2013年12月8日日曜日

私の幼い女王様 2、信心


 
 2、信心

 
「……本当に良いんですか?」
「が、頑張ります」
「でもその、無理はしないように」
「いってきます。一時間で帰らなかったら、救援を願います」
「ええ。いってらっしゃい」
 お化粧に、帽子、サングラス、厚手の服に、腕には長い手袋。脚は見えないようにニーハイソックスを穿いている。逆に怪しい人に見えなくもないが、観られていると感じられるよりは余程ましだろうという結論に達した為、このような格好をしている。
 私はこれから近場のスーパーに夕食の買い出しに向かうのだ。
 一週間ほど前、玄関を出ただけで吐いたのは記憶に新しいが、私は私が思っている以上に、あの日の決意が固い様子だった。
 まずは散歩やら、夜間に人目がない所から、などという逃げの意見が頭の中を廻ったのは当然なのだが、昨日の事、それについて友人に相談したところ、笑われてしまった。

 hanana:夜間徘徊www老人かwww老人かwww
 ryu:貴女に相談した私が馬鹿だった。
 hanana:引きこもり仲間減るの辛いわー。辛いわー。んでもさぁ、折角やるならもう少し踏み出した方がいいんじゃねーのって思うんだけど。
 ryu:やっぱりそうかな。具体的にはどういう。
 hanana:買い物じゃね。食品買い出し。適切な距離に人間がいて、大した会話も要らないぜえ。
 ryu:その発想はあった。が、怖い怖い
 hanana:じゃあ引きこもろう。
 ryu:それもヤなのでその提案で行こうと思う。
 hanana:買い物とか超こえええ。まあそれ出来たら繰り返してみりゃいいじゃん。愛しい人とは逢えたんでしょ。なら余裕よ余裕。
 ryu:い、愛しい人とか。違うし。いや、違わないけど。いや、その
 hanana:はいはいごちそうさま。人の幸せが憎いったらないわ。人の幸福で今日も飯が不味い。
 ryu:ハナナも外出たら?
 hanana:ご勘弁をwwww拙者真性で御座るからwwwあ、サングラスと帽子とか被ればいいよ。
 ryu:なんだかんだ、助言はくれるんだね。ありがとう。
 hanana:よ、よせよ

 とまあ、このようなやり取りがあった。
 彼女は馬鹿にしているようで、思いの外身になる助言をくれる。真性の引きこもりになる前はギリギリの状態で外に出ていたらしいので、その経験を元に、多少の同情があるのかもしれない。
(よし。出る。私外出る。これから出る。直ぐ出る。やれ出る。出る時出て出た出るのです……)
 一重に精神疾患と言っても、傾向が似ているからそのように個別の病名を診断されるだけであって、個々人が症例の全てに当てはまる訳でもないという話も彼女から聞いた。
 原因となる病原体が一定の害を齎しているものとは異なる為だという。
 そもそも私は病院に行っていないし、自分がどのような精神の病に分類されるかなど知る由も無い。
 その人物がどのような経緯で人の視線を恐怖したり、その人物がどのような経験をして人を怖れたりするのか、医者がそこまではっきり解る筈がなく、本人とて曖昧な場合がある。
 更に言えば、自分が深刻な病を抱えていると思い込んでいるだけで、本当はもっと軽微なものなのかもしれない。
 私などそれに当てはまった可能性がある。
 私は診断などしていないし、ハナから外に出る事は諦めていた。故に自分がどの程度人の視線を恐ろしく感じ、男性に恐怖を抱いているかなど、改めて度合いの再確認などしていなかった。
 そうそう。そうだ。そうに違いない。
 私はもしかしたら本当は全然怖くないのかもしれない。
 脳の皺の薄い私が、ありったけ自身を説得する理論武装を固めてから、ドアノブを握り締めて、外へと出る。
(そんな訳ないでしょう……)
 気持ち悪い。私は込み上げて来るものを呑みこむ。
「タツコさん、無理は……」
「す、すごい大丈夫です。行きます」
 心配する母に見送られながら後ろ手でドアを閉める。
 今日は曇り、頭に来るような日光はなりを顰めている。一歩一歩進みながら、いつ他の部屋のドアが開かれるかと怯えながら、漸くエレベーターにまで辿り着く。
 下ボタンを押して二分。
 ここで問題が発生した。中に人がいる。
 この私が、エレベーターで、他人様と二人など、耐えられるだろうか。いや、きっと無理だ。
 ドアが開く。中から中年のオバサマが出て来る。
 私は――小さく会釈をして横に逸れてから、一目散にエレベーターへと乗り込んだ。
(ぶはっ。そうか、降りたんだ。良かった。うん)
 乗り合わせるような悲劇は起こらなかった。これは幸いである。
 ここは六階であるからして、流石にモヤシの私に階段の上り下りは酷だ。
 問題なくエレベーターは一階に辿り着いた。私は秘密兵器を取り出し、それを小さく掲げる。
(あ……本当に幾分か楽かもしれない)
 hananaの助言は見事に功を奏している。陽は無いが日傘。これだ。
 私はとても肌が弱い人という設定上にあるので、不意に誰かに突っ込まれても安心だ。彼女の謎の気づかいが実に有難い。
 マンションの前で暫く立ちすくみ、鼓動と呼吸を整える。
 近くでは小学生の男の子があちこちと走りまわっており、マンション敷地の出口付近ではオバサマが二人、話し込んでいる様子だった。長い間ここに立っているのは得策ではないとして、私は歩みを進める。
 日傘で顔を隠しながら、呼吸が荒れない程度の速足だ。
「あらこんにちは」
 そしてここでも問題が起こる。まさかの挨拶である。
 マンション内での近所付き合いを大切にしているらしく、母も良くマンションの会合には参加している。そして何より、挨拶というのは防犯の意味もあるのだ。知らない人物を発見し、即座に回覧して子供たちの安全を守ろうという、殊勝な心がけであるが、私からしたら厄介極まりない。
 無視。
 これは選択肢として有り得ない。リハビリにならないし、不審者扱いは面倒だ。
 笑顔で挨拶。
 これもない。二年半前の私とは違い、そんな愛想を振り撒けるような性格にない。
「こ、こんにちは……」
 結局、日傘で顔を隠し、聞こえるか聞こえないか程度の挨拶、が妥当だ。
「えっと」
 疑われた。こんな恰好では仕方があるまい。
「あ、は、旗本の」
「あ、旗本さん所の娘さん」
「す、すみ、すみません。肌が、よわ、弱いもので……」
「あらそーなのねえ。大変ねえ若いのに。お買いもの?」
「きょ、今日は……陽が、出ていないので」
「雨降るらしいから、気を付けてね」
「あ、ありがと、ございます。で、では」
 小さく頭を下げ、そそくさと退散する。
 怪しい人物と疑われたかもしれないが、旗本の娘である事は間違いないので、後で母に話をあわせるよう説明するべきだろう。
 道路側に出て、壁に背を寄せ、溜息を一つ吐く。
 だいぶドモってしまったものの、必要最低限の会話は出来た筈だ。
 進歩どころの話ではない。クラゲが脊椎動物に進化するくらいの過程を経たのである。
 hananaには『心因性のドモリは出るかも。まあ会話繰り返して精神的に安定したら減るんじゃね』などと軽く言われた。なんだか、何でもかんでも彼女に見透かされているようで多少気持ち悪いが、経験者曰く、と付けると含蓄がある。
 気を取り直し、近所のスーパーへと足を進める。
 流石に突然声をかけて来るような人間が跋扈している界隈ではないので、密閉空間でいつ他人様とエンカウントするか解らないマンション内よりも気楽だった。
 外界の方が個人は孤独とは、良く言ったものである。今の私には有難い。
(あー……小さく息を吸ってー……吐いてー……)
 人とすれ違う度に心臓が強く血液を押し出す為、呼吸も乱れやすくなる。信号など特に恐ろしい。こんなところで立ち往生してしまった場合どれだけ注目されるのかと考えるとまた気持ち悪くなるので、小走りで抜ける。
(早く冬にならないかな)
 冬になれば、思い切り厚着出来る。気休めではあるものの、今よりも精神的に楽になるだろう。
 そうだ、気休めでも良い。外に出る事を意識出来ている時点で、私は進歩を獲得しているのだ。
 様々と想いを巡らせながら歩いて六分ほどだろうか。目的のスーパーが観えて来る。
 スーパー八百一はここが高級住宅街に開発される前からある八百屋で、再開発の波に乗って高級志向のスーパーへと経営転換した、この地区でも名のある小売店である。
 他のスーパーとラインナップは変わらないが、そのどれもがワンランク高く、値段も高い。
 例えば水。
 天然水など二百円も出せばボトルで買える筈だが、ここに置いているものは八百円もする。
 肉は全部国産であるし、野菜も特約農家、乾物などは皇室御用達なんてものも並んでいる。
 イマドキそんな経営でやっていけるのかとも思うのだが、物事なんでもニーズは存在しているらしく、高いものから売り切れるのが常であるらしい。
 うちと言えば、ずっとこの地区で暮らしている為、ここが御用達だ。
 一流企業の部長様であり、祖父も会社会長である父などは、元から安いものは口にしないので、母も昔はその価値観の違いに頭を悩ませたという。
 母とて父と似たような境遇だが、母方はだいぶ倹約的な発想のようだ。
 私も私で母の作るもので育った為、舌が肥えていけない。
 ファストフードだって食べるが、美味しい美味しいとがっついた記憶は無いに等しい。過食していた頃は買い物の殆どが食べ物であったが、その時口にしていたものも、大体ランクが一つ二つ高いお店のテイクアウトである。
 過食期はこのスーパーにもだいぶ御世話になった。ここで売られている出来あいの幕の内弁当(三千五百円)は、いつも夜食のお供だった事を思い出す。
(思い出すだけでも吐きそう)
 食べては吐き、食べては吐き、さて何度繰り返した事か。贅沢な身の上である。
(さて……)
 私は意を決してスーパーの敷地内に入る。
 まだ買い出しの時間には早い為、人はまばらだ。国産品の良いものを野獣の如く求めて走る奥様方の群れに突撃する勇気などないので、都合が良い。
 日傘をたたみ、帽子を眼深に被って入口をくぐり、籠を抱える。
 ポケットからメモを取り出して買い物の内容を確認する。
 生姜焼き用厚切り豚肉二パック、煮物用牛肉二パック、合挽肉二パック。
 生姜一つ、韮二束、大根一本、人参一袋、ほうれん草一束、モロヘイヤ一束。
 梅干し一パック、エクストラバージンオリーブオイル一瓶、オイルサーディン二缶。
 恐らく家にないものだけを買い足す目的の買い物なのだろう。しかしながら、モヤシの私にはいささか重い荷物のような気がしてならない。
 だが、最後に付け加えられた一行で納得した。
(名前を出せば届けて貰えます)
 なるほど、宅配してくれるらしい。
 が、つまりそれは会話が一つ増えると言う事である。母は酷い人だ。
 とはいえ、七難八苦与えたまへとのたまったばかりであるからして、このぐらいこなせねば未来がない。
 私は買い物台車を引っ張って来て、籠を乗せる。ガシャンと物音がたち、私一人で驚いて辺りを見回す。誰も気にしていない事を確認してから、買い物を始める。
 何にしても、注目されるのだけは勘弁願いたい。
 ストレスがかかりすぎて店内で嘔吐ぶちまけなんて真似をしたら、私はその場で自殺しかねないので、意地でも堪える必要がある。
 警戒しながら野菜コーナーに周り、韮と大根とニンジン、ほうれん草とモロヘイヤを確保する。辺りに気を配りながら買い物をしなければならない私は、動作一つ一つが心労だ。もしぶつかりなぞしたら、パニックを起こしそうである。
 順調に見えた買い物だがしかし、生姜、生姜はどこだろうか。
 パックか袋に入っていたと記憶するが、冷蔵根モノの棚に見当たらない。では豆苗やサヤエンドウ、ミョウガや大葉などの薬味が並んでいる所だろうか。しかし見当たらない。
 近くにバイトらしき店員がいる。
 声をかけろと。
 私から。
 無理な相談だ。女性ならまだしも、男性である。
 視線を巡らし、あちこちと探しまわるも、見当たらない。
「何かお探しですか?」
「ひゃいッ」
 冷蔵棚の前で留まっていると、店員に声をかけられた。私は跳ねあがるようにして振り向いて後ろに下がる。
「ああああああ……ッ」
「大丈夫ですか?」
「あの。あ、しょ、生姜は」
「棚ー……にありませんね。バックヤードを確認しますので、少々お待ち下さい」
 店員が頭を下げて去るのと同時に、私は壁によって身を預ける。
 不意打ちはいけない。覚悟して話しても引けてしまうのに、唐突に声をかけるのは反則である。
 父以外の男性の顔をまともに見るのも久々だ。
 呼吸を整えながら、辺りに気を配る。変な目で此方を見ている人はいない。
 それもそうだ、店員と会話したぐらいで気にする人間などいる訳がない。
 鏡を取り出し、自身の顔を確かめる。
 大丈夫、身が細すぎるなんて誰も思わない。顔だって変じゃない。大丈夫だ。
「お待たせしました。午後の品だし前だったようで。此方で宜しいですか」
 私はコクコクと頷き、それを受け取るでなく、籠を指差す。彼はそれを察して籠に生姜を入れてくれた。
「では、ごゆっくりお買いものください」
 頷く。彼はまた仕事に戻って行った。流石に高級スーパーなだけあって、バイトも丁寧だ。
 私は気を取り直して、買い物を続ける。
