
 ハナエが目をパチクリとさせてから、照れ隠しに笑う。なんだかんだと女の子な彼女が、私は本当に可愛らしく思えた。
 ……今この場を、この食卓を私は恐らく幸福と思うだろう。そしてハナエも恐らく、そう思うに違いない。
 たいそうな事である。贅沢な話だ。だが私には、それを申し訳なく思う気持ちがある。そして、そんな事を考える自分が、また嫌なのだ。
 目の前の幸福を受け取れない。差し出された素敵なものを、素敵と言ってあげられない。
 私の精神構造は決して変わる事はなかった。
 二十歳にもなって心が入れ換わる訳がない。犯罪者が根本から更生するなど私は一切信じていない。同様に私は変わりようがない。
 水木加奈女は私と居て満足であっただろうか。私は恐らく満足だった。
 では彼女が死に、残された私はどうなる。
 ハナエは現実なのだ。現実は理想に直接結びついこそいるが、現実は常に足掛かりか土台である。ハナエが私の女王と、神となる事はないだろう。
 私の満ち足りた世界というのは、水木加奈女あってこそだった。そこをハナエに挿げ変えた所で、ものが違うのだから、座りが悪くて当然である。
 苦悩の末に至った『水木加奈女』という理論だ。そうそう捨てられるものではなく、代替えを探してしまうのも、また仕方の無い事なのかもしれない。
 ハナエはカナメの変わりでも良いというだろう。言うだろうが、私が納得しないのでは意味が無い。
 そもそも彼女を代替えにし……
「タツコ」
「あっ――あ、う。ごめんなさい」
「最近安定してきたと思ったが、まだ呆けるな」
「うん。良くなったとは思うの」
「頑なに病院には行かないのな」
「あそこはダメ。悪化する」
「ま、そうだろうなあ。食器、そのままでいいぞ。お茶入れるから、テレビでも見てな」
「うん」
 言われるまま、私は席を立ち、ソファに腰かけてテレビをつける。大して面白くも無いコメンテーターの偉そうな物言いを鼻で笑いながら、私は手近な所にあった鏡を取る。
 髪が延びた。一度決心して美容院に行ったのだが、もうその時も散々だ。常にハナエが隣に居ないと、他人に触られる不快感と恐怖に潰されてしまうのである。ハナエに手を握って貰いながら髪を整えて貰うという、美容師も苦笑いのものだった。
 親しくなれば否定感も生まれないというのは解りきった事なので、その女性の美容師さんと懇意になるのが、目下私がビジュアルを維持する為の努力となる。
(……あの時は必死だったしなあ)
 カナメと顔を合わせる為に髪を切った事を思い出す。つい最近の事であるのに、もう数年も経ってしまったかのような懐かしさがあった。
 頭からビニールを被って顔に美顔パックをして……何とも恥ずかしい。
「はいお茶」
「ありがと」
 ハナエが隣に腰掛け、私を肩から抱く。ハナエは寂しがり屋だ、同棲するようになり、ますますそれが身にしみる。
「お茶飲めない」
「タツコ、なんか良い匂いする」
「オーデコロンかな。好き?」
「うん。アンタに合う匂い」
「そっか」
 私は猫をあやすようにしてハナエを可愛がる。彼女は私に触られるのが好きだ。手を伸ばし、首筋から肩にかけて撫で、腰に回す。そうすると、ハナエはいつも幸せそうな顔をする。
 理屈臭く、女性らしい感性を置いてけぼりにした人だ。根本的な部分は優しさに飢えており、執拗で、子供っぽい。恐らく何もかも、生活環境が齎し、形成したものだろう。
 こんな寂しがりの彼女こそ、家族を増やすべきなのだろうが、生憎私達は子供が作れない。そして彼女はその分、私に強く依存する。当然彼女の依存は私にとって都合が良い。しかし依存が深まれば深まるほど、もし離れてしまったら、もし気持ちが無くなってしまったらといった将来への不安が大きくなるのだ。
 私達は後世に何一つ残す事なく、消え果つる運命にある。互いが手塩にかけて愛し、共同の理想を思い描くべき子供は、齎されないのだ。
 子供というのは、ある種契約の具現化である。これが無い私達は、一般的な異性愛者達よりも、強い繋がりを必要とされる。ハナエのいう「愛だけではどうにもならないもの」の一つだ。
「……ねえハナエ、ペット飼おう」
「んあ、なんだそれ。思いつかなかったな。おお、いいぞ。何が良い?」
「犬が良いかな。おっきいの」
「レトリーバーとかかな」
「雌ね」
「ああ、犬も雄は嫌か――」
 勿論、犬畜生を人間の子供と同等の扱いをするつもりも、考えもない。ただ、そこに居て、私達の寂しさを、虚しさを、一時でも和らげ、理想に近づけてくれるだけで良いのだ。
「子供の代わりか?」
「代わりというか、穴埋め」
「子供自体は、用意出来ない訳じゃないぞ」
 つまるところ、ちゃんとした機関から提供を受ける、もしくは適当に見繕って植えて貰うという意味だろう。
「勘弁して」
「そんなに嫌か? アンタは身体強くないだろうから、私でも良いし……」
「貴女の中に、あんなものが入るなんて、想像するだけでも吐き気がする」
「バンクからでも……」
「嫌」
「解った解った。そう怖い顔するなよ。これは一つの可能性だ。女に産まれたからには、その身には子供を育む機能が備わってる。男みたいに出して終わりじゃないんだ。遺伝子的な繋がりは薄まるかもしれないが、パートナーとして親として、一緒に子供を育てる未来も十分有り得る。つまりだな――」
「お断り」
「……解った。じゃあ犬飼うかな。近いうち、保健所でも覗きに行こう」
「うん」
 否定的な私の頭にまず過ったのは、澪の顔だった。そして自分の幼さに気が付かされる。
 子供が子供を産んだ結果が、水木澪という人物である。恋愛脳とも呼ぶべき熱病にかかった彼女は、一切の後先を考えず望まれない子を産んだ。男には逃げられ、両親には見放され、彼女は娘を抱いて家を出た。金を持った男に縋りながら生きる様を、逞しいと感じるか、愚昧と罵るか、それは人それぞれだが、私にはとても良い選択であったとは思えない。
 しかも、産んだその子は身体が弱かった。二重、三重の苦を背負いながら生きて来た彼女は確かに強い女性かもしれないが、産み落とされた子からすれば堪ったものではない。
 産まれながら父はなく、男に抱かれる母を見ながら、病苦に呻き喘いていたのだ。
 加奈女の短命さが澪の所為であったとは決して言わないが、あの環境に置かれていた加奈女の事を考えると、どうあっても頭が痛い。
 別段と、子供の在り方について哲学するつもりはないのだ。人間も動物、動物ならば繁殖する。そこに難しい理を置いては、人間は直ぐ様滅び去るだろう。
 しかしながら人間である我々は、多少なりとも動物とは異なる慈しみを持って、子供を作るべきではないのかと思う。そういう意味で、澪はそれを事欠いただろう。
 ではそれを私達に照らし合わせた場合どうか。
 恵まれた事に日々食うに困る事はまず無い。
 温かい家があり、私達二人がいて、育つだけならば申し分ない環境だ。
 だがもう少し奥の部分、私達の意識が、足りないように思う。これは間違いなく澪に劣る点だ。
 精子提供を受けてハナエが孕んだとして、果してハナエが母らしく振る舞えるだろうか。
 他人の雄の精子で孕んだハナエを、さて私が良い顔をして居てあげられるだろうか。
 これに近しい悩みは、もしかすれば若い夫婦ならば誰しもが抱く悩みかもしれないが、私達の場合同性であり、子供に対してある種享楽的価値を見出そうとしている節がある。
 挙句の果てに、私は心が強くない。
 これでは産まれて来る子供も可哀想だ。
 更に悩みは続く。その子は大きくなり、物心ついた時、父が居ない事実を気にし始めるだろう。イマドキ片親など珍しくもなかろうが、親が両方女だと知れた場合、子供を取り巻く環境はどうなるだろうか。
 気にするな、では済まない。どれだけ論理的な説明を用いても、理を介さない子供には諭す意味もない。
 そういったもの全てひっくるめて、くじけないような子供に、私達は育てられるだろうか。
 共同の理想を思い描けるだけの子に出来るだろうか。
 子供とは、つまるところ責任そのものなのである。
 その覚悟無き私は、やはりきっと、子供なのだ。
「また難しい事考えてただろ」
「私、ハナエが居れば良い。あと犬」
「はいはい……あ、そろそろ就業時間だぞ」
「あ。うん。じゃあまたあとで。あ、お給金だけど、税金とか……」
「税理士つけるから気にするな。引きこもりが時間通り働けてるだけでも快挙だ」
 頬にキスをして、私はまた自分の仕事場に戻る。
 幸福なるものが迫れば迫るほど、私は恐怖に慄く。何不自由ない生活と、愛しい人のいる世界にいながら、私は今日も漠然とした幸福なるものを、探している。