 精肉コーナーは問題なく、全て揃っていた。
 加工品コーナーで塩分高めの梅干しを獲得してから、調味料棚でオリーブオイルを、缶詰め棚でオイルサーディンを見つけ、一応の目的を達成する。
(……これは)
 レジに向かう通路の途中、お菓子棚が目に入った。過食期に大量に買い込んだ記憶がある。
 お菓子に関しては『甘くてカロリーが高い』というだけを理由に買ったので、味は気にしなかった。
 何となしに、その頃常食していた袋入りのチョコを手に取る。
 瞬間嫌な感覚が過る。
 そのビニール袋を握った感触、ガサガサという音、同時に味と匂いが想起され、私は口元を押さえる。
(これ駄目な奴だ……ッ)
 何か、何か吐けるものは無いか。
 いや、そもそもこんなところでぶちまけてしまったら、私はどうにかなってしまうのではないか。
 酸っぱい水が込み上げて来る。何か頭もぐらぐらと揺らぎ始め、床に蹲る。
 私の心的外傷、とまでは言わないまでも、嫌な思い出を想起するトリガーはハッキリしていない。そもそも思い出すようなものには近づかない環境にあった所為で、自身の弱点がまるで解らないのだ。
 過食期は、弁当を食べて、砂糖を沢山いれた紅茶をがぶ飲みして、寝ながらこのチョコを口に放り込むような生活をしていた。大体、これを食べた後は、夜中に起きあがって嘔吐していたのである。
 迂闊。
 だが、どうする。
 今更後悔していられない。
 思考がぐるぐると頭の中を回る。
 まさか商品の袋に吐けない。
 精肉パックを別個にする為の薄いビニール袋……は、私は生憎つけなかった。
「ちょい、だいじょぶ?」
 そして、このタイミングで人に話しかけられる。顔を覆う為にしていたサングラスがポロリと落ちて、顔が晒されてしまう。私はよっぽど酷い顔をしていたのか、私を観た女性は一瞬顔をひきつらせる。
「あ、ゲロか、こりゃ大変だ。えーと……あ、これ、エコバッグ」
 私は猛烈に首を振る。人様のエコバッグにぶちまけられない。
「いいから、安ものだから。でも耐水だから、多少なら大丈夫。ほら。端に寄って」
 私は彼女に促され、柱の影に寄ってしゃがみ込み、ペコペコと頭を下げながらエコバッグを拝借する。
 彼女は私を隠すように立ってくれている。なんて優しい人か。
「ぅぉげ」
 ――非常に醜く汚い音が周囲に響く。死にたい。死にたい度が最高潮だ。
「一先ずー……荷物預けるか。店員さん、これ買い物中だから端寄せててー」
「え、あ、はい。あの、どうかされましたか?」
「女の子のデリケートなもんだよ察してくれ。御手洗い何処」
「あ、左様ですか。この通路の右手奥で御座います」
「あんがと」
 女性に肩を抱かれたまま、私は御手洗いに退散する。
 何度も何度も頭を下げながら、個室に引きこもってそれから二度ほど戻す。
「うぅぅぅ……ッ」
 洗面台の前に立っていると、己の情けなさが悔しくて涙が出る。まさかチョコの袋掴んだだけでこうなるとは、流石に回避不能のアクシデントだ。
 外に出ている間、これから特に食に関するものについて、気をつけねばならないものが沢山出て来るだろう。常に何かに気を使い続ける生活は、考えるだけで憂鬱だ。
 薄暗い気持ちがドンドンと私の心を侵食し始める。
 私は頭を振り、ポケットから手帳を取り出して眺める。
(大丈夫、大丈夫……大丈夫です、カナメ様。タツコは大丈夫です……)
 カナメからもらった写真だ。この子の笑顔を見ていると、嫌な気分が散る。
 そうだ。私は彼女を支えに生きている。これから彼女の為に生きるのだ。これぐらいで躓いては居られない。
 口を濯ぎ、口元のメイクを直す。サングラスは……先ほど落としただろうか。仕方がない。
 御手洗いから出ると、丁度アレ塗れのエコバッグをゴミ箱に突っ込む彼女の姿が観えた。私が近づくと振り返り、暗さ一つない顔でケロリとしている。
「いや、大変だね。ツワリ? それとも風邪気味とか。あるよねー。なんか匂い嗅いじゃってオエーってなる奴。私中学んときさー、風邪気味なのに学校行って教室でぶちまけてさー。以降渾名がゲロ江なんだよね。あ、大丈夫、男子は全員ぶん殴ったから。あはは」
「……弁償します」
「良いって。気にしないでよ」
 何とも、豪胆な人だ。
 ポニーテールにまとめた茶髪、シャツに短い皮のジャケットを羽織っており、下は細身のジーパンだ。観るからに生きている世界が違う感じのする、活発な女性である。
 健康的な体躯である。実に羨ましい。
「でも」
「いいって。あ、そうだそうだ、代わりといっちゃなんだけど、道教えてくんない?」
「……どこでしょう」
「工藤不動産って知らない? 実はこっち越して来たんだけど、ネットで決めちゃってさ。現地がどこかわっかんないんだよねー」
「……携帯電話で、地図とか」
「地図読むの超下手なんだなっコレが」
 カラカラと笑う女性を前に、私は躊躇っていた。
 さてどうしたものか。
 工藤不動産ならば、記憶にある場所だ。ここから道案内してくれというのならば出来なくもないが、現在ミッションの遂行中である。一時間経って戻らねば母がやってくる。
 そもそも、悪い人には観えないものの、ついていって何かしらに巻き込まれたら怖い。
 が、恩義もある。彼女がいなかったとしたら、私は一体どれだけの醜態をさらしただろうか。
「お買いもの、済ませてからでも、良いでしょうか」
「勿論! いや助かる助かるー。あ、お名前聴いておこうかな。私は大武華江」
「旗本竜子です。その、もう良いですか。あの、会話するの、苦手で」
「あら、そうなの。可愛いのにコミュニケーション取れないと大変だな」
「かわ」
「あン?」
「――いえ。あの、少々お待ちください」
「あいよー。あ、これサングラス」
「どうも」
 買い物台車を置いて来た場所に戻り、回収してからそそくさと会計を済ませる。
 あんな事があった後、レジの店員が若い女性であった事、うちの母を良く知っていた事で、実にスムーズに配達手配も終えた。
 嘔吐危機に比べれば、女性との会話など辛いうちに入らないのだなと、嫌な形で認識が改まる。
 外に出てみると、華江は喫煙場所で携帯を弄っているのが見て取れた。私が近づくと、彼女が笑顔で私を出迎える。
「おつかれさん。車で来てるんだけど良いかな」
「あの、少し。待って下さい。母に、電話、しないと」
「そっか。ここそういう所だったなー。あ、悪いね、成り金みたいなもんでさ、あぶく銭でここに家買ったのよ。あぶくっつっても相当でかいあぶくなんだけど。あ、じゃあ携帯どうぞー」
「済みません」
 華江に携帯を借り、家に電話する。数コール後母が出る。
『はい、旗本でございます』
「お母様ですか。タツコです」
『あら……携帯電話から……?』
「はい。その、道案内を頼まれまして。買い物は終えましたので、大丈夫です。一時間過ぎるかと思いましたので、電話しました」
『道案内……あの、大丈夫ですか?』
 華江に目を向ける。彼女はすぐ察したのか、携帯を受け取って調子の良い声で話し始める。
「あ、こりゃどうもお母様。実はですね、縁あってお知り合いになりまして。近所の不動産まで案内してもらう事になりましてね。あ、怪しいものじゃありませんよ。じゃあ携帯番号と、ええ、名前と、住所……はいはい。大武華江です。あ、タツコちゃん。御母さん相当心配してるし、車のナンバー控えて教えてあげて?」
 そのように言われ、指されれた車の番号を控える。母は私が外で人と話す事自体を疑っていた様子だ。当然といえば当然である。
「お母様。間違いありません。はい」
『えーと。晩御飯は、要りますか?』
「えっと。道案内を終えたら、直ぐ帰りますので」
『解りました。気を付けてくださいね』
 私は電話を切り、大きく溜息を吐く。まさしく初めて外に出た小学生が如き扱いである。まったくもって不甲斐ない。どこの世界に二十歳で外出許可を取る大人がいるのか。いるか。ここに。
「なんか、ずいぶん特殊だねえ」
「心配かけて、育ちましたので」
「お嬢様だったなあ。ま、いいか。取り敢えず道案内お願いねー」
「はい」
 華江に促され、早速車に乗り込む。
 私は車に詳しくないが、これが相当高級なセダン車である事ぐらいは直ぐに解った。国産車であるが、確かスポーツカーコンセプトで、小首を傾げるような値段だった筈だ。
 二十代前半に見えるこのヒトが乗るには、いささか似つかわしくない。しかもこの住宅街に住むとなると、借家とはいえ結構なお値段になってしまう。それを下調べせずネットで決めるというのだから、その適当さ加減が彼女の資産の怪しげな額を提示する。
「マンションですか」
「そうそうマンション。安かったから、倉庫含め二部屋買ったの」
「……」
 賃貸ではないらしい。私は頭を押さえる。この辺りのマンション一部屋、安くても三千万くらいだ。
「取り敢えず予約だけして、これから不動産とお話なのよさ。まあ間違いなく買うから良いんだけど」
「資産家なんですね」
「人生数周遊び倒すぐらいにはねえ」
「次右です」
「あいあいさ」
 彼女はずいぶんと楽しそうだ。私より少し上程度で、これほどまでに人間には格差があるのかと思い知らされる。彼女はきっと悩みの一つも無いだろう。
 汚い話だが、世の中の悩みは大体お金で解決してしまう。お金で乗り越えられないものといえば、不治の病か人の死ぐらいだろう。
 私はこのコンプレックスがあるけれど、それだけお金が有り余っていたら、悩むのも馬鹿らしくなるかもしれない。
「次左です」
「あいよ……ところでタツコちゃん」
「はい」
「実は、この辺りに知人の家があるって聞いてるんだよね。確か歳が近くてさ、もしかしたら知り合いかもって思ったんだけど」
 昔の事は思い出したくないので、振られて困る話題のナンバーワンと言える。
 中学ぐらいまでならまだしも、高校ともなると確かに近所だが、当時から引きこもっていた私が彼等彼女等の中でなんと噂されていたかなんて考えると、身の毛もよだつ。
 当然記憶の片隅程度にしか私の印象など無いだろうが。
「私、二十歳ですけど」
「そうなの? 私二十三だけど」
「――凄く大人に見えます」
「老けてるって事?」
「い、いえ。なんだか、人生の差を感じるというか」
「だはは。まあ言われる。おとなしい格好苦手でさ。見た目もハスッぽくしちゃうんだよねえ。あ、元ヤンとかじゃないぞ?」
「それで、その人は」
「ああ。何でも重度の引きこもりらしくて。ここ最近はリハビリにいそしんでるらしいね」
 私は――ちらりと彼女に視線を向ける。
 何か横隔膜辺りから持ちあがってくるような、嫌な感じを覚える。
 ネットの知り合いか。
 しかしながら、常に会話している子といえば、数人しかいない。
 一番親しい彼女は真性の引きこもりで、外など出る訳がない。
「ええと――その――」
「そうそう。日傘と帽子被って、サングラスでもかけてみれば出歩けるんじゃないかって、助言したっけねえ。まさか馬鹿正直にそんな格好するとは。一発で解った」
「うっ……」
 彼女も此方に視線を向け、ニンマリと笑う。私はまるで、狐につままれたかのような気分だ。
 ああ――目に見えない人間を信用してはいけないのだ。嘘なんて幾らでも吐ける。
「は、ハナナ」
「おいす、リュウちゃん。んふふふふっ」
 車がコンビニの駐車場で止まる。私の思考回路も止まりそうだった。
 彼女が此方に顔を近づけ、まるで舐めまわすように観る。私は自身の身体を両手で抱きしめて、顔を逸らす。
 直接的に自分の住所を告げた覚えはないものの、どのあたりに住んでいるかという話はした記憶がある。まさかそれだけで目星をつけた訳ではあるまいが、過去のチャットログから幾つか推測出来る点を拾い上げて、ここを特定したのだろうか。
「うーん……出来が良いなあ……」
 私の知るhananaという人物は、良く言えばマメ、悪く言えばおせっかいでシツコイ。
 彼女に目を付けられた人物が、悉くチャットを去って行ったのは、あらゆる方面から嫌がらせを受けた所為ではないか、というのが私の推論だ。
 良く話せば実に友好的で、あらゆる情報を提供してくれるのだが……。
「そ、そんな見ないで」
 私はどこで間違えただろうか。まさか、相手の車の中でオフ会をやるハメになるとは考えなかった。
「想像と違ったな。もう少しネガで、いまいちパッとしない子かと思ったんだけど」
「ひ、引きこもりじゃなかったの……?」
「ぶはっ。ネットの人間の話を真に受けちゃだめだよ。まあ確かに引きこもり気味かもしんないけどね。働く必要ないし。ああでも、運が良いってのは本当だよ」
「どういう……」
「生きる為に大博打に出たら大当たりしたの。ああ、でも、リュウちゃんに話した私の境遇、あれは嘘じゃない。以前はそうだった」
 彼女は嬉しそうだ。何がそんなに嬉しいのだろうか。まさか、私を笑いに来た訳ではあるまい。
「い、一体、何が目的」
「支援に来たの。私はリュウちゃんに恩義があるから」
 そんな。まるでMMORPGのボス戦で苦戦している所に駆け付けた増援でもあるまいに。
 確かに、彼女とネットゲームなどしていると、良く助けられる。アイテムにもレベル上げにも苦労した記憶はない。しかし、これは現実だ。現実で、わざわざこんなところまでやってきたのか。しかも、拠点まで構えて?
 そんな人間いてたまるか。私はいぶかしむようにして彼女を睨む。
「あ、ちょ。そんな顔しないで。怪しい奴じゃ御座いませんって」
「ハナナ、貴女、少し怖い」
「良く言われる。でも本当なんだよ。いやその、目星つけてストーカーしたのは本当だけど……」
「ぐ、偶然じゃないの」
「そんな偶然が起こる程、日本は狭くない。チャットのログ一年分からリュウちゃんの実家特定して、んで昨日のチャットでほら、外出るって言ってたから、張ってたの。直ぐわかった……ああ、そんな顔しないでよ」
「す、ストーカー」
「ま、まあまあ落ち着いて。とって食おうなんて訳じゃないんだ。私は恩を返しに来たの」
「そんな、恩なんて売りつけた覚え、ないけれど」
「聞いて、リュウちゃん」
 そういって、彼女は私の手を握り締める。非常に恐ろしいのだが、私の非力な腕ではどうする事も出来ない。暫くもがいていると、彼女が泣いているのが解った。
 どういう事か。
「……私、あんまり性格良くないから。ワガママだし。友達も少ないし。ネットですら嫌われる始末だし。でも、リュウちゃんは邪険に扱わなかっただろう? リュウちゃんと話すのばっかりが楽しみだったんだよ」
「だから、引きこもってようなんて」
「それはそれで寂しいけど。でも、外に出れるようなったら、私と会える機会が出来るじゃん。リュウちゃん辛そうだったし。あの、無茶苦茶かもしんないけど、社会復帰手伝えるなら、手伝おうと思ったんだよ」
「そんな事までしなくても。ネットで会話したぐらいで、そこまで恩義感じる必要なんてないのに」
「ずっと薄暗い環境に暮らしてたんだ。リュウちゃんだけが頼りだったんだ。今こうしているのも、リュウちゃんのお陰なんだって。あ、き、気持ち悪いか、ご、ごめん」
 彼女の言う事は、あまり論理的ではない。
 あらゆる物事が、私という人間に無理矢理結び付けられているだけであって、私が彼女の幸福に寄与した覚えはなく、事実も無い。
 ただ、考えるに。それは、私のカナメに対する感情に似たものがあるのかもしれない。
 カナメは何もしていない。そこに居てくれただけだ。そのカナメを神の如く敬って憚らない私は、今のハナナに似ている。理由づけは何でもいいのだ。自身を保つに必要であったと、そう判断する気持ちのみである。
「め、迷惑……かなあ……」
「い、いや、その……驚きの方が大きくて。手を離して」
「あ、ご、ごめん」
「印象、違うね。もっとこう、酷い感じかと思った」
「そう? どんな感じに見える?」
「怖い人」
「……」
「連絡するなり、他の手段があったでしょうに」
「私と逢ってくれなんて話、リュウちゃんが受ける?」
「受けない」
「だよねえ。ま、ほら。その、便利屋かなんかだと思ってよ」
「便利屋?」
「そうそう。多分、外に出るにしても、何かしら困る事があるだろう。お金かかる事も、人数合わせも、一人で入れない所行く時も、何にでも使えるよ?」
「そんな、モノじゃあるまいに」
「それでいいんだって。リュウちゃんの社会復帰手伝わせて」
 私は……彼女にハンカチを差し出す。ハナナはそれを受け取ると、なんだか子供のように嬉しそうに笑って、目元を拭う。
 彼女は、自身の境遇を嘘ではないと言った。
 つまるところ、その出来あがった資金でもって、自身を取り巻く不幸を全て払いのけたのだろう。それもここ最近の出来事のように思える。彼女はそんな素振りを一切見せず、私と話していた訳だ。
 その中で、彼女は私との会話を、とても強く重視していたのだろう。ベランダでカナメと会話する私と同じように。隔てるモノは壁か電話線かの違いである。
 だからもしかすると、今のハナナは、初めてカナメと出会った私と、同等の感情を抱いているのかもしれない。確かに、それならば、突然泣きだしてしまうのも、頷けた。
 私も本当につい最近、そのようなものを味わったばかりだ。
「便利屋とか、そういうのは、良い。でも、お友達なら都合が良いかもね」
「じゃ、じゃあ。直接逢って話したり、なんか、どこか、どこでもいいや、出掛けたりしても、いい?」
「ま、街の中はまだ怖い――今日なんて、初めて買い物に出たのに……」
「だからさ、私とリハビリしよう。車あればどこでも行けるし。家も近所になるしっ」
「ま、まあそうだけど」
「よしよし、じゃあパッパとお家買いに行きますか! あ、不動産解らないのも本当なんだよね」
「……駐車場出て左」
「あいよっ」
 私は小さく溜息を吐く。ハナナは上機嫌そのものだ。
 まさか初めての買い物で『こんな彼女』に遭遇するとは。私は、私が動く度に主目的とは別の出来事が起こる身の上にあるのかもしれない。
 彼女の存在が、私にとって良いものではれば良いが、ハナナという時点で不安だ。電話線の先から現れた彼女が齎すものは、果して幸か不幸か。彼女の近くでは、大人しいリハビリなどあったものではないような気がする。
「そこです。駐車場は手前」
「あいよっと。……到着。いや、ありがと。あ、そうだ。えーと、ペンと、紙と」
「何?」
「連絡先。暫くは近くのホテルに滞在してる。そうだ、連絡大変だし、私名義で携帯買おう」
「え……いや、それは」
「買っておく。好きに使っていいから」
「なんでそこまで」
「なんでって?」
「だって。ネットでお話ししていただけなのに」
「光」
「光? 回線?」
「あはは。違う違う。荒んで、何もかも嫌になって、塞ぎこんでいる所で、私はリュウちゃんに出会った。私がそう思っているだけ。だから、気にしないで。ああ、もしよかったら、リハビリがてらにホテルまで来てよ。そこで携帯渡すから。あ、家までどうする? タクシー代だすけど」
「歩いて帰れる距離だから、良いよ」
「そっか。ふふ。じゃあ、またね、リュウちゃん。あ、タツコがいい?」
「タツコで」
「じゃあタツコもハナエって呼んで」
「……うん。また」
 彼女が不動産の建物に入って行くのを見守ってから、私は歩き始める。ここから自宅までは歩いて五分程度だ。スーパーとは反対側である。
 歩きながら、彼女の事を考える。すっかり呑みこまれてしまった。真性引きこもりだと思っていた人が、気が付いたら目の前に現れてパトロン宣言した、という謎めいた状況に頭を抱える。
 それこそ、近くに人が通ろうとも心臓一つ揺るがない程に、ハナエの出来事が大きすぎて、周りの事がどうでも良くなっている。
(もしかして私……そうだね。やっぱり、思っていた通り、自覚しようとしていた通り、周りの人なんて、他人を何とも思っていない。わざわざ通行人の身体を舐めまわすように観る奴なんて、そうそういない)
 自己相対化というか、自意識と現実の擦り合わせが行われている。
 脳内でどれだけ考えようとも、所詮は絵空事、何事も実践があってこそ、更なる発展があるのだ。
 私の心と、私の周囲の差が、物凄い速度で埋められているような気がする。つい一週間までまで外に出る事など考えもしなかった一方通行の人生に、突如として数兆通りの選択肢が生まれたのだ。世界が広がる不安は大きいものの、同時に期待が少なからず産まれる。
 女の子でいられなかった私が、それらを踏み拉いて、その先に向かう。なるべくなら幸福な道を選ぼうと、今必死になっている最中だ。
(カナメ様、私頑張りますから)
 彼女の笑顔を想像し、心が明るくなる。
 一週間前にしたあの約束を、私は絶対に破りたくない。
 カナメによって私が社会から守られる為に社会に立ち向かうという、本末転倒な、しかし一番正しい選択肢を私は選んだ。カナメと同じ時間、同じ世界を生きる為には、今が必要不可欠なのである。
 彼女が愛しい。
 彼女の傍に居たい。
 これからずっとだ。
 だが、今は逢えない。
『貴女を守りたいのは山々よ。でも、きっと貴女は弱い子だから、すぐ縋ってしまう。それでは何時まで経っても立ち上がれないわ。最初の一か月。その間だけは、顔を合わせず、ベランダでも会わないようにしましょう』
『そんな――私、もっと、ずっと、カナメ様のお傍にいたい』
『辛いのは私も同じよ。でも、我慢して頂戴。私の望みなの』
『――わかり、ました』
 ここ一週間、私はカナメと話していない。日課の時間になっても、ベランダの女王が現れる事はなかった。
 ただ、思うのだ。
 彼女は少しの間離れてしまうが、私の心には確固とした信心が根付いている。彼女を慕い敬う心が、私の脆弱な精神を救ってくれる。今日とて何度彼女にお世話になったか解らない。宗教というものがいまいちピンとこない典型的日本人であった私だが、今ならばその意味がしっかりと理解出来る。
 彼女は国であり、王であり、神であり、教義なのだ。
 私はそれを守る義務がある。
「ただ今戻りました」
 私の初外出は終えられる。戻ると、母がスリッパをパタパタとさせて現れた。その顔は不安に彩られていたが……私の顔を見て、ホッと胸を撫で下ろしている。
「御帰りなさい。荷物はもう届いていますよ。おつかれさまです」
「はい。一度吐きましたが、他は大丈夫でした」
「お茶にしましょう」
「はい……あの、お母様」
「なんでしょう」
「有難うございます」
 その時どんな顔をしていたのか、私には解らない。ただ、母は酷く嬉しそうに私を抱きしめてくれた。今まで感じた、母に対する劣等感は無いに等し。素直に、母を抱きしめ返す。
 拙い一歩だが、ベランダの民である私は、とうとう外に出たのだ。



 ※



 これから毎日外に出るとして、ではやはり目的地が必要になる。
 遠く無く、近すぎず、行って帰って『私は外に出て来た』という実感が抱けるぐらいの距離が好ましい。しかしそうなると、やはり公共交通機関の利用が不可欠となる。
 あの狭苦しい空間に身体を密着させて乗るような真似が、今の自分に出来る筈もないので、これは却下だ。
 とはいえ、歩いて行ける距離などタカが知れるし、それでは本格的な外出にはならない。密着するような混み合った状態で乗る事を避けたとしても、狭い空間に複数の人間がいると思うと、心細くなってしまう。まして公共交通機関では突如の吐き気に対処出来ない。
 そんな様々な不安を抱えて暮らしていく訳にはいかないので、私はスーパーでの嘔吐を教訓に、数種類の食べ物と、嘔吐に至るのではないかと思われる状況を再現し、何度か試行を繰り返した。
 結果食べ物としては『出来あいの弁当』『大入りの安いチョコレート』『ポテトチップス』は高確率で駄目だった。
 また状況としては『知らない他人に密着』『薄着で外出』『人の多い飲食店の滞在』などがあげられる。
 他人に密着は言わずもがなだが、肌露出もしくは身体のラインがみえる薄着はNG、飲食店や喫茶店で長い間居ると、まるで誰かが私をジッと監視しているかのように思えて気持ち悪くなる。
 この実験中相当に身体に負担をかけた気もするが、以前のように突如として不幸に見舞われる可能性が減ると考えれば、仕方の無い労力だ。
 これらを踏まえた上で、少し遠出出来れば、今のところは恩の字だ。
(とはいえ、易々とはいかないしねえ)
 手元のメモを見てから、日傘を少し外してビルを見上げる。
 私の家から歩いて十分、駅前繁華街近くにあるホテルだ。正直繁華街に近づくのは憚られたのだが、喫茶店実験の折に一度訪れているので、これが二回目になる。いや、正確に言えば、幼い頃から来てはいるので、引きこもって以降二回目、だろう。
 あと数度通えば流石の私も慣れるに決まっている。そうあって欲しい。
 日傘をたたんで正面から入る。ビジネスホテルではあるのだが、その雰囲気はただ来て寝るだけ、という程簡素ではない。
 フロントも立派であるし、掃除が細かく行き届いているのか待合の机と椅子など証明に反射して光って見える。そのまま入って大丈夫という事だったので、私はフロントに一瞥してからエレベーターに向かう。途中から誰も乗り合わせない事を祈りながら五階に上がった。
 五階の一番奥、510号室の前に立ち、私はドアをノックする。
 暫く待っていると、鍵がガチャリと開く音がしたので、私はそのまま中に入る。
 細い通路を行くと、大きなベッドが観えた。その上では黒い下着を身に付けたハナエが、大の字になって寝ている。来客に応対する態度としてどうなのか。彼女は羞恥心が足りないのかもしれない。