 ※



 私は一つ、ハナエに隠している事がある。
 それを知らせてしまえば、彼女はとても心配するだろう。伝えた所で何とかなるものでもない。ただ苦しみを増やすだけであるから、私は黙していた。
 その夜は寝つけず、私は大きなダブルベッドから抜け出す。ベッドの上ではハナエが気持ちよさそうに眠っている。彼女は今、幸せを感じているだろうか。私の本心がそれに応えてあげられないのが非常に残念だ。
 素肌にガウンを羽織り、キッチンでお茶を沸かすと、それを二つ持ち、バルコニーに出る。わざわざハナエが設えてくれた白塗りのガーデンチェアに腰かけ、此方と、向こう側に一つ、カップを置く。
 それはつい一か月ほど前からだ。私には有る筈の無いものが観えるようになっていた。
「冷えますね」
「そうね、もう冬の足跡が聞こえてくるわ」
 関東の気温は十五度程度だが、そろそろ急激に冷え込む頃だろう。そうなると、こうしてバルコニーやベランダに出ている時間は短くなる。それが良いか、悪いかは、解らない。
「今日は何か、気がかりになるような事は、ありましたか」
「貴女の現状を果して社会復帰というのかしら。言わないわね。ま、それで満足ならば私は何も言う事はないけれど」
「私も正しいとは思えませんけれど、では何が正解なのかと問われて、答えられません」
「そうね。一先ず貴女が平穏無事で居られるならば良いんじゃないかしら」
 彼女は――カナメは、真っ直ぐ瞳を此方に向けて、そのように言う。
 彼女が何なのか。当然幽霊ではない。イマジナリーフレンド……一種ではあろうが、彼女は私の投影ではない。彼女は私に都合の良いように振る舞ったりはしないし、かといって此方を傷つけるような事を進んで発言したりもしない。
 カナメを失ったという喪失感から私の眼前に疑似化した事は間違いないだろうが、自意識が明確となって、物事を客観的に見つめる事が出来るこの歳で、まさかこのような事象に見舞われるとは思わなかった。
 私は確実に、この彼女が幻覚であるという事を理解している。彼女が脳内から漏れ出した思考の廃棄物である事は確定的だ。だが、彼女はあまりにもリアルに私の前に現れた。
 愛しい人の形を模した彼女を、私は粗末に扱う事が出来なかったのだ。
 故にこうして、それは『そうして在るもの』とし受け入れている。
「気の無いお返事ですね」
「当然でしょう。貴女は私のものなのに。私は何時でも貴女を見ているわ。眼の前であんなにいちゃつかれたら、不満の一つも上がるでしょう。それに、貴女達のセックスってネチッこいのよね。私は母と見知らぬ男が交わる姿をずっと見て来たけれど、何かしら、同性だとあんなナメクジみたくなるの?」
「他人のレズセックスなんて覗いた事がありませんので、比較しようがありません。生憎出して終わりでもないので」
「へえ。慣れたものねえ。でも結局、子供が出来る訳でもないし、ただ気持ち良くてやっているのかしら? 子供の私には理解出来ないわねえ」
「……根本として、人恋しさがあるでしょう。触覚的な刺激が、私の脳は快感と判断します。それが好きな人ならば、尚の事。お互いに肌を合わせる事自体は、理解していただけるかと」
「ええ、そうね。私も思ったわ。貴女を抱きしめた時、恋心というのはかくも虚しく切ないもので、また温かいものなのだと。その延長にあるのかしら」
「繁殖行為ではないので、自慰に近いかもしれません。いえ、そもそも性処理目的のものは、全て自慰なのでしょう。都合良く気持ち同じ人間が二人いて、求めあうだけです」
「でも求めあえるって素晴らしい事だわ。私にも肉があれば、試してみたいところなのだけれど」
「……」
「笑う所よ、自嘲するところよ。コイツは何を言っているんだと」
「笑うなどと」
「――『私』は『貴方の私』という『自覚』よ。この私は正しく幻影で、形が無く、体温はなく、オリジナリティはどこにもない、全て妄想の産物。私が都合のよい事を言わないのは、貴女が言わせないから。私が貴女を傷つけないのは、貴女が傷つけさせないから。水木加奈女に極力近づけた、脳内物質の悪戯」
「はい、承知しています」
 ……紅茶を啜る。カップを覗くと、空の月が映った。音は無く、静かで、無駄がない。私を虐げる者は無く、私を庇う者は無く、ただ理想だけが目の前に、偉そうな顔をして座っている。
 この時ばかり、私は心の安寧を手に入れていた。
 それが心の障害によって齎された防衛反応だったとしても、この世界は最適化されている。
 観る。想う。そしてただ、涙ばかりが流れるのだ。
「貴女は幻影の前ですら泣くのね。これは、当然私が発言するから、つまり貴女の頭の中にある事だけれど、結局、何が正しいかなんて考える必要がないのではないかしら。貴女のその涙は、自分がマトモな人間ではないからといった疎外感や恐怖から来るものでしょう。自分勝手を自負するならば、その認識こそもっと自分勝手にすればいいのよ」
「……つまり、どういう事でしょう」
「貴女の頭の中の事でしょう。ああでも、出力方法が違うから、自身でも把握できない部分があるのかしら。まあ、簡単に言えば、何で周りの規範なるものにしたがって生きようとするかという事よ。そもそも同性愛者って時点で規範の外でしょう。貴女が何かしらの規範に則って生きた所で誰も喜ばないし、貴女は不幸になるばかりだわ。貴女と、そしてハナエがただ幸せになる事だけ考えれば良い。気が付いた時には、私なんてものも消えて無くなるでしょう」
「しかし」
「いいの。別に私が居ようが居なかろうが、そこは問題ではないわ。私自身を気に病むから悪いの。貴女は今の貴女を受けれる事が必要だと思うのよ。ここに貴女を虐める人はいないわ。むしろ、愛してくれる人が傍にいる。貴女のお父様だって、なんだかんだときっと認めるわ。認めず、娘を幸せにしてくれる人を蔑ろにする父なんて、それこそさっさと縁を切った方が良いでしょう。悩むかもしれないわ、傷つくかもしれないわ。でも、規範とか常識とか、そういう罰則に至らないようなものに気を取られて不幸になるのは、馬鹿よ。気にするな、なんて貴女にはとても実践出来ないでしょうが……」
「気にするから、悩むのでしょうね。そう、何でもかんでも、悩む必要の無い事を、悩み続ける。どうでもよい人の言葉、人の生きる意味、恋する意味、愛とは何なのか、自分とは何なのか、正しい想いとは何なのか、人を思いやる真理とは何処にあるのか。誰もそんな事、気にして生きていないのに、馬鹿みたいに、何度も何度も考えて、私には出来ないと、解らないと、憂鬱になる」
「本当にどうしようもない子ね、貴女は。ええ、私はそんな貴女が大好きよ。ずっとそうしているなら、そうしていなさい。そうでないというのならば、超越なさい」
 そのような言葉を残して、彼女は私の視界からいなくなった。
 紅茶を啜る。すっかり冷たくなっていた。
「うわさっぶ。タツコ、何してるんだ」
「あっ……」
 ハナエの声が聞こえ、私はあわてて、対面に置いたカップを此方に寄せる。変な勘ぐりはされたくない。
「ハナエ、起きたんだ」
「夜中の二時だぞ。こんな寒いのに……なんだ、カップ二つも揃えて」
「二杯飲もうと思って」
「減ってないな」
「こっち、まだ飲みきってなくて」
「後から淹れれば……いや、まあ、好きずきだな。余ったなら飲む」
「冷たいけど」
「いいよ」
 そういって、カナメに用意した紅茶を、ハナエが飲む。それは現実感の上書きである。
「ごめんな」
「どうしたの、謝って」
「ちょっと不思議だったから、気になって。強く言った」
「いいよ、そんなの」
「中入ろう。寒いったらない」
「うん」
 カップを預かり、それをキッチンに置いてから、ベッドに戻る。
 ハナエはガウンを脱いで待っていた。
 ……数時間前も、その、したばかりなのだが、まだ足りなかっただろうか。私が寄りそうと、彼女は私を抱きしめてそのまま倒れこむ。
 互いに手を握り締め、見つめ合う。ハナエは寂しそうな顔をしていた。気の強めな彼女がそのような顔をする度に、私の胸は締め付けられ、このヒトの生命を握っているのだと、強く実感させられる。
 彼女は現実だ。彼女の肉体が、声が、私の頭の中に思い描かれた理想より余程雄弁に語る。
「どうしたの」
「祖母が入ってる介護施設から連絡があったね。祖母が逝ったそうだ」
「そんな、急に」
「急と言っても、ここ暫く体調を崩してたんだ。肺炎だそうだ。ちなみに、老人は肺炎で死ぬ事が多い。老化して他に様々患って免疫が落ちると、肺炎にかかって亡くなる確率が高くなるそうだ。まあ一般的な死に方だな。若い頃は病気一つしなかったらしいから、怖いもんだよ、老いは」
 ハナエが私を抱きしめる。私も何も言わず、抱きしめ返した。
 碌でもない両親の下に産まれ、その支えは祖父と祖母であった。祖父は先に逝き、祖母に縋り、母のように慕っていた事だろう。
「……体調を崩していたなら、見舞いに行けば……」
「アンタも解るだろう。不安だった。衰える婆ちゃんを観るのも、その間アンタをここに置き去りにするのも、怖かったんだ。一緒に行くって選択肢は無かった。アンタはカナメを失ったばっかりだ。そんな頻繁に、人の泣き顔も、葬式も、見たくないと思ったから」
「――私の」
「自分で選択したんだ。アンタが気負う事じゃない。といったって、アンタは気負うだろうが。でもこうなったら、喋るしかないだろう。不安な気持ちさせたくないけど、こればっかりは。ごめんな」
「やめて、謝らないで……」
 カーテンが開け放たれた窓から青い月明かりが射しこむ中、身を起こし、ただ抱きしめあう。不安が顔に、身体に、動作ににじみ出ている。唯一家族と言える祖母を失ったハナエの気持ちを、残念ながら今なら理解出来た。理解出来てしまったのだ。
 こんなもの、理解しない方が良い。そうしない方が幸せだ。けれども、感受性の塊である私達は、いざ同情出来てしまう出来事に面した場合に齎されるその悲愴を、絶望的なまでに共用してしまう。
 共依存のまだ、サワリだ。今後さて、これがどこまで深化し、更なる絶望を生みだすのだろうか。今は傷を舐めあっているだけで事足りるかもしれないが、果ては見えない。
「明日、行くよ。うん、ごめん、私一人で行くから」
「でも」
「ごめんな。一週間、我慢してくれるか。電話なら何時でも出る。夜中だろうと出る」
「――ううん。お別れ、してきて。私の事も、宜しく言ってあげてね」
「ああ。ごめんな。ありがとう、タツコ」
 ハナエをベッドに横たえ、頬にキスをする。彼女の頭を胸に抱き、子供をあやすようにして髪を撫でる。
 彼女は泣きながらも、幸せそうに笑ってくれた。
 私は、彼女を幸福に出来る。私は、彼女に必要とされている。それはまるで私がカナメを欲したように、私の存在が彼女の生命を握っているからだ。
「人間って、幸せって、何なんだろうな――婆ちゃんは、幸せに死ねたかな。私の所為で、辛い思い、しなかったかな。後悔、なかったかな――」
「大丈夫だよ」
「……独りにしないで……」
「うん、うん……」
 愛しいという気持ちが膨れ上がる。同時にその愛しさこそがエゴであるという罪悪を覚える。
 そんな考えに意味はないと知っている自分が居る。しかしその考えに意味が無いと考える自分に罪悪を覚える。私はどうにもならない思考の袋小路に蹲り、ただ救済者を待つ愚か者でしかない。
「おやすみ。愛しているわ」
 愛している。都合の良い言葉である。私はこの言葉が、大嫌いだった。