 まあそれはそれとして、良い下着だ。
 デザインも凝り過ぎず、かつ扇情的である。私と違って彼女の胸は平均より少し大きく、そんなものが付いていたら誇らしいだろうなあと羨ましくなる。
「ハナエ」
「もう少し……」
「チェックアウトとかは?」
「長期滞在だから……あー」
 鍵を開けるだけで気力を使い果たしたのか、動く気配がない。
 据え付けの机に目をやると、ノートパソコンが三台も並び、外付けモニタが二つ、外付けHDDが三つ、高そうなヘッドホンやイヤホンがあちこちに散らばっている。まるで自宅のような様相だが、彼女の旧自宅はもっと凄まじいのだろう。
 基本的に彼女は、MMORPGを三つ、戦略シミュレーションを二つ、ソーシャルゲームを四つかけ持ちし、その全てで毎日ルーチンワークをこなしている道楽人だ。しかもその全てで上位ランカーとして君臨しており、ユーザー名も統一されている事から『ルーターhanana』『升糞女』『妖怪粘着』『真性ヒキニート皇帝』などという痛烈かつ反論しようもない渾名を幾つも持っている。
 最近は転居の予定がある為、かなり規模を縮小している様子だ。掲示板なども覗いてみたが、hanana不在を喜ぶ輩は沢山いた。平和で良い事である。
「今何時」
「14時だけど」
「半、半まで寝よ。タツコも一緒に寝よう」
「嫌」
「そんな。でもほら、ベッド一つしかないし……私の隣しか空いてない感」
「寝る事前提なのが変なの」
「はぁい……」
 彼女はもそもそと起き出して髪のセットを始めたので、どこかに出かけるのかもしれない。携帯電話を貸すから来て、とチャットで言われたので来てみたものの、それだけには留まらないらしい。
 私は窓のカーテンを開けてから窓際の椅子に腰かけて外を眺める。
「あ、携帯。それ」
 指差したベッドの枕元には、真新しいスマートフォンがあった。手に取って起動すると、壁紙がハナエの写真になっている。私は直ぐにデフォルトの壁紙に戻す。
「なんで写真なんて」
「いつでも傍にいる感じがして安心すると思ったんだよ」
「不安なんだけれど」
「あちゃあ」
 携帯を持つのは一年ぶりだ。
 それまでは高校時代から使っていたものを持っていたが、無駄だとして私から解約を願い出た。ネットならパソコンがある。
 これは高スペックを謳う最新機種だろう。無駄の無い作りで、私のように飾り気の無い人間には好ましい。
「本当に良かったの?」
「新規契約で一度に二つ契約するとオマケでついて来る奴だから、タダみたいなもんだ。それにどうせ、タツコはあんまり通信しないっしょ。パソコンあるし、会社勤めてないしね」
「まあ、そうだけど。ありがと」
「うひょ……タツコさんデレるんですね」
「どちらかといえば、貴女に対しては辛辣な方」
「あっそう。私の番号とその他便利そうな番号、あと普段使うだろうニュースサイト、掲示板、まとめサイト、面白サイトなんかのブックマ、んで使えるアプリ、全部突っ込んでおいたからすぐ使えるよ。あ、欲しいアプリあったら勝手に買って良いから。暗証番号これね」
「う、うん」
「んふふ」
「どうして笑うの?」
「いやあ。なんか信じられなくて」
 ハナエは眉を描きながらそんな事を言う。信じられないのは此方も一緒だ。どこの世界に恩義を返そうとしてマンション買って移住までしてくる馬鹿ものが居るだろうか。海外面白ニュースでもあるまいに。
「それは私もだよ」
「私ほら、友達いないし。寄って来る奴は金目当てだし。そんな人間がさ、こうしてアンタと話してると思うと、滑稽でさあ。この数年で修羅場潜っちゃって、あんま人信用してないんだよね」
 突如として大金が舞い込んだ人物には、知らない血の繋がった兄弟、知らない親戚、知らない隣人、知らない宗教、知らない慈善団体がこぞって現れるという。
 その蟲のような輩を捌いて捌いて、彼女は疲れてしまったのだろう。確かに彼女はネット上でも疑り深かった。
「ましてほら、私結構良い女でしょ。ちょっとイイモノ身につけてると男が群れる群れる。めんどくっさいったら無くて、こんなチョットハスッぽい格好してたりするのよさ」
「それは、心中察するね」
「なんで、お金はあるけどずっと一人身か、この際女の子かな」
「あ、そういう」
「あら、ビアンはお嫌いで……てか、タツコもそうじゃなかったか?」
 厳密にそうだとは言い切れないものの、男は勘弁願いたいので、そう疑われてもしかたないだろう。まして私の信奉する彼女も女性である。
「ハナエなら、ま、苦労しそうにないか」
「さて。結婚ってのは、大義名分上次世代を残す為かもしれないけど、本来はどちらかといえば互いに財産を共有して共に生きて行く為の契約という意味合いの方が強い。子供は二の次だよ。それは怪我をした時、病気になった時、老後、それらにおいて発生するどうしようもないお金と労力負担を軽減出来る契約さね。私はほら、もう社会からドロップアウトしてるし。だから、隣にお嫁さんが居ようと、愛人がいようと、悩む事はないかもね。金銭的に面倒みれるから」
 普通の人間には、考えこそすれど実践出来ない人生観である。
 私など言うに及ばず、小金持ちやちょっと成功した人間でも届かない。彼女はまるっきり私達の居るラインから外れているのだ。
 いつか、カナメと話した『大人』の事を思い出す。
 これが大人かといえば――恐らく違うのだろう。これは大金を持った子供だ。
 ただ、そんな彼女に恩恵を受けている私がどうかと言えば、間違いなくそれ以下となる。
「まあ問題といえば、友達も嫁さんも、金じゃ買えない事かな」
「持ち逃げされたら嫌だしね」
「その通り。元から育ちが良い子なら良いだがね……ねえ、育ちの良い子」
「遠慮します」
「うわ、フられた……辛い。死のう」
「え、ちょ」
「あははっ。ま、それはいい。で、ご飯食べに行くけど、食べるだろ?」
「話した通り、あんまり人の居る所は」
「個室」
「……じゃあ頂きます」
「うっし。出来た。どう?」
「うん」
「ん。じゃ、行きますか」
 ハナエに連れられ、近くの繁華街にまで繰り出す。私はおっかなびっくりだ。
 日傘を差し、なるべく人の視線が当たらないように先を進む。ちなみにサングラスはしていない。何にしても視界が悪いし、あまり隠しすぎるのも宜しくないと指摘を受けたからだ。
 ハナエは私の直ぐ前を堂々と歩いている。あのように歩けたら、さぞかし気持ちが良かろう。
 街を歩いていると、やはり若い人たちを見かける。
 私と同年代位の子達が、仕事に、遊びに、大学にと向かう姿が目に入るたびに、自身のおかれた立場の弱さを痛感する。
 私は何処にも属していない。
 属していないという事は自由だが、誰も守るものが背景にない事、社会的に認められていない事を意味する。
 あの子は、どんな人生を夢見ているのだろうか。
 あのカップルは、これからどんな未来を描いているのだろうか。
 あの楽しそうな人達は、数年後も笑って人生を謳歌しているだろうか。
 私はどうなのだろうか。
 私に未来はあるのだろうか。
 こんな調子で何時になったら当たり前の生活を送れるのだろうか。
 送れないまま五年、十年と経った時、私はカナメにどんな面を下げて逢えば良いのだろうか。
 胸の奥が黒く滲む。
 脳が圧迫されるような気がする。
 指が震え始めた。
 私は近くの整備された花壇の縁に腰かけ、身体を抱きしめる。
「タツコ、どした」
「ちょっと、ごめん」
「辛いか、人多いところ」
「うん」
「もう一、二分だから。ほら、手貸して」
 私はほんの少しだけ躊躇ってから、ハナエの手を借りて立ち上がる。
 見上げると、彼女の顔は酷く優しかった。
「私は怖いかい?」
「ううん」
「じゃあ、もすこし頼りなよ。私はアンタの味方だから」
 手を繋がれながら歩く。先ほどよりも、幾分か楽だ。
 まるでカナメ以外に心を許しているようで申し訳ない気持ちもあるが、今の私には頼れる人物が彼女しかいない。
 彼女が腹の中で何を考えているのか、その真意は解らないものの、私を貶めて得るメリットなど彼女には何も無い。友達の居ない私に協力してくれる彼女は、やはり貴重なのだ。
 そうだ、焦る必要はない。
 ここ一週間と少しで、私は見違えたではないか。
 外に出るどころか、家族に顔を合わせる事すら憚られた私が、今こうして繁華街を歩いているのだ。焦って功を急いで、自滅するような道を辿っては本末転倒である。
「ほいついた。あ、個室ってカップル用なんだよね。カップルってことでいい?」
「い、致し方なし」
「あい」
「いらっしゃいませ。二名様で宜しいですか」
「個室で。あ、いらん詮索しないでね」
「畏まりました。此方へどうぞ」
 そのお店は繁華街の表に出ている、普通のお店だ。木造でシックな雰囲気が漂い、照明も仄暗い。
 店員に従って奥まで行くと、ドア付きの部屋が幾つも並んでいた。飲み屋ならこういった作りもあると知識では知っていたが、普通の飲食店にあるとは思わなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
「あ、ちょいまち。決まってるから。私ビール。タツコは?」
「こ、コーラで」
「肉食えるよね。ポークプレート一つと、あとチキン&チップス。おっけい?」
「……はい。少々お待ち下さいませ」
 慣れた風のハナエは得意げだ。何度か来ているのだろう。
 個室は三畳ほどで、テーブルが壁についており、二人掛けの長椅子があるだけだ。
 私が奥に座り、ハナエが手前に腰かける。下のスペースに荷物を置くと、ハナエは小さく溜息を吐く。
「少し焦った。あんな感じなんだね」
「うん。でも、大丈夫」
「そっか。次、辛くなったら言ってな」
「ごめんね」
「良いって。頼られる為に居るんだから……あ、ちょいと一服してくる」
「うん」
 そう言って、ハナエは鞄から煙草を取り出して個室を出て行く。
 別にここで吸っても良かったのだが、彼女は配慮したがる人らしい。ネット上で暴虐の限りを尽くす彼女は、現実では思いの外謙虚な様子である。やる事は滅茶苦茶だが。
 私は預かった携帯を弄りながら、普段アクセスしている猫画像ブログを探す。流石にデフォルトの壁紙では味気ないし、まさかハナエの顔を壁紙には出来ない。検索すると直ぐに見つかった為、その中から好きな三毛猫画像を繕う。
 画像を編集して携帯画面に合わせてセットし、私は少し遠くに離してそれを眺め、満足する。二十歳としてどうなのかとは思いつつも、最近の携帯はなんでも出来るもんだなと感心する。
「お待たせしました。ビール中ジョッキとコーラです」
「……あ、あ、りがとうございます」
 先ほどとは違うウェイターが飲み物を運んでくる。少し驚いたが、問題ない。ただ男性からものを直接受け取れないので、テーブルに置くよう暗に指示する。
 知らない人間との接触は恐ろしく、特に男性は顕著である。
 ハナエなどは他人も同然だったが、やはり知人としての認識が私にはあるらしく、嫌悪感はなかった。しかし肉親でも父などは否定感も出るだろう。
 私が外に出て考える事といえば、やはり線引きである。
 具合が悪くなる状況と種類は幾つか存在し、そのどれもが耐えがたいものではあるが、明確な違いがある。
 他人との接触、視線からの恐怖、先ほどのような妄執と自己相対化から来る自己嫌悪は、大体眩暈がして動悸が激しくなる。
 変わって食品類に対する嫌悪、過去の想起などは吐き気が強い。此方も動悸がある。
 過去の想起、視線恐怖、自己嫌悪はほぼ同列と思っていただけに、ここ数日の実験は気持ち悪いながらも意外な発見があった。
 自分が何に怯え、何に対処すれば良いのか解るという事は、それだけで武器になる。
「ただいまっと」
「おかえり」
「昼ビール昼ビール」
「駄目人間っぽい」
「あー、働かないで飲むビールは美味しい」
 ハナエが戻り、駆け付け一杯をあおる。生憎私はアルコールを口にした事がない。まして苦いと言われるビールを美味しそうに飲む彼女が不思議でならない。私はコーラをストローで吸いながらそんな姿を眺める。
 それにしても、確かにここは人の視線が無くて有難いのだが、カップル席というだけあって狭い。机の下に広がっている空間が実に無駄である。私は極力ハナエに触れないように、壁際に身を寄せる。
「んあ。接触恐怖もあるんだっけ」
「他人に触らせた事がないから解らない。ハナエは大丈夫みたいだけど」
「私と喋る時は、案外ハキハキ喋るね。初対面の時は敬語だったし、ドモってたし」
「……だから純粋に、知人で女性なら大丈夫なんだと思う」
「それで、色々試してみたんでしょ、どうだったの」
 ハナエに実験結果を請われ、私が苦手なものについて説明する。
 ハナエは精神科医でも専門家でもないが、ネット辞書で引いて来たような解釈を齎す為、彼女の見解は重宝する。恐らく引いて来たのだろう、調べる手間がない、というだけかもしれない。
「んー……視線、怖い?」
「顔は、慣れた。顔、変?」
「いいや。それで変だったら世の女性の七割方が残念なことになるから、言わない方が良いぞ」
「わかった。でも、身体に視線を向けられるのはちょっと」
「身体を見ているって、何で解るのさ」
「……ええと、その、解らないけど」
「だからね、誰も見てやしないし、チラリと見られたぐらいで本人は絶対気が付けないよ。ああ、胸とか尻とかガン見されると気が付くけどね。アンタは全身布で隠れてるし、男性はジロジロ見ないんだよ、そういう露出の少ないフェミニンな服」
「そうなんだ」
「むしろ見てるのは女。この際ハッキリしておくか。男ってのは、女のファッションなんてどうでもいいの。胸とパンツとふとももが見えるか見えないかで判断してると言っても過言じゃない。人のファッションジロジロ見て相手の格付けをするのは女なんだよ」
「確かに、人の服装は気になるかも。凄く露出の多い服は下品だなって思うし、同時に羨ましくあるけど」
「それはアンタが自分の身体にコンプレックス持ってるから、肉付き良い女に目が行くんだわな。そういう意味でアンタの視点は男に近いな」
「男って、そんなに、胸とか、お尻とか、好きなのかな」
「顔が悪くても身体が良ければ妥協するぐらいには好きらしいよ。対して私等……まあ私もアンタもビアンだけど――」
「いや、ビアンとかそういうのでは……」
「まあまあ――男見る時、どこ見るさ。顔、髪型、身につけてるものだろう。終着点としては同じなんだよ。『繁殖に適しているかどうか』だ」
「はんしょ……」
「この女は良い子産めるか、この男は私と子供を養えるか。一概じゃないけどさ。まあ何だ、そんだけ肌露出ないと、そもそも目に留まってないかもな、はははっ」
 女性として大問題であるが、男に好かれる気はないのでそれで良いだろう。
 女が女の服装を気にするというのは、確かにあるものの、それだって自身と近い立場にいるような人間を見るのであって、いちいち通り縋る人間と自分を見比べてはいまい。
 頭では解っていたが、具体例を出されて説明されると、心に落ち着くものがある。当然それが私自身の精神に反映されるかといえば、違うだろうが。
「先生」
「たった三つ上だぞ、失礼な」
「じゃあ女性が女性を好む場合は?」
「あー……」
 何となしに、ふざけて聞いてみる。私は同性愛に対して造詣が深くない。ビアンというくらいならば私よりもそういった知識があるのでは……とも思ったが、質問して気が付く。異性愛者が異性を好きな理由をいちいち調べないだろう。同性を当然と好いている人間も同じである。
 しかし律義にも、この人はわざわざ首を傾げて頭をひねって考えてくれている。
「――繁殖に加担しない、という時点で種の保存的に論外だからな。これはどっちの同性愛も同じだ。ただしかしながら、それが動物的で無いとも言いきれない。猿の一種だけど、これは自身の被害を避ける為、そして争いから来るコミュニティの崩壊を防ぐ為に、同性だろうとセックスするんだ。私に敵意はありませんと」
「さ、猿が?」
「結局は人間も、自身の存続の為にやらかすし、自身の存続に関わるからこそ自身を守ってくれる可能性のある人を大切にしようとする訳だから、同性愛も異性愛も、子供を残さないという点以外は、同じなんじゃなかろーか」
「博識な事で」
「いや、私は専門家でも何でもないし、拾ってきた知識を自己見解と交えて話してるだけだから、真に受ける事はないぞ。子供残さないって致命的だしな」
「そういうの、変だって意識、ある?」
「ないよ。人間何十億いるんだよ。むしろ人減らしたいぐらいだ。いいだろ、こういうの居ても」
 はははと笑い、ハナエがジョッキを空ける。
 そんな話をしていると、やがて料理が運ばれてきた。ハナエはもう一杯注文して、お酒のツマミを齧りながら、私の他愛ない質問に答えてくれる。
 彼女としても、私としても、その答えが真実であるかどうかなど、さして気にしてはいないのだ。私が質問し、彼女が答え、私が一人で納得するだけの事である。
 まるでその関係は、私とカナメを逆転させたようなものであると気が付いたのは、ポークプレートをペロリと平らげた辺りだった。
「美味しい?」
「うん」
「食べるね、結構」
「食べるの、好きだし。過食の頃は、思い出したくないけど」
「今は無いんだ、その影響」
「引きこもっている間に無くなったから、その治療は出来たのかも、引きこもり期間」
「ふぅん」
「声、変じゃない?」
「変だったら変って突っ込んでるなあ」
「よかった」
「……ああ、嘔吐繰り返して掠れたか。余程酷く無い限り、そら戻るさ。複合的な理由で引きこもったんだろうが、今のアンタは何も変じゃない。ま、私に言われたくらいで安心したりはしないだろうけど」
「――ううん。ありがとう」
「……」
 客観的な意見が増えれば、それだけ私の自信につながる。特効薬的効果を期待するもので無い事ぐらいは承知だ。兎に角今の私は積み上げて行く他ないのだ。
 最初は尻ごみしたが、ハナエの存在はもしかすれば、私にとって掛け替えのないモノになるかもしれない。久しぶりに他人らしい他人からの知人であるからして、カナメとは一線を画す。
 多少気になる事があるとするならば、本気かふざけてか、私に気があるような素振りを見せる事ぐらいだろうか。
「私、ご飯食べてる子見てるの好きなんだよ」
「ふうん」
「うわ、気の無い返事」
「気があったらどうするの」
「それ相応に対処するさね。恩義もあるけど、なんだったら親しくなりたいだろう?」
「それは、まあ。親しいの度合いにもよるけど」
 昔から、女の子とは仲が良い。
 恋愛云々抜きで、男の子と比べた場合やはりどうあっても私における友好度は女の子の方が高い。
 しかしながら悲しいかな、私が引きこもって以来、仲が良いと思っていた子は見舞いにこそ数度現れたものの、それ以上踏み込もうとする子はいなかった。
 何度かメールも寄こしたが、早く元気になってね、程度でそれ以降の関係も無い。
 軽薄さがにじみ出る。そういったものを実感すると、やはり女性の友情というものが、どれだけ体面に比重を置いた関係であるかが、はっきり解ってしまう。
 勿論、私も悪いのだ。悪いが……。
「どした。嫌な事思い出したか?」
「……私が引きこもった時……いや、いい。私のエゴだ」
「誰も助けてくれなかったってか」
「なんで解るの」
「そんな顔してたから。ま、こればっかりはな。相手の家庭に踏み込むのは憚られるし、問題が問題だっただろう」
「ハナエだったら、どうしたと思う?」
「当事者じゃないから答えられない。何、私だったら助けに行くとか、言って欲しかった?」
「言い方がキツい」
「終わった可能性を、引き摺るのは止めなよ。今の私は、助けるから」
 そっと手を触れられる。
 否定しようかとも思ったが、弱い私は彼女の優しさに絆されてしまったのかもしれない、振り払わず、そのままにする。
 ネット上ではあれだけの怪人物ぶりを発揮しているというのに、現実の彼女は優しく、気遣いが出来て、とても社会不適合者とは思えない。
 彼女の言葉を真に受けるのならば、それは私に好かれたいからだとも判断出来るものの、私のような人間に手を出して彼女が得るモノの少なさを考えると、納得出来なかった。
 心が損得勘定だけで構成などされていない事ぐらいは十分承知しているし、人の好みも千差万別で、もしかしたら本当に私の事を好いているのかもしれないが、私は釈然としない。
 恩義に報いると言われても、打ち消せないだけの違和感があった。
 私は流されやすい人間だ。
 その流されやすさがリハビリに役だっている内は笑っていられるかもしれないが、笑えない方向に転んだ場合のリスクを考えると、多少恐ろしい。
「まだ何か食う?」
「ううん。いい」
「うし、じゃあ行き先決めよう。折角外だし。あ、喫茶店行く?」
「も、もう少しレベル上がってからでいいかな。そこは即死する可能性があるから」
「盾にでも何にでもなるんだけどな。ま、尊重しよう。ならホテル戻るか」
「戻ってどうするの」
「家帰っても暇だろう。会話リハビリでもしようじゃない」
「貴女の口から聞くと、なんでもいかがわしく聞こえるの」
「そら、タツコの頭がピンク色だからだろうねェ……あ、そうだ。ゲームの新作発売してたんだ」
「何の」
「携帯ゲーム。ほら。でかいモンスター狩る奴」
「ああ……でも、携帯ゲーム持ってないけど」
「今から買いに行けばいいよ。買い物リハビリも出来て丁度いいや。街中歩くけど、大丈夫か?」
「――辛くなったら、その、頼るかも」
「うんうん。なんだ、可愛い顔して」
「うるさい」
「えっへっへ。じゃ、行きますかね」
 会計を済ませ(ハナエは有無を言わさず全部自分で払う)て、また外に出る。
 彼女が主体で動き、何でも彼女が手配して、私が与えられ付き従う様が、まるでペットのようだなと、何となしに思う。
 とはいえ、昔から主体性がある人間ではなかった。どちらかと言えば、与えられる側である。
 私が提供したものは、常に愛想だ。同時に親切心である。
 価値に換算出来るものに対して、価値に換算出来ないもので返すという人生だ。考えれば、私という人間が友人だと思っていた人々に振り撒いていた価値は、彼女達が望む見返りに見合わなかったのかもしれない。
 どうすれば正しい価値を提供出来たのか、引き摺るというよりも、今後の為にも考察しておく必要があるだろう。私はどうあっても、人として足りないのだから。



 ※


 呆けたまま窓の外を見る。外は雨が降りしきっていた。
 昼から降り始めたこの雨はやむ気配を一切見せず、道路に川を、低地に池を作り始めていた。窓からは学校帰りの生徒達が憂鬱そうに下校する姿が見える。
「タツコ、サインペンって持ってない?」
 自習室で一緒に勉強していたキョウコが言う。
 私は鞄から太いペンなどが入っている筆箱を漁るも、見当たらない。
「あ、教室に置いてきてしまいました」
「あらら」
「サインペンなら、確かそこの棚にあったと思います」
「んあ、あったあった。私これ書いたら帰ろうかと思うけど、タツコどうする。雨凄いけど。迎えとかは?」
「ありませんね。今から教室から筆箱をとってきて、それから帰ります」
「そっかー。んじゃね」
「はい。また明日」
 荷物を片づけ、自習室を出る。明日は小テストがある為、今日は帰ってからも勉強だ。
 高校二年生の冬。
 もう将来の事を考えて勉強に勤しむ人も増えて来た。ここは普通科で、偏差値も高くないありきたりな高校であるから、何にしても、ガツガツやる人間は少ない。
 私などは普通を絵に描いたような人間である為、将来も漠然としているし、彼氏もいない故に未来予想図のようなものを夢想的に描いたりもしない。
 時折、自分がツマラナイ人間だと思う。
 突出した才能はないし、美貌が殊更優れている訳でもなく、多少痩せすぎているというコンプレックスもある。私は面白味を求められると対処しようがない人間だ。
 ただいつも、それはそれで良いじゃないかという結論で落ち着くのだ。
 普通が一番、目立つ事無く、持て囃される事無く、問題無く恙無く歩める人生は、思いの外望んでも手に入らないものだと、祖母に聞いた事があったからだろう。
 贅沢な身の上だ。
 普通に生きて、普通に結婚して、普通に子供を産んで、普通に人生を全うする。その上で必要なパートナーだが……。一応、気になる人物はいる。