 ※



 誰も彼もが孤独を抱えて生きている。使い古された言葉だが、付け加えるなら、貴賎はあるのだ。唯一、そればかりが私の優越感なのかもしれない。
 安っぽい寂しがり、やすっぽい自己顕示に、安っぽい自殺願望。私を見てと叫んで回るうちは、まだ健全である。まだ観て欲しい、気にしてほしい、大切にしてほしいという欲求を人様に告げる事が出来る、知らせる事が出来るからだ。
 だが私は、私という人達は、それすらも許されていない。内側に抱え込み抱え込み、生きる事も死ぬ事もままならず、鬱屈とした精神を澱として心に淀ませ続けるのである。
 人よりも不幸だ。そう思いこめる心こそが病であり、誇れもしない矜持である。
「タツコ。大武さんの事だが」
 ハナエが発って三日。私は実家に戻っていた。思考にふけるあまり食欲も無かったのだが、父が食卓を囲みたいというので、私は仕方がなく部屋を出て来た。ハナエが数日いないだけでこの有様であるから、母も見かねたのだろう。
 父はいつも通りだ。自分の疑問は素直に口にする。相手への配慮がとても少ない。世渡りが出来るタイプの人間ではないものの、嫌味なほど有能である故に、父は要職についている。
 そもそも父が企業会長の息子であるという事実は、勤め先には暫く隠されていた。
 自分の力で何処まで出来るのか、背景無しに、おべっか無しに実力を認めさせるのだと、とても強い志を持つ人である。
 苦手と言えば苦手だ。私とは正反対である。
「なんでしょう、お父様」
「気の迷いとか、勘違いなんてものじゃ、ないんだな」
「つまり、私が同性愛者である事は間違いないか、という事でしょうか」
「ああ。生憎と理解出来んのでな」
 父が食事中話す、という事はそれだけで重みがある。父は何事も事務的であるし、食事時は食事をする為の時間だと思っている節がある。わざわざ呼び付けて一緒に飯を食おうなどというのだから、この言葉にもそれなりの含みがあるのだろう。
 当然私の回答は変わらない。
「はい。非生産的で、常識人のお父様からすれば、酷い不都合かと思いますけれど、お父様の娘は男が嫌いです。いえ、男が嫌いだからハナエが好きというのも違います。好きになった人は彼女だったんです。本当に、心からそう思える人なんて――」
 ハナエと、そして亡くなってしまった彼女だけだった。
「あれから暫く考えた。本当に正しい事なんていうのは、長い人生で、一度たりとも観た事はない。出会った事もない。何もかも不確定で、手にとれず、正しいと思いこんだ事が間違いだったなんてのも、いつものだ。しかしその中でもな、やはりお前と大武さんの関係については、理解し難かった。法律上何処にも保障されない、子供も出来ない、保険だって受け取れん。どこにメリットがあるのか」
「メリットで、人を好きになりますか、お父様」
「ミチと結婚したのは、メリットがあるからだ。そして異性だ。その過程で家族への想いが産まれた事を、俺は一切否定しない。それはミチも承知している」
「叩きましたがね、私は」
「ん、んん。腰を折るな」
「ふふ。はいはい」
「……お前達の関係に、親が介入するなんてのは、当然古い考えだ。だがどうあっても親としては不安なんだ。まあ、ウチなんていうのは、弟が継げばいい、お前が我が家の末代だったとしても、それは承諾しよう。だが将来、子供がない事を嘆くような真似はするなよ。どこからも援護がないと、喚きたてるんじゃないぞ。世界はマジョリティで出来ている。お前達は、マイノリティだ。キツイ言い方だが、法律上保障されていない限りは、どうする事も出来ん」
「承知しています」
「……ミチ」
「あのね、タツコさん。お父様は恥ずかしがって口に出来ないそうですけれど、つまるところ、世の中は何も保障してはくれないけれど、おれが支えてやるから、好きにしなさいと言いたいそうなんです」
「いや、そのだな。それは少し語弊が」
「同じ事でしょう。タツコさん。何かと厳しい社会で、心が強くない貴女が、弱い立場になろうとしている事を、心配しているんです」
「――お父様」
 父は私が視線を向けると、ソッポを向いてしまった。余程恥ずかしかったのだろう。
 父はカタブツで、非常識を嫌い、何事も真っ直ぐを見つめる人だ。私という曲がった存在について、悩んでいたのかもしれない。
 こういう人が世の中を渡って行こうとした場合、一体どれほどの努力が必要なのか、社会経験のない私には想像もつかないが、容易でない事は確かだろう。
 責任ある立場として、企業会長の息子として、一人の娘の父として、様々な想いがあったに違いない。父は口が悪いというよりも、思った事を素直に口にしすぎる。私をこき下ろす為に言い放った暴言のように思える言葉も、今考えれば、ただ純粋にそう思ったから言っただけだろう。
 勿論、それが歪を産み、勘違いを量産するだろう事は確かだが、彼は実力でそれを解決してきた。
 私という不可解な存在に対する疑問と懊悩、そして一定の結論が、今なのかもしれない。
「……家族だ。家族は支え合って生きる。こればかりは、今も昔もない。式を挙げたくなったら言え。親父達も全部説き伏せて、雁首そろえさせてやる」
「し、式?」
「籍は入らんが、形式ぐらい要るだろう。何も心配するな」
「あ、はは――あの、お父様」
「なんだ」
「……有難うございます」
 誰も彼もが孤独を抱える中、それを癒す為に用意するのがパートナーであり、家族だ。衣食住だけでは足らず、より良く健全に生き延びる為に、ヒトは愛する人を用意する。
 種が反映し、頂点として君臨し続けるのは、全てこの知能と社会性にある。
 父のこの行いに、メリットは存在しない。むしろ不都合ばかりだ。しかしそれでも不都合を抱え、解決に走ろうとする姿こそが、家族に対する愛情なのかもしれない。
 損得で割り切れない感情。そんなものが、果して私に存在しただろうか。
 父に礼を言い、食卓を後にした私は、そのまま自室に戻る。
(幸福と希望と、不幸と絶望が、両面からやってくる。私が望まなくても)
 何気なく彼女の気配を感じて、私はかつての王国の跡地へと足を踏み入れた。肌を刺すような冷たさに身を震わせながら、私はいつもの椅子に座る。
(私が望まなくても、部屋を出たあの日から、私の人生が紡がれていく)
 隣には隔て壁。既に隣の部屋は引き払われており、澪もいない。
「よかったわね、タツコ」
 暫くすると、そんな声が聞こえてくる。
「……」
「どうしたの、浮かない顔ね。お父様も認めてくれたじゃない。あのカタブツからしたら、相当の決断よ。世の中、なんだかんだ、家族には支えられ、関わり続けて行くの。それがうっとうしい事もあれば、助けられる事も多々ある。勿論、自分勝手な貴女がそれを承服するかどうかは、また別だけれど」
「いえ。嬉しくは、あります。家族が増えれば、ハナエも喜ぶ。あの子には家族が必要なんです。私だけがどれだけ愛した所で、彼女は絶対に満たされない」
「あら、嫉妬? 自分さえ居てあげれれば良いって」
「いいえ。むしろ、安心しているんです。家族の結びつきが強くなれば、彼女が私だけに、私が彼女だけに頼る事も無くなる。精神衛生上、互いに有益です」
「そう。では何が不満なのかしら。まあ、世の中の全てに不満と疑問を持つ貴女だから、その疑問も仕方ないでしょうけど」
「愛ってなんでしょう」
「難問ね」
 これは妄想。虚像。自問自答に他ならない。自分の知らない答えを自分が知る由も無い。果てしなく無意味だと自覚しながら、私は言葉を紡ぐ。
「私の、家族に対する想い。これは恐らく、単なる利害だと思います」
「ええ。親が居ないと生き辛いものね。私も良く知っているわ」
「私の、貴女に対する想い。これも恐らく、単なる利害だと思います」
「ええ。ただ利害は一致したわ。互いに与え受け取って出来あがった、美しい利害よ。それを愛と呼ぶのならば、間違いないわ。ただ、貴女が抱いていた感情は、私とは違ったかもしれないけれど」
「私の、ハナエに対する想い。これはもっともっと、利己的で、自分勝手で、美しくないものだと、思います」
「そうかしら。これもまた利害が一致しているわ。互いに幸せを目指そうという同志よ。これを愛と言わないのならば、もう何がなんだか解らないわ。それが疑問なの? いいえ、そんな事を考える貴女が嫌なのね」
「……父は、自分を曲げてでも娘の意見を親族に通してくれるそうです。それは、父にとって不利益しかない。あれだけ非合理な事が嫌いな父が、です」
「娘だもの。勿論碌でもない父親も沢山いるでしょうが、貴女のお父様は父としての責任を貫き通そうとしているのよ。筋が通っているわ。男らしいじゃない?」
「それは愛ですか。責任ですか」
「貴女は子供を親の責任の具現と言うでしょう。だからきっと責任よ」
「責任だけで、自身の立場を危うくするんでしょうか」
「そう。じゃあきっとそれが、言葉にも、数値にも出来ない、家族の愛というものじゃないかしら」
「……そう、なんでしょうか」
「愛にも種類があるわ。そして愛には責任が伴うの。離して考えられるものじゃない。貴女はそんな下らない事を悩み続けて悲劇のヒロインを演じ続ける自身に酔っぱらっている。そうでしょう」
「はい」
「――愛が全部美しいとは限らない。愛の無い関係から慈しむ心が産まれる事だってある。愛のある関係から絶望がにじみ出る事もある。お父様が認めるなら、それで良いじゃない。線引きは大事よ。あとは貴女とハナエが、どうやって上手く生きて行くか。本当の幸福を手に入れられるか」
「そんなもの――どこにあるのでしょうか。ハナエは、気が付いているんです。私の気持ちが未だ、貴女に傾いている事を。あの寂しそうな表情も、時折見せる嫉妬の顔も、全部全部、貴女に向けられるものです」
「まだ貴女は、ハナエを見くびっているのね。あの子の気持ちは、そんなに安くない――死んだ今なら、言えるかしら。私の貴女への想いも、決して安くは無いわ」
 遠くを観る。そこには、引きこもっていた頃の世界が広がっていた。
 安っぽい絶望を抱えた引きこもりの女と、絶望的な状況にありながら未来を見据えた少女の世界だ。
 私は、水木加奈女が羨ましかった。そして尊敬していた。
 私があの子程のバイタリティに溢れていたのならば。
 私が何事も悩まずハキハキと言葉を紡げたならば。
 私が理想を体現しようと努力するだけの精神を抱えていたのならば。
 全て手に入らないものを持ったカナメに、憧れていたのだ。
「羨ましかった。妬ましかった。それ以上に、私は、貴女が尊かった。貴女に導かれたかった。貴女に従いたかった。こんなダメな私でも、貴女の為になれるならと、そんな気持ちになる事が出来た。貴女は私の心の全部を持って行って、それで私は満足していた。けど、持って行ったまま、貴女は、カナメ、貴女は、私の気持ちを返してくれなかった。弄ぶだけ弄んで、勝手に死んで、ふざけた話が、あったもんです。こんな事を考えている自分もまた、頭に来る」
「そうね。謝罪のしようもないわ。でも、言ったでしょう。そして感じているでしょう。私は貴女のもの。貴女は私のもの。変化する筈だった信仰心は、晴れて不変のものへと進化したわ。貴女はただ、私という存在を記憶の片隅に置き続けるだけで良い。たまに思い出して、そんな子が居たな、そんな思い出があったな、あの頃に比べれば、今はなんて幸せなのだろうと、そのように、考えれば良いだけ。その為の装置でしょう、墓も、仏壇も、宗教も」
 遺骨が納められた墓の前で泣き崩れる澪の姿が、脳裏から離れない。
 澪と、私と、ハナエ、たった三人の葬儀は、終始澪の泣き声で埋め尽くされていた。
 私といえば、淡々としたものだった。綺麗に死に化粧された彼女を前にしても、火葬されてスカスカの骨になった彼女を前にしても、墓の中に収められた彼女を前にしても、解りやすい感情は表には出なかった。
 涙は枯れ果てていたのかもしれない。世の理不尽に無言の怒りを突き立てていたのかもしれない。
 もはや概念となり果てた水木加奈女という存在を胸の内に秘め、私だけがそのロジックに従って生きるのだ。
 私は彼女のもの。彼女は私のもの。
 所有ではなく、隔離。
 どこにも出す事のない、私が死ぬその時まで抱えて生きて行く、法理だ。
「タツコ、惨めで愚かで、不幸が無いと生きて行けず、幸福がないと死んでしまう頭の悪い貴女」
「……はい」
「さあ、手を伸ばして、タツコ」
「――……」
「そして虚しい想いをするといいわ。私は、そんな悲惨な顔をする、貴女が大好きだから」
 言われるまま――いいや、自主的に、手を伸ばす。隔て壁の隙間に、有る筈のないカナメの手を探る。
「え」
 その手が何かに触れた。当然彼女の手ではない。壁に張り付いているのだろうか。感触を頼りに掴むと、それが紙である事が解る。ほんの少しだけ躊躇い、私は壁に張り付いた紙をはがした。
 それは封筒である。安っぽい茶封筒で、中には飾り気の無い便せんが数枚入っていた。
「あっ――う」
 茶封筒には『竜子へ』と書かれている。

『竜子へ 直接手渡すのが憚られたので、母に託しました。渡し方も指定しています。きっと貴女は馬鹿だから、気が付いてしまうでしょう。気が付かなければ、それだけ私の存在が貴女にとって薄れていて、貴女の精神が健全に向いている証拠でしょうが、これを見ているという事は、現状で不健全極まりない、とても悲惨で私の大好きな竜子であると、疑いようの無い事と思います』

『まず、幾つかバラさなければいけない事があります。私が貴女に語った学校生活は、全て嘘です。虚弱体質でマトモに授業も受けられない私は、当然の如くクラスメイトから馬鹿にされ、罵られる毎日でした。貴女が想像する輝かしい私などというものは、存在していないのです。不要にも授かってしまったこの知性も、生かされる事はなく、ただ悩みだけを産み続ける、不毛の産物でした。馬鹿ならばどれほど良かったかと、思い悩んだものです』

『家に居る事が多く、気が付けば発作に襲われ、未来は無く、将来は想像出来ず、夢も希望も無く、ただ淡々と毎日を過ごしていました。母は常に私の味方をしてくれましたが、それは母としての責任から来る、何の味気もない優しさなのだと考え、不必要な憂鬱感だけを抱えて生きる、酷い子供でした』

『そんなある日、私は一つのおもちゃを見つけました。ベランダに出た折、隣から物音が聞こえたのです。こんな昼間から何者かと思って声を掛けてみれば、それはなんと、二十歳にもなって社会に適合出来ない、正しく底辺存在の酷い酷い貴女でした。不幸で可哀想な私よりも社会的に惨め極まる存在が居たのです。私はとても興奮しました。馬鹿にしてやろうと思い立ち、弄ってみれば尚の事面白い。十歳の私にヘタクソな敬語を使って話す貴女には、ほとほと笑わせて貰いました』

『愉快な娯楽を見つけた私は、何時になく楽しそうにしていた様子で、母からも表情が明るくなったと安心されました。まさか娘が年上を弄って遊んでいるとは思いもしなかったでしょうが、私にとって貴女は最高のおもちゃであり、馬鹿に出来て、見下せて、優越感に浸るにはもってこいでした』

『しかし、何時の日からでしょうか。女王と平民、神と信者。そのような関係が続いていた所、私は貴女に特別な感情を抱くようになりました。それもそうです、何せ、私とマトモに会話をしてくれるのは、貴女だけ。私を敬ってくれるのは、貴女だけ。私を本当に大切に想ってくれるのは、貴女だけだったのですから。だから私は、貴女の理想で居ようと決意しました。貴女が私を必要としてくれるように努力しようと、嘘を吐き続けようと考えました。そして貴女は、私と会話している間、とても幸せそうにしてくれていた。私の存在意義を、貴女が認めてくれました』

『どうしようもない気持ちでいっぱいでした。たった十年しかない生でしたが、貴女と会話を交わしている時間が、もっとも幸福だったのです。何故貴女と会話するだけで幸福なのか、それについて強く考えました。そしてその答えが出た時、酷い不安に駆られたのです。私は、貴女が必要だった。貴女は、私が必要になってしまった。私はいつ死ぬか解らない身なのに、貴女を束縛し、雁字搦めにしてしまったのです。きっと貴女は馬鹿で優しいから、それでも良いと言うでしょう。でも貴女の本心は依存に塗れ、人として不出来で、社会性は無く、私無しで今後生きられる訳がないと、そのように確信していました』

『何もかも、私の不徳なのです。愚かさ故の事象なのです。そのように心配していても、私は貴女を手放したくなかった、もっと依存して貰いたかった。もっと必要として欲しかった。貴女が隣に居れば、私は貴女を守るという決意が産まれると思いました。この身はもう、医療ではどうする事も出来ない病に冒されていたので、縋る所といえば、生きがいぐらいしかなかったのです』

『私は、本当に、心の底から、貴女が欲しかった。貴女を守りたかった。貴女を迎えに行きたかった。貴女を愛していました。貴女だけが、この幼い身をヒトとして見てくれていました。大人として見てくれました。迎えに行けなかったのが、無念でなりません』

『私の想いは全て、華江に預けました。彼女は貴女が想っている以上に、貴女を愛しています。きっと幸せにしてくれるでしょう。彼女も幸せを欲しています。幸せにしてあげてください。母には悪い事をしました。今になって謝る事も出来ませんが、母にも優しくしてあげてください』

『母は泣いてくれました。無償の涙でした。母だから、家族だからなんて言葉ほど、信用ならないものはありませんが、私は母の涙も、貴女の涙も、その寂しく虚しい、孤独な人達が本当に流す涙であったと、信じて疑いません』