 中学からの同級生で、瀬能というクラスメイトである。
 彼も絵に描いたような普通で、特筆すべき点が見当たらない。
 勉強は中、運動も中、顔も中、女子の仲間内での評価も中、そういった意味で、今後の人生設計に役立っていただきたい人物だ。
 周りに彼氏がいるから自分も、というバイアスが多少なりともかかっている自分は、実にイマドキの若者の例に漏れない、つまらなさ具合である。
 だからつまるところ、大恋愛だとか、彼を思うと胸が苦しいのとか、そんな事は一切ない。
 私は乙女として何かしらの要素が欠けているのだろう。人間誰しも自分が一番可愛いとはいえ、私の自己愛は普通より強いのかもしれない。
 一つの情緒が偏る事によって何かが欠乏する事実は、私という人間を形成する上で非常に大きな影響があっただろう。
 普通が良い。
 そうだ、平均で、均整がとれて、平等で、凹凸が無く滑らかな球体のような人生が、好ましい。
 だからこの自己愛は、少し余計なのだ。
 降りしきる雨音に混じり、廊下には自身の足音と、吹奏楽部の試奏が遠くから響く。私はこれから教室に向かい、筆箱を取って、家に帰るのだ。今日ぐらいはタクシーを使っても、怒られないだろう。
 教室が迫る。教室のドアは開いており、中から少しだけ明りが洩れていた。
 ふと、足が止まる。何故止まったのか自分でもわからない。
 酷いデジャヴュに襲われて、私は壁に手をついた。
 この先に行ってはいけない。行ってしまったら、普通でいられなくなってしまう。
 何の根拠も無い不安、意味不明な焦燥感が心の大半を埋め尽くす。
 私は一歩足を進める。
 しかし一歩進めると、まるで足は鉛のように重くなった。
 もう一歩進める。
 すると今度は身体が鉄になってしまったように動かなくなる。
 頭の奥底で、誰かが呼ぶ。そっちに行ってはいけないと引き止める。
「――あ」
 廊下の先、その先には、本来何があっただろうか、良く覚えていない。
 しかし今私が観ているものは光であり、荒唐無稽で、しかし確固とした存在感を示していた。
 光の中に影が一つ浮かぶ。それは幼い少女の形をしていた。
 今の私が知る筈もない人。
 未来の私が愛してやまない人の影だ。
 私は教室を目指す事を止め、光に向かって歩み始める。するとどうだ、重かった筈の身体はまるで鴻毛の如く軽くなるではないか。
 光に向かって、少女に向かって手を伸ばす。
 教室を通り過ぎ、その先にいる彼女に手を伸ばす。
 もう少しでその手が触れ合おうとした、その時。全ての光が遮断され、私は真っ暗な場所へと落とされた。
 声の無い私の絶叫が、その暗黒に全て呑みこまれて、私も消えた。



 ……。
 ……。
「……うわ」
 身体を起こす。酷い寝汗をかいていた。
 携帯電話に手を伸ばして時間を確認すると、既に午前十時を回っている。引きこもってからも規則正しい生活を送っていた私からすると、かなりの寝坊である。普段は八時には目を醒ましている。
 目を擦りながら廊下に出ると、丁度洗濯物を干そうとしていた母に出くわす。
「おはようございます」
「おはようございます。朝食の時間になっても起きていない様子でしたから、声をかけようか迷って」
「すみません。まだ、ありますか」
「ええ。整えてから、食べてください」
 私が引きこもりを止めると決断してから三週間が経つ。
 私は時折嘔吐したり、精神的圧迫から妄執に囚われて鬱に引きこまれたりしながらも、順調にリハビリを繰り返していた。
 私が外に出るようになってからというもの、何もかもが目に見えて好転しているように思う。
 母は以前よりずっと明るい顔をするようになったし、父も少し無理をして帰宅して食事を共にするようになった。同時にそれは家族の会話が増えるという事であり、コミュニケーションは健全に保たれていた。
 この三週間で、私が母と父にどれだけ心配されていたか、改めて思い知る事になった。
 親の心子知らずと初めて言った人も、もしかしたら同じような境遇だったのかもしれない。
 洗面所で顔を洗い流しながら、先ほど見た夢を思い出す。
 学校生活の夢を見るなど、久々だ。ただやはり夢は夢、整合性は無く、私の暗い性格に合わせたような薄暗さであった。
 夢の中にまでカナメが出て来る辺り、実に度し難い精神性である事は疑いようも無い。
 彼女とコミュニケーションを取らなくなってもう三週間だ。
 今、彼女は何をしているだろうかと考えると、何故だか少し不安だった。時折、様子を見に行っても良いのではないか、などと考えてしまうほどであるが、約束は守らねばならない。
「そういえば、今日はお友達が、いらっしゃるとか」
 リビングでスクランブルエッグを突いていると、洗濯物を干し終わった母が話しかけて来る。その通り、今日は彼女が来る。
「お構い無くどうぞ。あれは気を使われると難しい顔をする人ですので」
「そうはいっても、タツコさんがお友達を連れて来るなんて、高校生の頃だってありませんでしたし」
「大丈夫です。恐らく外に食べに出るので、お昼は良いです」
「そうですか。解りました」
 ただ単に、彼女は携帯ゲームのマルチプレイを面と向かってやりたいだけなのだ。ネットで良いじゃないかと進言したのだが、ネット中毒の彼女がそれを否定するというのだから頭を抱えてしまう。じゃあホテルで良いかとと言えば、今度はウチに来るというのだから腹が痛い限りだ。
 自宅に人を呼ぶのは恐らく中学生以来であるからして、これは旗本家的珍事である、母が気を使いたがるのも頷けた。
 しかし、今日は寝坊だ。こういう日に限って寝過ごすというのだから、私の緩み加減が窺える。
 これも、精神的に余裕が出来たからこそなのだろうか。
 とにもかくにも準備である。食器を下げて早速支度に取りかかる。
 部屋に戻って服を着替える。今日は秋にしては少し気温がある為、あまり厚着はしたくないのだが、肌を露出させる事にまだまだ抵抗がある。薄手のモノを選び、せめてもの清涼感対策として色は明るめのものを選ぶ。
 髪を弄りながら整えていると、多少の引っかかりを覚えた。
 流石に素人が整えただけあって不揃いが多い所為だろう。しかし美容室は厳しいのが現実だ。ハナエに相談してみるのも良いだろう。
「ん……まあこんなカンジかなあ」
 三週間毎日手入れをするようになってから、当時の勘が戻って来たとみえて、朝の支度も手慣れたものになってきた。やはり何事も習慣化である。
 携帯を確認すると、そろそろそちらに行くという旨のメールがあった。
 毎回の話だが、彼女は自分に自信があるらしく、写真を添付してくる。投げキッスからちょっとエッチなものまでだ。まったくもって恐ろしい。
 しばらく手持無沙汰にしていると、やがてインターホンが鳴る。
 母が受け答えて正面玄関をアンロックして直ぐ、彼女はやってきた。
『あいや、どうもどうも。大武です。あ、これどうぞ。詰まらないものですが。いえいえいえいえ』
 彼女の調子の良い口調が聞こえる。あれが本当に引きこもりをしていたとは思えない。実際のところ最初から嘘を吐かれていた訳であるし、彼女の経歴とて嘘塗れかもしれない。
 とはいえ、彼女の過去が私に何か関連するかといえばしないので、追及はしない。
「こんこーん。しつれいします」
「口で言うんだ」
「お。いたいた。うわ、何も無い部屋」
 失礼千万な話だが、実際私の部屋は必要最低限のものしか置いていない。
 引きこもっていようと生憎育ちは良いのだ、あちこち散らかしていたりはしない。
「地べたに座るなり、椅子に腰かけるなり、好きにして」
「友達の家って久しぶりー。あ、なんかタツコの匂いする」
「へ、変態」
「変態頂きました。よっこらせっと」
 ハナエは小脇に抱えた肩掛けカバンを放り投げると床に直接腰かける。残念ながら来客を想定しない我が家に座布団なる気のきいたものは存在しない。
 ハナエは辺りをキョロキョロと見回してから一人納得して私を見る。
「ここに二年半も隠れてたのか」
「確かに、改めて考えると、面白味の無い部屋だし、良くもまあ二年半も居たと思う」
「ま、いいんじゃない。まだ若いし。仕事してないったって、江戸時代の若者なんて定職持っている方が珍しかったんだ。女なんてもっと。強要される自立への反逆と考えるとカッコイイな」
「詭弁すぎる」
「人が資源である我が国では、労働こそが全てだからね。不真面目になった日本ってどんなもんだろうか。まあ、にしたって労働時間多すぎると思うがね」
「それで、社会時事について話に来たの?」
「恋愛トークの方が良い? えっちな話でも良いけど、お酒が無いな」
 ケラケラとまあ、調子の良いものだ。とはいえ、からかわれているという事もない。これほど話していて苦にならない人間もいないだろう。私はずっと他人様に敬語調で喋っていたし、この口調はほぼハナエにしか使わない。チャットではこの口調だったからだ。
 私は携帯を手に取り、未だ部屋をキョロキョロと見ているハナエの写真を撮る。
「うわ、なに?」
「なんとなく」
「写真ならいつも差し上げちゃってるじゃない。自分で撮ったのが欲しいって、やだな、愛されてるのかしらん」
「勘弁して」
「ぶふふ。ああそうだ、私も撮って良い?」
「悪用しないでね」
「するかい。アンタの認識改善だよ」
 そういってハナエは私に立つように指示する。
 私は部屋の真中に立ってシャッターを切られるのを待つのだが、人様に写真を撮られるなど一体いつブリだったか、気恥かしいったらない。
 ハナエは携帯ではなく、タブレット端末を持ち出した。
「撮れた。可愛い可愛い。宝物にするかね」
「で、撮ってどうするの」
「まあまあ」
 ハナエのタブレットを脇から覗きこむ。
 彼女のアルバムにはファッションモデルの全身像が沢山収められている。何がしたいのかイマイチ解らない。
「えーと、写真切り抜いて、白背景にあわせて……おう出来た」
「私のコラージュとか、悪質すぎやしない?」
「これらの写真と並べてみるぞ。ほれ」
 ファッションモデルが並ぶ中、私の切りぬきコラ写真も並べられる。パッと見るとそんなに違和感はない。自分が自分であるという認識を持たなければ、モデルの中の一人と言われても納得するだろう。
 なるほど、だから認識改善か。
「うは、自分でやっといてなんだが、違和感なさすぎて吹く」
「スラング出てる」
「失敬。しかしさ、自分で痩せすぎてるって言うけど、並べたら対して変わんないだろ?」
「んー……そうかな。でもほら、二の腕とか棒きれみたいだし」
「ほらこれ。これアイドルな」
「ほそ」
「細い細い。自分でも経験ないか? 痩せてるって女の子達に持て囃されただろ」
「まあ……うん。あるね」
「自身を客観的に見つめるってのは、酷く難しい事だ。それがトラウマならなおさら。ここ最近、自分の全裸を見た事は?」
「ない。怖いもの」
「だあよね。まあでも、少しずつ直視出来るようにしないと、辛いぞ。いざ裸にならなきゃならない事態は、生きている上で必ずあるだろうしな」
「人前で裸になることなんて」
「好きな人とエッチする時服着てするのか。マニアックだな」
「出来れば電気消した上で服着たまま触れないでしたい」
「それはえっちじゃないですタツコさん」
 身体を人様に許すような事態、果して未来にそんな事があるかどうかは別として、確かに困るだろう。服を着ている状態ですらコレなのだから、裸なんてもってのほかだ。羞恥心ではなく恐怖である。
 裸にならないにしても、服を選ぶ時とて辛いだろう。
 何にせよ、クリアしなければいけない問題が多い。
 カナメには、一か月ほど離れてみようという提案を受けて現在いる訳だが、私の成長はどの辺りから合格ラインなのだろうか、そこを聞くのを忘れていた。
 一先ず、外には普通に出られる。飲食店は厳しいものの、人通りの少ない所を歩いて回る分には問題ない。
 いきなり男性に話しかけられたりしない限りは、買い物も可能だ。その他諸々は、ハナエと試行錯誤中である。
「でもほら、アンタの愛しい人とは、最終的にそうなる訳だろう?」
 カナメが何の躊躇いも無く私に裸を見せた事は鮮烈に記憶している。ではいざ私が脱げと言われた場合、カナメの前で脱げるだろうか。