『死の際、今に至り、愛する心とは何なのか、幸福とは何なのか、解りました』

『相手を想う気持ちを悟り、相手の欲するものを見返り無く提供し、そして互いに満足出来る状態こそが、唯一無二、掛け替えのない、本当の愛であり、幸福なのだと思います』

『私は、この世で最も幸せな人間でした。貴女のお陰です。貴女とずっと幸福で居られず、ごめんなさい』

『どうか生きて、幸せになってください。 水木加奈女』

「はっ……ハハッ」
 悩むに悩み、自己陶酔し、自身の精神異常を疑いながら、その実、何もかもを手に入れていたのだ。
 幸福も絶望も、夢も希望も、一切合財、彼女との関係の中に育まれていたし、あの子は、真の意味で私を必要としてくれていた。
 人を想う気持ち何たるかを理解した上で、私との関係に全てを注ぎこんでくれていたのだ。
 存在意義そのものが、私を肯定し、私を慈しんでいたというのに、私は、一体何をしていた?
 私の何もかもを彼女に預け、返却してくれないと喚き散らし、欲しかった何もかもが私の内に全て仕舞い込まれていた事実を無視し、彼女の望みを叶えるでなく、抱えて死のうとしたのだ、私は。
 面倒くさいと切り捨てたのだ。
 見たくないと口にしたのだ。
 自身の価値を自身でつける事なく、他人に委ね、その責任も押し付けて、ハナエすら道連れにしかけた。
 こんな私を救った所で、彼女達に得るものなんかないのに。
 こんな私に縋った所で、他の人よりも幸せになれる訳がないのに。
 それでも、あの二人は、ハナエは、カナメは、私を光と仰いだのだ。
「全部全部、知ってましたよ。知ってたんです。でも、私は、自己評価出来ないんです。貴女の気持ちが本当だって、ホンモノだって、どれだけ実感しても――ッッ」
 立ち上がり、ガーデンチェアを持ち上げる。
 力の無い私の、しかし感情に任せた一撃は、薄い隔て壁を容易く打ち破った。静かな住宅街に破壊音が響き渡る。
「はあ……はあ……ああ、くそったれぇ――ッ」
 自己嫌悪で死にたくなる。
「くそぅ――……」
 そしてその自己嫌悪すら許容してくれる二人の深い慈悲に、嗚咽が漏れる。
 ガラガラと崩れた壁を押しのけ、隣のベランダに上がり込む。そこには彼女が立っていた。
 こんなにも薄かったのか。私が殴るだけで割れてしまうほど、私達の世界は近かったのか。
 まるで私とカナメだ。
 近すぎる。そして遠すぎる。
 この『御簾』は、そのような距離だったのだ。
「何か解ったかしら」
「頭に来ました」
「そう。怒った顔、素敵よ、タツコ」
「泣いているんですか」
「泣きもするわ。だって私、もう居ないのだもの。でも、不安じゃない」
「何故です」
「解っているでしょう。私は貴女、貴女は私なのだから。私という信仰概念は、私という思い出は、貴女と共にあるわ。こう言ってしまうと、何だか陳腐だけれど、でも、人間だもの。私を必要としなくなったその時、貴女に本当の幸せが訪れると、良いわね」 
 もう答えるものか。これは、独り言なのだ。だから答えず、顔を覆い隠すほかなかった。
「タツコ、おい、どうした!?」
「……転んでしまって。頭をぶつけたら、割れちゃいました」
「だ、大丈夫なのか。いくら緊急時に割るといっても、弱すぎやしないだろうか」
「ええ、大丈夫です。柔らかかったので、大した傷もありません」
 ベランダに飛び出してきた父に適当な言い訳をつけ、私は笑った。それはどんな笑みだっただろうか、自分でも良くわからない。
「お前――」
「……はい、なんですか、お父様」
「い、いや。なんだか、月明かりの所為か。妙に、大人に観えたものでな」
「嫌ですよ、お父様。私、もう、二十歳ですよ」
「あ、ああ」
「さ、中に入りましょう。お隣も居ませんし、修理は明日呼びましょう。大きな音を立てて、ごめんなさい」
「無事なら良い。しかし、お前も間抜けな事をするものだな」
「私も人間ですから。人間なんです。人間に、なってしまいましたから」
 小首を傾げる父を宥め、部屋から追いだす。薄暗い部屋の真中に座り込み、ただ茫然と携帯を握りしめる。
 連絡は――いや、必要ないか。場所は解っている。カナメ亡きあと、私という厄介者を喜々として引き受けてしまった馬鹿ものが居る。
 私はまだ、彼女に言っていない事があった。私は『責任』を果していない。
 彼女の帰りを待っていられないし、電話口に話せるほど、軽い言葉ではない。
 手紙を胸に抱き、私は微笑んだ。
「愛していました」
 彼女はここに居た。そしてもう何処にもいない。彼女はそれを是とした。
 後悔と無念を抱きながらも、幸福のまま逝った彼女に、蛇足は必要なかろう。あとは彼女の望む通り、煩悶し、懊悩し、のた打ち回りながらも、私は幸せにならなければいけないのだ。
 それを体現しうるのは、後にも先にも、大武華江なる変人しかいない。
 鏡で顔を確認し、いつも持ち歩いているバッグと上着を引っつかむ。カナメの葬式で着た喪服をクリーニングのタグが付いたまま紙袋に突っ込む。そしてもう一つ。
 私宛に綴られた物とは別、付け加えられたもう一枚の手紙を確認する。はじまりは『どうせ別にしても、貴女は読むでしょうから』で始まる、実に頭に来るハナエ宛のものだ。それを鞄に仕舞い込み、私は部屋を後にする。
「お母様、お父様、私、少し出ます。やっぱり、ハナエが心配です」
「あら、そうなのですね。そうだと思いました」
「タツコ、俺達は必要か?」
「いえ。有難うございます。では、行ってきます」
「はい。あちら様に粗相のないようにしてくださいね」
「――なあミチ」
「はい?」
「うちの娘は、あんなにも元気が良かったか?」
「何言っているんですか。昔のタツコさんは、あんなカンジだったでしょう?」
 玄関を出る。
 あの時は嘔吐した。
 近所の人に挨拶をする。
 あの時は戦々恐々としていた。
 タクシーを拾う。
 男の人と同じ空間にいるなんて考えられなかった。
 人と話す。
 つい数か月前まで、そんな事もう出来ないと、諦めていた。
「どちらまで」
「駅まで」
 これから人混みに紛れ、新幹線のチケットを取り、他人の隣に座って数時間ゆられるのである。当時は想像しただけで吐き気を催すようなものだったが、今に至り、最早そんなもの、悩むにも値しなかった。
 何も怖れる事はないのだ。
 私は何もかもを手に入れていたのだから。何もかも知っていたのだから。
 ただそれを無視していたのだ。
 私が不幸でなければ、ハナエもカナメも、愛してくれないと、信じていたから。



 ※



 ハナエの実家は東北の政令指定都市にある。両親とは縁を切っている為、実家そのものに用事は無いが、ハナエの祖母が入居していた介護施設はそう遠くない場所に存在した。
 電車で二十分、新幹線で一時間半、またタクシーで二十分と、産まれて初めてと遠出である。目的意識の方が強かった為何ともなかったが、今思い出すと少し具合が悪い。
 とはいえ、もうここまで来たのだ。自分には当たり前の事が出来るという自信にも繋がる。
「もしもし」
『ああ、タツコ。どうしたの』
「来てるの。どこ行けば良い」
『――は?』
「だから、貴女のお婆様が入っていた介護施設まで来てるの。どこにいるの?」
『ちょ――な、なんだそれ? アンタ、え、電車乗って来たのか? 大丈夫なのか?』
「うん。それは良いの。私は良い」
『――なんだ。どうした。声、自信あるな。おかしいな』
「おかしくないよ。それで、どこに行けば良い」
『……これから出棺だ。裏手から回ってくれ。そっちに行く』
 電話を切り、指示通り裏手門に回る。五分もせずハナエが迎えにきた。
 カナメの葬儀の時は洋装であったが、今の彼女は喪服の着物に身を包み、髪も結い上げている。本来元気の良い筈の彼女だが、数日会わない間に、大分と窶れたように見えた。
「馬鹿だな。何で来たんだ――んん?」
「どうしたの」
「いや。タツコ、だよなあ」
「他の誰かに見えて?」
「ま、まあ良いや。車分乗するから、あの一番後ろのに乗ってくれ」
 指差された方向を見ると、やがて施設のヒト数人が棺を担いでやってくる。
「ご両親は」
「嫌だったけど呼んだよ。呼んだけど来なかった」
「お父様は」
「賭け事に忙しいそうだ」
「お母様は」
「他の宗教の葬儀なんて出れるかだと。爺さんの葬儀も嫌がってたな」
「凄いね、絵にかいたような碌でなし」
「全面的に同意する他ないのが我が親ながら悲しい限りだよ」
 疲れた顔をするハナエを宥め、出棺の手伝いをする。
 施設の人だろうか、皆涙を流してそれを見送っていた。涙をわざわざ流さなければならない程の人物であった事が容易に見て取れる。
「こっからは坊さんと担当者二、三人だけで、小さいものになるよ。人混み嫌だろう」
「それは良い。お婆様、慕われてたんだね」
「人懐っこい人でさ。でも芯が通ってるから、あのカタブツのじい様の嫁なんてやれてたんだろうさ。後ろの車、乗って」
「うん」
 霊柩車の後ろにつけられた車に乗る。運転は葬儀会社のヒトだ。見送りが脇に並び、ハナエの祖母に別れを告げる。
 動き出した車に揺られながら、十分ほどだろうか、何も喋らずに私はただハナエの手を握っていた。
 ハナエはどんな気持ちで居るだろうか。親のように慕った祖母の死に対しての悲しみは当然あるだろうが、こんな時にも顔を出さない両親をどう思っているだろうか。勿論、縁を切ったのはハナエだ。だが自分達の面倒を見て来た祖母の死に際して言葉の一つもないというのは、何か徹底した冷たさがある。
 もう本当に、どうでも良いのだろう。人間の冷酷で自分勝手な面を直に観ているようだ。
「そんなんじゃダメだよ。お父さんもお母さんも、連れてこないと。私、ひっ捕まえてくるから、火葬は待ってあげて」
「よしてくれよ」
「そんな事言いだす人いるのかな」
「冗談かギャグだけだろう」
「どれだけ近くてどれだけ御世話になった人でも、一度関係が断たれると、まるで他人のようになるんだね」
「煩わしかったんじゃないか。家族だから、なんて言葉程当てにならないものはないな」
「貴女はでも、家族が幸せであれる世界が良かった」
「そりゃそうだ。家族が不幸で好ましい人間なんぞサイコパスだけだろ」
「貴女の新しい家、何もかも、家族分用意されてた」
「……そりゃそうだ。私は幸せになりたかったんだから」
 彼女の抱える闇は深い。
 どれだけ自由に出来るお金と時間があっても、家族は帰って来ないし、一度崩壊した家庭を繕えはしないのだ。大人という自我が形成されて久しい人間の精神は、ちょっとやそっとでは入れ替わったり、改善したりはしない。両親を説き伏せようと、一か月後には元通りである。
 もう彼女に、彼女が望んだ温かい家庭という幸せは絶対に訪れない。
「そういえば、なんで来たんだ。まだ聞いてなかったな」
「貴女の泣き顔を見に来たの」
「嘘つけ。笑わせるな」
 二十分ほど車を走らせ、小高い山を登った先に火葬場があった。木々に囲まれており、規模としては大きくないが、真新しい。
「ヒトを焼く場所って、改めて考えると不思議ね」
「公衆衛生、土地事情、それが一番良いだろう。不自然だと思うか?」
「ううん。生きる人の為だものね」
「……そう。葬式も、火葬も、これから生きる人の為なんだよ」
 待ち時間もなく、整えられていた通り葬儀が進む。
 大理石で囲われた前部屋の真中にポツリと棺桶が据えられた光景は、ついこの前初めて経験した、カナメの火葬と光景が被ってしまい、私は首を振る。
 なんとも大仰な袈裟を羽織ったお坊様が経文を唱える中、私はハナエの悲しみについて考えていた。
「では、ご家族の方」
 葬儀社の人に促され、ハナエの祖母の顔を覗く。ハナエは首を振り、棺桶の中に写真を数枚入れた。恐らく、祖父のものだろう。そしてもう一枚は、自分のものだ。
「もういいの」
「ああ、散々泣いたから」
 火葬が済むまで待ち時間がある。
 私は控室に、ハナエは喫煙所へと別れる。控室といっても個別に用意されているものであり、親族がない密葬では私一人だ。
 つい最近もこうして、火葬を待つ時間があった。彼女は骨と皮ばかりで身体も小さかったので、やけに早く終わったと記憶している。
 どれだけの人生があろうと、終わってしまえば白い骨だ。残るものといえば、人の記憶のみである。
 人の価値がどこで決まるか、それはどれだけの人間に覚えていて貰っているかだろう。勿論絶対的な価値観ではないが、死してなお生きるという意味においては揺るぎないものである。
 語り尽くされた、書かれ尽くされた人の死についての哲学だが、やはり、どれだけ頭をこねくり回したところで、目の前に現れた現実は悉く過酷だ。
『……タツコちゃんとお話するようになってからかしら。カナメは、とても明るくなったのよ。なんだかそれがね、私には、死ぬ前に燃え上がる、蝋燭の灯のように観えたの。あの子、最期まで、貴女が健在か、馬鹿な事はしていないかと、心配していたわ』
『そう、ですか』
『あの子、貴女がとても好きだったのね。貴女も、うちの子が好きだった。変だなんて言わないわ。恋だもの。性別も年齢も関係ないの。互いに必要だと思えたのなら、きっとそれが最も、真実に近い想いなのだと思う。私は、生憎、得られなかったけれど』
『カナメちゃんを産んで、育てて、澪さんは後悔していますか』
『――少しだけね。もっと健康に産んであげられたなら良かった。申し訳無い気持ちで、一杯よ。でも、あの子、幸せそうだったから。ありがとう、タツコちゃん』
 私は感謝される謂われなどない。まさにエゴが調和した、みすぼらしい愛の形である。
 偶然によって齎されたものだ。図らず手に入れた関係だ。だが、そういったものに宿る感情こそが、計算尽くの打算的な関係以上の関係を作りあげるのかもしれない。
 理想が現実を超越した先にある未来は尊いが、理想が現実を駆逐してしまった場合は真っ当ではない。
 私は一歩踏みとどまった。駆逐される前に、現実を知ったのだ。
 彼女という存在は理想だが、その理想こそが私に惨い世界を齎し、そこで歩めとのたまっている。
 私は笑った。
「大武華江様……あら、ええと、御友人の」
 葬儀社の女性が頭を下げて入ってくる。大人一人の火葬だ、もっとかかる筈であるから、終わった訳でもあるまい。
「旗本です。何か」
「大変申し訳ございません。どうやら機械が不調らしく、少し時間がかかる様子でして……」
「……そうですか」
「ええと、その――」
「大武さんに伝えておきます」
「はい。申し訳ございませんが、お待ち頂くようお願いいたします」
 何ともお粗末な話だが、不調というならば仕方が無い。まさか遺体を『早く焼け』なんて冗談でも口に出来るものでもない。
 私は鞄を持ち、ハナエが向かった喫煙所に足を運ぶ。
 部屋には数人の男性がいるだけで、しかしハナエの姿が見当たらない。私は踵を返して、外へと出る。どうせ彼女の事だ、影でこっそり吸っているのだろう。
 建物の周囲をぐるぐると回ってみたが、ハナエの姿が見当たらなかった。
 御手洗いにでも消えたのかと疑っていると、裏手に小路があるのが解った。周囲は森林に囲まれているが、整備されているらしく歩くのに不自由はしない。
「ハナエー?」
 やがて建物の煙突が少し小さく見える距離まで来た。そこは少し開けた遊歩道のようになっており、先に小川が流れているのが見て取れる。
 ハナエはそこで蹲っていた。
「良い人って、恵まれず逝くよね」
「運命を決める神様とやらがいるなら、そいつは糞ったれだな」
 ハナエが立ち上がる。顔は真っ赤だった。折角の綺麗な顔は、涙に濡れ、化粧も滲み、酷い有様である。
「八つ当たり」