 ……いやそもそも、相手は十歳である。色々と不味い。
「十年は、待たなきゃいけないかな」
「……えっとな。チャットでさ、十歳とか言ってたけど」
「十歳だよ。あ、詮索はしないで。不可侵なの」
 ハナエが小首を傾げて眉を顰める。当然の反応と言えよう。
 言うつもりは無かったが、別段と隠す必要性もないので喋ったまでだ。
 だが、どうも。ハナエの反応がいつもと違う。非常に複雑な表情だった。
「タツコの心の支えが、子供?」
「悪い?」
「いや、いいけど。差支えなかったら、どんな人物像かぐらいは聞いても良いかい」
 どう説明するべきだろうか、少し躊躇う。
 仕方なく、私が彼女と出会った経緯から、現在に至るまでの概要を説明する。細かいところは当然省いた。
「なるほど。外に出ようと思ったのも、今こうしているのも、その子のお陰っと」
「ハナエから見て、私は少し成長したかな」
「一般人名乗るにゃ早いが、まあ引きこもってるよりは余程だな。ふーん、しっかし、ロリコンだったとは」
「そういう話はしないで」
「現実問題として、生き難いだろ。手出したら犯罪だしな。あ、だから十年か」
「あまり茶化さないで。どうあろうと、私の拠り所なの」
「いっちゃなんだが、その信心は壊れやすいぞ」
 ハナエはそう言ってから、私の座っているベッドの隣に腰かける。
「尊敬してるとか、凄く好きとか、聞く限りではその次元にない。アンタの話だと、宗教のそれに近い」
「まあ、否定しないけど、何が悪いの」
「信心というものは、大体不変のものを信仰する事から産まれる。我が国ならば自然そのもの、もしくは既にこの世に無く六道から脱した仏様。西洋ならばキリストのオッサン、もしくはヤハウェ。他の神様だって大体概念となり果てて、人間が認識する限りは存在する、という変わらないものばかりだ。それは解るな」
「まあ、うん」
「凄く好きとか尊敬してるとかなら、いざ幻滅されるような事されても、まあ立ち直りが出来る。他の依存する対象を探せばいいだけだ。だが信心は違う。己の心の拠り所、己の在り方そのものを定義するそれは、他に代えが利かないんだ。アンタ、その子が変質してアンタの抱く信心の定義から外れて、信仰するに値しなくなった場合、他の神様拝めって言われて、拝めるか?」
「極論すぎて、比べられないよ、そんなの」
「そうでないぞ。そもそも少女というのは成長する。一か月も観なかったら他人かもしれない。引きこもりを面白がって弄っている間は良かったが、他に楽しい事を見つけた場合、すぐ乗り換える。アンタはその心の拠り所を、宙ぶらりんにするだけになるぞ」
「そんな言い方ないでしょう」
 彼女の言いようが乱暴に感じて、思わず声を上げる。しかし彼女の表情は揺るぎない。
「私はアンタに敵対しようとか、アンタの好きなものを引っぺがそうとか、そんな事の為に言ってる訳じゃない。私みたいなボンクラの話を、信じて聞いてくれとも言わない。ただ、留めるだけ留めておいて欲しいんだよ。なあ」
「逢った事もないのに、そんな事いう人」
「おかしいと思わないか。なんでそんなに激昂する必要があるのか。後先見えてるか?」
 そのように言われ……私は、一端自身の態度を客観的に見つめる。
 私が信じる彼女を馬鹿にされたような気がしたから、怒った。それは良い。
 ただ、それでこの人と敵対して、何の得があるかと言われれば、皆無である。
 彼女自身も別段と、カナメを馬鹿にしている訳ではなく、カナメを信仰する私について語っているだけだ。
 一つ大きな溜息を吐く。
「ごめん。うん。違うね」
「素直で良い子だなあ。自身を省みる事が出来るのは、良い事だ。世の中それが出来ない奴で溢れてる。アンタと並べる訳じゃないが、私の母親の話だ」
「……何」
「私の母親はとある宗教に入れ込んでね。大事故にあった後も、信心を理由に長期的な治療を拒んで、歩けなくなった。家族大崩壊の理由だって大体ソレさね。私は全部に見切りを付けて、下ろしてきた大枚顔面に叩きつけて、出てきてやった。良いか、金が無い事も不幸だが、信心で周囲が見えなくなった人間は、それだけで不幸を齎すぞ」
 どこか思いつめたような表情で語る彼女の言葉に、嘘は感じられない。へらへらとした彼女には、似あわない表情だ。
 彼女の言い分は解る。勿論、私のカナメに対する信心が私の家族を崩壊させるとも思えないが、彼女の経験上、それだけ心配しているのだろう。
 私はカナメが愛しいし、彼女の望みならば全て叶えたい。
 しかしそれは、そうだ、彼女が居てくれると信じているから、彼女が私を迎えに来てくれると信じているからこそだ。
 カナメを信心するあまり、彼女がただの人間で、そして少女であるという事がすっぽり抜けていたように思う。この心を捨て去るのは厳しいだろうが、確かに、考慮しなければ今後、手ひどい目に逢うかもしれない。
「――その」
「この世の中、絶対は無い。気持ちなんて直ぐ裏切られる。心なんていつ砕けるか解らない。それは、アンタが一番知ってる筈だ。そうだな……あとは、急に近づいて優しくしてくれる奴も警戒した方がいいな?」
「それ貴女じゃない」
「あはは。うん。まあ、私も信用しちゃ駄目だぞ。そんな奴部屋に入れるなんてもっての外だし、ましてベッドに並べるなんて、淑女のする事かね……あだっ!?」
 私は、無言で彼女をベッドから下ろす。彼女はふざけた調子でフローリングに転がって行った。
「はは。そもそも、アンタの何処を貶めて私に得があると思うかね。むしろ、恩を売って取り入った方が得多いからな」
「どういう事」
「そんなん、アンタは身一つしかないでしょ。御金は私の方が持ってるんだし」
「それ、私が好きってこと?」
「ま、隠してもしょうがないな。いや、毎回言ってるよな。そうだよ。それ以外に何かあると思うの?」
「理由が解らない」
「好意は論理からしか産まれないのか?」
 彼女は小首を傾げる。さも当然のように、そのような事を言うのだ。まして同性からである。
 私は、目が泳ぐ。
 どこに視線をあわせたら良いか解らず、手も足も落ち着かず、震えてしまう。
 何か、今まで覚えた事もない感情に揺るがされているような気がしてならない。
 ちょっと待ってほしい。
 何で今そんな事をいうのか。どうしてそうなるのか。
「うわ、動揺するタツコ可愛いなぁ」
「ば、う、ウソでしょ。止めてよ。マトモに見られなくなるでしょ」
「軽い気持ちで良いさ。実際それだって二の次なんだよ。邪魔だってなら、私は消える覚悟さ……あ、ベランダで一服しても良いかな。灰皿はある」
「……どうぞ」
 ハナエが煙草と携帯灰皿を持ってベランダに出て行く。私は彼女が一服する姿を、窓越しに眺めていた。
 産まれて初めて、面と向かって、人に好きだと言われた。この場合、カナメは含まれないだろう。あれは愛してやまないが、モノが別である。
 ハナエは人だ。神でも王でもない。
 チャットで知り合って、無理矢理逢いに来て、無理矢理私の世話を焼いて、私もまんざらでなく居る。彼女は無償で何かを求めていた訳ではなく、私を求めていたのだ。
 人に求められる事が、過去どれだけあっただろうか。比べるモノが無さ過ぎる。
 それに今、別段と、悪い気がしないのも事実である。
 ハナエは都合が良い。
 ハナエは優しいし、色々教えてくれる。
 時折鼻に付く言い方もするが、何もかもが好ましい人間など、居る訳がない。そういう鼻に付く点を加味したとしても、私は彼女が、嫌いではない。
 なんだか酷い罪悪感がある。
 これではまるで、金持ちを良いように使う悪女ではないか。
 複雑な感情が混じり合い、脳をチリチリと焦がす。胸元も何だか熱く、私は服で仰ぐ。
 窓越しに見える彼女は、二本目に火を点けた。もしかすれば、彼女なりに、今の告白は踏み込んだもので、動揺があり、それを誤魔化しているのではないか。
 全部憶測で、全部妄想だ。
 ただ、私は……鏡を見る。
「……なんで嬉しそうにしてるの、私。馬鹿」
 まさかここまで『出来あがった』人間であるとは、思いもしなかった。
 女に好きと言われて顔を真っ赤にして喜ぶ馬鹿だとは思わなかった。
 自分に幻滅する。
 酷い話だ。
 私にはカナメがいるのに、他の女にウツツを抜かして舞い上がるなんて、実に浮気者である。
 私は立ち上がり、ベランダに出る。ハナエは三本目に火を点けた所だ。
「煙たいよ」
「別に」
「ふっ。ん。何かあった?」
「自分の家のベランダに出たら駄目なの?」
「……あー……その。なんだ」
「良い。言わないで。私、貴女とは付き合わないから」
「そっか。実に、残念無念だ」
「厳密には、付き合えないの。私には十年後、救済が舞い降りるのだから」
「中東の某宗教じみた話だ。死後に処女が待ちうける奴」
「私が好き?」
「――うん」
「じゃあ好きなままで居てよ。私の救済、降りてこないかもしれないから」
「あっちゃー。保険か。その考えは無かったわ。まさかのストック扱いだわ。二号だわ」
「都合の良い人。優しい人。それに酷い人」
「好きなもの手に入れようと思ったら、あるもの使うだろ」
「部屋、入って」
 ハナエを部屋に入れる。私はベランダのカーテンを閉め切り、部屋の鍵をかける。
 電気を消して、ハナエの前に立つ。
「……タツコ?」
「私、弱いから。私が貴女と付き合えなくても、貴女がいないと、不便なの」
「う、うん」
 彼女に背を向ける。私は、震えた手つきで、自分の服に手をかけた。
 迷っても、考えても、言葉にしても、伝わるものではないと思ったからこその、行動である。
 頭がぐらぐらする。
 恐怖と、羞恥心で押しつぶれそうになるが、しかし、私にはコレしかないのが現実なのだ。
 この先、外からの協力なく、私のような精神薄弱の引きこもりが、外を大手を振って歩ける訳がない。
 彼女は私を好きだと言う。
 私だって嫌いではないが、私は彼女に心を許してはあげられない。
 彼女の一部でも望みを叶えて、私の社会復帰に協力してもらおうとするならば、支払うものがなければいけない。
 無茶だと解っている。
 こんなのおかしいだろう。
 でも仕方がない。
 私は弱いのだから。
「あ、ちょ、タツコ、む、無理すんなって」
「死ぬほど恥ずかしいし、怖い。こんな貧相な身体、見せつけられても、困るかもしれないけど、貴女の言う通り、私はこの身体しかないの。こんな身体でも、都合の良い貴女を引き止められるなら」
「いい、良いから……滅茶苦茶震えてるぞ。やめろ」
 振り返る。彼女の目に、私の身体はどのように映っているだろうか。
「やる事、極端だよな、案外」
「だって、他に差し出せるものがない……うっ……うう……」
「どこの借金取りだ私は……ああもう、良いから、服着ろ服」
「でも」
「いいってば! 都合良くいてやるから!!」
 ハナエが服を拾い、私に預ける。全裸のまま、こんなに人が近くにいるのは、初めてだ。
 ハナエは、ほんの少しだけ悲しそうな目をしてから、そのまま私を抱きしめる。私なんかとは違う、ずっと女性らしい身体だ。
 カナメに裸のまま抱きしめられた事を思い出す。
 あの抱擁は、生涯忘れ得ない、私のあらゆるものを許すものだった。ハナエのこれは、どうだろうか。
 ……上手く、考えられない。
「言ったろう。救われたのは、私なんだ。それを返しに来てるだけだよ。アンタが嫌だ、邪魔だと言わない限り、手伝うさ。だから私を、そんな、安い女だと、思わないでよ」
「……け、結構高かったんだけど……」
「そういう意味じゃないよ。アンタの身体はシミ一つなく綺麗なもんだ。アンタぐらいの痩せてる奴、どこにでも居る。だからそう卑下すんな」
「で、でも。しないのでしょう?」
「親いるだろうが……ましてそんなガチガチで何楽しめるんだよ……ああもう、じゃあ、一つだけ貰うから」
「な、なに?」
 ハナエの顔が迫る。私は目を瞬かせた。ほんの一瞬だけ、唇が重なる。
「これだけ貰う。どうせ初めてだろうし、やったね」
「……酷い。カナメ様のモノだったのに……」
「身体は良いのかよ……ああもう、なんだか、アンタ、愛しい程馬鹿だな……贅沢で、ワガママで、とんでもない女だよ」
「ごめん」
「いいさ、いいよ」
「……うん」