「アンタだってそうだろう。カナメの死の怒りを、有りもしないものにぶつけただろう」
「もう良いの」
「良い訳があるか」
「良い筈でしょう。だって貴女、カナメが邪魔だったでしょう」
 ハナエはそれを聞き、バツの悪そうな顔をして伏せた。
 解っていた事だ。
 ハナエにとってカナメは何でもない、私の知り合いでしかない。彼女がカナメに抱く感情なんてものはたかが知れるのだ。まして、自分の好きな女性の心を全部持って行った少女であるから、むしろ憎しみを持っていたとしても、私は驚かない。
「私は嬉しい。私から大切なヒトが減り、貴女から大切なヒトが減った。その分私は貴女に、貴女は私に想いを注ぎこめるでしょう」
「――本気で言ってるのか?」
「冗談で心打ち砕かれた人に暴言なんか吐かない」
「幾らアンタでも、怒るぞ」
「怒って良い。ぶっ飛ばしてくれて構わない。嘘は吐いていないから」
 彼女の手があがる。私は小さく眼を瞑った。
 しかしその手が振り下ろされる事はなかった。
「……そうだよ。私は、カナメが邪魔だった。死んでくれて助かったとすら思った。私は独占欲が強いから、アンタが他の奴に持って行かれる事なんて想像もしたくなかったね。でもそれがさ、まさか、何もかも持って行かれた後で、アンタはまんま抜け殻だったなんてな」
「お見舞いにいった時、カナメと何を話したの」
「ああ。『タツコは私が面倒をみるから、お前はさっさとおっ死ねクソガキ』って言ったんだ。そしたら、あのガキなんて言ったか解るか? 『邪魔をしたわ。もう直ぐだから、少し待っていてね』ってよ。はははっ、冗談じゃないっつの。なんだそれ。十歳の子供にさ、気遣われたんだぞ、私は!!」
「あの子らしい」
「窘められたんだよ。私は、あのガキよりも沢山持ってる。時間もお金も、余裕もだ。無知は罪で、無能は犯罪だって悟って、頑張って頑張って、幸せになりたくて。親も切り捨てて、婆ちゃんまで施設においてけぼりにして、自由を手に入れたんだ――それがどうだ? 私は好きな女の子一人満足させてやれずに気を揉んでいた。何故この子は私に振り向いてくれないのか。私の何処が不満なのか。蓋をあけてみたら、もうガキに全部持って行かれた後だったんだよ。胸糞悪いったら無いだろう? 私はさ、アンタが好きだったから、何でもしてやりたいと思って、尽くそうと思ってたのに、当の本人は私を見向きもしない。アンタの価値観は全部カナメが定めてた」
「酷い話があったものね。そんな話を聞いたら、私も暴言を吐きそう」
「ああそうだな。私はカナメを呪ったぞ。アイツの死を一日千秋の想いで待ち焦がれたんだ。冗談じゃない。アンタは私のだ。あんな、枯れ枝か干物みたいなガキにアンタをやれるか。で、死んでみたらどうだ? 相変わらずだよ。アンタは私を見てない。カップ二つ用意して、ぶつぶつとアイツと喋ってるんだ。死んだ筈のアイツとさ!! 怒り心頭だ。ふざけるんじゃねえぞ、馬鹿女、糞淫乱の雌豚め。小児性愛者の上に精神障害者か、救いようがねえぞクソムシ」
 私はただ、彼女から浴びせられる罵倒を甘んじて受け入れていた。彼女の言葉は尤もなのだ。何一つ批判出来ない。彼女にはそのように思われていて当然である。
 何も与える事なく、ただ奪い去って死んだ少女に怒りを覚え、恋した女は異常者だ。
 自分がどれだけ心血を注ごうと振り向いてすらくれないのである。
 そんなもの、誰だって怒り狂う。
 私が否定していたのならば、それは単なるハナエの粘着質だが、私はハナエの好意を受け入れていたのだ。
「……なんか反論しろよ。なんか反論してくれよ。これじゃあ、私が馬鹿みたいじゃないか……」
「いいの。知っているから。全部全部、知っていて、その罪悪も受け入れて、私は居るから」
「そうか。アンタ、そうだったな、糞ったれなんだった。ゴミクズで、心が弱くて、一人じゃ何にも出来ない社会不適合者で、支えられてなきゃ何時でも死んじまう、虚弱生物だった」
「うん」
「……頭に来て、腹が立って、心の中で恨み辛み呪詛怨嗟、カナメの奴にぶつけたよ。そしてアンタにもだ。でもさ、どんだけそう思っても、私はアンタが好きだった。アンタがカナメを見続けようとも、支えて行こうと思った。あのクソガキに、任されちまったしさ。そうだよ、アイツはたった十年しか生きられなかったんだ。クソ詰まらん人生で、頼る所はアンタだけだった。アンタに頼られる為に努力して生きて、満足に死んだんだ。私は、結局お人よしで、寂しがりの、馬鹿者なんだよ」
「ハナエ。私ね、貴女が好きよ」
 私は数度頷き、懐からハナエ宛に書かれた手紙を取り出す。
 書きだしを見て、ハナエがギョッと眼を剥いた。遺言は存在しない事になっていたからだ。
 何故ハナエがそこまで驚く必要があるのか、答えは明白である。
 ハナエは、あの少女が恐ろしかったのだ。
 努力して自由を手に入れたハナエを見下す、持たざる者である筈の少女が。
 少女の存在が、自分を否定してしまうのではないかという恐怖が、ありありと感じられる。
 しかし私は首を振った。
 ハナエはしぶしぶ手紙を受け取ると、それに目を走らせる。
 ――そして手紙を握り締め、歯を食いしばった。
「何もかも、カナメ様はお見通しってか。嫌になっちまうな」
「本当にね。私も、嫌になっちゃう」
「――人間って何なんだ。幸せってどこにあるんだ。私達は、どこに行けば良い」
「全部、ここにあるよ。見ないふりをしているだけ」
「アンタには、見えたか?」
「うん。少しだけね。本当に、少しだけ」
 ハナエを抱きしめる。彼女は泣いていた。
 自身の人生に、自身の家族に、祖父の死に、祖母の死に、ままならない現実に、恨みをぶつけ、憎み、しかし追い求めてしまう幸福という虚妄に踊らされ続けている事実にだ。
「私――私は、ほんの少しだけ、幸せであれば良かったんだ。家族が居て、楽しい時に笑えて、悲しい時に涙出来て、いろんな事があっても、乗り越えて行ける、そんな当たり前の幸せが欲しかったんだ――こんな筈じゃなかったんだ。アンタを罵るつもりも、アイツを憎むつもりも、そんなの、違うって解っていても、私は――私は――」
「ハナエ」
「タツコ、ごめん、違うんだ、私――お願いだから、嫌いにならないで――」
「大丈夫。大丈夫だよ、ハナエ。私、ここにいるよ。いつも有難う。こうして居られるのも、全部貴女のお陰だよ。こんな最悪な私でも、愛してくれる貴女が大好き」
「タツコ――?」
 本心から、そう思えたのだ。
 この虚しい人と乗り越えられる未来が、今初めて見えていた。
 このヒトは馬鹿だ。
 馬鹿で寂しがり屋で、どうしようもない。私と同じ、身体だけ大きくなった子供だ。
 こんな彼女を理解してあげられるのは、祖母亡き今、私だけなのである。
 そしてこんな私を心から理解し、互いに歩んでくれる人は、このヒトだけなのだ。
 愛には責任が伴う。
 愛と表現すべきか否か、怪しいものまでひっくるめて、肯定しなければいけない場合すらある。それだけ、人間と人間を真に繋ぐものは、重たく、辛く、悲しく、虚しく、耐えがたいものなのである。
 私は、それを嫌ったのだ。
 そんなものは背負えないと思っていたからこそ、何も信じてあげられなかったのだろう。
 だが、このヒトは一緒に悩んでくれる。一緒に背負ってくれる。
 何もかも、カナメが身をもって、死をもって、教えてくれた事だ。
「大丈夫。私も支えてあげる。ハナエ、私と一緒にいて。私と苦労して、私と悲しい目にあって、私と辛い気持ちになって、悩んで、抗って」
「でも、アンタはカナメが……」
「信心は、胸の奥にある。でも、貴女はここに居るもの。私をこんなにも好いてくれる貴女が。私を光と仰いでくれる貴女が居るもの。見てあげられなくてごめんなさい。でもこれからは、違うから」
「信じると思うか、今更。異常者のアンタの言葉。そんなの、酷い話だ、酷い女だ、アンタは……」
「ごめんね、でも、お願い。私と一緒に、幸せになって――愛してるの。貴女を」
 それが嬉しかったのか、悲しかったのか、ハナエは泣き崩れてしまった。私は一まわり大きな彼女の身体をしっかりと受け止める。
 これで良かったのだと思う。これしかなかったのだと思う。
 今はただ、目の前の手に触れられる現実だけを見ていなければいけない。
 それが責任だ。
「頼りないかもしれないけれど。貴女が私を必要としてくれるのならば」
「本当に? 独りにしないでくれるか? 私を、私を見てくれるのか?」
「うん」
 私達は人間だ。あまりにも弱く出来ている。しかしその弱くどうしようもないその気持ちを慰めるものが、家族を含めた他人なるものだ。
 知性と社会性故に地球を支配した種族は、知性と社会性故にその心を滅ぼす事がある。殊更酷かったのが私達だ。
 他の人達よりも、少しおかしくて、少し壊れて産まれ育ってしまった。
 ヒト以上に業を背負い、ヒト以上に悲しみを背負い、ヒト以上にヒトを恋しがる。正しくどうしようもない、人類の廃棄物である。
 しかしそれでも、私達は人間になりたかった。人間でありたかった。どれだけ世の中を疎ましく思おうとも、それは単なる嫉妬でしかない。どうにかして認められて、生きて行きたいからこそ抱く感情だ。

『華江へ ただ一度だけ顔を合わせた貴女へこんなものを書くのは間違っているでしょうが、生憎書かざるを得ない程、貴女と私と、そして私達が愛してやまない彼女は、似通っていました。恐らく貴女も彼女に光を見たのでしょう。薄暗い檻の中に閉じこもった、小さく愚かで間抜けで馬鹿な彼女に、希望を見てしまった事でしょう』

『同族故に私は貴女を嫌悪し、憎悪し、そして同時に、どうしようもない程の同情と、羨ましさを感じています。貴女は私を嫌ってください。私も貴女を嫌います。そしてだからこそ、私を神と、女王と仰いだ馬鹿者に、苦言を呈し、問題を提訴し、彼女に現実を見せてあげる事が出来ると思います』

『貴女は私よりも沢山のものを持っている。何も持たない私ですが、けれど私はただ唯一、欲しかったものを手にする事が出来ました。そして自己満足にも死に逝くのです。羨ましいでしょう。そして私も貴女が羨ましい。貴女には私が出来なかった事が、これから出来る』

『愛しい人と、悩み、悶え、苦しみ、嘆き、笑い、悦び、生きて行く事が出来る』

『タツコをお願いします。羨ましい貴女』

「行こうタツコ。歩こう。私達は生きてるから」
 遠くの煙突から死出の煙が上がる。火葬が始まったのだろう。
 否応なしに襲いかかる絶望を回避し、幸福である事の嫌悪を乗り越え、いつか本当に心の底から笑う為に。
「うん」
 私は小さく頷いて、ハナエの手をとった。



 了

2 件のコメント:

  1. 私、この小説すきです。何度も泣いちゃいました。応援してます!

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  2. >>匿名氏
    コメントありがとうございます。なかなか更新出来ていませんが、がんばります。

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