 カナメとは、やはり違う。母とも違う。もっともっと、異なる接触だった。
 私はハナエに諭され、服を着る。やはり緊張と恐怖からか、そのあとも暫く震えが止まらなかった。しかし、隣に腰かけたハナエが、私の手を強く握ってくれている。
 恐ろしかった他人の手が、今は心強く感じられる。私自身のクズっぷりすら許容しようという彼女の、その利害を超える感情を不可思議に思いつつも、頼れるものがまだ近くにいてくれるという、実に都合の良い条件が私の精神を安定させる。
 もし、これがネットで男女の体験談として乗っていたのならば、私はきっと『酷い女だ』と口にしただろう。他人様の条件に見合わない条件を提示して相手を引き止めるクズだ、一体どんな教育を受けたらそんな事が口に出来るんだろうか、お里が知れる、などと呆れたかもしれない。
 だが、今、それが自分なのである。
 なるほどだ。弱い人間ならではの、酷さなのだろう。
「落ち着いたか?」
「うん」
「無茶するね。ついこないだまで顔見せるのだって嫌がったクセに、まさか裸晒すとは」
「ごめん。貧相で」
「だからやめろって。綺麗だよ凄く。私は好き」
「えっち」
「もーどっちだよ……ひでェ女だよ……」
「捨てないで」
「あのさ、ワザと言ってるだろ」
「……ふふ」
「ミイラ取りがミイラになるとはよく言ったもんだな……アンタは自覚ないかもしれんが、ありゃずるいぞ」
「他の人に出来る自信は一切ない」
「ま、特別に見て貰ってるって事で、今は納得しておくか。機会は窺うにしても。恩人だから、アンタは」
「改めて、聞いてもいいかな。なんで、恩義なんて感じてるの」
「ちょっと長い話になるな。良いなら話すが」
「時間あるもの」
「そうだった……そうだな。時間、手に入れたんだ。余るぐらい」
 ハナエは物憂げに言う。
 握っていた私の手を離し、彼女は私の後ろに回る。話している間、顔を見られたくないのかもしれない。
「くっついても?」
「いいけど」
「今はアンタを縋らせたけど、これ話す場合、私が縋る事になるな」
 後ろから手を回された。彼女の額が私の背中につく。
 私がこれから聞こうとしている話がどのようなものなのか、察しが付いた。詮索するつもりはなかったが、それがどうしても彼女のウィークポイントを通過してしまうようだ。
 私は、回された手に手を添える。
「爺さんが居た間は、良かった。昔堅気でおっかなかったけど、家族を誰よりも大切にする人だった。入り婿の親父のケツを叩いて、弱気な母ちゃん励まして、気の強い婆さんと仲良くやっていたんだ」
 それは、聞いた事がある。チャットで話していた通りの事だろう。
「ある時、親父が事業で失敗してね。職を失った親父の為に、爺さんは昔のツテを頼って働き口を探してくれた。やっと雇ってくれる所が見つかって、親父も改めてやる気になった、丁度その時、母ちゃんが事故にあった」
「どのくらいの、怪我だったの」
「両足を骨折したんだ。だからまあ、大怪我といえばそうなんだが……さっき言った通り、母ちゃんは宗教ハマっててね。心の弱い人だったから、拠り所が必要だったんだろう。爺さんから何度咎められても脱会しなかった。それからが、地獄の始まりだよ」
 ハナエが震えているのが解る。彼女の体温が、少しずつ服越しに伝わって来た。
「医療に関する定義が酷く面倒な宗教でさ、大怪我だってなんか、ほら、あるだろ、変な力。自然治癒が一番だとか謳いやがってね。母ちゃんもそれ信じて、自宅療養を続けたんだ。私はそれを遠目に見ていたんだけど、今度は爺さんが倒れた。爺さんが倒れると今度は親父が腐りやがって、仕事が合わないだのなんだのと文句言い始めて、結局辞めやがって。もう解るだろう。マトモな人間は、婆ちゃんと私だけになった。婆ちゃんだって歳だ。家族の世話を、私が焼くようになった」
「悲惨」
「まさにさ。爺さんは倒れたまま逝き、親父は呑んだくれ、母ちゃんは今度傷口から黴菌が入って感染症起こして、両足切断。なんだそりゃと、なんなんだと。意味わかんないよと。学校もマトモに行けなくなって、退学して、家族の面倒み始めたが最後、もう抜けられない煉獄だよ。私には、公的支援とか、相談所とか、そういう頭もなかった。日々介護と掃除洗濯。料理は辛うじて婆ちゃんがやってたけど、婆ちゃんだって無理出来ない。毎日高いビルを見上げては、あそこから落ちたら楽になるんじゃないかっておもったさ」
「……ハナエ」
「……いつ寝れるかも解らなくて、仮眠をとるか、ネットを弄ってるか、介護するか、そんな生活続けてたんだ。引きこもりじゃなくて、引きこもらなきゃいけない状態だった。勿論クソ鬱憤溜まる訳で、そのはけ口が、まあ、ネトゲだったり、ソシャゲだったりした訳だな……そんな折だ。二年ぐらい前だな。チャットしてたら、アンタが入って来た」
 引きこもって半年辺り。私自身の境遇がどっちにもつかず、頭を悩めていた頃だろう。なんでそのチャットに入ったのか、その理由は良く分からないが……私の事だ、おそらく、誰でも良いから、会話がしたかったのだろう。
 チャットで出会った当初から、ハナエは傍若無人だった。
 他の人が居ない時、二人で会話したのを覚えている。個人の情報を交換したのも、その辺りだった筈だ。
「ネットに疎い感じだったし、メディアリテラシーも無さそうだし、話聞いてりゃお嬢様みたいだしさ。不遇煮詰めたような環境にいた私からすりゃ、恰好の攻撃対象だろ。んでも、何言っても軽くいなされるもんだから、改めて自分振り返って、馬鹿らしくなってな」
「なんか、当初はもっとキツかった記憶がある。ただ、顔も観えないヒトの言葉は、痛くも痒くもなくて」
「なんだ、ある種強靭だな、その精神。まあほら、アンタは恵まれてても、引きこもりだろ。なんか逆に同情しちゃってね。慰めとか、共感とか、そんなもん求めた訳じゃないが、アンタとチャットしてる間は、凄く気が紛れた。それから、ネトゲにも誘ったし、いつアンタがログインしても解るように追っかけたりしてたな」
「ネットストーカーっぷりはそこから」
「いやあうん、その、済まない。アンタと他愛ない話の一つでもしてないと、駄目になるような気がしたんだ。抜けられない介護と、自由の無い苦痛、一切見えない将来への展望。そういうの全部、忘れたかった。自分に人間らしい生き方が存在しないなんて現実、見たくなかった」
 ……。
 彼女からすると、私という存在はやはり、私におけるカナメとの関係性に似るのだろう。
 逃避先と言ってしまえば悲惨だが、少しでも生きようと思うならば、辛すぎる現実から目をそむける事も必要になる。誰も彼もが、押し迫る不運と対峙出来る程強くないのだ。
 私達はそういったものに真正面から対峙するよう仕向けたりはしないし、同情も、共感もしない。そんな立場にないからだ。ただ出来る事があるとするならば、それは『そこにいること』である。
 私はハナエの手を解き、彼女を正面に据える。彼女は酷く辛そうな顔をしていた。
「ごめん。良いよ別に、無理して話さなくて」
「アンタは無理したろ。私は私の立場を明確にしようと、こうしてるんだ。アンタは光なんだ。光の一つも届かないような場所にいた私が持てた唯一の希望だったんだ。アンタと話してたから、少し前向きになれた。一度、お金の話をしたろう」
「うん」
「何もかも、私の不運を覆そうと思ったら、やっぱりお金が必要になる。溜めてた小遣いを元手にして、私は打って出た。どうせそのまま居ても死ぬだけだからさ。それで、一世一代の大勝負だ。一応まだ未成年だったんで、親に無理矢理同意書書かせて。で、どこの株買うかって事になってね。それで、アンタの親父さんの会社にしたんだ」
「――え?」
「私には経済的な知識なんぞ無かったから、本当に運だな。買ってから暫くして、丁度親父さんの会社、先進技術の廉価実用化に成功したろう。市場需要も相まって爆上げだよ。上手いタイミングで売り抜けてね。なんか神がかってた気がする。笑っちゃったよ。数週間で何もかも覆すだけの資産が出来あがった時は、震えが止まらなかったね。私には、アンタが神様に見えたんだ。幸運以外の何ものでもない……また、そこからが大変だったけど」
「娘が大金を手にしたら……」
「ああ。親父がタカり、母親は教団に収めろとか言いやがる。通帳とカードと印鑑を身体に巻き付けて寝てたよ。それから一年間、法律に経済に勉強してさ、お金もあったし、社会福祉事務所やら、弁護士事務所やら相談持ちかけて、兎に角縁を切ろうと必死だった。最終的には、親父と母親に念書書かせて札束ぶつけて、婆ちゃんにはランクの高い介護施設に入って貰って、私は家を飛び出した。扶養義務はあるが、養うだけの金は叩きつけて来た。これで文句言うなら出る所出る。借金作った所で子供に支払う義務はない。相続が発生した場合は即破棄だ。もう、私はアイツ等に縛られて生きたりはしない。自由に生きる。人間らしい時間を手に入れたんだ」
 ハナエの表情に光が戻る。彼女の憂いは既に過去のものなのだ。
 直系血族である場合、その扶養義務は果てしなく重たいが、働かず食いつぶし、娘の扶養を放棄した両親等が彼女に強いた苦痛を考えれば、法的救済措置も観えて来るだろう。その辺りは、ハナエが切り抜けて来た所だ。
 嘘ではこのような話はしない。するメリットがない。彼女は地獄からの生還者だ。
 私も漸く合点が行く。私自身に自覚がないのも当然だ。私が齎したものとは言い難いが、少なくとも私の存在が、彼女の手助けとなったと言える。
「そこからは、もう好き勝手だ。私はアンタが愛しくて堪らなかった。引きこもりに喘ぐなら喘ぐで、傍で陰ながら支えるつもりだった。でも外に出るって言う。じゃあ勿論、私は助けなきゃいけない。勝手な話だけど、これを、今さっき、アンタも肯定してくれた。私はもう十分貰ってるんだ。だから、何でも言ってほしい。私は、アンタ降りかかる火の粉も、万難も、全て排する覚悟で居るから」
「ありがとうって、言った方が良い?」
「言われると嬉しい。でも此方こそだ」
 彼女の話が終わると、なんだかむずがゆい空気になる。私は恥ずかしくなり、顔をそむけた。
 そうだ。虚しい話なのである。例え産みの親だろうと育ての親だろうと、それが絶望を齎す存在ならば害悪でしかない。
 吐いて捨てる程度のプライドしかなかった父と、その心を全て他人に委ねてしまった母の間に産まれたハナエには、何もかもを無為にするだけのお金が必要だった。
 到底実現し得ないであろう脱出を彼女は試み、そして成功したのである。
 家族とは何なのか。信じる心とは何なのか。ハナエの存在が、改めて考えさせてくれる。
 生きる為の信心は全てを破壊した。愛すべき家族はとても愛せるモノではなくなった。その時、自分だったらどうするだろうか。
 同情も共感も出来ない。ただ現実として受け入れるばかりだ。物事は、テンプレートでは処理出来ない。だからこそ、ハナエは心に留めるだけ留めておいてほしいと言ったのだろう。
「……飯、食いに行くか。何食う?」
「カロリー高いの」
「肉だな。ホテルの食い放題行くか」
「えっ……人の前でご飯よそうとか、怖い」
「他人の前で全裸になれる奴が何言ってんだ。ほら、行くぞ」
「えー……ハナエだからこそなのに」
「ん、んん。なら次は震えないで脱げ。手出しようがないわ、あんな小動物みたいなの」
「酷い」
「本当の事だろ。ほら、リスみたいに口にためこむんだろ。行くぞ」
「うん。馬鹿」
「うっさいわ……ふふっ」
 ハナエは今、きっと幸せなのだろう。彼女の絶望に比べれば、私の悩みなど微々たるものだ。だというのに、ハナエは決して私を軽く見たりはしない。人の心の痛みを知る人間だからこそ、なのだろうか。
 カナメに、心の中で謝る。
 申し訳無い。
 でも私には、この人が必要だった。
 きっときっと、当たり前の人間として、貴女の前に顔を出せるようにするから。
 きっときっと、成長したと言ってもらえるようにするから。
 だから、ほんのしばらく、許してほしいのだ。
 ああ、だけれども。
 鏡に映った幸せそうな私の顔が憎らしい。
 


 つづく


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